(つづき)
■まとめ
皇宮が飛鳥に集中しはじめてからの、遷宮・遷都をまとめると、次に示す通りです。
○飛鳥期
‐33代・推古:592年・飛鳥豊浦宮、603年・飛鳥小墾田宮
‐34代・舒明:630年・飛鳥岡本宮、636年・飛鳥田中宮、640年・百済宮
‐35代・皇極:642年・飛鳥小墾田宮、643年・飛鳥板蓋宮
‐36代・孝徳:645年・難波大郡宮、651年・難波長柄豊碕宮
‐37代・斉明:655年・飛鳥板蓋宮、655年・飛鳥川原宮、656年・飛鳥後岡本宮
‐38代・天智:667年・近江大津宮
‐39代・弘文
‐40代・天武:673年・飛鳥浄御原宮
○南都期
‐41代・持統:694年・藤原宮
‐42代・文武
‐43代・元明:710年・平城宮
‐44代・元正
‐45代・聖武:740年・恭仁宮、744年・難波宮、745年・甲賀紫香楽宮、745年・平城宮
‐46代・孝謙
‐47代・淳仁:761年・飛鳥小治田宮、761年・平城宮、761年・近江保良宮、762年・平城宮
‐48代・称徳:769年・河内由義宮、769年・平城宮
‐49代・光仁
○京都期
‐50代・桓武:784年・長岡宮、793年・東院(内裏解体・移築)、794年・平安宮
‐51代・平城
‐52代・嵯峨:810年・平城宮、810年・平安宮
‐53代・淳和
‐54代・仁明:842年・冷然院(内裏修理)、842年・平安宮
‐55代・文徳:854年・冷然院
‐56代・清和
‐57代・陽成
‐58代・光孝
‐59代・宇多
‐60代・醍醐
‐61代・朱雀
‐62代・村上:960年・冷泉院(冷然院を改称、内裏焼失1)、961年・平安宮(内裏再建)
○摂関政期
‐63代・冷泉
‐64代・円融:堀河院(母の同母兄・藤原兼通邸)2、四条院(母方の祖父の異母兄の息子・藤原頼忠邸)1(976・980・982年に内裏焼失2~4、977・981・984年に内裏再建)
‐65代・花山
‐66代・一条:一条院(母・藤原詮子邸)4、東三条殿(母の同母弟・藤原道長邸)1、枇杷殿(道長邸)1(999・1001・1005年に内裏焼失5~7、1000・1003・1006年に内裏再建)
‐67代・三条:東三条殿(道長邸)1、枇杷殿(道長邸)2(1014・1015年に内裏焼失8・9、1015・1018年に内裏再建)
‐68代・後一条:京極院(母方の祖父・道長邸)1、一条院1
‐69代・後朱雀:京極院(母の同母弟・藤原頼通邸)1、陽明門第(母・藤原彰子邸)1、二条殿(母の同母弟・藤原教通邸)1、一条院1、高陽院(頼通邸)1、東三条殿(頼通邸)1(1039・1042年に内裏焼失10・11、1041・1046年に内裏再建)
‐70代・後冷泉:京極院(母の同母兄・頼通邸)4、二条殿(母の同母兄・教通邸)1、冷泉院2、高陽院(頼通邸)2、四条殿(頼通邸)2、三条大宮殿(母の異母兄・藤原長家邸)1、一条院1、室町第(母の同母姉・藤原彰子邸)1、三条堀河殿(頼通邸)1(1048・1058年に内裏焼失12・13、1056・1071年に内裏再建)
‐71代・後三条:閑院(藤原実季邸)2、三条大宮殿(長家邸)2、二条殿(関白・教通邸)2、高陽院(頼通邸)1、四条殿(頼通の娘・藤原寛子邸)1
‐72代・白河:高倉殿(関白の父・頼通邸)1、高陽院(関白・藤原師実邸)4、六条院4、源師忠第1、堀河院(師実邸)4、西洞院殿(頼通の子・橘俊綱邸)1、三条殿(堀河+鳥羽の乳母・藤原光子邸)1(1082年に内裏焼失14、1100年に内裏再建)
○院政期
‐73代・堀河:堀河院(母方の養祖父の子・藤原師通邸→妻・篤子内親王邸)3、大炊殿南殿(後冷泉の皇后・藤原寛子邸)1、閑院(父・白河邸)1、二条殿(関白・師通邸)1、高陽院(母方の養祖父・師実邸)2
