日本の特徴6~日本的儒教思想 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

■思想面(内面)での日本の特徴

 

 ここまでは、日本の特徴の形式面(外面)を取り上げ、実がなく、名ばかり・形だけなのが、日本の本質だと、指摘しました。

 ですが、そもそも、なぜ、「仮死・再生の反復の形式」・「2項並立・往来の形式」・「3項並立・移行の形式」・「擬似的親子関係での継承の形式」なのかという理由は、ただ、永遠性を希求したからとしか、いえません。

 もし、その理由を詳細に説明すれば、それは、意味をもつので、すでに外形(外面の様相)ではなく、内実(内面の作用)になるうえ、後付にすぎないからです。

 ここで注意したいのは、思想(内面の作用)・意味が、忘れ去られても、形式(外面の様相)・存在は、生き残りやすいことで、その存在・形式が、永続すればするほど、ますます貴重になっていきます。

 たとえば、天皇制は、政治という実(内面)が早々になくなり、名ばかり・形だけ(外面)になったので、人々は、その都度、神仏への祈祷・祭祀や文化の発信源という機能(内面)、神聖という感情(内面)を、後付することで、理解しようとしてきました。

 しかし、天皇には、何らかの行為(「する」という内面の作用)がなくても、ただ存在する(「ある」という外面の様相)だけで、日本列島をヨリ広く・ヨリ長く、安定統治できる力があるとみられ、この歴史上の経験則により、歴代の政権は(GHQでさえ)、天皇を庇護せざるをえないのです。

 

 そのような中で、希有ですが、日本の特徴の思想面(内面)も散見することができ、その中心は、中世から近代(戦前)にかけて変容していった、日本的儒教思想です。

 まず、その前提として、柄谷行人は、『世界史の構造』・『力と交換様式』で、狩猟採集社会には、贈与と返礼の交換様式(A)が、農業社会には、保護と納税の交換様式(B)が、工業社会には、商品と貨幣の交換様式(C)が、支配的で、主要なギブ&テイクの形式(外面)が、移り変わったとしています。

 ただし、日本史では、農業社会の後半に、上の者と下の者の主従関係による社会があり、そこでは、環境・生活(外面)が変わると、意識・思想(内面)も変えたので(外面から内面へ)、ここでは、その日本的儒教思想(内面)の変遷をみていきます。

 

⇒ [*丸山真男「日本の思想」考察]

⇒ [*普遍的日本論3]

⇒ [*空気・世間と人生の属性配分1・2]

 

 

●日本的儒教思想:中世~近代

 

 日本の儒教道徳は、中世から近代(戦前)にかけて、「忠」(忠義)と「孝」(孝行)が中心でしたが、中国の儒教(『礼記(らいき)』曲礼下第2)では、3度忠告(諫言/かんげん)してもダメなら、「忠」していた臣下は、主君のもとを去ってもよいですが、「孝」していた子は、親に従えとなっています。

 日本での「忠」・「孝」のうち、「忠」について、武士の主従関係は、主君から臣下への御恩(所領の保障・分与、「徳」)と、臣下から主君への奉公(軍役・奉仕、「忠」)の、ギブ&テイクの形式(外面)で成り立っており、中世と近世で、支配的な思想(内面)が変化しました。

 一方、「孝」について、個々の武士は、他の身分よりも、必死必滅が不可避なので、「家」を維持・繫栄させることで、永久不死不滅を希求し、臣下は、戦死しても、戦功があれば、主君への「忠」で所領が分与され、「孝」につながるので、武士の本質は、「家」が最優先です。

 それらをもとにすると、臣下の武士は、次のように、家礼(けらい)型臣下と、家人(けにん)型臣下に、大別できます。

 

・家礼型臣下=自立的・契約的・双務的・流動的・相対的な主従関係

 :主君の「徳」が魅力的か妥当で、主君への「忠」が「家」への「孝」に、つながれば服属し、

  つながらなければ離反か謀反

  → 忠孝分離:実力(内実)のある主君と利用価値(内実)で結び付き ~ 内面の作用を優先

・家人型臣下=隷属的・宿命的・片務的・固定的・絶対的な主従関係

 :主君の「徳」が圧倒的・格段で、主君への「忠」が「家」への「孝」につながると信奉

  → 忠孝一致:家格(外形)のある主君と存在価値(外形)で結び付き ~ 外面の様相を優先

 

