映画を観ているみたいに小説が読める イメージ読書術

映画を観ているみたいに小説が読める イメージ読書術

小説の世界に没入して
“映画を観ているみたいに” リアルなイメージが浮かび
感動が胸に迫り、鮮やかな記憶が残る。
オリジナルの手法「カットイメージ」を紹介します。
小説を読むのが大好きな人、苦手だけど読んでみたい人
どちらにもオススメです。

 『夜、鳥たちが啼く』を観ながら読んで、佐藤泰志の映画化作品を調べたら、以前、映画『オーバーフェンス』を観ていたことに気づいた。

 しかし、職業訓練校が舞台で、課外活動で野球をやってたなと、漠然とした記憶しかない。

 

 そこで、今回もまた原作を用意しておき、映画を最初から観ていく。

 

 『オーバーフェンス』 2016年公開

 監督:山下敦弘    

 脚本:高田亮

 出演:オダギリジョー 蒼井優 松田翔太

 

   

  

  函館の職業訓練校の建築科で学ぶ若者たち。

  いや、その中には年配者も混じっている。

  体育の授業もあり、ソフトボールをやっている。

  建築科の青山教官はソフトボールにも熱心で、自動車整備科など他の科との対抗戦に向けて、必ず勝つと生徒たちにハッパをかける。

 

  生徒の一人白岩(オダギリジョー)は、授業が終わると自転車で一人、アパートに帰る。

  妻子と別れて帰郷したが、実家には寄りつかず、一人で暮らしている。

 

  訓練校の仲間 代島(松田翔太)に連れられて行った店で、「さとし」という男のような名前の女(蒼井優)と出会う。

  突然、白鳥の求愛の鳴き声と動作を全身で真似し始める彼女は、何か辛い過去を引きずっているようだ。

  二人はやがて男と女の関係になるが、さとしは激しい怒りを白岩にぶつける。――

 

  30分ほど映画を観て、原作を開く。

  佐藤泰志『黄金の服』 小学館文庫 2011

  

 

  

 3編が収められた短編集で、『オーバーフェンス』は冒頭の90ページほどの小説である。

 映画と同様、職業訓練校の場面から始まる。

 僕(白岩)は、妻が育児で心を病み、やむなく妻の実家に母子を預けた。
 しかし、妻の親からは彼への不信を述べた手紙とともに、離婚届が送られてくる。

 僕は自分への不甲斐なさを抱えたまま、故郷の函館に帰るが、実家には戻らず人生を諦めたように一人で暮らしている。
 そんな僕がさとしとの出会い、さまざまな事情を持つ訓練校の仲間たちとの関わりの中から、自分の人生に向けて一歩を踏み出して行く。
 その象徴が、ソフトボールの試合場面である。


 しかし、僕と惹かれ合い、恋に落ちていく「さとし」の人物像が今ひとつ見えてこない。
 そんな感想を持ちながら90ページを読み終え、映画の続きを観た。

 

   

 観ていくと、私が感じた小説の物足りなさを、映画は埋めようとしたのだとわかる。

 映画の中で「さとし」の昼の仕事は、動物園を兼ねた遊園地のスタッフ。

 鳥たちの真似はそこで見覚えたようだ。

 

 白岩と男女の関係になると、さとしは深い劣等感を露わにし、激しい怒りを白岩にぶつける。

 自分の本音を出そうとしない白岩に揺さぶりをかけるように。

 そして、自転車の二人乗りでさとしが白鳥の羽を風に流す象徴的なシーン。

 

 やがて白岩は、自分の過去にケジメをつけるように妻(優香)とも会い、話し合う。

 それは、常に独りで悩み、独りで結論を出していく原作の主人公とは違っている。

 

 佐藤泰志の小説に足りないのは、やはりそこではないか。

 前に読んだ『夜、 鳥たちが啼く』を含む短編集『大きなハードルと小さなハードル』の印象も含めて、そう思った。

 

 佐藤の小説の主人公は独りで苦しみ、女との関係や生活に向けて踏み出すのも自分ひとりの決断だ。

 目の前の女をしっかり見て、理解し、正面から向き合おうとする姿勢が弱い。

 

 「さとし」に風変わりで気性の激しい性格を与え、主人公が別れた妻ときちんと向き合うというこの映画のアレンジは、図らずも佐藤泰志の小説の弱点を露わにしてしまった。

 

 芥川賞にけっきょく選ばれることのなかった、不遇の作家。

 その理由は、もしかしたら彼自身の生き方にあったのではないか、と考えるのは、酷にすぎるだろうか。

 

 なんだか文芸評論のようになってしまったが、観てから読むか、読んでから観るかといえば、この作品は、読んでから観るのがよい。

 そうすれば、私の言った意味がわかってもらえるだろう。

 

 そして映画では、「さとし」役の蒼井優の体当たりの演技と、オダギリジョー演じるクールな白岩がやがて前を向き、オーバーフェンスを目指してフルスイングしていく姿を、しっかり観てほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 佐藤泰志の短編を原作にした映画『夜、鳥たちが啼く』は、2022年に公開された。

 監督:城定秀夫  脚本:高田亮
 出演:山田裕貴 松本まりか

  

 

 一人の男(山田裕貴)が平屋のアパートの部屋を出て、目の前のプレハブに移る。

 すると、まもなく、軽トラックに荷物を積んで、女(松本まりか)と小学2年生くらいの男の子が引っ越してくる。

 母子のために母屋を提供し、彼はプレハブに移ったのだとわかる。

 

 女の名は裕子で、彼女は年下の男を慎一くんと呼ぶ。

 二人は友人であり、母子は離婚してきたのではないかと思われる。

 男は会社勤めから帰ると、パソコンに向かい、小説でも書いている様子だ。

 

 夜、冷蔵庫のビールを取りに行くと、湯上がりの艶めかしい女と鉢合わせする。

 松本まりかは『湖の女たち』で初めて知ったが、飾らない普段着でも匂い立つ魅力がある。

 

