外山文治監督、岡本玲、磯西真喜、海沼未羽、瀧マキ、岬ミレホ、佐野弘樹、鈴木武、中山求一郎、中村莉久、光永聖、福田温子、名越志保、渡辺哲ほか出演の『茶飲友達』。PG12。

 

佐々木マナは、仲間とともに高齢者専門の売春クラブ「茶飲友達(ティー・フレンド)」を設立し、新聞に掲載した「茶飲友達、募集。」の三行広告で集まってきた男性たちのもとへ高齢女性を派遣するビジネスをスタートする。「ティー・ガール」と称される在籍女性の中には、介護生活に疲れた女性、ギャンブルに依存した女性などさまざまな事情を抱える者がいた。マナのもとで「茶飲友達」を運営する若者たちもまた、出口の見えない社会で閉塞感を抱えて生きている。 さまざまな世代を束ねるマナは、彼らを「ファミリー」と呼び、擬似家族のような絆を育んでいくが──。(映画.comより転載)

 

観たのは結構前で(『フェイブルマンズ』のあとぐらいで、確か2週間ほど前)感想が遅れましたが、多分、今月観た新作映画の感想の最後の1本になると思うのでとりあえず。

 

『茶飲友達』と『万引き家族』の内容やラストに触れますので、まだご覧になっていないかたはご注意ください。

 

今から10年前に実際に起こった高齢者売春クラブ摘発のニュースに着想を得て生まれた作品とのことですが、もともと観る予定はなくて、でもたまたま他の映画を観にいったついでにその映画館の鑑賞ポイントが貯まってて1本無料で観られるので、これ以外に選択肢がなかったため(その映画館は今月の23日に無期限の休館、事実上の閉館)この映画を観ることに。

 

上映時間は135分で観る前は「ちょっと長めだな…」と思ったし、予告篇観てもなんとなくしんどそうな内容に思えて、関係者のかたがたには大変失礼ながらまったく期待していなかった。

 

予告篇でも言ってる「承知でーす」という合言葉みたいな挨拶にも若干イラッとしたしw

 

ですが、鑑賞後はいい映画を観た満足感があって、早くも今年観た新作映画の中では一番かも、と。

 

 

主演の岡本玲さんはあの面白い髪型のCMでもおなじみだし、朝ドラ「わろてんか」にも出演されてましたね。

 

あのCMキャラの髪型があまりに似合い過ぎててそのイメージが強いので、映画の中で普通のヘアスタイルの彼女を見ると違和感があるほどで(笑)

 

 

 

朝ドラといえば、この映画で岡本さん演じる主人公・マナが運営する「ティー・フレンド」に勤める青年役の佐野弘樹さんは、もうすぐ最終回を迎える「舞いあがれ!」で主人公・舞の同期生“水島”役でした。

 

航空学校を辞めてこんな仕事してたのね、水島学生(違いますw)。

 

このお二人以外で僕が知っていたのは渡辺哲さんだけで、予告だと主要登場人物っぽいけど、渡辺さん演じる妻を亡くして独りで暮らす高齢男性は映画の冒頭や途中、そしてラスト近くと要所要所に出てきて印象的な存在ではあるものの、出ずっぱりというわけではない。

 

 

 

 

渡辺哲さんは以前、「知多半島映画祭」という催しで主演された短篇映画『あのまちの夫婦』が上映されて、挨拶で壇上に立たれていました。

 

映画やTVドラマなどでお見かけすする時の、あのぶっきらぼうで照れ屋っぽいイメージそのまんまな口調と雰囲気のかたでした。

 

今回の『茶飲友達』では北野武監督作品でのようなコワモテの人物ではなくて、独りきりで寂しさに耐えかねて高齢者を対象にした売春クラブを利用する老人役。

 

黙々と清掃の仕事を続けるその姿に、まるでそこに存在しないかのように無視される多くの高齢者が重なる。まぁ、それは高齢者に限りませんが。

 

それ以外の『茶飲友達』の出演者のかたがたを僕は存じ上げなかったんですが、“ティー・ガール”役の皆さんも、「ティー・フレンド」のスタッフ役のかたがたも誰もがよくて、135分という上映時間もまったく長さを感じさせませんでした。

 

 

 

高齢者同士の性的な場面が何度も映し出されると、申し訳ないけどさすがに直視するのがしんどくて自分で目のフォーカスを弛めて画面をボヤケさせてしまった(;^_^A

 

劇中でも「シモの世話のようなもの」と言われるように、確かに一種の介護的行為ではあるよな。

 

