無常から夢幻泡影・浮世へ2 | ejiratsu-blog

ejiratsu-blog

人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)
 
 
■近世の禁欲性:儒学
 
 戦国期には武家勢力(各地の武将)・大寺社勢力(南都北嶺)・庶民勢力(浄土真宗・法華宗等の信者)が並存し、同盟と戦争を繰り返しましたが、信長・秀吉の時代までには、武家勢力が統一するとともに、大寺社勢力や庶民勢力を平定、家康の時代からは、檀家・本末・寺請制度で庶民と仏教を統制しました。
 天下統一が達成され、江戸初期に戦乱が終息すると、これ以降の下克上を阻止するため、幕府は公家(皇族・貴族)を学問・文芸に専念させ(禁中並公家諸法度)、武家に学問・武芸を奨励し(武家諸法度)、将軍をはじめ各藩の大名やその家臣達は、幕府・領国経営のために儒学(朱子学)を勉強しました。
 
 朱子学は、中国・南宋の儒学者で士大夫(しだいふ、文人官僚)の朱熹(しゅき、朱子)が大成し、先人の儒学に道教(太極)や仏教(瞑想)を取り入れ、新儒教に再構築したもので、中国・元から明・清初期まで儒学の正統とされ、李氏朝鮮や江戸幕府でも官学として尊重されました。
 朱熹は、宇宙の根本原理は理(形のない法則性)、宇宙の構成要素は気(形のある運動性)で、両者は不即不離であり、それらの相互作用で万物が生成され(理気二元論)、万物の本性(本来の性質)は理(自然の摂理・人間の道理)だといっています(性即理)。
 そして、宇宙の根源は「易」由来の太極であり、ここから陰と陽が出現し、気の運動が大きいのが陽、運動が小さいのが陰で、陰陽二極の気が凝集して木・火・土・金・水の五行となり、それらの組み合わせで万物が生成されるので(陰陽五行説)、気を秩序化する理は太極です。
 人間にも万人に生来、天から授与された理(天理)がありますが、気(情・欲)で善にも悪にもなるので、心身の安静な状態を維持したり(居敬/きょけい・静座/せいざ)、知識や学問を修養し、理を現れ出すことで(格物致知/かくぶつちち)、道徳が体得できると主張しています。
 知識や学問を修養すれば、万物の法則である理が認識でき、この心の外の理で、気が取り払われ、心の内の理が現れ出すので、聖人・賢人に接近できるといわれています。
 
 鎌倉後期には中国・元の臨済禅僧の一山一寧(いっさんいちねい)が、国使として来日した際に、朱子学を注釈したのをきっかけに、日本にも朱子学が普及しました。
 これ以降、朱子学は、臨済禅の五山では教養のひとつとして習得されるようになり、南北朝期には倒幕運動(建武の新政)を主導した後醍醐天皇(96代)等が、朱子学を信奉したそうですが、応仁の乱では京都が荒廃したので、戦国期には禅僧・儒学者達が、各地の武将のもとへ庇護・分散しています。
 江戸前期には儒学が学問として仏教から独立するようになり、相国寺の禅僧・藤原惺窩(せいか、定家の末裔)が、禅よりも和歌や儒学(朱子学)に傾倒し、儒学者になって家康に帝王学として朱子学を講義、家康は惺窩に側近になるよう要請しましたが辞退し、弟子の林羅山(らざん)を推挙しました。
 羅山は、家康・秀忠・家光・家綱の4将軍の側近となり、政権維持のため、キリスト教弾圧とともに、天は上、地は下が絶対不変の天理であるように、身分秩序(君臣・尊卑・長幼等)も絶対不変とし(上下定分/ていぶんの理)、士農工商の身分制度を正当化、朱子学を発展させ、儒学を官学化しました。
 また、羅山は、家光の時代に上野・忍岡(しのぶがおか)に私塾を開設し、綱吉の時代に湯島へ移転、江戸後期には老中の松平定信が、朱子学を正統の学派にするとともに、湯島聖堂・学問所で朱子学以外の学派の講義・研究を禁止(寛政異学の禁)、そののち幕府直轄にしました(昌平坂学問所)。
 朱子学は民間でも研究されましたが、江戸後期から鎖国の日本に外国船が来航し、通商を要求する等、欧米の圧迫が頻繁になると、幕藩体制での対応では不充分で、国家の中央集権化と国土の防衛が必要だと主張する儒学者が現れ始めました。
 絶対不変の天理を突き詰めれば、儒学が自然の摂理・循環と一体化しようとする神道へと接近し、しだいに将軍よりも天皇が絶対不変の頂点だといわれるようになり、それが尊皇・倒幕運動へと展開し、明治維新で後醍醐天皇以来の天皇親政が実現しました。
 他方、民間には陽明学を勉強し、それを実践する儒学者もいて、江戸初期から細々と研究されていましたが、江戸後期から現況の体制を批判する儒学者が出現・行動するようになり、幕末には尊皇・攘夷運動と結び付きました。
 
