生住異滅(しょうじゅういめつ)と自然の摂理 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 生住異滅とは、万物が、一般的に推移する過程の、生じ(生)・留まり(住)・変わり(異)・滅びる(滅)、4現象です。

 たとえば、14世紀前半・鎌倉後期成立の「徒然草」155段では、人は、時機をみて言動するのを理想としながらも、病気・出産・死去の時機は、予測できずに突然やってくるとし、次のように言及しています。

 

・生(しょう)・住・異・滅の移り変る、真(まこと)の大事は、猛(たけ)き河の漲(みなぎ)り流るるが如(ごと)し。

《生起・定住・異変・消滅と移り変わる、本当に大切なことは、荒々しい川の激流のようだ。》

 

 このあと、季節の春夏秋冬や、人間の生老病死が、取り上げられ、四季の変化には一定の順序がありつつも、前の準備が次の兆候を押し出したり、天候不順にもなるとともに、死期に順序はないとし、生→住→異→滅の思い通りにはいきませんが、だからこそ、それを希求するのではないでしょうか。

 生住異滅は、仏教用語で、紀元前1世紀半ば頃に分派したとされる、部派仏教のひとつ・説一切有部(うぶ)では、あらゆる現象(有為/うい)を5種75項目に分類した、五位七十五法の5種のうちのひとつ、心不相応行法(心にともなわないもの)14項目の4要素(四相/しそう)です。

 

 また、12世紀後半~13世紀前半・平安末期~鎌倉初期成立とされ、弟子の覚運(かくうん、檀那流の祖)の質問に、師の良源(比叡山延暦寺の中興の祖、元三/がんざん大師)が回答した、「草木発心修行成仏記」では、感情をもたない植物(草木)も成仏できるとし、次のように説明しています。

 

・草木既具生住異滅四相。

[草木、既に生・住・異・滅の四相を具(そな)う。]

《草木は、すでに生起・定住・異変・消滅の4様相を、備え持っている。》

 

・是則草木発心修行菩提涅槃姿也。

[これ、すなわち、草木の発心・修行・菩提・涅槃の姿なり。]

《これは、つまり、草木の発心・修行・証悟(悟りを得ること)・解脱の姿である。》

 

 ここでは、草木の生住異滅と、仏道の行程が、結び付けられており、植物でみれば、生は発芽・新芽、住は成長・繁茂、異は開花・結実、滅は落葉・落果(らっか)・枯死(こし)で、植物は、若干の早さ遅さがありますが、自然の摂理で周期的に変化し、永遠に循環します。

 よって、植物と重ね合わせた仏道の行程も、…→発心(生)→修行(住)→証悟(異)→解脱(滅)→…の反復を想定していると推測できます。

 

 良源が再興した、比叡山延暦寺の始祖・最澄は、9世紀前半・平安初期に、法相宗の徳一との論争(三乗・一乗論争)で、人は誰でも仏性(仏になる種)をもつので(如来蔵)、修行すれば、悟りを得る可能性があるとしており、仏になる種が開花したのが、証悟(菩提)だといえます。

 ちなみに、徳一は、自分の悟りだけを追求する出家者(声聞/しょうもん)・独学で悟った者(縁覚/えんがく)・自分と他人の悟りを追求する出家者(菩薩)の3種以外の人々は、悟ることができないと主張しています(五性各別説)。

 人は誰でも、修行で悟りを得る可能性があるとなれば、悟りを得たいという煩悩(ぼんのう、欲望)も、最後は捨て切らなければならないので、それは、動植物のように、本性(本来の性質、本能)へ接近することになります。

 そうなると、感情をもつ人間等の動物(有情/うじょう)だけでなく、感情をもたない植物(無情・非情)も、仏になれる可能性があるうえ(一切衆生悉有/しつう仏性)、動植物(生命)とともに、土・石等の無生物も、仏になれる可能性があると、範囲を拡張できます(草木国土悉皆/しっかい成仏)。

 最澄に正式な密教を伝授した、空海も、9世紀初め・平安初期成立の「吽(うん)字義」の、漢詩の中で、次のように言及しているので、平安仏教は、一切皆成仏(一切皆成/かいじょう)で共通します。

 

