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陣屋の南東に突き出した稜堡を詳しく見てきたので、次は北御門から出て火薬庫じゃ〜💨


陣屋内の東の縁を通って北へ向かう。

こちら側の土塁は規制されていなかったので、裾に寄ってみる。

武者走り状は外へ鉄砲などで射撃する時に身を隠すにちょうど良い位置に入っているようす。


北東隅の「でっぱり」内側には赤い神社が…

陣屋の見取り図には描かれていないので後補らしい。


さて裏御門の前まで来た。

こちらも表御門と同じような造りで、狭苦しい空間になっている。


蔀土塁も同じように門の正面を塞いでいる。


門も板塀に高麗門。


外側も同じく、空堀をわたる土橋の奥。


そして足元の空堀が、日当たりが悪いせいか土むき出し😮

凄い姿だ✨


さて、陣屋の北100メートルほど行ったところには火薬庫があるという。

それも見に行くか。

北に延びる林道へと入ってゆく。


火薬庫は、上の写真で左側奥に見える杉林の向こう側の畑の隣、道の左側30メートルぐらい奥にあった。

小ぢんまりした、土塁がゴチャゴチャという第一印象…😮


道との間は草原になっていて踏み込むことは出来るようだが、隣が畑で火薬庫内部に入る時に近づくことになるので注意したい。

北側に道のようなものが出ていて、ここから、入るのが良さそう。

全体は長方形で、その狭さと比較して土塁がゴツい😮

爆発事故の時に周囲に被害が及ぶのを防ぐためにゴツく盛られたとのこと。


裾には幅2メートルほどの空堀も入っている。

これは排水溝だそうだ。


そして入口は南側にあるらしい。

南東端の土塁が東に向けて開口しているので、堀の近くに沿って南に入ってゆく。


よく見ると、ここから排水溝を土橋で北に向かって渡り、土塁の切れ目から中に入るようだ。

いっぱしの城郭みたいな、手の込んだ縄張りだ😮


中は六畳一間より少し広いぐらい。

土塁の高さがあるので狭苦しい空間だ…


真ん中に建物のレプリカらしいやつ。

🌿🌿に埋もれかけてるな…💦


西側の端、土塁の内側にも排水溝が入り込んでいる。


外に出ると、こっちにも排水溝…


さて、これでだいたい全部見て回れたから退散じゃーっ…

と思っていたが、いくつか見落としがあったのでそれを見ながら退城することにした。


まずは陣屋の中央。

平坦だと思っていたが、中央あたりに東西に走る段差があった😮

北側が高くなっている。


そして、表門のところに立っている説明ポールの裏側の「野崎の丘地形図」に、大正時代の調査で明らかになった武家屋敷を囲う土塁が描かれていた。

これ、駐車場から陣屋に向かって歩き始めたところにソレらしいものを見たのだが、後補と思ってガン無視してた😅

それが、コレ…


十字路になっていて南に続く道が通るところは分断されているが、たしかに東西に一直線だ😮


そして、この土塁は車を停めた場所の裏まで続いているらしいので、車まで戻って覗き込んでみると…


ナニコレ?カッチョいい〜🤯


高さは1メートルもないような小さい土塁だが、森の中をさっきの続きとばかりに一直線に伸びていた。

ここは軍事拠点たる陣屋本体だけでなく、多くの藩士の生活の場でもあったということか🤯


以上でもって陣屋の見学は成功裏に終わったのだが、後日、地元北杜市郷土資料館の学芸員の方からお便りを頂き、研究紀要を参考に使わせて頂けることとなったので、予備知識ゼロで臨んだ今回の訪問でどれだけのものを見ることができたのか、さいごの編で検証してみようと思う。

 

松前藩戸切地陣屋 検証編に続く)

 

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(2024年9月16日 記)

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戸切地陣屋は新函館北斗駅から南南西6kmほど、戸切地川の東側に広がる段丘上に築かれた星型要塞。国指定史跡。

幕末の安政二年(1855年)に渡島半島の南西側など一部を残して直轄地に召し上げた江戸幕府が松前藩に築城を命じたもので、同藩士藤原主馬が設計した。かれは佐久間象山のもとで洋式軍学を熱心に学び、藩主松前崇広から西洋流砲術師範・赤松流砲術師範に任ぜられていた。

