ショーエイのアタックまんがーワン -31ページ目

ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

どうも…ショーエイです。

フランスの優勝おめでとうございます。

応援しないと言って、エムバペ選手に期待していたので

嬉しいのですが・・・

正直、応援しないと言っていた分、

ベルギーが負けてクロアチアも負けたのは

残念です。

本気で応援していなかったので、

やっぱり優勝したのかな・・・?

 

先ず、準決勝のフランスvsベルギー戦ですが、

2対1の場面でメルテンスが登場したのは大きかったが、

その後でフェライニを下げた時点でベルギーの敗退は決定した。

 

フランスはメルテンスからのアーリークロスに

ルカク、フェライニのダブル・ハイタワーが突っ込んでくる状況に

かなり押されていた。

逆にカウンターは取らせない姿勢で挑んでいたので、

ベルギーが同点に追いつくチャンスはその攻撃しか無かった。

ベルギーは実は

ゲーム組み立てからの攻撃はあまり得意では無いのです。

アザールのドリブルは強烈でも、

細かいスペースでのパス回しはさほど繋がらなく、

決定的な崩しを齎すには役者不足と言えます。

一方でカウンターの様に流れと、パススペースが広がる場面では、

その連携は最上位になるというモノです。

フランスは運よく2点先制したので、

守りに徹してカウンター取らせない作戦に出た訳ですが、

結局、それが功を奏した感じに終わったのです。

そうした状況下で、中々枠に行かなかった

メルテンスからのアーリークロス…

あの攻撃をもっと続けていれば、

ベルギーが追い付く可能性は高かった。

でも、フェライニを下げてしまった時点で、

フランスのデシャン監督がほくそ笑んだ姿が

目に浮かんだ感じです。

 

クロアチアvsイングランドは、

正直最後は根気の勝負でした。

そうなると苦戦続きのクロアチアが有利で、

結局、イングランドは隙を与えてしまった。

 

決勝に関しては・・・

2点目のハンドPKを取られた時点で、

すでに決着が着いたと言えます。

スコアは4対2でも、あの2点目が無ければ、

その後の2点は頑張れたという試合です。

何故か・・・

クロアチアは疲労感が有るのは明白で、

モチベーションだけでアドレナリンを出して戦っていたのですが、

あの2点目が入った時点で、

疲労感が一気に押し寄せてきた感じです。

試合は最後までクロアチアは活発に動いていたのですが、

結局、ディフェンス面で後れを取り、

精神面でもカウンター覚悟で攻める姿勢が濃くなった。

それによりフランスにとってはやり易い試合展開に成ったと言えます。

 

今大会はコメンテーター達が語るように

セットプレーとVARなどによるPKでの得点が目立った大会です。

ただ、その理由は…

前回のブラジル大会ではディフェンスの組織力強化が目立った為と言えます。

キーパーと連動したディフェンスを

組み立てで崩すにはかなり難しい状態と考えられ、

意表を突くセットプレーでどれだけ得点できるか、

それがキーとなった大会に成った訳です。

その反面、クラッシクック10番と呼ばれる、

ゲームを作る選手がフランス、クロアチア以外に不在だった。

フランスにはポグバが居て、クロアチアにはモドリッチが居ます。

ベルギーのアザールにしても、アルゼンチンのメッシ、

ポルトガルのクリスティアーノ・ロナウド、そしてネイマールは、

ほぼセカンドトップ的な存在で、

味方からの絶妙なパスによって

切り崩すポイントを生み出す選手です。

そういう意味ではスペインのティキ・タカの様なパス回しでのゴールは、

スペイン、クロアチア以外からはほぼ見られなかったと言えます。

 

特徴的なのは、ペナルティエリア付近の1/5ラインで、

攻撃を探る感じが目立った。

これはブラジルも同じで、

ネイマールからウィリアン、そしてネイマールと繋いだ攻撃も、

1/5ラインからの仕掛けです。

一方で、モドリッチ率いるクロアチアは1/4からの仕掛けが

よく見られた・・・

モドリッチのポジションが下がり気味に見えたのは、

そういう意図があっての事かとも思えたほどです。

 

堅いディフェンスを崩すのに、

ペナルティエリアに固まられては、

それこそスペースが無くなる状態を齎します。

1/4ラインからならなば、

それだけボランチとディフェンスの縦距離が開き、

さらにトップも少し下がるだけで、

キーパーとディフェンスの間も開きます。

フランス戦で見せた

ベルギーのメルテンスからのアーリークロスは

その典型的な状態を感じさせます。

いわばディフェンスとキーパーの間にスペースが生じるから、

あのアーリークロスが脅威に成る訳です。

 

そういう意味でクロアチアの得点は崩してからの状態が

目立った感じで1/4ライン効果を考えるうえでは

参考に出来るのかも知れません。

 

ところで日本は日本独自のサッカースタイル

何てこと言い出している様ですが、

正直、そういう事は考えない方が良いです。

 

何故か…

日本のサッカー指導者の頭が・・・

日本人は変な型に嵌めようとして、

個性を潰してしまいます。

いわばドリブラーの様な個人技を潰して、

パスサッカー変調な指導に行きつくのが目に見えているからです。

ブラジルの選手が凄いのは、

個人技がしっかりしているからです。

個人技がしっかりしていると、

パスは何処にでも出せます。

最終的にはメンタルな部分で、

ゲーム全体を見渡す洞察力が有るか無いかだけですが、

パス変調のサッカーでは、

技術力が少なくなる分、

洞察力が養われても「出来ないプレー」が多すぎて、

機能性は劣ってきます。

逆に個人技がしっかりしてさえすれば、

洞察力さえ養えば何でも対応できるわけです。

 

ブラジルにはサンバとういう踊りが有ります。

サンバの動きは足首を柔らかく動かす為、

サッカーに取り入れた際には、

右足アウトサイドで左方向へパスが出せる程に成ります。

右足インサイドを使ってヒールで左に出すのとは訳が違います。

 

更に吸い付くようなドリブルで培ったパス技術は、

精度は基より、強弱の調整も自然と絶妙に成って来るのです。

 

日本人のサッカー少年はあまりダンスをしません。

というよりも日本の伝統的なダンス?

盆踊り?日本舞踊?

まあ、固い動きですね…

逆にアメリカ流のヒップホップ、もしくは

お勧めはマイケル・ジャクソン

意外とサッカーの動きにマッチングするダンスは、

日本でも学べます。

例えるならマイケル・ジャクソンのスリラー・・・

足を外から内に滑らせるような動きがある訳ですが、

実はこれを上手くできる様になると、

ボールも同じように滑らせて捌く動きが出来る様に成る訳です。

先ずは幼少期からこういう動きを覚えさせることから始めるのがベストです。

リフティングよりもこちらが優先です。

ダンスで体全体を柔らかく動かせれば、

自然と体が色々な動作に馴染みやすく成るが、

リフティングだけだとけん玉と同じで、

バランスの崩れた状態でのコントロール面で、

大きな差が出るのです。

 

因みにオッサン先生はマイケル・ジャクソンを中学生に成る前に習得し、

アメリカに行った際に、ブラジル、メキシカンと真面にサッカーし始めて

プロテストを受けるまでに成った訳ですが…

その際には、あのエラシコを延々と繰り返してドリブル出来たほどです。

今思えばスピードがあまり無く、スタミナも無かったのが欠点だったというのですが、

ボールが吸い付くというより吸着した様なドリブルが出来たと自慢してます。

吸着って…

まあ、日本に帰って草サッカーやってた状態で言えば、

スライディンス三方向から飛んできても全部避けきれたほどだそうです。

 

そしてパスの精度はかなり高かった様で、

味方の全力で走る足元にパスが出せた程だそうです。

それの何がと言えば、

浮いたボールであれば味方は誰でも簡単にボレーが打てた程で、

低いボールでもワンタッチシュートで枠に飛ばせた程だそうです。

更には360度右足一本でどこでもパスが出せた・・・

右アウトサイドで左にもパスが流せた…

オッサンが出来るのを知っているから

そういう芸当は日本人でも可能なのだと言うのです。

無論、ブラジリアンバーでサンバを踊って

ブラジリアンも魅了できた程なので、

サンバやダンスの重要性を熟知している点でも

多少はご理解いただけるかも知れません。

 

オッサン先生曰く・・・

マイケル・ジャクソンのスリラーとビートイットをマスターすれば、

サッカーのボールコントロールはお手の物に成る!!

 

 

因みにブラジル以外の南米では、

サルサダンスというモノが有ります。

 

動画の様に、適当に見様見真似で、

クラブで踊るような感覚で楽しむところから始めるものです。

子供にもなじみやすく、

足の柔らかい動きが自然と文化的に浸透していく訳です。

 

所が・・・

日本では・・・

以下の2件のレッスン動画を先ずご覧ください

 

とても丁寧ですが、

何だか敷居の高い踊りの様な印象に成ってしまいます。

 

これはサッカーの技術についても同じですが、

変に基礎を教える分、

楽しい動きから離れた形で身についてしまいます。

オッサン先生に言わせると

ダンスなんてのは見様見真似で始めて、

楽しく適当に踊っていれば良いわけで、

体が音楽のリズムに同調するように成れば、

それなりに踊れるように成って来る。

リズムが3拍子か4拍子でステップも自然と変わって来るわけで、

基礎を覚えなくても、楽しく音楽に合わせて踊れば、

基礎のステップは自然と沁みついてくるのです。

その上でプロ・ダンサーに成るのなら、

採点を意識して動画の様な基礎を改めて学べばいい。

 

こうした違いが体育教育の面で違いを見せる訳です。

 

前述の通り、リフティングから教えると言うのは、

日本では基礎から始める事を意味します。

基礎がしっかりしていてもリズムと同調した動きで無ければ、

動きに柔らかさは生まれません。

基礎を先に仕込まれると、

人間はその基礎に囚われて自由な心を奪われます。

その状態でリズムという表現力に移行しても、

心理学上、

頭の思考が邪魔をして楽しさが表現に伝わりにくくなるのです。

その逆の場合…

いわば楽しさという表現力を先に覚え、

後から基礎を固めた場合、

意外と思考はその基礎が表現を更に美化するツールとして、

考える方向に成るのです。

 

例えば…日本と海外の指導法の違いを見ても解ります。

日本では基礎から入る故に、

表現力が足らないとダメだしされ、

結構困惑します。

海外の場合、基礎がしっかりしていないから

雑な仕上がりに見えると指摘されます。

 

貴方はどちらの指摘の方が修正しやすいと思いますか?

 

話を戻せば、

サッカーの指導法が

日本独自のスタイルにと成れば、

前者の様な事に成るだけと言えます。

教育に於いても同じで、

日本は基礎(知識)に縛られる故に、

表現力に該当する論理的思考が伴わない・・・

そういう事です。

 

まあ、根本から子供の頃には表現力重視で、

色々な遊び・・・スポーツやダンスに於いても、

楽しませる事を優先して「教える」のではなく「遊ばせる」。

遊んでいる中に自然と向上心が生まれて、

逆に望んで基礎の重要性やその効果を実感できる。

遊びの中に自主性とその中で生まれる競争心を上手く取り込んで、

仕上げていく。

こうした思考が指導者側に浸透しない限り、

日本は天才を潰してしまうだけの国のままに成るのです。

 

日本は1億2500万人の人口で、

サッカー頂点に達するような選手は居ません。

一方で、ベルギーは1千万人でほぼ東京都と同じ、

クロアチアは4百4十万人と横浜と川崎を合わせた人口で、

アザールやモドリッチといったスターが誕生しています。

ブラジルに関しては、1億5千万人で、

ほぼW杯毎にスターが2~3人は登場します。

野球と違って表現力(テクニック)が最後にモノ言う世界で、

日本独自と言うには、片腹痛いような戯言にしか聞こえません。

どうも…ショーエイです。

W杯の歴史を見て感じた事ですが、

1986年のマラドーナが活躍したW杯は随分昔の話の様で、

オッサン先生からするとついこの間の様にも感じる様です。

 

人間とは記憶が鮮明に残っていると、

意外と最近に感じる様で、

その部分がボヤければボヤける程、

随分昔の様に感じます。

こうした精神分析を元に人類というモノを考えてみると…

 

例えばペレ選手・・・

映像ではほぼ白黒です。

 

 

クライフ選手に成ると…

若干カラーに入ってきます。

 

 

マラドーナ選手に成ると、

ほぼ完全にカラーと成りますが、画像がぼやけています。

 

 

そして、ジダン選手の頃に成ると、

色もかなり鮮明に残り、映像の古さが若干緩和されます。

 

 

2000年初期から活躍し始めたロナウジーニョ選手に成ると、

デジタル映像化が進み、更に鮮明に成ります。

 

 

