日本の特徴3~2項並立・往来の形式(続) | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

○仏教〈自他〉:自利(自分の証悟)-利他(他人の救済)

 小乗仏教は、自分だけが悟りを得るので(自利)、発心(生)→修行(住)→証悟(異)→解脱(滅)と、始めと終りのある、直線的な行程ですが、大乗仏教は、他人も救済するため(利他)、…→発心(生)→修行(住)→証悟(異)→解脱(滅)→…と、反復する、円環的な行程です。

 これは、もし、自分が本覚(直観で自然に悟りを得ること、心真如)であれば、他人を救済する際に、本覚以外を認識・体験していないと、教え導けないため、不覚から始覚への過程(心生滅)の正体を、わかっていることが必要になるので、自利と利他を並立させています。

⇒ [*生住異滅と自然の摂理]

⇒ [*「大乗起信論」読解19~まとめ]

 

○平安仏教〈顕密〉:顕教-密教

 顕教は、釈迦が説いた教えで、密教は、大日如来が説いた秘密の教えとされ、最澄の天台密教(台密)は、もちろんですが、空海の真言密教(東密)でさえ、現世利益のため、皇室・貴族に、加持祈祷の儀式を執り行うので、密教とともに、顕教も必要でした。

 たとえば、空海の根本道場は、都市部の京都・東寺(教王護国寺)も、山間部の高野山・金剛峯寺も、対外的な金堂では、顕教の流行仏の薬師如来を、対内的な講堂や根本大塔・西塔では、密教の最高仏の大日如来を、本尊として並び立てることで、顕と密を使い分けました。

 

○鎌倉仏教〈自他〉:自力の禅-他力の浄土教

 最澄は、中国・唐から、『法華経』を中心とする天台教学+戒律・禅・念仏・密教を持ち帰り、比叡山・延暦寺は、4宗兼学の修行道場となったので、密教から円仁・円珍、念仏(浄土教)から法然・親鸞、禅から栄西・道元、『法華経』から日蓮、等が輩出されました。

 このうち、浄土教は、阿弥陀如来を信じ、念仏を唱えれば、西方の極楽浄土に往生(成仏)できるとされ、末法(1052年)思想の影響で、平安末期から流行し、貴族・庶民を中心に普及した一方、禅は、座禅・禅問答(公案)等の修行で、煩悩を除去し、悟りが得られるとされ、武士を中心に普及しました。

 奈良仏教6宗・平安仏教2宗は、出家の仏僧と在家の俗人を区別(差別)し、俗人の信仰に仏僧の教え導きが不可欠ですが、鎌倉新仏教のうち、座禅と念仏は、仏僧の介入なしで、仏と俗人が直接つながれる、容易な機会なので、知識人向けの自力の禅と、庶民向けの他力の浄土教が、並立しました。

 

○浄土教の教相判釈〈難易〉:難行の聖道門-易行の浄土門

 聖道(しょうどう)門とは、自力の修行で、煩悩を除去し、悟りを得ようとする一派で、奈良仏教6宗・平安仏教2宗や禅が対象ですが、そもそも、悟りを得る目的のための手段として、修行すればするほど、悟りを得たいという煩悩(自力本願、人側の思想)は、除去できないことになります。

 だから、その異議申し立てで、浄土門は、修行不要、念仏さえすれば(専修念仏)、阿弥陀如来の圧倒的な力により(他力本願、仏側の思想)、極楽浄土に往生・成仏できる(悟りが得られる)とする一派として、法然・親鸞が登場しました。

 でも、悟りを得る目的のために、手段として念仏すれば、修行と同様になってしまうので、不意に(内面の思想から外面の形式へと、意図的に表出するのではなく、思想や作為なく、自然な形式で)、発語・発心すべきで、こうして、難行の聖道門と、易行の浄土門を、並立させました。

 

○浄土教の往還2回向〈往還〉:往相回向-還相回向

 大乗仏教では、一切皆空(すべての存在には、実体がない)なので、個々のものが、それぞれ自立しているのではなく(無自性)、様々なものに依存しながら、相互関係で成り立っていることが、前提になります(因縁生起、縁起)。

