「国体の本義」考察1~前編 | ejiratsu-blog

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「国体の本義」読解1~12

「教育勅語」読解

「軍人勅諭」読解

「戦陣訓」読解1・2

近代後半(戦中まで)の日本的儒教でのこじつけ

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 『国体の本義』は、政府発表の国体明徴声明(天皇機関説を排斥し、天皇主体説を当然とする公式見解、1935/昭和10年に2度)をきっかけに、文部省が発行(1937/昭和12年)した、国民教化のための冊子です。

 日中戦争(1937/昭和12年~)からアジア太平洋戦争(1941-45/昭和16-20年)までの間、『国体の本義』は、文部省発行(1941年)の『臣民の道』とともに聖典化され、戦中の昭和前期は、近代日本(戦前)の中でも特に、天皇中心に超中央集権化された時期でした。

 したがって、『国体の本義』は、あらゆるものが何でも、天皇・国体に結び付けられ、1つの世界観だけで、押し通されているのが最大の特徴です。

 

 

■近代日本は、超中央集権化のために、何でも結び付けて一体化したがる

 

 帝国憲法には、1条で「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」と、天皇主権が、3条で「天皇は神聖にして侵すべからず」と、天皇の神聖不可侵性が、4条で「天皇は国の元首にして統治権を総攬しこの憲法の条規によりてこれを行う」と、天皇の統治大権が、規定されています。

 これらから、天皇機関説と、天皇主体説が、主張されましたが、天皇機関説は、日本の主権が、天皇個人ではなく、法人の国家にあり(国家法人説)、天皇は、内閣・議会・陸海軍・枢密院等と同等の、国家機関のひとつである立憲君主で、権能が制限されるとしました。

 なお、天皇機関説での天皇の神聖不可侵性は、天皇の権能を行使する際に、国務大臣(内閣)からの進言(輔弼/ひほつ)・帝国議会(国会)からの同意(協賛)があるので、失政しても、天皇に責任追及・賠償請求されないと解釈されています(君主無答責の原則)。

 一方、天皇主体説は、日本の主権が、神格化された天皇個人にあり、天皇は、絶対君主としましたが、天皇主体説が国体明徴声明で、政府の公式見解になったので、『国体の本義』(以下、『本義』と表記)では、何でも結び付けて一体化したがるようになり、それらは、次のように、まとめました。

 

 

●時間系

 

 日本通史の実際をみると、祭政一致といえるのは、古代前半と近代(戦前)のみで、天皇親政が顕著なのは、天智天皇(38代)、天武・持統天皇夫妻(40・41代)、桓武天皇(50代)、後醍醐天皇(96代)ぐらいの、わずかな期間でした。

 だから、『本義』では、祭政一致・天皇親政を、正統(根本)と解釈され、摂関政・院政までは、天皇の補佐役・後見役として許容できても、それ以外の武家政は、異端と評価しつつ、古代後半から形骸化した律令制は、幕末まで廃止されずに残存していました。

 よって、それを有効利用し、天壤無窮(天地開き初めとともに無限)の、神勅(神の命令)による天皇の日本統治・万世一系の皇位継承・皇運(天皇の運命)・宏謨(こうぼ、広大な計画)という論法が出現し、肇国(国のはじまり)から過去→現在→未来と、永遠の一連・一貫が前提にできたのです。

 

◎時の一

(1-1)皇位が天壤無窮であるという意味は、実に過去未来今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである

(1-3)家名は祖先以来築かれた家の名誉であって、それを汚すことは、単なる個人の汚辱であるばかりでなく、一連過去現在及び未来の家門の恥辱と考えられる

(2-1)国史一貫する精神

(2-1)欽定憲法は「朕ガ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠二循行スル所ヲ知ラシム」と仰せられた万古不磨の大典であって、肇国の精神の一貫してここに弥々鞏きを見る

(2-2)国民生活の親しい結合関係は自我を主張する主我的な近代西洋社会のそれと全く異なるものであり、国初より連綿として続く一体的精神と事実とに基づくものであって、我が国民生活はその顕現である

(2-5)創造は常に回顧となり、復古は常に維新の原動力となる

(2-5)とはとなり、そこに新時代の創造が営まれる

(3)国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによって、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壤無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ

