日本的永遠性4 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)
 
 
●一神教的な鎌倉新仏教
 
 仏道修行は、各宗派によって様々ですが、法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)等は念仏に、道元(曹洞宗)は座禅に特化しており(座禅は釈迦が悟りを得た姿なので、それを真似します)、一見すれば一神教のように単純化されているようですが、実際は直線的な思考から脱却し、循環的な思考で強化しています。
 直線的な思考をわかりやすくいえば、「~すれば…になる」(「信じる者は救われる」等)という図式、手段→目的の関係で、仏教では一般に、過去は現在に、現在は未来に影響するという因果応報が基本ですが、親鸞と道元は、2つの世界を行ったり来たりすることで、現時点を最重要視しているようです。
 
 
○親鸞(1173~1262年)
 
 親鸞は、藤原北家の子孫・日野家出身で、9歳の時に京都東山・青蓮(しょうれん)院で出家し、同年から比叡山で20年間修行しましたが、悟りを得られず、29歳の時に比叡山を下山、専修(せんじゅ)念仏(他の修行をせず、ただ「南無阿弥陀仏」と念仏)を主張していた法然の弟子になりました。
 親鸞35歳の時には、延暦寺・興福寺の弾圧と、法然の弟子の事件の連帯責任で、専修念仏が禁止され、法然は土佐(実際には讃岐)へ、親鸞は越後へ流罪のうえ、僧籍を剥奪されました(半僧半俗)。
 法然は、流罪と同年に赦免され、親鸞は、流罪中に恵信尼(えしんに)と結婚し、親鸞39歳の時に、法然は帰京、親鸞は赦免されましたが、しばらく越後に滞在し、親鸞40歳の時に、法然が死去しました。
 親鸞42歳の時には、関東へ拠点を移動し、52歳の時には、「教行信証」の草稿が完成、恵信尼との子・覚信尼(かくしんに、その孫が本願寺を創建)が誕生、62歳頃にようやく帰京しましたが、布教活動はせず、執筆活動に専念しており、90歳で死去しました。
 
 法然は、念仏さえすれば、西方の極楽浄土にいる阿弥陀如来の力で(他力)、極楽浄土へ往生・成仏できるとしましたが(専修念仏)、それだけでは、来世利益のみで、現世利益はありません。
 なので、親鸞は、いったん来世へ往ったつもりで(往相回向/おうそうえこう)、客観的に洞察し(死者の眼・俯瞰の眼で)、そこから現世へと戻ったつもりで(還相回向/げんそうえこう)、主体的に行動することを提案し、おそらく浄土真宗の信者達は、これを一向一揆で具現化したのではないでしょうか。
 法然は、穢土という現状から、念仏という手段で、浄土という目的を達成する、直線的な思考ですが、親鸞は、生前の現世(穢土)と死後の来世(浄土)を行ったり来たりすることで、現時点を最重要視した循環的な思考を主張しており、これは自然の摂理である循環と同化させようとした行為といえます。
 
 
○道元(1200~1253年)
 
 道元は、村上源氏の子孫・久我(こが)家出身で、15歳の時に比叡山で出家し、16歳の時に近江・園城寺(三井寺)の公胤(こういん)のもとで天台教学を修学、18歳の時に京都・建仁寺の明全(みょうぜん、栄西の弟子)のもとで禅を修学し、24歳の時に明全とともに南宋へ留学しました。
 南宋では如浄(にょじょう)の弟子になり(明全は南宋で病死)、曹洞禅を直伝され、29歳の時に帰国し、34歳の時に京都伏見・興聖寺(こうしょうじ)を建立しましたが、既成の仏教勢力から弾圧され、44歳の時に、越前(現・福井県東部)の地頭・波多野義重(よししげ)の招聘で、越前へ移住しました。
 45歳の時には、越前で大仏寺を建立し、47歳の時には、大仏寺を永平寺に改称、49歳の時には、5代執権・北条時頼(ときより)や波多野義重らの要請で、鎌倉へ出張・布教しましたが、政治権力とは距離をとり、54歳で死去しました。
 
 既成の仏教勢力(延暦寺・興福寺、南都北嶺)や、新興の禅は、修行すれば、欲望や執着(煩悩)が取り除かれ、悟りを得ることができるとしていたので(自力)、念仏さえすれば、極楽浄土へ往生・成仏できるとする(他力)、法然・親鸞の一派を批判・迫害していました。
 道元は、「あらゆる生命には仏性がある」とされているのを、「あらゆるものが生命で、全世界が仏性だ」と読み替えました。
 仏性は、自然に存在する空気のように全世界に充満し、その中で万物は生命のごとく呼吸・生活していますが、人間だけは他と区別する自我意識があり、それで迷い苦しむので、それを排除するために修行しなければいけないとし、道元は悟りを得ることを、真理の世界に溶け込むと表現しています。
 そして、道元は、迷いという現状から、修行という手段で、悟りという目的を達成する、直線的な思考はなく、迷い(現実の世界)と悟り(真理の世界)は表裏一体で、迷いと悟りを行ったり来たりする、循環的な思考を主張しました。
 そこでは、生活のすべてが修行で(修行自体が目的化)、現時点を最重要視しており、これも自然の摂理である循環と同化させようとした行為といえます。
 
