後鳥羽上皇の柿本衆(有心)/栗本衆(無心) | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 前回は、千利休が、豪華な美(黄金の茶室)と、簡素な美(妙喜庵茶室・待庵)を、並立したのに、近現代には、簡素な美しか、注目してこなかったことを、みていきました。

 そして、今回は、後鳥羽上皇が、風雅な美(有心の柿本衆の和歌)と滑稽な美(無心の栗本衆の狂歌)を並立したのに、近現代には、風雅な美しか、注目してこなかったことを、みていきます。

 

 その前提として、漢詩・和歌・連歌・俳諧(俳句)といった、日本の詩歌の系譜を取り上げますが、日本列島では、先史・古代に、中国大陸・朝鮮半島外来の弥生(水田稲作)・漢風と、内発の縄文(狩猟・採集・漁労)・和風の、両文化を並立させたのが、最大の特徴で、これは、それ以降にも影響しました。

 その特徴は、芸術的に洗練化した、古いもの・国家的なものに、遊戯的な新しいもの・個人的なものが、副次的に派生・並立させるのを反復したことです。

 たとえば、天皇の命令による勅撰(ちょくせん)集は、漢詩集3作→和歌集21作→准の連歌集2作と編纂されたので、漢詩→和歌→連歌と国家公認されたといえます。

 日本の詩歌は、最初に、漢詩と和歌が並立しましたが、漢字(真名)・漢文は、国家の公式である一方、仮名(万葉仮名)・和文は、近代化まで、ほぼ副次的といってよく、第1に、漢詩は、空海のような、格調ある古典・外形重視と、菅原道真のような、感情を表出する個人・内心重視が、並立しました。

 第2に、副次的だった和歌が、芸術的(風雅)になると、遊戯的(滑稽)な狂歌が、派生・並立し、第3に、副次的だった連歌が、芸術的(風雅)になると、遊戯的(滑稽)な狂句が、派生・並立しました。

 第4に、副次的だった俳諧が、芸術的(風雅)になると、遊戯的(滑稽)なものが、派生・並立し、連歌・俳諧(俳句)から副次的に、遊戯的な川柳が派生しました。

 それらは、次のように、まとめることができます。

 

※日本の詩歌

・和魂漢才:漢詩(『懐風藻』) ⇔ 和歌(『万葉集』)

1) 漢詩:古典・外形重視(格調派的)=空海 ⇔ 個人・内心重視(性霊派的)=菅原道真

 → 副次的に和歌

2)和歌:風雅(芸術的)=柿本衆(のちに二条派) ⇔ 滑稽(遊戯的)=栗本衆(狂歌)

 → 副次的に連歌(遊戯的)

3)連歌:風雅(芸術的)=二条良基・心敬・宗祇 ⇔ 滑稽(遊戯的)=山崎宗鑑・荒木田守武

 → 副次的に俳諧(遊戯的)

4)俳諧:風雅(芸術的)=貞門派(松永貞徳) ⇔ 滑稽(遊戯的)=談林派(西山宗因・井原西鶴)

 → 副次的に川柳(遊戯的)

 

 2項を並立させ、その間の往来を永遠に反復したのは、自然の摂理が1日を朝→昼→夕→夜、1年を春→夏→秋→冬と循環するのと、類似した運動なので、自然の摂理と同化しようとすることにより、永久不滅を希求したからではないでしょうか。

 その系譜の中で、後鳥羽上皇をみると、彼は、和歌・連歌で、風雅な美と滑稽な美を、本格的に並立・往来させた人物と、位置づけることができます。

 

 

●後鳥羽上皇(1180~1239年)

 

 後鳥羽院といえば、承久の乱(1221年)で、北条義時(2代執権)らの鎌倉幕府に大敗し、隠岐の島へ配流されたのが、有名ですが、それ以前・譲位(1198年)以後には、和歌に熱心で、歌会・歌合をさかんにしており、『新古今和歌集』の編纂(1205年、8代集の最後)も主導しました。

 平安期の和歌では、優れたものを有心(うしん)、劣ったものを無心(むしん)とし、価値(評価)の上下でしたが、鎌倉期の後鳥羽院の時代の和歌・連歌では、それだけでなく、有心・無心を価値の対立としても、取り扱われるようになりました。

