律令制下でのアマテラスの皇祖神への中途採用1 | ejiratsu-blog

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 現在、アマテラスは、天皇家の祖先神(皇祖神)とされ、伊勢神宮・内宮の祭神ですが、「古事記」(712年完成)「日本書紀」(720年完成)の編纂以前には、皇祖神でなかったことが、定説化しています。
 ここでは、どのように、アマテラスが、皇祖神として、受け入れられるようになったのかを、みていくことにします。
 
 
●皇祖神からのアプローチ
 
 アマテラスでない、皇祖神の痕跡は、「日本書紀」の中に散在しており、それらは、次のように、列挙できます。
 
・神代9段本文:…皇祖のタカミムスヒ(高皇産霊尊)は、かれ(ニニギ)を特に寵愛をあつめ、あがめられて養育された。そして、皇孫のニニギを立て、葦原の中つ国の君主にしたいと思った。…
 
・神武冒頭:…(カンヤマトイワレヒコ、のちの初代・神武が、)45歳になった時、兄弟・子供達にいう、「昔、私の天神のタカミムスヒ(高皇産霊尊)とオオヒルメ(大日孁尊)は、この豊葦原の瑞穂の国を、私の天祖のニニギに授与した。…
 
・顕宗3年2月1日:阿閉(あへ)の臣事代(ことしろ)が、任那の使者となるよう、命令され、その際に、月神が人に憑依し、「私の祖のタカミムスヒ(高皇産霊)は、天地を鋳造した功績がある。人民の土地を私の月神に奉納せよ。もし、要求のままに献上すれば、幸福になるだろう」といった。…
 
・顕宗3年4月5日:日神が、人に憑依し、阿閉の臣事代に、「(大和の)磐余(いわれ)の田を、私の祖のタカミムスヒ(高皇産霊)に献上せよ」といった。…
 
 これらから、かつての皇祖神は、タカミムスヒとみられ(オオヒルメについては、後述)、タカミムスヒは、アメノミナカヌシ・カミムスヒとともに、「日本書紀」神代1段一書第4では、1番目に、高天原で現われ消えた神、「古事記」神代1段では、3番目に、高天原で出現した神です。
 アマテラスが頻出する「古事記」でも、タカミムスヒ(高御産巣日神)は、次のように、アマテラスと一緒に、しばしば登場・命令しています(神代5‐1段に、高木神は、高御産巣日神/タカミムスヒの別名とあります)。
 
・神代5‐1段:高御産巣日神・天照大御神の命 → 八百万の神
・神代5‐1段:高御産巣日神・天照大御神 → 諸の神等
・神代5‐1段:天照大御神・高御産巣日神 → 諸の神等
・神代5‐3段:天照大御神・高木神の命 → タケミカヅチ
・神代6‐1段:天照大御神・高木神の命 → アメノオシホミミ・ニニギ
・神代6‐2段:天照大御神・高木神の命 → アメノウズメ
・神武2段:天照大神・高木神二柱の神の命 → タケミカヅチ
 
 以上より、神代5‐1段までは、タカミムスヒが前だったのが、神代5‐3段からは、アマテラスが前へと変化しており、中心となる神を、入れ替えた形跡ともいえるのではないでしょうか。
 神代5‐1段は、天上での神々が、相談する場面で、神代5‐3段は、タケミカヅチが、オオクニヌシに、国譲りを迫る場面なので、「古事記」では、どうも、天上での命令は、タカミムスヒを前に、地上への命令は、アマテラスを前に、していたとも読み取れます。
 
 そして、「日本書紀」「古事記」で、ニニギを天上から地上へ降臨(天孫降臨)させた神は、次のように、まとめられます。
 
・9段本文:高皇産霊尊
・9段一書第1:天照大神
・9段一書第2:高皇産霊尊+天照大神(2神=天神)
・9段一書第4:高皇産霊尊
・9段一書第6:高皇産霊尊
・神代6‐1段:天照大御神+高木神
 
 このように、天孫降臨の命令は、タカミムスヒが主で、9段一書第2では、タカミムスヒ4回・アマテラス1回の登場なので、タカミムスヒが優勢、9段一書第1では、タカミムスヒが登場せず、神代6‐1段では、前述のように、地上への命令だからか、アマテラスが前になっています。
 ここまでみると、「古事記」は、国内向けの神話、「日本書紀」は、国外向けの国史なので、タカミムスヒは、本来のタカミムスヒと、「日本書紀」で主張したかった一方、「古事記」の途中から、アマテラスに逆転されています。
 
 そのうえ、タカミムスヒは、宮中の八神殿で、カミムスヒ(神産日神)・タマツメムスヒ(玉積産日神)・イクムスヒ(生産日神)・タルムスヒ(足産日神)・オオミヤノメ(大宮売神)・ミケツ(御食津神)・コトシロヌシ(事代主神)とともに、祭祀され、身近な神です。
 一方、アマテラスは、「日本書紀」によると、宮外に遷座させられ、明治天皇(122代)まで、歴代天皇自身が、伊勢神宮を参拝することは、ありませんでした(41代・持統天皇は、持統6/692年3月に、45代・聖武天皇は、天平12/740年11月に、伊勢へ行幸していますが、参拝は、確認されていません)。
 そのかわりに、歴代天皇は、天武天皇(40代)の時代から後醍醐天皇(96代)の時代まで、伊勢神宮から約15kmの距離にある斎宮へ、未婚の女性皇族を、斎王として派遣しましたが、斎王が伊勢神宮に直接参拝するのは、年3度のみで、それ以外は、斎宮から遥拝する程度でした。
 歴代天皇が、未婚の女性皇族を神社に派遣する制度は、伊勢神宮の斎王の他に、上下賀茂神社の斎王(斎院)があり、こちらは、嵯峨天皇(52代)の時代(810年)から後鳥羽天皇(82代)の時代(1221年)まででした。
 ですが、上下賀茂神社へは、平安京の王城鎮護の祈願のため、朱雀天皇(61代)から後醍醐天皇(96代)までの、大半の天皇が、行幸しており、伊勢神宮は、皇祖神に中途採用されたのに、天皇が一切行幸しない、特殊な神社に位置づけられてきました。
 
 よって、この章を総合すると、次のような図式が、成り立ちます。
 
・皇祖=タカミムスヒ(高木神) ⇒ 皇祖=アマテラス
 
(つづく)