日本の特徴2~2項並立・往来の形式 | ejiratsu-blog

ejiratsu-blog

人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

●2項並立・往来の形式

 

 前回の、仮死・再生の反復の形式は、時間的な流れでしたが、今回の、2項並立・往来の形式は、空間的な隔たりといえます。

 もし、世界が1項の単立ならば、それがダメだと、静止するしかなく、1項の生成と消滅を繰り返すことになりますが、世界が2項の並立ならば、一方がダメでも、他方に移動でき、そこにいる間に、別の一方を準備できます。

 そのようにして、2項を並び立て、その間を行き来すれば、永久不死不滅になりますが、これは、前回での、自然の摂理である循環と酷似しているので、2項並立の世界には、普遍性があるといえるのではないでしょうか。

 

 

○統治〈名実〉:権威(名)ある天皇の祈事・祭事-権力(実)ある為政者の政事・軍事

 天皇は、政治(内実)に直接関与しなくなると、宮廷の儀式(外形)や、神仏への祈祷・祭祀に特化するのが、顕著になりましたが、これを選択したことが、天皇制の生き残れた要因ではないでしょうか。

 そうしたのは、おそらく、権力をもつ為政者の政事・軍事(顕事/あらわごとは、合理性)で、吉(善)から凶(悪)になっても、権威をもつ天皇の祈事・祭事(幽事/かくりごとは、非合理性)で、凶から吉に回復させ、それを交互に反復させれば、永遠だという発想からでしょう。

 政事・軍事は、失敗すれば、責任追及されるので、天皇は、歴代の最有力な為政者に、名目上委託するようになり(実質上は、政権奪取)、失敗がなく、責任追及されない、祈事・祭事に特化したことが、結果的に現在まで、万世一系と政権交代が両立する、日本の特徴ができました。

 今の天皇も、合理性が必要な、政治・経済に一切関与せず、非合理性が必要な、文化や被災地訪問・戦没者慰霊等に関与するのは、昔の天皇が、神仏へ祈祷・祭祀した、その延長線上にあるといえます。

⇒ [*日本史等間隔年表1]

 

○宗教〈内外〉:外来の仏教・仏寺-内発の神道・神社

 日本列島では、先史には、土着の宗教(原始神道)を信仰しましたが、中国大陸・朝鮮半島から仏教を導入した際に、神道を区別し、それ以降、神道は、伝統を継承した要素(依代/よりしろ、神籬/ひもろぎ等)と、仏教に影響された要素(社殿化、左右対称形、白壁+木部の朱塗等)が、みられます。

 日本の特徴は、神仏習合といわれますが、古代・中世には、仏主神従(仏教優勢・神道劣勢)、近世には、神仏同等、近代(戦前)には、神主仏従(神儒一致)が、実際で、神道は、教義(思想、内面)がなく、儀礼(形式、外面)のみが基本なので、仏教・儒教等から、その都度、教義を借用しました。

 古代・中世には、主流が、神を仏の化身(仮の姿)とする本地垂迹説、それに対抗した傍流が、仏を神の化身とする反本地垂迹説で、近世には、武家勢力が皇室+公家勢力と寺社勢力を統制したため、神仏の教義が発展しなかったので、儀礼偏重になり、信仰希薄化・参拝多極化しました。

 しかし、近代(戦前)には、神社非宗教論により、儀礼面では、天皇尊崇とともに、神道を他宗教から超越させましたが(国家神道)、教義面では、天皇を父、皇后を母、臣民(国民)を子とする、日本的儒教の一大家族国家観で、臣民に天皇への忠孝を絶対としました。

⇒ [*日本仏教概略史]

⇒ [*日本神道概略史1~3]

⇒ [*神道の変遷1~6]

⇒ [*神道の思想と制度1~12]

 

○天皇の祭儀〈内外〉〈和漢〉:外来(唐風)の即位式-内発(和風)の大嘗祭

 皇位継承の儀式では、対外的に、中国的(唐風)な即位式を執り行い(国外の参列者もあり)、天皇が印章+剣・鏡・勾玉を受け継ぎましたが、それとともに、即位式後には、対内的に、日本的(和風)な和風の大嘗祭も執り行いました(国内の参列者のみ)。

 先進文化を摂取するのみだと、大国を追随するだけになってしまうので、独自文化も並立・発達させ、先進文化は、物的・量的な満足を、独自文化は、心的・質的な満足を、別々に請け負うことになるので、豊かな社会が創れます。

⇒ [*大嘗祭・新嘗祭]

 

