律令制下でのアマテラスの皇祖神への中途採用2 | ejiratsu-blog

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(つづき)
 
 
●皇室祭祀からのアプローチ
 
 「日本書紀」に登場する、天皇・皇后・皇太子や、臣下を派遣しての、皇室による神々への祭祀は、次に示す通りで、それらと比較するため、「続日本書紀」も一部、取り上げています。
 なお、学者達の間では、「日本書紀」の文面から、先にα群、後にβ群が、編纂されたと推定されており、α群は、日本的な表現、β群は、中国的な表現に、二分できるそうです。
 
□「日本書紀」
○β群1
・神武即位3年前4月9日:天皇→神祇(天神地祇、天つ神・国つ神)
・神武即位3年前9月5日:天皇→天神地祇=天社国社の神、天皇→諸神、道臣(日臣)命(大伴氏の遠祖)→高皇産霊尊(タカミムスヒ)
・神武4年2月23日:天皇→天神=皇祖天神(タカミムスヒ)
・崇神6年:天皇→天照大神・倭大国魂神、天皇→神祇、豊鍬入姫命→天照大神(斎宮)、渟名城入姫命→倭大国魂神
・崇神7年2月15日:天皇→大物主神
・崇神7年11月13日:大田田根子→大物主大神、市磯長尾市→倭大国魂神、天皇→他神・八十万群神
・崇神9年4月16日:天皇→墨坂神・大坂神
・垂仁25年2月8日:武渟川別(阿倍の臣の遠祖)・彦国葺(和珥の臣の遠祖)・大鹿嶋(中臣の連の遠祖)・十千根(物部の連の遠祖)・武日(大伴の連の遠祖)の五大夫→神祇
・垂仁25年3月10日:倭姫命→天照大神(斎宮)
・垂仁34年3月2日:天皇→祈(誓約、神名不詳)
・景行3年2月1日:屋主忍男武雄心命→群の神祇=神祇
・景行12年10月:天皇→志我神・直入物部神・直入中臣神
・景行18年4月11日:天皇→天神地祇
・景行20年2月4日:五百野皇女→天照大神(斎宮)
・仲哀8年1月1日:天皇→祷祈(神名不詳)
・仲哀8年9月5日:天皇→尽(ことごとく)の神祇
・仲哀9年3月1日:神功皇后→五十鈴宮にいる撞賢木厳之御魂天疎向津媛命・尾田の吾田節の淡郡にいる神・天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神・表筒男・中筒男・底筒男(住吉三神)
・仲哀9年4月3日:皇后→祈(誓約、神名不詳)、皇后→神祇、武内の宿禰→神祇
・仲哀9年9月10日:皇后→大三輪社、皇后・依網吾彦男垂見→神(神名不詳)
・仲哀9年12月14日:穴戸の直践立→表筒男・中筒男・底筒男
・神功元年2月:葉山媛(山背の根子の娘)→天照大神、海上五十狭茅→稚日女尊(ワカヒルメ)、長媛(葉山媛の妹)→事代主尊(コトシロヌシ)、皇后→表筒男・中筒男・底筒男
・神功13年2月8日:太子・武内の宿禰→角鹿(敦賀)の笥飯(気比)大神
・神功47年4月:皇太后・誉田別尊→天神
・応神9年4月:天皇→神祇
・仁徳40年:天皇→新嘗(神名不詳)
・履中5年3月1日:天皇→筑紫にいる三神(宗像三女神)
・履中5年10月11日:天皇→三神(宗像三女神)
・允恭14年9月12日:天皇→淡路の嶋の神
・清寧2年11月:天皇→大嘗(神名不詳)
○α群1
・雄略元年3月[妻子紹介]:稚足姫皇女(栲幡姫皇女)→伊勢大神の祠(斎宮)
・雄略9年2月1日:凡河内の直香賜・采女→胸方神(宗像三女神)
・顕宗3年2月1日:押見の宿禰(壱岐の県主の先祖)→月の神
・顕宗3年4月5日:対馬の下県の直→日の神
・継体元年3月14日[妻子紹介]:荳角皇女→伊勢大神の祠(斎宮)
・欽明2年3月[妻子紹介]:磐隈(夢)皇女→伊勢大神(斎宮)
・欽明13年10月:天皇→天地社稷の百八十神
・敏達6年2月1日:天皇→日祀部