人肌恋しい、という気持ちはわからなくはないものの、だからって別にセックスにこだわる必要もないと思うんだけど(肉体的なスキンシップだってもうちょっと穏やかなものでも可能でしょうし)、これも映画の中で語られていたように、最後のチャンスみたいな命懸けで臨む涙ぐましさがあって、でもそれって要するに性行為で「勃つ」こと、「イク」ことこそが男の本懐、みたいな思い込みがあるんじゃないだろうか。

 

70代とか、もっと高齢の男性たちまでもが「勃たなきゃ、イかなきゃ、もう男じゃない」という強迫観念に囚われている。なんて滑稽で痛々しいのだろう。

 

温め過ぎたローションで火傷した、という台詞に吹いてしまったw

 

もはや妊娠の心配がない(お相手する女性たち自身も結構年がいってるので)、などという台詞に薄ら寒いものを感じる。妙な切実さがある。利用客の中には病院で寝たきりのおじいちゃんもいたりして、そこまでしてヤらなきゃいけないのか、と(さすがにあの死にそうなお年寄りはおっぱいに触れるだけだったようだが)。

 

一方では、若い女性スタッフの予期せぬ妊娠が描かれることで、これは単に高齢者の性についてだけではなく、現在のこの国で「子どもを産むこと」についても考えさせられるし、マナをはじめ登場人物たちの肉親との関係を通して「家族って何?」ということを問いかけてもいる。

 

岡本玲演じる元風俗嬢のマナは実の母親とうまくいっておらず、その代わりに新しく“ティー・ガール”になった松子(磯西真喜)との個人的な交流を深めていく。

 

「家族って何?」という問いかけ、といえば2018年公開の是枝裕和監督の『万引き家族』が思い浮かびますが、血の繋がらない、あるいは婚姻関係にない「疑似家族」という形とその崩壊を描いている、ということでは確かにあの作品と似てるところはある。

 

 

ただし、↑のTwitterの呟きでも触れたように、『万引き家族』では最後に「疑似家族」が解体するがどこかに希望を残していたのに対して、こちらの『茶飲友達』ではより苦い結末が待っている。

 

「ビジネス」で集った者たちが疑似家族となって、そこで彼らは互いを想い、いたわり合う優しさや人のぬくもり、居場所のある安心感などを手にするが、ある主要登場人物がいびつな形で示した「優しさ」によってその「ファミリー」は脆くも瓦解する。

 

みんなで「心のパンツ」を脱いだはずだったのに、全部偽りの絆だったのか。

 

「あの人はきっと独りで死にたくなかったのよ」という松子の言葉に、『万引き家族』の「誰かが捨てたのを拾っただけです」という台詞が脳裏に蘇る。

 

松子は生きる希望を失いかけて死ぬ寸前だったところをマナに「拾われ」、スタッフの青年の一人(鈴木武)は、脱サラしてパン屋になったが閉店を余儀なくされて今では車上生活を送る父親のあとを継ごうと思うようになる。妻子持ちの男との間に子どもができた若い女性スタッフ(海沼未羽)は、認知しようとしない相手に彼女の仕事仲間たちが加勢する。そして身寄りのいない彼女の出産と、「ティー・フレンド」登録者数1000人を記念してみんなで祝う。達成感も得られたはずだった。

 

 

 

万引きで捕まりそうになり、売春を持ちかけられて最初は「とんでもない」と断わっていた松子さんが、“ティー・ガール”になったらもう売り上げがナンバー2だか3だかになってるのに笑った。

 

 

 

 

パチンコにハマり、給料を前借りしてまでそれにつぎ込んだり、男性スタッフに無理やり胸を触らせてタカろうとする女性(岬ミレホ)は、それだけのことをやっていながら「そんなに金に困ってるなら生活保護でもなんでも受ければいい」と言われると「施しは受けない」などと答える。

 

どうしようもない人間にも思えるが、一方でそんな彼女は「傷つきたくない人が何もせずに勝手に傷ついていく」と人の本質を突くようなことを言う。「こういう人、ほんとにいそう」なリアリティ。

 

 

 

 

“ティー・ガール”役の女優さんたちはほとんどが劇団関係のかたがたで、この映画ではオーディションで選ばれたのだとか。皆さん、肌を露出したきわどい格好をして濡れ場も演じられていて、ドン引きなかなかの迫力でした。

 

 

世の中からこぼれ落ちそうになっている者たちが身を寄せ合い、支え合う共同体が形成される。確かにそこには「疑似家族」と呼べるものがあった。

 

しかし、やってることは結局は売春の斡旋。「金」の切れ目が縁の切れ目。彼らのその「家族」の絆は脆く、危うい。

 

