日本神道概略史1 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 神道はその時代の社会情勢により、移入された他の宗教(仏教・儒教・キリスト教等)と融合・分離しながら、複雑に変化しましたが、そこには受け入れたり、突き放される前兆があるので、それに注目しながらみていくことにします。

 日本の神道はもともと、人間が狩猟・採集・漁労生活するうえで、周囲の自然環境から様々な恩恵を受け取るため、自然を神として信仰・崇拝したことが起源で(八百万/やおよろずの神)、そこでは自然と同化することが追求されていました。
 農耕や牧畜が中国・朝鮮から日本へ移入しても、長年普及しなかったのは、野生の動植物には、人工栽培・飼育した食料にはない生命力(精力)があるとされ、それを吸収して超自然・超人間的な能力(呪力)を獲得するためだったようです。
 当時の気候は、氷河期が約1万年前から終息し、温暖化へと転換したため、降雨・降雪により、うっそうとした森林が拡大しており、比較的日光が差し込まない高所での生活が、人々の精神に影響していました。
 自然が生成したあらゆるものには霊魂・精霊がいて、そのうち生活と密着する自然には神が存在し、神は山・木や岩・石等の自然物に降臨するとされ、当初はそれらを御神体とし、神殿はなく、祭祀の際にのみ仮設の神殿で対応したり、拝殿のみが通例でした。

 そののち、大陸の戦乱から逃避して渡来人が移住するようになると、狩猟採集だけでは食糧不足になりましたが、かれらは稲作と製鉄・鋳造技術を持ち込みました。
 稲作を導入すると、食糧が格段に増加したため、水稲にも霊魂があるとされ、それによって人口が急激に増加すると、食糧不足にならないよう、ますます作物を増産しなければならなくなり、農耕生活へと移行せざるをえなくなります。
 水田を開墾するためには、多量の木材が必要なので、利水できる森林は、鉄製の道具で広範に伐採するとともに、耕地を管理するため、人々は低所で生活することになりました。
 農耕は天候に左右されるため、人々の中で天候を感知できる繊細な女性に予想してもらい、それが的中すると、神の予言として認識されるようになり、司祭者として祀り上げられるとともに(巫女)、神々の中で太陽神が特化されるようになりました。
 さらに、農地を拡大したり、農業用水を確保したり、余剰作物の収奪を防御するのに、有能な男性が統率者となりましたが、天候より開墾・灌漑事業のほうが作物増産に貢献し、戦争が多発すれば、軍事が重要なので、統率者が首長となり、司祭者の媒介者として祭祀の進行や穀倉の管理も執り行います。
 こうして、今後の自然を予知したり、人間の運命を支配する等、超自然・超人間的な能力をもつ男女がマツリゴト(祭祀+政治)を主導し、長年の戦乱の結果、しだいに防備しやすい地形単位ごとに、集落どうしが統合して小国が形成され、それが広域化へと発展し、やがて大和政権が成立しました。
 そこで統合の根拠となったのは、太陽神(タカミムスヒ、のちアマテラスに)の子孫とされる大王(おおきみ)で、各地の豪族は、大王の権威を承認・帰属することで結束・連合し、この時期には大王は司祭者であり、統率者として尊崇される存在になっています(天神地祇/てんじんちぎ信仰)。
 ここで注意したいのは、実際には各豪族はそれぞれの私有地・私有民を統治しており、その豪族達が大王の祭祀的な統率のもとに連合する二重構造となっていることです。
 大王には権威はありますが、権力はなく、豪族どうしは平等が原則なので、豪族間の関係では、自分の権力を拡大しようと、勢力争いへと発展し、豪族と民衆の関係では、各豪族はそれぞれの領地で私欲を追求するので、農民から過度に作物を取り立てることもでき、貧富の格差が増大する傾向にありました。
 一方、朝鮮半島では、戦乱で大和政権が支援していた伽那(かや)諸国や百済が滅亡し、百済復興のための援軍も大敗(白村江の戦い)、中国大陸では、統一王朝(隋・唐)成立で周辺諸国への強圧が激化し、中国・朝鮮と外交するには、政治権力を集中させ、文明国家になることが急務となりました。