‐74代・鳥羽:大炊殿西殿(祖父・白河邸)3、小六条殿(白河邸)3、土御門万里小路殿(源雅実邸)3、高陽院(摂政・藤原忠実邸)東対1、高陽院西対1、大炊殿東殿(白河邸)3、大炊御門万里小路殿(院近臣・藤原長実邸)2、三条烏丸殿(院近臣・藤原基隆邸)1、土御門烏丸殿(源師時邸)1
‐75代・崇徳:土御門烏丸殿(源師時邸)4、三条京極殿(父・鳥羽邸)1、二条殿(鳥羽邸)1、三条桟敷殿(院近臣・藤原基隆邸)1、小六条殿2
‐76代・近衛:土御門烏丸殿3、小六条殿(父・鳥羽邸)2、四条東洞院殿2、東三条殿(摂政・藤原忠通邸)1、八条殿(母・藤原得子邸)1、六条烏丸殿1、近衛殿(忠通邸)1
‐77代・後白河:高松殿(父の妻・得子邸)5、東三条殿(関白・忠通邸)1(1157年に内裏新造)
‐78代・二条:東三条殿(関白の父・忠通邸→父・後白河邸)2、六波羅殿(平清盛邸)1、八条殿(祖父の妻・得子邸)1、大炊御門高倉殿3、高倉殿(関白・藤原/近衛基実邸)3、二条東洞院殿1
‐79代・六条:高倉殿(摂政・基実邸→基実の妻・平盛子邸)3、六条烏丸殿1、五条殿(藤原/三条実長邸)3、土御門東洞院殿(乳母の父・藤原邦綱邸)1
‐80代・高倉:閑院(摂政・藤原/松殿基房邸)20、三条室町殿(父・後白河邸)2、八条殿(父の異母妹・暲子内親王邸)3、土御門東洞院殿(乳母の父・邦綱邸)1、五条東洞院殿(邦綱邸)1
‐81代・安徳:五条東洞院殿(乳母の父・邦綱邸)2、八条坊門櫛笥殿(父・高倉邸)1、摂津・福原の平頼盛(母方の祖父の異母弟)第1、摂津・平清盛(母方の祖父)別荘1、摂津・福原第1、八条殿(平頼盛邸)1、閑院2、法住寺殿1
‐82代・後鳥羽:閑院12、大炊御門殿(父の異母姉・式子内親王邸→藤原経宗邸)4
‐83代・土御門:閑院4、中院殿(養母の弟・源/久我通光邸)2、大炊御門殿(経宗の子・藤原/大炊御門頼実邸)4、冷泉万里小路殿(藤原/四条隆衡邸)1
‐84代・順徳:押小路殿(父・後鳥羽邸)1、大炊御門殿(頼実邸)2、三条烏丸殿(父方の祖母・藤原殖子邸)2、閑院6、高陽院(後鳥羽邸)5(1219年に内裏焼失15)
‐85代・仲恭:閑院2、高陽院(祖父・後鳥羽邸)2
○武家政期
‐86代・後堀河:閑院1(1227年に内裏焼失16、これ以降、内裏再建せず)
‐87代・四条:閑院2、冷泉万里小路殿(隆衡の子・藤原/四条隆親邸)1
‐88代・後嵯峨:冷泉万里小路殿(隆親邸)3、閑院1
‐89代・後深草[持]:冷泉富小路殿(母方の祖父・西園寺実氏邸)4、閑院2、冷泉万里小路殿(父・後嵯峨邸)2、押小路殿1
‐90代・亀山[大]:冷泉富小路殿(母方の祖父・西園寺実氏邸)2、五条大宮殿(母・藤原/西園寺姞子邸)4、二条殿4、冷泉万里小路殿3、押小路殿1
‐91代・後宇多[大]:二条殿2、冷泉万里小路殿(父・亀山邸)3、三条坊門殿(藤原/万里小路通成邸)1、近衛殿(亀山邸)1
‐92代・伏見[持]:冷泉富小路殿2、春日殿(母・藤原/洞院愔子邸)1、土御門東洞院殿1、二条殿1
‐93代・後伏見[持]:冷泉富小路殿1、二条富小路殿2、二条殿(摂政・藤原/二条兼基邸)1
‐94代・後二条[大]:二条殿2、冷泉万里小路殿1
‐95代・花園[持]:土御門東洞院殿(父の異母妹・媖子内親王邸)2、二条富小路殿1、冷泉富小路殿(異母兄・後伏見邸)1
‐96代・後醍醐[大]:冷泉富小路殿2、笠置山行宮1、宇治・平等院1、六波羅南方1、隠岐行宮1、伯耆・船上寺行宮1、兵庫・福厳寺1、東坂本行宮2、成就護国院1、花山院2、吉野行宮1
○南北朝期
‐97代・後村上:大和・賀名生行宮2、摂津・住吉行宮2、山城・男山八幡行宮2、河内・天野行宮1、河内・観心寺行宮1