 陽明学は、中国・明の儒学者で士大夫・武将の王守仁(おうしゅじん、王陽明)が大成し、朱子学は宇宙の構成原理を認識することはできても、社会生活での実践には無力なうえ、数々の図書の編纂で朱子学が停滞・硬直化したため、それを打破しようと、これまでとは異なる新たな儒学を提唱しました。
 かれは、孟子の性善説を前提に、人の心こそが理で(心即理)、人間は理と気が一体となって誕生するため(理気一元論)、心に内在している善悪を判別する能力を発揮すればよく(致良知)、認識と実践は不可分なので、日常生活ではその判断のもと、即座に行動できるはずだと主張しています(知行合一)。
 朱子学では、万物には先天的に理が内在しており、後天的に心(気)が付け加わったとされ、そのためにまず知識や学問を修養し、つぎにそれらを活用して実行することになります(知先行後)。
 でも、私情・私欲で認識と実践を分断したということは、気がまだ取り払われていないことになり、それでは理を現れ出すことはできません。
 よって、陽明学は、知識や学問を修養したからといって、道徳が体得できるわけでなく、人間に生来そなわっている個人の良心で、善行を選び取ることになります。
 知識や学問を修養し、聖人・賢人に接近する必要がないので、庶民にも実用できますが、これは産業の発達により、庶民生活が向上し、社会の主役が庶民に移行する過渡期を反映した思想ともいえます。
 ちなみに、朱子学を大成した朱熹は、同時代の陸九淵(りくきゅうえん)が提唱した心即理(心の中にこそ理は内在する)について、個人を社会から切り離した内向きの思想だと批判しています(知識や学問は、社会と密接に関連しているので、外向きの思想だと主張しています)。
 
 このように、日本の儒学は、中世までは禅僧等の教養のひとつとして取り扱われていましたが、近世からは儒学者達がしだいに純化していき、幕末には朱子学・陽明学ともに尊皇が導き出されました。
 
