方位軸 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

●世界(中国)の南北軸
 
 北極星(大極星)は天体で唯一不動なので、宇宙の中心とされ、古代世界の大半の国王は、その不動性を絶対的な最高の権威にして国家を統治しようと、南北軸を基準に象徴的な施設(日本では大極殿)を造営しており、それは仏教寺院でも取り入れられました。
 特に中国では天の命令で、天子(皇帝)としてふさわしい有徳者に、天下(国家)の統治を委任するとされ、もし皇帝が悪政をすれば、その国家を滅亡させ、別にふさわしい有徳者を選定して建国を命令するという天命思想があり、これが王朝交代の根拠とされています(易姓/えきせい革命)。
 そして、古来より天上では、北極星が天帝とされ、北極星を中心に回転している星々は官僚のようなもので、地上では、「天子は南面し、臣下は北面す」といわれ、それを具体化してきました。
 こうして、中国・唐の長安城では北方中央に皇帝の宮殿が配置され、そこから南方へ一直線の主要道路が縦貫し、街区は東西対称の碁盤目状で、矩形状の外周には外敵防御のため、城壁と城門が設置されました。
 
 余談ですが、日本での「天皇」という呼称は、中国の道教で北極星を神格化した「天皇大帝(てんのうたいてい)」に由来するとみるのが定説ですが、天皇は天つ神で太陽の女神・アマテラスの子孫とされているので、道教や北極星とのかかわりは皆無です。
 「天皇」「皇后」「皇太子」の地位・称号を制定したのは、天武天皇(40代)の時代とされ(「天皇」だけは38代・天智天皇の時代ともいわれています)、これらは中国王朝の皇帝・皇后・皇太子の称号を意識し、朝鮮半島諸国の王・妃・太子(世子/せいし)の称号より、日本は格上だと強調するためだったようです。
 吉野から脱出した大海人皇子は迹太川(とおがわ、現・三重県四日市市)のほとりで伊勢神宮の祭神・アマテラスを遥拝し、壬申の乱後に天武天皇として即位すると、未婚の娘を伊勢神宮に派遣、アマテラスに奉仕させ、伊勢神宮を最重要視するようになりました。
 そのうえ、「日本」という国号も天武天皇の時代からで、そこには天で光り輝く日の直下にある国という意味が集約されており、天の南北軸=北極星でなく、天の東西軸=太陽の運行が重ね合わされたといえるのではないでしょうか。
 
   ▽長安
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   ▽洛陽
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   ▽「周礼」考工記
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●日本の東西軸
 
 日本で南北軸が移入されはじめたのは、飛鳥期の仏寺建立(33代・推古天皇の時代)から藤原京造営(40代・天武・41代・持統天皇の時代)にかけてで、それ以前は不動の北極星は「死」、絶え間なく動き続ける太陽は「生」なので、日の出・日の入に関係する東西軸を基準にしていたようです。
 例えば、大和政権の本拠地だった奈良盆地の、多(おお)神社では春分・秋分に、石見鏡作(いしみかがみつくり)神社では冬至に、神武天皇(初代)陵・畝傍山(うねびやま)では夏至に、三輪山頂からの日の出がみられるように計画したそうです。
 春分・秋分、夏至、冬至の3つの東西軸は、太陽の運行をもとに、自然暦として活用されていたようで(太陽暦)、稲作の田植え・稲刈り等の作業日程に暦は必要ですが、6世紀頃の欽明天皇(29代)の時代に百済から、当時中国の太陰太陽暦(元嘉/げんか暦)が伝来したとされています。
 三輪山は、大神(おおみわ)神社の御神体で、大神神社はオオモノヌシが主祭神で、記紀神話ではオオクニヌシと国作りしていたスクナヒコナが海の彼方へ去ると、海原を輝き照らしてオオモノヌシが出現し、自分を大和の三輪山に祀れば、一緒に国作りするといったので、そうしました。
 実際でも三輪山麓には、10代・崇神、11代・垂仁、12代・景行の3天皇の王宮、10代・崇神、12代・景行の2天皇の王墓が立地していたとされ、大和政権初期の中心地だったようです。
 多神社は、神武天皇の長男・カンヤイミミが主祭神で、カンヤイミミと同母弟は異母兄・タギシミミに殺害されそうになり、弟がタギシミミを殺害したので、弟が皇位継承(2代・綏靖天皇)、カンヤイミミは皇室離脱し、天皇を補佐する氏族になったとされ(多氏/おおうじ)、多氏の氏神です。
 石見鏡作神社は、崇神天皇(10代)の時代に試作鋳造された神鏡のアマテルクニテルヒコホアカリ、アマテラスの天岩戸隠れの際に八咫鏡(やたのかがみ)を作ったイシコリドメ、鏡作連(むらじ)の始祖でイシコリドメの父・アメノヌカドの三神が祭神で、鏡作部(べ、技術集団)の氏神です。
 畝傍山の周囲には、神武天皇陵だけでなく、2代・綏靖(神武の子)・3代・安寧(綏靖の子)・4代・懿徳(安寧の子)の4天皇陵や、4世紀末から造営された新沢千塚古墳群も立地しています(ただし、初代から9代までの天皇は、実在性が疑問視されています)。
 これらを考え合わせると、大和政権初期の中心として信仰されていた三輪山に対して、日の出の春分・秋分の位置に、天皇を補佐する最古の氏族とされる多氏の拠点、日射の最も弱い冬至の位置に、生命力のある神鏡、日射の最も強い夏至の位置に、生命力ない墳墓が立地していることがわかります。
 つまり、3つの東西軸ともに対比・補完関係にあり、そこから自然は循環するという摂理のように、二項を巡回させることで、自然と一体化しようとする意図が読み取れるのではないでしょうか。 
 