 後鳥羽院は、通常の和歌・句を作る者を、西の有心衆(柿本衆、歌聖・柿本人麻呂にちなんだのではないでしょうか)、狂歌・狂句を作る者を、東の無心衆(栗本衆)とし、東西対抗させ、競い合わせるようになりましたが、その詳細は、以下に示す通りです。

 

 まず、二条良基(和歌の師が頓阿/とんあ)の南北朝期成立の連歌論書『筑波問答』や、頓阿(二条派再興の祖)の南北朝期成立の歌論書『井蛙抄(せいあしよう)』(『水蛙眼目(すいあがんもく)』)では、次のように、通常の和歌を柿本・有心、狂歌を栗本・無心と、区分しています。

 

※二条良基『筑波問答』(1357~1372年頃成立)

・後鳥羽院建保(けんぽう、1213~1219年)の比(ころ、頃)より、白黒又色々の賦物(ふしもの、句中に読み込む歌材)の独(ひとり、一人でする)連歌を、(藤原)定家(『新古今集』の撰者の一人)・家隆(『新古今集』の撰者の一人)卿などに召(め)され侍(はべ)りしより(呼び出されて付き従ってから)、百韻(100句のまとまり)なども侍るにや。又、様々の懸物(かけもの、賭物)などい(出)だされて、をびただ(夥)しき御会ども侍りき。よ(良)き連歌をば柿本の衆となづ(名付)けられ、わろき(悪)をば栗本の衆とて、別座につ(着)きてぞし侍りし。有心無心とて、うるは(麗)しき連歌と狂句とを、ま(混)ぜま(混)ぜにせられし事も常に侍り。

 

※頓阿『井蛙抄』(『水蛙眼目』、1360~1364年頃成立):巻6・雑談

・六条(有房/ありふさ)内府(内大臣)被語云(語られていう)、後鳥羽院御時、柿本、栗本とてをかる(といっておもしろがる)。柿本はよ(世)のつね(常)の歌、是(これ)を有心と名付(づく)。栗本は狂歌、これ(是)を無心といふ。有心には、後京極殿(九条良経/よしつね)、慈鎮和尚(慈円/じえん)以下、其(その)時秀逸の歌人也。無心には、(葉室/はむろ)光親(みつちか)卿、(葉室)宗行(むねゆき)卿、泰覚(たいがく)法眼(ほうげん、僧位)等也。水無瀬(みなせ、離宮)和歌所に、庭をへだ(隔)てて無心座あり。庭に大なる松あり。風吹(ふき)て殊(こと)に(特に)面白き日、有心の方より、慈鎮和尚(慈円)、

 心あ(有)ると 心な(無)きとが 中に又 いかにき(聴)けとや 庭の松風

と云(いう)歌よ(詠)み、無心の方へ送らる。(葉室)宗行卿、

 心(無)なしと 人はのたま(宣)へど みみ(耳)しあ(有)れば き(聴)きさぶら(候)ふぞ 軒の松風

と返歌を詠じけり。耳しあ(有)ればが、なまさか(生賢)しき(こざかしい)ぞと(後鳥羽)上皇勅定(ちょくじょう、判定)ありてわら(笑)はせ給(たま)ひけり。

 

 なお、有心の、九条良経は、『新古今集』の仮名序を執筆、慈円は、歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』を執筆し、後鳥羽院の倒幕挙兵に反対した一方、無心の、葉室光親・葉室宗行は、倒幕挙兵に加担したため(院司の光親は、何度も反対したが、北条義時追討の院宣を執筆)、承久の乱後に処刑されています。

 

 つぎに、藤原定家(さだいえ)の鎌倉前期成立の日記『明月(めいげつ)記』(1180~1235年)では、次のように、後鳥羽院が、通常の和歌の柿本・有心と、狂歌の栗本・無心の、並立させた経緯をみることができます。

 

※藤原定家『明月記』:1200(正治2)年9月20日

・亥時許、頭弁・隆雅・忠行朝臣等、相共講和歌。今夜殊無人。北面物等僅両三。不似例。公卿送歌只一人也〈経家〉。披講了連歌〈賦五色〉。百句了分散退出。狂事数寄也。鶏鳴以後帰廬。

