歴代天皇が伊勢神宮に参拝しなかった理由の考察 | ejiratsu-blog

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 歴代天皇は長年、伊勢神宮に参拝しなかった歴史があり、最初に現役の天皇が参拝したのは、明治2(1869)年の明治天皇(122代)で、持統天皇(41代)は、持統6(692)年3月に、聖武天皇(45代)は、天平12(740)年11月に、伊勢へ行幸しましたが、神宮への参拝は、確認されていません。
 「日本書紀」によると、かつてアマテラスは、天皇の宮殿で祭祀されていましたが、崇神6年には、崇神天皇(10代)が、神威が強力で同居が不安なため、娘のトヨスキイリヒメに祭祀を委託し、大和・笠縫邑(かさぬいむら、所在不明)へ遷宮、堅固な石の区画の神籬(ひもろぎ)を造営しました。
 垂仁25年3月10日には、垂仁天皇(11代)が、トヨスキイリヒメを交代させ、娘のヤマトヒメに祭祀を委託し、アマテラスの理想的な遷座地を追い求め、大和の宇陀から近江・美濃を巡行、伊勢に落ち着き、祠(ほこら)を設置し、五十鈴川の畔に斎王の宮殿(磯宮/いそのみや)を建立したとあります。
 これらが、伊勢神宮・内宮と斎宮の前身ですが、ここでは、「神威が強力で同居が不安だった」という以外の、歴代天皇が伊勢神宮に参拝しなかった理由を、考えてみたいと思います。
 
 
●律令制下
 
 「続日本紀」によると、文武2(698)年9月10日に、天武天皇(40代)の娘・タキノヒメ(父の病気治癒祈願のため、天武15年4月27日に、伊勢参拝の経験あり)が、斎宮として、伊勢に派遣・奉仕し、その同年12月29日に、多気大神宮が、度会郡に遷宮されました。
 この遷宮先が、現在地の伊勢神宮とみられるので、律令制を確立しようとする同時期に、伊勢神宮が整備され、アマテラスを祭神とし、大宝元(701)年8月3日に完成した大宝律令で、伊勢神宮を諸国の神社の最高位に格付されています。
 そして、日本の古代律令制は、政治部門の太政官と、祭祀部門の神祇官が、各々独立した最高機関で(二官八省制)、天皇は、その双方から超越した存在に位置づけられています。
 なので、もし、天皇が伊勢神宮に参拝すれば、神祇官の傘下の頂点である、伊勢神宮のもとに組み込まれ、神祇官‐伊勢神宮‐天皇‐太政官‐…の序列になったとも、受け取られかねないので、斎王による代理参拝としたのではないでしょうか。
 上古・古代の天皇が、特定の神だけに固執せず、天上・地上の大勢(八百万/やおよろず)の神々を広範に祭祀したのは(天神地祇)、不特定多数にしておくことで、神より天皇の権威が優越できるからとされています。
 よって、歴代天皇は、超越的な地位を維持するため、未婚の女性皇族を神社に派遣する、斎王制度を採用したとみられ、斎王は、伊勢神宮(斎宮)と、上下賀茂神社(斎院)があります。
 
   ▽古代の官制
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○伊勢神宮の斎宮制度
 現在地の伊勢神宮の斎王は、飛鳥後期の文武天皇(42代)の時代から、南北朝期の後醍醐天皇(96代)の時代まで継続し、斎王が生活する斎宮は、神宮から約15kmの距離にある、伊勢国多気郡(現・三重県明和町)にあり、平安京と同様、側溝付道路で碁盤目状に区画された都市が形成されていました。
 斎王が伊勢神宮に参拝するのは、6・12月の月次(つきなみ)祭と、9月の神嘗(かんなめ)祭の、年3度のみで、しかも、斎王が伊勢神宮の祭祀を主宰するわけでなく、普段は斎王の宮殿で遥拝する程度なので、アマテラスは皇祖神なのに、天皇や斎王にとって、近くて遠い微妙な存在です。
 この他に、斎宮の役所(斎宮寮)は、2月の祈年祭と11月の新嘗祭に、伊勢神宮領内の115座の神々へ、幣帛(へいはく、食物以外の供物)を分配しました。
 