 そして、「忠」・「孝」が中心の、中世から近代(戦前)にかけて、支配的だった思想の変遷は、次に示す通りです。

 

・中世(権門制)=武士の君臣間:家礼型の忠孝分離と家人型の忠孝一致が並存

・近世(幕藩制)=武士の君臣間:家人型の忠孝一致に統一(譜代は元・家人型、外様は元・家礼型)

・近代(君主制)=一君万民:一大家族国家観の忠孝一緒に変容

 

 このうち、中世武士は、おおむね戦時が前提で、家礼型臣下は、主君の実力・利用価値(内面の作用、内実)を優先し、服属か離反(謀反)かを決断したので、忠孝分離といえ、家人型臣下は、主君の家格・存在価値(外面の様相、外形)を優先し、服属を決断したので、忠孝分離といえ、両者が並存しました。

 つぎに、近世武士は、戦乱が終息した、平時が前提で、身分・地位・家柄が固定化し、主君も特定したため、家人型臣下ばかりになり、主君の家格・存在価値(外面の様相、外形)を絶対としたので、服属するしかありませんでした(服属しなければ、浪人です)。

 こうして、近世武士は、徳川将軍以外、役人化し、役人は、為政者(将軍・大名)や政権(幕府・藩)への「忠」が、「家」の「孝」につながるので、忠孝一致といえますが、大勢の家臣の意向を無視する大名は、忠告策(諫言)から強行策(諫争/かんそう)へ、発展することもありました。

 さらに、近代(戦前)は、この家人型臣下が、全国民(臣民)に拡大され、主君も、君主の天皇に統一し、天皇の血統(皇統)・存在価値(外面の様相、外形)を絶対としたので、服属するしかありませんでした(服属しなければ、外国人です)。

 そのうえ、一大家族国家観で、天皇を父、皇后を母、臣民を子とし、臣下の主君への「忠」と、子の親への「孝」が、同一となったので、これは、忠孝一緒といえます。

 そうなれば、儒教道徳の「忠」・「孝」によると、家父長のもとを去れずに従うしかなく、片務的・隷属的・宿命的・片務的・固定的・絶対的な主従関係が極限化し、全臣民(国民)に天皇への絶対忠誠が強要されました。

 なお、臣下・臣民から主君・天皇へ、命・死をギブ(贈与)すると、主君・天皇(日本)から「家」・遺族へ、中世には、土地が、近世には、役職が、世襲されましたが、近代(戦前)には、年金恩給(扶助料)程度のテイク(返礼)しか、受け取れなかったのが、現実です。

 これだと、天皇の「徳」は、魅力的でも圧倒的でもなく、これ以上、主従関係を成り立たせられないので、象徴天皇制になり、実がなく、名ばかり・形だけの天皇に回帰したともいえます。

 ここまでみると、御恩と奉公の主従関係という形式(外面)は、不変だった一方(しだいに御恩が削減され、滅私奉公化しましたが)、「忠」・「孝」の儒教道徳という思想(内面)が、その都度、環境(外面)に適応するよう、変化していったので、結局は、形式偏重だったと結論づけることができます。

 

 ちなみに、現代の会社は、経営者や管理職を選挙するわけでなく、上司と部下の契約関係は、主君と臣下の主従関係と類似しているので、中世から近年にかけての、上の者と下の者の結び付きは、次のように、まとめることができます。

 

※臣下(臣民)・部下

・中世:実力・利用価値(内実)のある主君と結び付き

   +家格・存在価値(外形)のある主君と結び付きが並存

・近世:家格・存在価値(外形)のある主君と結び付きばかり

・近代(戦前):血統・存在価値(外形)のある君主(天皇)と結び付き

・現代(戦後):年功・存在価値(外形)のある上司とメンバーシップ型(外形)で結び付き

・近年:実力・利用価値(内実)のある上司とジョブ型(内実)で結び付きが拡大

 

 以上より、近世→近代(戦前)→現代(戦後)は、存在価値(外面の様相、外形)優先を、徐々に拡大してきたのとは対照的に、近年の利用価値(内面の作用、内実)優先は、中世と接近してきており、その反動での役人(公務員)志向は、存在価値優先の、近世武士の役人化と、共通のようにみえます。

 

(おわり)