さぁ! 今回は「山王」の謎が解けますよ!
■日枝神社・・・埼玉県本庄市児玉町吉田林(きたばやし)925
吉田林は北林のことでしょうね。以下の地図をご覧くだされば分かると思います。
日枝神社のすぐ南側は児玉町で、ここは洪水の心配もなく北側を丘陵により守られていてとてもいい立地です。
北側に山(林)があるから北林→吉田林?
上図のように小山川、女堀川に挟まれていながら洪水の危険の少ない立地になっています。
よく見るとここ日枝神社のすぐ北側にまで入江のような湿地帯が伸びています。
船着場として最適な位置を古代から使っているうちに自然と神社を建てることになった、のではないでしょうか?
このようにちょっとした高台に立地しています。
この麓に船着場があったのでしょう。
かつては黄田(きた)と表記※2
児玉郡誌によれば、当初は御年社という
児玉党宮田氏が勧請したとも
永禄年間(1500年代)に比叡山から山王権現を遷座し日吉大権現と称した、と。
江戸期の風土記稿によれば、東照宮、諏訪を祀り、末社は八幡、三島
祭神は羽山戸
拝殿
日枝
神額
本殿
龍の彫刻、近畿政権の象徴
本殿の裏手に石祠が並んでいます。
これらのうち1つだけ稲荷と刻まれているのが分かっただけです。
浅間、小御嶽、大天狗、小天狗
こちらは本殿に向かって左手の八幡
そのさらに左手の八坂
「埼玉の神社」より…以下赤字
和名抄に記載されている黄田(きた)郷と思われる。
児玉郡誌には、当初は御年社と称していたが、永禄年間(1500年代)に近江から山王権現を移し日枝神社とした。
現在の日枝は後から入ってきたもので、それ以前は御年社
羽山戸神を祀り、氏子からは山王様と呼ばれ、明細帖には大山咋(日枝)は載っていない。
羽山戸は大年神の御子で山の神。
本殿に向かって右手奥に稲荷
本殿に向かって左手には大天狗、小御嶽、小天狗、富士浅間、手前に八幡
面白いですね。ちゃんと伝承を残していただけると本当にいろんなことが分かります。
氏子さんたちに大感謝!!です。
まず御年社と言われているのは御年神を祀っているから、というのは間違いないと思いました。
御年神=ハイキノカミです。
疋野(ひきの)神社(熊本県玉名市立願寺457)の祭神がハイキノカミで、ここを起点として埼玉に比企(ひき)郡が出来上がったという訳です。
その比企郡から少々離れたここ児玉町にハイキノカミを信奉するグループが植民していたと分かります。
さらに羽山戸という名前で主祭神が呼ばれています。この羽山戸はもちろん御年神のことです。
羽山戸(=御年神)は大年神の御子とあります。これは百嶋神代系譜にぴったり一致します!
つまり羽山戸(=御年神、ハイキノカミ)の父は草部吉見(=大年神)です。
つまりは阿蘇系です。
羽山戸という名前は百嶋系譜には出てきませんが、「羽」は草部吉見の神紋・二枚鷹羽の「羽」と共通でしょう。
山王様と呼ばれていたのは羽山戸の「山」のことでしょう。
これまで山王という祭神に何度も出会っていましたが、大山咋のことかな??程度しか考えていませんでしたがやっと確定できました。
山王様=羽山戸=御年神=ハイキノカミ、でした。※1
エレガントな解です!!
これがあるから神社探索はやめられません!
しかしよく伝承が残っていたな。
久留米地名研究会・古川清久氏によれば、(以下青字)
地下資源を採掘し中央構造線を東へ辿って秩父にまで達していた金山彦が、やがて失墜し地下資源利権をハイキノカミに奪われる格好になります。
そのハイキノカミを祀る日枝神社がここ本庄市児玉町の、山地部から絶妙に距離をとった場所に立地しています。
これまで埼玉北西部を巡ってきて「坂上田村麻呂が大蛇を退治した」伝説を多く見聞しました。
この「大蛇」は金山彦・ヤタガラスの関係者と考えています。
金山彦と対立する格好のハイキノカミが、ここ本庄市児玉町のやや北のはずれに位置し、秩父へと続く山地部から距離をとっているように見えてしまいます。
ここ日枝神社が設立された時代には、まだ金山彦の力が強くてハイキノカミが完全に本庄市児玉町全域を制圧したとは言い難い情勢だった、のかもしれません。
金山彦の勢力を駆逐するには8世紀の坂上田村麻呂まで待たねばならなかった、のかもしれませんね。
※1山王=羽山戸=御年神=ハイキノカミと判明し、さらに二枚鷹羽紋。
そして以前レポートした東京都・阿蘇神社の二枚鷹羽紋と羽村。
といった具合に阿蘇氏が武蔵野に入植していた明確な証拠が複数見つかりました。
羽山戸、ハイキノカミ、二枚鷹羽、羽村と「は」が符合しています。
この「は」は関東にハイキノカミが入るずっと以前、熊本県玉名市・疋野(ひきの)神社に上陸し痕跡を残した草部吉見の息子・ハイキノカミ(=御年神)を表します。
東南アジアから日本列島へ入り込んだ草部吉見が菊池川河口から九州に上陸し、最初に設けた拠点が玉名であり草部吉見自身は菊池川を遡上し九州内陸へと侵入しますが息子・ハイキノカミは玉名に残った…とも想像できます。
しかし玉名にとどまっていたわけではなく、関東にまでその一党が進出していたことがはっきりわかります。
※2この周辺には気多、北向など「きた」と関連した神社が多いです。
北方との流通、北方からの移民など北方とのつながりを感じます。