日本の特徴5~疑似的親子関係での継承の形式 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

●擬似的親子関係での継承の形式

 

 万物・万事・万人が無常な、この世界・宇宙において、個人は、必死必滅が不可避なので、日本では、親から子へ・師から弟子へ等、擬似的親子関係の集団により、物(日本・土地)・事(「職」・「業」・技術・型)・心(教義)を受け継ぐことで、永久不死不滅を希求しました。

 中国の儒教では、先祖崇拝→親孝行→子孫繁栄と、3段階の「孝」を連続させることにより、永遠性を希求しますが、これは家族内のみで、家族外は、主君に「忠」、友人に「信」すべきとしていますが、家族外にも、擬似的親子関係を、広範に適用してきたのが、日本の特徴です。

 ちなみに、中国の儒教(『礼記(らいき)』曲礼下第2)では、3度忠告(諫言/かんげん)してもダメなら、「忠」していた臣下は、主君のもとを去ってもよいですが、「孝」していた子は、親に従えとなっているので、擬似的親子関係ならば、下の者に、上の者への絶対忠誠が、強要されてしまうのです。

 

 

○天皇の男系制(万世一系):「血」(養子不可)で日本を受け継ぐ

 中国の皇帝は、ほぼ男系男子で継承し(唯一の女帝は、唐代の則天武后)、王朝交代では、皇帝と血縁関係のない有力者(有徳者)が、天意(実際は、反乱での民意)を根拠に、帝位を奪取しました(天命思想・易姓革命)。

 その際には、しばしば周辺の遊牧異民族が侵入・征服したので、帝位継承は、「血」(外面)よりも「徳」(内面)が優先だと主張されました。

 一方、日本の天皇は、5世紀後半の雄略天皇(21代)の時代には、王位継承に「血」を優先していたようですが(刀剣の銘文に王の系譜あり)、5世紀終りの武烈天皇(25代)で、皇統が断絶してしまいました。

 すると、6世紀初めに、諸豪族は、応神天皇(15代)の5世孫の継体天皇(26代)を即位させ、即位前の皇族は、玄孫(やしゃご、4世孫)までで、5世孫は、皇族の範囲外でしたが、皇統断絶にならないよう、範囲内に変更し、それ以降、現在まで、天皇は、「血」を絶対とし、男系で継承されています。

 歴代天皇131人中(126代+北朝5代)、天皇経験者からの男系の血筋は、5世孫が継体の1人のみ、玄孫がおらず、ヒ孫が孝徳(36代)・皇極=斉明(35・37代)・後花園(102代)・光格(119代)の4人で、他の全員が、子か孫の皇位継承なのです。

 よって、皇室は、「血」の永続性・貴重性で、別格の最希少といえ、逆に、貴族・武士・町人には、「職」(家職)・土地・「業」(家業)を経営するという、実(内実)があるので、「血」が断絶しても、「家」を存続させなければならず、天皇は、名ばかり・形だけ(外形)が本質で、実を後付してきたのです。

 余談ですが、皇位継承断絶の危機は、現在だけでなく、江戸後期にもあり、一夫多妻で、複数人の息子が生まれましたが、1人以外、早死にするのが3代続き、その次が1人でした。

 光格の息子は、8人中で長生きしたのが1人、仁孝(120代)の息子は、7人中で長生きしたのが1人、孝明(121代)の息子は、2人中で長生きしたのが1人、明治(122代)の息子は、1人でしたが、長生きし、大正(123代)の息子は、4人中で長生きしたのが4人で、安定したかにみえました。

 大正は、一夫一妻でしたが、そののちも、それが皇室で定着すると、男系を存続する限り、皇統断絶の危機は、今後も免れないでしょう(政府は、旧宮家を数家復活できても、一夫一妻ならば、数代で再度断絶の危機が到来し、日本史上の汚点になるので、男系の完全な断絶で、女系も容認となるでしょう)。

⇒ [*日本的永遠性1]

⇒ [*普遍的日本論1・2]

 

○貴族の養子制:「氏」・「家」で「職」を受け継ぐ

 大和政権の成立当初、大王(おおきみ、天皇)のもとに、諸豪族が結集しましたが、天皇は、まだ諸豪族の盟主(代表)程度で、群臣が天皇を擁立し、天皇が群臣を任命する、双方向の相互承認が必要でした。

 各豪族は、一大勢力になることで、影響力を発揮するために、最有力者の首長(氏上/うじのがみ、氏長/うじのおさ・氏宗/しそう)のもとに、一族ら(氏人/うじびと、氏子)が結集し、私有地(田荘/たどころ)・私有民(部民/べのたみ)を管理し、祖先神(氏神)を祭祀しました。

