天武系の世界観 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 壬申の乱(672年)後の飛鳥後期~奈良期の、天武天皇(40代)から称徳天皇(48代=46代・孝謙)までの天武系天皇の5世代は、まず、天武・持統の2天皇夫妻の第1世代が、中央集権化を推進する中で、神・仏・儒・道の4宗教を並存させ、つぎに、第2~5世代が、それを踏襲・進展させています。

 ここで注目すべきは、たとえば、次のように、天武系天皇家の諸政策を、対比的に考察することで、いずれかを優劣せず、天の視点・神の視点から、双方各々を重視していたとみるべきで、だから、天皇は、天上の神(天つ神)の子孫とされる由縁なのかもしれません。

 

・大官大寺(仏教・仏寺) - 伊勢神宮(神道・神社)

・即位式(中国風) - 大嘗祭(日本風)

・「日本書紀」(国外的、720年完成) - 「古事記」(国内的、712年完成)

・「懐風藻」(漢詩集、751年完成) - 「万葉集」(和歌集、759年以降完成)

 

 ここでは、それを前提に、天武系天皇家が形成した世界観を、2例取り上げてみます。

 

 

●主要仏寺の地政学

 

 大和政権は当初、天皇の交代ごとに、拠点の皇宮を移動させていましたが、6世紀末・推古天皇(33代)の時代から、皇宮が飛鳥に集中しはじめると、都市計画が可能になりました。

 すると、天武系天皇の5世代は、推古天皇の時代に形成された、第1段階をもとに、第2~4段階で、次のように、仏寺を位置づけるようになりました。

 

○第1段階:推古天皇の時代

 推古天皇+皇太子・聖徳太子+大臣(おおおみ)・蘇我馬子の3者は、仏教を普及させましたが、次のように、大和政権の主要仏寺を、前方・中間・後方の3段構成で配置させました。

 

・前方 : 四天王寺

・中間 : 法隆寺

・後方 : 飛鳥寺

 

○第2段階:天武・持統の2天皇夫妻の時代

 推古天皇の死後、後継候補者は、敏達天皇(30代)の孫(のちの34代・舒明)か、用明天皇(32代)の孫(山背大兄/やましろのおおえ王、聖徳太子の息子)かで、一時対立し、最終的には、舒明・皇極(斉明)の2天皇夫妻→天智・天武の2天皇兄弟と、皇位継承していきました。

 その際に、天武・持統の2天皇夫妻は、次のように、推古天皇の時代に形成した、既存の主要仏寺の3段構成を、活用・強化しています。

 

・前方 : 四天王寺

・中間 : 法隆寺

・後方 : 飛鳥寺 + 大官大寺(百済大寺⇒高市大寺) ・ 川原寺 ・ 本薬師寺

 

 四天王寺は、聖徳太子が発願し、593(推古元)年に着工で、丁未(ていび)の変(587年)前に、太子が四天王像を造立し、戦勝すれば寺塔を建立すると誓いを立て、蘇我馬子も寺塔を建立すると誓いを立て、戦勝できたため、それぞれ四天王寺・飛鳥寺を創建しました。

 四天王寺の正式名称は、金光明四天王大護国寺で、これは、「金光明経」(こんこうみょうきょう)に由来し、国王が、この経を護持・読誦(どくじゅ)・流布すれば、四天王(4方位の守護神)等の護法善神(ごほうぜんしん)の威力・加護で、災厄・障害を除滅させ、国家鎮護をもたらすとされています。

 日本への仏教伝来の際には、仏(如来・菩薩・明王)だけではなく、天界にいる神々(天部)の、三宝(仏・法・僧)を守護する護法善神(諸天/しょてん善神)も、最初に持ち込まれ、外来神(蕃神/ばんしん)として受け入れられています(神仏習合は、神々習合から)。

 馬子は、584(敏達13)年に、仏教へ帰依するにあたり、高句麗僧(恵便/えべん)+尼3人(善信尼・禅蔵尼・恵善尼)を取り込んでおり、3人の少女を出家させたのは、神事・祭事での巫女的役割だったようです。

 

 飛鳥寺(和風寺号)は、法興寺(漢風寺号)ともいい、仏法を興隆する寺という意味で、蘇我馬子(稲目の息子)が発願し、596(推古4)年11月に完成しました。

 乙巳(いっし)の変(645年)で、蘇我氏本家(馬子の子・孫の蝦夷・入鹿)が滅亡しましたが、680(天武9)年4月に、飛鳥寺を特別に優遇する等、天武系天皇も庇護しています。