○賀茂神社の斎院制度
 上下賀茂神社の斎王は、伊勢神宮を手本とし、平安初期の嵯峨天皇(52代)の時代(平城太上天皇の変・810年)から、鎌倉前期の後鳥羽天皇(82代)の時代(承久の乱・1221年)まで継続し、斎王が生活する斎院は、山城国愛宕(おたぎ)郡紫野(現・京都市北区)にありました。
 嵯峨天皇が、兄の平城上皇(51代)と平城京への再度遷都をめぐって対立した際、上下賀茂神社の祭神・賀茂の大神(おおかみ)に勝利を祈願し、それが成就したのがきっかけで、それ以降、平安京の守護神となりました。
 伊勢の斎宮と賀茂の斎宮の両方が存続していた時期には、遠い伊勢よりも、近い賀茂のほうが、重視されていたようで、比較的、生母の出自が高く、赴任の期間も長い傾向にあります。
 こちらの斎王は、4月の賀茂祭(現・葵祭/あおいまつり)を主宰しており、斎院は、平安京に近接する位置にあったので、貴族仲間がしばしば訪問・社交し、女流文学が生み出されました。
 
 
●律令制が形骸化する発端からの神社行幸
 
 神祇官制の変遷を簡単にまとめると、奈良期までの天武系は、比較的、神に近い天皇なので、全国の有力神社(官社)へ国家的に介入し、平安前期からの天智系は、人に近い天皇なので、中央の有力神社(官幣社)に限定・合理化していき、平安中期には、特定の神社へ個別的に介入するようになりました。
 そうなったのは、10世紀前半に、古代律令制が変容した影響とみられ、朝廷は、醍醐天皇(60代)の時代まで、中央集権(公地公民)を立て直そうとしましたが、朱雀天皇(61代)の時代から、中央集権を断念し、諸国の国司には、朝廷に一定額を納付すれば、国司の裁量で徴税するのを容認しました。
 すると、国司達は、戸籍調査・作成等の管理が煩雑な、個人への課税から、管理の容易な、土地への課税へ転換したので、これ以降、しだいに律令制が形骸化していき、地方分権へと移行(王朝国家制→荘園公領制)、これとほぼ同時期から、大半の天皇が、京都近郊の神社を行幸するようになっています。
 朱雀天皇は、平将門の乱(939-940年)・藤原純友の乱(939-941年)平定の感謝のため、天慶5(942)年4月29日に、平安京の守護神とされていた、賀茂の大神が祭神の上下賀茂神社に行幸しており、これが最初の現役の天皇による神社行幸といわれています。
 これをきっかけに、10世紀後半・円融天皇(64代)の3社→一条天皇(66代)の7社→11世紀後半・後三条天皇(71代)の10社と、神社行幸数が拡大していきました。
 ただし、神社行幸しても、天皇が直接参拝するのではなく、神前から多少距離のある御殿から使者を派遣した代理参拝で、即位前の皇太子や譲位後の上皇ならば、神前で参拝できました(伊勢神宮でも)。
 しかし、13世紀前半・承久の乱での朝廷の敗北と、皇室の持明院統と大覚寺統の分裂・対立(両統迭立)で、神社行幸数もしだいに減少していき、14世紀前半・後醍醐天皇(96代)の6社が最後です。
 南北朝の動乱になると、北朝の天皇は、引き籠もり、南朝の天皇は、動き廻り、南北朝合一以降、歴代天皇は、ほとんど行幸しなくなりました。
 
 朱雀天皇から後醍醐天皇までの神社行幸は、以下に示す通りです。
 なお、石清水八幡宮(京都府八幡市)の祭神は、応神天皇(15代)、春日大社(奈良市)・大原野神社(京都市、長岡京遷都の際に、春日大社から分祀)の祭神は、藤原氏の氏神で、藤原氏は、天皇の外戚(母方の家族)になり、摂関政治を主導しました。
 平野神社の祭神は、桓武天皇(50代)の生母・高野新笠(にいかさ、百済系氏族)の祖先神とされ、平安京遷都の際に、大和国から移転させたようで、新笠の夫+子の光仁(49代)・桓武の2天皇は、天武系が断絶し、天智系へと転換した、始祖といえます。
 