今の若い世代はメッシ、クリスティアーノ・ロナウドそしてネイマールの時代ですが、

画像が鮮明に残るジダンの時代を見て古いと感じるのか、

それとも歴史的に近い時代と考えるのか…

 

先ほど話した人間の精神構造…

記憶が鮮明に残るほど近く、ぼやける程遠い…

オッサン先生の様に中年期に成ると、

20代からの記憶はほぼ近い感じらしいです。

 

これを人類と言う1万年規模で割り出して考えてみると…

1万年前から、紀元前4千年までは、

歴史的な産物がほぼ壊滅的です。

人間で割り出せば0歳から10歳位までの記憶に匹敵すると考えます。

いわば人類の幼年期です。

中年に該当するオッサン先生は意外と3歳位の事も覚えているようで、

アキラ君という保育園の友達や、

当時の近所の事まで思い出せるというのですが…

それでも断片しか覚えていないほどボヤけていると言います。

 

そして紀元前4千年~ミレニアム2000年に掛けてが少年期。

ある意味。紀元前4千年~西暦1000年までが小学生、

西暦1000年~1500年に掛かてが中学生、

1500年~2000年までが高校生という感じに成る。

 

ほぼ、1950年~2000年に掛けての映像のクオリティーでも、

古い新しいの感覚は伝わるのではと思います。

更に遡って、アルフレッド・ディステファーノ、プシュカスの時代は、

白黒でもそこまで映像が残っておらず、

ましてや、1930年代のジュゼッペ・メアッツァなど

文章と記録でしか知るよしの無い人物です。

1930年代と言えば…野球ならベーブ・ルースの時代、

1950年はミッキー・マントル、

ペレ選手の2度目のW杯制覇の1962年チリ大会と言えば、

1961年にロジャー・マリスが61号を放った時代です。

 

マラドーナがペレに対して、

「彼はもう博物館に入るべきだ」

と言った様に、ほぼ博物館の様な時代の記憶です。

 

王選手がギリギリ現役の頃の記憶は

幼少期のオッサンも覚えているそうです。

でも、記憶の中では既に博物館モノです。

 

記憶という部分で行けば、書物の品質、

史書の鮮明度などを考えれば

その記録が人類の記憶として徐々に伝えられやすく成ったと言えます。

幼年期から少年期変わる、紀元前4000年から西暦0年までは、

若干の書物が残り、歴史的な動きもかなり詳しくなってきた時代です。

それから西暦0年から1000年に掛けては、

紙の文化が浸透し始めて、

本というモノがその記録を残し始めます。

1000年~1500年に掛けては文化的な書物、

物語、寓話などに限らず、説話、論文なども登場し、

記録がより論理的に残され始めます。

物語などもこの時代のモノは、

若干原本でも小説として読めるモノが登場してきます。

 

三国志というモノを考えれば・・・

陳寿の三国志の記録が西暦250年頃~290年で、

羅貫中作とされる三国志演技が1300年ころです。

現代では三国志演義ベースの印象が強いほど、

書物としての記憶と言う意味では、

それだけ鮮明なモノと言えるのです。

錯覚なのですが、1300年に書かれた三国志演技が

鮮明に現代に伝わった分、

西暦600年の唐の時代より、

三国時代の方が身近な歴史に感じる。

書物が残す記憶と言うのは、

そういう錯覚も生み出すモノと言えるかも知れません。

 

更に、1500年~1800年はその文化が更に広まり、

地球規模へと歩みを進め、

1800年~は音が記録の一種を担い始め、

ラジオなども登場し、それがテレビへと進化していきます。

 

それから2000年までに映像の記録はドンドンと鮮明化していき、

2000年~2018年現在までは、

驚くほど記録としては近い感じに成ったと言えます。

 

故にここを以てして人類は青年期に突入したと考えても

面白いのではと思うのです。

20代からの記憶が鮮明に思い出されるため、

つい最近の様に錯覚してしまう症状と同じで、

これからの人類の記憶は映像、音声としてより鮮明に記録される分、

歴史としてもより近く感じ始める。

20世紀の1900年~2000年までの長さより、

21世紀の2000年~2100年まではかなり身近に感じると思われるのです。

 

例えて見れば1914年~1918年に起きた第一次世界大戦と、

1939年~1945年に起きた第二次世界大戦・・・

この間の20年間は意外に長かった感覚に成ります。

でも、この20年を今で考えれば、ジダンの活躍した時代から、

メッシの時代とほぼ同じ長さなんです。

 

更に、第一次世界大戦は遠い昔の話に感じますが、

第二次世界大戦は、世代としては2世代、3世代経った状態でも、

何故か身近な歴史と思えてしまいます。

それは書物を含みゲームなどでも鮮明に伝わっている点や、

戦車、航空機、潜水艦、大艦隊と現代の技術に類似しているから

とも言えます。

ある意味、三国志演技の効果にも類似しているかも知れませんが、

伝承や記録が鮮明細かく伝わりやすかった時代で、

当時の現役の人たちが生きている時代に、

「はだしのゲン」の様な漫画であり、

写真としても鮮明に残り始めた時代故に、

さほど遠い歴史には感じない。

たったその20年前の第一次世界大戦は、

まるで100年前の出来事かの様に遠い昔の話に思えてしまうほどに…

記録の鮮明度と人類としての記憶の効果は、

こういう点を考えてみても言えるのかも知れません。

因みに日本人にとっては第二次大戦の方が、

ベトナム戦争よりも近い錯覚を覚えるかも知れませんが、

アメリカ人にとってはベトナム戦争が近く、

第二次世界大戦は遠い昔の話に思えるかも知れません。

※アメリカの場合、「プラトーン」「フルメタルジャケット」といった、

映画による記録が二次大戦のモノより鮮明に残された感があるからです。

日本は戦争、戦時中となると第二次大戦を描いて伝える為と分析できます。

 

では、戦争の歴史と人類の年齢を比較して見ると・・・

幼少期はさほど大きな戦争の記録は有りません。

紀元前4000年代に成ると、近場での戦争が勃発し始めます。

まあ、子供が近所の子供と公園の砂場の取り合いで喧嘩するような時代です。

少年期に成ると砂場からクラスでの優位性を争う喧嘩に成ります。

イジメなどもこの頃に発生する時期です。

いわば権力争いで国の実権を誰が握るかの時代です。

まあ、アレクサンダーの場合はマセガキで、

小学校年少の身でありながら、近所の学校を全部シメちゃったみたいな、

そんな感じです。

西暦が始まるころには、マセたローマは別としても、

クラスから学校全体へと意識の広がりを持ち始めます。

まあ、スポーツでみればチームの一番から

市や区の一番に芽生え始める感じです。

1000年~1500年頃に掛けては、

喧嘩する範囲が学校から近所の学校へ目を向ける感じです。

戦争の範囲も徐々に拡大して行った時代で、

まあ、ジンギスカンは少し暴れすぎの中学生みたいな感じ・・・

でも、そういう中学生は偶に居るよね的な…

スポーツだと県大会、都大会制覇などを目指す頃の様な感じです。

ただ、反抗期真っ盛りの年ごろで、

人類の歴史も喧嘩三昧な時代。

キリスト教がイスラム教ムカつくからと十字軍なんてものが

発生したのもこの時期です。

モンゴル軍が日本をシメにやってきたのもこの時期です。

 

1500年過ぎからの高校生・・・

まだまだ反抗期ですが・・・

徐々に落ち着きを見せます。

と言うより、反抗期として小賢しく成って来る時期です。

直接的な暴力から陰湿な手法が芽生える時期。

スポーツだと全国大会を意識する時期ですが、

反抗期としては表面でいい顔して

裏で悪い事する知恵がつき始めるころです。

歴史的にみても

「あなたは神を信じますか?」

といって植民地支配を拡大させた時期でも有ります。

まあ、日本も「植民支配を開放します。」と言って、

植民地を拡大した帝国主義もここに該当します。

 

さて…青年期に入った人類は…

スポーツではプロという状態で世界を目指し始める時期です。

一般的には落ち着く時期に成り、

社会性を意識し始めて友好性を考える年代です。

でも、悪い子ちゃんたちは

犯罪を金もうけの手段として考え始める時期でも有ります。

少年期の終わりごろ…高校卒業する位から、

ドラッグディールなどに染まる子が居るのと同じです。

日本より海外だとより解りやすいかもな話ですが、

歴史的に同時期で考えると・・・

武器の販売や密売が生じ始めた時代です。

テロ組織に誰が武器を流している?

そういう感じで、

落ち着きを見せ始め世界協調を模索する社会とは裏腹に、

どこかに亀裂を生じさせて武器を売りつけようと企む。

 

普通の人からすれば・・・

「真っ当に社会で働いて安定した生活する方が賢明なんじゃなない?」

いわば世界全体で仲良くやって経済的な安定を目指そうよ・・・

というモノに対して、

「俺らは裏の社会でしか真面生きていけないし、

裏でしか相手にされないんだよ・・・

表に出てただの人で終わるつもりはねぇ・・・」

なんて感じで、

戦争に発展する火種を探してそこに武器を流す…

武器はドラッグ同様に単価も高く、

売れれば儲けも大きい。

ドラッグで快楽を求めて安心感を得る様に、

人間不信、人種不信、宗教不信など、

不安定な精神状態に強力な武器は

ドラッグ同様の安定剤として機能するようです。

 

青年期と言っても、

まだまだ人類は成熟するには至りそうにないのです。

勿論、大人に成れば腕っぷしの力に頼るより、

金と権力の力に頼り始めるという事も有りますが、

喧嘩(戦争)で殴り合って怪我をするより、

まだ怪我しない分マシと考えるべきか…

それともより精神的に苦しむ状態(経済的圧力)になると考えるべきか…

本当の平穏に至るまでは問題が山積みな時期かも知れません。

 

でも、人類滅亡…

まあ、核戦争という交通事故に合わない限り、

まだまだ序盤で有る事はいえると思います。

 

核戦争という交通事故で、

大事に至らなければまだ良いのですが、

下半身麻痺などの症状に至れば、

折角成長した人類がハンディーキャップを背負う事に成ります。

いわば世界の何分の1かが、

放射線に侵されて使い物に成らなくなるなど・・・

 

記録物の鮮明度が進歩して、

更に情報収集の範囲も広がる。

大人に成って新聞でニュースを読み始める様な意味ですが、

もっと大人として自覚を持つべきじゃ…

 

因みにヨーロッパに一言モノ申します。

「人種、性別、宗教の差別にNO!!」

という割には、

ロシアに対すする差別が酷過ぎるのでは・・・

ウクライナの問題も、

正直現ウクライナ政権が悪いので…

デモ隊との和解案が成立した直後に、

和解を無視して革命状態にしたことが、

そもそもの問題点。

クリミアの60%近くがロシア系とい事情も考慮すれば、

住民投票でロシアへの帰順を含めた意思に成るのは当然です。

因みにウクライナ系は25%だとか…

民意の尊重を考えるなら、

60%の民意を尊重するのも大事なのでは…

ロシア語を共用語としない現・ウクライナ政権に

欧州の圧力で戻させるというのも

その住民の意思を無視した話に成るので、

それも疑問が生じます。

 

革命状態で無政府状態となったクリミアでの選挙は、

ある意味国際的な見解では合法です。

いわば、ウクライナの憲法自体が革命と言う

違憲行為によって崩れていた時期の話に成るので・・・

それを現・ウクライナ政府が非難したところで、

元の発端は前・大統領との合法的な処理交渉を

破綻させたからという事に成ります。

前・大統領の不正も合法的、合憲的な処置の上で

追究すべきが民主的な処置であり、

違憲によって倒壊させた後で、

それを理由に正当化しても、

違憲は違憲です。

 

ロシアがウクライナに対して取った行動は、

そういう意味を含めていると考えられます。

 

ヨーロッパまたはEUがそういう議論を無視して、

一方的にウクライナをサポートする意味でロシアを批難するのなら、

彼らの言葉「差別を無くそう」は

口だけの綺麗ごとでしか無いと言えます。

 

高校生の様に、

仲間だから助ける

仲間だから話を聞く

では無く、

大人としてもっと明確に考えるべきなのでは無いでしょうか…

 

あと、ヨーロッパの価値観を押し付けるのも止めましょう。

これはアメリカも同じですが…

オッサン先生に言わせれば、

オリンピックに「政治を持ち込むのは良くない!!」

と言っておきながら、

日本のタバコ社会を「禁煙ムード」に促した行為は許せません。

 

レズ・ゲイの問題に関しても、

個人的には差別する意識もないし、

マツコ・デラックスは面白い方と思っているので、

受け入れる側なのですが…

宗教的な見解で解れる問題で、

この分野の差別を無くすことをごり押しするのも、

内政干渉行為です!!

