大嘗祭(だいじょうさい・おおにえのまつり)・新嘗祭(にいなめのまつり) | ejiratsu-blog

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 新嘗祭は、天皇が、天上・地上の神々(天神地祇)に、畿内の官所有の田畑の新穀(稲・粟)等を献上し、収穫を感謝する、1年1度の儀式です(代行可能)。

 大嘗祭は、天皇の即位式とは別の、1代1度の皇位継承の儀式で(代行不可)、即位後初の新嘗祭のかわりに執り行われ、アマテラス・天神地祇に、畿外の新穀(稲・粟)等を献上、国家の安寧を祈願し、7世紀後半・飛鳥後期・天武・持統の2天皇(40・41代)夫妻の時代に、おおむね確立されました。

 

 「日本書紀」では、天武が戦勝した壬申の乱翌年の、天武2(672)年12月5日に、天皇が、大嘗祭に奉仕した、中臣・忌部氏+神官達と、播磨・丹波両国(悠紀田/ゆきでん・主基/すき田)の郡司以下の人夫達に、禄を、郡司等に、爵1級を、授与しており、これは、11月の大嘗祭の謝礼とみられます。

 また、持統5(691)年11月1日に、天皇が、大嘗祭を執り行い、神祇伯(かんつかさのかみ、神祇官の長官)・中臣の朝臣(あそん)大嶋が、天つ神の寿詞(よごと、祝賀文)を朗読したとあり、これらが、最初の大嘗祭とされています。

 ただし、天武5(675)年9月21日には、新嘗祭で、悠紀田・主基田を、占いで決めており、制度がまだ、確定途中だったと、みられます。

 なお、「日本書紀」では、「大嘗」と「新嘗」が、混同使用されていますが、これは、一般の為政者の新嘗祭と区別するため、天皇の新嘗祭を、大嘗祭としているようなので、注意が必要です。

 天武・持統の2天皇夫婦の時代には、対内的には、天皇が、新嘗祭を執り行うとともに、対外的には、朝廷の神祇官が、特定の祭(祈年祭等)の際に、主要神社へ、幣帛(へいはく、食物以外の神への献上品)を配布することで、天皇・朝廷の影響下にあることを、強調しました。

 

 新嘗祭・大嘗祭は、律令制の神祇令では、旧暦(太陰太陽暦)11月(子/ねの月)の2回目の卯(う)の日に執り行われ、当時は、冬至の頃でした。

 冬至は、1年のうちで、最も日照が短く、日射も弱まり、そこから、徐々に日照が長く、日射も強くなっていく、境目なので、この時期の、新嘗祭は、太陽と穀物の仮死・再生を、重ね合わせており、大嘗祭は、太陽・穀物・皇位継承の仮死・再生を、重ね合わせています。

 ここで、太陽は、1日のうちで、…→朝(日の出、増進期)→昼(正午、最盛期)→夕(日の入、減退期)→夜(正子/しょうし、仮死・再生期)→…と、反復し、1年のうちでも、…→春(春分、増進期)→夏(夏至、最盛期)→秋(秋分、減退期)→冬(冬至、仮死・再生期)→…と、反復します。

 そのうえ、穀物は、…→発芽・生長(増進期)→開花(最盛期)→結実(減退期)→収穫(仮死・再生期)→…と、反復するので、穀霊(稲魂)が、受け継がれると、みられています。

 つまり、自然の摂理は、…→増進期→最盛期→減退期→仮死・再生期→…と、永遠に循環していることにあります。

 一方、人間をはじめ、万物は、必死必滅で、おおむね誕生期→増進期→最盛期→減退期→死滅期と移行しますが、自然の摂理のように、死滅期と誕生期をつなぎ、そこを仮死・再生期とみなせれば、永遠に循環できます。

 よって、天皇制も、太陽・穀物と、皇位継承を重ね合わせることで、旧天皇から新天皇へと、世代交代しても、天皇の霊魂(皇祖=神代のアマテラス~人代の初代、皇宗=人代の2代~現在)は、受け継がれるとし、そうして永久不死不滅を希求したと、推測できます。

 新嘗祭・大嘗祭を、子(ね)の月・卯(う)の日に、執り行ったのは、子が、北の方角で、籠もり・隠れを意味し(仮死・再生期)、卯が、東の方角で、顕現を意味するので(増進期)、月日でも、自然の摂理である、永遠の循環を希求したからでしょう。