 
■近世の享楽性~芸術化と遊戯化の変遷
 
 戦国期に庶民は主に、武士集団を支援する人々と、仏教宗派で結束する人々がいましたが、いずれも自治的な組織が形成され、江戸期に戦乱が終息すると、武士は武力が不要になって役人化し、身分制度が固定化されましたが、武士が庶民を極度に抑圧することはなく、庶民の自治は温存されました。
 幕府は、各藩の大名が謀反しないよう、国家事業(天下普請)や参勤交代の負担、大名屋敷・庭園の造営等で浪費させ、そのうち幕府も財政悪化、武士は町人から物資等を購入するため、町人の財力が向上し、それが江戸期の庶民文化の発展につながりました。
 将軍をはじめ各藩の大名やその家臣達は、幕府・領国経営のために儒学を勉強しましたが、町人も商人・職人ともに徒弟制度で、武士の主従関係と同様、道徳が必要になり、儒学を勉強する町人も出現し、城下町では武士や町人の区別なく知識人が登場、幕府や諸藩の役人に登用されることもありました。
 その反動として、これ以降ほとんどの人々は劇的出世も期待できないので、この世は夢幻泡影・浮世だからこそ、人生を謳歌・遊戯化しようという風潮も生み出され、主に町人達は名声・利益・享楽等を追い求めることに共感しました。
 日本文化を振り返ってみると、中世・近世には禁欲的な芸術化の一辺倒だけでなく、その揺れ戻しとして享楽的な遊戯化が適度に創り出されているのが特徴ですが、これは不変=「死」、変化=「生」という日本特有の美意識にも合致します。
 ここでは、文化の各分野での、美しさが指標の芸術化と、楽しさが指標の遊戯化の、両面の変遷をみていきます。
 
  
●演芸
 
○散楽:宮廷文化(古代)
 奈良期に中国・唐から移入した、物真似・曲芸・奇術等、娯楽的な見世物芸の総称で、飛鳥期に導入した儀式的な雅楽・伎楽(ぎがく)とともに、朝廷は国家機関で保護しました。
 しかし、その低俗さ・猥雑さから、朝廷は保護を解消し、平安中期には宮廷で実演されなくなり、散楽師達は寺社・街頭等で庶民に披露するようになりました。
 
○猿楽:遊戯化→芸術化
 散楽の中で、滑稽な物真似芸を猿楽といわれるようになり、鎌倉期に猿楽師達は、寺社と結び付きを強化するとともに、座を組織して公演する集団も各地に出現し、当初は余興でしたが、法会・祭礼等で寺社の由来や神仏と人々との関係を解説する寸劇を実演する座もありました。
 当時の京都では、猿楽より田楽(平安中期に田植え前の豊作祈願の神事の田遊びが遊芸化)が流行し、有力武士(北条高時・足利尊氏等)も田楽を支援していましたが、室町前期に3代将軍・足利義満が観阿弥親子(大和猿楽)の猿楽を見物したのをきっかけに、有力武家・公家が猿楽を愛好・隆盛しました。
 観阿弥一座が人気になったのは、得意だった物真似芸に、田楽の優美な舞や、南北朝期に流行した曲舞(くせまい、鼓に合わせて謡い、扇を持って舞う)の歌や音曲を取り入れたからといわれています。
 
○猿楽(能):芸術化=「幽玄」
 室町中期に観阿弥が急死し、その長男の世阿弥が若輩ながら一座を後継すると、世阿弥は当時人気を二分していた道阿弥(近江猿楽)が得意だった優雅な天女の舞と、田楽の尺八の渋い音色の冷えたる曲を取り入れ、幽玄な能へと深化しました。
 ところが、寵愛された義満が死没すると、4代将軍・足利義持は田楽の増阿弥を愛好、5代将軍・足利義量(よしかず)は在任約2年で早死、6代将軍・足利義教(よしのり)は観阿弥の次男の子・音阿弥を重用したので、世阿弥は晩年まで冷遇され、その間に作能や能楽論の執筆・改訂に取り組みました。
 世阿弥は、現実世界の人間である脇役(ワキ)が、能面をつけた死者・霊魂等である主役(シテ)に、過去の悲劇を聞き出す形成の夢幻能を多数書き残しましたが、かれは観客(為政者)に現世と来世を行き来させ、悲惨な社会を照射することで、為政者の心情を揺り動かそうとしたのではないでしょうか。
 安土桃山期には信長・秀吉らが能の鑑賞を愛好し、かれらが猿楽師達を保護、江戸初期からは将軍や各藩の大名がそれを受け継ぎ、庶民の鑑賞機会はほとんどなくなりましたが、演目の一部を発声する謡(うたい)が、町人の稽古事・趣味となりました。
 