精神的な症状と言うよりも、

人間としての機能を考慮した場合、

男と女の物理的な意義を否定するのは

どうかという考えにも理解を示すべきです。

その上で行政的な差別は何処まで緩和されるべきか…

その国々の教育的見解も分かれる話です。

いわばそれを安易に認めれば、

安易に放棄出来てしまう社会を生み出すことにもなり、

人類としての生物的機能が損なわれかねない。

と、考えるのも当然です。

欧州では、それも含めて自由をと考えるのは、

そういう社会構成を目指す上なら、

それはそれで批難できません。

かといって正解か不正解では無いのです。

 

もし彼ら彼女らのそういう問題を世界的に解決したいのなら、

レズ・ゲイの移民をEUやアメリカが一方的に受け入れる形で対処してください。

それが出来ないのなら、

自国の見解は自国の寛容さで割り切り、

他国は他国の事情と見解を尊重すべきです。

 

最近の欧州ではポピュリズムに流されているせいか、

意見の尊重という分野では、かなりの劣化が目立ちます。

本来、意見の尊重は欧州の思想であり、

その尊重の下で議論する事が欧州の教育の素晴らしさだったはずです。

特に英国の劣化は酷い感じがします・・・

 

自由には其々の尊重が大事で、

其々の権利は侵害しては成らない。

トランプの様に圧力を掛けて従えようとすることに反感を感じる様に、

同じ圧力を以て従えさせようとすれば亀裂しか齎さない事も理解すべきです。

無論、相手が明らかな犯罪を犯した場合は別ですが、

確証の無い事で外交上の問題を取り上げるのは、

ある意味偏見にしか見えません。

 

因みにオウムの松本を死刑にした件で、

ドイツが人道的な意味で何か言ってきたようですが、

死刑に対する見解は其々で異なります。

ドイツはドイツの考えで死刑を廃止すれば良いが、

日本は日本で、

被害者の心情を元に人道的な意味を考えて

議論する話です。

 

これらは被疑者の人権を優先すべきが、

被害者の心情を人権として優先すべきかの議論であり、

平行線を辿る話にか成りません。

 

ただ、オッサン先生に言わせれば

死刑を廃止すると言うよりも、

両者の人権を考慮する意味で議論するのなら、

死刑は死ねばその時点で懲役の苦痛から解放されるが、

無期懲役なら生きている限り懲役の苦痛が続くと考えて、

死刑による終止符を設けるべきか否かを議論するべきという事です。

その上で、死刑は無期懲役に比べて緩すぎるという話に成れば、

自ずと最高刑は無期懲役に成るのではという事です。

 

善悪、敵味方を付けて議論するのは人間の未熟さなのか

まだまだ課題の残る人類の青年期なのかも知れません。

 

因みにW杯ベスト4の話を決戦前に言っておくと…

ベルギーとクロアチアは色んな意味で強い!!

でも、個人的にフランスのエムバペに頑張ってほしいのと、

イングランドの3バックシステムに頑張ってほしいという感じです…

 

でも、ミーハーミーハーしてスター選手追いかけたり

個人的に好きなチームを応援した結果…

全敗だったので…もう応援しないで見る様にします。

どうも…ショーエイです。

W杯ベスト8戦がいよいよ始まります。

特にどうこうと分析するのはスポーツ紙がやればいい事なので、

あまり言及しません。

 

フランスvsウルグアイ

ブラジルvsベルギー

ロシアvsクロアチア

スウェーデンvsイングランド

 

技術的に注目するのは上の2試合。

 

ロシアvsクロアチアはロシアがスペイン戦に勝って

浮足立っていないかどうかがカギです。

日本代表に対して述べた様に、

自信を持ち始めてチャレンジャー意識が薄れると、

必ず気を抜く場面が生じてそこをクロアチアにやられます。

 

チャレンジャー意識とはディフェンシヴに成る事では無く、

敵の隙を逃さない様に、敵に迂闊な隙を与えない様に

常に集中力を高めて挑む姿勢です。

 

人間どうしても自信を持つと何処かでポカをします。

そしてそのポカが原因と成って自信が逆に焦りや恐怖に代わって、

頭を混乱させるのです。

 

正直、自信なんてモノは能力が至らない人間が

自己暗示で必要とするモノに成っているので、

自信を付けさせるという行為は逆効果です。

 

「自信を持つ」と言う意味は、

自分自身を磨き上げる為に必要なモノで、

勝負の際は邪魔に成る。

 

例えるならメッシの様な選手に成れるという自信を持つことは大事です。

その自信の下でメッシに出来る事は俺にも出来る。

そう信じ込んでテクニックを鍛え上げれば、

自ずと近づける。

それを日本人は良く・・・

南米の選手じゃ無きゃあの動きは出来ないとか、

人種が違うと言ってあきらめてしまいます。

根本的にこの部分で自信を喪失しているのが問題です。

その中途半端にあきらめた技術で自信を持たれても、

結局は中途半端なままの戦力にしか成りません。

 

そういう意味で戦いに於いてはこんな自信は不要に成るのです。

 

兵法を知っていて兵法を知らない日本人が、

今回のワールドカップを見て良く解ります。

 

基本中の基本、

「己を知り、彼を知れば百戦危うからず。」

日本人は彼を知ることに全てを集約し、

己に関しては常に過信するのが特徴です。

太平洋戦争に於いてもそれは同じです。

 

己を知るというのは、

決戦に於いて自分たちに足りない部分を

明確に把握して対策を取るという事です。

 

サッカーに於いては、常に自らの弱点を知り、

その弱点が付かれない様に神経を尖らせる、

そして弱点を突かれた際に、如何に集中力を高めて

それを阻止するか。

例えば身長の高さ、体の強さで、

クロスからのハイボールに対応できないのなら、

先ずは正確なクロスを上げさせない事に集中する。

まあ、多少この辺は出来ていた様に見えますが、

次にそれでもクロスを上げられたら、

得点されると警戒を強めて、

とにかくボールの軌道に集中する。

 

人間の集中力は常に最大限に持続させることは不可能です。

それ故にどこで最高潮に高めるかがポイントに成ります。

そしてそれを知っていればスイッチの切り替えが明確に成り、

見えないモノも見えてくる。

 

日本人は野球にも精通しているので野球のバッティングで説明すれば、

150Km/hの剛速球でも、集中して見ればその軌道は見えます。

打てる打てないは別として、

それを怯えて見ると軌道どころか玉の存在すら見えない状態に成ります。

集中力を高めた状態においては、

それだけ時間が緩やかに進行する感覚に成って来るのです。

これがサッカーに於いて言うなれば、

相手の首の向きからヘディングのコースも判別できる・・・

なんていう状態も見えてきます。

無論DFにしても、一瞬の隙を察して素早いカバーにという事も出来ます。

いわば相手がシュートを打つポイントは、

自分達が齎した隙で、その隙を自ずと察知出来れば、

絶体絶命のコースをカバーする反応は可能に成る。

正直、長友選手の動きだけがこうした点に集中できていたと言えます。

 

色々な状況変化で隙が生じるのは仕方のない事です。

しかし、隙を生み出してしまった後に、

絶対に通しては成らないポイントを察せるか否かは、

その集中力と判断力に依存します。

これは真剣勝負の武術に於いて、

隙を与えて相手が突いてきた瞬間に、

防御または回避によって致命傷を防ぎきれるか否かのモノと

同じなのです。

 

サッカーに於いては、

ドリブルで突破された、裏を抜かれたという状況で、

如何にゴールキーパーが安心して反応できるかを

DFが最終的にサポートするかが現代サッカーの特徴なのです。

例えるなら、ゴールの内側はGKに集中させて、

ディフェンスは外側へボールが流れない様にブロックする。

それでも外側へ流れてゴールに結びついたら、

それは相手の技術が一枚上手と割り切る。

ただし、こういう状況下では攻め手も判断が鈍る状況下で、

簡単にゴールさせないという気持が大事に成ります。

 

相手に簡単にゴールさせないという気持でコース限定プレイを心がければ、

自然、それだけ失点率が下がるという理論です。

 

要約すれば、

点を取られるなら、簡単なプレイで取られてはダメで、

取られるなら相手のスーパープレイで取られろ。

 

ベルギー戦の最初のゴールはスーパープレイです。

誰もあそこからヘディングであの軌道によるボールが

飛んでくるとは思えなかったから・・・

しかし、クロスからのヘディングで決められた2点目、

そしてカウンターでやられた3点目は、

ごく普通の得点シーンです。

 

2点目なのどは、フェライニをフリーにしていた事が、

大きなポカ。

フェライニをフリーにせずに技術で押し切られたのとは

訳が違います。

自分たちの弱点を把握せずに

その警戒心を薄れさせた失点であるのは明白で、

それ以外にもルカクのフリーでのヘディングなど、

ボールが川島の正面に行ったから良かっただけの事を、

守ったと言っている様なレベルでは、

全くスカスカな状態を理解していないと言えます。

 

先ず、日本人は日本を強くしたいのか、

それとも現状で満足したいのか?

 

強くしたいのなら敗戦をたたえる前に、

敗戦をしっかり把握しろ!!

正直、過去の敗戦傾向から、

自信を付けた時の日本が崩れやすいのは

何度も繰り返してきた落とし穴です。

それをまた繰り返しているから呆れたのです。

正直、セネガル戦の時の状態が一番よく、

あの状態で戦いを挑めば、

あの2点のチャンスも見す見す逃すことは無かった。

格上相手だからという事は一切関係ありません。

 

え?W杯に参加すれば良いだけの話なの?

優勝またはそこに近づく事が目標じゃないのか?

まあ、日本の雰囲気はそのレベルに達していないと言えます。

 

話を戻してそうした精神的な作用を考慮して

ロシアがクロアチア相手にどこまでやれるのかは見ものです。

日本と同じように自信が過信と成ってしまえば、

クロアチアに簡単に崩されるのではと言えます。

 

そしてスウェーデン対イングランド…

正直、スウェーデンにも頑張ってほしいですが、

政治的な意味で考えると、

イングランドにはもう少しロシアで良い思いをしてもらいたい。

亀裂の入った両国が、W杯を通して少し緩和する環境になれば

望ましいと言えます。

そういう意味でイングランド代表に頑張ってもらいたいと思います。

 

因みに西野監督は退陣を表明しましたが、

正直な所、「何故続けようとしない」と言えます。

敗戦で意気消沈してしまうような自信だったのなら、

その時点で用済みです。

自信があるのなら自分の手で

もう一度「戦える日本」を作り上げるべきなんじゃないのかな?

それが自信というモノです。

それに反して負けたから辞めるという話では、

彼が選手に与えようとしていた自信は、

単なる過信に終わってしまう事を意味するのです。

 

まあ、結局、その程度ならさっさと消え去れ!!

悔しいのなら続けて見せろ!!

と…オッサン先生は言っています。

 

「出来る」というのは過信です。

「出来る様に成る」という気持が自信です。

日本がW杯で優勝できるようになるというのは「自信」で、

日本がW杯で優勝できるというのは「過信」です。

 

野球のサムライJapanに「自信」だとか「過信」なんて言葉は

必要ないですよね…

ただ一試合一試合を真剣勝負として

勝つための駆け引きに没頭する。

抑える「自信」とか、撃つ「自信」なんてものは関係なく、

抑えなければ負ける、撃たなければ負ける

集中力を高めるスイッチがそもそも違うのです。

そこには個々が「自信」の下で達成した、

メジャーでも通用するという実績が有るからです。

 

日本のサッカー界もそういう状態になって初めて、

真面に勝負と向き合えると言えます。

それが出来ない内は、

常に挑戦者という立ち位置を自覚して、

如何に最大限に集中して

ミスをしない様に戦い続けるか…

そういう戦い方が求められるのです。

 

因みに日本で言う「自信」なんて言葉は、

自信の無い人間が欲しがる言葉です。

そんな人間に自信を与えて何になる?

日本総勢で「ゆとり教育」ですか?

