「教育勅語」読解 | ejiratsu-blog

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「国体の本義」読解1~12

「国体の本義」考察1~3

「臣民の道」読解1~6

「軍人勅諭」読解

「戦陣訓」読解1・2

近代後半(戦中まで)の日本的儒教でのこじつけ

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 維新政府は当初、神道を国教化しようとしましたが、他宗教等の反対で、いったん断念し、そこから日本独特の儒教道徳を創出しており、まず、軍人勅諭(1882/明治15年)で具体化し、つぎに具体化したのが教育勅語(1890/明治23年)でした。

 近代欧米は、公的に、国の法機構(制度・組織等、外面の形式)で統治する一方、私的に、個人の価値(信仰・学問等、内面の思想)が自由で、公私分化でしたが、近代日本は、国が個人を統治する際、公的な「法」(外面の形式)だけでなく、私的な「徳」(内面の思想)で介入し、公私未分化でした。

 それは、次のように、まとめることができます。

 

○近代日本の民政関連

・[公]形式(外面):制度・組織等 ~ 法治:帝国憲法+皇室典範(1890/明治23年施行)

・[私]思想(内面):道徳・倫理等 ~ 徳治:教育勅語、家族国家観(1910/明治43年)

 

 教育勅語は、明治天皇(122代)による、学校教育の基本方針が名目で、天皇の「徳」と臣民の「忠」「孝」で心をひとつにするのが、日本の本質だとされ、父母孝行・兄弟友愛・夫婦和合・友達信頼・謙遜・博愛・修学習業・知能啓発・徳器成就・公益世務・法令遵守・義勇の、12徳目が提示されています。

 

 

■教育に関する勅語

 

 

・朕(ちん)惟(おも)うに、我が皇祖・皇宗、国を肇(はじ)むること宏遠(こうえん)に、を樹(た)つること深厚(しんこう)なり。我が臣民、克(よ)くに克くに、億兆(おくちょう)、心(こころ)を一(いつ)にして、世々厥(そ)の美を済(な)せるは、此(こ)れ我が国体の精華にして、教育の淵源(えんげん)、亦(また)実に此(ここ)に存(そん)す。

 

《私(天皇)が思うに、わが天皇家の祖先・歴代の天皇は、国を建ててから広く遠く、徳を立ててから深く厚いのだ。わが臣民は、充分に(臣下が主君へ)忠し、充分に(子が親へ)孝し、万民が心をひとつにして、代々その美を成し遂げるのは、これこそわが国柄の本質で、教育の根本も、また実にここに存在する。》

 

 

・爾(なんじ)臣民、父母にに、兄弟(けいてい)に友に、夫婦相(あいわ)し、朋友相(あいしん)じ、倹(きょうけん)己(おの)れを持し、博愛衆に及ぼし、学を修め、業を習い、以(もっ)て智能を啓発し、器(とくき)を成就し、進(すすん)で公益を広め、世務を開き、常に国憲を重(おもん)じ、国法に遵(したが)い、一旦緩急(かんきゅう)あれば義勇、公に奉(ほう)じ、以て天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし。是(かく)の如(ごと)きは、独(ひと)り朕が良の臣民たるのみならず、又以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん。

 

《あなたたち臣民は、(子は)父母に孝し、兄弟は友愛し、夫婦は和み合い、友人は信じ合い、恭(うやうや)しく慎(つつ)ましく自己を持ち、広い愛を大勢に及ぼし、学業を修得し、それで知能を啓発し、徳行・器量を成就し、進んで公益を広め、世の中の務めを切り開き、常に帝国憲法を重んじ、国法を遵守し、いったん危急があれば、義で勇敢に奉公し、それで天地創成から永遠の天皇の運命を助け守るべきだ。このようなものは、一人私(天皇)のための、忠に善良な臣民であるだけでなく、またそれであなた達の祖先が残した昔の風習を、功績として称賛するのに充分だろう。》

 

 

・斯(こ)のは、実に我が皇祖・皇宗の遺訓にして、子孫・臣民の倶(とも)に遵守すべき所、之を古今に通じて謬(あやま)らず、之を中外に施(ほどこ)して悖(もと)らず。朕、爾臣民と倶に拳々服膺(ふくよう)して、咸(みな)其(その)を一にせんことを庶幾(こいねが)う。

 

《この道は、実にわが天皇家の祖先・歴代の天皇の残した教訓として、(天皇の)子孫・臣民がともに遵守すべきことで、これを今も昔も通じて誤らず、これを国の中外に施して乱さない。私(天皇)は、あなたたち臣民とともに、(この道を)慎んで心に留めて決して忘れず、皆がその徳をひとつにすることを望み願う。》

 

 

・明治23(1890)年10月30日

 

 

※下線:徳目

 

 

●背景:学校教育

 

 近代日本の学校教育は、1872(明治5)年の学制の公布から、初等(小学校・他)・中等・高等教育機関+最高学府(大学校)が設定され、1900(明治33)年には、尋常小学校の4年間(留年ありで最大8年間)を義務教育にするとともに、授業料を無償化しました。

 そののち、義務教育は、1907(明治40)年に、尋常小学校の6年間(留年ありで最大8年間)へ、先の大戦後の1947(昭和22)年に、小学校・中学校の9年間(留年なし)へ、延長されています。

 明治期のおおまかな小学校の就学率は、次に示す通りです。

 