[亥(い)の時(22時頃)許(ばか)りに、頭弁(とうのべん、弁官兼蔵人頭/くろうどのとう、日野資実/すけざね)・(藤原)隆雅(たかまさ)・(藤原)忠行(ただゆき)朝臣等と、相共に和歌を構ず。今夜、殊(こと)に(特に)人なし。北面の物(者、武士)等、僅(わず)かに両三(2・3人)、例には似ず(いつもと違う)。公卿(くぎょう)をして(によって)歌を送る、只(ただ)一人なり〈(藤原)経家(つねいえ)〉。披講(ひこう、和歌の読み上げ)了(おわ、終)りて連歌〈五色を賦(ふ)す(句中に青・赤・黄・白・黒の歌材を詠み込む)〉。百句了りて分散・退出す。狂事・数寄(すき)なり。鶏鳴(けいめい、日の出)以後、廬(いおり、家)に帰る。]

 

 ここでは、和歌の後での連歌100句に、狂事数寄の句があったことが、読み取れます。

 

※藤原定家『明月記』:1206(建永元)年8月10日

・午時参南殿。未時許御城南寺〈自外参会〉。小弓、又御覧御大刀、以清範仰事云。昨日連歌、殆あやふめられぬへかりき、然而遂打返て、木戸口よりかけいでて、生取等小々取了、殊以恐悦。

此事根源、日来、左中弁・宣綱等、人々多同心、和歌所輩ヲ、狂連歌に可籠伏由結構。下官・雅経等、以尋常歌詞相挑之。此事及三度許。事達叡聞、召抜彼方之張本等、長房卿・宣綱・清範〈本儀ハ此方也。依仰被渡彼方〉・重輔、以之称無心衆、態出狂句。中納言〈公〉・雅経・具親、候御方。以之称有心。秉燭以後還御、直退出。

[午(うま)の時(12時頃)南殿に参る。未(ひつじ)の時(14時頃)許(ばか)りに、城南寺(京都・伏見)に御す(院がお出ましになる)〈外より参会す〉。小弓、又、御大刀(おんたち)を御覧し、もって(それで)(藤原)清範(きよのり、院司)、仰せ事をいう。昨日の連歌、殆(ほとほと、つくづく)あや(危)ぶめられぬべかりき(苦しめられないはずだった)。然而(しかし)遂(つい)に打ち返りて(引っくり返って)、木戸口よりか(駆)けい(出)でて、生取(いけどり)等、小々取り了(おわ、終)りて、殊(こと)に(特に)もって恐悦す(謹んで喜ぶ)。

この事、根源(はじまり)にして、日来(ひごろ、日頃)、左中弁(葉室光親/みつちか)・(藤原)宣綱(のぶつな)等、人々、多く心を同じくし、和歌所の輩(ともがら)をして(によって)、狂連歌に籠(こ)め伏すべき由(よし)結構す(包み隠すべきだということを作り出す)。下官・(飛鳥井)雅経(まさつね、『新古今集』の撰者の一人)等、尋常(じんじょう、普通)の歌詞をもって(によって)これに相挑(いど)む(挑発し合う)。この事三度許(ばか)りに及ぶ。事、叡聞(えいぶん、院がお聞きになる)に達し、彼方(おち、以前)の張本(ちょうほん、原因)等を召(め)し抜く。(藤原)長房(ながふさ、院の近臣)卿・(藤原)宣綱・(藤原)清範〈本儀はこの方なり。仰/おおせに依/より彼方に渡さる〉・(藤原)重輔(しげすけ、廷臣)、これをもって無心の衆と称し、態々(わざわざ)狂句を出(い)だす。(権)中納言(藤原定家)〈公〉・(飛鳥井)雅経・(源)具親(ともちか)、御方(院)に候(こう)す(付き従う)。これをもって有心と称す。秉燭(へいしょく、日の入)以後、還御(かんぎょ、院が帰る)すれば、直ちに退出す。]

 

 この段階では、連歌での狂句が、普通の句と対抗するほどになったので、後鳥羽院は、無心衆と、有心衆に、それぞれ命名しています。

 

※藤原定家『明月記』:1212(建暦2)年12月10日

・戌終、於殿上、有若宮御元服定云々。其事了又出御馬場殿。各応召参入。無心宗之輩、在東、有心宗、在西〈云々、是御所也〉。先立隔屏風、各宗連歌折紙一枚訖、撤屏風寄合、賦鳥魚云々。其物不覚悟、太不堪。

