禅 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 禅では、人生は苦悩ばかりで、死後に別の生き物に生まれ変わっても、それを繰り返すので(輪廻)、永久に苦悩がつきまとい、そこから抜け出すには(解脱)、絶対的真理(無・空の境地)に到達するしかなく、それには修行が不可欠だといっています。
 人は誰でも、純粋さ・清浄無垢さを持ち合わせており、心身の修行で自分の存在を掘り下げ、自分の限界を自覚するとともに、自分以外の存在を体得することが、無・空の境地に到達し、仏になることで(成仏)、そこから立ち戻り、現実での自分の懸案と対峙することになります。
 修行では、自分のあらゆる欲望・誘惑や執着・束縛等(煩悩/ぼんのう)を排除することが必須で、そうすれば心身が安定し、煩悩から解放され、清浄無垢で自由自在になり、日常生活でも、あるがままの状態を受け入れられ、無心で取り組めば、個人の能力が発揮でき、純粋に生き抜くことができます。

 仏教は、釈迦(しゃか)が説いた教えをもとに、インドで様々に展開しましたが、その教えを学ぶには、戒律厳守・経典研究・瞑想(禅)の3つあわせて修行しなければならず、生産労働は禁止で、僧侶は施しを受ける乞食のようで、日常生活とは掛け離れていました。
 それが中国に伝来すると、禅が仏教のすべてを包み込むとし、禅に特化して修行する教団が確立され(禅の始祖は、インドから中国に渡来した菩提達磨といわれています)、昼は作務(さむ/掃除や自給自足による農作業・寺務や維持管理等)、夜は座禅修行で、日常生活と一体化するように転換しました。
 伝来当初は弾圧されることもあった仏教も、しだいに国家統治のため保護されて隆盛し、そこでは経典研究が主流となりしたが、やがて乱世となり、寺院勢力による荘園の発達で、国家財政が逼迫すると、廃仏運動が激化するようになります。
 寺院は没収、経典は焼却、僧侶は還俗させられ、それを拒絶した僧侶達は山奥に逃げ込み、寺院・経典等がない環境で、仏教を守り伝えようとしたので、樹下石上での座禅に専念せざるをえず、この修行から仏教の本質を真剣に探求し、他物や他人に依存せず、自分で打開することに辿り着いたようです。
 禅は、かつての迷いから、自らで悟りを開いたと、師が認めてはじめて、師の教えを受け継ぐことができるので、修行の際には、師と仰げる僧と出会えるまで探し続け、師も弟子と心が通じ合わないと、教えは説き伝えられません。
 このような師弟関係は、弟子の個性を尊重するとともに、師の教えが正統であることを証明することでもあったので、当時の宗派は厳格に区分されておらず、各宗派間では、修行希望者に相応しい指導者を、適切に紹介する柔軟さがあったようです。
 そして、弟子の悟りを師が確かめたり、師の教えを弟子が受け継ぐうえでは、会話でのやりとりが必要で、それが定型化したのが禅問答(公案)といえます。
 さらに日本の禅は、栄西・道元以前から伝播していましたが、当時の社会では定着せず、移入が本格化したのは、かれらからで、この時期は権力が貴族から武士へと移行するのと一致し、禅の思想は主に、武士の活躍や芸術文化の創造(禅宗様の建築・枯山水の庭園や水墨画、茶の湯・猿楽等)に寄与しました。
 それ以降も、中国では騎馬民族が国家を支配し(元)、漢民族への弾圧から、伝統・文化継承のため、禅僧達の日本への亡命が活発化し、日本も武士や公家がかれらを受け入れ、大勢の渡来僧や帰国僧によって禅が発達しましたが、そのほとんどは臨済禅で、わずかに曹洞禅でした。


