千利休の待庵(たいあん、妙喜庵茶室)/黄金の茶室 | ejiratsu-blog

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日本的永遠性1~4

普遍的日本論1~12

生住異滅と自然の摂理

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■2項並立・往来が永遠に反復する日本的な世界観

 

 日本の美といえば、「もののあはれ」や「わび・さび」が有名で、これらは、飛花落葉のような、自然の無常感と結び付けがちですが、無常とは、万物が流転することで、万物は、生滅変化するので、永遠に不変な物は、ありません。

 ただし、自然の摂理で、1日が朝→昼→夕→夜や、1年が春→夏→秋→冬と、循環するように、生→住→異→滅を反復するのは、永遠不変です。

 なので、私は、このような自然の摂理と同化しようとすることで、永久不滅を希求してきたのが、日本の心・日本の美とみており、そうなると、興隆(生・住)のない衰滅(異・滅)は、ありません。

 それなのに、近現代の日本では、衰滅の美を重視する一方、興隆の美を軽視しがちになりましたが、これは、興隆の美・豪華な美が、万国通有である一方、衰滅の美・簡素な美が、日本特有だからともいえます。

 たとえば、米国出身の日本学者のドナルド・キーン(1922~2019年、晩年に日本国籍取得)は、『日本人の美意識』の《日本人の美意識》で、日本の代表的な美的概念を、「暗示、または余情」・「いびつさ、ないし不規則性」・「簡潔」・「ほろび易さ」と列挙し、それらを取り上げ、詳細に説明しました。

 ですが、それらの反対概念の「誇張」・「規則性」・「豊饒」・「持続性」を、すぐに列挙しながらも、取り上げませんでしたが、そうしたのは、反対概念が、日本特有でなく、万国通有だからと、みることができます。

 つまり、日本的な世界観は、2項が並立し、その間の往来を永遠に反復するのが、本来なのに、一方だけを偏重するあまり、他方を無視しがちになったので、日本の美の本質が、みえなくなってしまっているのです。

 その例として、今回は、千利休が、豪華な美と、簡素な美を、並立したのに、近現代には、簡素な美しか、注目してこなかったことを、みていきます。

 そして、次回は、後鳥羽上皇が、風雅な美(有心の柿本衆の和歌)と滑稽な美(無心の栗本衆の狂歌)を並立したのに、近現代には、風雅な美しか、注目してこなかったことを、みていきます。

 

 

●千利休(1522~1591年)

 

 村田珠光・武野紹鴎の流れを汲む千利休は、2人と同様、壮年の時代には、唐物の名物茶道具に執着・所持しましたが、晩年の時代には、特定の名物を尊重・突出させる、ワビ茶の伝統から脱却し、名物に固執しない取り合わせで、茶道具どうしや茶室との調和を工夫し、新風の茶の湯としました。

 すなわち、秀吉への出仕をきっかけに、珠光・紹鴎由来の隆盛の美・豪華な美(唐物の旧名物)から、利休独自の衰滅の美・簡素な美(和物の新名物)を派生させましたが、それは、隆盛(生・住)を経過した衰滅(異・滅)なので、けっして貧乏・乞食でなく、清貧・質素な表現でした。

 ちなみに、利休の孫・千宗旦(3千家の祖)は、千家再興の際に、秀吉が自刃の利休から召し上げた茶道具を返却しましたが、政治関与から自害に追い込まれた利休を教訓に、生涯出仕しなかったので、貧乏生活を送りながら(乞食宗旦といわれました)、祖父・利休のワビ茶を徹底追求しました。

 しかし、宗旦は、息子達に、手取釜ひとつで、飯を炊き、茶を点て、名物を所持しなかった、粟田口善法(あわたぐちぜんぽう、珠光の弟子)や丿貫(へちかん、紹鴎の弟子)のような、無一物の茶を真似するなと、戒めていたので、貧乏・乞食の2人と、清貧・質素の自分達を、区別しています。

 これらを前提にすれば、利休は、衰滅の美と隆盛の美を並び立て、その間を行き来し、自由に茶の湯を表現していたとみるべきで、簡素な美の待庵と、豪華な美の黄金の茶室の、両極を併用したのも、日本的な世界観で、永遠不変を希求したと、読み取ることができます。

 簡素な美の待庵と、豪華な美の黄金の茶室は、以下のようですが、両者に共通するのは、茶室・茶道具をすべて調和させたことではないでしょうか。

 

○待庵(妙喜庵茶室)