 その理由は、持統・元明の2天皇(41・43代)異母姉妹(父は38代・天智)の母は、両方とも蘇我氏分家(馬子の孫・倉山田石川麻呂)の娘(それぞれ遠智娘/おちのいらつめ・姪娘/めいのいらつめ)で、2天皇は、馬子の玄孫だったのも、影響しているのではないでしょうか。

 

 法隆寺(漢風寺号)は、斑鳩(いかるが)寺(和風寺号)ともいい、聖徳太子が発願し、607(推古15)年に着工しました(「上宮聖徳法王帝説」)。

 ところが、670(天智9)年4月30日に全焼し、693(持統7)年に、仁王会(にんのうえ)がされているので(「法隆寺資財帳」)、その時点までには、ほぼ再建されていたようで、法隆寺を天武系天皇が庇護したことになります。

 ここで、仁王会とは、100の菩薩像・100の高座・100の僧の読誦により、災難除滅・国家安泰を祈願する行事で、「仁王経」に由来し、この経を受持・読誦・講説すれば、無量の諸仏の働きが現われ、迷いから悟りが切り開け(真実の智慧の完成=般若波羅蜜)、国家鎮護をもたらすとされています。

 

 そして、四天王寺・法隆寺ゆかりの聖徳太子は、父方の祖母も、母方の祖母も、蘇我稲目(馬子の父)の娘(それぞれ堅塩姫/きたしひめ・小姉君/おあねのきみ)です(父方も母方も祖父は29代・欽明)。

 なので、天武系天皇は、持統・元明の2天皇異母姉妹の、父方が天智系、母方が稲目・馬子父子+蘇我氏分家の系統の影響もあって、四天王寺・法隆寺も庇護したと推測できます。

 

 大官大寺は、舒明天皇(34代)が発願し、639(舒明11)年7月に着工した、百済大寺が前身で(吉備池廃寺)、673(天武2)年12月17日には、天武天皇が、移転に着工しており(高市大寺)、677(天武6)年には、大官大寺に改称されています(「大安寺資財帳」)。

 

 川原(かわら)寺は、詳細不明ですが、655(斉明元)年冬に、斉明天皇(37代=35代・皇極)が一時遷宮した、飛鳥川原宮の跡地に創建されたとみるのが有力で、そうなると、天武天皇は、父・舒明天皇ゆかりの大官大寺と、母・斉明天皇ゆかりの川原寺の、両方を庇護したことになります。

 

 本(もと)薬師寺は、天武天皇が発願し(皇后=のちの持統の病気治癒を祈願)、682年に着工で(「七大寺年表」「僧綱補任抄出」)、698(文武2)年10月4日に完成ですが、688(持統2)年1月8日に、法会(無遮大会/かぎりなきおがみ)がされているので、天武・持統の2天皇夫妻の事業です。

 薬師信仰は、「薬師経」と「七仏薬師経」が有名で、「薬師経」は、東方の浄瑠璃国の薬師瑠璃光如来が、菩薩の修行時、悟りを得た際には、人々も救済(衆生済度)すると、12の本願の誓いを立てており、薬師如来像を造立・供養し、この経を読誦・善行(功徳)すれば、現世利益があるとされています。

 その信仰に、1体あたり7000の鬼神(夜叉)を付き従えていたとされる、12薬叉(やくしゃ、夜叉)大将(神将)が帰依したので、かれらが12方位を守護し、12の本願には、身体の障害・病気を健常にしたり、重病・困窮の苦悩を除去する誓いも立てているので、そこから病気治癒の祈願に発展しました。

 「七仏薬師経」では、東方には、光勝(こうしょう)国の善名称吉祥(みょうしょうきっしょう)王如来から、浄瑠璃国の薬師瑠璃光如来まで、7つの仏国土と、7仏の本願があり、薬師如来の国には、日光遍照(へんじょう)菩薩と月光遍照菩薩が、菩薩衆の長とされています。

 

 ここまでみると、都が飛鳥京に固定化されるようになった、推古天皇の時代に、まず、前方の四天王寺と、後方の飛鳥寺が、ほぼ同時期に配置され、つぎに、中間の法隆寺が、配置されており、それを継承しつつ、父・舒明の大官大寺、母・斉明の川原寺、息子・天武の本薬師寺で、後方を強化しています。

