■三宝荒神社・・・群馬県碓氷郡松井田町入山上ノ山771

 

群馬と長野を隔てる山地

以下地図をズームアップしていきます。

 

安中は西隣の長野と境を接しています。

 

この周辺は群馬から佐久へ抜ける街道がある場所です。

 

Wikipediaによれば…以下赤字

「古墳時代の古東山道は入山峠を通ったと推定される。

7世紀後葉~8世紀前葉に全国的な幹線道路(駅路)が整備されると、碓氷坂にも東山道駅路が建設された。

入山遺跡はこの時期までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路は近世の中仙道にほぼ近いルートだったとする説が有力。

 

平安時代前期から中期頃の坂東では、武装した富豪百姓層(僦馬の党)が国家支配に抵抗し、国家への進納物を横領したり略奪する動きが活発化した。

これら富豪百姓層を「群盗」と見なした国家は、その取締りのため899年碓氷坂と足柄坂へ関所を設置した。これが碓氷関の初見である。

 

古代駅路は全国的に11世紀初頭頃までに廃絶し、碓氷坂における東山道駅路も同時期に荒廃したとされている。その後、碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルートのほか、入山峠ルート・鰐坂峠ルートなどを通過したと考えられているが、どのルートが主たるものであったかは確定に至っていない。

 

中世には碓氷峠付近の主要道は現在の大字峠(旧碓氷峠)を通るようになった。

この峠には熊野皇大神社(碓氷峠熊野神社)があり同神社1292年の鐘銘から、この頃までには大字峠の道が開設されていたといわれる。

入山峠を通る古道よりも坂本付近などが峻険で通りにくかったが、そのため防備に優れていたとされる。」

 

まとめますと

・古墳期のルートは入山峠ルート(古東山道)

・7~8世紀には旧中山道ルート(古代幹線)

・中世には旧中山道が主要ルート

 

近畿奈良政権が僻地を軍事支配するために作った古代幹線道路、それ以前の時代は伝統的な入山峠ルート(古東山道)が使われていたようです。

今回の三宝荒神社はその入山峠ルートに面しています。

 

 

周辺状況

谷筋に沿って民家が並んでいます。

 

 

 

大荒神

 

 

 

 

 

 

「新全国神社検索」によればここ三宝荒神社の祭神は

《主》火産霊神、奥津日子神、奥津比売神

 

久留米地名研究会・古川氏の調査によって三宝荒神=金山彦と判明しています。

火産霊=金山彦ですので、主祭神に問題はありません。

奥津日子、奥津比売については#249吹塚八幡神社でもレポートしましたが2通りの見方があります。

・奥津日子=ナガスネヒコ、奥津比売=鴨玉依姫

・奥津日子=大山咋、奥津比売=鴨玉依姫

(詳しくは上記レポートをご覧ください)

 

大山咋は阿蘇系の血が入っていますので、ここ三宝荒神社の火産霊とともに祀られるのはふさわしくないように思います。

ナガスネヒコの祖母・イザナミは金山彦(火産霊)の妹ですので、ナガスネヒコは瀛(いん)氏の棟梁たる金山彦正統直系といっていいでしょう。

 

ここ三宝荒神社は近畿奈良政権が関東を支配する以前の時代の古東山道に面しています。

なので正統瀛氏の祭神として

火産霊神=金山彦

奥津日子=ナガスネヒコ

と考えました。

 

近隣に墓地があり、墓碑銘と家紋を拝見しました。

源氏車紋、佐藤

ここの集落は佐藤姓のみだそうです。

この佐藤姓は中世に入ってきたもの、ということでした。

 

この佐藤姓は佐藤継信、忠信(奥州藤原氏の家臣)の兄弟がルーツです。

この兄弟は源義経と行動を共にし亡くなりました。

その一族がここ三宝荒神社のあるコロニーに入り込んで占拠した、ということでした。

ですのでこの近隣の墓碑に刻まれているのが源氏車であることは佐藤兄弟の出自と合致しています。

 

それは三宝荒神社の金山彦とは関係ないでしょう。

地元の方にお伺いしましたら、佐藤氏が当地から先住民を追い出した…とのことでしたので、その先住民が金山彦を祀っていたのかもしれません。