●栄西と臨済禅

 比叡山延暦寺で修行した明庵栄西(みんなんようさい)は、天台宗の教学や密教を学びましたが、当時形骸化していた天台宗に嫌気し、南宋に留学して繁栄していた禅を学び、臨済宗の教えを師から授かりましたが、日本では禅のみの普及ではなく、あくまでも禅を天台宗に取り入れ復興しようとしました。
 天台宗は、「妙法蓮華経(法華経)」を根本経典として最重要視しており、人は誰でも仏になれるとの教えが説かれ(泥の水でも美しい蓮の花は必ず咲く)、中国で発生し、最澄が日本に移入しましたが、かれは天台教学・戒律だけでなく、密教・禅・念仏(浄土教)も学び持ち帰っています。
 ところが、比叡山の圧力で、朝廷が禅の布教を禁止したので、栄西は鎌倉幕府の庇護を受け得て、北条正子(初代将軍・源頼朝の正室)の支援で寿福寺(神奈川県鎌倉市)を、2代将軍・源頼家(頼朝と正子の長男)の支援で建仁寺(京都市)を建立しました。
 しかし、栄西はあくまでも寿福寺・建仁寺を延暦寺の末寺、天台・真言・禅の3種兼学の道場と位置づけており、頼朝・頼家や正子にとっても、栄西は禅僧よりも、密教の加持祈祷僧としての存在だったようで、これ以降、臨済禅は幕府や朝廷と密接に結び付き、勢力を拡大していきます。
 このように権力に庇護されて発展したのは、中国の臨済宗も同様で、日本でも鎌倉・室町両幕府は、臨済禅寺を序列化・統制するとともに(五山十刹諸山)、諸国の警備・治安維持にあたっていた守護も支持基盤となりましたが、応仁の乱を契機に守護が没落すると、庇護されていた禅寺も衰退していきます。
 それにかわって、守護配下や土着の武士が戦国大名として台頭しますが、かれらは領地の統治に役立てるため、禅僧から思想や教養を仕入れようと、在野の禅寺の支持基盤となり、特に朝廷とも親密な関係だった大徳寺・妙心寺へ接近したり、他宗他派の寺院も活発に取り込み、権威も手中にしました。

 臨済禅では、座禅も取り入れていますが、公案の修行を重視しており、師弟の緊密な会話が必須なので、禅僧は伽藍ではなく、それを取り巻くそれぞれの小院(塔頭/たっちゅう)で、少人数で修行・生活します。
 また、芸術文化の創作活動は、禅僧の作務にも位置づけられ、それに取り組む姿勢は「道」でもあり、例えばかれらは、自ら枯山水を作庭するようになり、やがてその中から作庭が得意な禅僧(石立僧/いしだてそう)が登場し、しだいに発注側と請負側に分化していきました。