‐98代・長慶:吉野行宮2、河内・天野行宮1、大和・栄山寺行宮1
‐99代・後亀山:大和・賀名生行宮1、吉野行宮1
‐北初代・光厳:土御門東洞院殿(現・京都御所)
‐北2代・光明
‐北3代・崇光:持明院殿
‐北4代・後光厳
‐北5代・後円融
○合一期
‐100代・後小松:土御門東洞院殿
‐101代・称光
‐102代・後花園:1443年・藤原(近衛)房嗣邸(土御門東洞院殿焼失)、1443年・土御門東洞院殿(再建)
‐103代・後土御門
‐104代・後柏原
‐105代・後奈良
‐106代・正親町:1569年・土御門東洞院殿(修理)
‐107代・後陽成:1591年・土御門東洞院殿(建替)
‐108代・後水尾:(土御門東洞院殿焼失)、1613年・土御門東洞院殿(再建)
‐109代・明正:(土御門東洞院殿焼失)、1642年・土御門東洞院殿(再建)
‐110代・後光明:1653年・(土御門東洞院殿焼失)
‐111代・後西:1655年・土御門東洞院殿(再建)、1661年・(土御門東洞院殿焼失)、1662年・土御門東洞院殿(再建)
‐112代・霊元:1673年・(土御門東洞院殿焼失)、1675年・土御門東洞院殿(再建)
‐113代・東山:1708年・(土御門東洞院殿焼失)、1709年・土御門東洞院殿(再建)
‐114代・中御門
‐115代・桜町
‐116代・桃園
‐117代・後桜町
‐118代・後桃園
‐119代・光格:1788年・聖護院(土御門東洞院殿焼失)、1790年・土御門東洞院殿(再建)
‐120代・仁孝
‐121代・孝明:1854年・聖護院(土御門東洞院殿焼失)、1855年・土御門東洞院殿(再建)
○東京期
‐122代・明治:1869年・東京遷都
※数字:遷宮回数
※[持]:持明院統、[大]:大覚寺統
□考察
遷宮・遷都の特徴で時代区分すると、次のようになります。
○飛鳥期
皇宮が飛鳥に集中したのは、まず、政権を主導した3者の、推古天皇(33代)は、母が蘇我稲目の娘(堅塩媛/きたしひめ)、聖徳太子は、父方も母方も祖母が稲目の娘(堅塩媛・小姉君/おあねのきみ)、蘇我馬子は、父が稲目と、天皇家と蘇我氏の混血ばかりで、蘇我氏が飛鳥を本拠地だったからです。
つぎに、蘇我氏の血統は、一時断絶しましたが、父・舒明天皇(34代)、母・皇極天皇(35代=37代・斉明)、息子の天智天皇(38代)+天武天皇(40代)兄弟と、皇位継承した際、母の板蓋宮・後岡本宮が、父の岡本宮の跡地に、息子(弟)の浄御原宮が、父母の宮殿の跡地に、再建されたからです。
これらは、父→母→息子と、一家の先代の威光を利用するためですが、推古天皇の時代も勘案すれば、前方の四天王寺・中間の法隆寺・後方の飛鳥寺の3段構成の後方を強化した、父・舒明の大官大寺(←高市大寺←百済大寺)、母・斉明の川原寺、息子・天武の本薬師寺の建造を想起させます。
そののちも、天智の娘で天武の妻・持統天皇(41代)は、母が馬子のヒ孫(遠智娘/とおちのいらつめ)、天智の娘で草壁皇子(天武と持統の息子)の妃・元明天皇(43代)は、母が馬子のヒ孫(姪娘/めいのいらつめ)なので、蘇我氏本家は、滅亡しましたが、蘇我氏分家の血統が、継承されています。
○南都期
天皇家+蘇我氏が、奈良盆地南部の飛鳥宮・藤原宮なら、天皇家+藤原氏は、奈良盆地北部の平城宮とみることができ、盆地以北の恭仁宮・甲賀紫香楽宮も、その延長線上といえます。
ただし、古代の天皇は、本邸だけでなく、別邸(離宮)も所有し、孝徳天皇(36代)の難波宮も、天智天皇の近江大津宮も、飛鳥宮には留守官(留守司/つかさ)が設置・保存されており、天皇は、複数の拠点を中心に活動していました。