・草木也成、何況有情。

[草木、また、成(じょう)す、いかに、いわんや、有情(うじょう)をや。]

《植物ですら、成仏するのだ、どうして、感情をもつ人間等の動物が、成仏しないことがあろうか。》

 

 最澄や空海は、学問的・都市的な奈良仏教に反発し、山中修行を重視しましたが、自然崇拝・山岳信仰も取り入れ、そこから、修験道(そののち、天台宗系の本山派・真言宗系の当山派が登場)も発展しました。

 山中修行者(修験者・山伏)は、超人的・超自然的な力(験力・霊力・呪力)を心身に修得するため、他界とされる険しい霊山で、厳しい難行・苦行を体験し、自然と同化することで、自分の迷妄を追い払い、悟りを得ました。

 そののち、下山すると、現界の庶民等へ、神札を配布したり、加持祈祷する等、それらを反復したので、他界から現界への生まれ変わりを繰り返し、その力を人々の救済に発揮しました。

 

 そのうえ、生住異滅は、1日のうちでの朝昼夕夜、1年のうちでの春夏秋冬の、自然の摂理とも結び付けることができ、これらは、…→増進期(朝・春)→最盛期(昼・夏)→減退期(夕・秋)→仮死・再生期(夜・冬)→…と、永遠に循環します。

 他方、人間をはじめ、万物は、必死必滅で、おおむね誕生期(人の生)→増進期→最盛期→減退期(老・病)→死滅期(死)と移行しますが、自然の摂理のように、死滅期と誕生期をつなぎ、そこを仮死・再生期とみなせれば、永久不死不滅になります。

 

 ところで、インドの(後)馬鳴(めみょう)著作とされ、6世紀半ば・中国の南北朝時代の真諦(しんだい)漢訳の、「大乗起信論」でも、生住異滅が、次のように取り上げられています。

 

・若得無念者、則知心相生住異滅、以無念等故。

[もし、無念を得るは、すなわち、心の相の生・住・異・滅を知る、無念と等しきをもってのゆえなり。]

《もし、無念を得れば、つまり、心の様相の生起・定住・異変・消滅を知る、なぜなら、(それは、)無念と同等だからだ。》

 

・而実無有始覚之異、以四相倶時而有、皆無自立、本来平等、同一覚故。

[しこうして、実には、始と覚の異あることなく、四相は、倶時(くじ)にしてありて皆、自立することなく、本来平等にして、同一覚なるをもってのゆえなり。]

《したがって、実際に、始覚と本覚は、異なることはない、なぜなら、(それは、)4つの様相が、同時に存在し、皆が独立することなく、本来平等で、同一の悟りだからだ。》

 

 大乗仏教は、自分が悟りを得れば、他人も救済することで(菩薩乗)、煩悩のある人達(凡夫/ぼんぷ)と、小乗(声聞乗・縁覚乗)も、包み込もうとしており、「大乗起信論」では、まず、修行可能者には、止観(心の安定による真実の正当な観察)を、修行不可者には、念仏を、提供しています。

 つぎに、万物・万事(一切法)が、人(生命)の心(衆生心)ひとつのみで、成り立っているとし、衆生心を、迷いの世界での生滅流転する心(生滅心・虚妄心)と、悟りの世界での真実ありのままの心(真如心)に、二分し、その両者は、心の奥底のアリヤ識で和合しているとされています。

 そして、人は誰でも、仏性(仏になる種)をもち(如来蔵)、人の心は本来、清浄でしたが、煩悩と無知(無明)で汚染されたため、迷うので、発心と信仰心・修行で回復するのが、悟りで、それらをまとめると、次のようになり、心真如は、到達の目的で、心生滅は、その手段になります。

 

・心生滅=仏性をもつ生滅(生住異滅)流転の心(如来蔵付の虚妄心)

 :迷いの世界・世俗の世界(世間法)・生死が輪廻する世界

 :分節的・動的・相対的な見方(必生必滅・変化変動・永遠の循環)

 

・心真如=真実ありのままの心(真如心)

 :悟りの世界・世俗を超越した世界(出世間法)・生死を解脱した世界(涅槃)

 :本然的・静的・絶対的な見方(不生不滅・不変不動・永久の恒常)