 ある日曜、母子がレンタカーで海へ出かけるといい、息子アキラに誘われて、慎一も一緒に出かけて、楽しい一日を過ごす。

 遠慮がちな裕子と慎一の距離が、いつか女と男の関係になるのではないかとの予感がある。‥‥

 

 映画を30分ほど観て一度中断し、原作を開いた。

 佐藤泰志『大きなハードルと小さなハードル』河出書房新社(河出文庫)

 

 

 

 ⅠとⅡの二部に分かれ、Ⅰ部には表題作を含む5編、Ⅱ部には2編が収められ、『夜、鳥たちが啼く』はⅡ部の最後の短編である。

 そこで、この本を最初から読んでいくことにする。

 

 すると、Ⅰ部、Ⅱ部それぞれが連作短編になっているが、底に流れるものは共通している。

 Ⅰ部は、暴力沙汰やアルコール依存など破滅的な衝動を抱えた男秀雄が、同棲相手の光恵と葛藤しながら生まれた娘を育て、家庭を作っていこうとする物語。

 知らず知らず、山田裕貴のイメージを浮かべて読んでいる。

 

 Ⅱ部に進み、最初に読んだ『鬼が島』は、私に強烈なインパクトを与えた。

 Ⅰ部の主人公秀雄に似た「僕」の同棲相手文子は、実の兄と肉体関係を続けて子を宿すが、親によって強制的に堕胎され、兄との仲も引き裂かれたという過去を持つ。そして、今後妊娠してもすべて堕胎すると明言する。い

 それでも文子と結婚し、子をつくろうとする「僕」の強い決意が描かれる。

 

 実はこの小説のなかで、「僕」が離婚した母子と3年半暮らし、「慎一くん」と呼ばれていたことは、既に過去の話になっている。

 それが、最後の短編『夜、鳥たちが啼く』なのである。

 

 読んでいくと、まさに映画で観たストーリーが展開するが、その結末は別れではない。

 新たな生活への希望で終わっている。

 しかし、前の短編『鬼が島』で、それがけっきょく終わりを迎えることは、わかっているのだ。

 読んだ後に、そのことの余韻が残る。

 それを意図した作品配列になっているのだと想う。

 

 原作の短編集全体を読んだことで、『夜、鳥たちが啼く』の背景が理解できた気がして、映画の続きを観た。

 すると‥‥

 

 慎一と裕子が男と女の関係になると、アキラを含めた三人の幸せぶりは眩しいほどだ。

 松本まりか演じる裕子が、込み上げる幸せにはしゃぐ姿が、実に可愛い。

 もしかして、それが悲しい結末を暗示するのではないかと、思わせるほどに‥‥。

 

 この作品はやはり、短編集全体を読んでから、映画を観るのがオススメだ。

 もちろん、映画の初めを少し観た上で。

 

 この短編集を読むと、芥川賞候補に5度も上がりながらついに選ばれることがなく、不遇なまま自ら命を絶った作家佐藤泰志が、どんな思いで生きようとしたのかが伝わってくる。

 そのうえで映画を観れば、結末をハッピーエンドにした城定秀夫監督の思いも、感じ取ることができだろう。

 それが、美しくもはかない花火のシーンで終わるからこそ、なおさら……。

 

 

     

 瀬尾まいこ『夜明けのすべて』(2020)は、2024年に映画化され、キネマ旬報日本映画作品賞、毎日映画コンクール日本映画大賞など映画賞4冠に輝き、ベルリン国際映画祭に正式招待された。

 と、文庫版の帯にある。

 

 監督; 三宅唱
 脚本; 和田清人 三宅唱

 出演; 松村北斗 上白石萌音 渋川清彦 芋生悠 藤間爽子 光石研

 

 今回も原作を用意しておき、まずは映画の最初を観ていく。

 

 

 月経困難症(PMS)に悩む藤沢美紗(上白石萌音)は、生理の前には感情が不安定になり、入社したばかりの会社で、発作的なイライラを周囲にぶつけてしまい、居づらくなって退職する。

 

 5年後、美沙は小学生むけの実験キットなどを製作する小さな会社(栗田科学)で働いている。

 少人数の同僚にお菓子を買ってくる気配りを見せ、彼女の良さが認められて働いている様子である。

 栗田社長(光石研)はじめ、社員たちはとても優しく、雰囲気が温かい。

 

 しかし、最近入社したらしい若い男性山添(松村北斗)は、ぶっきらぼうな態度で美沙の差し出すお菓子も受け取らない。

 彼は、いつもペットボトルの炭酸水をあけては飲んでいる。

 

 そんな彼にも丁寧に接する美沙だが、あるとき、山添のペットボトルを開ける音がうるさいと言い出し、もっとちゃんと仕事をしなさいよと、イライラの発作を爆発させてしまう。

 

 自宅での山添は、元上司らしき辻本(渋川清彦)とオンライン通話をし、職場の愚痴をこぼす。

 どうやらメンタルの不調から元の会社を離れたようだ。

 

 また山添は、恋人らしき女性(芋生悠)に付き添われて、精神科クリニックを受診する。

 女性医師との会話から、パニック障害で以前から治療を受けているのだとわかる。

 

 そして、学校の体育館のようなところでパイプ椅子を丸く並べた、語り合いの場面になる。

 司会が話すことばから、グリーフ・セラピー(身近な人の死のショックから立ち直るための心理療法)のワークショップであることがわかる。

 参加者が順に自己紹介していくと、その中に、山添の元上司辻本と、栗田科学の社長の姿も混じっている。

 

 ……と、30分ほど観て、登場人物がみなセラピーを必要とする、心の傷みを抱えた人たちであることがわかった。

 

 これはちょうどいいころ合いかと思い、映画を中断して原作を開いた。

 瀬尾まいこ『夜明けのすべて』 2023 文春文庫

 

 

 小説はPMSに悩む美沙の一人称で始まるが、次のセクションではパニック障害を抱えた山添孝俊の語りになり、二人の視点で交互に語られていく。

 