○狂言:遊戯化
 室町後期に能が、歌舞中心で貴族等の特権階級の悲劇を表現するようになると、狂言は、台詞(せりふ)中心で庶民の喜劇を表現するようになって分化し、能の合間に演技されましたが、当初は洒落た台詞や滑稽な所作の即興芸でした。
 安土桃山期に台本が作成されるようになりましたが(天正狂言本)、筋道の概略程度で、流動性・即興性が大事にされており、それ以降から演目が固定化、信長・秀吉・家康は能とともに狂言もヒイキにし、江戸期には大蔵流・鷺流(現在はほぼ絶滅)・和泉流の3流派が活動しました。
 
○人形浄瑠璃:やや芸術化
 語る太夫(だゆう)、三味線を弾く人、人形を操る人(当初は1人で江戸中期から3人、首+右手・左手・両足を担当)が一体となって物語を展開する演劇で、太夫は物語を語って神仏の功徳を説いたのが起源で、太夫の芸は戦国中期には確立されていました。
 太夫の芸は、御伽草子(おとぎぞうし)の一種で、浄瑠璃姫と牛若丸(源義経)の恋物語「浄瑠璃十二段草子」が評判となり、当初は扇子で拍子を取りながら語っていましたが、戦国後期には琉球から三線(さんしん)が渡来し、三味線が発達すると伴奏に取り入れられました(浄瑠璃)。
 江戸初期には人形芝居も取り入れて人形浄瑠璃となり、江戸前期には竹本義太夫が大坂・道頓堀に竹本座を開設し、江戸中期には近松門左衛門による名調子で美文体の脚本を上演することで、人形浄瑠璃は歌舞伎よりも流行、義太夫節も浸透、人形浄瑠璃の作品は歌舞伎の題材にもなりました。
 しかし、江戸後期には文化の中心が上方(京・大坂)から江戸へと移動するとともに、歌舞伎が優勢、人形浄瑠璃が劣勢になり、それは今日の状況までつながっています。
 
○歌舞伎:やや遊戯化
 安土桃山期に出雲大社の巫女だったとされる阿国(おくに)が、神社の寄付を募り集める(勧進/かんじん)興行のため、バサラ・カブキ者の派手な外見を取り入れ、踊りを演じたのが起源とされています(カブキ踊)。
 やがて、カブキ踊をもとに女性(遊女)による女歌舞伎が登場しましたが、幕府は風紀を乱すので禁じられました(歌い舞う芸妓から歌舞妓と表記され、明治期に「妓」から伝統演劇の伎楽の「伎」に落ち着きました)。
 すると、少年が演じる若衆歌舞伎が盛んになりましたが、今度は売春目的の集団が横行したので、これも幕府は禁止し、これ以降は成人男性のみによる野郎歌舞伎となりました。
 若衆歌舞伎までは舞踊中心の公演でしたが、幕府はこれが風紀を乱し、売春が横行したと判断したため、野郎歌舞伎からは演劇中心に転換させ、これを契機に史実を題材にした時代物や、当時の世相を題材にした世話物等の、おもしろい脚本が発達しました。
 歌舞伎の芝居小屋は、京都・大坂(上方)と江戸に常設されるようになり、江戸前期には上方が、江戸後期には江戸が最盛し、上方では繊細な表現や女形(和事)が、江戸では勇壮な表現(荒事)が得意な名優が活躍し、この差別化された芸風は今日まで受け継がれています。
 歌舞伎は、能の様々な制約を打ち壊しており、能は吹き放たれた野外の仮設舞台で、舞台のみに屋根があり、一日のみ興行する等、祭祀的でしたが、歌舞伎は専用の芝居小屋で、客席にも屋根をかけ、一定期間興行する等、世俗的になりました。
 そのうえ、引き幕・回り舞台で場面を区分・転換し、複雑な物語も軽快に展開できるとともに、セリや花道で俳優と観客が交錯することで、舞台と客席が一体化でき、このような演出が視覚美や娯楽性に特化したからこそ大衆化できました。
 
