前回の#503高崎神社から烏川を遡り、榛名山の斜面を登って辿り着きました。
■車持神社・・・群馬県高崎市十文字町289
群馬
群馬の平野部、利根川の西側が高崎のエリア
その高崎周辺の主要ポイントを示しておきます。
さて今回の車持神社は榛名山のすそ野を登っていきます。
以下にも火山性土壌が幾条にも土石流を興して崩壊したことを想像させる地形です。
よくこんな場所に人が住めるなと思って来てみたら…
ごく普通な家並みの場所でした。
拝殿
屋根に神紋があるようなのですがすり減ってしまったようで全く見えない状態でした。
神額はありません。
屋根は赤い、んですかね。
神紋は確認できません。
本殿
千木は女神、鰹木は男神
瀛(いん)氏特有の中華装飾は見当たりません。
神紋は逆回転の三つ巴
拝殿屋根を後方から
境内の祠
手前に並んでいるものは何でしょうか?
不明です。
向かい合った小鳥はホンダワケ、ではありますが…
「新全国神社検索」によればここ車持神社の祭神は
《主》車持公
《配》火産霊命、波迩夜麻毘売命
まずベース祭神と思われる、火産霊=金山彦、波迩夜麻毘売=埴安姫、夫婦です。
これは榛名神社の祭神で、火山・榛名山にふさわしい地下資源関係の祭神です。
主祭神の車持公、初見ではありますが
車持公はWikipediaによれば…以下赤字
新撰姓氏録によると車持公は上毛野朝臣と同祖先で、豊城入彦命の8世の子孫、射狭君の末裔
日本書紀には、九州王朝の時代の九州においても車持氏はある種有力な氏族「のような」書き方をされています。
それが豊城入彦の子孫として、群馬の支配者の一人として存在した、と。
車持公は豊城入彦の8世子孫、豊城入彦は崇神の子なので、車持公は崇神の9世子孫となります。
百嶋神社考古学の崇神の生年をベースにすると
●崇神・・・西暦195年生まれ、九州在住か
●豊城入彦・・・崇神の子、九州から群馬へ入植、200年代前半生まれ
●車持公・・・豊城入彦の8代後、群馬生まれ、西暦400年代後半の人物?
ここ車持神社から榛名山の斜面を下って南東10kmに、九州王朝移民団の本拠と考える保渡田古墳群があります。
保渡田古墳群は400年代後半成立(ということは400年代初めには入植)、500年代の榛名山噴火まで続いたと考えられます。
新撰姓氏録を信じるならば、
車持公は保渡田古墳群の入植時期と同じタイミングで群馬にいたことになります。
さて話は変わって群馬の語源について
通説では、この車持氏がこの周辺で有力なので、
「車」→「群馬」と変化した、としています。
以前のレポート#471金井沢碑で、
碑文に刻まれた文字について書きました。
結論だけ書きますと…
利根川の東側にある大胡、金井沢碑のそばの佐野
この2つの勢力が結託し、利根川水運と東山道陸路が交差する山王廃寺を支配したと想像しました。
7世紀の話です。
(詳しくは#416山上碑・山上古墳、#417多胡碑をご覧ください)
上記画像の文字(群の旧字?)は明らかに君+羊で、「羊君」
君は半島王族を指す言葉ですので「羊王」という意味になります。
羊とは何ぞや?