 

 

●家-国系

 

 日本の近世の百姓の人口比は、約8.5割で、上古・古代・中世も、その程度の人口比が、農業に従事していたと推測できます。

 また、近代(戦前)の第1次産業(農業・林業・漁業)の人口比は、約5割(国勢調査によると、1920・30・40・50年)のほぼ一定、現代(戦後)の第1次産業の人口比は、約3→2→1割(1960→70→80年)と低下したので、戦中の昭和前期までは、おおむね農業社会だったといえます。

 日本の農業社会は、中世では、将軍家+公家・武家・寺家による権門制、近世では、将軍家・大名家による幕藩制、近代では、名望家(地主)による小作制と、有力者が家単位で土地経営していたので、『本義』では、家が集合して国が形成されるとし、家国一体から一大家族国家へと飛躍しています。

 一大家族国家は、国家を家族とみなし、君主を父、国民を子とする思想で、日本では、天皇を家父長、皇后を母、臣民を子としますが、そうなれば、君臣間の忠と親子間の孝が同一の上下関係(忠孝一本)になり、君主=家父長のもとを去れずに従うしかないので、全臣民による天皇への絶対忠誠となります。

 

◎家と国の一

(1-3)乃木大将夫妻がその子二人までも御国のために献げて、而も家門の名誉としたのも、家国一体・忠孝一本の心の現れである

(2-2)国民生活には、一家・一郷・一国を通じて必ず融和一体の心が貫いている

(2-2)義は君臣にして情は父子という一国即一家の道の布する所以であり、君民一体となり、親子相和して、美しき情緒が家庭生活・国民生活に流れている

 

○一大家族国家

(1-1)国体の大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する

(1-3)皇室を宗家とし奉り、天皇を古今に亘る中心と仰ぐ君民一体の一大家族国家である

(1-3)一大家族国家であって、皇室は臣民の宗家にましまし、国家生活の中心であらせられる

 

○家の一

(1-3)親子の関係を本として近親相倚り相扶けて一団

(1-3)親子一連の生命の連続

(1-4)夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ

(1-4)家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところ

(2-2)氏人も亦氏上と一体となって同一の祖先を祭る

(2-2)氏上と氏人とはただ一つとなって祖先に帰一

(2-2)一体たるものを氏上が率いて朝廷に奉仕

 

 

●君-民系

 

 日本の古代前半には、中央集権で、治者側の天皇・朝廷(役人)が被治者側の人民へ、耕地を分与するかわりに、納税・労役・兵役等を要求する双方向で、公地公民が原則でしたが、それらは、ほとんどが人頭税で(土地税は、租・強制の公出挙/くすいこ)、戸籍をもとにしていました。

 それが古代後半には、地方分権化し、土地税へ転換したのをきっかけに、荘園(私領)が発達すると、国司の公領までも私地私民化するとともに、戸籍もなくなり、天皇と人民の接点もなくなりました。

 中世の権門制も近世の幕藩制も、天皇と人民の接点がほぼなく(京以外)、近代の幕末から、尊皇・勤皇や一君万民が主張されるようになり、『本義』では、君民一体を強調していますが、天皇は現人神(あらひとがみ)として神格化され、ほとんど主体的な判断ができなかったので、名目上だけです。

 実質上は、治者側の政府(役人)・軍部(軍人)が被治者側の臣民へ、納税・兵役等を要求するだけの一方向で(最後は、臣民の生命・財産等が保障されず)、民民関係といえ、政府・軍部は、天皇の威を借りて命令し、責任は陰に隠れる、制度的な欠陥、道徳的な武士道とは真逆の卑怯者が大勢いました。

 

◎君と民の一

(1-3)が代を思う心の一すじに 我が身ありとも思わざりけり

(2-1)君臣の上下一如の大精神は、既に我が肇国に於て明らかに示された

(2-6)汝等皆、其職を守り一心になりて力を国家の保護に尽さば、我国の蒼生は永く太平の福を受け、我国の威烈は大に世界の光華ともなりぬべし

 