 
●詩歌
 
○和歌:宮廷文化(古代)
 5音と7音で構成された、短歌(5・7・5・7・7)・長歌(5・7・5・7…5・7・7)・旋頭歌(5・7・7・5・7・7)をいずれも和歌といい、情景・感情等を表現し、「万葉集」では3種とも収録されていましたが、それ以降の「古今和歌集」「新古今和歌集」では短歌が大半で、長歌・旋頭歌は極稀になりました。
 かつて言葉には霊力・呪力があるとされ(言霊/ことだま)、人々が寄り集まる祭祀や労働の際に、神々への祈念・感謝として、自然の優美な情景が詠み歌われ(神事)、それが宮廷で国土の讃歌として儀式化されました(主に長歌)。
 一方、男女・家族等への感情や、身近な環境での季節の変化も題材になり(主に短歌)、男女の感情は、5・7に定型されていない日本古来の歌謡から引き継がれています。
 季節の変化は、国家経営に律令制度を採用した飛鳥期から奈良期にかけてで、庶民が農業の節目に年中行事を慣習化したのと同様、特権階級も中国から導入した天文暦と、日本での実際の季節とのズレを秩序づけようと、地域の気候風土に影響されない、四季の気象や生物の変化を和歌に詠み込みました。
 平安期に和歌は、貴族の儀式の中で歌合(うたあわせ、参加者を二分し、与えられた題の歌を作って優劣を競い合う)がさかんになり、皇族・貴族個人の心情を表現する手段になりました。
 そこでは、自然の情景と人間の心情を呼応(一致・対比)させたり、恋愛の憂いや嘆きで遊宴を演出したり、漢詩を和歌に置き換えたものが称賛され、それが貴族共通の美意識になり、しだいに理知的・技巧的・遊戯的に表現され、伝統美として洗練化・定型化しました。
 そのうえ、かつては早春の梅や初夏の橘の咲いた花が愛好されていましたが、秋の落葉だけでなく、春でさえ桜の花が散る光景に悲哀を重ね合わせるようになりました。
 悲哀が重視されたのは、その反対である歓喜は感動が一様で感受性が浅い一方、悲哀は感動が多様で感受性が深いとされるからで(もののあわれ)、「万葉集」・「古今和歌集」・「新古今和歌集」ともに、生命力が上昇する歓喜の季節=春の和歌よりも、生命力が下降する悲哀の季節=秋の和歌のほうが多数収録されています。
 日本では、物事の普遍的な道理(理性)は、抽象的・空想的なうえ、不変・不動になるので「死」、個別的な心情(感性)は、具体的・現実的なうえ、変化・変動するので「生」とされ、和歌でも物事へ自然に入り込み、感じ取ることが主題となります。
 やがて、貴族が衰退、武士が台頭すると、貴族達は、和歌に専心しましたが(現実逃避)、本歌取り等で高尚な表現を追求し、しだいに工夫を過度に凝らして言葉遊びになり、作為的で心無い歌もみられ、行き詰まりました。
 藤原定家は、晩年の20年間、歌集を編纂したり、歌論を執筆し、歌論では自然な心有る歌へ引き戻そうとする一方(有心体/うしんたい)、これ以上発展性のない和歌は作らず、即興の連歌で遊んでいたようです。 
‐「万葉集」:奈良中期以降に編纂、編者不明(大伴家持が有力)、様々な身分の和歌が収録、素朴でおおらかな歌風(益荒男振/ますらおふり)
‐「古今和歌集」:平安前期に醍醐天皇(60代)の命令で編纂、編者は紀貫之ら4人、四季の歌と恋の歌が中心、優美で繊細な歌風(手弱女振/たおやめぶり)
‐「新古今和歌集」:鎌倉初期に後鳥羽上皇(82代)の命令で編纂、編者は藤原定家ら5人、四季の歌と恋の歌が中心、優雅で高貴な歌風
  