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●日本の南北軸
 
 物部氏と蘇我氏との対立・抗争が物部氏本家の滅亡で決着すると(587年)、まず建築レベルでは、蘇我馬子による飛鳥寺・聖徳太子(厩戸皇子)による四天王寺等、大王(天皇)家や豪族達は、配置の方向に法則性がない古墳にかわって、南北軸を中心とする伽藍配置の仏寺建立がさかんになりました。
 それとともに、以前は天皇の即位や火災焼失にともない、王宮を頻繁に移転していましたが、推古天皇(33代)の時代から飛鳥地方に定着するようになり、飛鳥小墾田宮(おはりだのみや)では中国の王宮由来の、南北軸を中心とする構成が取り入れられています。
 小墾田宮では、天皇がいる北側(大殿)と、役人が政務したり使者が接見する南側に区画され、東西対称形に配置された庁舎の中庭(朝庭/ちょうてい=朝廷)で儀礼するため、天皇は中央北方(大門)から、使者は中央南方(南門)から出入りし、この形式はこれ以降の王宮の原型になりました。
 天武天皇(40代、大海人皇子)の時代には、全国各地の祭祀施設のうち、有力なものを国家が格付けし、大和政権の特別な神々として奉仕、伊勢神宮・出雲大社等はこの時期に常設で社殿化されたようで、それらの神社は仏寺の伽藍配置のように、南北軸を中心とした東西対称の形式が取り入れられています。
 ですが、日本の宮殿や仏寺・神社等では、完全な東西対称形はほとんどなく、あえてそれをくずす傾向にあり、固定的・不変は「死」、流動的・変化は「生」という認識は近世まで継承されていたといえます。
 
   ▽仏寺の伽藍
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   ▽飛鳥小墾田宮
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   ▽伊勢神宮内宮・外宮
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   ▽出雲大社
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 つぎに都市レベルでは、天武・持統天皇(41代)の時代には奈良盆地南部に藤原京が造営され、元明天皇(43代)の時代には奈良盆地北部の平城京に遷都し、桓武天皇(50代)の時代には京都盆地北部の平安京に遷都、いずれも南北軸を中心とした構成です。
 ただし、藤原京は、中国・儒教の経典「周礼」(しゅうらい)考工記(こうこうき、技術書)のモデルや、中国・北魏の洛陽城を手本にしたともいわれ、同心円的な構成がみられます。
 他方、平城京や平安京は、唐の長安城を手本にしたともいわれ、「天子は南面し、臣下は北面す」の構成で、北・東・西の三方を山に取り囲まれ、南の一方へ空け放たれた緩斜面となっています。
 藤原京は碁盤目状の街区内に大和三山等が取り込まれ、平城京も西側では山麓の地形にもかかわらず、碁盤目状の街区が設定され、北西側では右京北辺、東側では外京(げきょう)を張り出し、平城宮の東院も張り出す東西非対称形で、平安京でやっと地形に影響されない純粋な東西対称形に落ち着きます。
 日本の古代都城の碁盤目状街区は、皇族・貴族等(役人)へ宅地分与しやすく、城壁がないので、四周へと自由に拡張できるのが利点ですが、東西対称形の平安京でさえ、南西部の桂川周辺では宅地化が進行せず、京内禁止の農地にも転用されており、人為の理念は自然の摂理に駆逐されました。
 つまり、日本の碁盤目状街区は、中国のように、城壁で区画して完結した世界を構築するのではなく、近代の計画都市(植民都市等)のように、当初の設定という位置づけだったようで、局所としての王宮の権威性を保持しつつ、総体としての都城の完結性は放棄したといえます。
 