 それは、人も同様で、自分が善行(功徳/くどく)・念仏すれば、自力で極楽浄土に往生できるのではなく、自分は、他人が与えた影響により、他力で極楽浄土に往生するしかできませんが、自分の言動が他人に影響を与えるので、自分の趣向が他人へ転回することを、回向(えこう)といいます。

 浄土教は、当初、現世で善行・念仏すれば、来世に極楽浄土へ往生できるとし、来世利益を希求しました。

 それを、厭離穢土(おんりえど)・欣求(ごんぐ)浄土といい、穢土は、煩悩のある、現世の不浄な人の世界で、浄土は、煩悩のない、来世の清浄な仏の世界と、設定されています。

 そこから、浄土教は、自分が、他人から教え導かれ、他人を教え導き、自他とも極楽浄土に往生しようとする、往相(おうそう)回向と、来世の極楽浄土に往生した人が、現世に帰り戻って、人々を教え導いて往生させる、還相(げんそう)回向を、並立させ、現世利益も希求しました(往還2回向)。

 

○親鸞の念仏〈是彼〉:正定聚(往生確定の境地)からの現世-来世の行き来

 仏教は、修行等で、煩悩という内面の思想を除去すれば、悟りが得られるとされているので、親鸞は、ひたすら念仏という外面の形式のみ(不意)で、極楽浄土に往生できる(悟りが得られる)とし、そこは、往生(成仏)が確約された境地(正定聚/しょうじょうじゅ)だと設定しています。

 そのように、現世と来世の中間地帯を設定したのは、おそらく、死後の来世に往ったつもりで、客観的に認識し、生前の現世に還ったつもりで、主体的に言動すべきと、提案しているようにみえ、来世利益か現世利益かではなく、現世と来世を行き来させようとしています。

⇒ [*親鸞の思想]

⇒ [*日本的永遠性4]

 

○道元の座禅〈迷悟〉:迷い-悟りの行き来

 親鸞のように、道元は、ひたすら座禅(只管打坐/しかんたざ)という外面の形式のみ(無想)で、悟りが得られる(心身脱落)としましたが、そこから、座禅が仏の姿なので、悟りそのものとし、それは、主客未分化といえます。

 そこから、修行と悟り(証悟)は、一体なのが(修証一等・修証一如)、真理としましたが、真理は、迷ったの(煩悩)で修行を始めて、悟ったので終りという、迷いから悟りへの直線的な一方向ではないので、実際には、迷いと悟りを行き来することになり、円環的な双方向になります。

⇒ [*]

⇒ [*日本的永遠性4]

 

○禅寺〈栄枯〉〈浄穢〉:穢土の池泉庭園-浄土の枯山水の回遊

 日本の伝統的な庭園には、池泉(ちせん)式庭園・枯山水(かれさんすい)庭園・茶室の露地等がありますが、たとえば、京都・西芳寺(さいほうじ、苔/こけ)寺や銀閣寺のように、しばしば禅寺では、このうち、現世の穢土とみる池泉式庭園と、来世の浄土とみる枯山水庭園を、並存させました。

 そうして、穢土と浄土の両方を回遊させることで、仏教での生まれ変わり(仮死・再生)や、神道での穢(けが)れの清(きよ)め・禊祓(みそぎはらえ)を、体験させようとしました。

 

○伝統建築〈内外〉〈和漢〉:外来の唐風-内発の和風

 伝統建築では、仏のための寺院建築(堂塔)は、外来で、組物(くみもの、斗栱/ときょう、外壁と屋根の軒裏の間の木組群)あり、人のための住宅建築(皇室の宮殿・貴族の寝殿造・武士の書院造等)は、内発で、組物なしが、通例です。

 神社建築は、神の殿舎(神殿)を、人のための住宅建築の延長とみれば、組物なしで、茅葺か桧皮(ひわだ)葺屋根・高床・白木となりがちで(伊勢神宮・出雲大社)、神仏習合で、仏のための寺院建築と同等とみれば、組物ありで、瓦葺屋根・土間床・白壁+朱塗となりがちです(春日大社・賀茂神社)。

 以上より、伝統建築は、外来の唐風(組物あり)の寺院建築と、内発の和風(組物なし)の住宅建築が、並立し、その中間に、神社建築が位置するといえます(神は、仏と人の中間)。