築城から13年で箱館戦争をむかえたが陣屋での直接戦闘はなく、残っていたわずかな守備兵が自ら焼き払って退去したという。

1855年の築城は、星型要塞として日本初。


夏も終わろうかというのに猛暑が続いていたこの日、さすがに夏バテの気配がしたので涼しい北海道へ遠征することを3日前に決め、夜行バスと新幹線の乗り継ぎという奇策で新函館北斗駅に降り立ち、最初に訪問することにした。

四稜郭七飯の峠下台場を訪問した昨年七月に取りこぼしていたから、という理由だった😅


歴史公園の入口(Googleマップで)

県道から案内看板にしたがって駐車場まで行くと、もう陣屋の土塁が向こうに見えてくる😮


せっかくなので、表御門に南から真っすぐ入ってゆく堀底状の道から入ってみるか。


なお、この堀底状の道に入るところは十字路になっているが、その陣屋と反対側に東西に伸びる土塁状がある。

陣屋に入る時には後補と思ってスルーしたのだが、後でそうではないことを教えられた😅

ラストにて。


表御門の前まで来た。

横に藩主松前崇広の写真と説明の入ったポールが立つ。


このポール、ただのモニュメントと思ったら…


裏側に、いろいろな説明が書かれている。

中でも、この「野崎の丘」地形図がとても勉強になった✨


ここから歩いてきた道の周りの空間を振り返る。


ここは土塁などの遮蔽物が無く、侵入してきた者を南東の稜堡から射撃しやすくするために設けられたのだという。
それもただ単に見通しを良くしただけでなく、西の「アナタヒラの崖」と東の沢、それに北の山地を取り込んで側面背後から直接侵入出来ないようにしたうえで、遮蔽物のないこの空間に敵を引き込んで最高所の稜堡から十字砲火を浴びせる、という戦い方をする設計なのだそうだ。
この点については最後に触れたい。

さて表御門の左側には、四芒星のうち南西に突き出た方の空堀、そして土塁。

四稜郭のものより土塁が高く堀も深いようで、二段になっている。


表門は、土橋で渡って高麗門をくぐる。

復元なのだろうが、板葺き屋根が少しめくれ上がったりしていて、傷みが見える…


蝶番もそんな感じになっている。

江戸城の田安門とかだと石火大工が刻んだ刻印が残っているが、ここにはさすがに…😂

セミの抜け殻があった💕


中に入る前に、右側の土塁空堀を。

先端に、左側には無かった稜堡が見える。


稜堡に近づいて、真南から見る。

四稜郭と比べて、やっぱり空堀がデカい。

ちょっと宇都宮の飛山城東端の櫓台を思い出した。


稜堡の真ん中あたりに2ヶ所、土塁に凹みが入っているところがある。

この背後に大砲を置き、筒先をここから外に向けて射撃する。


よく見ると、土塁の切れ目からこちら側に向かって扇形らしい平場が繋がっていて、さらにそれが外側に向けて若干傾いている。この構造は当時の要塞化教本を表面的に真似たのではなく、内容を理解したうえで忠実に再現するよう築かれたことを示すとのこと。
この点についても最後で。