 この前方・中間・後方の3段構成は、盆地最南端の飛鳥京(592年)から、盆地南部の藤原京(694年)、盆地北部の平城京(710年)に遷都しても、有効に機能したのではないでしょうか。

 

 ちなみに、大和政権が最初に本拠地としたのは、奈良盆地の南東部で、当初は(3~4世紀)、その周辺に纏向古墳群・柳本古墳群・大和古墳群と、陵墓を集積させました。

 そこから、盆地北側出入口に、佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群、盆地西側出入口に、馬見(うまみ)古墳群を立地させ、西側出入口の前方に百舌鳥(もず)古墳群と古市古墳群、馬見古墳群との中間に磯長谷(しながだに)古墳群で強化し、これらは、交通の要衝が相当意識されています。

 それをまとめると、次のようで、前方・中間・後方の仏寺の立地も、これらの古墳群の立地を踏襲したともいえ、特に都への来訪者には、古墳群と仏寺伽藍の視覚的な相乗効果を発揮したでしょう。

 

・前方 : 百舌鳥古墳群 ・ 古市古墳群

・中間 : 磯長谷古墳群 ・ 馬見古墳群 - 佐紀盾列古墳群

・後方 : 纏向古墳群 ・ 柳本古墳群 ・ 大和古墳群

 

○第3段階:平城京遷都

 持統天皇(41代)の時代に、藤原京が造営され(694年)、元明天皇(43代)の時代に、平城京に遷都すると(710年)、3段構成の後方に配置された、飛鳥4大寺は、次のように、移転するとともに、寺名を変更しました。

 

・飛鳥寺 → 元興寺 (718年に移転)

・大官大寺 → 大安寺 (716年に移転)

・川原寺(弘福寺)+? 厩坂寺 → 興福寺 (710年に移転)

・本薬師寺 → 薬師寺 (718年に移転)

 

 厩(うまや)坂寺は、藤原鎌足が発願し(鎌足の夫人・鏡大王/おおきみが、夫の病気治癒を祈願しようとしたが、同年に死去)、669(天智8)年に創建した、山階(やましな)寺(京都市山科区)が前身で、672(天武元)年に、高市郡厩坂(奈良県橿原市石川町)へ移転し、厩坂寺に改称されています。

 そののち、藤原不比等(鎌足の息子)が、平城京遷都とともに移転しており、不比等の死直後の720(養老4)年10月17日には、造興福寺仏殿司が設置されているので、藤原氏の氏寺である興福寺を、国家が整備するようになりました。

 なお、中国・唐の弘福(ぐふく)寺が、興福寺に改称した例があり、そこから藤原氏の厩坂寺を、平城京へ移転する際に、川原寺も取り込んで、興福寺にしたという説があるようで、そうなると、飛鳥京・藤原京での後方の4寺体制は、平城京でも温存されつつ、藤原氏が入り込んだ格好といえます。

 

○第4段階:聖武・称徳の2天皇父娘の時代

 女帝の持統・元明・元正の3天皇(41・43・44代)を中継とみなせば、天武天皇から、孫(3代目)・文武天皇(42代)→ヒ孫(4代目)・聖武天皇(45代)と、譲位で皇位継承できましたが、最終的に天武系は、祈祷僧・道鏡を寵愛した、玄孫(5代目)・未婚の称徳天皇で断絶してしまいます。

 しかし、聖武・称徳の2天皇父娘は、次のような事業で、仏教を全国の地方機関に普及させています。

 

・聖武・全国 : 国分(僧)寺 - 国分尼寺

・聖武・平城京 : 東大寺 - 法華寺

・称徳・平城京 : 西大寺 - 西隆寺

 

 聖武天皇は、藤原広嗣(式家)の乱(740年)中に行幸の長旅に出発し、恭仁京遷都翌年の、741年(天平13)年3月24日か2月14日に、国分僧寺・国分尼寺建立、747(天平19)年11月7日に、国分僧寺・国分尼寺建立督促を命令し(詔/みことのり)、それらで両寺造営が、全国で本格化しました。