・敏達7年3月5日:菟道皇女→伊勢の祠(斎宮)
・敏達14(585)年9月19日:酢香手姫皇女→伊勢神宮の日神(斎宮)
・用明元年1月1日[妻子紹介]:酢香手姫皇女→日神
・用明2年:天皇→御新嘗(大嘗祭)
○β群2
・推古7年4月27日:四方→地震の神
・推古15年2月15日:皇太子・大臣・百寮→神祇
・舒明11年1月11日:天皇→新嘗
○α群2
・皇極元年8月1日:天皇→四方(雨乞い)
・皇極元年11月16日:天皇→新嘗(大嘗祭)、皇子・大臣→新嘗
・皇極4年1月:異様な音が聞こえたのは、伊勢大神の使い
・皇極4(大化元)年6月19日:孝徳天皇・皇祖母尊(皇極)・皇太子→天神地祇
・大化元年7月14日:倭の漢の直比羅夫→尾張国の神、忌部の首子麻呂→美濃国の神
・斉明5年3月:阿部の臣→蝦夷の地の神
・斉明5年:天皇が、出雲の国造に、神の宮の修造を命令
・天智9年3月9日:天皇→諸神(幣帛)
○β群3
・天武元年6月26日:天皇→天照大神(望拝)
・天武元年6月27日:天皇→天神地祇
・天武元年7月2日:天皇→高市社の事代主神・身狭社の生霊神・村屋神
・天武2年4月14日:身を潔めて神に近づき、天照太神宮に派遣するため、大来皇女を泊瀬の斎宮に居住
・天武2年12月5日:天皇→大嘗
・天武3年10月9日:大来(大伯)皇女→伊勢神宮(斎宮)
・天武4年1月23日:天皇→諸社(幣帛)
・天武4年2月13日:十市皇女・阿閉皇女が、伊勢神宮に参詣
・天武4年4月10日:美濃王・佐伯の連広足→竜田の立野の風神(龍田大社)、間人の連大蓋・曽禰の連韓犬→広瀬の河曲の大忌神(廣瀬大社)(4・7月の年2回で、全・天武19回・持統17回、以下略)
・天武5年夏:四方→諸の神祇(幣帛)
・天武5年10月3日:天皇→諸の神祇(相新嘗、幣帛)
・天武5年11月1日:天皇→新嘗
・天武6年11月21日:天皇→新嘗
・天武7年春:天皇→天神地祇(祓禊)
・天武10年1月2日:天皇→諸の神祇(幣帛)
・天武10年5月11日:天皇→皇祖の御魂
・天武14年11月24日:臣下→招魂
・天武15(朱鳥元)年4月27日:多岐皇女・山背姫王・石川夫人を伊勢神宮に派遣
・天武15年7月5日:天皇→紀伊国の国懸神・飛鳥四社・住吉大神(幣帛)
・天武15年8月9日:臣下→神祇
・天武15年8月13日:秦の忌寸石勝→土左大神(幣帛、計6回)
・天武15年11月16日:伊勢神の祠に奉仕していた大来皇女が、帰還し、京師に到着
・持統4年1月23日:天皇→畿内の天神地祇(幣帛)
・持統4年7月3日:天皇→天神地祇(幣帛)
・持統6年3月6日:天皇が、諫めに従わず、伊勢に行幸
・持統6年3月20日:(天皇の)車駕が、宮に帰還
・持統6年5月17日:大夫・謁者→名山岳涜(河、雨乞い)
・持統6年5月26日:使者→伊勢・大倭・住吉・紀伊の四所の大神(幣帛)
・持統6年12月24日:大夫等→伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足(高御魂神社)の五社(新羅の調を奉納)
・持統6年閏5月13日:伊勢大神が、天皇に、伊勢国の今年の調役を免除されたが、2つの神郡から納めるべき赤引糸35斤は、来年減らすと奏上
・持統6年6月9日:郡国の長史→各名山岳涜
・持統7年4月17日:大夫・謁者→諸社(雨乞い)
・持統7年7月14日:大夫・謁者→諸社(雨乞い)
・持統8年3月22日:天皇→諸社(幣帛)
・持統9年6月3日:大夫・謁者→京師・四畿内の諸社(雨乞い)
・持統11年5月8日:大夫・謁者→諸社(雨乞い)
・持統11年6月19日:天皇→神祇(幣帛、計5回)
・持統11年6月28日:大夫・謁者→諸社(雨乞い、計6回)
 