 「氏(うじ)」が大和政権(朝廷)に認定され、天皇から氏上へ、位階の称号(姓/かばね)と「職」(官職)が授与されれば(氏族制)、朝廷に出仕でき、地位・役職をもらったかわりに、天皇へ、名代・子代(なしろ・このしろ、皇室の直轄民)屯倉(みやけ、皇室の直轄地)を提供しました。

 これが、数々の皇位継承の勢力抗争で、有力豪族が次々に滅亡し、飛鳥後期の天武天皇(40代)の時代に、中央集権化・公地公民が成立しましたが、中国由来の科挙を、日本で本格採用していないので、朝廷の官僚は、世襲の中央豪族(貴族)でした。

 朝廷は、中心が、おおむね皇室→藤原氏→藤原北家と移行し、平安貴族は、男子が公的な官職を(家職)、女子が私的な財産を(家財)、世襲しましたが、「血」のつながった後継者がいなければ、親戚から養子を迎え入れて相続させ、「家」を維持しました。

⇒ [*日本的永遠性2]

 

〇武士の養子制:「家」で土地・「職」を受け継ぐ

 武士が台頭したのは、律令制下の徴兵による軍団が廃止され、治安維持が不安定化したことと、朝廷が国司に、一定額を納税させ、地方統治の裁量権を委譲し、領主が有力者(権門勢家)に、土地を寄進して、不輸(納税免除)・不入(役人立入禁止)権をもつ荘園(私領)が拡大したことが、きっかけです。

 つまり、警察権をもつ組織がない中で、荘園領主・国司は、土地(私領・公領)を自衛しなければならず、それには、軍事に特化した武士が必要でした。

 やがて、武士は、貴種の源頼朝のもとに結集し、後白河法皇(77代)が頼朝(兄)に、義経(弟)追討の際の治安維持・戦費のため、国ごとで守護(軍事・警察権)の、荘園・公領ごとで地頭(土地管理・徴税権)の、設置を許可したのがきっかけで、武士は、土地を実効支配するようになりました。

 こうして、中世武士は、自分の私有地を死守するのが使命になり(一所懸命)、「家」ごとに土地を経営したので(封建制)、「血」のつながった後継者がいなければ、親戚から養子を迎え入れて相続させ、「家」を維持しました。

 なお、主君の武士は、実力が、一家とともに、家臣集団の今後も左右するので、長男を優先せず、有能な息子に相続させ、それには、臣下の武士の意向も不可欠になります。

 臣下は、戦死しても、戦功があれば、主君への「忠」で所領が分与され、一家の繁栄につながる「孝」なので、必死必滅な個人よりも、「家」の永久不死不滅を希求しました。

 それが天下統一で、近世武士になると、主君は、実力で私有地化していったので、臣下は、人事異動もある役人化し、徳川将軍は、全国が私有地になり、大名は、藩主という、家臣は、藩士という、「職」を相続したにすぎず(養子も採用)、委託された藩内の土地を経営するように変容しました(国替あり)。

⇒ [*日本的永遠性2]

 

○町人(商人・職人)の徒弟制:疑似親子で「業」・技術を受け継ぐ

 商工業者は、西洋も東洋も、まず、同業者組合(ギルド、座)を結成し、商品の生産・流通を独占すると、つぎに、自由競争せずに、共存共栄するため、「家」ごとの徒弟制で(奉公人が住み込み)、「業」(家業)・技術の継承(ノレン分け)を制限・調整しました(楽市・楽座は、例外です)。

 商人は、旦那(だんな、経営者)→番頭(従業員の筆頭)→手代(てだい、従業員)→丁稚(でっち、大坂・京都の雑用)・小僧(江戸の雑用)と、序列化され、「業」の経営が、「家」の今後を左右するので、有能な番頭を、旦那の娘と結婚させ、養子として迎え入れ、女系で継承するのが、合理的でした。

 職人は、親方(経営者)→職方(子方、従業員)→見習(雑用)と、序列化され、疑似的な親子関係で、技術を継承し、「家」を維持しました。

⇒ [*日本的永遠性2]

 

○仏僧の師弟制:師弟で教義を受け継ぐ

 仏僧は、妻子なしが、名目なので(律令制下の僧尼令は、異性との性交禁止でしたが、実質は、妻子ありもいました)、師弟関係で教義を継承し、これも疑似的な親子関係といえますが、「血」(外形)よりも「信」(内実)のつながりが優先されるので、これは、自力(「する」)成仏の聖道門的です。

 禅では、弟子は、自分が尊敬できる禅僧のもとで修行するのを希望し、師は、自分の伝えたい教えの正統性を主張するために、相性のいい弟子を受け入れたいので、弟子の希望者が、自分よりも、他の禅僧の指導のほうが、適切だと判断すれば、その禅僧を紹介する、柔軟性もあったようです。