 国分(僧)寺(男性)の正式名称は、金光明四天王大護国之寺で、これは、四天王寺と同様、「金光明経」に由来します。

 国分尼寺(女性)の正式名称は、法華滅罪之寺で、これは、「法華経」(ほけきょう)に由来し、「法華経」の前半・迹門の第12・提婆達多品(だいばだったほん)によると、8歳の竜女が男子に変身して成仏しており、この経で罪悪消滅・女人成仏でき、国家鎮護をもたらすとされています。

 「金光明経」「法華経」「仁王経」は、国家鎮護のための護国三部経といわれ(最澄が設定)、天武系が最重要視した仏経です。

 

 そのうえ、聖武天皇は、総国分僧寺として東大寺を発願し、752(天平勝宝4)年4月9日に、大仏の開眼供養しており、光明皇后(藤原不比等の娘、聖武の皇后)は、総国分尼寺として法華寺(奈良市)を発願し、745(天平17)年5月11日に、皇后宮を宮寺にしたのが起源です。

 また、聖武天皇と光明皇后の娘・孝謙上皇(46代=48代・称徳)は、藤原仲麻呂(南家)の乱(764年)平定を祈願し、四天王像を造立、称徳天皇として即位すると、僧寺・西大寺を発願し、765(天平神護元)年に創建(「西大寺資財流記帳」)、766(天平神護2)年12月12日に行幸しています。

 さらに、称徳天皇は、尼寺・西隆寺も発願し、767(神護景雲元)年に、造西隆寺司の長官(8月29日)・次官(9月4日)を任命しています。

 よって、父・聖武天皇ゆかりの僧寺・東大寺と、母・光明皇后ゆかりの尼寺・法華寺の対比を、娘・称徳天皇が踏襲し、僧寺・西大寺と、尼寺・西隆寺で、強化していることになり、これは、次のように、父・舒明+母・斉明+息子・天武の功績の発展形といえます。

 

・大官大寺(父・舒明) - 川原寺(母・斉明) - 本薬師寺(息子・天武)

※大安寺 - 厩坂寺⇒興福寺(藤原鎌足・不比等) - 薬師寺

・東大寺(父・聖武) - 法華寺(母・光明皇后) - 西大寺⇔西隆寺(娘・称徳)

 

 ところが、880(元慶4)年5月19日の記事には、西隆寺が西大寺の支配下になり、西大寺の僧等の法衣を洗濯する所とあり、天武系の奈良期は、男の僧と女の尼が官寺で、ほぼ平等でしたが、天智系の平安期から、仏教の男尊女卑化が、進行していったようです。

 たとえば、「法華経」を最重要視した、最澄は、人は誰でも、仏性(仏になる種)をもつので、修行すれば、悟りを得る可能性があると主張しているのに、比叡山を女人禁制にしており、言行不一致です。

 だから、男女平等にするには、「法華経」の第12・提婆達多品の解釈により、女性は、成仏が大変困難なので、男性に転変して成仏できると、主張されたのでしょう。

 こうして、平安期には、飛鳥4大寺の元興寺・大安寺・興福寺・薬師寺に、法隆寺と東大寺・西大寺が追加され、南都7大寺といわれ、最澄の天台教学、空海の真言密教と、対比的に取り扱われました。

 そこには、比較的神格化された天武系と、比較的世俗化された天智系の、対比も影響していたとみられ、平安期以降は、しだいに世俗化していったので、男尊女卑・ケガレ等の差別も顕著になり、奈良期までの天の視点・神の視点から、平安期からの地の視点・人の視点へ、移行していったと推測できます。

 ただし、最澄・空海は、修行だけでなく、儀式も大切にしており、最澄創建の比叡山の中心・一乗止観院(根本中堂)の本尊も、空海創建の高野山と東寺の中心・金堂の本尊も、薬師如来で、これらは、皇室・貴族が依頼する、病気治癒の加持祈祷(薬師悔過/けか)のためです。

 2人は、堂塔・本尊を、対外的な儀式と、対内的な修行で、使い分けており、最澄の天台法華教学の中心仏は、釈迦如来なので、西塔(さいとう)の転法輪堂(釈迦堂)で安置され、空海の真言密教の中心仏は、大日如来なので、高野山の根本大塔・東寺の講堂で安置されています。

 そうなると、仏教信仰の歴史は、奈良仏教が国家鎮護で、鎌倉仏教が個人救済と、大別できますが、その間の平安仏教は、国家のためと、個人のためが、重なり合っていたといえ、そう主張し、仏教を庇護できる立場だったのが、政権の中枢にいた皇室・貴族です。