松子が自分の目の前で自殺した客を助けることなく最後まで放置していたために「ティー・フレンド」の活動が露見しそうになり、関係者たちは沈み始めた船から溢れるネズミのごとく我先に逃亡を図る。赤ちゃんの誕生をみんなに祝われていた女性スタッフは、どさくさに紛れて売り上げ金を持ち逃げする。

 

そして、一緒に事情を警察に話しにいこう、と言うマナに、松子は「あなただけで行ってよ。あなたのせいよ。助けてよ」と言い捨てて立ち去る。

 

マナと出会ってティー・フレンドに参加して人間らしさを取り戻したはずだった松子の目は、また万引きした時のあの生気のないものになっている。人はよい方向に変われることを描いていたこの映画は、しかし、それが再び失われることがある、という残酷な事実を見せつける。

 

松子がいっときマナに見せたあの優しさは、偽りのものだったのだろうか。

 

松子の励ましもあってマナは長らく疎遠だった病気の母(名越志保)に再会するが、母は娘が風俗業で働いていたことをいまだに許しておらず、意を決して久しぶりに訪ねてきた実の娘にむかって冷たく「お帰りください」と言い放つ。

 

母との埋まらない溝に傷つくマナを癒やしたのは、彼女を迎える松子の姿だった。

 

だが、信頼しかけたそんな彼女からマナは「あなただけが(警察に)行ってよ」と突き放される。

 

留置場で、誰も騙していない、と言い張り「正しいことだけが幸せじゃないでしょ」と啖呵を切るマナに、担当官(福田温子)は「自分の寂しさを埋めるために他人の孤独を利用するんじゃないよ」と答える。

 

言い返せず、マナは取り乱すしかない。

 

出演者は皆さんよかったけれど、マナと対峙する女性警察官役の福田温子さんが特に素晴らしかった。

 

マナがどんなにまくしたててもまったく動じず、「ルールだから」と正論を述べる。そして、最後にマナの痛いところを突く。

 

マナが作った「ファミリー」は、ほんのいっときではあるが、そこにいた人々にやすらぎをもたらした。それを観客は見ているからこそ、でもそのやすらぎはずっと続くものではないことに言いようのない痛みを覚える。

 

では、ずっと続くものなど何かあるだろうか?

 

最後に、あれほど娘を拒絶していたはずの母親がマナに面会に来る。

 

「…どうして来たの?」と尋ねる娘に、母親は「だって家族でしょう」と答える。

 

マナの「…家族って何?」という言葉とともに映画は終わる。

 

この結末から、「結局は血の繋がり」と解釈した感想を目にしたのだけれど、果たしてそうだろうか。

 

「…家族って何?」と呟いたマナの表情には実の母が会いにきてくれたという喜びよりも、「家族」というものに翻弄される戸惑いと苛立ちのようなものを感じたし、だいたい、あのタイミングで母親が急に面会に現われるのはあまりに不自然だ。

 

娘がかつて風俗嬢だったことを許せず再会しても自ら和解を拒んだ母親が、売春斡旋の罪で警察に捕まった我が子にわざわざ会いにくるだろうか。

 

だから僕はあのラストには無理を感じたんだけど、マナの「…家族って何?」という言葉こそを監督は言わせたかったんでしょう。この映画全体がその問いのためにあるといってもいい。

 

これは、ずっと求めていた「実の母の愛」を最後に得られて一件落着、ということでもなければ、単純に「血縁関係にある家族こそが最終的に信頼できるのだ」などというようなことを言っているのでもないと思う。

 

バラバラになったあの擬似的な「ファミリー」にも人間的なふれあいがあったし、実の母との関係がこれで修復して今後も安泰だとは限らない。血が繋がっていようがいまいが、「家族」というものがいかに危ういものなのかをこの映画は描いていたんだろう。

 

だからこそ、繋ぎとめて続けていくことの難しさと、でもそうすることの意味、失敗しながらもそれを求めずにはいられない人の業についての物語だったんじゃないか。

 

最初に「結末は苦い」と書いたように、終盤ではマナが客の死の件を警察に自ら届けたために仲間は離散し、また利用客の中には施設を追い出された人もいて、救いのない終わり方になっている。

 

母親が面会に駆けつけたって、それはもはや皮肉な展開でしかなくて、だから「よかったよかった」とはならない。

 

「ティー・フレンド」のメンバー一人ひとりには欠点もあればそれぞれ苦しみもあるし、夢もあった。他者に思いやりのある行動ができる時だってあった。

 

『万引き家族』がそうだったように、これは「特殊な人々」の話ではない。

 

何が彼らをあのような境遇に追いやったのか。

 

違法行為でしか出会えず繋がれなかった彼らの姿を通して、この国の社会の現状を今一度見直す、そういう効果のある作品でした。

 

 

 

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