「古事記」「日本書紀」には、神話(「虚」)と歴史(「実」)が混在しており、神代の部分は、完全に神話ですが、人代の部分は、おおむね古い年代には、記録がなく、記憶も比較的曖昧なので、神話が多く含まれ、新しい年代には、記録があり、記憶も比較的明確なので、歴史が多く含まれていると推測できます。
「虚」と「実」の区分は、歴代天皇の史料(文献学・考古学)を批判すれば、鮮明になるはずですが、この時代の史料が、大変不足しているため(天皇陵は発掘不可)、研究者達は、根拠に乏しい様々な学説を唱えているのが実情で、古い「実」を追い求めるあまり、新たな「虚」を生み出すことにもなりかねません。
よって、ここでは、「古事記」「日本書紀」の歴代天皇で、わかっていることを中心に展開していき、そこから、推察も加味することにします。
なお、ここからは、「古事記」「日本書紀」に登場する歴代天皇を便宜上、
【1】1~9代
:王宮・王墓の大半が葛城山麓東側~畝傍山周辺に分布しているため(葛城王朝説あり)
【2】10~14代+神功皇后
:王宮・王墓の一部が三輪山麓西側に分布しているため(三輪王朝説あり)
【3】15~25代
:王宮・王墓の一部が河内にも分布しているため(河内王朝説あり)
【4】26~32代
:王統断絶後、ほぼ6世紀に対応(507年~)
【5】33~41代
:飛鳥期、ほぼ7世紀に対応(592年~)
に5区分し、詳細をみていくことにします。
■前提
日本の歴史書で、「古事記」「日本書紀」以前には、「帝紀(ていき)」「旧辞(きゅうじ)」や、「天皇記(すめらみことのふみ)」「国記(くにつふみ)」が存在したとされていますが、いずれも現存していないので、様々な憶測が飛び交っており、おおむね次のようにまとめられます。
●「帝紀」「旧辞」
・「帝紀」「旧辞」と併記されているのが大半なので、「帝紀」=天皇の系譜、「旧辞」=天皇の事績とするのではなく、両方で天皇の系譜・事績等が記載されたものとみたほうがよい
・「帝紀」は、「古事記」序文の「帝皇日嗣(ていおうのひつぎ)」「先紀」、「日本書紀」欽明天皇(29代)2年3月の「帝王本紀」、持統天皇(41代)2年11月11日の「帝皇日嗣」等と同じと考えられる
・「旧辞」は、「古事記」序文の「先代旧辞(せんだいのくじ)」「本辞」、「日本書紀」天武天皇(40代)10年3月4日の「上古諸事」等と同じと考えられる
・「日本書紀」欽明天皇(29代)2年3月の注に、「帝王本紀」での天皇の妻子の紹介の中には、真偽が判断できなかったものもあり、それらは併記したと言及
・「日本書紀」皇極天皇(35代、舒明の皇后)元年12月14日に、舒明天皇(34代)を葬送する際、息長(おきなが)の山田の公(きみ)が、歴代天皇の系譜(日嗣/ひつぎ)を順番に読み上げた
・「日本書紀」持統天皇(41代、天武の皇后)2年11月11日に、天武天皇を葬送する際、当摩(たぎま)の真人チトコが、歴代天皇の系譜(帝皇の日嗣)を順番に読み上げた
●「天皇記」「国記」
・「日本書紀」推古天皇(33代)28年(620年)に、聖徳太子・蘇我馬子が主導し、「帝紀」「旧辞」をもとに、「天皇記」「国記」等を編纂
・「日本書紀」皇極天皇4年(645年)6月13日に、乙巳(いっし)の変(蘇我入鹿が殺害、馬子の子で入鹿の父・蘇我蝦夷が自害)で、蘇我蝦夷の邸宅が放火された際、「天皇記」は焼失、「国記」は焼け残りを中大兄皇子(のちの38代・天智天皇)に献上
●「古事記」:3巻、変体漢文、紀伝体(人物毎)
・古代皇室の説話で国内用、神代から推古天皇(33代)までの天皇の系譜+事績等
・綏靖天皇(2代)から開化天皇(9代)までと、仁賢天皇(24代)から推古天皇までは、ほぼ王宮・王墓・妻子の紹介のみ
・681年に天武天皇(40代)の命令で編纂が開始され、「帝紀」「旧辞」の虚偽を調査して是正・再編のうえ、稗田阿礼(ひえだのあれ)が口述で記憶
・686年に天武天皇が死去し、一時中断
・711年に元明天皇(43代)の命令で編纂を再開させ、稗田阿礼の暗誦を太安万呂(おおのやすまろ)が筆記・編集し、712年に元明天皇に献上
●「日本書紀」:30巻+系図1巻、漢文、編年体(年代順)
・古代日本の史書で国外用、神代から持統天皇(41代)までの天皇の系譜+事績等
・綏靖天皇(2代)から開化天皇(9代)までは、天皇の系譜はあるが、天皇の事績はない(「古事記」と同様)
・681年に天武天皇(40代)の命令で編纂が開始され、川島皇子(38代・天智の子)・忍壁皇子(おさかべのみこ、天武の子)ら12人が主導し、日本・中国・朝鮮の様々な史料をもとに編集
・720年に舎人親王(とねりしんのう、天武の子)が元正天皇(44代)に献上
■記紀神話の特色
「古事記」「日本書紀」は、「旧約聖書」の天地創造と同様、まず天地の生成からで、それは陰と陽が分離することではじまり、つぎに天上(「記」)か天地の中(「紀」)に神が現れては消えますが、「古事記」は、ひとつの物語である一方、「日本書紀」は、人代より神代で、本文と複数の異説が併記されています。
欧米では、神は絶対的、人は相対的なので、神の出来事はひとつ、人の出来事は複数を提示しがちですが、「日本書紀」では、神の出来事が明確だと、人工的・作為的にみえるためか、大筋はひとつでも、細部を不明確にすることで、自然に生成されたようにする一方、人の出来事の異説は、注で処理する程度です。
また、神話の粗筋は、超人的な英雄伝説が通例ですが、「古事記」「日本書紀」は、祖先神や天皇の出自・血統が、王位継承の正統性の根拠なので、何を差し置いても、歴代天皇の妻子と皇室の家系が必要不可欠になります。
逆に、英雄伝説や徳政を誇張する必要はなく、善政・悪政の両方が記述されているので、天上の神の子孫ですが、過度に神聖視されず、逆に人間らしく活き活き描き出されているのが特徴です。
他方、大和政権を構成する諸豪族は、自分の娘や妹を天皇や皇族と結婚させ、その子供を祖先として登場させたり、天皇に奉仕・活躍して事績に登場することで、現時点での身分・地位の正当性が確保できるため、「古事記」「日本書紀」は天皇を中心に組織化・体系化されています。
(つづく)