 

 

●祖母から孫への皇位継承の歴史と神話

 

 記紀神話で、アマテラスが、孫のニニギに、天上から降臨し、地上を統治するよう命令したのは(「日本書紀」神代下・段9、「古事記」神代段6‐3)、持統天皇(41代)から孫の文武天皇(42代)へ、譲位で皇位継承した史実の、正当性を主張するためといわれています。

 その根拠の第1は、持統天皇の死後の和風の名前が、「続日本紀」だと、大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあめのひろののひめのみこと)ですが(703/大宝3年12月17日)、「日本書紀」だと、高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)と、変更されているからです。

 文武天皇は、倭根子豊祖父(やまとねことよおおじ)天皇で(707/慶雲4年11月12日)、元明天皇(43代)は、日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこあまつみよとよくになりひめ)天皇、元正天皇(44代)は、日本根子高瑞浄足姫(やまとねこたまみずきよたらしひめ)天皇です。

 41~44代は、ヤマトネコが共通し、41・43代は、アマが使用され、持統天皇は、ヒロノヒメなので、変更の際に、高天原で強調されています。

 根拠の第2は、「日本書紀」で、持統天皇の時代に、日食の記事が6回もありますが(691/持統5年10月1日、693/持統7年3月1日、9月1日、694/持統8年3月1日、9月1日、696/持統10年7月1日)、すべて実際には、観察不可と算出されていることです。

 日食は、記紀神話で、アマテラスが、天の岩屋戸に引き籠もった逸話を想起させます(「日本書紀」神代上・段7、「古事記」神代・段3‐3)。

 持統天皇の時代以外に、日食の記事は、推古天皇(33代)が1回、舒明天皇(34代)が2回、天武天皇(41代)が2回で、このうち、おおむね皆既日食が実際にあったのは、628(推古36)年3月2日・637(舒明9)3月2日・680(天武9)年11月1日の3回とされています。

 

 上記のような根拠から、記紀神話では、アマテラスを持統天皇、ニニギを文武天皇に、重ね合わせていることが、導き出せましたが、下記のように、表の説だけでなく、アマテラスを元明天皇、ニニギを聖武天皇とする、裏の説でも合致し、そこには藤原不比等・宮子父娘が、関与することになります。

 

○表の説

・アマテラス:持統、703年に59歳で死去

・タカミムスヒ:該当なし(天智?)

・アメノオシホミミ(アマテラスの息子):草壁(天武と持統の息子)、689年に28歳で死去

・タクハタチジヒメ(タカミムスヒの娘でオシホミミの妻):元明(天智の娘で草壁の妻)、記52歳・紀60歳

・ニニギ(オシホミミとタクハタチジヒメの息子):文武(草壁と元明の息子)、707年に25歳で死去

 

○裏の説

・アマテラス:元明、記52歳・紀60歳

・タカミムスヒ:藤原不比等、記54歳・紀62歳

・アメノオシホミミ(アマテラスの息子):文武(草壁と元明の息子)、707年に25歳で死去

・タクハタチジヒメ(タカミムスヒの娘でオシホミミの妻):藤原宮子(不比等の娘で文武の妻)、不明

・ニニギ(オシホミミとタクハタチジヒメの息子):聖武(文武と宮子の息子)、記12歳・紀20歳

 

※「古事記」完成712年(元明天皇の時代)時点の年齢:記~歳

※「日本書紀」完成720年(元正天皇の時代)時点の年齢:紀~歳

 

 ここで指摘しておきたいのは、表の説と裏の説の、一方が正しくて、他方が誤っているという、二者択一ではなく、記紀神話の編纂説明の際に、天皇家には表の説を、藤原氏には裏の説を、提示することで、両者が納得できる、両義的な構成だということです。

 主要仏寺も記紀神話も、まず天武系天皇家が、枠組を形成すると、つぎに藤原氏が、そこに介入していき(主要仏寺だと不比等の娘・光明皇后、記紀神話だと不比等・宮子父娘)、天武系天皇家と藤原氏の二頭体制が、生み出されたとも読み取れます。

 その天武系天皇家も、推古天皇+皇太子・聖徳太子+大臣・蘇我馬子の3者が形成した、既存の構成に介入することで、枠組を形成しており、こうした乗っ取りの繰り返しで、日本の歴史が成り立っています。