 

 ここでは、新嘗祭や大嘗祭が、どのように確立されていったのかを、みていくことにします。

 

○為政者:初穂と出挙(すいこ)

 縄文期と弥生期の境目は、日本列島への水田稲作の伝来に設定されていますが、紀元前10世紀に、朝鮮半島南部の水田稲作民が、九州北部へ移住する際には、新天地の情報や耕地確保、丸木舟の船団での渡海と、稲種貸与・水田整備期間の食糧調達が、必要になります。

 なので、朝鮮半島と日本列島の間を交流・交易していた、海洋漁労民の関与が、想定できますが、丸木舟に積載できる人・物は、制限され、農具を優先すると、食糧は、大半が現地調達になるので、水田稲作民が、移住した時点で、海洋漁労民から、借金しなければならないと、推測できます。

 そのうえ、日本列島の先住民(縄文人)が、水田稲作を導入する際にも、先達の水田稲作民から稲種を貸与し、水田整備期間の食糧調達が、必要になり、借金しなければならないので、賃借関係から、支配関係へと、変容しやすいといえます。

 そして、庶民から王が突出するには、王が、わずかな初穂を元手に、出挙で運用すれば、徴税しなくても、簡単に財産形成できます。

 初穂は、今秋の収穫直前に、神への感謝のために献上する、最短で充分に生育した稲穂です(律令制下でも、租は、収穫量の約3%で、寸志程度の寄進)。

 農民は、最も生命力(生気・精気)があるとされる初穂を、祭祀の主催者である王に貢納しますが、本州は当時、稲作の北限なので、初穂を来春の稲種とし、それを繰り返せば、しだいに寒さに強い丈夫な品種となるので、生命力が向上していきます。

 出挙は、今春の種蒔期に、高床倉庫の管理者である王が、農民に初穂の稲種を貸与し、今秋の収穫期に、利子付で返済させる慣習です(利息は、私出挙で100%と高金利で、律令制下の公出挙でも50%)。

 春での出挙の貸与の際と、秋での初穂の献上の際を、儀式化すれば、それぞれ神への、豊作祈願の祭(祈年/としごえ祭)と、収穫感謝の祭(新嘗祭)になり、冬に大切な稲穂を管理した高床倉庫が、忌み籠もる施設として神聖化され、寄進の初穂と、金融の出挙が、祭祀と結び付きました(祭政一致)。

 女性は、生命を誕生させられるので、当初は、稲作と、妊娠・出産を重ね合わせるため、春・秋の祭祀に、女性が主導していたようですが、いつから男性が、神主的な、女性が、巫女的な、立場になったようです。

 弥生期に、王は、水田整備を統率したり、近隣との同盟・戦闘を主導しますが、それらには、能力が必要な一方、初穂と出挙は、能力不要の、弥生期の領国経営モデルといえます。

 そののち、古墳期に、小国の王達から豪族(大王→天皇も)が突出できたのは、豪族が、鉄器入手の窓口になったからで、鉄器は、開墾時・洪水時の水田整備や、田植え・稲刈り等で、作業効率や農産物の生産量が向上できるので、鉄器調達も、能力不要の、古墳期の領国経営モデルといえます。

 

○天皇・伊勢神宮:太陽と穀物

 大和政権の中央豪族達の盟主となった、天皇家(皇室)の、祖先神は、かつてタカミムスヒでしたが、太陽の女神・アマテラスが、採用されたのは、1日のうちで、太陽が、東から昇り(再生)、西へと沈み(仮死)、それが永遠に繰り返され、永久不死不滅だからで、伊勢神宮・内宮の祭神です。

 太陽が、夕方沈んでから、次の朝方昇るまで、大地に隠れているのは、生命力を回復しているからとされ、天皇の祭儀も、夜間祭場に籠もるのは、国家の元気力を取り戻そうとするためです。

 伊勢神宮・外宮の祭神に、穀物の女神・トヨウケヒメが、採用されたのは、1年のうちで、いったん乾いた穀物の種も(仮死)、湿らせれば発芽(再生)・生長・開花・結実し、それが永遠に繰り返され、これも永久不死不滅だからです。

 伊勢神宮の内宮・外宮で、20年ごとに、同形同大の隣地へ、全面建替(式年遷宮)するのは、神道では、時間が経過すれば、しだいに気(生気・精気)が枯れるので(ケガレ)、生命力回復のために、社殿を新造し、清浄・清潔にすることで(常若/とこわか)、邪悪な気を追い払うためです(ハライ)。