 
●千利休(1522~1591年)
 
 利休は、堺の商家出身で、祖父・田中千阿弥は、足利義政(8代将軍)の同朋衆(文化・芸術の側近で、茶の湯を担当していたと推測)でしたが、戦国前期に堺へ移住し、父・田中与兵衛は、一代で堺の有力者十人衆の一人に台頭しており、利休は、16歳の時に、すでに茶の湯へ入門していました。
 18歳の時に、武野紹鴎(じょうおう)の弟子になり、師弟ともに京都・大徳寺の末寺・堺の南宗(なんしゅう)寺で禅の修行をし、19歳の時に、父が死去しましたが、祖父の威光を背後に、著名な茶人とも交流したようで、23歳の時に、茶会を主催した記録があります。
 青年時代から利休は、茶人として活躍、34歳の時に、武野紹鴎が死去し、48歳の時に、織田信長が堺を直轄地としたため、49歳の時に、信長が津田宗及(そうぎゅう)・今井宗久(そうきゅう)とともに、利休を茶頭(さどう、茶の湯の指南役)に取り立てられました(天下三宗匠/そうしょう)。
 61歳の時に、本能寺の変で信長が戦死すると、3人は豊臣秀吉の茶頭となり、64歳の時に、関白に就任した秀吉の正親町(おおぎまち)天皇(106代)への禁中献茶で、利休が奉仕、66歳の時に、秀吉の北野大茶会を3人が主導し、利休70歳の時に、秀吉に激怒され(理由は不明)、謹慎・切腹しました。
 
 ワビ茶は一般に、村田珠光→武野紹鴎→千利休と継承されたといわれていますが、実際は3人とも、茶の湯の名人として、足利義政の時代から伝来する中国・朝鮮渡来の唐物・唐絵等、茶道具の名物を収集・所持することに執着しており、先達の伝統を踏襲したうえで、自分の嗜好を加味しようとしています。
 これは、先人を越えようとは思っておらず、先人の足跡に自分の体感を重ね合わせようとし、その反復は、一日での太陽の運行や一年での四季の変化や、能因法師→西行→松尾芭蕉の東北への長旅と同様、自然の循環と同化しようとする行為といえるのではないでしょうか。
 利休が独自性を発揮したのは、秀吉の茶頭になってから死去するまでの晩年の10年間で、利休は、珠光や紹鴎の茶の湯を、次のように改革しました。
 まず、紹鴎は、茶室が4畳半以上で、中国・朝鮮の舶来物等の茶道具を使用する茶の湯を寂敷(さびしき)、茶室が3畳半以下で、舶来物を使用しない茶の湯を侘敷(わびしき)と区別していました。
 しかし、晩年の利休は、茶室の大小にかかわらず、自由に茶道具を使用したり、茶室を2畳(山崎城の妙喜庵待庵、大坂城の山里丸)・1畳半(聚楽第の屋敷)等に極小化するとともに、炉・床の間等の寸法も縮小化しました。
 つぎに、珠光は、名物どうしを並存させると、各々の特徴が相殺されてしまうので、「藁屋(わらや)に名馬繋(つな)ぎたるがよし」というように、主役の名物ひとつを引き立たせるため、脇役の茶室や他の茶道具を簡素化しました。
 一方、晩年の利休は、唐物・和物や主役・脇役の区別なく、一部が突出せず、茶室・茶道具等の総体を簡素美で調和させようとし、そこに合う新しい価値も取り入れ、それも名物化していきました。
 普段比較的豪華な生活をしている武将・豪商等が、時々簡素な茶の湯を愛好するのは、仏教では、不浄(=豪華)な穢土(えど、ケガレの世界)の現世と、清浄(=簡素)な浄土の来世を、行ったり来たりする行為のようで、茶会が終わって茶室から出るのは、擬似的な生まれ変わりを意味しているようです。
 また、神道では、日常生活だけでも、しだいに生気・精気が減衰していくので、生気・精気回復、ケガレた心身をキヨメるために、茶室に引き籠もってミソギ・ハライの儀式を執り行っているようでもあり、記紀神話でのアマテラスの天岩屋戸(あまのいわやと)での入出による災厄除去を想起させます。
 こうして、利休は、秀吉との交流が親密になるとともに、簡素な茶の湯・茶室に辿り着きましたが、それは、庶民出身から天下統一しようとする秀吉が、傲慢(ごうまん)になるのを戒(いまし)め諭(さと)すためだったのではないでしょうか。
 はいつくばるほど低く抑えた手・口を清める手水鉢(ちょうずばち、蹲踞/つくばい)、頭を下げて刀を取らないと出入りできない躙口(にじりぐち)を採用したのは、利休が底辺から這い上がって頂点まで登り詰めようとする秀吉を、擬似的に庶民の心身へと生まれ変わらせるためだったようにみえます。
 ただし、利休は、秀吉の黄金の茶室にも関与していたようなので、秀吉を豪華さから簡素さへと直線的に生まれ変わらせるのではなく、豪華さと簡素さの両極を循環的に行ったり来たりさせてようとしたみたいです。
 茶室へとアプローチする茶庭の露地は、山中を、簡素な茶室は草庵を再現しましたが、露地は旅路、草庵風茶室での茶の湯は、隠遁生活のようで、西行の長旅と草庵生活の繰り返しを連想させ、露地の茶庭が拡大すれば、武家(大名)・公家等の屋敷の回遊式庭園と、散在する茶室の構成になります。
 