 塔頭はもともと、祖師の墓所に隣接し、数人の墓守僧侶が生活する施設でしたが、住職が頻繁に交代するようになると、伽藍の周囲に、隠退した高僧の生活する施設が急速に乱立し、戦国大名達は各々の塔頭を自分の菩提所にして、経済支援するようになりました。
 塔頭の中心は、3行2列の部屋があり、その四周を広縁が取り巻く、寝殿造風の方丈で、主に北側3部屋は、修行僧を指導する住職の生活の場(ケ=私的空間)、南側3部屋は、接客や修行の場(ハレ=公的空間)として使い分けています。
 塔頭での庭園は当初、方丈の北庭から発達しましたが(植物は日照のある南方を正面とし、そこへの採光で部屋から観賞しやすくなります)、これは禅寺の南北軸線上の伽藍配置でも、方丈は北方に位置し、主にその北庭に石組・植栽で庭園を造営したのと共通しています。
 禅は廃仏運動から山奥に逃げ込み、座禅修行に打ち込んだことから誕生しており、道教(神仙思想)の影響もあってか、住職達は山奥の隠遁生活に憧れを抱いており、まず塔頭の方丈北庭で、理想の境地を作り出しました。
 一方、塔頭の方丈南庭は、住職の入れ替わりの儀式(晋山式)が執り行われ、その行列は築地塀のある中央の唐門から、南庭を通り抜け、方丈正面へと行き着くので、南庭には清浄無垢な白砂を敷き込んでいました。
 ところが、しだいに塔頭が急速に乱立し、相互に接近するようになると、敷地に余裕がなく、南庭は手狭になり、儀式の場として対応できなくなり、禅僧達はそこに石組と植栽を持ち込んで、観賞の場へと転換するようになります。
 鎌倉や京都でも敷地に充分余裕があり、自然に隣接した禅寺では、周囲の自然を取り込み、傾斜地を利用して庭園が造営できますが(前期の枯山水はこの形式です)、京都の込み合った地区に立地する塔頭では、周囲に自然がなく、平坦地なうえ、空間が限定されてしまいます。
 しかし、これを逆手にとって、南庭では独自の世界を創り出すきっかけとなり、万物はすべて関連し、ひとつの宇宙を構成しているという、禅の真髄を表現するため、簡素・素朴で抽象化・象徴化した作庭に取り組み(後期の枯山水はこの形式です)、臨済禅僧の修行(生活)で常時対峙する空間となりました。
 禅の本質は、目に見える形・色や文字・言葉・動作等ではなく、目に見えないので、それを見抜き見極める力量が要求され、造形では、創作者が物で覆い尽くして完全・完結にすると、鑑賞者の入り込む余地がなくなるので、余分・余計な物を削ぎ落とし、そこを心で自由自在に埋め合わさせようとします。
 例えば、禅僧達は公案のひとつとして、禅画(水墨画)や庭園(枯山水)を眺めて自分が感じた心の状態を、漢詩に表現し、高度で繊細な感情を洗練しました。
 禅僧が漢詩をたしなむようになったのは、中国の禅寺からで、そこでは文学活動の習慣があった貴族や官僚と社交したり、科挙の試験に合格しなかった知識・教養のある人々が、禅寺に大勢流れ込んだのが影響しているようで、渡来僧・帰国僧による漢詩の習慣から五山文学が誕生しています。


●道元と曹洞禅

 一方、永平道元も比叡山で修行し、延暦寺はもともと天台教学+戒律・密教・念仏・禅の4種兼学の道場でしたが、当時は真言密教を取り入れ、加持祈祷を重視しており、それに嫌気した道元は、栄西の建仁寺を訪問し、その弟子の明全(みょうぜん)に師事・随行して南宋に留学します。
 当時中国の臨済禅は権力に迎合しており、それに反対だった道元は、なかなか師と仰げる人物と出会えず、ようやく権力を拒絶し、修行一筋に打ち込む曹洞禅の僧侶のもとで学ぶことができ、教えを授かって帰国しました。
 栄西より徹底化した道元の禅は、比叡山から強烈な迫害にあい、興聖寺(京都府宇治市)を建立して布教をはじめましたが、しばらくするとその付近に、朝廷高官の九条道家・実経親子が強力に支援する、臨済禅の東福寺(京都市)が建立されました(ここも天台・真言・禅の3種兼学です)。
 この打撃から、越前国の地頭・波多野義重の招聘で、永平寺(福井県永平寺町)を建立しましたが、それ以後には執権・北条時頼や後嵯峨上皇の支援を固辞しており、権力を利用した勢力拡大より、純粋な禅の布教に固執したのではないでしょうか。
 また、道元は、悟りを開いた祖師に、兼学・兼修(学問や修行の併用)した前例はないという、師の教えを忠実に守り、座禅のみを徹底追求しました。

 曹洞禅では、文字(経典)や言葉(禅問答)にとらわれず、ただひたすら座禅の修行を重視しており、体を仏の姿のようにして座り通せば、心が落ち着くとされ、南宋移入当時からの伝統で、禅僧は僧堂や回廊で、多人数で修行・生活します。
 座禅は、インドのヨガが起源とされ、釈迦が座禅をし、明けの明星に悟りを開き、その悟りを教えとして説いたものが経典となったので、その根源の座禅が拠り所となっていますが、座禅の場所は、インドから中国・日本へと伝播すると、樹木の下、洞窟の中、僧堂の床と移り変わっています。