 なお、平安期までの和様と、鎌倉期からの天竺様(大仏様)・唐様(禅宗様)の、3様式は、いずれも当時の中国の仏教建築様式を移入しているので、日本・インド・中国の名称は、便宜上にすぎません。

 

○文字〈内外〉〈和漢〉〈真仮〉:外来の真名(漢字)-内発の仮名(カタカナ・ひらがな)

 日本語の文字には、中国由来・朝鮮経由の漢字、万葉仮名(1字1音)の草書体をくずしてつくられた、ひらがな、万葉仮名の一部を省略してつくられたカタカナがあり、仮名は、平安前期に、できました。

 漢字(真名)は、漢文の公文書等のために、幕末まで使用され、ひらがなは、漢字仮名交じりの和歌・物語等のために、カタカナは、漢文に振り仮名・送り仮名を書き込むために、発達しました。

 現在も、漢字仮名交じり文(和漢混交文)で、漢字・カタカナ・ひらがなの、3者を並び立てて使い分けています。

 

○詩歌〈内外〉〈和漢〉:外来の漢詩-内発の和歌

 漢詩は、中国由来で、文字(公文書・漢籍)を独占した、特権階級のみで定着した一方(外から・上から)、和歌は、あらゆる階級に存在していた、日本古来の歌謡が、5音と7音に定形化され、普及したとみられます(内から、全から)。

 こうして、対外的な表現の漢詩と(漢文も)、対内的な表現の和歌を、並び立てて使い分けていたので、国家芸術は、まず、漢詩が圧倒し、つぎに、和歌が逆転しています。

 その証拠に、平安初期には、勅撰漢詩集3作だったのに、平安前期~室町期には、勅撰和歌集21作になり、南北朝期には、准勅撰和歌集1作、南北朝期~室町期には、准勅撰連歌集2作だったので、漢詩は、しだいに社交芸術・個人芸術になりました。

 

○詩歌集〈内外〉〈和漢〉:外来の漢詩集『懐風藻』-内発の和歌集『万葉集』

 日本現存最古の漢詩集の『懐風藻(かいふうそう)』は、751年に成立し、編者不明、作者は、皇室・貴族・仏僧等で、116首(序文には120首)・1巻、ほとんどが5言詩です(7言詩は、7首のみでしたが、平安初期の勅撰漢詩集3作になると、7言詩が主流になりました)。

 日本現存最古の和歌集の『万葉集』は、759~780年に成立、編纂に大伴家持(やかもち)が関与したとみられ、作者は、天皇から庶民までで、約4500首・20巻、約4200首が短歌で、長歌が約260首、旋頭歌(せどうか)が約60首です。

 すなわち、奈良中・後期に、特権階級の漢詩集と、あらゆる階級の和歌集を、並立させたことになります。

 

○和歌集〈内外〉〈真仮〉:対外的な真名序-対内的な仮名序

 真名序とは、漢文で書かれた序文、仮名序とは、漢字仮名交じり文で書かれた序文で、勅撰(ちょくせん、天皇等の命令で編纂)和歌集21作(21代集)のうち、真名序と仮名序の両方ありが5作(古今・新古今・続古今・風雅・新続古今)、仮名序のみが4作、両方ともなしが12作です。

 『古今和歌集』では、紀淑望(きのよしもち)の真名序が、先に書かれ、紀貫之(つらゆき)の仮名序が、後に書かれたとするのが有力なので、勅撰集を外来の漢詩から内発の和歌へ転換しても、まず、対外性(外形)を温存し、つぎに、対内性(内実)を並立させたようにみえます。

 「古今」という名称の流れを汲む、勅撰和歌集4作は、すべてに真名序があるので、前例を踏襲しており、新しいものを導入する際に、古いものをいきなりすべて排除しないのが、日本の特徴のひとつといえます。

⇒ [*「古今和歌集」序文読解1~3]

 

○後鳥羽上皇(82代)の歌道〈有無〉:有心体の柿本衆-無心体の栗本衆

 有心(うしん)・無心(むしん)は、平安期の和歌では、優れたものを有心、劣ったものを無心とし、価値の上下でしたが、鎌倉期の後鳥羽院の時代の和歌・連歌では、それだけでなく、有心・無心を価値の対立としても、取り扱われるようになりました。