 
●松尾芭蕉(1644~1694年)
 
 芭蕉は、19歳で北村季吟(きぎん、松永貞徳の弟子、「源氏物語」の注釈書「湖月抄」を執筆)の弟子になり、まず貞徳の貞門派で俳諧を開始、32歳で江戸へ移住し、つぎに西山宗因と接触、宗因の談林派に影響され、35歳で職業的な連歌師になりましたが、この時点ではまだ突出した存在ではありません。
 そうなったのは、41歳(1684年)から死去する51歳までの晩年の11年間で、その間に個人で俳諧紀行文を執筆するとともに、弟子達と集団で俳諧選集(七部集)を編纂しており、俳諧選集は、連歌での連句と、そこから独立した発句の構成で、俳諧紀行文は、発句と文章の構成で、それらは次に示す通りです。
 
‐1684~85年「野ざらし紀行」:江戸~伊賀上野(出身地)~江戸 → 1684年・名古屋で句集「冬の日」
‐1686年・名古屋で句集「春の日」(芭蕉同席せず、「冬の日」の続編)
‐1687年「鹿島詣」:江戸~鹿島神宮
‐1687~88年「笈の小文」:江戸~伊賀上野~伊勢神宮~明石
‐1688年「更科(さらしな)紀行」:京都~信州~江戸
‐1689年・名古屋で句集「阿羅(あら、曠)野」
‐1689年「奥の細道」:江戸~東北~北陸~大垣 → 1690年・近江で句集「ひさご」 → 1691年・京都で句集「猿蓑」 → 1693年・江戸で句集「炭俵」
‐1698年・句集「続猿蓑」(1694年着手、同年に芭蕉死去)
 
 晩年の11年間に、まず、芭蕉は、先達の歌人・西行や、連歌師・宗祇(そうぎ)等を手本とし、漂泊の長旅と簡素な草庵生活を行ったり来たりしましたが(特に「奥の細道」は、芭蕉が尊崇する西行の500回忌を祈念)、霊場巡礼や草庵での引き籠もりは、生気(精気)回復・心身清浄化の行為といえます。
 芭蕉の理念は、乞食同然の遊行でしたが、地元有力者の屋敷で世話になったり、温泉宿に滞在したり、馬に乗ったり、案内人を雇う等、実際はかなり裕福な道中だったようで、比較的豪華な旅行から、簡素な俳句を絞り出しており、豪華さと簡素さを行ったり来たりしていました。
 芭蕉は、弟子達からの指導料を受け取らないことを信念としていたので、俳句を趣味とする人達の句会への出座と作品に点数をつける際の謝礼、短冊・色紙等の依頼での報酬、弟子(有力者が大勢いました)からの金品の贈与・長旅出発時の餞別(せんべつ)等で、生活費・旅行費を捻出していました。
 そのうえ、芭蕉は、「奥の細道」を死去直前まで推敲を繰り返しましたが、現地で実際に体験したことだけでなく、虚構も織り交ぜることで、風雅を追求しており(同行した弟子・曽良/そらの日記による)、「実」と「虚」をいったり来たりしています。
 つぎに、芭蕉は、旅の最中や自宅で、俳句+紀行文を執筆するとともに、道中の一時滞在先や旅の終了後に、弟子・仲間達と連歌会を開催し、俳諧撰集を編纂、後世だと芭蕉といえば俳句ですが、芭蕉自身は死去するまで、発句と連句の両方を重視し、個人での発句と集団での連句を行ったり来たりしています。
 このように、芭蕉は、長旅と草庵、豪華さと簡素さ、実と虚、個人での発句と集団での連句の行き来を繰り返すことで、自然の摂理である循環と同化させようとし、永久不死不滅を希求したのではないでしょうか。
 
(おわり)