 式年遷宮の遷御(せんぎょ、御神体の新宮への遷座)は、南北朝期までは、旧暦9月(現在は10月)の神嘗祭(かんなめのまつり)と同日でしたが、それ以降は、神嘗祭前に、分離したようで、式年遷宮も、天武・持統の2天皇夫妻の時期に確立され、大嘗祭の確立と、ほぼ同時期でした。

 

○朝廷:祈年祭と新嘗祭

 古代中国には、旧暦2月(令月)に、豊作を祈願する祈穀祭が、旧暦11月(達月)に、収穫を感謝する献穀祭があり、古代日本は、それらを、それぞれ祈年祭(としごいのまつり)・新嘗祭として、導入したとみられます。

 祈年祭では、天皇(大王)が、自分の備蓄していた、前年の初穂の種籾(稲魂・穀霊)を、祭祀で清浄にし、それらを有力豪族達に分配、各有力豪族は、それを自分が備蓄していた、前年の初穂の種籾と、混ぜ合わせて祭祀で清浄にし、それらを一般豪族達に分配しました。

 各一般豪族も、有力豪族と同様の方法で、それらを農民達に分配し、各農民は、それを自分が備蓄していた種籾か、豪族等に貸し付けられた種籾と混ぜ合わせ、種蒔することで、天皇の稲魂(穀霊)が、全国各地へと行き渡らせられるので、天皇の影響下にあることを、強調しました。

 他方、新嘗祭では、今年に最短で収穫できた、生命力のある稲穂の一部を、初穂として神に献上しますが、実際には、天皇・有力豪族・一般豪族等の特権階級が、各々管理し、高床倉庫で備蓄しました。

 その一部を、来年の祈年祭で、混ぜ合わせる種籾に使用することで、特権階級が、神と農民の間に介入・干渉できるとともに、稲魂(穀霊)が、上の者と下の者の間を、行き来することになりました。

 そののちの律令制下で、祈年祭は、天皇から、神祇官が、統括するようになり、特定神社には、6・12月の月次祭(つきなみのまつり)にも、幣帛が配布されるようになりました。

 このような祭祀を、古代中国の為政者と人民との間でも、実施されていたとみられ、祈穀祭のある令月は、種蒔命令の月で、献穀祭のある達月は、収穫達成の月だからと、推測できます。

 余談ですが、元号の令和に引用された、「初春の令月」は、旧暦1月のよい月という意味なので、本場の中国と、微妙にずらしているのです。

 

○皇位継承:即位式と大嘗祭

 古代日本は、律令制を導入する際、古代中国の「大中華」を手本とし、「小中華」を目標としたので、たとえば、周辺諸国(高句麗・新羅・百済・任那・伴跛/はえ・耽羅/たんら・呉/くれ・蝦夷/えみし・隼人/はやと・多禰嶋/たねのしま)との通交を、「日本書紀」では、朝貢と潤色しています。

 さらに、奈良盆地南部では、中国の都城を手本とした、天武天皇による新都が、計画され(途中で中断)、持統天皇による藤原京が、造営されました。

 しかし、それだけでなく、天武・持統の2天皇夫妻の時代には、対外的な中国伝来のものと、対内的な日本古来のものを、並存させています。

 皇位継承の儀式では、中国的(唐風)な即位式を、執り行い(国外の参列者もあり)、天皇が、印章+剣・鏡・勾玉を、受け継ぎましたが、それとともに、即位式後には、日本的(和風)な大嘗祭も、執り行いました(国内の参列者のみ)。

 国史では、国外向けに「日本書紀」が、国内向けに「古事記」が、編纂され、宗教では、外来の仏教と、土着の神道の、両方を振興し、仏寺では、大官(高市)大寺を、神社では、伊勢神宮を、整備しています。

 先進文化を摂取するのみだと、大国を追随するだけになってしまうので、独自文化も強化すれば、日本は、「小中華」だと主張できるうえ、合理的な先進文化は、物的・量的な満足を、非合理的な独自文化は、心的・質的な満足を、別々に請け負うことになるので、豊かな社会が創れます。

 ついでながら、皇位継承の儀式には、即位式・大嘗祭の他に、践祚(せんそ)があり、これは、天皇が死去した場合、喪中になり、しばらく即位式ができないため、円滑に皇位継承者を、確定しておくために、執り行われましたが(この時点が即位)、譲位の場合にも、即位式に準備が必要なので、執り行われています。