 

手ごたえを探るのは当然で、

その手ごたえが見えない内は確信が持てない。

確信が持てないから自信が無い…

これが日本の脆弱さです。

 

確信が持てないなのなら確信が持てるまで探り続ける。

そして確信が持てる様に成ると信じ切るのが「自信」です。

 

簡単に無理だ、無駄だと言い捨てる社会で、

そもそも「自信」をもてる環境には適していません。

そうした中で中途半端なもの同士が

責任を転嫁する意味で「自信を持て」と

おだてる意味で使われているのも事実です。

 

「背中を押されて」死地に飛び込まされる…

ある意味、日本人のやり方、美談は常にこういうモノです。

そして背中を押す人間は常に自分に自信の無い人間です。

 

本当の意味で「自信」が有るのなら、

側線して自らが立つモノです。

自分以外に誰がやれる・・・

無論、過信に行ってしまうケースもあり、

海外では逆にこちらの方が迷惑ですが、

日本人は直ぐに責任を誰かに押し付けようとする分、

質が悪いです。

本田選手は自信過剰ですが、

その分の責任は潔く取る姿勢を見せる分、

評価できます。

 

そういう意味では人間性が大事になるという部分で、

バランスも考慮される話ですが、

日本代表で例えるなら、

柴崎選手の様な貪欲な姿勢、

長友選手の様な向上心、

乾選手の様な割り切り方、

長谷部選手の様な責任感…

これら全てを兼ね備えた人間性をもっと育成すべきで、

社会的にもっと評価するべきです。

 

因みにこれらを全て兼ね備えているのは、

野球のイチロー選手のみで、

かつては王貞治選手がそれに値します。

 

 

 

 

 

どうも…ショーエイです。

ネイマール選手に関しては今回言及してませんでしたが、

悶絶茶番演出に非難を受けているのであえて言及します。

 

メキシコ戦後半に、ピッチ外に倒れていたネイマールが、

突然足を抱えて悶絶したシーン。

あの演出は当然のアピールです。

いわばアピールしなければ誰も気付かなかった事に成るからです。

 

サッカー選手は怪我に対して過敏に反応するのは当然です。

前回のブラジル大会では、コロンビアの選手から不当なバックタックルを受けて、

ネイマールのW杯は終わりました。

 

今回のメキシコ戦での出来事も、

メキシコの選手がネイマールの足首を強く踏んだ様には見えなかったモノの

故意でそのような行為に及んだことを逆に指摘されるべきと言えます。

VARというシステムが導入されたのですから、

ファウルに対してはもっと慎重に見極めるべきです。

 

強く踏んだか、軽く踏んだかは明確には解りません。

ただ、相手に不用意に接触する事が疎かにされると、

故意で相手を怪我させる行為も見逃してしまいます。

そういう意味での抑止力として軽く踏んだ選手に対して

逆にイエローカードを出すべきだったと言えます。

 

ネイマールはあれだけの技術があるゆえに、

意図的に怪我を狙われるケースが多々ある訳です。

プレイ中の接触ならまだしも、

プレイ外での接触に過敏に成るのも当然です。

何度もそういう行為に苦しめられた故に、

ああいう些細な行為も許せないと思うのは当然と言えます。

 

ネイマールの観点からすれば、

軽く踏んだとしても、不必要な行為に対しては

審判が徹底的に取り締まるべきという意味でのアピールだったと言えます。

 

VARによってブラジルのお家芸シミュレーションは

やり難くなった・・・

ネイマールもそういう演出は良くやります。

ただ、反射神経が高いため接触前に受け身に入るという考えで見れば、

お家芸のシミュレーションは怪我しない為の防衛術とも言えます。

しかし、それでファウル判定を促す様にアピールするのは、

やり過ぎに見えます。

実際、今回のメキシコ戦ではあまりそういう倒れ方は見られなかったのも事実です。

且つてならメキシコvsブラジルは転がりパフォーマンス対決の様な試合だったのが

今回は真っ向勝負でやり合った感じに見えたのも事実です。

故にブラジル、メキシコ両選手のパフォーマンスも

シミュレーション狙いの雑なプレイが避けられて、

本当に倒されるまで踏ん張る姿勢が見受けられたと言えます。

 

その反面、軽くであっても足首を故意で踏む様な行為は、

徹底的に取り締まるべきだと言えます。

そうすることで選手は常にカメラに監視されているという認識を持ち、

不用意な行為に及ぶことは避けられてくると思い、

試合と関係の無い部分での怪我はより避けられるのでは言えます。

 

ネイマールの過剰な演出はそういう意味で評価する、

そしてその行為に対する意識を考える意味で見るべきモノだと言えます。

 

まあ、ネイマールはイソップ寓話の

オオカミ少年の様な風に見られてしまうのも

仕方のない事と言えます。

でも、世の中あれだけ派手にアピールしなければ、

誰からも気付いてもらえないというのも事実です。

 

逆にあのアピールでネイマールが批難を受けることは、

FIFAの審判団が不必要な怪我に対する意識が欠落していると

言えるのではと主張します。

強弱に関係なく、ああいう故意で踏む行為が行われなければ、

不当な怪我が発生することは間違いなく避けられる訳ですから。

 

そういう細かな抑止を考えずに、

ただ、嘘だから悪いとかで見る状態は、

その本質を常に間違った方向へ促すのではと言えます。

どうも…ショーエイです。

日本を応援している方には、

前のブログは憎らしい感じだったと思います。

ただ、日本のディフェンスは歴代最悪な程スカスカなので、

苦戦したベルギーが残念だったという感じです。

 

長友が頑張った感じは良く見て取れたが、

ルカクにあれだけチャンスを与えた日本のディフェンスは、

負けて当然と言える状態だった。

もう一つ、意外に香川が調子が良かった様に見えた。

それでも思い切ったプレイを躊躇し、

相手を混乱させるに至らなかったと言えます。

それでも乾へのパスは見事だったと言えるし、

乾も良くあのポジションに入り込んだと評価できるゴールです。

 

2点先制した際に、ベルギーのプレイが崩れるかと思ったが、

結局、起死回生の一点が入って冷静になってしまった感じです。

 

一番の問題は、どれだけ戦前にデータを取ったか知らないが、

戦況を見てベルギーの狙いに気づいてい成った事が、

最後の失点につながっている。

 

ベルギーは実はカウンターを狙っていた。

アザールのドリブルとルカクのパワーに

日本のDFが対応できない事は明白だったからです。

 

前半の時点で、ベルギーはディフェンスに自信が有った様で、

日本に攻めさせるシーンが何度か見られた。

日本にシュートを打たせても、

GKが読み切れるレベルだった点から、

良く見て取れる。

 

それでもカウンターらしいカウンターに成らない様に、

日本は何とか持ちこたえたと言えます。

柴崎と長谷部がその辺を上手く対応していた様に見えた。

ただ、カウンターでは無く、

相手の組み立てで何度かピンチを招いていた時点で、

ディフェンスの脆さが明白だったと言えます。

 

さらに高さ相手に勝てない勝負を挑む日本に

勝機が見出された点も大きな誤算です。

ベルギーの2点目はその狙い通りだった。

それは吉田と昌子がやたらルカクに競って行ったからです。

 

では、あんなモンスターをどうやって止めるのか?

ああいう場合は、GKがマークする感じでポジションを取るべきと言えます。

いわば、ヘディングを打つ瞬間、

またはヘディングが到達する前にGKが処理する動きを見せる。

そしてDFはヘディングが広範囲で狙われない様に飛ぶ。

競るのではなくヘディングを放ったコースをブロックする感じで飛ぶしかないのです。

 

GKを中心にそういう布陣で守られると、

ルカクは自然、真ん中では効率が悪いと考え、

少し外側から狙ってきます。

それがルカクはほぼゴール前に構えて狙い続けられた。

 

もうこの時点で日本がハイボール処理対策が出来ていない点が察せられます。

そこでフェライニの登場となり、

結果、ハイボールによって2点目を易々と奪われてしまいます。

 

因みにブラジルの選手ならどう守るか…

体を入れて打点で飛ばせない様に守ります。

体を先に入れる技術が必要で、

ブラジルの選手は素人でも半端なく上手いです。(経験談)

空中に一緒に上がると実は打点の高い方が押し切り、

ジャンプの推進力でポジションを持っていかれますが、

ジャンプする前に体でポジションを奪われると、

打点に上手く到達できません。

勿論それでも防ぎきれない訳ですが、

自由を奪った状態故に、ヘディングの威力もコースも限定され、

最終的にはGKが処理しやすい状態を促します。

 

それを勝てないのにガッツで挑む日本の姿勢は、

精神論で頑張っているだけで、

言い方悪いですが、

正直間抜けという感じに見られます。

 

前述のブログの通り、

日本が勝つ気では無く

チャレンジャーとしての姿勢を崩していなければ、

ここまで言う事も無かったのですが、

あの程度で何の対策も考えずに、

相手のデータを都合よく分析しただけのチームだった故に、

逆に情けなく日本人の脆弱さを痛感したと言えます。

 

結果は3対2でも、内容は・・・

強い人にカウンターで2発食らわせた後で、

マジに成られてボコられた様な状態です。

因みに最後の失点は、

ベルギーが最初から望んでいた展開で、

最後の最後で見事に嵌ってくれた感じだったと言えます。

 

チャレンジャーという姿勢で挑んでいれば、

辛勝であってもロシアの様な劇的な勝利を掴めたかも知れません。

それが勝つ気でいた事が全て、

2点リードを守り切れず

更には延長戦に踏み込むことなく

敗れ去った結末と言えます。

日本人は死地に活路を見出す事には長けていても、

生地に慢心してしまう人種なのです。

死ぬ気で挑むときは集中力が高まり、

ピンチもそれなり対応できるが、

慢心が入るとご都合主義な性格が災いして、

ピンチを招き続ける。

運よくルカクがチャンスをミスっていた状態も、

ピンチという認識が薄くなって、

修正しようとしなかった・・・

そういうモノが良く見えた試合だったと言えます。

マスコミもチームも自信を付けたなんてことを抜かすのが

そもそもの間違いはそれなのです。

 

勝負を楽しむと言うのは、

本来は自信を持って楽しむのではなく、

崩れない相手を絶対に崩してやろうと挑む気構えで有り、

攻め立ててくる相手に絶対に崩れないでいてやろうと言う気構えで、

相手の駆け引きを察し、自らの駆け引きをぶつけて、

押し押される勝負の流れを楽しむという事。

相手の自分を出し抜くプレイには称賛を与え、

次は無いという気構えで修正する。

そして自らが相手を出し抜いても、

次は別の手でと思考を巡らせる。

こういう勝負を楽しむことを言うのです。

その結果、どちらが勝とうがそれは時の運。

最大限に楽しんだのならその結果は自ずと誇れるものに成る。

 

勝てば良いと言うレベルでは、

誇りを持てる勝負には到達できません。

そして誇り高き勝負を得た後は、

更なる勝負を求めて更なる磨きを掛ける。

如何に頂点に達しようとも、

誇り高き勝負を求める限り、

一時の勝利に満足することは無い。

そしてその姿勢が人を魅了するパフォーマンスを生み出すのです。

 

例えるなら乾選手はあの試合で何を楽しんだ?

ベルギーからゴールをこじ開けた事を楽しみ、

そしてもう一つゴールをこじ開けようと楽しんでいたのか?

それともチームが勝てそうな事に踊り、

結局、負けた事を悔しんだのか?

自分の理想通りな組み立てでゴールが生まれたのか、

それとも偶々そこに自分が居てゴールのチャンスが訪れたのか・・・

 

勝負を楽しむとは自らの理想を反映させて仕事を為す事。

偶然で生まれたものはそこに含まれない運によるもの。

そういう楽しみを理解して試合に挑めば、

ベルギーのアザールやクロアチアのモドリッチの様な選手に成る事も

叶うと言えます。

 

まあ、あくまで士道に基づく精神論ですが…

 

 

どうも…ショーエイです。

ベルギー戦勝てる気に成っている日本代表を見て、

ハッキリ言って応援する気を無くしました。

 

勝て兜の緒を締めろ。

そういうチャレンジャーとしての意識が欠落してしまったチームに

興味は有りません。

「勝つ」なんて意識を持つことが大きな間違い。

負ける気を持つ必要も無いわけですが、

ベルギー相手に全力で気持ちをぶつけるという姿勢を見せて欲しかった。

 

決勝トーナメントで、

アルゼンチンのメッシも、ロナウドも覇気を失った様に見えた。

集中力を維持することは難しいが、

プレッシャーに押しつぶされて

自らのイメージを失ったメッシ。

そして、どこか安心感を抱いてしまい、

気を抜いてしまったロナウド。

そういう部分が大きく影響してしまうW杯に成っていると言えます。

 

逆に、フランスのエムバペは挑戦者という気構えか、

試合を楽しんでいる無邪気さがあの様なプレイを引き出し、

ロシアは挑戦者として最後まで集中力を維持し続けた結果、

スペインにPK戦で勝利した。

ロシアは次戦で自信を付けてしまうと、

油断を齎して負ける心配もある訳ですが、

日本がベルギー戦を前にそういう状態に成っているので、

試合を見る前に負けてくれと言いたいです。

 

正直な所、本田や香川または

乾の様な選手で満足する気は無く、

世界で注目される、エジプトのムハメド・サラー

又はオランダで結果を出した、

イランのアリゼラ・ジャハンバフシュ(アズムンでは無い)の様な選手が

日本から出てきて欲しい。

長友は逆に評価できる素晴らしい選手だが、

野球のイチローの様な選手というレベルには

達していないと思う。

 

