親鸞の思想 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 法然は、平安末期から鎌倉初期にかけての仏僧で、阿弥陀如来に願いが叶うように誓いを立て、心の底から「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、誰でも阿弥陀如来が宿主の極楽浄土に往生し、成仏できると説きました。
 人間にはたくさんの悩みや苦しみがありますが、現世では様々な欲望(煩悩)もあるので、故郷のように離れ難く生き続けたいですが、死んでしまった来世では、その煩悩という抑圧から解放されるので、それらの苦悩もなくなって安楽になるという教えです。
 この時代は、飢餓・戦乱・疫病等で生死の境目に直面することが頻繁で、民衆は生きているのは苦で、せめて死んだら楽になりたいという感情が湧き起こりますが、寺院を建立したり、仏像を安置したり、心身を修行する等はできないので、念仏を唱えさえすれば往生できるという考え方に行き着きました。

 一方、親鸞は、師事した法然の思想を継承しつつ、さらに極限まで突き詰め、主に2つの解釈を付け加えました。

 ひとつは、阿弥陀如来に願いが叶うように誓いを立てたり、心の底から念仏を唱えるということは、そこに自力が介在してしまうので、一途に阿弥陀如来を信仰しなくてよく、ただの言葉だけの念仏でよいと説いています。
 通常の思考では、人間は善行すれば極楽、悪行すれば地獄といってしまいがちですが、親鸞は人間が自力でできる行為には限度があり、善行も悪行もたいした規模ではなく、きっかけしだいで善人にも悪人にもなるので、自分の意図・意識や欲望(煩悩)を放棄して念仏を唱えるべきだといっています。
 それにくらべて、阿弥陀如来は永遠の命(空間)を持ち、無限の光(時間)でくまなく照らすので、念仏があれば、その光が受けられ、命を救ってくれる(仏になれる)と教えています。
 念仏に関心を持ち始めるということは、その時点ですでに阿弥陀如来から自分へ光が射し込み、包み込まれたから、そうなったのだと説明しています。
 しかし、ここでは庶民にもイメージしやすくするために擬人化し、途方もなく超人的な能力をもった阿弥陀如来が往生させてくれると解説していますが、だから阿弥陀如来を信仰せよといっているのではなく、おそらく絶対的な他力の存在を認識すべきだと主張しているのではないでしょうか。

 もうひとつは、庶民にとって浄土がイメージしにくく、いきなりそこへは跳び越えられないので、現世と来世の間に橋を架けて(媒介を設定して)、誰でも渡りやすく(わかりやすく)しています。
 親鸞は、来世からの阿弥陀如来の光と、現世からの念仏の声が遭遇するところに、確実に浄土に往生できる直通の場所(そこは皇太子の地位のように皇位が約束された位置だといっています)を設定し、念仏すればそこに到達するといっています。
 そこは、現世も来世も見通せる生と死の中間地帯であり、無意図・無意識(「自ずから取り計らわずに」と表現しています)の自然な状態で、自由に往復して往き道と還り道の両方から眺められます。
 ここでの自然な状態とは、天の声でも地の声でもなく、人と人との間に交わし合われた声で、それを聞き澄まして同化すれば、それが悟りの境地であるともいっています。
 そして、もし自分が行動する際には、その中間地帯へ往く途中で、自力の眼で問題を見て考え行動しても、それは緊急の解決(自己満足程度)であって、いったん往ってそこから引き還して絶対他力の眼で問題を見て考え行動しないと、永遠の解決にはならないといっています。

 以上のように、親鸞は、信仰を規制することで閉鎖的にせず、創造させることで開放的にしようと努力し、そのために思想を構築すると同時に解体する手法を採用したといえます。
 思想を組み立てる際には、阿弥陀如来と念仏を利用して庶民にもわかりやすくしましたが、おそらくその形式(構図)が本質なので、阿弥陀如来信仰や口称念仏を強制せず、それらを取り払っても、万人に受け入れられる普遍性を獲得したのでしょう。
 そして、法然のように現世の問題を来世で解決するのではなく(偽善や露悪が横行するので)、現世と来世の中間の見方や考え方を提示することで、何とか現世で問題を解決できる契機となるよう、模索したのだといえます。
 それは、いかに心身を研ぎ澄まし、自然な状態で見たり考えたりするかで、物事が複雑に絡み合った時代(中世と現代は類似しているといえます)では、特に最も重要ではないでしょうか。