 推古天皇(33代)と聖徳太子による国法(律令)の導入や仏教の政治利用、有力豪族の物部氏や蘇我氏の滅亡(大化の改新)、皇位継承争いでの反抗勢力の政権奪取(壬申の乱)は、中央集権の政府樹立の過程で、天武・持統天皇(40・41代)の時代から、天皇制・官僚制が本格的に取り組まれたといえます。
 その過程では、国家を祭祀的な統率から政治的な統一へと転換するため、まず豪族の私有地・私有民を廃止して、公地公民を原則とし、天皇直轄の領地(屯倉/みやけ)を拡大することで、国家財政を増収しました(中大兄皇子や中臣鎌足は、広大な私領を放棄し、公地公民の推進に努力しています)。
 朝廷は土地や人民を戸籍に登録して、人々に農地を平等に配分することで生活を保障し(班田収授法)、公平・公正な税の負担で、公共(国家)に奉仕する体制を実現しようとしています。
 つぎに、豪族は土地や人民を国家に移譲するかわりに、地位と官職を授与され、官僚組織に組み込むことで、祖先以来の家名・家格を維持し、有力な豪族は皇室との婚姻で親戚になり、貴族化して覇権争いに参画する一方、一般の豪族は、各地の屯倉経営・社寺管理等の役人として任命されました。
 中国の律令制度では、官僚は試験により、能力優先で登用されますが(科挙)、それを実行すると豪族達の不満が反乱となるおそれがあるので、特権階級としての生活を保障しています(待遇は以前ほど、よくありません)。
 さらに、天武天皇(大海人皇子、天智天皇の弟)は、伊勢神宮を中心とした天神地祇の信仰と、仏教を保護・統制するとともに、国史(古事記・日本書紀=記紀神話)の編纂を開始し、天皇支配による国家統一を根拠づけ、持統天皇(天武天皇の妻で、天智天皇の娘)がそれを引き継ぎました。
 そして、天武・持統天皇の時代にはじめて、神社の本殿が普及するようになったようで、全国各地の有力な在地信仰を天皇中心の支配体制に取り込むため、国家がそれらを格付し、祭祀施設(社殿)を建設、官社化されなかった在地信仰は、山岳信仰・霊山修行や仏教(神仏習合)と結び付いていきました。
 記紀神話では、日本国土を生産したのは天上の神々(天つ神)で、その子孫が地上へ降臨し、日本を統治することになったと展開していますが、そこでは全国各地にいた神々(国つ神)やその祭祀も排除せず、皇祖神を中心に血縁的に組織化することで、天皇の権威を強化しています。
 ここで注目すべきは、天皇は太陽の女神の伝統を継承していますが、超自然的・超人間的な能力のある神ではなく、あくまでも神の媒介者であり、天上の神々の命令で、国政を決定していることです(神の意志を現すのは占いの儀式です)。
 その理由は、天皇が神になって命令したり、命令する神を特定すると、その命令で失政すれば、天皇の責任になったり、その神は廃棄されてしまうおそれがあるからで、天皇を神の意志の唯一の媒介者とし、命令する神を流動させることで、かえって天皇が絶対者となって神聖さが保持できます。
 そこでは祭祀や集会を尊重し(儀式・会議・宴会は未分化です)、私を排除して公に帰依すれば、清く明るい和やかな心境となり、人々と団結でき、正義が実現できるとされています。(記紀神話では、アマテラスを冒涜したスサノオを、八百万の神による河原での集会の決定で処罰されています)。
 この時期は、今後の自然を予知したり、人間の運命を支配する等、超自然・超人間的な能力をもつ男女により、皇室が形成されていましたが、その能力が低下しないよう、血族どうしで結婚することが慣例化しており、古来からの近親相姦の禁止を緩和していました。
 その結果、皇室では若死にが多発し、権力争いへと進展する要因となり、頻発する天変地異・疫病流行等にも対応できず、天皇に超自然・超人間的な能力があるとはいえない状況になっており、そのために現世利益の仏教を、天神地祇の信仰(神道)と両立させたのではないでしょうか。