 

 ここで、心真如は、言葉での説明を超越する真実(離言真如)と、言葉での説明に依拠する真実(依言真如)に、二分されています。

 このうち、依言真如は、迷いなしで、生滅には実体がないとする、真実ありのままの空(如実空)と、悟りありで、真如には実体があるとする、真実ありのままの不空(如実不空)に、二分されています。

 仏教では、一般に、万物・万事は、内的原因(因)・外的原因(縁)により、様々な要素が、生滅(生・住・異・滅)を繰り返す中、諸要素間の相互関連性で成り立っており、実体がないとされていますが(空/くう)、それは、生滅に実体がないとする、迷いなしの如実空です。

 「大乗起信論」では、悟りありの如実不空で、真如に実体があると設定されているので、心真如=目的、心生滅=手段になるのです。

 前述の、「大乗起信論」での生住異滅は、はじめて悟りを得る(始覚)、4段階の行程で、滅(不覚)→異(相似覚)→住(随分覚)→生(究竟覚)と、1つずつ虚妄心をなくしていき、最後は無念にすることで、心生滅から心真如へと到達しています。

 一方、「大乗起信論」では、人の心自体の本来の性質が清浄なので(自性清浄心)、虚妄心が元々なく、ありのままの現状で、悟りを得ていることもあり(本覚)、そこでは、すでに思いが離れているとされ(離念)、心生滅の始覚と本覚は、次のように対比できます。

 

・始覚=分節的:不覚から、生・住・異・滅をなくし、無念になったので心真如

・本覚=本然的:本(もと)から、生・住・異・滅がなく、離念なので心真如

 

 ここまでみると、最澄・空海等の思想も勘案すれば、感情をもつ人間等の動物が、本から離念だったり(本覚)、不覚から無念になると(始覚)、感情をもたない植物や無生物と同等になります。

 

 さらに、日本の仏教の逸話では(史実では、ありません)、良源が、弟子の源信に本覚門を、弟子の覚運に始覚門を、伝授したとされ、そこから、それぞれ、恵心(えしん)流と、檀那(だんな)流に、分派したとされています(恵檀二流)。

 双方のうち、本覚思想は、天台宗を中心に、1100年前後・平安後期の院政期頃から発達し、修行・戒律等は必要ないと、極端化されるようにもなり、それが、仏僧の一部の堕落化・武装化の口実になりました。

 本覚思想の終焉は、江戸前期に、厳格な戒律を主張する安楽律院が批判し、天台宗内で対立、新教義の禁止を原則とする江戸幕府の裁定で、本覚思想が異端と判断されたからです。

 本覚思想で修行不要とされたのは、浄土の菩薩が、身を不動のまま修行しているので、そこから、真実ありのままの修行(如実修行)とは、「不行にしての行ずること」だと理解され、修行不要が導き出されたようです。

 ただし、「大乗起信論」での本覚は、迷いという穢(けが)れに汚染されたので、清浄な本来の性質へと回帰して悟りを得る随染本覚と、本来の性質が元々清浄で、虚妄の汚染とは無関係な性浄本覚に、二分されています。

 そのうち、随染本覚は、真実の道理にかなった修行(如実修行)で悟りを得る、作為的な智浄相(智恵による浄化の様相)と、自然に悟りが得られる、本然的な不思議業相(不思議な仕業の様相)に、二分されています。

 そうすると、後世の捏造とはいえ、良源が、弟子2人へ振り分けた両門は、次のように区分できます。

 

・始覚門=作為的:不覚から始覚へ・随染本覚の智浄相

・本覚門=本然的:性浄本覚・随染本覚の不思議業相

 

 本覚門と始覚門が両方用意されたのは、世の中の人々が様々なので、論理的(分節的)なタイプか、直観的(本然的)なタイプか、性格別で選択できたり、自分にあっており、長所を伸ばせる門か、自分にはなく、短所を補える門か、能力別で選択できるようにしたからではないでしょうか。

 

 日本で本覚思想が出現した時期には、浄土教が発達しており、源信は、10世紀後半・平安中期に、「往生要集」を執筆し、そこでは、阿弥陀仏の西方極楽浄土を想像すれば、死後に往生・成仏できるとする、観想念仏を提唱しました。