稜堡を先端から見る。

東側と南側の空堀が鋭角で繋がっていて、稜堡の先端も尖っているようすが、よく見える😮


東側へ回り込んでも、同じように土塁と空堀で守られているのが見える。


東側に出入口は無いので、表御門に戻る。

途中の稜堡前から遠望する表御門と空堀、土塁のコンボはやっぱり飛山城を思い起こさせる…

むこうは木橋で渡ってるけど…


表御門から陣屋の中へ入ってゆく。

中が見通せないように土塁で隠している。

蔀(しとみ)土居、あるいは蔀土塁ってやつか。

四稜郭が枡形なのと違いはあるが、同じ設計思想。ただし門の中の空間は格段に広い。


高さ3メートル、基部の厚さが7メートルぐらいあるか。

周囲の土塁と同じぐらい、しっかりと造られている。


陣屋内は野球もできそうな広さ😮

四稜郭よりずっと広い。


調査で建物の跡が確認されたところには位置を示すレプリカが埋め込まれている。

ここは南西の筒入(銃火器の保管庫)で、盛土されているのは湿気から守るためらしいとのこと。


この外側を守る土塁の周囲は、トラロープで規制されていて入ることができない。

土塁の前に一段高くなった空間があり、向こう側の土塁は中間に武者走りみたいな段が入って、二段になっている。


次は南東の稜堡の内側じゃ〜💨

表御門の内側を通って東へ向かうが、陣屋内には建物の跡がたくさんあって、全て盛土されている。

真ん中あたりにあったココは備頭・目付詰所だそうだ。


そして稜堡の付け根へ。

ここから先が陣屋の攻撃力の要か…ドキドキ💓


四稜郭の稜堡は、内側が高くなっていて上に大砲を据えるようになっていたが、ここのは他の場所と同じ高さ。

付け根に大砲の保管庫(大砲入)のレプリカ。


大砲は土塁に凹みを入れて、そこから筒先を外に向けるようになっていた。内側には大砲を載せる台がわずかに盛られているのが…見えるかなぁ💦

南側と東側に、それぞれ3ヶ所。


砲眼はこんな感じ。

向こう側は、ここからは見えなかった…


稜堡の先端内側は、四稜郭ほどではないが一段高くなっていた。


そして外側の土塁天端は櫓台のように広くなっていた。


どうも昨年見に行った四稜郭と比べてしまうが、面積が広いというだけでなく色んな違いがあるな…

次は北御門から出て火薬庫を見に行くじゃ〜💨

 

松前藩戸切地陣屋 その2に続く)

 

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(2024年9月12日 記)

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・発生時刻 2024年8月25日 13時頃

・場所: 塔ノ原城(安曇野市) ※城攻め録執筆中

・事象: 危険生物(キイロスズメバチか)襲撃


登城口からのアプローチが比較的長く、森林やヤブが多い信州安曇野の塔ノ原城にて、ほぼ全城域の探索を終えて退散しようと主郭北東の帯曲輪を歩いているところで、キイロスズメバチの威嚇を受けた。

差していた傘にかなり執拗に取り付かれたが、幸い傘を差していたワタシへの攻撃は無く、傘をたたむとハチも飛び去ったため怪我等は無かった。


★状況

城までのアプローチがヤブや倒木で覆われた尾根の細い踏跡だったので、特にハチやヘビに注意しながら慎重に進み、11:30頃に城内に到達した。

城内はかなり深い樹林で下草は少なく、快適な探索を楽しんで帰途につこうとしたところで雨が降ってきたので、持っていた白いビニール傘を差したところ、1匹のキイロスズメバチらしい昆虫が威嚇するように周囲を飛び回り始めた。

ハチが取り付いていた場所を振り返ったところ
(左の切岸上に城の主郭)

傘はそのままにしつつ頭を低くして飛び去るのを待ったが、しつこく近くを飛び回り続けた。

傘を持つワタシに向かってくる様子が無さそうだったので首をすくめながら観察したところ、ハチは傘に止まったり周りを飛んだりしていて、ワタシではなく傘に向かっているようだった😮

傘を尾針で刺したかどうかは分からなかった。

傘に向かっていることを見て取ったので、羽音が遠のいたスキに傘をたたむとハチもそのまま来なくなり、その後登城口に戻るまで再び襲撃してくることは無かった。


★原因

襲撃してきたのがスズメバチに似たアカウシアブだとしたら、攻撃してくる目的は吸血なので傘に執拗に取り付くようなことは無いはず。

写真は撮影できなかったが、このことから襲撃してきたのはキイロスズメバチで間違いないだろう。

黒いものに対して攻撃的だとか、手で払ったりすると攻撃されたと見做して襲ってくるとか、スズメバチの攻撃を誘う要因はいろいろ言われているが、今回は白い傘に取り付いていた。