 践祚は、桓武天皇(50代)死後の、平城天皇(51代)に、はじめて執り行われ、それ以降も、慣例化し、天武天皇(40代)以後・桓武天皇以前は、践祚=即位式でした。

 

  ▽1687年・東山天皇(113代)の即位式

 

  ▽1687年・東山天皇(113代)の大嘗祭

 

  ▽1848年・孝明天皇(121代)の大嘗祭

 

  ▽1915年・大正天皇(123代)+1928年・昭和天皇(124代)の大嘗宮

 

 

●新嘗祭

 

 かつては、平安京・大内裏の内裏南西脇の、中和(ちゅうか)院の正殿・神嘉(しんか)殿(大極殿+朝堂院の真北側)で、現在は、皇居・宮中三殿西脇の、常設の神嘉殿で、執り行われ、夕(よい、宵、日の入直後)の儀と、暁(あかつき、日の出直前)の儀があり、同一殿で同様の儀式を2度実施します。

 それは、1日の昼と夜、1年の夏と冬のように、最盛期と仮死・再生期の2区分で対比させるのではなく、日中の朝→昼→夕と同様、夜間を宵→夜中→暁の移り変わりとし、減退期と増進期が意識され、…→増進期→最盛期→減退期→仮死・再生期→…と、4区分で永遠に循環させたいように、みえます。

 新嘗祭での、宵の儀と暁の儀と同様、大嘗祭でも、悠紀(ゆき)殿供饌(ぐせん、神へ飲食物のおそなえ)の儀と、主基(すき)殿供饌の儀があり、同様の儀式を2度実施します。

 現在は、夕の儀を、午後6時から、暁の儀を、午後11時から、執り行われていますが、おそらく本来は、名称のように、日の入直後の宵と、翌日の日の出直前の暁の、時間帯だったのでしょう。

 ちなみに、伊勢神宮の3大祭(三節祭)は、旧暦9月(現在は10月)の神嘗祭と、6・12月の月次祭で、いずれも外宮→内宮の順で、午後10時からの、由基夕大御饌(ゆきのゆうべのおおみけ)の儀と、翌日午後2時からの、由基朝(あした)大御饌の儀が、あります。

 宮中の新嘗祭では、「宵(夕、よい)」と「暁(あかつき)」で、太陽がいない設定ですが、伊勢神宮では、太陽神が祭神だからか、「夕(ゆうべ)」と「朝(あした)」とし、太陽がいる設定で、微妙にずらしています。

 それに、宮中(朝廷)の3大祭は、11月の新嘗祭と、6・12月の神今食(かんいまけ、旧穀の献上+共飲・共食)で、6・12月は、伊勢神宮と、ほぼ共通し、9月の神嘗祭は、最初の収穫期で、11月の新嘗祭は、収穫後の出挙を返済した完了期と、推測でき、伊勢神宮と宮中祭祀は、呼応しています。

 ただ、伊勢神宮は、稲のみの献上ですが、新嘗祭・大嘗祭は、稲・粟の献上で、粟は、おいしさが、それほどでもないですが、ヨリ大勢の人々の空腹を、満足させられるので、飢饉対策に、備蓄していたようです。

 

  ▽大内裏(平安宮)の中和院(区画のほぼ中央)

 

  ▽皇居・宮中三殿の神嘉殿

 

 

●大嘗祭

 

 平安前期編纂の「延喜式」・践祚(せんそ、即位)大嘗祭(巻9)によると、大嘗祭の実施は、譲位の場合、天皇の即位が、7月以前なら、同年の11月に、8月以後なら、翌年の11月に、天皇死去の場合、喪中期間後と、規定されています。

 大嘗宮は、主に、北側中央の廻立(かいりゅう)殿と、同形同大で掘立柱・黒木造(樹皮付)の、南東側の悠紀(ゆき、斎城=聖域の意味、伊勢神宮も由貴/ゆき)殿・南西側の主基(すき、次の意味)殿で、構成されています。

 特別清浄な祭場を確保するために、仮設の大嘗宮を、かつては、大内裏の朝堂院の前庭や、京都御所の紫宸殿の南庭等で、現在は、皇居の東御苑内で、直前に新造し(古代には、1週間前から建造し、5日間で完成)、儀式終了直後には、ケガレ・ハライのため、祭場・祭具を破却します。