予選突破できるかもというレベルの代表より、

もしかしたら優勝できるかもという代表になって初めて

本気で応援できるのではと言える。

 

ただ、それでも謙虚にチャレンジャーとしての意識を忘れずに、

まさかの快進撃を引き起こした日本女子代表の様に、

最後まで力の足りない部分を素直に認めて、

それをチームで補う意識が有るのなら、

応援したくなると言えます。

 

ハッキリと言っておきます。

今の日本代表はDFはスカスカ、

攻撃は単調。

精神的にも体調的にも

万全の相手にはチャンスすら作れないレベルです。

第一戦目はエース不調の幸運に、

レッドカードで一人減った幸運が重なった結果。

2戦目はセネガルが日本を舐めてかかった結果。

3戦目はメンバー違うので論外です。

(監督の采配ミス。)

それでも何とか立ち向かう姿勢が見られた分、

チームとして良い形が生まれたという評価は出来ます。

本来ならポーランド戦は休ませずに、

ヨーロッパのチームに対するイメージを選手に刻む方が、

賢明だったのでは思います。

 

これで日本がベルギーに勝ったら驚きだが…

大敗を喫したら大笑い。

ベルギーに2点差以内で負けたら頑張ったと評価する感じです。

 

因みに日本のコメンテーターの様に、

仮に日本が勝っても謝りません。

逆に、ベルギーが調子悪くて運が良かったねという話なだけと言っておきます。

 

 

どうも…ショーエイです。

かつて911の後に、当時の大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュは、

イラン、イラク、そして北朝鮮を

Axis of Evil=悪の枢軸と呼んだ訳ですが・・・

今の時代、Axis of Idiot =アホの枢軸が大問題と成っています。

 

アホの枢軸は国単位では無く、政権単位に成る訳ですが、

①トランプ政権=USA

②自民党政権=Japan

③ネタニヤフ政権=Israel

④エルドアン政権=Turkey

を言います。

 

何故、アホの政権かと言うと…

彼らは

「知恵の輪を力で引っ張って外す事しか出来ない」

そういう人たちだからです。

まあ、イソップ寓話の「北風と太陽」で、

常に北風と同じように一生懸命風を吹き付けるだけの人たち

という言い方も解りやすいと言えます。

 

トランプに至っては北朝鮮問題で太陽を演じた様に見えますが、

そもそも韓国が太陽を演じて、

トランプが風を吹き付けるのを止めただけの話です。

政治的な言い方をすれば…

韓国の方針を無視して米韓関係に支障が出ると、

韓国が中国に近づきすぎる事が懸念されたからという、

分析の下での事と言えます。

 

日本と韓国で見れば、北風と太陽の比喩は現状明確に見て取れます。

北朝鮮の非核化というコートを、

日本は圧力と言う風を吹いて、一生懸命脱がせようとしました。

しかし、結果は脱ぐ気配は全く見せませんでした。

所が韓国の融和政策で陽の光を当てると、

以外にもコートを脱ぎすてるかの様な状況に進展した訳です。

 

日本人からすれば韓国にお株を奪われた感があり、

あまり好感を持っていない事かも知れませんが、

日本人全体の失態と考える事がそもそもの間違いで、

アホな政権のアホな行動として恥じる見方をすべきだと思います。

 

次にトランプのアホな発想ですが、

多くの人は断片的な情報で断片的な見方になる故に、

実際に何を目的としているのかは理解していないと思います。

 

彼の目的は、国際協調を分解し、

国家単位で孤立させて自分側に取り込もうと考えている。

一つの大きな力も数の結束に対抗すれば、

その影響力は限定されます。

しかし、数が結束を崩して孤立させると、

孤立した側は大きな力に頼る動きが出始めます。

トランプの狙いは実はここに有るのです。

まあ、多少頭の切れる様なテクニックで、

結構、こういう仕掛けに引っかかるケースは多々あります。

 

ある意味アメリカ抜きで結束が維持されるのか?

そういう圧力を以て結束に綻びが生じるのを待つ感じが、

今のトランプの狙いです。

綻びが生じたら個別に交渉して取り込んでいく・・・

 

やり方だけを見てみれば、

敏腕のビジネステクニックの様で「凄い」と錯覚するでしょうが、

そもそも「目的」と言う部分で推し量ると、

それで何がしたいのか?

アメリカ=トランプによって世界を支配したい・・・

そういう話です。

国連で国際社会が民主的議論によって

平和的に結びつこうとしている所へ、

アメリカのごり押し「独裁制』を試みる。

米国の決定が全ての社会を生み出して、

世界は米国の隷属国としてのみ存在する。

トランプがアホなのは、

米国だけが喜ぶ状態で、

他国は誰も喜べない訳で、

それで何が起こるのか・・・

アメリカに対するレジスタンス運動=テロの増幅を招くだけ。

 

更に、ここでも「北風と太陽」が大きな起点となる。

いわば風を吹き付ける米国に対して、

中国が太陽として市場開放をより強めたら、

例え仲良しの欧州でも、中国との関係を強めるのではと言えます。

 

米国の影響力が、失望によって失墜し、

逆に中国の影響力が強まってしまうと、

米国ベースによってグローバル化が進んでいた状況も、

中国の影響が入り込んで

世界が一つに成るチャンスはより困難になる可能性も出てきます。

先に示したチャンスを逃すとはそういう事です。

仮に中国がグローバル化の意図を理解していれば、

中国が盟主となって世界は一つに統合される。

アメリカは今よりも遥かに影響力を失って、

派閥的に野党勢力に押し込まれる。

 

そしてこうしたアホな発想を下支えしているのが

イスラエルの現政権としておく所の仕業でも有ります。

 

さて…こうした流れで世界が米国に圧力を掛ければ、

新しい歴史の一歩が生まれると言えます。

それはトランプが退陣しない限り、

米国の市場は無視するという姿勢。

トランプの為すがままに関税を掛けさせ、

そのまま工場も立てずに米国の市場を放棄する。

ある意味、アメリカに対してチキンレースを仕掛ける訳です。

 

その反面、中国市場を活かしつつ、

途上国の経済を向上させて米国で失う部分を補填して活動を

併用して行う。

欧州が側線してこうした活動を行うとともに、

そうした国々で米国企業を圧迫していけば、

トランプの様なアホは崩れ去って行きます。

 

思考は簡単です。

「北風と太陽」

強引な北風として君臨するアメリカに対して、

協調的な太陽として存在感を示せば、

自然流れはどちらに傾くか・・・

欧州がEUとして北風の米国に与すれば、

太陽の存在は中国に奪われてしまう。

逆にEUが太陽として中国と競合すれば、

その国の経済はより刺激を受けて、

活性する速度も早まる。

そして米国がどれだけ圧力を用いようとも、

盤石な経済圏が構築される。

 

軍事面で米国が欧州と対立する選択肢は

先ずありえず、

逆にトランプがその思考に走ったら、

トランプ政権は終焉を迎える時と成る。

 

実はこのチキンレースは米国が遥かに不利と言う事に

欧州は気づくべきと言えます。

 

因みにトランプより先に欧州が

ロシアとの警戒状態を緩和する方向へ進むと、

トランプはより一層何も出来なく成ります。

トランプと言うより、イスラエルなどを支えている

ユダヤ資本の目論見は、

欧州をアメリカの言いなりにさせる事。

米ロの関係改善は、欧州へ逆に孤立する意識を齎すためと言えます。

欧州が孤立意識を高めて圧迫感を感じ始めると、

EU各国で親米意識への議論が活発化される。

そうなればイスラエルとしては願ったりとなる訳です。

先行した米ロ関係改善で、ロシアは逆に関係を崩しにくくなる。

欧州も米国に抵抗する気力を奪われる。

手順を見れば明白です。

まあ、米ロ関係が改善される方向は逆に願ったりなので、

静観しても構わないのですが、

欧州がそこで怖気づけば、

結局、漁夫の利を得るのは中国のみという計算に成ってしまいます。

 

グローバル化、また世界統合の鍵は

欧州が米国にも中国にも与しない存在として、

如何にこの機会を捉えるか

それが試される正念場であるという事は言っておきます。

 

因みに日本は先ずアホの枢軸たる

自民党を追放する事から始めましょう。

 

TPP法案を可決したからと言って、

評価するつもりは有りません。

所詮、通して当たり前のモノを通しただけなので・・・

それを如何に活用するかが示せない政権は不要です。

どうも…ショーエイです。

ワールドカップもいよいよ予選の最終戦に突入します。

サッカーを知っている人は結構多いと思いますが、

サッカーを研究している人はさほど居ないと思います。

 

サッカーを知っている人からすれば…

メッシ選手が苦戦する姿は、単なる不調が原因と思っているのでしょうが、

実は単なる不調と言う症状に留まらない、

大きな問題がアルゼンチン代表に有るからです。

 

【スター軍団の統率はかなり難しい】

サッカーを知っている人でも、こういう話は知っている事と思います。

しかし、何故難しいのかは良く知らないのではないでしょうか。

 

簡単な話、

個人の自尊心が協調を阻害するという問題が、

ここに起因します。

 

サッカーは点の入り難いスポーツで、

苦戦すると色々なジレンマが生じてきます。

いわばチーム力を信じるか、

それとも個で打開するか・・・など・・・

 

そういう苦境のポイントが長引けば長引くほど、

他人批判へと向かって行くのです。

無論、口にして味方のプレーを罵る選手も居ますが

口に出さずプレイスタイルとして出してしまう選手も居ます。

まあ、単純にドリブルで個人プレーに走るなど言えば解りやすいですが、

一番大きな点はポジショニングに現れてきます。

いわばフォワードやミッドフィールダーならカウンター狙いの前線待機…

ディフェンスだとオーバーラップといった感じで…

 

そういう問題がアルゼンチン代表に潜伏している事が危惧されます。

潜伏というのは…

表面上仲良く見えても、意識の中で信頼を削いでしまう意味です。

まあ、人間社会で、

特に最近の傾向では味方同士の罵り合いは、

極力避けるのが世界共通の処世術に成っているため

表面上仲良しは当然目につきます。

でもそれは腹の底を押し殺しているだけのモノで、

実際はその行動に現れて見えてくるのです。

 

アルゼンチンはメッシ、アグエロ、ディパラ、イグアインという

各国リーグで得点王にまたはそれに匹敵する成績を残した選手で満載です。

ある意味、メッシにばかり注目が行くと言うのは、

内心では気分が良くないとも言えます。

また、ディ・マリアも4年前のブラジル大会とは異なり、

メッシに依存する姿勢から自尊をアピールする感じで、

プレイスタイルを変化させた感じです。

故に表面上と異なり、プレイはバラバラに見えてきます。

 

更に言うなれば、マスチェラーノ・・・

彼はブラジル大会ではディフェンスの要として活躍し、

アルゼンチンが準優勝出来た立役者といてっも過言では有りません。

その彼がボランチとして、

ゲームビルドの意識が向いてしまったというのも問題ですが、

それはチームのシステム上役割なので仕方ないと言えます。

 

【ブラジル大会との違い】

実はメッシが活躍しなかったのはブラジル大会でも同じ状態でした。

彼のリーグでのパフォーマンスに比例して、

代表では何故か今一です。

ただ、その反面ブラジル大会の時のディフェンス陣と

今大会でのディフェンス陣では、

その連携力が全く別物と言えます。

 

ディフェンスはGKを中心に連携を整える方が

より効果的に機能する。

予選敗退決定ですが、

コスタリカのナヴァスがいい例です。

いわばDFは自分がボールを奪うより、

相手にシュートを打たせたときに

キーパーが反応しやすい位置取りを意識する方が

守りは固くなる。

 

これはブラジル大会のアルゼンチンも同じでした。

ジダン監督がレアルで3連覇したのも、

実は同じ理論であったと言えます。

今大会では、アルゼンチンのGKにリーダー性は無く、

ディフェンスも個の判断でプレイしている感じが、

結局はクロアチア戦での大量失点を物語っているのです。

 

【中盤が弱いアルゼンチン】

さてメッシが活躍できない理由の一つが実はここに有るのです。

メッシのバルセロナでは、中盤にイニエスタ、かつてはシャビという

ゲームを作る選手が居ました。

ゲームを作るという言葉を知っている人は多いと思いますが、

ゲームの作り方は知らない人が多いと思います。

それは実はプロでも同じなのです。

ゲームを作るまたは組み立てと言われてますが、

実は得点までのゴールヴィジョンが見えているか否かで

大きく異なるわけです。

いわばゲーム組み立てに於いては、

相手のディフェンスラインの状態を見極めて、

メッシがドリブルで切り崩すルートを察し、

更にそれで生じるディフェンスの穴を見極めて、

自らそこへ飛び込み前線の攻撃をサポートする。

 