   ▽藤原京
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   ▽藤原宮
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   ▽平城京
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   ▽平城宮
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   ▽藤原京と平城京の関係
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   ▽平安京
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 そうなると、藤原京は東西軸から南北軸への過渡期とみることができ、奈良盆地では7世紀半ばの孝徳天皇(36代)の時代から東西方向の横大路の直線道路と直交するように、南北方向に東から西へと等間隔で上ツ道・中ツ道・下ツ道の直線道路が敷設され、それらは藤原京を基準に配置されています。
 中大兄皇子(のちの38代・天智天皇)らが大化の改新(645年)で蘇我入鹿を殺害し、蘇我氏本家が滅亡すると、その同年に中大兄皇子の擁立で孝徳天皇が即位し、その7年後に難波長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)へ遷都しました。
 しかし、その翌年(653年)には天皇以外の中大兄皇子ら大半の皇族・豪族等は飛鳥へ再度移り住んでおり、その同年に上ツ道・中ツ道・下ツ道の工事が着工され、壬申の乱(672年)で使用されたと「日本書紀」に記述があるので、それ以前には完成していたようです。
 一方、横大路(大道)は、竹内街道(丹比道/たじひみち)とともに、難波と飛鳥を往来するための主要道路で、推古天皇(33代)の時代(613年)に敷設されたとの記述が「日本書紀」にあり(日本最古の官道)、当時の直線道路は外国からの使者を接待する際、文化の後進国でないことを理解してもらうための整備だったのでしょう。
 横大路の沿道には、古市古墳群・百舌鳥(もず)古墳群や礒長谷(しながだに)古墳群が分布していますが、礒長谷古墳群は、30代・敏達(29代・欽明天皇の次男)、31代・用明(欽明の四男)、33代・推古(欽明の娘で敏達の皇后)、36代・考徳(敏達の孫)の4天皇陵と聖徳太子(用明の次男)廟等からなります。
 用明天皇の時代から蘇我氏が最有力の豪族になり、天皇の古墳も小型化、蘇我氏由来の方墳へ変化しましたが、ここで注意したいのは、奈良盆地の南西側にある二上(ふたかみ)山麓の礒長谷古墳群が、大和政権の本拠地の飛鳥からみると、仏教で極楽浄土があるとされる西方に位置していることです。
 大和政権は、重要視しなくなった古墳も仏教と関連づけ、奈良盆地の南東側にある三輪山は「生」、南西側にある二上山は「死」と対比させています。
 藤原京では、東側の中ツ道、西側の下ツ道、北側の横大路、南側の上ツ道が延長されて南北から東西へと方向転換した安倍・山田道を基準に、碁盤目状の街区が設定されており、王宮(藤原宮)は北方の耳成山、南東方の香具山、南西方の畝傍(うねび)山の三角形のほぼ中央に立地させました。
 碁盤目状街区が地形に影響するにもかかわらず、大和三山に取り囲まれるよう、藤原京を配置したのは、大和三山の呪力・霊力を期待したからで、当時はまだ対称形は不自然で「死」、非対称形は自然で「生」と認識され、中国由来の対称形と、日本由来の非対称形の折り合いをつけようとしたのではないでしょうか。
 ちなみに、持統天皇は実質政務期間11年間で31回も飛鳥(飛鳥浄御原宮/きよみはらのみや・藤原宮)から吉野離宮へ頻繁に遠出しており(譲位から死没までの5年間では、わずか1回です)、神聖な自然の中で、自分の神性を回復し、政治に投入していたようです。
 固定化された都城内・王宮内での政務や生活に明け暮れると(ケ)、しだいに精気・生気が衰微するので(気が枯れる→けがれる)、精気・生気を取り戻すために遠出しており(ハレ)、それは仮死→再生=復活の儀式でもありました(女帝は巫女的な役割も兼ね備えた存在でした)。