□「続日本紀」
・文武2(698)年9月10日:当耆(多岐)皇女→伊勢(斎宮)
・文武2年12月29日:多気大神宮を度会郡に遷宮(伊勢大神宮)
・文武3(699)年8月8日:南嶋(種子島・屋久島・奄美大島・徳之島)の貢物を伊勢大神宮・諸社に奉献
・大宝元(701)年2月16日:泉内親王→伊勢(斎宮)
・大宝2(702)年2月16日:使者が大木を伊勢大神宮に奉献
・大宝2年7月8日:伊勢大神宮の封物は、神の御品なので、神事に供えるので、みだりに穢さないよう命令
・大宝2年8月28日:伊勢大神宮の衣服料に、神戸の調を使用
・慶雲元(704)年11月8日:忌部の宿禰子首を派遣し、伊勢大神宮に幣帛・鳳凰模様の鏡・鳥の巣模様の錦を提供
・慶雲3(706)年閏1月13日:新羅からの貢物を伊勢大神宮・七道の諸社に奉献
・慶雲3年閏1月28日:泉内親王が、伊勢大神宮に参詣
・慶雲3年8月29日:田形内親王→伊勢大神宮(斎宮)
・慶雲3年12月6日:多紀(当耆)内親王が、伊勢大神宮に参詣
・和銅元(708)年10月2日:宮内卿・犬上王を派遣し、伊勢大神宮に幣帛を奉献し、平城宮の造営を報告
・養老元(717)年4月6日:久勢女王→伊勢大神宮(斎宮)
・養老5(721)年9月11日:井上内親王→伊勢大神宮(斎宮)+使者を派遣し、幣帛を奉献
・神亀4(727)年9月3日:井上内親王→伊勢大神宮(斎宮)
・天平元(729)年4月3日:毎年伊勢神の調の絁(あしぎぬ)300疋を分け取り、神祇官に任命された中臣の朝臣等に分与
・天平2(730)年閏6月11日:伊勢大神宮に幣帛するのは、五位以上の占いで選ばれた者とし、六位以下は禁止
・天平9(737)年4月1日:使者が、伊勢神宮・大神社(大神神社)・筑紫の住吉・八幡二社・香椎宮に幣帛し、新羅国の無礼を報告
・天平10(738)年5月24日:右大臣・橘の宿禰諸兄+神祇伯・中臣の朝臣名代+右少弁・紀の朝臣宇美+陰陽頭・高麦太を派遣し、伊勢大神宮に神宝を奉献
・天平12(740)年9月11日:治部卿・三原王等を派遣し、伊勢大神宮に幣帛を奉献
・天平13(741)年1月11日:伊勢大神宮・七道の諸社に、使者を派遣し、幣帛を奉献、新京(恭仁京)への遷都を報告
 
※下線:伊勢関連
 
 以上より、まず、「日本書紀」を全体的にみると、歴代天皇は、天上の神(天つ神)・地上の神(国つ神)の祭祀(天神地祇=神祇)を、基本にしており、アマテラスや伊勢神宮の祭祀に、あまり特化していないことがわかります。
 つぎに、伊勢関連を個別的にみると、先のα群は、伊勢の大神(おおかみ)とその祠が、後のβ群は、アマテラスと伊勢神宮が、ほとんどです。
 なので、祭神は、伊勢の大神からアマテラスへ、施設・祭祀は、伊勢の大神の祠(やしろ・まつり)から伊勢神宮へと、変化したとみるのが、自然で、それが、「続日本紀」での伊勢大神宮へと、つながっています。
 つまり、かつては、祠(ほこら)程度で、伊勢の大神が祭神だったのが、途中で、伊勢神宮が整備され、アマテラスが祭神になったと推測できます。
 