更に言うなればメッシのドリブル突破を攻撃陣の武器と据えて、

そのドリブル突破が上手く機能するように、

どのディフェンスを自分の方へ引き付けるべきか、

そういう計算も大事に成ります。

 

ある意味、アメリカンフットボールのランニングバック…

例の走って突破するポジションですが、

その機能の応用と言えます。

RB(ランニングバック)がディフェンス陣を突破するには、

味方のオフェンスラインが相手のディフェンスのコースをブロックして、

RBのルートを切り開く連携が必要に成ります。

実はサッカーでもこの応用を用いれば、

意外とドリブル突破のスペースは開きやすくなるのです。

 

ダミーランニングという言葉がサッカーには存在しますが、

 

ダミーランニングによってディフェンスの塊を広げる動きは良く知られているが、

ディフェンスの意識を分散させる動きはあまり知られていません。

例えるならディフェンス3人相手にドリブル突破を仕掛けた際、

3人が3人ともドリブラーに集中すると、

メッシの技術を以てしてもかなり困難です。

そのディフェンダーの意識に、

味方へのパスがあるという可能性が付与される事で、

判断遅延という心理作用を与える事が可能に成る訳です。

いわばメッシのドリブルに集中すると、

パス一発でシュートが飛んでくる、

パスを意識するとメッシの突破への対応が若干ズレてくる。

更にドリブル対応の閉じた状態から、

パス対応の意識が付与されて若干開き気味に成らざるを得ない分、

ドリブルのスペースが自然生じやすく成る。

バルセロナのイニエスタたちは、

こういうヴィジョンでメッシのプレイをサポートする分、

メッシも突破しやすい状況が生まれている事が言えます。

アホなディフェンダーに囲まれた場合、

彼らは個々でボールを奪いに来る分、

個人技一つでもドリブルのスペースが生じ役成るが、

ワールドクラスの連携で守るディフェンス陣を崩す場合、

彼らはボールを奪うよりスペースを与えない事を知る為、

個人技で打開するには至難の業となる。

現状のアルゼンチンが直面する問題点はココに有ると言えます。

 

アグエロと若しくは他のフォワード陣のポジショニングを見ると、

メッシと同じラインかその前に居ようとする感じです。

得点を取るという意識から、

パスを貰ってシュートを打つと言うのはごく当たり前な事かも知れません。

でも、それでは折角のメッシの破壊力を活かしきれないだけです。

いわば彼らは全盛期に各リーグでシーズン20点を叩き出した選手かも知れませんが、

メッシの破壊力は全盛期にその倍以上、50点を叩き出せる能力が有ります。

20点を叩き出す動きのままでは、一試合に1点入れば良いかな程度と考えます。

ある意味オーソドックスな攻撃パターンで、

パスをつなぎスペースに入り込んでシュートを放つ。

またはサイドからの攻撃でヘディングを狙う。

後は個々の選手のシュートの正確性がその得点力に反映されるわけです。

それ故にメッシのドリブルもサイドを切り崩す動きに成っても、

中央突破はやり難い。

また、シュート力もミドルを放つ感じに終わりがち。

無論、彼のミドルの精度は高いのでそれなりに貢献していますが、

それでもオーソドックスなプレイに終わるのです。

 

実際にクロアチア戦でメッシは中央突破を試みましたが、

相手ディフェンスに阻まれています。

まあ、突破した時点で難しいのは本人も解っていた事でしょうが、

見ている方もまあ無理だろうなと思ってました。

 

【マラドーナとメッシの違い】

メッシは実に良い人です。

まあ、脱税など黒い話も有りますが…

あれは父親が悪く、メッシ自身はその辺無頓着だったと言えます。

メッシは責任感が強く、優しい心の持ち主です。

それ故にチームを自分の色に染めるより、

チームに染まる事も厭わない。

特にアルゼンチン代表に於いては、

キャプテンとしてチームの雰囲気を重視する故に、

自分を殺して他の選手のスタイルに合わせようとする感じが見受けられます。

それ故に上手いフォーワードの選手に陥っているのです。

逆にマラドーナはエゴイスティックな程、自分中心に染め上げようとします。

今大会では実はクリスティアーノ・ロナウドがこれに近い状態と言えます。

1986年、1990年とアルゼンチンは優勝、準優勝と躍進しましたが、

86年大会はその典型です。

また、マラドーナは意外と自分でゲームメイクをする感じで、

ポジション的にもアタッキング・MFな感じでした。

そして自分中心にボールを要求して、

チームを自分のヴィジョンに当てはめてゲームを組み立てた。

チームはマラドーナからボールを受けやすい位置を探り、

そのポジショニングは自然とマラドーナがドリブルコースを開き易い状態に成っていた。

86年大会を研究すると、マラドーナのドリブルに警戒を強めた際に生じるスペースへ

バルダーノ、ブルチャガという選手が上手く入り込んでパスを受けて得点に結びつける

そういうシーンが印象的に見受けられると思います。

無論、マラドーナがワンツーで抜け出すという得点もその効果の一つです。

 

メッシも実は能力的にはマラドーナと同じヴィジョンを持っているのですが、

彼の控えめな性格が逆に災いして、

他の選手を引き立てる感じに成ってしまう。

また本人は気づいていないバルサでのポジショニングが、

彼のゲームでの存在感を消してしまっている。

アルゼンチンにイニエスタは居ないのに、

イニエスタのヴィジョンを待つ感じが

彼の潜在意識に定着している感じです。

それもこれも控えめな性格故に、

指揮官という形より、自分の役割に徹する姿勢が、

逆に破壊力を削いでいる。

それ故にチームもメッシをフォワードのキーパーソンとして

意識している感じに成ていると言えます。

 

【メッシ・アルゼンチーナに破壊力を持たせるには】

メッシはヨハン・クライフをもっと意識する方が良いかも知れません。

ヨハン・クライフの攻撃の際のポジショニングは1/4ラインからドリブルを仕掛けるプレイです。

ペナルティエリア付近1/5ラインでは近すぎるのと、

ディフェンスラインを見極めるには狭すぎると言えます。

また、ドリブルを警戒したマークが固まりやすい場所でも有ります。

更に、中盤のサイドはメッシとのワンツー重視で上げて行く事が大事です。

その動きによって相手のディフェンスはドリブル・パスの両面警戒で

崩れやすく成ります。

フォワードの二人、現状アグエロとイグアインが有力でしょうが、

ポストプレイを先ず優先して、

メッシと並ぶ、もしくはその後にスペースへ飛び出す感じを意識させる方が

恐らく効果的に崩せます。

いわばメッシの前で動くと、

実はディフェンス一人付くだけでそのコースを消すことは可能に成ります。

コースが消えていればメッシへのドリブル警戒は2人である程度阻めます。

それがメッシの突破に併せてFWに動かれると、

ドリブルを警戒する二人の視野にも入る分、

また一人付いているコースカバーが動き出しの瞬発性で出遅れる分、

チャンスが生じやすくまたメッシのドリブルコースが開きやすくなるという

王手飛車取りの様な状態を構築できます。

実際、どれだけデータを揃えて対応しても、

この瞬発的に生じる間は対応できませんし

相手の守備陣を見極めて動く分、

最終的にはディフェンスの陣形の組み方・・・

ゾーンディフェンスの連携でしか対処できないと言えます。

しかし、ドリブルで崩されると・・・

ゾーンもその分崩れやすく成ります。

更に中盤がサイドでは無く、メッシの後ろからミドルを狙うスペースに切り込んでくると、

メッシのパスのオプションが増える分、

ディフェンスのドリブルに対する駆け引きが分散し、

更にドリブル突破しやすい環境が整います。

ディフェンスがドリブル警戒を強めたままゾーンを守っても、

メッシの判断能力なら急遽味方の動きを利用する事も叶う為、

飛車取りから再度チームプレイによる王手へ繋げられるのです。

メッシ自身も自分中心の広がるオプションから、

ワンツーを狙う、ミドルに入り込んだ見方からダミーで走るFWへのパスなど

攻撃のヴィジョンも見やすい状態に成ると言えます。

 

【ドイツ大会の頃から、GKを意識した組織的な守備が目立つ様に成った。】

ナヴァス率いるコスタリカが一番解りやすいですが、

ディフェンスがゴールキパーの反応範囲を限定する事で、

シュートを防ぎ易くして守るスタイルが北中米を中心に浸透してます。

ブラジル大会ではアメリカも同じように守ってました。

それ故に、意外と点が入りにくい。

それはある意味テクニシャンシフトと言われるモノで、

メッシやロナウド、ネイマールの様にドリブルに長けた相手に

翻弄されない為のモノです。

いわば、ボールを取りに行けば抜かれてその場所に穴を空けるが、

ボールを取りに行かずシュートが入りにくいコースを開いて

その後ろの守備とGKで守るという感じです。

1/5と1/4という話は、

今度はそのゾーンディフェンスに開きを与える為の方法です。

 

【1/4ラインの意識は日本でもドリブル切り崩しが可能に成る】

日本の攻撃でも、1/5ラインで仕掛ける感じは良く見られます。

故に香川のドリブルもあまり効果は見られず、

薄いサイドに頼りがちに成ります。

香川もディフェンスが狙ってボールを奪いに来てくれれば、

ドリブルで切り崩すチャンスは生まれるでしょうが、

基本、W杯のディフェンスはクロアチアのモドリッチが決めたゴールでも見られるように、

とにかくコースを妨害する動きに徹します。

故に左右に揺さぶってミドルを打つタイミングを計る感じに成る訳です。

 

ヨハン・クライフのドリブルを参考に見れば面白いように解る感じで、

ハーフラインから1/4ラインで仕掛ける事で、

ディフェンスが縦長に広がって崩れる感じが伺えます。

確かにこれだけ長くボールを持つとチームからヒンシュクを買いそうなプレイなのですが、

チームとしての攻撃オプションで採用すれば効果的なモノに成ると言えます。

アメリカン・フットボールの要素をサッカーに取り入れる感じで、

作戦を構築していくのです。

従来のセットプレーであり、攻撃の組み立ては、

ある意味アメフトのQBからのパス攻撃に当たります。

それにドリブルオプションというラン攻撃を加えると考えるのです。

作戦としてドリブル攻撃を意識させる際には、

例えば香川がトップ下であるとした場合、

その前に居るFWの大迫はワンツーを促せるポスト位置にポジションを考えます。

そしてポストから次は、ストライカーに入るのではなく、

コースブロッカーというポジションで、

香川のドリブルをサポートします。

このポスト&コースブロッカーを効果的に使うには、

2トップ+1トップ下の状態が理想的です。

今後日本には久保建英などの有力ドリブラーが見込める分、

それを最大限に活かすため考えるべき戦術に成るとも言えます。

 

現状、メッシやネイマールにこうした戦術が組まれる、

もしくは最近ドリブルしなくなったクリスティアーノ・ロナウドに組まれれば、

恐ろしい破壊力を発揮すると思うのですが、

現在の指揮官にそういう指導力と発想があるとは思えないので、

そこまでは望めないかと思います。

 

アメフトのRBの走りをご覧ください。

味方のブロックがコースを開いて抜けていく感じです。

無論アメフトの様に押し倒したり、手を使って掴んだりは、

サッカーでは即レッド退場に成る訳ですが、

相手のディフェンスを妨害してコースを生み出すだけで、

走り手(ドリブラー)がどれだけ楽に突破できる様になるかは

想像がつくかと思われます。

 

【最後は精神的な部分がモノを言う】

大きな対象は、クリスティアーノ・ロナウドとメッシの状態が解りやすいです。

メッシは勝負に勝つための責任感に押しつぶされていると言えます。

責任感を持つことは大事なのですが、

それによって焦りやフラストレーションで、

本来のイマジネーションやヴィジョンが阻害されるのなら、

一層の事捨てた方が良いです。

また、アルゼンチンのチーム全体が、

王者としての意識を持ちすぎて、

敗北に怯える感じも見受けられます。

いわば追われる側の心境です。

一方のクリスティアーノ・ロナウドは、

勝利を楽しむというモチベーションに有ると言えます。

言葉の違いで簡単に言えば、

メッシは「勝ちたい」という願望が先行し、

ロナウドは「勝って見せる」という野望で挑んでいる。

ロナウドの野望は、いわば追う側とも言える

チャレンジャーの精神です。

故にいざという時の集中力が全く異なって表れている感じです。

メッシはPKを外し、FKもまだ決まりません。

一方のロナウドはスペイン戦で見事な同点弾を叩き出しました。

現状ではこの差が歴然と現れていると言えます。

良くいわれるのが挑戦者は飢えたオオカミ、飢えた虎と表現されます。

飢えているが故に絶対に獲物を取ろうと諦めない、

そして如何にそれを仕留めるか、常に狙い続けている。

そういう表現がその集中力の高まりに現れてくると言えます。

一方の王者は、敗北を恐れる分、

敗北した際の絶望が過ってしまい

それが雑念となって集中力を削ぎ落すのです。

メッシを含めてアルゼンチンのチーム全体が王者としての意識を改め、

チャレンジャーという貪欲な精神に転換してくれれば、

次の試合は全く別物に成るかも知れません。

 