○連歌:遊戯化
 和歌を上の句(5・7・5)と下の句(7・7)に分け、それぞれ2人が遊戯的に詠んだのが起源で(短連歌)、平安末期からは数人で長句(5・7・5)と短句(7・7)を交互に受け継ぎながら詠み合い(展開と変化が大切です)、百句を一作品(百韻)にするようになりました(長連歌)。
 鎌倉後期からは連歌が天神信仰(菅原道真が祭神)の講(こう、特定の目的をもった団体)と結び付き(天神講連歌会)、大和(現・奈良県)を中心に畿内へと拡大しています。
 室町期からは百韻を10作品にして千句、百韻を100作品にして万句とし、拡大する一方、44句(世吉/よよし)・36句(歌仙)・18句(半歌仙)等、縮小・省略されるとともに、連歌を個人の作品として記録しようと、前句と付句の組み合わせのみや(付合/つけあい)、冒頭の発句のみが抽出されました。
 
○連歌:芸術化=「幽玄」「ワビ」
 室町前期には摂関家で歌人・二条良基(よしもと)と連歌師・救済(ぐさい)が、日本初の連歌集「莬玖波集」(つくばしゅう、古事記でのヤマトタケルらによる筑波山を唱和した問答歌に由来)を編纂したり、連歌の法則(連歌式目)を取り決める等、連歌に和歌から独立した地位を獲得させました。
 室町中・後期には天台宗の僧で連歌師・心敬(しんけい)が、仏道修行のように世俗の欲望から遠く離れた「冷え痩せた」心境で連歌を創作し、室町後期から戦国前期にかけては心敬の弟子・宗祇(そうぎ)がそれを継承、良基・心敬・宗祇の3人は幽玄を連歌の理想としました。
 応仁の乱後には町が荒廃し、京都の文化が各地へ分散するとともに、連歌も伝播し、戦国期には連歌が武将の教養になりました。
 
○俳諧連歌:遊戯化
 連歌の冒頭の発句を独立させたのが起源で、戦国期に連歌師・山崎宗鑑(そうかん)が自由さや滑稽さを加味して遊戯化し、荒木田守武(もりたけ)がそれを継承、当初は文芸的・保守的な連歌の余興でした。
 江戸前期には歌人で連歌師・松永貞徳(ていとく)が、和歌等で表現される風雅な言葉以外(俗語・漢語等の俳言/はいごん)を使用し、遊戯的な俳諧を創作(貞門/ていもん派、詞付/ことばづけ、古風)、俳諧の法則(俳諧式目)を取り決めたとされています。
 貞門派に反発した連歌師・西山宗因(そういん)や作家・井原西鶴は、奇抜で軽妙な俳諧を創作(談林/だんりん派、心付/こころづけ、新風)、いずれも畿内が中心でした。
 
○俳諧(俳句):芸術化=「サビ」
 俳諧師・松尾芭蕉は、まず貞門派に入門し、つぎに談林派へ移籍、さらに江戸・深川に移り住み、審美的な俳諧へと洗練化しました(匂付/においづけ、蕉風・正風)。
 
○川柳・狂歌:遊戯化
 川柳は、俳諧連歌から派生し、題材で用意した下の句(7・7)に、巧妙な上の句(5・7・5)を加える前句付けが起源で、その付句だけが独立、江戸中期に俳諧が一時衰退する一方、面白味のある川柳は流行、前句付けの採点者・柄井川柳は句集「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」を編纂しました。
 狂歌は、社会風刺・皮肉等を盛り込んだ短歌で、有名な和歌をユーモア化して楽しむことが多く、江戸中期に狂歌が流行、そのきっかけは幕府官僚で狂歌師・大田南畝(なんぼ)の狂詩集「寝惚(ねぼけ)先生文集」です。
 