 そうなると、β群1の、崇神の娘のトヨスキイリヒメ・垂仁の娘のヤマトヒメ・景行の娘のイオノノヒメの3人は、アマテラスを祭祀していなかったと導き出せ、後世に整備された伊勢神宮が、古来より存在していたと、捏造されたことになります。
 また、β群1の、神功元年2月で、アマテラスは、ワカヒルメ(神代7段一書第1にも登場)・コトシロヌシ(オオクニヌシの子)とともに、地方神として、取り扱われているので、ワカサザキとオオサザキのように、ワカヒルメと対比させていたオオヒルメを、アマテラスに改変したと推測できます。
 一方、α群1の、伊勢の大神を祭祀した、雄略の娘のワカタラシヒメ・継体の娘のササゲノヒメ・欽明の娘のイワクマノヒメ・敏達の娘のウジノヒメ・用明の娘のスカテヒメの5人から、β群3の、伊勢神宮を祭祀した、天武の娘のオオクノヒメまで、52年間(=89-27)も空白があり、不自然です。
 そのうえ、敏達14年9月19日の注には、次のように、日神が2度登場し、用明元年1月1日にも、スカテヒメは、天皇3代(用明→崇峻→推古)の間、日神に奉仕したとありますが、そこでの伊勢神宮の記載は、一切ありません。
 
-この皇女(スカテヒメ)は、この(用明)天皇の時代から推古天皇の時代まで、日神を祭祀・奉仕した。そののち、自分から引退し、葛城で隠居・死去した。推古紀にみえる。ある本によると、(この皇女は、)37年間も日神を祭祀・奉仕し、自分から引退し、死去したとある。
 
 それなら、敏達14年9月19日の本文は、「(天皇が)スカテヒメに、伊勢神宮を参拝し、日神を祭祀・奉仕するよう、命令した」となっていますが、後世に伊勢神宮を、書き加えたとみられます。
 さらに、α群1のワカタラシヒメ・イワクマノヒメ・ウジノヒメの3人には、伊勢に赴任していれば、そのようにはならない記事が散見できます。
 雄略3年4月に、ワカタラシヒメは、妊娠させられたとの噂から、自害に追い込まれており、欽明2年3月に、イワクマノヒメは、異母兄弟の茨城皇子に強姦され、斎王を解任、敏達7年3月5日に、ウジノヒメは、池辺皇子(のちの用明)に強姦されたのが発覚し、斎王を解任されています。
 ササゲノヒメも、継体元年2月4日に、父の継体天皇が即位しても、皇宮は、河内・山城を転々とし、継体20年9月13日に、ようやく大和へ入京でき、継体25年2月7日に死去しており、政権が安定しなかったようなので、彼女も伊勢に赴任したとは、とても想像できません。
 
 このように、α群1の5人は、伊勢赴任が疑問なうえ、β群1の3人も、アマテラスを祭祀していなかったとなると、伊勢神宮が整備され、アマテラスが祭神となったのは、β群3の天武・持統の2天皇夫婦の時代以降となります。
 そうであれば、それ以前の伊勢の大神は、地方神にすぎなかったのを、伊勢神宮と結び付け、アマテラスを皇祖神として、中途採用したといえます。
 ただし、オオクノヒメは、天武3年10月9日に、斎王として伊勢(伊勢神宮と記載)に赴任しましたが、天武15年9月9日に、天武天皇が死去すると、天武15年11月16日に、伊勢(伊勢神の祠と記載)から帰還しており、次の持統天皇の時代には、伊勢に斎王が派遣されていません。
 派遣されたのは、文武天皇への譲位後の、文武2年9月10日で、父の病気治癒祈願のため、天武15年4月27日に、伊勢参拝の経験がある、天武の娘のタキノヒメが、斎宮として伊勢に赴任し、その同年12月29日に、多気大神宮が度会郡に遷宮されました。
 この遷宮先が、現在地の伊勢神宮と推測でき、「続日本紀」に登場する、伊勢大神宮につながっていきます。
 
 よって、この章を総合すると、次のような図式が、成り立ちます。
 
・伊勢の大神の祠 ⇒ アマテラスの伊勢神宮(伊勢大神宮)
 
(つづく)