 初めは互いに違和感を持っていた二人だが、山添の伸ばし放題の髪を切りに美沙が彼のアパートを訪ねるという突飛な行動をきっかけに心の垣根がとれ、互いの病を理解し合うようになっていく。

 それは恋愛ではないが、互いを気づかいつつも言いたいことが言える、居心地のいい関係である。

 パニック障害で、したいことが何もできないと思っていた山添は、美沙のおかげで少しずつ自分にできることを見つけ、世界を広げていく――。


 心の病を抱えて生きる人々を優しく見つめ、ありのまま生きること、ありのままでいられる相手がいることの大切さを、さりげなく感じさせてくれる小説だ。

 いや、いつ自分が病んでも不思議ではない現代、自分は正常だと思い、あくせくと日々何かに追われるように生きている私たちに、「ほんとうに、それでいいの?」と、より人間らしいあり方を問いかけてくるようでもある。

 

 満足して本を読み終え、映画の続きを楽しみに観た。

 

 夜明けのすべて

 最後まで観ると、映画もまたとても優しい。

 

 原作から設定や展開を借りつつ、原作と同じテーマを映画らしく表現しようと工夫している。

 そのために、脚本はかなりオリジナルになっており、制作側の強い意欲を感じる。

 上白石萌音と松村北斗の自然な演技もいいし、ベテラン脇役陣の空気感がとても温かい。

 

 この作品はまず小説を読んで、それから映画を観るのがおススメだ。

 映画には原作と異なる脚色がたくさんあるので、小説を読んだあとでも新鮮な気持ちで観られる。

 

 例によって、小説を読む前に予告編か映画の最初を観ておくと、読み終えて映画を観たときの違和感がない。

 そして、小説も映画もそれぞれに、この物語の癒しの世界にとっぷりと浸ることができる。

 

 また、タイトルの意味について原作では触れていないが、映画はラストでその謎解きをしていて、それもまた感動ポイントのひとつである。

 

 

 

 吉田修一の小説『湖の女たち』は、2024年に映画化された。


 監督・脚本 ; 大森立嗣
 出演 ; 福士蒼汰 松本まりか 福地桃子 浅野忠信 財前直見 三田佳子

 

 例により原作を手元に置いて、まず映画の最初を観ていく。

 

湖の女たち [Blu-ray]

 

 琵琶湖畔の夜明けの風景。

 ほど近くに建つ介護施設もみじ園で早朝、入居者の100歳の男性が人工呼吸器の停止で死亡しているのが見つかる。

 機器の警報が鳴らなかったのは人為的な操作によるものだとされ、殺人事件の捜査が始まる。

 

 西湖署の若手刑事濱中圭介(福士蒼汰)は、ベテラン刑事伊佐美(浅野忠信)の指示で、施設職員の事情聴取を行う。

 介護士の豊田佳代(松本まりか)と松本郁子(財前直見)は、言われるまま聴取に応じるが、伊佐美刑事は松本郁子に疑惑の目を向け、濱中刑事に強引な取り調べをするよう迫る。

 

 一方、豊田佳代は、視界の悪い雨の夜、濱中刑事の車に追突してしまったことから、濱中と関わりを持つようになる。

 濱中には身重の妻がおり、やがて子どもも生まれる。

 しかし濱中は、意に反して強引な取り調べをせねばならないストレスからか、豊田佳代の家の前に深夜、出没したり、彼女を湖畔に呼び出してその姿を見ながら車内で自慰をするなど、不審な行動に出る。

 

 そのころ同じ地域で、雑誌記者の池田由季(福地桃子)は、30年前に闇に葬られた薬害事件の疑惑を追っていた。

 すると、もみじ園で殺人事件の被害者となった市島民男は、元京大教授で薬害事件の隠蔽に一役買った人物であることが判明する。

 

 事件の背後にある真相を求めて、由季は市島民男の妻松江(三田佳子)を訪ねる。

 松江は、戦時中の旧満州ハルビンで見た、忘れられない光景を語る――。

 

 一方、松本郁子を犯人と断定した伊佐美刑事は、自白を強要するよう濱中刑事を執拗に責める。

 その陰で、濱中は豊田佳代への倒錯的な要求をエスカレートさせるが、なぜか佳代はそれに従順に従い、二人は泥沼のようなSM関係に沈んでいく――。

 

 映画を30分ほど観て、いったん中断し、原作を手に取った。

 吉田修一『湖の女たち』 新潮文庫 2023

 

湖の女たち(新潮文庫)

 

 映画で女性役となっている雑誌記者の池田は、原作では男性(池田立哉)だった。

 それ以外はほぼ原作通りに、映画は作られている。 

 

 佳代の住む、湧水の流れを家の中に引きこんだ湖水地方独特の伝統的家屋の造りは、映画で観たおかげで、容易にイメージできた。

 また、琵琶湖の風景もありありと浮かんでくる。

 

 池田立哉が追うのは、50人以上の犠牲者を出しながら、権力によって闇に葬られた薬害事件の疑惑。

 かつてその捜査で無念の涙を呑んだ捜査員のひとりが、実は伊佐美刑事だったのだ。 ――

 

 また、国際法違反の毒ガス兵器開発や捕虜への残忍な人体実験などで知られる、旧日本軍の暗部731部隊。その拠点となった満州ハルビンでの事件を語る、市島松江の回想シーン。――
 

 その一方、濱中浜中刑事と介護士豊田佳代の倒錯した関係は、その精神的肉体的なSM度をますますエスカレートさせていく。――

 

 ……と、あまりにも大風呂敷を広げて、どうやってこの物語を収拾するのか。

 残り少ないページの厚みを見て、疑問に思った。

 しかし、結末まで読んで、「さすが、手練れのストーリーテラー吉田修一ならでは」と、納得した。

 