白髪交じりに黄緑色のTシャツという出で立ちで、その傘を差していたワタシは見向きもされなかった。

首をすくめてそぉっと歩いていたのが奏功したのだろうが(飛んでくるハチを確認するために周囲をキョロキョロ見渡す事もしていない)、深い樹林内にあって白い傘が揺れていたのが非常に目立ち、それが攻撃を誘引した可能性が高いと思われる。傘をたたむとハチも飛び去ったことがそれを裏付ける。

白い服を着ているとスズメバチに襲撃されにくいと言われているが、色云々より目立つ格好や動きで巣や個体に近づくのが最も危険と言えるだろう。

付け加えると、スズメバチが威嚇してきても巣や個体に危害を加えるような動きをこちらが見せなければ、いきなり刺しては来ない可能性が高いことも言えるだろう。


★対策

スズメバチらしい羽音は山城歩きではけっこう聞くので、活動期に入山する限り遭遇することは避けられないだろう。

よってスズメバチが活動する時期は山城歩きを避けるのが一番なのだろうが、そこまで恐れなくても慎重に対応することで襲撃をやり過ごすことが出来る可能性は、かなり高いと思われる。

よく言われることだが、スズメバチを見つけたり羽音が聞こえたりしたら出来るだけ動きを見せないようにしつつその場を離脱することが最優先だろう。姿勢を低くする、傘を差していたら羽音が遠のいたスキにたたむ等。

手で払うなどの動きを見せるようなことは絶対にしないことだろう。

今回傘をたたむとハチはすぐ飛び去ったので、静かにその場を離れれば追ってくることは無いと思われる。もし執拗に追ってきて手などに止まるような時はハチではなくアブと思われるので、そこまで見極めてから追い払うようにすれるのが良いのだろう。

アブに襲撃された経験は新潟・鈴ヶ滝でのメジロアブ1度のみなので、アブ対策の知見は無い。


一番恐ろしいのは、ハチの巣に気づかず近づいたり踏んだりしてしまうことだろう。幸いこのような事態に陥ったことはないが、こうなるとインシデントでは済まないだろう。

ハチの羽音に十分注意するとか、地面の見えないヤブへ突っ込むのを出来るだけ避ける等しか無いだろう。


今回、スズメバチが攻撃しにくいと言われる白い色の傘に取り付いていた様子を観察できたのが興味深かった。


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(2024年8月28日 記)

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大椎城はJR外房線土気駅から南西に2kmほど、駅前から続く住宅地が終わったあたりにある。平安時代の末期に千葉常胤の父常重が居城としていたと伝わるがその後の歴史は不明とのこと。遺構から見て戦国時代の城らしいことから土気城を本拠地とする酒井氏が支城としていたらしいと考えられているとか。

2013年3月に千葉市により里山地区「おおじの森」の指定を受け、里山保全推進事業による保全・整備が地元ボランティアの協力により進められている。

多くの城址と同じように私有地であり、里山地区指定以前はよそ者の入れない城だった。

人里の城は山林と違って人の家の庭との境界を越えて踏み込んでしまうリスクがある。これは遺構見学が目的でもアウト⚠


9月に入ったこの日は健保組合のウォーキングイベント初日で、ひとまず気合を入れようとJR外房線土気駅から周囲の小城郭もまとめて攻略しつつ本納駅まで徒歩行軍することにした。だが最初に取り付いた立山城は壮絶なヤブのため断念し、気を取り直しての登城となった。

シロウト時代の2019年2月に登城しており、これが2回目。


現在位置(Googleマップで)