○俳諧(俳句):芸術化
 江戸中期には俳諧師で画家・与謝蕪村が、絵画的・離俗的な作風(天明調)で、俳諧が再興し、江戸後期には俳諧師・小林一茶が、人情的・百姓的な作風(化政調)で、世間の関心を引き、庶民にも俳諧が広まりましたが、芸術味はなくなりました。
 
 
●物語
 
○貴族文学:宮廷文化(古代)
 平安前期に中国・唐が衰退したので、遣唐使を廃止すると、皇族・貴族は中国の文化をただ真似するだけでなく(漢文・漢詩等)、消化・吸収して日本独自の文化を生み出すようになり、万葉仮名から平仮名・片仮名を発明・普及し、教養のある女性が物語・随筆・日記等を書き記すようになりました。
 この時期に女性作家が多数輩出したのは、世界でも稀有な事例ですが、鎌倉中・後期の後深草院二条・作の自伝「とはずがたり」や、南北朝期の日野名子(なかこ)・作の日記「竹むきが記」が、女性作家の最後で、これは南北朝の動乱の大転換期以降、男尊女卑の社会秩序に変化したからのようです。
‐「伊勢物語」:平安初期の作品か、作者不明、主に男(在原業平)の元服から死去までの和歌付の物語
‐「源氏物語」:平安中期の作品、作者は紫式部、光源氏とその子・薫の生涯(恋愛が中心)の長編物語
 
○軍記物語
 鎌倉期から室町期にかけて誕生した、合戦を題材にした物語の総称で、史実に虚構が加味されていますが、共通するのは理想的な武士が主役として登場していることで、そこでは徳のある主君や(徳治)、主君に献身的な家臣が、英雄的に取り扱われ、無常の仏教的な認識と忠義の儒教的な行動が特徴です。
‐「平家物語」:鎌倉前期の作品、作者不明、平氏の栄華と没落の長編物語、琵琶法師の弾き語りで普及
‐「太平記」:室町前期の作品か、作者不明、南北朝の動乱(建武の新政前後)の長編物語
 
○説話集
 平安後期から鎌倉中期にかけて知識人が民話を記録することがさかんになり、インドでの釈迦による仏教誕生や中国・日本への伝来・活動の歴史、貴族・武士・庶民の日常話・滑稽話・伝承話等が、軽妙な文体で描き出されています。
 「今昔物語集」では、人々が生活するうえでの教訓も描き込まれていましたが、「宇治拾遺(しゅうい)物語」では、話自体の面白さが特徴になり、この時点で教訓話と滑稽話の両面がすでに登場しています。
‐「今昔物語集」:平安末期の作品か、作者不明、漢字片仮名交じり文、約1000話余
‐「宇治拾遺物語」:鎌倉前期の作品、作者不明、全197話で今昔物語集と多数重複
 
○御伽草子
 主に室町期を中心に流行した、挿絵入の短編物語の総称で、鎌倉末期に貴族が衰微すると、簡潔な説話が人々に受け入れられ、主人公は公家・武家・仏僧・庶民・擬人化した動植物等で、約400話余あるとされ、江戸中期にそのうち23編の説話をまとめて発行し、御伽草子といわれるようになりました。
 
○仮名草子
 江戸初期に誕生した、平仮名のみや漢字平仮名交じりで書かれた物語・実用書等の総称で、庶民に文学を普及させようと、御伽草子が世俗化され、そこには儒学・仏教由来の教訓話と、世相を反映した滑稽話の両面があり、このうち滑稽話が浮世草子へと発展しました。
 浮世の中で自分の感情を書き綴った斎藤親盛の随筆「可笑記(かしょうき)」が、浅井了意の「浮世物語」(=続可笑記、江戸前期の作品、仏僧・浮世房が諸国を旅行した際の滑稽話)や、井原西鶴の浮世草子(武家物に「新可笑記」がありますが、本文は題名と無関係です)誕生のきっかけとなっています。
 