 いくつものバラバラのシーンが、ひとつひとつ心理的にあるいはイメージ的に微妙につながりあって、この物語ができている。

 それらがどこへ行くのか、見えないままに展開し、読者の疑問は頂点に達するが、最後はギリギリの線で軟着陸する。

 

 意外な結末、見事な伏線回収、大団円というのではなくて、未解決は未解決のままで、許せるような結末。

 そして、読後感は悪くない。

 評価が分かれるかもしれないが、私としては、この結末はありだと思う。

 

 小説を満足して読み終え、映画の残りを観た。

 

 

 すると、この難しい物語を映像化するべく、腐心したところが随所に見られる。

 このブログでくり返し書いてきたが、小説なら人物の主観に入って説明できるが、映画ではそれが難しい。

 その点、この映画は、原作の持ち味を活かしつつ、印象的な映像づくりと構成の妙で、観客が自らの想像で場面と場面の間の空白を埋めていく仕掛けになっている。

 

 とはいえ、小説を読んで知っている私には、すべての場面の意味が理解できるが、映画だけを観た人は、腑に落ちないところが多いのではないか。

 

 また、濱中刑事と介護士豊田佳代の倒錯した関係は、小説では決着するが、映画ではあいまいなまま終わっている。

 

 そう考えると、この作品はやはり、観てから読むのがおススメだ。

 あいまいさはあるが、映画は印象的な場面が多く、物語を楽しむことができる。

 

 ただところどころ割り切れない部分が残るので、小説でもう一度物語をたどり直してみる。

 すると、多くの疑問は解消し、吉田修一流のみごとな軟着陸の結末を味わうことができると思う。

 

 

 

 鈴木亮平、有村架純主演の映画『花まんま』(朱川湊人原作)が、早くもAmazonPrimeVideoに出ていたので、これもまた“観ながら読む”つもりで、まず映画を30分ほど観た。

 

 2025年公開   監督:前田哲   脚本:北敬太 
 出演:鈴木亮平 有村架純 鈴鹿央士 ファーストサマーウイカ

 

花まんま 通常版 [DVD]

 

 父、そして母を相次いで亡くした兄俊樹(鈴木亮平)と妹フミ子(有村架純)は、貧しいながらも地域の人々に支えられながら、懸命に生きてきた。

 兄は高校を中退して鉄工所で働き、妹は奨学金を利用して大学を卒業し、大学職員として勤めている。

 妹フミ子が結婚相手として選んだのは、勤務先の大学の研究者中沢太郎(鈴鹿央士)。

 

 しかし俊樹の心中は複雑で、行きつけのお好み焼き屋で飲みながら、店の娘駒子(ファーストサマーウイカ)に愚痴をこぼす。

 二人は幼馴染なのだろう。憎まれ口を叩き合う様子から、深い心のつながりが伝わる。

 

 ところが、不思議な場面が挿入される。

 結婚式を間近に控えたフミ子は、彦根市のある家を訪ねる。

 その家の高齢の男性(酒向芳)と中年の息子(六角精児)、娘(キムラ緑子)と思われる三人家族。

 その輪の中でフミ子は、彼らをお父さん、お兄さん、お姉さんと呼び、楽しそうに笑う――。

 

 例によって映画を30分ほど観たところでいったん中断し、原作を読むことにする。

 朱川湊人『花まんま』 2008 文春文庫

 

花まんま (文春文庫)

 

 開いてみるとこの本は短編集であり、表題作『花まんま』はその一編で、ちょうど真ん中あたりに置かれている。

 まずは『花まんま』を数ページ読んでみたが、まだ子どもである兄俊樹の視点で書かれている。

 フミ子が生まれるときの父親の様子や、小学生のフミ子が自分は繁田喜代美だったと言い出すくだりなど、ほぼ映画と同じである。

 

 しかしそこまで読んで、小説の残りは50ページのうちもう30ページしかない。

 やはりこれは『ドライブマイカー』と同じで、短編小説のストーリーを核に大きく膨らませた映画なのだろう。

 そう思ったので、先を読むのはやめ、映画を映画として最後まで楽しむことにした。

 

 映画は何度かに分けて観ながら、一方で、本の方は『花まんま』以外の作品を最初から読んでいった。

 各短篇は独立した物語だが、共通しているのは語り手の子どもが体験した“怪異譚”だということだ。

 

 その舞台は大阪の貧しい庶民が暮らす街であり、そこに起こる不思議なできごとの中に、子どもの眼を通して貧困や差別を背景にした大人たちの人生、悲喜こもごもが描かれる。

 

 幽霊や超常現象や不思議な生き物のお話に引き込まれながら、しみじみとした味わいのある短編群。

 今までにない独特の世界で、直木賞は納得の一冊だと感じて読み終えた。

 ただ『花まんま』だけは、続きを読まずにとっておいた。

 

 そして、映画を最後まで観た。

 

  

 

 これは、とても素敵なファンタジー。

 彦根のつつじ公園や結婚式の場面など、絵になるシーン。

 お弁当に見立てて、弁当箱に花を詰めた「花まんま」の美しさ。

 

 それらのビジュアルを背景に、次々に感動ポイントがあるので、自然と目頭が熱くなり、胸が締め付けられる。

 気持ちよく泣ける映画をお探しなら、この作品はイチオシである。

 

 とても満足して、観終えることができた。

 そして、短編小説『花まんま』の続きを読んだ。

 

 

 これは単行本の表紙

 

 読みかけのところから読み始めたら、映画の印象が強すぎて小説の記憶か映画の記憶かがあいまいになってしまったので、また最初から読んだ。

 すると、ここに描かれた俊樹とフミ子の子ども時代のエピソードは、ほぼ映画にそのまま引き継がれていることがわかる。

 人物のセリフもそのままで、映画の人物の声が、顔が、生き生きとよみがえる。

 

 そして読んでいくと……。

 実によかった。

 この本に収められた、いずれもユーモアと不気味さと哀しさが漂う短編群の中で、『花まんま』だけは格別で、純粋に哀しく美しい。

 