多胡碑の「胡」は利根川東側・大胡の「胡」だと思います。
「胡」姓の分布を日本姓氏語源辞典サイトで辿ると広島に行きつくように見えました。
百嶋神社考古学では、白村江敗戦(663)後に唐軍の進駐を避けてヤタガラス勢力が日本正統姫氏を本州へ退避させたのが広島・呉(くれ)としています。
呉(くれ)は日本正統姫氏の祖・呉(ご)の太白から来ていると思います。
つまり、呉の太白の子孫(九州王朝姫氏)が、広島・呉から群馬・大胡に逃げて移住し、
佐野と提携し山王廃寺の利権を手に入れた…
つまりつまり、大胡の「胡」は「呉」の書き換え表現、と想像しました。
白村江敗戦(663)~山上碑(681)
この20年弱で、群馬に逃げてきた九州王朝一派は群馬の中心・山王廃寺を支配したことになります。
完全に群馬の支配者になってます。
さて上記のような考えに至った根拠の一つが漢字の中国語発音です。
広島の呉(くれ、ご)が群馬県前橋市大胡(ご)につながったと考察しました。
日本語の呉は中国語では吳、これを中国語でどう発音するのかというと「Wú」です。
「よぅ」と聞き取ることも可能だと思います。
これを別漢字表記にすると「羊」
話を戻しまして、
この1文字目の漢字は「羊+君」、羊王という意味
群馬の中心・山王廃寺の支配者が、白村江敗戦から逃げてきた日本正統姫氏・呉の一族
その彼らが7世紀に「ぐんま」を支配した際に、自分たちのルーツの文字「呉」=「胡」=「羊」を誇らしげに使って、
「群」馬と表記した…と考えました。
さてこの「羊」氏たちは7世紀終に群馬に入ってきて支配してしまいました。
一気に支配しているので軍事作戦があったのでしょう。
大陸出身者なので馬を用いたのでしょう。
古代の馬は現代の戦車のようなものですので。
つまり「群馬」とは日本正統姫氏・呉の一族が軍事作戦で上野(かみつけの)の中心を奪い取った国、という国名だと想像します。
(長い回り道になりました…)
今回の車持神社の車持公(車持氏の始祖)は西暦400年代として
保渡田古墳(被葬者は九州王朝移民の王族)の入植が400年代初
榛名山の噴火が500年代にあって、保渡田古墳を築いた勢力は噴火を避けて南下した。
「羊」氏が利根川東の大胡に入って、一気に群馬中心を制圧したのが600年代終
久留馬村誌によれば、以下赤字
(車持神社の)鳥居額面には「満行宮」と
#465威徳神社で書きましたが、
満行姓を全国で検索した結果、九州・宮崎の都城が最も満行姓が多く、
都城にある神社の祭神を調べてみて「どうも満行姓は大山祇と関連がありそうだ」としました。
つまりここ車持神社の基層には、他の群馬の神社と同じく大山祇があった、と。
ここは和名抄に群馬の郷、豊城入彦の子孫・射狭(いさ)君のさらに子孫・車持氏が長く住んだ、と(車の里)
崇神→豊城入彦→射狭(いさ)君→車持氏
豊城入彦は群馬に赴任し、現地で婚姻を繰り返した果てに車持氏が誕生した、と。
雄略天皇に輿(こし、乗り物)を献上したから車持の名をもらって、
そののちに群馬に入植した土地を車の里とした、と
一帯は久留馬の牧場
? 車持氏は群馬の豊城入彦子孫じゃなかったの?
ちょっと変ですね。
雄略天皇のエピソードは権威付けっぽいので却下します(笑
車持神社の隣に群馬山寿命院がある。
この「群馬」は「くるま」と読む。
榛名山の鉄燈炉の銘には「車馬郡」とあるので元々当地は「くるま」と言ったのだろう。
この「車馬郡」の「車馬」が最も古い表現のようですね。
「車馬」とは馬車のことではないでしょうか?
車持氏が馬車を使ったから「車馬郡」といったのではないでしょうか?
それは貴族が乗る牛車ではなく、チャリオット(馬戦車)の事だと思います。
こんなものは大陸の広い平原で運用できる戦車で、当然大陸からの移民が持ってきたと想像します。
故・米田良三氏は
「継体は高句麗移民で5世紀末に若狭湾に上陸し、転戦して奈良を支配した」
としています。
大陸は常に戦乱状態ですので、負けた勢力はどんどん日本列島へ逃げ込んだでしょう。
継体に限らず、そういった敗残勢力が新潟に上陸し群馬に入った…
そんな連中が「車」(チャリオット)を持ち込んだ…
と想像しました。
そういった連中はまさしく「車を持った連中」→「車持」と呼ばれたのではないでしょうか?





