○浮世草子:遊戯化
 江戸前・中期に大坂・京都を中心に流行した、城下町で生活する人々を題材にした現実的・娯楽的な物語の総称で、大坂の井原西鶴がその最初とされ、好色(愛欲)・金銭・人情等で人生の哀歓が描き出され、井原西鶴は次のような多彩な作品を生み出しています。
‐「好色一代男」:世之介7~60歳の54年間(源氏物語54帖を意識)の愛欲遍歴の長編物語(好色物)
‐「好色五人女」:商家の女性5人の現実にあった悲劇の恋愛事件5話(好色物)
‐「好色一代女」:大名の側室から遊女の最高位→最低位への転落人生を老女が振り返る物語(好色物)
‐「日本永代蔵」:利銭をかせいで出世・富豪になった町人の短編物語30話(町人物)
‐「世間胸算用」:一年の収支決算の大晦日を切り抜けようとする町人の短編物語20話(町人物)
‐「武道伝来記」:諸国での敵討(あだうち)を実行しようとする武士の短編物語32話(武家物)
‐「武家義理物語」:自分を犠牲にしても義理を守り通そうとする武士の短編物語26話(武家物)
 
○人形浄瑠璃・歌舞伎の脚本:やや芸術化
 江戸前期に京都の近松門左衛門は、人形浄瑠璃の初代・竹本義太夫や、歌舞伎の初代・坂田藤十郎との共同作業の中から名作を創り上げました。
 近松は、人々が興味のある実際の事件(世話物)や史実(時代物)を題材とし、大幅に脚色した美文体の台本を書き上げましたが、自然や季節の情景はあくまでも名調子のための手段で、西鶴と同様、登場人物の心情や人間模様を丹念に描き出すことが主題でした。
‐「曽根崎心中」:番頭と丁稚の中間職・徳兵衛と遊女・お初が一緒になれず心中する物語(世話物)
‐「心中天網島」:紙屋の治兵衛と遊女・小春の現実にあった不倫・心中事件を脚色した物語(世話物)
‐「国性爺合戦」:中国人が父、日本人が母の鄭成功が、台湾で明王朝の復興に尽力する物語(時代物)
 
○戯作(げさく):遊戯化
 江戸後期に江戸を中心に流行した、洒落本・人情本・滑稽本・読本(よみほん)等の通俗小説で、そこでは庶民の生き生きとした風俗・生活や、史実の跡形がなくなるほどに添加した空想が描き出され、貸本屋等の普及で、庶民にも読書が定着しました。
 この時期には禁欲的な幕府が、享楽的な庶民の風紀を取り締まっており、寛政の改革では、洒落本で山東京伝が処罰され(手鎖50日)、天保の改革では、人情本で為永春水が処罰されています(絶版)。
‐「仕懸(しかけ)文庫」:作者は山東京伝、江戸・深川の遊里で遊女が男客に惚れて貢ぐ物語(洒落本)
‐「春色梅児誉美(ごよみ)」:作者は為永春水、色男と婚約者・深川の遊女2人の恋愛物語(人情本)
‐「東海道中膝栗毛」:作者は十返舎一九、弥次郎兵衛と喜多八の江戸から伊勢参詣周辺までの道中物語
‐「浮世風呂」:作者は式亭三馬、庶民の社交場だった銭湯の男湯と女湯での軽妙な会話による物語
‐「浮世床」:作者は式亭三馬、庶民の社交場だった床屋での陽気な世間話による物語(以上、滑稽本)
‐「雨月物語」:江戸中期の作品、作者は上田秋成、史実と夢幻が合成した怪奇な挿絵入の短編物語9話
‐「南総里見八犬伝」:作者は滝沢馬琴、伏姫と勇士8人が里見家再興に尽力する長編物語(以上、読本)
 
(つづく)