 ただし、親鸞は、肉食・妻帯を解禁していたので、浄土真宗本願寺派の門主(最高位)は、親鸞の子孫が代々継承するようになり(親鸞のヒ孫の覚如以降)、「血」(外形)のつながりが優先されるので、こちらは、他力(「ある」)成仏の浄土門的です。

 これは、もし、門主を有力(実力)・有徳(実徳)等で継承すれば、「する」(内実)重視になってしまい、自力につながるため、浄土真宗本願寺派は、修行不要の念仏専修が基本なので、「血」という「ある」(外形)重視し、他力につなげたのではないでしょうか。

⇒ [*日本的永遠性2]

 

○芸道の家元制:師弟で型を受け継ぐ

 芸道には、一定の形式(型)があり、型を軽視・無視するのは、「型なし」で、型を守って、はじめて「型破り」ができ、そののち、型から離れ、自由な境地に到達すれば、新流派になる可能性があります(守・破・離)。

 その過程を経るには、師弟関係が必要になり、師の大元(おおもと)が、家元・宗家(そうけ)で、家元がいれば、師は、流派の正統性が、弟子は、伝統の信用性が、担保できます。

 家元は、芸道の型・技術を継承しなければ、「家」を維持できないので、実力が不可欠ですが、「血」のつながった後継者にする際には、家元が死去するまで、長年稽古に精進できる、長子継承が合理的です。

 皇室・貴族・武士・町人は、受け継ぐ物(日本・土地)・事(「職」・「業」)が有限なので、「家」の断絶だけでなく、肥大化にも注意すべきですが(皇室・貴族・武士は、出家で対応しました)、芸道は、普及を制限する必要がないので、弟子を際限なく拡大できます。

⇒ [*日本的永遠性2]

 

○戦前の一大家族国家観:天皇は父、皇后は母、臣民は子

 一大家族国家観とは、国家を家族とみなし、君主を父、国民を子とする思想で、近代(戦前)日本では、日清・日露戦争の勝利後の1910(明治43)年から、小学校の国定教科書で、天皇を父、皇后を母、臣民を子としました。

 そうなれば、冒頭の儒教道徳の忠孝によると、臣下の主君への「忠」と、子の親への「孝」が、同一になるので(忠孝一致でなく、忠孝一緒)、君主の家父長のもとを去れずに従うしかなく、片務的・隷属的・宿命的な主従関係が極限化し、全臣民(国民)は、天皇への絶対忠誠となります。

 この忠孝一緒をもとに、帝国憲法の解釈も、天皇機関説(日本の主権が法人の国家にあり、天皇は内閣・国会・陸海軍・枢密院等と同等の国家機関のひとつで立憲君主)から、天皇主体説(日本の主権が神格化された天皇個人にあり、天皇は絶対君主)へと、変化しました(国体明徴声明)。

 そうして、法(法治)よりも、道徳(徳治)のほうが肥大化し(軍人勅諭・教育勅語・戦陣訓・『国体の本義』・『臣民の道』等)、先の大戦では、天皇家・日本国の永久不死不滅のため、全臣民の必死必滅(一億総玉砕)が強要されました。

⇒ [*「国体の本義」考察1~3]

⇒ [*普遍的日本論3]

 

○戦後の家族主義的会社経営:社員は家族、社長は家父長、

 近代(戦前)日本の会社は、近世豪商の「家」が発展した、財閥が中心で、現代(戦後)日本の出世は、近現代欧米のように、能力主義(内実)でなく、年長主義(外形)の年功序列なので、これは、世襲の家父長を、実力(内実)でなく、長子(外形)が相続したのと、共通しています。

 年功序列だと、上司は、実力があって自立しているとみなさず、無能が前提なので、ジョブ型(内実)でなく、部下に依存する、メンバーシップ型(外形)になります。

 ここで、ジョブ型とは、各人に実体があり(機能が明確、自性、中根千枝のいう、「資格」を重視)、それらの部品組立で成り立たせようとする一方(機械論的)、メンバーシップ型は、各人に実体がなく(機能が曖昧、無自性、「場」を重視)、それらの相互関係性で、成り立たせようとします(仏教的)。

 このような近現代日本の中で、「社員は家族」という言葉は、「社長は家父長」につながり、無能を前提とし、社長が自立せず、社員に依存しているようにみえたり、前述の儒教道徳の忠孝によると、家父長のもとを去れずに従うしかないと、受け取られかねないので、差し控えるべきでしょう。

 近年の会社は、脳(社長)から体の各部(社員)へ、逐一指示するのではなく、その間の器官(部門)・組織(部署)ごとで、独自が適切に判断できる、メンバーシップ型とジョブ型の中間を、理想としているようにみえます(生命論的)。

⇒ [*渋沢栄一と財閥]

⇒ [*労働・教育・生活論1~5]

 

(つづく)