出来ればロナウドとメッシが決勝トーナメントの大舞台で対面する感じは

是非見てみたいです。

 

そして日本代表も意識変化が試合に影響したようです。

正直、コロンビア戦は勝てたは勝てたが、

内容は本当に雑だった。

「勝てそう」「勝ちたい」の意識が先行して、

単調な攻撃が目立ち攻撃のヴィジョンとも言うべき

イマジネーションが欠落してつまらない試合に見えたのも事実です。

一方のセネガル戦では、

結果は引き分けだったが、

試合を楽しむ感じが伺えてイイ感じに見えた。

本田選手が言った言葉なのでそのまま引用しますが、

彼はメキシコに移籍して「ゲームを楽しむ」と言う意味を

良く理解していたようです。

正直日本人の気質に獰猛なチャレンジャーという言葉は向いていません。

気真面目過ぎてどの道「勝たなければ」というプレッシャーに追いやられるからです。

代表と言う責任感で、ある意味サポーターや国民の期待を

マスコミによって背負わされる。

またチャレンジャーというハングリーな言葉も

「ダメもとで挑む」という感じで意識してしまい

獰猛さで集中力を高める感じは削がれる。

そういう意味ではメキシコの「ゲームを楽しむ」

という言葉の方が解りやすいと言えます。

メキシコの代表を見ても解るように、

楽しそうにプレイしている感じが伺えます。

責任感や色んなものを背負う意識は、

代表なら誰も同じです。

しかし、ゲームを楽しめていない時は、

自分の能力をフルに発揮できていない時で、

その状態では責任も何も無意味に裏切る事を意味するという言葉です。

 

そして最高に楽しむ為に準備をする。

そしてピッチに入ったら仲間と共に楽しめるプレイを探し求める。

苦境も楽しむ…

崩れない相手をどうやって崩すか…

イタズラ感覚で相手との駆け引きを楽しむ。

その中で色々楽しい結果が出ればそれ相応の結果として残る。

 

ある意味色々なプレッシャーから解放されるための自己暗示とも言える言葉です。

 

日本もそれで良いと思います。

正直なところ能力的には今一突出した要素は有りません。

戦術にも女子サッカーが見せた様な独創的なチームワークも無いです。

でも其々がプロ選手として活躍しているので、

全く才能の無い人たちの集まりでは有りません。

故に彼らが楽しくプレイをしていれば、

想像を超えた何かを生み出してくることは期待できます。

セネガル戦ではそういう部分が感じられたと言えます。

 

正直な所、勝利という結果を求めるよりも、

彼らには楽しんでもらえば良い。

そして楽しんだ試合を見せて

私たちが一緒に楽しめればそれで良いと言う感じで

応援するのが良いのではと思います。

そしてその結果どこまで続けられるか・・・

という感じです。

 

チャレンジャーという

獰猛なハングリー精神は、

ある意味、研究者の思考に近いと言えます。

研究者があの手この手を模索して、

必ず解明、発見、発明に結びつけようとする思考が

いわばスポーツに於いてはゴールヴィジョンへに模索に繋がるのです。

 

文学的な表現で言うなれば

平静の空間に一筋の光を探し求める。

そしてその一瞬の輝きに真っすぐ向かって走り出し、

その光源を確実に突き止める。

 

いわばどれだけ堅い守りでも、

人間が守っている以上、必ず綻びが生じる。

それは気のゆるみであり、

迷い、困惑など色々な要素で生じる

一瞬の隙ですが…

先ずそれを絶対に見逃さないという姿勢と言えます。

 

更により獰猛に成れば、

その気のゆるみであり、迷いや困惑を

自らの手で齎し、確実にその隙をつく。

ペレが偉大で有る所以は、

彼のゴールハントに於いてはこういう達人的な凄さが有ったと言えます。

無論、メッシ程のドリブルが有れば、

その領域も有りうるかと…

 

マラドーナの様にチームを自分色に染めて

マジックのネタに出来ないのなら、

達人として個の力でチャンスを切り開く獰猛さを

更に磨いても良いのではと思います。

 

結果はチームが齎すモノ…

ゴールへの道筋は自分が齎すモノ…

選手としての責任を割り切って意識する事も大事だと思います。

 

家の魔仙妃ちゃんに言わせると

「攻撃の選手がチームの為と言うのは

アホに見える。」

「FWなら何本枠にシュートを放ったか、

そして何点取ったか、

MFなら全体で何本のシュートが放たれたか、

自分の貢献場所を適切に意識して

結果とは別に反省しないのなら、

チームが勝ち続けても戦力外に成るだけ…

勝てば良いのではなく、

自分の役割を果たせたかが大事なのだよ!!

それを総括して勝った負けたの責任は

その監督に成るのだから。」

 

シビアな経営者目線で見ると

選手の処世術は反吐が出るそうです。

ただ、メッシ選手の場合…

本当にまじめに責任感じているようで、

それがプレイスタイルに見て取れる分、

凄く気の毒に感じるそうです。

 

あと香川選手…

もっとエゴイスティックにドリブルで切り込む気が無いのなら、

お前の存在価値は不要だ!!

自分の持ち味活かしてもっと楽しめ!!

とも言ってます…(全部魔仙妃ちゃんの暴言という事で・・・)

 

 

どうも…ショーエイです。

米朝会談は予想通り、次のステップへと持ち越しと成りました。

日本では、アホ首相が働きかけて拉致問題解決を提言したなどと有りますが、

申し訳ないが拉致問題は全く視野に入っておりません。

 

アホ政権並びに、外務省の思わせぶりも

いい加減にしてほしいと言っておきます。

 

先ず、北朝鮮を敵視している姿勢の現日本政府と北朝鮮が

前向きな姿勢で関係改善の何かを考える事は有りません。

 

嫌いな相手の要望を聞くなんて行為、

人間の心理として考えられませんよね…

また、自分を嫌っている人と真面な交渉が出来るとも思いません。

現状、日本政府と北朝鮮の関係はこういう状態です。

その上で、拉致問題が交渉上のテーブルに上がるなんてのは、

単なる妄言としか言いようがないと言えます。

 

ただ、一般社会に於いては、

この辺は法律で管理されているので、

交渉決裂やトラブルなどの解決は

最終的には裁判所で決着をつける事が出来ます。

 

しかし、国と国の外交上の話に成ると、

ハーグの裁判所が有るとはいえ、

最終的には決裂したままの状態で、

双方が圧力を掛けるないし、

歩み寄りで道を開くしかありません。

 

この様に、厳しい見解を述べると

日本では拉致被害者の心情を全く考えていない言動に捉えられるので、

殆どの人は口に出しにくい話と成っているのです。

まあ、日本社会が現実逃避しているだけの話なので、

私からすれば知った事では無いと言えます。

寧ろ逆に、この様な現実逃避で思わせぶりな社会のままでいるより、

より現実的な目で、本当の意味で解決できる話を考えてあげる方が、

被害者の方々の為に成るのではと思います。

 

【現実的な推測】

拉致問題に関しては…

生存者は既に日本に帰還した方々のみで、

それ以外は死んでいると思われます。

北朝鮮が解決済みとしたい理由を逆算すれば、

金正恩の父に当たる、金正日の時代に、

日朝関係の縺れや、

様々な事情によって北朝鮮の法律と言うより

寧ろ都合で何らかの刑に処せられた。

 

いわば今までは人質扱いしていたわけで、

外交的な理由から派生した感情的な理由で、

色々な事に巻き込まれたであろうことは言えます。

 

その上で、北朝鮮がこの諸問題を…

処刑した…

などと言うことを求めているのでしょうか…

そういう話なら、

自然死扱いと言う嘘のままにしておくと思われます。

 

金正恩がこの件を既に解決済みとしている点でも、

先代の時の話で拗らせるつもりは無いと言う

意図が含まれていると思います。

 

第三者としてこの問題を考える米国のCIAなども、

そういう分析をしている事は十分に考えられます。

 

その上で、米国がこの問題を真面に交渉上に出すと思いますか?

 

【日本の外務省は…】

日本の無力さを払しょくする為に、

外務省は北朝鮮が拉致被害者たちを処刑したという

非人道的な証言を引き出したいだけ…

 

いわば人命優先で考えるべき人質救出を、

国の都合で幾度も交渉を決裂させて、

失敗した…

 

正直な所、ああいう国際情勢に有っては、

交渉が色々と決裂する事は当然の事です。

しかし、拉致被害者家族に対して、

それを納得してもらう術を日本政府は持ち合わせていなかった。

本来ならば、日本政府は

拉致被害者家族に「力に成れずに申し訳ない」

と謝罪した上で、

状況を精査した上で報告するという姿勢を示すべきです。

それを日本政府の力不足である事を認めず、

日本政府は努力していますという点でアピールし続けたため、

逆に被害者家族に変な期待を抱かせているだけに終わっているのです。

その反面、外交上は相手を挑発し続けて、

逆に生存者の立場を危うくする状況を齎している。

 

日本人はこの様な矛盾を先ず見抜きましょう。

 

【順当に進める方法】

国際社会で圧力一点の状態で、

いつでも戦争によって北朝鮮を亡ぼせるという状況なら、

戦後処理の内で捜索と実情調査は出来きたかも知れません。

しかし、現実的にアメリカを含めて戦争を引き起こすことは

有りませんでした。

その問題は、以前にもこのブログで示したように、

最前線となる韓国の被害を考慮すれば、

自ずとその決断の難しさは安易では無い事が言えます。

 

 

そうした全体像を把握して考えた場合、

先ず日本が戦争を考える様な行為は、

ほぼ逆効果しか生まない状態であった。

 

その上で交渉による解決策は、

完全に消失したと言えます。

 

ただ、このアホ政府のアホな姿勢を利用した事で、

今回の南北会談そして米朝会談と実現できた点は否めません。

ハッキリ言って不名誉な意味で日本は貢献している訳です。

 

敵の敵は味方という流れ…

 

韓国では慰安婦問題で日韓関係が悪化している状況にあった訳です。

慰安婦問題は太平洋戦争時の話ですが、

同一の問題は北朝鮮側も共有出来る問題として見れます。

その上で「憲法9条改正によって、戦争が出来る日本に成る」

韓国にとって過去を清算出来ない日本が、

再軍備をするという状態は、

再び脅威を引き起こすイメージを彷彿させます。

実際に韓国はそこまで脅威に感じていなくとも、

日本叩きの話題として取り上げるのには、

十分なネタ程度の扱いだったと思われます。

しかし共通のイメージは北朝鮮にとっては、

無視できないレベルだったと言えます。

無論、そういう意味では中国も無視できない話だった…

 

それによって日本が再軍備に走らない様にするという、

共通の価値観が南北、そして中国に生まれた訳です。

そして日本を共通で敵視する事で、

北朝鮮が現状の様に核で挑発し続ければ、

日本の世論は再び再軍備、

そして戦争へ傾くという流れを生み出すだけと言う話が

説得力あるモノとして導き出せた訳です。

こうした日本の悪いイメージが、

中国そして韓国によって北朝鮮の意識改革を齎す話へ寄与したと言えます。

 

北朝鮮が核兵器を持ち続けて日本を挑発すれば、

日本も再軍備どころか、何れ核兵器を持つための口実に成る。

イスラエルとイランの関係性を上げれば、

ある意味その話も説得力を帯びてきます。

 

そして、その日本の機先を削ぐ意味で、

北朝鮮が核兵器を放棄し日本の世論を緩和させれば、

その脅威は自ずと沈静化していく…と、説く…

 

更に金正恩自体が北朝鮮の経済活性化を望んでいた点もあり、

中国の市場、韓国の技術支援は

核を放棄した見返りとして十分理に適う話に成った。

そして核放棄を約束し、

韓国との関係を良好にすれば、

米国の態度緩和にも寄与する事も考えられた。

 

そうした流れも見えやすく、

核を放棄した方が北朝鮮としては脅威も減り、

逆に未来設計が立てやすいという考えに陥ることは、

ある程度思慮深さのある人間なら見えてくる駆け引きになる。

 