 そして、映画のストーリーの萌芽は全部この中に入っている。

 この短く美しい物語の中に秘められていたタネを芽吹かせ、みごとに花開かせた脚本家北敬太氏の手腕は、みごとというほかない。

 

 この作品はやはり、観てから読む。それがおススメだ。

 

 まずは映画を純粋に堪能してほしい。

 そのあとで原作を読めば、映画で観た素敵な物語のエッセンスが、ほとんどこの短編小説の中に、きれいに納められていることに、また新鮮な驚きを味わうことができる。

 それは、まるで小さな弁当箱に詰められた花まんまのように。

 

 映画を観た後なら、短編集『花まんま』は最初から順番に読むか、『花まんま』は最後に読むといい。

 けっして『花まんま』だけを、つまみ食いしてはいけない。

 

 

 

 直木賞作家井上荒野が書いた『あちらにいる鬼』(2021朝日文庫)は、作者の実父である作家井上光晴(1926-1992)と作家瀬戸内晴美(寂聴 1922-2021)との不倫関係に取材した小説である。

 

 井上荒野は井上光晴の長女だが、親交がある瀬戸内寂聴に詳しく取材し、母の思いも想像して両者の内面を描き出した。 (婦人公論のサイト記事より )

 

 

 今回もまず映画の最初を観てから、原作を読んでいく。

 

 映画は2022年公開。

 監督 廣木隆一   脚本 荒井晴彦

 出演 寺島しのぶ 豊川悦司 広末涼子

 

 作家の長内みはる(寺島しのぶ)は、著名な作家白木篤郎(豊川悦司)と知り合い、やがて惹かれていく。

 

 みはるは、20年前に夫と幼い娘を捨て、年下の男と出奔した。

 その男とはいったん別れて別の男と恋愛した時期もあるが、今はまた前の男真二(高良健吾)とよりを戻し、自宅に住まわせている。

 

 白木の妻笙子(広末涼子)は、5歳の娘を育て2人目を妊娠中だが、自殺未遂をした夫の愛人(蓮仏美紗子)を病院に見舞い、夫からの見舞金を手渡す。

 愛人からは白木の子を2回堕ろしたと聞かされる。

 

 まもなくみはると篤郎は男女の関係になるが、白木の妻笙子は、それに気づいても表面上は冷静にふるまっている。

 

 ……と、30分ほど映画を観ていったん中断し、原作を開いた。

 

 

 1966年春から始まる物語の各章は、長内みはると白木の妻笙子それぞれの一人称で書かれた部分でできている。

 展開する出来事はほぼ映画で観た通りだが、みはると笙子の主観的な語りは、圧倒的な迫力で迫る。

 

 この三角関係における二人の女の心の葛藤。

 それを描き出すことが、やはりこの作品の核心なのだと思う。

 二人の苦痛を考えると、二人の女性に(あるいはそれ以外にも)愛をささやく白木は、なんと罪深い男か。

 しかし二人とも、どうしようもなく白木を愛しているのだ。

 

 けっきょくみはると白木は7年に渡って関係を続ける。

 如何とも断ち難いその関係に疲れ果てたみはるは、やがて「出家」という道を選ぶ……。

 

 小説は最終的に、白木の死、その後のみはるの老い、笙子の終末を描いていくが、細部まで丁寧に書きこまれたそれぞれの思いが、リアルに迫る。

 文庫本340ページと長くはないが、密度の濃い、読みごたえ抜群の小説だった。

 

 小説を通勤電車で読み進めつつ、映画も少しずつ小説を追い越さないように観て行った。

 70年安保の東大安田講堂事件や、あさま山荘事件、三島事件などの報道映像を挟み込む演出で、時代背景を実感させる。

 

 

 この映画はみはると白木との愛人関係に焦点を置き、みはるの出家をクライマックスとして構成されている。

 出家の日が近づき、白木はなにげなく風呂に入ろうとみはるを誘い、彼女の髪を慈しむように洗う。

 また小説にはない場面として、ベッドの中でみはるは、剃髪の最初の一刀として白木に少し髪を切らせる――。

 

 そして、剃髪式。

 初めはバリカンで、やがて剃刀で、みはる役の寺島しのぶの髪を実際に落としていく場面は痛々しいほどリアルで、鬼気迫るものがある。

 

 小説では出家は物語の中盤に過ぎないが、映画ではクライマックスの出家シーンを終えると、いくつかの場面をピックアップして、白木の臨終へとつながっていく。

 観終えてみると、やはりみはると白木の間の思いの深さが強く印象に残る。

 

 この作品はやはり、映画を最初に見て、それから小説を読むのがおススメだ。

 映画では、不倫とはいえ深く結ばれた男女のひとつのあり方を深く見つめることができる。

 こういう生き方、関係のあり方もあったのかと。

 

 そのあと小説を読めば、映像の記憶に助けを借りて物語世界に没入しつつ、みはると笙子が語るそれぞれの内面を、じっくりと味わうことができる。

 とくに、映画ではやや消化不良になってしまう、妻笙子の心の裡を読んでいく興味は、また格別である。

 

 

 映画『早乙女カナコの場合は』(2025)の原作は、柚木麻子の小説『早稲女、女、男』。

 前回取り上げた『私にふさわしいホテル』と同じ作家である。

 

 映画と原作で題名が違うので、どのようなアレンジなのかと思いながら、まずは映画を観ていく。

 

 

 大学の入学式の日、新入生の早乙女カナコ(橋本愛)は、キャンパスの人ごみの中で演劇サークルが仕掛けた銃撃事件の演技にまともに驚き、気になって部室を尋ねる。

 そこで、長髪の先輩長津田啓士(中川大志)と映画の話で意気投合し、惹かれていく。

 

 長津田のバイクで遠くの海まで出かけ、夜の海で二人してホタルイカを採り、海岸で食べて笑い合う。

 

 ショーウインドウにペアのリングに見入る二人。

 「欲しいものはいつもガラスのむこう」と長津田が名言のように言う。

 二人の幸せな日々……。

 