 千利休の作とされる、現存唯一の茶室で、当初は、豊臣秀吉が明智光秀を討ち取った、山崎の合戦(1582年)後、秀吉の依頼で、山崎城に築造され(近くに住んでいた利休屋敷から移築した説もあります)、慶長年間(1596~1615年)に、妙喜庵(京都府大山崎町)へ移築されました。

 2畳で極小なうえ、簡素な材料の、草庵風茶室で、客人は、はいつくばるように、蹲踞(つくばい、手水鉢/ちょうずばち)で手を清め、利休の考案とされる、約65㎝角の躙(にじり)口から、身をかがめて入り、茶室に刀を持ち込ませませんでした。

 利休が、ツクバイで身をはいつくばらせたり、ニジリ口で身をかがめたりさせるのは、庶民から有力武将になった秀吉に、庶民が普段する行為を再現させることで、庶民だった当時の心へ回帰させようとしたのではないでしょうか。

 また、仏教的には、日常生活のための御殿は、不浄な穢土(えど)の現世、草庵風茶室は、清浄な浄土の来世で、両者の行き来は、輪廻転生といえ、茶の湯は、疑似的な生まれ変わり(仮死→再生)と、みることができます。

 さらに、神道的には、草庵風茶室は、記紀神話でのアマテラスの天岩屋戸(あまのいわやと)を想起させ、茶の湯は、ケガレ(穢れ)た心身をキヨメ(清め)るための、ミソギ(禊ぎ)・ハライ(祓い)の儀式と、みることができ、これらも、自然の摂理と同化しようとする、永久不滅の希求です。

 利休の草庵風茶室は、2畳の待庵の他に、京都・大徳寺の門前の利休屋敷では、4畳半の不審庵(1582年頃)、秀吉の大坂城内の山里曲輪(くるわ)では、2畳(1984年)、北野大茶会(1587年)では、4畳半、聚楽第の利休屋敷(1587年)では、4畳半と2畳でした。

 したがって、利休は、通有の4畳半の茶室と、特有の2畳の茶室を、使い分け、行き来していたことになりますが、ここでも、利休特有の2畳を重視・偏重する一方、ワビ茶(珠光・紹鴎)通有の4畳半を軽視・無視しがちです。

 

○黄金の茶室

 豊臣秀吉が関白就任の年(1585年)に作らせた、広さ3畳、畳・障子紙(赤)以外が金の、組立式茶室で、利休も制作に関与したとみるのが妥当とされ、秀吉は、正親町天皇(106代)の御所(1586年)・北野大茶会(1587年)・朝鮮出兵(1592-93年、1597-98年)の名護屋城等に、運び込みました。

 茶室だけでなく、茶筅(ちゃせん)・茶巾(ちゃきん)以外の、台子(だいす、茶道具用の棚)・皆具(かいぐ、茶道具一式)までもが、黄金でした。

 黄金の茶室は、大坂の陣(1614-15年)の際に、大坂城で焼失したといわれており、現存しませんが、次のように、博多商人で茶人の神屋宗湛(そうたん)の『宗湛日記』1592年5月28日に、名護屋城で茶会が開催された記録があるので、それをもとに、日本各地で復元されています。

 

神屋宗湛『宗湛日記』(1586~1613年):1592(天正20)年5月28日

・一 金ノ座敷ノ事、平三畳也。柱ハ金ヲ延(のばし)テ包ミ、敷(居)モ鴨居モ同前也。壁ハ金ヲ長サ六尺ホド、広サ五寸ホドヅゝ二延テ、雁木ニシトミ(蔀)候。縁ノ口ニ四枚ノ腰障子ニシテ、骨ト腰ノ板ハ金ニシテ、赤キ紋紗(もんしゃ)ニテハ(張)リテ、畳表ハ猩々皮(緋、しょうじょうひ)、ヘリ(縁)ニハ金襴〈萌黄小紋/もえぎこもん〉、中コミ(込)ニハ越前綿、三尺ノエン(縁)、是ハ竹ツゞラ(葛籠)ニテカキ候。同カマチ(框)皮ムキノ木也。

 

 桃山文化の御殿の障壁画で、公的な表の書院での極彩色の豪華な美と、私的な奥の書院での水墨画の簡素な美が、並立するように、茶室も、ハデな黄金の茶室と、ワビな草庵風茶室を、並立させ、その間を往来することで、自然の摂理と同化しようとし、永久不滅を希求したのでしょう。

 日本の美は、そのもの(1項)を単独で取り上げるだけでは、浅い理解になってしまい、自他(対比する2項)の並立・往来に注目しないと、深い理解にまで、辿り着けないのではないでしょうか。