○君民一体

(1-1)君民体を一にして無窮に生成発展し、皇位は弥々栄え給う

(1-3)天皇臣民との関係は、一つの根源より生まれ、肇国以来一体となって栄えて来た

(1-3)皇室を宗家とし奉り、天皇を古今に亘る中心と仰ぐ君民一体の一大家族国家である

(1-3)人君民を養い、以て祖業を続ぐ、臣民君に忠に、以て父の志を継ぐ、君臣一体、忠孝一致は、唯吾国のみ然りとなす。といっているのは、忠孝一本の道を極めて適切に述べたものである

(2-2)義は君臣にして情は父子という一国即一家の道の布する所以であり、君民一体となり、親子相和して、美しき情緒が家庭生活・国民生活に流れている

(2-3)君民一体の肇国以来の道に生きる心

 

 

●国-民系

 

 日本の前近代において、天皇や為政者にとって国は、日本であったとしても、人民にとって国は、行政区分の令制国でしたが、近代の幕末での欧米列強の脅威により、はじめて人民も日本をひとつの国として、認識するようになったとみられます。

 つまり、国民(臣民)にとっての日本国家という概念は、近代に登場したので、『本義』では、個人・我・私・国民の一体が、古くからあるかのように錯覚してしまいそうですが、比較的新しいのです。

 

◎国と民の一

(1-3)個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であって、本来それと一体をなしている

(3)皇運扶翼の精神の下に、国民各々が進んで生業に競い励み、各人の活動が統一せられ、秩序づけられるところに於てこそ、国利民福とは一如となって、健全なる国民経済が進展し得る

 

○国に一

(2-3)分なるが故に常に国家帰一するをその本質とし、ここに没我の心を生ずる

(2-4)罪穢を祓って祖に近づくことであり、更に私を去って公に合し、我を去って国家となる

 

○民の一

(1-1)国体の大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する

(2-2)天皇の下に、人と物とが一体となるところに我が国民生活の特質がある

(2-4)国家の祝祭日には国民は日の丸の国旗を掲揚して、国民的敬虔の心を一にする

(3)皇運扶翼の精神の下に、国民各々が進んで生業に競い励み、各人の活動が統一せられ、秩序づけられるところに於てこそ、国利と民福とは一如となって、健全なる国民経済が進展し得る

 

 

●国土-国民系

 

 記紀神話に、天皇・朝廷の豪族の祖先の神・人を登場させたのは、日本統治すべき・政権中枢にいるべき正当な根拠を明示するためでしたが、記紀の冒頭に、神生み・国(国土)生みがある一方、人民は出所不明で、いつの間にか登場しています。

 実際の日本の上古には、各豪族の私有地・私有民が原則で、その一部が天皇家に提供されたので、人民は、諸豪族や天皇家の土地に付随していたといえ、それが古代前半には、律令制・班田制により、天皇・朝廷が人民へ、耕地が分与され、公地公民が原則になりました。

 ところが、古代後半には、荘園(私領)の発達で私地私民化し、中世には、将軍家+公家・武家・寺家による権門制、近世では、将軍家・大名家による幕藩制、近代では、名望家(地主)による小作制と、家単位の土地経営だったので、人民の大半は、領主・地主から年貢・地代を徴収される小作農でした。

 小作農が廃止されたのは、現代(戦後)の農地改革で、政府が地主から安値で農地を強制買取、小作人に販売譲渡し、そのほとんどを自作農に転換させました。

 ここまでみると、前近代の大半の人民は、土地に拘束されていたので、日本国土愛はなく、あったとしても行政区分の令制国土愛・郷土愛で、国土と国民の一体も、国と民の一体と同様、幕末から植え付けられ、近代の国土‐国民系は、前近代の大半だった土地‐人民系の拡大版といえます。

 他方、中世の武士は、君臣間の御恩と奉公で分与された土地を、一所懸命に守り抜き、近世の武士は、将軍家以外が役人化し、大名家のうち、国替が比較的頻繁だった譜代・親藩は、自分の土地に執着できず、国替がほぼなかった外様は、自分の土地に執着し、外様の中で雄藩に成長したのが薩長土肥でした。

 明治維新政府は、薩長出身者が中心の藩閥政治なので、土地に執着する外様系の武士道が、受け継がれたとみることもできます。

 