‐61代・朱雀=1社:上下賀茂神社
‐62代・村上
‐63代・冷泉
‐64代・円融=3社:石清水八幡宮・賀茂・平野神社
‐65代・花山
‐66代・一条=7社:石清水・賀茂・春日大社・平野・大原野神社・松尾大社・北野天満宮
‐67代・三条=2社:石清水・賀茂
‐68代・後一条=7社:石清水・賀茂・春日・平野・大原野・松尾・北野
‐69代・後朱雀=7社:石清水・賀茂・春日・平野・北野・大原野・松尾
‐70代・後冷泉=7社:石清水・賀茂・春日・平野・大原野・松尾・北野
‐71代・後三条=10社:石清水・賀茂・春日・平野・北野・大原野・松尾・日吉大社・伏見稲荷大社・八坂神社
‐72代・白河=10社:石清水・賀茂・春日・平野・大原野・松尾・北野・日吉・伏見・八坂
‐73代・堀河=10社:石清水・賀茂・春日・平野・大原野・松尾・北野・日吉・伏見・八坂
‐74代・鳥羽=10社:石清水・賀茂・春日・平野・大原野・松尾・北野・日吉・伏見・八坂
‐75代・崇徳=10社:石清水・賀茂・春日・平野・大原野・松尾・北野・日吉・伏見・八坂
‐76代・近衛=10社:石清水・賀茂・春日・平野・大原野・松尾・北野・日吉・伏見・八坂
‐77代・後白河=3社:石清水・賀茂・春日
‐78代・二条=10社:石清水・賀茂・春日・平野・大原野・松尾・北野・日吉・伏見・八坂
‐79代・六条
‐80代・高倉=10社:石清水・賀茂・春日・平野・大原野・松尾・北野・日吉・伏見・八坂
‐81代・安徳
‐82代・後鳥羽=10社:石清水・賀茂・春日・平野・大原野・松尾・北野・日吉・伏見・八坂
‐83代・土御門=3社:石清水・賀茂・春日
‐84代・順徳=10社:石清水・賀茂・春日・平野・大原野・松尾・北野・日吉・伏見・八坂
‐85代・仲恭
‐86代・後堀河=5社:石清水・賀茂・春日・平野・北野
‐87代・四条=5社:石清水・賀茂・春日・平野・大原野
‐88代・後嵯峨=3社:石清水・賀茂・春日
‐89代・後深草=3社:石清水・賀茂・春日
‐90代・亀山=3社:石清水・賀茂・春日
‐91代・後宇多=3社:石清水・賀茂・春日
‐92代・伏見=2社:石清水・賀茂
‐93代・後伏見
‐94代・後二条
‐95代・花園
‐96代・後醍醐=6社:石清水・賀茂・春日・日吉・平野・北野
 
‐121代・孝明=2社:賀茂・石清水
 
‐122代・明治:伊勢神宮4度
‐123代・大正:伊勢1度
‐124代・昭和:伊勢11度
 
※下線:摂関政治
 
 
●幕末の神社行幸の復活
 
 天皇の神社行幸が復活したのは、幕末の孝明天皇(121代)で、かれは、攘夷祈願のため、上下賀茂神社(文久3/1863年3月11日)・石清水八幡宮(同年4月11日)に行幸し、直接参拝しており、その際、徳川家茂(いえもち、14代将軍)・藩主等の武家や、関白・大臣等の公家も、随行させています。
 孝明天皇は、開港・領事の設置や、船舶への燃料・食料の提供等の、日米和親条約(1854年)は、容認した一方、領事裁判権あり・関税自主権なし等の不平等な日米修好通商条約(1858年)は、断固拒絶しましたが、尊皇攘夷・公武合体のための賀茂・石清水への神社行幸は、不本意だったようです。
 そののちには、孝明天皇の神武天皇陵・春日大社・伊勢神宮参拝も、計画されていたようですが、八月十八日の政変(1863年)で、攘夷派が京都から追放され、参拝計画も中止になり、しだいに討幕派が優勢になっていき、孝明天皇は、慶応2年12月25日(1867年1月30日)に37歳で急死しました。
 孝明天皇の神社直接参拝は、これまでの慣習を打ち破った出来事といえ、これは、明治天皇(122代)以降も、行幸先の神社直接参拝等で、引き継がれていきます。
 