前に来たときもそうだったが、この城の入口はなかなかに分かりにくい…

城の北西に小さな治水ダムがあるが、その上を舗装道で通り抜けると先が遊歩道のようになっている。


ここから園路はすぐに左に曲がるが、右側上の方に土塁の末端のような尾根が…

西側の曲輪「西要」から降りてくる尾根のようだ。


芝生で守られた斜面を登ってゆくと、なんと尾根道が現れた😮


本来の順路では無いだろうが、バリエーションコースと思って登ってみるか💨

道はかなり急な尾根の直登、濡れたササの葉で滑りやすいので、慎重に登ってゆく。

少し進むと、マナー看板。


ここを過ぎると少し平坦になり、その先にS字の登りが現れる。


登り切ると、目の前で空堀が折れていた😮


ここは西要の西端外側を守っている空堀で、道はその北端あたりに登ってきている。

虎口のような造作は無く、動線はあったかも知れないが主郭部まで通じてはおらず、土塁の上までだったような感じ。

ここから道は堀の中を南に降りているが、北側は立派な薬研堀✨

竹ヤブの荒れっぷりがハンパないけど…


こちら側は荒れた竹ヤブで進めないので、トレイルをたどって南へ。

空堀状はすぐに終わって、ほんの少しだけ下ってあとは斜面をトラバースする道に変わる。

ここで振り返り。


道はしばらく南へ進む。

途中には、井戸みたいな大きな穴もある…


西側を守る斜面を、まっすぐに進んでゆく。

ごく狭い武者走りが入ってたかな?


南西の角は、ちょっとだけ堀切っぽい。


ここから、木が伐採されて空が見えるところがチラホラ…

幅が広がって、ハッキリとした帯曲輪状になる。


南の麓には谷戸が入って来ている。

こちら側は民家が並んでいて、入ることは出来ない。


このあたりには居館があったとのこと。


しばらく進むと、正面に竪堀状が現れて突き当たる。

左へ登ってゆくと、主郭部に入れるようだ。


左は西要と中央の曲輪とを仕切る空堀なのだろうが、進むにつれて登っている。


南は西へ曲がりつつ麓へ降りてゆくようだ。

先は民家の庭なので、もちろん厳重に封鎖されている。


往時はここが南の虎口だったのだろう。
そして、虎口と横堀が直接つながっているのは、この空堀が城内を行き来する動線でもあったということ。

ここからは東へも行けるが、まずは北に登って曲輪へ入ってみる。

空堀状は上の方でも思ったより深く、城内を南北に貫いている。

ただ、整備されているのは西要の虎口までらしい…


虎口のところに城址碑。


ここから北も刈り払ったらスゴい空堀が見えるんだろうけど、いざやろうとすると大変そう…💦


虎口はほんの僅かだけ土橋のようなものが張り出しているだけらしい。

いたって簡素😮

西要はかなり広大で野球もできそうな感じだが、虎口から真っ直ぐ西への幅5メートルぐらいの他は背丈以上の🌿🌿に覆われていた。

整備ヤバメロだ…💦💦


そんなわけで刈り払われた周りのごくわずかしか見ていないが、周囲を低い土塁で守っているようだ。


この西要から主郭に登ることは到底ムリ…

もっと東の方へ入るには、南へ戻って帯曲輪から行くしか無さそう…


(土気 大椎城 その2に続く)

 

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(2024年10月2日 記)

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主郭からは、だいぶ微かになったとはいえ、キチンと虎口が設えられていたようだ。

ここからは、右に曲がりながら東の下の方に広がる帯曲輪に向かって、動線のようなものが降りている。

ホント微かだが、少し降りて振り返ると見える…?


帯曲輪は主郭から崩れてきた土砂に半ば埋まったらしく、平坦なところはわずかしか残っていなかった…


この北隣、少し下にも帯曲輪。


主郭に登ってからこのあたりの雰囲気が、来るまでの尾根とぜんぜん違って女神のような優しさを滲ませているのは何故だろうか…?


この帯曲輪は、北端が土塁のような高まりで終っている。


で、隣にまた凄い堀切が…🤯


ただその前に、主郭側の裾が面白そう。


ここは、主郭の北端に向かって登っている。

こっちに虎口でもありそうな雰囲気だが、そこに虎口らしいものは無い。


そして、向こう側に小さな帯曲輪が回り込んでいた。


そしてここの斜面には、さっきと同じような丸い石がビッシリ嵌め込まれていた😮

これ石積でしょ〜?