◎国土と国民の一

(2-2)我が国民国土愛は、神代よりの一体の関係に基づくものであって、国土は国民と生命を同じうし、我が国の道に育まれて益々豊かに万物を養い、共に大君に仕え奉る

(2-2)国民国土になって天皇に仕えまつる

(2-2)国土の本を一つにする親和・合体の心は、我が国民生活を常に一貫して流れている

(2-2)国土の精神のあるところ、国民生活は如何なる場合にも対立的でなく、一体的なものとして現れて来る

 

○国土に一

(2-2)我が国民の国土に親しみ、国土一になる心は非常に強いのであって、農業に従う人々が、季節の変化に応和し、随順する姿はよくこれを示している

(2-3)災禍は却って不撓不屈の心を鍛錬する機会となり、更生の力を喚起し、一層国土との親しみを増し、それとの一体の念を弥々強くする

 

 

●個-全(私-公)系

 

 ここまでは、家も国も、君も民も、国も民も、国土も国民も、一体というように、双方が大切だと、等価に取り扱われてきましたが、『本義』で、この個と全だけは、没我・無私と、個人主義を批判し、全体主義が主張され、これは、戦時中での総力戦体制を想定していることが影響しているのでしょう。

 そのため、「全を生かすために個を殺さんとする」(2-4)、生死一如の武士道も、個人に要求されていますが、この時期は、工業化+軍国主義なので、個人が、国家という巨大機械の交換部品のように取り扱われ、個人と国家が直結されました(個人と国家の間にある中間団体が先の大戦に協力)。

 日本の近代(戦前)・現代(戦後)の工業化は、地域的規模の軽工業から国家的規模の重工業へと発展し、人・物・金の往来がまだ限定的な中で、国際競争するのに、国益の判断が比較的単純なので、自国の独立性が大切だった時代といえます。

 しかし、前近代の農業社会は、まだ地域的規模の産業が大半なので、国益の概念がない時代といえ、近年の情報社会は、国家を横断する国際的規模の企業が、国内外へ次々に進出し、人・物・金の往来が活発になり、国益の判断も複雑なので、他国との関係性も大切な時代といえます。

 このように、日本通史でみれば、全体=国家が通用したのは、わずかの期間で、その前後のほとんどは、全体≠国家ということがわかり、大雑把にいえば、農業社会は、「お家」のため、工業社会は、「お国」のため、情報社会は、世界・地球のためが、個人のためと適正配分することになるのでしょう。

 

◎全体に一

(1-4)和は、理性から出発し、互に独立した平等な個人の械械的な協調ではなく、全体の中に分を以て存在し、この分に応ずる行を通じてよく一体を保つところの大和である

(2-3)大陸文化の輸入に当っても、己を空しうして支那古典の字句を使用し、その思想を採り入れる間に、自ら我が精神が没我無私統一し同化している

 

○没我帰一

(1-3)君臣の関係は、決して君主と人民と相対立する如き浅き平面的関係ではなく、この対立を絶した根本より発し、その根本を失わないところの没我帰一の関係である

(2-3)没我帰一の精神は、国語にもよく現れている

(2-4)親鸞が阿弥陀仏の絶対他力の摂取救済を説き、自然法爾を求めたところには、没我帰一の精神が最もよく活かされている

(2-5)我が芸道に見出される一の根本的な特色は、没我帰一の精神に基づく様式を採ることであり、更に深く自然と合致しようとする態度のあることである

 

○生死一如

(2-4)生死は根本に於て一であり、生死を超えて一如のまことが存する

(2-4)生死一如の中に、よく忠の道を全うするのが我が武士道である

 

 

※( )内の数字:文中の章

(0)緒言

第一、大日本国体

(1-1)一、肇国

(1-2)二、聖徳

(1-3)三、臣節

(1-4)四、和と「まこと」

第二、国史に於ける国体の顕現

(2-1)一、国史を一貫する精神

(2-2)二、国土と国民生活

(2-3)三、国民性

(2-4)四、祭祀と道徳

(2-5)五、国民文化

(2-6)六、政治・経済・軍事

(3)結語

 

 

(つづく)