 いつしか年月は流れ、カナコは着実に卒業・就職に向かっているが、長津田は留年をくり返し、書いているという演劇の脚本も、一向に完成しない。


 それでも、カナコはかつて二人で見入ったペアリングを、アルバイトの貯金で買う。

 自分が買うつもりだったのにと長津田はむくれるが、二人は仲直りして互いにリングを交換する。

 

 そんな二人だが、カナコがアルバイト先の出版社に内定が決まると、隔たりが深まり、別れることになる。

 

 すると長津田は、女子大から来たサークルの後輩麻衣子(山田杏奈)とつき合いだし、カナコの内定祝の飲み会でもべたべたして見せる。

 一方カナコは、内定先の信頼を寄せる先輩男性(中村蒼)からアプローチされ、悩む。

 

 ……と、映画を30分ほど観て、原作を開いた。

  柚木麻子『早稲女、女、男』(祥伝社文庫)。

 

早稲女、女、男 (祥伝社文庫)

 

 6人の女子大生を視点人物にした6章で構成されている。

 立教大学の立石三千子、日本女子大の本田麻衣子、学習院大学の早乙女習子(香夏子の妹)、慶應義塾大学の慶野亜依子、青山学院大学の青島みなみ。

 そして、最後の章が「早稲田大学 早乙女香夏子の場合」である。

 

 とはいえ、映画と同様、早乙女香夏子は最初から主役として登場し、香夏子と長津田の恋のゆくえを軸として、女子大生たちそれぞれのエピソードと思いが描かれる。

 そこに、それぞれの大学カラーがちらほらと書き込まれている。

 

 彼女たちはひとり一人自分の生き方に悩みつつ、最後はそれぞれの校歌や校訓を胸に、○○大生らしく、自分らしく、前へ進んでいく。

 そして最後は、香夏子の恋の顛末――。

 

 と小説を読み終え、映画の続きを観た。

 

 監督:矢崎仁司   脚本:朝西真砂 知愛

 出演:橋本愛 中川大志 山田杏奈 臼田あさ美 中村蒼 のん

 

存在感が光る助演俳優3人 

 

 見ていくと、大学のカラーを描くという原作のコンセプトは完全に消去され、大学名も一切出て来ない。

 だから、題名も変わっていたのだ。

 

 登場人物も二人の恋愛に直接絡む人物だけに絞られ、わかりやすくなっている。

 カナコと長津田の恋のゆくえだけに、観客は集中できる。

 

 前回取り上げた『私にふさわしいホテル』の “のん”が、少しだけ作家有森樹李(同作品の主役)として登場する。

 原作通りとはいえ、“のん”の存在感で、二つの物語の連続性を強く印象づける。

 

 最初、橋本愛と中川大志が大学生を演じていることには、正直、違和感があった。

 二人には申し訳ないが、大学生役ならもっとフレッシュな若手候補がいくらでもいるだろうに……と思ったのだ。

 

 実は結末は6年後となり、そこで俳優たちの実年齢に近づくのだが、それはさておいてもやはり、演技力においてこの二人は適役であった。

 全編を通じて一途には進まない二人の恋愛の微妙な展開、それを、橋本愛と中川大志はみごとに演じ、中堅の実力を見せつける。

 それをふまえてのキャスト選びだったのかと、最後まで観て思った。

 

 ではこの作品、映画と小説とどちらから責めるか。

 これはやはり、映画が先だろう。

 

 一風変わった恋愛映画だが、カナコと長津田の関係がどうなっていくのか、最後まで眼が離せない。

 その中で、迷いながらも自分の気持ちに誠実であろうとするカナコの生真面目さが、際立っている。

 

 観終わってから読めば、カナコと長津田の恋のゆくえにやきもきすることなく、ディテイルのおもしろさを味わえる。

 とくに、多彩なキャラクターを通じて描き出される、都内有名私立大学のカラーを楽しめる。

 

 ……とはいえ、日本人がかつてあれほど好きだった「血液型占い」も忘れられつつある現代、この手のステレオタイプ話は、もはや時代遅れの感がなくもない。

 大学名とスクールカラーの話が映画でカットされた理由も、実はその辺にあるのではないか。

 

 

 

 柚木麻子『私にふさわしいホテル』(新潮文庫 2012 )は、文壇で名を成したいと切望する若い女性作家が、大胆さと芝居っ気を武器に、大物作家にしつこく戦いを仕掛けていくコメディ小説である。

 

 2024年に、“のん” の主演で映画化された。 

 監督:堤幸彦  脚本:川尻恵太

 出演:のん 田中圭 滝藤賢一

 

 

 新人作家の相田大樹こと中島加代子(のん)は、小出版社プーアール社の文学新人賞を受賞したが、大御所作家東十条宗典(滝藤賢一)に酷評されたため、2年間出版の機会が得られず、アルバイトで暮らす。

 

 そんなある日、執筆に集中しようと 「小説家のホテル」として名高い「山の上ホテル」に投宿するが、大学の先輩である、出版大手「文鋭社」の編集者遠藤道雄(田中圭)から、上階の特別室に東十条宗典が翌朝〆切の原稿を書くため、カンヅメになっていると聞かされる。

 

 加代子は一計を案じてメイド姿で東十条の部屋を訪ね、あの手この手でみごと東十条の執筆を邪魔することに成功する。

 

 東十条の原稿が落ちた穴を埋めた加代子の短編は、一躍注目を浴びる。

 当然、東十条の恨みを買うが、東十条と出遭っても加代子は知らぬふりで「白鳥氷」と名乗り、機転を利かせて大作家の鼻をあかす。

 

 さらに、編集者の遠藤と画策してペンネームを「有森樹李」に変え、まんまと文鋭社の新人賞を獲得する。

 しかしその授賞式に東十条が現われ、彼女の正体を暴こうとする――。

 

 ほんの30分観ただけでも、展開が早く、中味が濃い。

 