○記紀〈内外〉:国外的な『日本書紀』-国内的な『古事記』

 記紀は、『日本書紀』によると、681(天武10)年3月17日に、天武天皇(40代)が、「帝紀」・「上古の諸事」の編纂を命令し、『古事記』は、712(和銅5)年1月28日に、元明天皇(43代)へ献上し、『日本書紀』は、『続日本紀』によると、720(養老4)年5月に、元正天皇(44代)へ献上しました。

 つまり、当初から、国外的な『日本書紀』と、国内的な『古事記』を、並立させようとしていたのがわかります。

⇒ [*神話と歴史の間の古代天皇1~28]

⇒ [*「古事記」読解1~3]

 

○天神地祇〈天地〉:天つ神(天上の神)-国つ神(地上の神)

 古代の天皇が、特定の神だけに固執せず、天上・地上の大勢(八百万/やおよろず)の神々(天つ神・国つ神)を、広範に祈祷・祭祀したのは(天神地祇/てんじんちぎ)、天上の神も地上の神も同等、かつ不特定多数にしておくことで、神よりも天皇の権威が優越できるからで、超越的な地位を維持しました。

 その一方で、古代の天皇は、最重要視していた、伊勢神宮・上下賀茂神社には、未婚の女性皇族を巫女として派遣・定住させる、斎王制度(それぞれ斎宮・斎院)を採用しており、伊勢では、飛鳥後期から鎌倉末期まで、賀茂では、平安前期から鎌倉初期まででした。

 ちなみに、天皇家の祖先神(皇祖神)は、元々タカミムスヒで、伊勢神宮・内宮の祭神のアマテラスは、天武天皇(40代)の時代からの中途採用とみるのが有力です。

 ところが、平安中期から鎌倉末期にかけて、天皇が特定の神社に行幸するようになりましたが(伊勢神宮は、対象外)、神社行幸しても、天皇が直接参拝するのではなく、神前から多少距離のある御殿から、使者を派遣する代理参拝でした。

 それも、長年中断し、天皇の神社行幸が復活したのは、江戸末期からで、まず、孝明天皇(121代)が、上下賀茂神社・石清水八幡宮に参拝し、つぎに、明治天皇(122代)が、伊勢神宮に参拝するようになりました。

 これは、近代(戦前)には、儀礼面が神道(国家神道)、教義面が儒教道徳(忠孝)だったので、儒教の影響から、天皇にも祖霊信仰・祖先崇拝が導入され、現代(戦後)も、天皇の伊勢神宮の参拝は、踏襲しています。

⇒ [*歴代天皇が伊勢神宮に参拝しなかった理由の考察]

⇒ [*律令制下でのアマテラスの皇祖神への中途採用1~7]

 

○八百万の神〈縦横〉:降臨神(垂直的・北方的)-漂着神(水平的・南方的)

 日本古来の神々は、天や山からの降臨神と、海の彼方からの漂着神に、大別でき、垂直的・北方的な降臨神と、水平的・南方的な漂着神を、並立させています。

 降臨神は、主に天つ神系で、天皇家や有力豪族達は、記紀神話に登場する天つ神を祖先神とした一方、漂着神は、主に国つ神系で、庶民と結び付き、弱者救済に活躍する傾向にあり、ちなみに、漂着仏もいて、東京・浅草寺の観音菩薩や、長野・善光寺の阿弥陀如来の、仏像が有名です。

 記紀神話での、降臨神には、ニニギ(天皇家)、タケミカヅチ(鹿島神宮)、ニギハヤヒ(物部氏)、アメノコヤネ(中臣氏=藤原氏)、フトダマ(忌部氏)等が、漂着神には、ヒルコ(エビスと同一視)、スクナヒコナ、オオモノヌシ等がいます。

⇒ [*多様性=本流+対立性のある傍流1]

 

○神の両面〈動静〉:和魂-荒魂

 神は、柔和な面の和魂(にぎたま)と、勇猛な面の荒魂(あらたま)に、二分でき、和魂は、幸福をもたらす幸魂(さきたま)と、奇跡をもたらす奇魂(くしたま)に、二分でき、神社では、本宮の祭神を和魂とし、奥宮の祭神を荒魂とするのが通例です。

 まず、伊勢神宮では、内宮の正宮の祭神が、アマテラスの和魂で、内宮の別宮1位の荒祭宮の祭神が、アマテラスの荒魂と二分され、外宮の正宮の祭神が、トヨウケヒメの和魂で、外宮の別宮1位の多賀宮の祭神が、トヨウケヒメの荒魂と二分されています。

 つぎに、オオモノヌシとオオクニヌシは、同一神で、奈良・大神(おおみわ)神社の祭神は、和魂のオオモノヌシで、出雲大社の祭神は、荒魂のオオクニヌシなので、中央が和魂、地方が荒魂と、二分されています。