 このような、天皇に権力を集中させる様々な改革は、国法で規定しましたが、それらは中国から移入した仏教の慈悲や、儒教の仁愛の思想とも結び付いており、特権階級の利益のためではなく、国益のための選択でした(実際には天変地異・疫病流行等による、民衆の貧困は解消されませんでした)。
 他方、神道は、仏教の仏寺・仏像等と比較すると、信仰・崇拝対象が曖昧と受け取られかねないので、神殿も可視化され、特に皇室の起源に関連する伊勢神宮・出雲大社は、それぞれアマテラス、オオクニヌシ(スサノオの子孫)の祭神を永久に祭祀する施設として整備しました。
 これらは記紀神話では、アマテラスが孫のニニギに、天上から地上への降臨を命令し、ニニギはオオクニヌシに国譲りを要請・受諾されていますが、これは天つ神の子孫である皇族が、全国各地の様々な国つ神の子孫である豪族を平定した歴史を物語化しており、天皇の権威を絶対化しようとしています。
 伊勢神宮は穀倉、出雲大社は宮殿を表現しており、両者とも当時の在来の様式を多少誇張し、掘立柱・白木造等で、仏教建築と比較すると、簡素にして差別化する一方、方位・軸線や対称を意識した配置は、仏寺の伽藍を取り入れたようです。
 しかし、大和政権での皇族‐豪族と、豪族‐民衆の二重構造を解消して、天皇が権威・権力を掌握し、神話での祭祀的統率の段階から国法での政治的統一の段階へ移行しようとすると、天神地祇は天つ神と国つ神の二重構造と受け取られ、仏‐民衆が直結する仏教のほうが、国家統治に有効だったようです。
 神道の慈愛の思想と仏教の慈悲の思想は共通し、在来の神話的伝統や神社崇拝には、教義がなく寛容なので放棄せず、ここから神仏習合が抵抗なく本格化しました。
 神仏習合は、神社建築にも影響し、例えば春日大社や上下賀茂神社では、柱下には礎石、柱上には組物があり、屋根には反りをつけ、木部を彩色し、正面に礼拝のための庇(向拝)を張り出す等、仏寺の伽藍配置だけでなく、仏堂の建築様式まで取り入れるようになりました。
 ただ、神は祭礼時のみ、天上から地上へ降臨するため、土台を井桁に組んで、その上に柱を立て、オミコシのように、持ち上げればどこへでも移動できる仮設の表現に固執しています。
 そして、奈良初期から、神社の境内に神宮寺が併設されるようになり(藤原不比等の長男・武智麻呂が気比に建立)、奈良中期には、聖武天皇(45代)が鎮護国家のために、自ら仏教に帰依し、全国各地に国分寺・国分尼寺を造営するとともに、総国分寺として東大寺で大仏を鋳造しています。
 この時期は人口が増加し、天変地異が多発したため、民衆の貧困は悪化、天候不順は人々への天意なので、天皇がその責任を引き受け、神仏へ祈願するとともに、負担軽減・負債免除等で民衆を救済しようとしました。
 また、平安前期には、本来は祭祀を執り行うはずの皇族・貴族達が、政治の行き詰まりからか、密教に加持祈祷を要請したり(最澄・空海)、天変地異や疫病流行は怨霊の仕業とされ(御霊信仰)、朝廷はそれらを鎮魂するための祭神・祭礼を導入しました(八坂神社の御霊会・北野天満宮の菅原道真)。
 さらに、奈良末期から平安期にかけて、山岳信仰・霊山修行(修験道)と密教が融合され、神は仏の化身(仮の姿で現れた=権現)だという思想が普及し(本地垂迹/すいじゃく説)、代表的な神社の祭神(主に氏族の守護神)に菩薩や如来の別名がつけられました。
 ここで神より仏を優位にしたのは、密教が土着の神々への信仰を取り込めば、布教するのに有効だったからのようです。

(つづく)