 加代子の東十条への怒りはほとんど逆恨みのようなもので、ちょっと受け入れにくいが、大学の演劇部で鍛えた度胸と演技力で相手を圧倒し、その場を乗り切っていく姿は、痛快でさえある。

 追い詰められてもめげずに出てくる当意即妙のアイデアと行動力から、眼が離せない。

 

 そのまま観つづけたくなるが、いったん中断し、原作を開いた。

 柚木麻子 『私にふさわしいホテル』 新潮文庫 2012 

 

私にふさわしいホテル (扶桑社BOOKS)

 

 文庫本で40ページ前後の6話で構成された一連の物語。

 読んでいくと、映画冒頭の語りやセリフはほぼ原作通りであることがわかる。

 

 しかし小説では映画と違い、加代子の最初の新人賞が不発に終わった原因は東十条ではなく、別の人物にある。

 だから、何の恨みもない東十条への攻撃は、なおさら理不尽に思える。

 

 東十条の怒りはむしろ当然だが、それに対して加代子はさらに敵意を燃やし、一流作家への階段を駆けあがるために東十条を利用していく。

 

 小説のヒット、文学賞の受賞、玉の輿のような実業家との恋愛……と、加代子は成功の階段を昇るかと思うと、思わぬ妨害に遭って墜ちるなど、東十条との間でシーソーゲームを展開していく。

 その顛末が各話で描かれていくのだ。

 

 それにしても、あるときは敵対したり、あるときはまた二人で共謀して編集者の遠藤を陥れたりなど、ハチャメチャな関係で、腐れ縁のような親密感すら見え隠れする。

 まるで、「トムとジェリー」だ。

 

 真面目に考えると加代子の行動は理解しがたい部分も多いが、それを脇において、ストーリーをただ楽しんでいくと、どんどん引き込まれて読んでしまう。

 

 小説をあっという間に読み終え、映画の続きを楽しみに観た。

 

 

 

 小説では加代子の最初の新人賞を台無しにした、本来の憎むべき相手は、東十条ではないのだが、それが映画では完全に消去され、その人物が絡む結末は大幅に変更してある。

 

 敵を東十条ひとりにしぼることでわかりやすい展開になり、東十条をターゲットにする理由も納得できる。

 そして、原作のエピソードをうまく散りばめることで、見せ場が多く、飽きが来ない映画に仕上がっていると思う。

 

 さて、この作品は間違いなく、「観てから読む」のがおススメだ。

 映画はよくできた脚本で、“のん”の体当たりの演技も見事で、わかりやすく、楽しめるコメディである。

 

 そのあとで小説を読めば、場面がどんどん浮かんで楽しく読める。

 しかも、映画に採られていないストーリーが随所にあり、より手が込んでいるので、映画を観た後でも十分に楽しめること請け合いだ。

 

 

 

 映画『とんび』は2022年公開

 監督: 瀬々敬久  脚本: 港岳彦

 出演: 阿部寛 北村匠海 薬師丸ひろ子 杏 安田顕 大島優子 麻生久美子

 

  例によってまず映画を観ていく。

 

とんび Blu-ray(豪華版)

 

 昭和30年代、広島県備後市(架空)の田舎町。

 狭い通りをオート三輪で我が物顔に走り、運送会社の倉庫でたくましく荷運びをする、28歳のヤスさん(阿部寛)。

 

 妻の美佐子(麻生久美子)とは身寄りのない同士、惹かれあって結婚した。

 ほんとうは幸せいっぱいなのに、家で新妻と向き合うのも気恥ずかしくて、心とは裏腹に毎晩飲みに行ってしまう。

 ヤスさんはそれくらい照れ屋なのである。

 

 そんな夫を心から愛し優しく見守る妻は、まもなく男の子を出産し、ヤスさんは好きな映画俳優小林旭から取って、旭と名づける。

 ヤスさんは家族のために汗水流して働き、休日には親バカ丸出しで旭を可愛がる。

 

 しかし幸せな日々は、旭が3歳のときに一変する。

 美沙子が、ヤスさんの職場の倉庫で崩れてくる荷から息子を守り、自身が下敷きとなって命を落としたのだ。

 

 残されたヤスさんは、懸命に旭を育てる。

 そんな父子をいつも気づかい、支えるのは、幼馴染でケンカ友だちの照雲夫妻(安田顕 大島優子)や、姉のような存在である飲み屋の女将たえ子さん(薬師丸ひろ子)である。

 やせ我慢のヤスさんはいつも彼らに減らず口ばかり叩くが、旭はみんなに愛されて育っていく――。

 

 30分ほど観て映画を中断し、原作小説を手に取った。 

 重松清『とんび』(2011 角川文庫)

 

とんび (角川文庫)

 

 題名は、「とんびが鷹を産んだ」という周囲の陰口、あるいはヤスさんの自嘲のことばであろう。

 

 ヤスさんは人一倍情に厚いのに、口下手で、心と正反対の行動に出てしまう、どうしようもない照れ屋で、素直になれない“やせ我慢男”である。 

 それを理解している周りの人々が、父子を温かく見守り、関わり、時には包み込むようにして、ともに旭を育てていく。

 

 そういう物語だということはわかるのだが、ヤスさんのやせ我慢ぶりがいつまでたっても変わらず、完全なワンパターンなので、私は読んでいてだんだんうんざりしてきた。

 

 物語の後半、旭が成長しいよいよ東京へ発つという朝にも、ヤスさんはトイレに籠って、とうとう最後まで見送りには出ない。

 正直、「またか」という感じで、「楽しみに次が読みたい」という気が失せ、文庫本400ページ余りは、長すぎる感じがした。

 

 しかし、そこをこらえて最後まで読み終えてみると、憎めないキャラのヤスさんの不器用な子育てが、やがて幸せな結末につながっていく感動を味わうことができた。 

 

 それから、映画の続きを観た。

 

 

とんび

 