 
●近代天皇の伊勢神宮参拝
 
 慶応3年10月14日(1867年11月9日)に、徳川慶喜(よしのぶ、15代将軍)の大政奉還で、江戸幕府が政権を返上し、王政復古の大号令で、太政官・神祇官や摂政・関白等が廃止され、維新政府が樹立されると、形骸化しつつも存続していた古代律令制が、ようやく廃絶されました。
 しかし、当初は、国家機関が、慶応3(1867)年12月9日に、三職制(総裁・議定・参与)、慶応4(1868)年1月17日に、三職七科制(神祇事務科、他に5科1寮)、その同年2月3日に、三職八局制(神祇事務局、他に7局)と、頻繁に改変されています。
 そして、そののちも、次のような3種の太政官制や、内閣制等に改変されており、その中で、明治天皇が即位し、東京へ2度行幸(最終的に京都へ帰郷せず、東京に移住)、伊勢神宮へ4度参拝しています。
 
   ▽近代の官制
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・慶応3年1月9日(1867年2月13日):明治天皇が、即位

 

 
○太政官制(七官制):慶応4=明治元年閏4月21日(1868年6月11日)
 太政官‐行政官(他に刑法官・議政官の2官)‐神祇官(他に4官)
 
・明治元年9月20日(1868年11月4日)~10月13日(11月26日):明治天皇の1度目の東京行幸
・明治元年12月8日(1869年1月20日)~12月22日(2月3日):明治天皇が、京都に一時帰郷
・明治2年3月7日(1869年4月18日)~3月28日(5月9日):明治天皇の2度目の東京行幸(東京奠都/てんと)
※明治2年3月12日(1869年4月23日):明治天皇の1度目の伊勢神宮参拝
 
○太政官制(二官六省制):明治2年7月8日(1869年8月15日)
 神祇官と太政官(下に6省)が対等
 
○太政官制(三院制):明治4年7月29日(1871年9月13日)
 太政官‐正院(他に右院・左院で3院)‐神祇省(他に7省)
 
・明治4(1871)年11月17日:明治天皇が、東京で大嘗祭
※明治5(1872)年:明治天皇の2度目の伊勢神宮参拝
※明治13(1880)年:明治天皇の3度目の伊勢神宮参拝
 
○内閣制:明治18(1885)年12月22日
 内閣‐9省
 
○帝国憲法下の内閣官制:明治23(1890)年11月29日
 内閣‐9省
 
※明治38(1905)年:明治天皇の4度目の伊勢神宮参拝
 
 このうち、二官六省制は、太政官と神祇官が最高機関として各々独立した、古代律令制を復活させており、注意すべきは、その時期に、明治天皇が伊勢神宮へ参拝していないことで、これは、おそらく維新政府が意図的にしたことではなく、結果的にそうなったと、みられます。
 七官制下の神祇官や、三院制下の神祇省・教部省(明治5/1872年4月21日~)・内務省社寺局(明治10/1877年1月11日~)、内閣官制下の神社局(明治33/1900年4月26日~)・神祇院(昭和15/1940年11月9日~昭和21/1946年2月2日)は、太政官や内閣の傘下に位置づけられています。
 つまり、天皇は、唯一の最高機関である、太政官制・帝国憲法下の内閣官制で、すでに超越した存在を確保しているので、その傘下の一部である、伊勢神宮を参拝しても、問題ありとは判断されません。
 一方、古代・近代の二官制だけは、双方が独立しているので、神祇官‐伊勢神宮‐天皇‐太政官‐…の序列になったとも受け取られかねないので、双方独立と矛盾することになり、歴代天皇が伊勢神宮に参拝しなかった理由は、ここにあったのではないでしょうか。
 近代の神道は、儀礼面が神道由来でも、教義面が儒教由来で、明治天皇の伊勢神宮参拝も、祖霊信仰・祖先崇拝を重視する、儒教の影響といえます。
 ちなみに、最高機関の改変をみると、律令制下の二官制での太政官と神祇官の2者独立が、帝国憲法下の内閣官制での内閣と陸軍・海軍の3者独立へ、置き換わり、政事でない他方が、祭事から軍事へ切り替えられています。
 そのうえで、天皇は、超越的な地位から、学校には教育勅語で、軍部には軍人勅諭で、儒教道徳(忠孝一致・家族国家観等)を強要するようになり、やがて、臣民には、天皇尊崇の神社参拝も強制しました。