このあたりにも、主郭へ登る動線のようなものは無さそうだった。

やはり東側の微かな動線らしいところから登降していたのだろう。

なかなかスパルタ…


さて、堀切の向こうへ行くか💨

ここから見下ろす堀切と、向こう側の曲輪群が目の覚めそうな土木の跡を見せてる…🤯


そして堀切。

主郭の前のやつと比べればだいぶ小さいけど、それでも主郭側からの高さ5メートル、幅7メートルはあるだろう。

これも倒木はあるが、薬研のV字はきれいに見える✨


この堀切から落ちる竪堀は東の方しか見なかったが、すぐに浅くなって下の方に見える段郭らしいところで終っている。

城内の下と上を結ぶ動線にもなっていた?


この堀切の向こうには、小さな山を取り巻くように曲輪が横たわっている。

南の端っこは帯曲輪のように見える。


北の方から見ると、真ん中の小山を囲むように造成された様子が見える。


ここから先、尾根は高度を下げてゆく。

その西側の端から、はっきりと積まれた土塁が始まって、城の遺構の西側を縁取るようになっている。


この土塁の向こう側は急傾斜で落ちていて、なかなか高度感がある😮


そして、ここから東へ等高線に沿うように段郭が並ぶ。

一段目


二段目は六畳一間より少し大きいぐらいか。


下の方は土塁が見えにくくなり、段も読み取りづらくなる…


土塁は先端でプッツリ切れ、その下は落差7メートルはある急斜面になっている。

その下に、恐らく最北端の曲輪が横たわっている。

手前側の小さな堀切状に倒木が入り込んでる…


斜面の上のやや南寄りのここが、段郭群の一番下だろうか。

尾根の方から崩れてきた土砂に半ば埋まってるのか、ここも平場は幅2メートルぐらいしかない…


さて、急斜面を降りればラスト曲輪🙌

広さがアパートの一室ぐらいの小さなものだった。


しかし、西側は厳重な土塁で守られていた😮


こっち側は急斜面で守られてるはずなのに、と怪訝に思って土塁の上に登ってみたら、外側の傾斜はかなり緩くなっていた。

そうなのか…


降りてきた急斜面の下には、土塁との間に切り込みを入れたようなチビ堀切💕

倒木をかいくぐって撮影…


この堀切、斜面の裾を這って東へ抜けていたようだ。

東にも浅い堀切が見えるし、曲輪に立ってみると斜めに走る線がくっきり見える😮



堀切本体を下に続く土塁の背後から見ると…
思ったより鮮やかじゃんか✨
ほんの2〜3メートル幅の堀切がこんなクッキリ浮かび上がるとは、思ってなかったわ😮


そして、この曲輪の下に一段だけ、ごく小さな曲輪が見える。

裾の様子とかは🌿🌿でよく分からないが、堀切などは無さそう…


この城はここまでか。

撤収〜っ💨


途中、小止みだった雨脚がまた強くなってきたので傘を差したところ、キイロスズメバチに取りつかれて驚かされた。これについてはインシデント事例に記した。


何と言っても、取っかかりのドヤブっぷりからは想像もできないような大きな土木の跡で、尾根一帯がガッチリ固められていたのが印象的だった。

甲斐武田氏が織田信長の攻勢の前に敗北して以降は信濃の小笠原家旧領奪回を目指していた小笠原貞慶の麾下に入ったが、けっきょく松本で謀殺され塔ノ原氏は滅んだ。

堅固な城だけではその身を保つことが出来ない、戦国の世の残酷さをまんま示したような末路だった…😢


それにしても、倒木だらけになった山の荒れようは壮絶なものだったが、近くの田沢城や伊深城にも、城内やアプローチ道に尋常でない量の倒木に埋め尽くされたような場所があった。

ネット上で情報を拾うと、過去にはそうでもなかった場所も複数あるようで、近年の自然災害が激甚なものだったことを窺わせる。

林道から深い場所にあって、とくに大量の倒木となると人力での撤去には手間がかかるだろうし、茂りまくった灌木のヤブも整備しようとするとさらに大変だろう。


しかし、この城は遺構も秘めた歴史も一級品。

存在だけでも何とか後世に遺したいところだ。

 

★塔ノ原城

長野県安曇野市明科中川手

林道の長峰山登山口に普通車数台分のスペースあり。アプローチは林道も尾根も荒れ気味。

山城

 

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(2024年10月1日 記)