 残りの1時間45分。

 脚本は、小説の主要なエピソードをうまくつないで展開している。

 

 とくに、小説の後半、ヤスさんが生まれて初めて上京し、東京を舞台に展開する現代の場面が、映画では、メインストーリーである旭の小学生から大人になるまでの物語と同時並行して進む。

 これは、映画独自のアレンジである。

 

 この構成だと、観客はヤスさんと旭の未来の姿を垣間見つつ、ハラハラやきもきさせるヤスさんの不器用な子育ても、安心して見守ることができる。

 効果的なシナリオの工夫だと思う。

 

 また、私がうんざりしてしまったヤスさんの“やせ我慢”の描き方も、小説とは違う。

 旭の旅立ちの朝、トイレに籠って出て来なかったヤスさんが、映画では最後の最後にトイレを飛び出し、息子の乗る車を懸命に追いかける――。

 やせ我慢の末に感情があふれる場面があるので、観ている方も気持ちが解放されるのだ。

 

 また、映画の結末では、小説のさらに先の物語が描かれる。

 観終えたあと味は爽やかで、素直に感動できる映画に仕上がっている。

 

 原作を読んだからこそわかるが、まさに観客のツボを心得た脚本と言っていいと思う。

 

 この作品もやはり、映画の最初を観てから小説を読み、後で映画の続きを観る、私と同じやり方がおススメだ。

 ただ、この作品の場合、映画の最初は1時間ほど、旭役の北村拓海くんが登場するくらいまで観てもいいと思う。

 

 

 

 門井慶喜『銀河鉄道の父』(2020 講談社文庫)は、2017年下半期の直木賞受賞作。

 

 童話『銀河鉄道の夜』、『注文の多い料理店』や『永訣の朝』、『アメニモマケズ』などの詩で知られる宮沢賢治の生涯を、父親目線で描いた小説だ。

 

 2023年に役所広司主演で映画化された。

 今回も原作の文庫本を用意しておき、まず映画を観始めた。

 

銀河鉄道の父

 監督: 成島出    

 脚本: 坂口理子
 出演: 菅田将暉 森七菜 豊田裕大 坂井真紀 田中泯

 

 明治29年、岩手県花巻で質屋兼古着商「宮沢」の若旦那として京都に買付に出ていた23歳の宮沢政次郎(役所広司)は、長男出生の電報を受け、慌ただしく帰郷する。

 待ち望んだ第一子は、父喜助(田中泯)により「賢治」と名づけられた。

 

 その後、5歳になった賢治は赤痢を発症して入院するが、政次郎は居ても立ってもってもいられず、妻(坂井真紀)を差し置いて賢治の病室で泊まり込みの看病をする。

 

 その結果、自身も赤痢にかかり、入院することに……。

 あまりの親馬鹿ぶりをたしなめる喜助に、政次郎は自分こそ「新しい時代の、明治の父親なのす」と言い返す。

 

 月日は流れ、大正3年、成長した賢治(菅田将暉)は盛岡中学を卒業し、実家へ帰る。

 しかし、跡取りのはずの息子は、質屋は農民に対する「弱い者いじめ」の商売だと、父を批判する。

 

 そんな兄を慕う妹とし(森七菜)は、今は女学校に通うが、幼いころ楽しいお話をつくっては聞かせてくれ、「日本のアンデルセンになる」と言った兄のことばを、今でも忘れない。――

 

 ひと通りの登場人物が出そろった30分ほどのところで映画を中断し、原作を読み始めた。

 

銀河鉄道の父


 

 文庫本500ページ以上あるが、読み飽きることがない。

 今まで断片的な文学史知識でしかなかった宮沢賢治の生涯が、リアルな物語として目に浮かんでくる。

 

 すると、賢治は清貧に生きたように思っていたが、資産家の家に生まれ、ある意味我がまま放題に生きた賢治の姿が、実像として見えてくる。

 

 とりわけ、結核を病んだ妹としの臨終の場面など、詩『永訣の朝』からは想像もつかない人間臭い賢治の行動が描かれる。

 おそらくは大幅な創作なのだろうが、「そうだったのか」と思わず納得してしまう。

 

 そして、一家の家長として振舞いながら、実は息子にメロメロでその希望は何でも叶えてやろうとする政次郎の心情と行動は、現代の父親像にも通ずる。

 宮沢賢治とその家族の伝記的物語の中に、現代人の心のありようが映し出されている。

 

銀河鉄道の父 (講談社文庫)

 

 

 それにしても、宮沢賢治の史実についてはかなり研究した末の仕事だろうと想像された。

 そこで、小説を読み終え、参考文献リストがあるかと思って最後のページを見た。

 

 すると、たった一言、

 「この物語はフィクションです。登場人物、団体等は実在のものとは一切関係ありません」。

 

 宮沢賢治とその家族の実名を使い、ここまで史実に沿って丁寧に書いてあるのに、“実在のものとは一切関係ありません” とは……。

 

 作家門井慶喜はおそらく、宮沢賢治の伝記的資料を読み込み、史実を知り尽くしたうえで、登場人物たちの内面に分け入り、想像力を駆使してその心のひだを描き出した。

 そこにこの作品の持ち味があり、作家の想像の自由を守ってくれるのが、「フィクション」ということばなのだ。

 

 その後、映画の続きも最後まで観たが、映画もよくできていると思う。

 そう考えると、この作品は断然、「観てから読む」のがおススメだ。

 

 映画では、明治・大正・昭和初期という時代の風景・風俗を映像で目に焼きつけながら、宮沢賢治の人物像を追うことができる。

 そして、息子へ愛に揺さぶられ続ける父の姿を、役所広司の演技で堪能する。

 

 それから小説を読めば、映画の記憶に助けられて、物語世界が “映画を観ているみたいに ”心のうちに展開する。

 そのなかで、時代の変化と世代間のギャップに戸惑いつつも誠実に生き、懸命に子どもたちを愛した父の思いを、じっくりと読み味わうことができるだろう。