 大嘗祭は、天皇が、身をキヨメた、廻立殿から、悠紀殿に入り、神事を執り行い(献上+米御飯・粟御飯・白酒・黒酒の共飲・共食)、廻立殿に戻り、身を再度キヨメ、主基殿に入り、神事を執り行い、廻立殿に戻り、終了すると、3日連続の節会(せちえ、宴会)でした。

 廻立殿は、横長平面の、宮中の殿舎風で、天皇は、湯で沐浴し、祭服に着替、神事の準備をします。

 悠紀殿・主基殿は、住吉大社の本殿(内陣+外陣)のように、縦長平面・2部屋(北側の「室」+南側の「堂」の構成)の、臨時祭場風です。

 悠紀殿・主基殿で、天皇は、「室」中央の神座(寝座)に接近せず、御座に着座し、東南を向き、飲食供物の盛り付けを繰り返し、それを渡した女官(采女/うねめ)が、献上していき、そののち、飲食(節会/なおらえ)します。

 京都での大嘗祭で(昭和天皇/124代まで)、御座の天皇が、東南向きなのは、伊勢神宮を遥拝しているからとされ、東京での大嘗祭では(平成天皇/125代から)、西南向きに、変更したようですが、大嘗祭の祭神は、アマテラス・天神地祇なので、かれらを神座へ、一時的に呼び寄せる設定のはずです。

 それなのに、アマテラスが祭神の伊勢神宮を遥拝するのは、矛盾することになり、それよりも、日が昇る方角に向くことで、仮死・再生を希求しているのではないでしょうか。

 神座に寝具を用意しているのも、人間が、寝て起きれば、精気・生気が復活(生命力が回復)するので、それと、穀物の種子の仮死・再生(発芽)への希求を、重ね合わせたと、みられます(実際に、天皇が、寝床につくことは、ありません)。

 それとともに、大嘗祭が新嘗祭と区別された、天武・持統の2天皇夫婦の時代には、アマテラスが、皇祖神として中途採用されたばかりなので、当初の大嘗祭の祭神は、天神地祇で、主祭神は、アマテラスではなく、かつての皇祖神だった、生産神のタカミムスヒといえます。

 その理由は、タカミムスヒが、古代の宮中・現在の皇居の、八神殿の祭神の1柱であるうえ、悠紀殿・主基殿用の稲を収穫する、2国の田(斎田)に隣接して仮設される斎場院と、大嘗宮に仮設されるの斎場院での、8祭神に、タカミムスヒは、いるが、アマテラスは、いないからで、途中で、アマテラスを付け加えたことが、わかります。

 神事で献上される米・酒は、収穫する斎田を占いで決め、おおむね、悠紀殿のものは、東方(悠紀田)から、主基殿のものは、西方(主基田)から選出され、太陽は、東方から昇り、西方を沈むので、儀式は、先が東方の悠紀殿、後が西方の主基殿の順に、なっていると、推測できます。

 かつては、1度目の廻立殿が、午後8時頃で、悠紀殿供饌の儀が、午後9時頃から、2度目の廻立殿が、翌日の午前2時頃で、主基殿供饌の儀が、午前3時頃から、だったようですが、現在は、悠紀殿供饌の儀が、午後6時半から、主基殿供饌の儀が、翌日の午前0時半からに、変更されています。

 これは、祭祀者と参列者の、両方の負担を、考慮したからのようですが、新嘗祭のように、2回目の儀式が、1回目と同日になっては、減退期(夕・宵)→仮死・再生期(夜中)→増進期(暁・朝)で、生命力を回復しようとする、本来の主旨とは、ズレてしまうので、ギリギリ翌日にしたように、みえます。

 

  ▽大嘗宮

 

  ▽悠紀殿・主基殿

 

  ▽住吉大社・本殿

 

 

 以上より、皇位継承儀式と、それに関連する儀式を、まとめると、次のようになります。

 

‐対外的な皇位継承儀式=即位式

‐対内的な皇位継承儀式=大嘗祭:悠紀殿供饌の儀→主基殿供饌の儀

 ・天皇の新嘗祭:の儀→の儀

 ・伊勢神宮(外宮→内宮)の神嘗祭・月次祭:由基夕大御饌の儀→由基朝大御饌の儀

 ・朝廷(神祇官)の祈年祭等:幣帛