 さらに、神功皇后(14代と15代の間)朝鮮半島出陣ゆかりの神社とされる、前方の下関・住吉神社の祭神が、住吉3神(ソコツツノオ・ナカツツノオ、ウワツツノオ)の荒魂で、後方の大阪・住吉大社の祭神が、住吉3神の荒魂と、二分され、中心(本)が和魂、周縁(末)が荒魂で、共通します。

⇒ [*多様性=本流+対立性のある傍流1]

 

○伊勢神宮〈内外〉:内宮のアマテラス(太陽神)-外宮のトヨウケヒメ(穀物神)

 伊勢の内宮は、『日本書紀』によると、崇神6年に、アマテラスの神威が強すぎたので、崇神天皇(10代)は、それに畏れて、宮中から三輪山麓へ遷座し、垂仁25年3月10日に、垂仁天皇(11代)の委託した、娘のヤマトヒメが、伊勢・五十鈴川のホトリへ遷座したとあります。

 他方、伊勢の外宮は、『止由気(とゆけ)宮儀式帳』・『倭姫命世記』によると、雄略21年に、アマテラスから雄略天皇(21代)へ、丹波のトヨウケヒメを呼び寄せよとの神託で、雄略22年7月7日に、伊勢へ遷座したとあります(トヨウケヒメは、『日本書紀』で登場せず、『古事記』で名前だけ登場)。

 ただし、アマテラスが皇祖神となったのは、天武天皇(40代)の時代からの中途採用とみるのが有力なので、その時期に伊勢神宮で、内宮の祭神のアマテラスと、外宮の祭神のトヨウケヒメが、並立したとみるのが、妥当です。

⇒ [*伊勢神宮1・2]

 

○舒明天皇(34代)〈東西〉〈生死〉:西の民が造った宮殿-東の民が造った仏寺

 『日本書紀』によると、639(舒明11)年7月に、舒明天皇が、百済川のホトリで、西国の民に大宮(百済宮)を、東国の民に大寺(百済大寺)を、造作させ、同年12月に、九重塔も建立したので、舒明天皇は、東の「生」の方角に宮殿を、西の「死」の方角に仏寺を、並立させました。

 

○天武天皇(40代)〈社寺〉:大官大寺(元・百済大寺→高市大寺)-伊勢神宮

 『日本書紀』によると、673(天武2)年12月17日に、天武天皇が、2人を、高市大寺の造寺司(ぞうじし)に任命したとあり、百済大寺が高市に移転され(高市大寺)、『大安寺資材帳』によると、677(天武6)年9月に、高市大寺を大官大寺に改称したとあります。

 また、『日本書紀』によると、673(天武2)年4月14日に、天武天皇が、娘の大来皇女(おおくのひめみこ)を、伊勢神宮の斎王にするため、身をキヨメさせ、『扶桑略記』によると、大来皇女が、斎王の初代とあるので、天武天皇は、大官大寺と伊勢神宮を並立させました。

 

○聖武天皇(45代)〈男女〉:国分(僧)寺-国分尼寺、東大寺-法華寺

 『続日本紀』によると、741(天平13)年3月24日か2月14日に、聖武天皇が、全国で国分僧寺(金光明四天王護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)と、七重塔の、建立を命令し、747(天平19)年11月7日に、その両方の建立を催促しており、聖武天皇は、男女別で国分僧寺と国分尼寺を並立させました。

 そのうえ、聖武天皇は、総国分僧寺として東大寺を発願し、『続日本紀』によると、752(天平勝宝4)年4月9日に、大仏の開眼供養した一方、光明皇后は、総国分尼寺として法華寺を発願し、745(天平17)年5月11日に、皇后宮を宮寺にし、それがのちの法華寺で、総国分僧寺と総国分尼寺も並立しました。

⇒ [*天武系の世界観]

 

○称徳天皇(48代=46代・孝謙)〈男女〉:西大寺-西隆寺

 称徳天皇は、僧寺の西大寺を発願・建立し、『続日本紀』によると、766(天平神護2)年12月12日に、行幸した一方、尼寺の西隆寺も発願し、767(神護景雲元)8月29日に、造寺司の長官を、同年9月4日に、造寺司の次官を、任命しています。

 よって、称徳天皇、父の聖武天皇と、母の光明皇后のように、男女別で僧寺と尼寺を並立させました。

 余談ですが、『日本三代実録』によると、陽成天皇(57代)の時代の、880(元慶4)年5月19日に、西隆寺が、西大寺の管理下で、西大寺の僧のための法衣の洗濯所となっており、鎌倉中期には、田畑化されているので、廃寺しています。