 後鳥羽院は、通常の和歌・句を作る者を、西の有心衆(柿本衆、歌聖・柿本人麻呂にちなんだのではないでしょうか)、狂歌・狂句を作る者を、無心衆(栗本衆)とし、東西並立・対抗させ、競い合わせるようになりました。

⇒ [*後鳥羽上皇の柿本衆(有心)/栗本衆(無心)]

 

○絵画〈栄枯〉:豪華美の大和絵-簡素美の水墨画

 平安前期に、中国・唐が衰退したので、日本が遣唐使を廃止すると、中国の先進文化を、ただ真似するだけでなく、それを消化・吸収し、日本の独自文化を創出するようになりましたが(国風文化)、絵画も、中国が題材の唐絵(からえ)から脱却し、日本が題材の大和絵(やまとえ)が登場しました。

 そののち、鎌倉前期に、水墨画が、禅とともに、本格化しましたが、それ以前には、仏教の普及で、墨絵の仏画が摂取されていたので、本流は、国外(仏教発祥のインド+先進の中国)が題材で、国内(実際の風景)の題材は、傍流といえます。

 やがて、有力者の御殿等の障壁画では、公的な表の書院での、極彩色の大和絵の豪華美と、私的な奥の書院での、黒白濃淡の水墨画の簡素美を、並立させ、その間を行き来しました。

⇒ [*無常から夢幻泡影・浮世へ3]

 

○古典の詩歌・演劇:芸術的な風雅-遊戯的な滑稽(こっけい)

 日本史上、古典の詩歌・演劇は、芸術的な風雅と、遊戯的な滑稽が、並び立つように、登場・普及しており、それは、以下に示す通りで、この揺れ動きに呼応し、皇室・貴族・仏僧→武士→庶民と、文化の当事者が徐々に拡大しました。

・詩歌:漢詩 ⇔ 芸術的な和歌(有心衆、のちの二条派) → 遊戯的な狂歌(無心衆) → 芸術的な連歌(二条良基・心敬・宗祇) → 遊戯的な連歌(山崎宗鑑・荒木田守武) → 芸術的な俳諧(貞門派) → 遊戯的な俳諧(談林派) → 芸術的な俳句(松尾芭蕉) → 遊戯的な川柳(柄井川柳)

・演劇:芸術的な雅楽 ⇔ 遊戯的な伎楽・散楽 → 猿楽(観阿弥)・田楽(増阿弥) → 芸術的な能(世阿弥) → 遊戯的な狂言 → やや芸術的な人形浄瑠璃 → やや遊戯的な歌舞伎(女→若衆→野郎)

⇒ [*無常から夢幻泡影・浮世へ2]

 

○鴨長明の方丈:仏道修行-芸道修業の行き来

 長明は、出世できなくなった失意から出家し、草庵での隠遁(いんとん)で、仏道修行(読経・念仏)と、和歌創作・楽器(琵琶・琴)演奏の芸道を、並立させ、その間を行き来しました。

⇒ [*日本的永遠性3]

⇒ [*方丈記・1~13]

 

○千利休の茶道〈栄枯〉:豪華美(唐物の大名物)-簡素美(和物の名物)、黄金の茶室-待庵

 利休は、壮年には、唐物の大名物の茶道具に執着・所持し、豪華美を重視した一方、晩年には、大名物に固執せず、茶室・茶道具の調和を工夫し、簡素美を重視するようになり、名物を発見、簡素な草庵風の待庵(たいあん)を築造しましたが、その数年後に、豪華な組立式の黄金の茶室を制作しました。

 これらにより、利休が到達した境地は、豪華美を経過した簡素美なので、そののちも、豪華美と簡素美を並立し、その間を行き来したのだと、推察できます。

⇒ [*千利休の待庵(妙喜庵茶室)/黄金の茶室]

⇒ [*日本的永遠性4]

 

○松尾芭蕉の句道:個人での俳句(発句)-集団での連歌(連句)

 芭蕉は、晩年に、個人では、俳句(発句)を自作し、俳諧紀行文を執筆するとともに、集団では、連歌会(連句共作)を開催し、弟子達と俳諧選集(「俳諧七部集」)を編纂しており、発句と連句を並立し、その間を行き来しました。

⇒ [*日本的永遠性4]

 

(つづく)