 念仏は、最澄が、9世紀初め・平安初期に、天台教学・禅・密教等とともに、唐から移入し、9世紀半ば・平安前期に、円仁が、90日間念仏を唱えながら、阿弥陀仏の周囲を回る、常行三昧を導入、10世紀半ば・平安中期に、良源が、生前の善行しだいで、9段階の浄土(九品往生)を設定していました。

 その延長で、源信の観想念仏が普及しましたが、念仏の中心は、「南無阿弥陀仏」と口に出して唱えれば、阿弥陀仏の西方極楽浄土に往生・成仏できるとする、称名念仏だったようで、念仏のみだと容易なので、信仰が庶民にも拡大していきました。

 浄土教(浄土門)は、来世利益で、本覚門は、現世利益なので、両者で、当時の修行不要を相互補完できたともいえ、次のようにまとめられます。

 

・聖道門=自力型:仏僧が優位 → 修行必要(難行)

・浄土門=他力型:庶民と同等 → 修行不要(易行)

 

 こうして、大乗仏教は、局所的にみれば、二分した際に、一方を狂信し、他方を排斥したり、二項対立することが多々ありますが、総体的にみれば、万人を救済するため、二項往来や相互補完になっているのが特色です。

 「大乗起信論」は、止観(禅)と念仏をはじめ、様々な二分を包括しているので、名著といえます。

 

 それに、修行不要の本覚門・浄土門が主張される背景には、次のような思考も想定できるのではないでしょうか。

 

・苦しさを逃れるための修行が苦しければ、いつまでも逃れられず、現世で救われない矛盾があるうえ、来世の楽しさも保証されていない(修行からの解放)。

・苦しい修行をすればするほど、悟りを得たいという欲望が、それだけ大きいとも受け取れるうえ、苦しい修行ができなければ、救われないことにもつながる(発心からの解放)。

 

 つまり、仏道では、発心・修行から解放されないと、証悟(菩提)・解脱(涅槃)へ到達できませんが、物事を過度に突き詰める人達も救済するために、修行不要とされる本覚門・浄土門が提供されたのでしょう。

 

 ここまで、私は、分節的(作為的)と本然的を二分してきましたが、自然の両面性をみれば、次のように二分できます。

 

・分節的・動的・相対的な見方(心生滅):自然の摂理=必生必滅・変化変動・永遠の循環(生住異滅)

・本然的・静的・絶対的な見方(心真如):自然界=不生不滅・不変不動・永久の恒常

 

 小乗仏教は、自分だけが悟りを得るので、発心(生)→修行(住)→証悟(異)→解脱(滅)と、始めと終りのある、心生滅から心真如への直線的な行程ですが、大乗仏教は、他人も救済するため、…→発心(生)→修行(住)→証悟(異)→解脱(滅)→…と反復する、円環的な行程になります。

 これは、もし、自分が本覚で悟りを得ても、他人も救済するには、心真如だけでなく、心生滅の正体も認識していないと、心真如から心生滅へ引き返した際に、自分が通用しないことになります。

 そのためには、感情をもつ人間等の動物、感情をもたない植物、土・石等の無生物には、仏になれる可能性があるとし、…→増進期(朝・春・生)→最盛期(昼・夏・住)→減退期(夕・秋・異)→仮死・再生期(夜・冬・滅)→…と、反復させるのが有効になります。

 この生住異滅の反復は、1日の朝昼夕夜や1年の春夏秋冬のように、あらゆる段階で取り入れられており、日本では、方便(仮に設けた教え)として、自然の摂理(生住異滅)と同化することで、永遠になるよう、希求されてきました。

 特に、仏教での修行は、自分の迷いや苦しみを捨て去り、悟りを得て(無の境地)、そこから立ち戻り、他人を救済する行為、神道での祭祀は、不浄な状態(ケガレ・ツミ・タタリ)から清浄な状態(ハライ・ミソギ・キヨメ)へと転換する行為で、両者とも、それを反復します。

 そこでは、減退期(神道での不浄、仏教での迷い・苦しみ)→仮死・再生期(神道での浄化、仏教での無の境地)→増進期(神道での清浄、仏教での救済)の過程が、最重要視されています。