・1873(明治6)年:小学校の就学率28%(男子40%・女子15%)、子供の3人に1人

*1885(明治18)年:内閣制度の創設

*1890(明治23)年:帝国憲法施行、国会の開設

*1890(明治23)年:教育勅語

・1891(明治24)年:小学校の就学率50%(男子67%・女子32%)、子供の2人に1人

*1894-95(明治27-28)年:日清戦争

・1897(明治30)年:小学校の就学率67%(男子81%・女子51%)、子供の3人に2人

・1900(明治33)年:小学校の就学率81%(男子90%・女子72%)、8割、授業料の無償化

・1902(明治35)年:小学校の就学率92%(男子96%・女子87%)、9割

*1904-05(明治37-38)年:日露戦争

・1904(明治37)年:国定教科書(1期)の採用(修身では、市民社会の倫理道徳が強調され、近代的)

・1905(明治38)年:小学校の就学率96%(男子98%・女子93%)、9割5分、子供のほぼ全員

・1910(明治43)年:国定教科書(2期)の改定(修身では、家族国家観が強調され、前近代的)

*1911(明治44)年:不平等条約撤廃

 

 ここで注意したいのは、小学校の就学率が、教育勅語が発布された時期に、まだ5割しかなく、日露戦争前後の時期に、ようやく9割以上になったことです。

 ちなみに、軍人勅諭の発布は、1882(明治15)年ですが、日清戦争では、徴兵対象者の約5%しか徴集されておらず、明治通期で、兵役逃れが多かったようです。

 そのうえ、1904(明治37)年の1期の修身の国定教科書では、市民社会の倫理道徳が強調され、家族国家観が強調されたのは、1910(明治43)年の2期なので、明治末期まで、忠君愛国を軍隊・学校で、国民(臣民)に教化する機会が、あまりなかったといえます。

 政府は、不平等条約撤廃が悲願で、そのために制度・技術・文化等、近代化・欧米化を推進してきましたが、撤廃できそうな時期になると、欧米列強の外圧から解放されるので、日本独特の儒教道徳が強化され、しだいに国粋化へ傾倒しました。

 

 

●特徴:史実の日本的儒教その2=下から上への一方的な道徳

 

 「臣民」は、天皇家以外の全国民を指し示し、幕末・維新期以降に多用されたようで、帝国憲法でも使用されましたが、主君と臣下の主従関係は本来、双方が承認しないと成立しないのに、近代日本では、君主側(実際は天皇が委託した政府)から勝手に、全国民を天皇の臣下にさせられてしまいました。

 中国の儒教は、徳のある人(君子)が為政者となるべきで、徳のない民(小人/しょうじん)を統治する際に、平天下・安民を実現すべきとされ、為政者は、国民に徳政しなければならない一方、国民が為政者へ徳行を要求されることは一切なく、国民には納税・徴兵・労役等の義務があるだけです。

 古代日本の律令制下でも、天皇は、国民に徳政しようとした一方(国史には度々、自分は天皇なのに不徳だという記述がみられます)、国民が天皇へ徳行を要求されることは一切なく、国民には納税・徴兵・労役等の義務があるかわりに、耕地(班田)分与がありました(公地公民)。

 ですが、律令制が形骸化すると、武士の君臣間の主従関係(主君の御恩=「徳」と臣下の奉公=「忠」)が、しだいに支配的になり、臣下が主君を、選択できた中世の権門制では、臣下優位・主君の「徳」が重視でしたが、選択できなくなった近世の幕藩制では、主君優位・臣下の「忠」が重視になりました。

 そして、近代日本で、欧米列強の脅威に対抗するため、中央集権化する際に、君主としてふさわしいのは、天皇だけだったので、君主絶対優位になり(絶対君主制)、天皇の「徳」が無視され、臣民の「忠」が最重視になりました。

 だから、教育勅語では、臣民に数々の徳行が一方的に要求されているだけで、天皇の徳政は、まったく具体化されていないのです。

 武士の君臣間において、臣下が「忠」すれば、主君の「徳」は、中世では、領地を分与・世襲、近世では、役職を分与・世襲させたので、それが家への「孝」につながり、忠孝一致といえますが、近代では、戦死した軍人の遺族(妻子)に、恩給制度(1875/明治8年~)で扶助料が支給される程度でした。

 つまり、教育勅語は、現代日本では、通用しない論法ですが、「危急時には、天皇のために義勇奉公せよ」という主張が、明治末期から普及させた家族国家観等で、特攻・バンザイ突撃・集団自決・一億玉砕による死の強要にまで肥大化させることは、きっと当時の政権でも想定していなかったでしょう。

 余談ですが、文学者の高橋源一郎は、前述の主張を、「天皇家を護るために戦争に行ってください」と、意訳していますが、後世にあった先の大戦をイメージして解釈するのは、適切とはいえないでしょう。

 細目については、教育勅語12徳目のうち、父母に孝・朋友相信・天皇への義勇奉公の3つが、孟子が提唱した5倫での父子の親・朋友の信・君臣の義と、ほぼ同じですが、兄弟に友・夫婦相和の2つが、5倫での長幼の序・夫婦の別と、多少違います。

 前近代の中国では、男性・年長者が優位なので、夫婦・兄弟姉妹の比較的平等は、日本に適応するよう、改変されていますが、1898(明治31)年施行の戦前民法では、家督相続が長男優先に規定されたので、5倫に近似しました。

 ただし、1947(昭和22)年改正の戦後民法では、家督相続の長男優先が廃止され、わずか約50年なので、通史でみれば、日本は、中国のような男尊女卑・年功序列ではなかったといえますが、近代(戦前)での制度が、現代(戦後)まで影響し、近年にようやく、そこから脱却しようとしています。

 日本が中々転換できないのは、「何をするか」の内実(利用価値)よりも、「何(誰)であるか」の外形(存在価値)のほうを、優先する社会だからです(物事ができる・できないは、男女差や年齢差ではなく、個人差なのは明白です)。