 なので、奈良期(天武系)までは、官寺が男の僧と女の尼で、ほぼ同等でしたが、平安期(天智系)からは、仏教の男尊女卑が進行したようです。

⇒ [*天武系の世界観]

 

○仏の様態〈動静〉:静的な如来-動的な菩薩・明王

 如来は、悟りを開いた者で、釈迦如来・薬師如来・阿弥陀如来・大日如来等がおり、菩薩は、悟りを求める修行者で、観音菩薩・弥勒菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩等がおり、明王は、密教の大日如来の命令により、悟りを導く者で、不動明王等がいます。

 3仏のうち、如来は、真理そのものなので、人々に直接働き掛けず(静的)、教えを説くのは、菩薩と明王で(動的)、菩薩は、穏やかに優しく説く一方、明王は、厳しく恐ろしく説き、感情を上下させ、教えをわかりやすくするために、3仏を並立させています。

⇒ [*多様性=本流+対立性のある傍流2]

 

○密教の両界曼荼羅〈攻守〉:慈悲(守り)の胎蔵界曼荼羅-智恵(攻め)の金剛界曼荼羅

 曼荼羅(まんだら)とは、仏教の世界観・本質を表現・視覚化したもので、密教の曼荼羅は、『大日経』を視覚化した、慈悲(守り)の面の胎蔵界曼荼羅と、『金剛頂経』を視覚化した、智恵(攻め)の面の金剛界曼荼羅を、並立させており、両者で両界曼荼羅といいます。

 胎蔵界曼荼羅は、同心円状の世界観で、密教の最高仏の大日如来は、中心に位置する一方、金剛界曼荼羅は、碁盤目状の世界観で、大日如来は、上部中央に位置します(都城/とじょう制で、天子の宮殿が北端中央に位置し、南面するのと同様です)。

⇒ [*多様性=本流+対立性のある傍流2]

⇒ [*同心円状/碁盤目状の世界観]

 

○観音菩薩のいる補陀落浄土〈山海〉:補陀落山-補陀落渡海

 補陀落(ふだらく、普陀洛)とは、観音菩薩の居所で、伝説では、インドのはるか南方の海上にある島の、八角形状の山にいるとされ、観音信仰がさかんになると、観音菩薩は、山に降り立つと解釈されるようになりました。

 したがって、京都・清水寺、奈良・長谷寺、滋賀・石山寺等では、崖上に降り立ったように、観音菩薩像を本尊として安置し、本堂を建立すれば、その前面には、礼拝所が必要で、崖に床を張り出して柱と貫で支持したのが、懸造(かけづくり)です。

 一方、補陀落は、南方の海上にあるとされているので、和歌山・熊野灘(那智勝浦の補陀落山寺)、高知・足摺岬+室戸岬、茨城・那珂港等では、生きて帰れない小舟で、補陀落浄土へ渡海しようとする、最期の修行がありました。

 それに、前述の東京・浅草寺の観音菩薩は、南方の補陀落浄土由来で漂着したと解釈され、奈良・長谷寺の観音菩薩は、1本の大木からつくった、2体のうちの1体で、もう1体を祈願のために海へ投げ入れると、南方の補陀落浄土経由で三浦半島に漂着したと解釈され、鎌倉・長谷寺の本尊となりました。

 ここまでみると、観音菩薩がいるとされる山と海は、それぞれ降臨神と漂着神を並立させる発想と、共通しているのがわかります。

⇒ [*多様性=本流+対立性のある傍流2]

 

○浄土〈東西〉〈生死〉:薬師如来のいる東方の瑠璃光浄土-阿弥陀如来のいる西方の極楽浄土

 浄土は、薬師如来のいる、東方の瑠璃光浄土と、阿弥陀如来のいる、西方の極楽浄土を、並立させることがあります(そこに前述の、観音菩薩のいる、南方の補陀落浄土を、追加することもあります)。

 その際、東の「生」の方角にいる薬師如来には、生前の現世利益を、西の「死」の方角にいる、阿弥陀如来には、死後の来世利益を、期待することになります。

 たとえば、藤原道長の京都・法成寺(現存せず)は、北側に南向きで、密教の最高仏の大日如来が本尊の金堂を配し、東側に西向きで、薬師堂を、西側に東向きで、阿弥陀堂を対面させ、木津川・浄瑠璃寺は、東側に西向きで、薬師如来の三重塔を、西側に東向きで、阿弥陀如来の本堂を対面させています。

⇒ [*方位軸]

 

(つづく)