天武天皇も、「都城(みやこ)・宮室(おおみや)を1ヶ所だけでなく、必ず2・3ヶ所造営すべきなので、まず難波に都を造営しようと思う」といっており(683年12月17日)、これは、古代中国の長安・洛陽等の複都制を手本にしています。
そこから、天武のヒ孫・聖武天皇(45代)は、恭仁京と難波京の2都を、天武の孫・淳仁天皇(47代)は、平城京・難波京+近江保良宮(761年10月28日)の3都を、天武の玄孫・称徳天皇(48代=46代・孝謙)は、平城京・難波京+河内由義宮(769年10月30日)の3都を、模索しました。
このように、天武系天皇は、複都制を採用し、結局は、大和川水系の、前方・難波京+後方・平城京の2都に、落ち着いています。
○京都期
天武系天皇が複都制だったのとは対照的に、天智系天皇は、単都制を採用したといえ、それは、難波宮を解体し、長岡宮へ移築したうえ(長岡宮で難波宮の瓦が大量に出土)、平城宮の諸門も解体・移築されているからで(791年9月16日)、こちらは、近江大津宮・近江保良宮と同様、淀川水系です。
そして、平安宮への遷宮(794年10月22日)の1年9ヶ月前には、長岡宮の内裏東方の東院へ一時遷宮し、内裏を解体・移築しており(793年1月21日)、最終的には、1都に機能集約しました。
○摂関政期
ここまでの天皇は、皇宮内を中心に活動しつつも、宮外を度々行幸しましたが(病弱な文徳天皇/55代と、幼少の清和天皇/56代・陽成天皇/57代は、行幸せず)、冷泉天皇(63代)から白河天皇(72代)までの119年間(967~1086年)には、内裏焼失が13回もありました(平均9.2年に1回)。
よって、内裏再建までの間、天皇を利用する勢力の意向で、皇宮が頻繁に遷宮しており(里内裏)、摂関政期には、母方系の藤原氏の邸宅提供が、大半でした。
○院政期
堀河天皇(73代)から仲恭天皇(85代)までの135年間(1086~1221年)に、内裏焼失は、1回のみで、院政期へ移行しても、皇宮が頻繁に遷宮していますが、上皇(法皇)の父方系だけでなく、他の勢力の邸宅提供も多数みられます。
○武家政期
武家政期へ完全に移行するきっかけの承久の乱(1221年)の6年後に、内裏が焼失すると、これまでずっと、皇宮が頻繁に遷宮してきたので、内裏は必要ないと判断され、再建されなくなりました。
摂関政が衰退すると、摂関家は分裂し、院政から武家政へ完全に移行すると、皇室も分裂するようになりましたが、里内裏は、冷泉富小路殿・二条殿等、持明院統も大覚寺統も、即位した天皇に明け渡しており、おおむね分け隔てなく使用されています。
○南北朝期
持明院統の北朝は、京都を実効支配できたので、土御門東洞院殿(現・京都御所)での「静の宮」だった一方、大覚寺統の南朝は、吉野へ逃亡し、2度京都を一時奪還したので、「動の宮」となりました。
○合一期
南北朝合一(1392年)は、北朝が南朝を吸収したので、これ以降、土御門東洞院殿での「静の宮」が、継続された格好といえ、孝明天皇(121代)が、幕末(1863年)に、上下賀茂神社・石清水八幡宮へ行幸するまで、天皇の宮外の活動は、ほとんどありませんでした。
○東京期
まず、京都と東京を東西両京と位置づけ、つぎに、即位の礼(1868年)後に、明治天皇が、東京行幸し、約2ヶ月弱滞在、いったん帰京し、さらに、京都で留守官が設置された、再度の東京行幸と、皇后の転居が、事実上の東京遷都(1869年)で、再度の帰京は、京都行幸といわれました(1872年)
つまり、名目上(最初)は、複都制を主張しつつも、実質上(最後)は、単都制を採用しており、天武系と天智系の先例を、うまく利用した言動です。
(おわり)