 吉野は、天智天皇(38代)の死没直前に、弟の大海人皇子(のちの天武天皇)が出家を口実に脱出した場所で(671年)、壬申の乱後に天武天皇夫婦(妻はのちの持統天皇)は子供らと、次男の草壁皇子を次期天皇とし(のちに若死)、他の子供達は助け合い、争い合わないよう宣誓させた場所でもあります(679年)。
 また、東側の香具山は、古来より天から神が降臨する山と神聖視され、舒明天皇(34代)がその山頂から人々の生活を見渡して(国見)歌に詠み上げている一方、西側の畝傍山は、山麓に初代から4代までの天皇陵や古墳群が立地しています(前述)。
 よって、ここから香具山は「生」、畝傍山は「死」と対比でき、万葉集では耳成山が読み込まれた歌はわずか4首で(単独の歌は1首のみ)、関心が低く、畝傍山7首、香具山15首と、西より東の香具山の関心が高いことがわかります。
 ついでながら、万葉集で東の三輪山は24首、西の二上山は5首、歌に読み込まれており、こちらでも東が西を圧倒し、香具山‐畝傍山、三輪山‐二上山の東西軸が意識されていたといえるのではないでしょうか。
 さらに、藤原宮から中央南方への主要道路(朱雀大路)の延長線上には、天武(40代、34代・舒明天皇と35/37代・皇極/斉明天皇の子)・持統(41代、38代・天智天皇の娘で天武の皇后)夫婦の天皇陵や、文武天皇(42代、天武の孫)陵が配置され、その南方には天武・持統夫婦ゆかりの吉野山があります。
 こちらは南北軸が意識されているといえ、天皇の遠出は奈良期までは吉野、平安期からは熊野となり、吉野は神聖な世界、熊野は死後の世界とされ、そこから帰還することで、精気・生気を回復し、生まれ変わろうとしたようです。
 藤原京(694年)から平城京(710年)へ短期で遷都した理由は、藤原京が遣唐使中断の時期に同心円的な構成で造営しましたが、遣唐使の再開で長安の王宮が都城の北方中央に配置されているのが判明し、すぐに一致させるためだったようです。
 平城京は、下ツ道を北方に延長して朱雀大路とし、中ツ道の北方への延長が左京の東端になるよう、東西対称形で右京の西端を確定、その結果として生駒山地の山麓が碁盤目状の街区に食い込むことになっています。
 平安京は、北側の船岡山、北西側の双ヶ丘、南西側の桂川、東側の鴨川・吉田山で限定したので、東西対称形がはじめて実現でき、四神相応(しじんそうおう)の思想(北=玄武に山=船岡山、南=朱雀に池=巨椋池/おぐらいけ、東=青龍に川=鴨川、西=白虎に道=山陽道・山陰道)に合致しています。
 そして、京内の皇族・貴族の邸宅(寝殿造)も、北・東・西の三方を山に取り囲まれ、南の一方へ空け放たれた平安京の立地と同様、北・東・西の三方を建物で取り囲み、南の一方を庭園へと空け放たれた構成で、理念は都市と建築は入れ子構造でしたが、実際は寝殿造でも東西非対称が主流でした。
 
 このように、都市レベルでは、東西軸が南北軸に圧倒されましたが、建築レベルでは、絶え間なく動き続け、永遠不死不滅とされる太陽信仰は生き残っています。
 特に仏寺では、日が昇る東方の瑠璃光浄土にいるとされる薬師如来信仰には現世利益、日が沈む西方の極楽浄土にいるとされる阿弥陀如来信仰には来世利益と、対比させるようになりました。
 藤原道長による法成寺(現存せず)では、北側に南向きで宇宙の根元とされる密教最高仏・大日如来を安置した金堂、東側に西向きで薬師堂、西側に東向きで阿弥陀堂が対面、浄瑠璃寺(京都府木津川市)では、東側に西向きで薬師如来の三重塔、西側に東向きで阿弥陀如来の本堂が対面しています。
 東西のうち、片方のみ採用することもあり、法界寺(京都市)では、東側に西向きで薬師如来、平等院鳳凰堂(京都府宇治市)・浄土寺浄土堂(兵庫県小野市)では、西側に東向きで阿弥陀如来が安置され、若干ですが東西軸が受け継がれています(ただし、薬師如来の大半は北側に南向きです)。
 
   ▽法成寺
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   ▽浄瑠璃寺
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