東 光親卿 顕俊卿 宗行朝臣 定高朝臣 重輔〈未至被召加〉、仲家 家綱 清憲〈執筆〉

西 御所 定通卿 予 家隆朝臣 雅経朝臣 頼資〈執筆〉

家長 撤屏風後、清憲書之。

子二刻入御、折紙六枚、御句如流。天気太快然、即退出。

[戌(いぬ、20時頃)の終わり、殿上(てんじょう、宮中)に於(お)いて、若宮の御元服の定め有(あ)りて云々(うんぬん)。その事、了(おわ、終)りて又、(院が)馬場殿に出御(しゅつぎょ)す。各(おのおの)召し(呼び出し)応じて参り入る。無心宗の輩(ともがら)、東に在り。有心宗、西に在り〈云々、これ御所なり〉。先(ま)ず屏風を立て隔て、各宗の連歌、折紙一枚、訖(おわ、終)れば、屏風を撤(撤去)して寄せ合い、鳥・魚を賦(ふ)して云々。その(賦)物(ふしもの、句中に読み込む題材)、覚悟せずして、太(はなは)だ堪(た)えず。

東:(葉室/はむろ)光親(みつちか)卿、(藤原)顕俊(あきとし、光親の弟)卿、(葉室)宗行(むねゆき)朝臣、(二条)定高(さだかた、院の倒幕挙兵に反対)朝臣、(藤原)重輔(しげすけ、廷臣)〈未(いま)だ召し加えられ至らず〉、(藤原)仲家(六条有家、『新古今集』の撰者の一人)、(藤原)家綱(いえつな)、(藤原)清憲(きよのり)〈執筆〉

西:御所(後鳥羽院)、(土御門)定通(さだみち)卿、予(藤原定家、『新古今集』の撰者の一人)、(藤原)家隆(いえたか、『新古今集』の撰者の一人)朝臣、(飛鳥井)雅経(まさつね、『新古今集』の撰者の一人)朝臣、(広橋)頼資(よりすけ)〈執筆〉

(源)家長(いえなが、『新古今集』の事務方) 屏風を撤(てつ)した後、(藤原)清憲これを書す。

子(ね)二(ふた)つ刻(23時半~24時頃)、(院が)入御し、折紙六枚、(院の)御句(ぎょく)、流れるがごとし。天気(院の気分)、太(はなは)だ快然(快楽)にして、即、退出す。]

 

 この段階になると、東の無心衆と、西の有心衆の、連歌対決に発展しており、後鳥羽院は、西に参加し、東は、実務官僚が中心といえます。

 

 さらに、後鳥羽院の鎌倉前期成立の日記『後鳥羽院宸記(しんき)』では、次のように、柿本と栗本が、並立されています。

 

※後鳥羽院『後鳥羽院宸記』:1215(建保3年)5月15日

(後崇高院の日記『看聞(かんもん)日記』1423/応永31年2月29日に収録)

・…。有柿下栗下連歌興、以銭為懸物。…

[…。柿下・栗下に、連歌の興(遊興)有(あ)りて、銭をもって(によって)懸物(かけもの、賭物)と為(な)す。…]

 

 ちなみに、有心の柿本衆を西、無心の栗本衆を東にしたのは、和歌を敷島(しきしま)の道、連歌を筑波の道といい、敷島が大和国磯城(しき)郡で西、筑波が常陸国筑波郡で東だからではないでしょうか(後鳥羽院は、もちろん朝廷のある西に参加)。

 

 余談ですが、日本のマスメディアも、前近代の瓦版(かわらばん)は、洒落・風刺(滑稽)が織り交ぜられ、遊戯的(野次馬的)でしたが、近代に、新聞へ変化すると、ニュース中心で、真面目(風雅)になりました。

 戦前のラジオ中心から、戦後に、テレビが登場すると、当初は、遊戯的でしたが、やがて、真面目になると(ニュースを、芸道のように、報道といいたがります)、逆に、ラジオが遊戯的で、近年のインターネットも、最初は、遊戯的でしたが、最近は、真面目になるべきだと、いわれはじめました。

 このように、日本の詩歌の歴史も、マスメディアの歴史も、遊戯的(滑稽)な新しいものが出現しても、古くなるにしたがって、真面目・芸術的(風雅)になりたがり、それに対抗し、また遊戯的な新しいものが出現するという、反復が共通しているのがわかります。