そういう意味でアホがアホ故に悪者に成れたから、

導き出せた道筋とも言えるのです。

逆に、日韓の関係が良好だった場合、

中々、説得力の意味で通じにくかったとも言えます。

その場合、如何なる言葉も

日米韓による策謀という猜疑が

北朝鮮の意識に残り続けた可能性も有るからです。

 

さて・・・そういう意味でアホ政権は、

そのアホさ故に悪役に成ってくれた訳ですが、

日本人全体が悪役のままでいる必要性は有りません。

今度は日本人がその悪役を退治して、

日本の良さ・・・

誠実かつ謙虚な日本に姿を変える事が、

より前向きな方向で、

拉致被害者家族に対する配慮になると言えます。

いわば、アホと違う日本のイメージを変えて、

北朝鮮も色々打ち明けやすくなる状態にすることで、

色々隠された部分が話しやすく成るのではと思います。

 

腐敗政治や出まかせアピールで、

日本人を辱めている「アホ・ジャパン政腐」は

本来、日本国民にとっては敵であります。

敵の敵は味方という意味で、

アホ政権とその政権を支える自民党を葬った後の日本は、

自然、交渉のしやすい国に見えてきます。

それは北朝鮮に限らず、韓国や中国も同じです。

そういう外交上で信頼してもらえる国にすることが、

日本企業のサービス向上というイメージにも結びつき、

グローバル経済を視野に入れた国益という点に於いても

大きく寄与すると言えます。

 

オッサン先生が拉致問題で求める交渉は

過去の大日本帝国時代に行った様々な非道を認めつつ、

それは過去の日本で起きた過ちであると明確に説いたうえで、

北朝鮮も犯した過ちを打ち明けて欲しいと語り掛ける様な状態が、

交渉術として最適なのだそうです。

それならば北朝鮮側も拉致問題に関して、

隠された秘密を認めやすく成ると言えるかもしれません。

ただし、補償問題は戦後補償が終了した時点で、

既に解決済みであり、

双方の未来のために先人の罪をぶり返すべきでは無いと、

双方が犯した問題を双方で咎めないという意味で

あえて念を押す事も大事だと言うのです。

 

因みにアホが悪役を演出する為に

一躍買って出たなんていう

追い詰められた最後の言い訳も許されません。

そんな話を韓国が受け止めてしまえば、

北朝鮮は韓国に猜疑の念を抱くことに成るだけです。

ある意味、金正恩の自尊心を傷つけ、

日米韓にたぶかされた様な印象を持つからです。

いわば、北朝鮮の非核化の実現性を

そういうイメージで壊そうとする行為にしか成らないと言えます。

 

追い詰められたアホなら言いそうな話ですが、

先ず、目的を明確化(北朝鮮の非核化)する人たちは、

その様な後から出た強がりなんて相手にしないのが、

自らの誠実さを守るものとして考えるので、

更に相手にしたくない政府に成るだけです。

 

そして、あれだけ自分の貢献を盛った上で、

国民にアピールしようとする輩が、

あえてその様な無様な悪役を買って出る訳が無い事も、

明白です。

 

G7のシャルルボワ・サミットで、

アホが何かを決めさせた?

こんな盛ったようなネタに頼っている時点で、

日本の報道以外、誰からも興味を持たれていない事が

解ります。

 

拉致問題もサミットで理解を得られた、

北朝鮮に圧力を掛ける事で一致した、

などと盛った話で報道されているようですが…

米朝会談の進行状況から察するに、

頼みのトランプからも殆ど聞き流されたというのが

事の顛末だったのでは…

どうも…ショーエイです。
佐川元財務局長の背任罪、公文書偽造罪を不起訴にしたのか?
大阪地検の判断だからという部分以外、
何の透明性も無い話に終わってしまいます。
 
起訴されたら99.99%有罪とかそんなレベルの話で判断する意味で
本来、検察が存在する訳では無い。
別段、すべてが有罪に成る必要性は無く、
必要な裁判は公正な判断の場で、公に議論されるべきという事です。
 
簡単な話この問題は裁判にして全てを公開した上で、
裁判官によって有罪無罪を判断すべき案件で、
地検の中の情報だけで判断するモノでは無いという事。
日本の検察はその重要性を全く理解していないと言えます。
 
どういう証拠があってどういう説明が為されるのか、
事情聴取という閉鎖空間で終わらせていい話ではないという事です。
 
また、公文書偽造は金銭面のみに成らず、
如何なる文脈も偽造されては成らない。
背任罪の関係でも…
検察の判断では売却額に不当性は無いという判断に成り、
いわば財務省の内容と示し合わせただけの話に成る。
現状、国税を用いたこの売却額が不当であると言う議論の中で、
裁判上で適切に議論せずに何が明確に成ると言うのかという話です。
 
まあ、これで明らかに検察も忖度の状態に有る事は明白で、
残念なことにこの国の公平性は失われたというニュースです。
 
少なくとも検察は不起訴では無く、
起訴にして裁判所へ案件を上げるのが適切でした。
公文書偽造のポイントに関しても、
安倍政権の公権力濫用罪に纏わる力点が作用したケースでの話で、
その力点(圧力、忖度)によって佐川らの背任行為が齎されたのではという話です。
更に、現状の検察で情報が止まっている状態では、
8億円の値引きは妥当という判断に成っているが、
本当に妥当だったのかは明瞭に成らないという事。
 
そうした社会的機能と信用性という意味で、
佐川の起こした公文書改竄行為は、
明確に「公文書変造または偽造」に当たる行為で、
裁判になれば有罪となる可能性が高い内容です。

http://park.geocities.jp/funotch/keiho/kakuron/shakaihoueki2/koukyonoshinyo/17/155.html

 

背任罪に関しては、先ず籠池氏が仮釈放を許された事が

検察の忖度上に疑われ、

実際に彼が公に発言した内容を詐欺罪で起訴すれば、

佐川を含め安倍政権の背任行為が全て明るみに成ってしまう点。

司法取引が禁止されている中で、

留置所生活によって検察は籠池氏に「8億円の値引きに関する経緯」を

公言しない様に圧力を掛けたと思われる。

実際のゴミの量が妥当でなかったという証拠が出れば、

「8億円の値引き」は不当であった事が明確に成ってしまう。

 

さて…日本の皆さん、何が問題なのかをよく考えてみましょう。

「8億円の値引き」これが詐欺行為によって齎されたものでなければ、

ゴミが存在する地中を適正に検査した資料が存在するのが当然です。

公共工事同様に検査中の作業工程を細かく写真と共に収めて、

実際に偽証で無い証明をして初めて国家機関は交渉内容を承認するのです。

 

こうした証拠が先ず検察で考慮されていなかっただろう点も怪しまれます。

財務局が提示した文章とデータ上の証拠だけで偽証が無いと判断するには、

逆に不起訴とするには証拠が薄い案件と成ります。

国家機関が関係しているのだから、

逆に、国家機関として適正に処理しましたという

目に見える形の証拠は絶対に必要に成ります。

籠池氏が過去に「3m以深には廃棄物は無い」というやり取りのメールを紹介しているそうです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/森友学園問題

こういう証言が有るという事は、

偽証でないその根拠となる証拠が理財局にも大阪航空局にも存在しないという前提が考えられます。

いわば3m以深の廃棄物を調査するまたは裏付ける報告書の提出が求められなかった事を意味し、

籠池氏の雇った専門家などの報告のみを根拠としてゴミの量とその費用を適正と判断したと成る訳です。

また、こうした写真等による検査報告が明確に存在していれば、

この問題はあっさり解決できた内容とも言えます。

ある意味…撤去前検査、中間検査、撤去終了前検査などを得て

「ほら、8憶円相当のゴミの量はこの写真で推定できるでしょ…」

と、誰も何も言えない状態は出来た事だし、

公共事業に於いてはこうした細かい写真付き検査は当然の様に行われる事です。

これが無いという事は、国家機関として当然やるべき管理を怠っていたという状態で、

売却価格の割引が成立した事を意味します。

 

まず、野党側はこの辺の追及から、

何故、理財局、財務省が値引きをする過程に於いて、

国民に明確に出来る証拠を取らせなかったのか?

一切の言い訳は言語道断で、

ある意味、何故その過程を省いているのかを背任罪の証拠とすることもできます。

いわば、国の交渉事として、その過程と裏付けが存在するのが当然だからです。

 

そして、こうした交渉に纏わる証拠を取り揃えていない、

保管していないのは国家機関としても背任罪に当たります。

ゴミ撤去の話が2016年ならば、こうした記録は保存期間に該当し、

廃棄することは許されません。
また、偽証か判別できない証拠(検査報告)を元に、
森友学園との価格交渉を成立させた過程も、
詐欺共謀罪を疑われる行為で、
こうした点を総括しても佐川ら財務省関係者の背任罪は有ると言えます。
 
詐欺共謀罪に含まれるのは籠池氏、佐川氏ら財務局員、そして安倍明恵とその秘書です。
 
更に以前ブログ上では
強制執行関係売却妨害罪としましたが、
その下に公契約関係競売等妨害罪が有るので、
おそらくこちらの方が妥当と言えます。
両者とも、
「偽計または威力を用いて、『公の競売または入札』の公正を害する行為をした者」
という法律から改定されて分断されたものです。
強制執行で有ると、差し押さえ物件に関する内容に成る訳ですが、
刑法96条の6に該当する、公契約関係競売等妨害罪だと、
公の競売、入札の契約締結に於ける公平性の妨害で罪に成ると言う内容です。
過去に7億円で入札を試みた大阪音楽大学との結果と比例して、
「ゴミ撤去費」が妥当な判断で有ったという証拠が無い以上、
その偽証性は残る訳で、
佐川氏らのいい加減な管理責任は故意または過失によって公平性と言う部分を欠落させた
経過上の行為が仮に過失で有ったとしても、
公文書偽造と証拠品の隠ぺい行為が指示されていたなど自白も加わると、
偽計行為はその時点で成立してしまう為、
刑法96条の6の罪に該当すると言えます。
背任罪よりもこちらの容疑での起訴には十分当て嵌めて捜査で来たはずです。
 
では、何故、大阪地検が忖度したと考えるのか…
ある意味、上記の様に佐川氏の犯罪のアリバイが逆に薄い状態で、
何故不起訴にしたのかという話です。
バカみたいに起訴したらすべてが有罪に成る必要性は無い。
先ず、上記に記した籠池氏の
「3m以深には廃棄物は無い」というやり取りのメールが存在したという点から、
佐川氏らが財務省、理財局に価格交渉の段階で、
8億円相当の廃棄物に偽証が無いという証拠を持ち合わせていない点が察せられます。
大阪地検の方にも、この価格を立証する資料は持ち合わせていない事に成ります。
その上で、籠池氏の詐欺行為に対して確認ミスという過失は最低限発生している訳です。
籠池氏の詐欺罪を立証する上では、
財務省と理財局が確認ミスという過失を行ってしまった以上は、
証拠が出ません。
しかし逆に業務上の責任を全うせずに確認ミスという偽計を用いて
業務上の穴を故意で作った場合、
詐欺共謀罪が疑われる行為に成ります。
その上で詐欺的な価格交渉を成立させた罪は、
十分に背任罪として起訴できる話で、
「首相夫人関連」という所の隠ぺい工作で公文書偽造を行った行為が
その動機に由来していると言えます。
こうした動機的な内容が証拠として有る以上、
本来国の機関として空けるべきでなかった業務上の穴が空いている状態は、
偽計行為として成立する為、
背任罪としても有罪確定と言えます。
刑事裁判として議論されるべきポイントは
故意か過失かと言う点で、
過失部分が濃厚に成っても、その過失を隠蔽する意味で資料を廃棄したなどと
虚偽を用いて偽計とした行為は
売却価格の適正性に対してその公平性を妨害する行為として残る為、
佐川ら財務省関係者の刑法96条の6は最低でも適応されます。
更にこの部分が適応された時点で、
安倍明恵は佐川の指示により改竄したという自白がある為、
首相夫人という立場から威力を用いた意味で
籠池氏との共犯で刑法96条の6が適応される話には成ります。
 
故に大阪地検は、刑事裁判として起訴して、
公の場の色々な証拠を明確に提示するべきであり、
その証拠を元に議論されるべき案件だった。
これを不起訴にするという行為は、
証拠であり、又は不当行為に該当する過失を隠蔽した事を意味する。
 
「知る権利」は憲法上、出版、放送等の自由を意味する言葉で、
政府の公示、開示は実際には該当しないが、
国有資産を不当に売却した場合、公共の問題であり、
その適正を知る権利は、憲法前文にあたる
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって」
という信託の部分に背く行為であるため、
公共性として関心の高い案件を検察の判断で留めてしまう行為は、
違憲行為として見る事も叶う。
故に裁判として公の場で以て、適正に裁く必要性があると言えます。