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今回の戸切地陣屋訪問は予備知識も予習もほぼゼロで臨み、見えているものが何だかよく分からない状態で写真に収めたものが多かった。

しかし、そのようすをXにアップしたところ、地元の北斗市郷土資料館の学芸員の方より返信を頂き、その研究紀要を参考にさせて下さった。それにより撮った写真の検証が出来る事となったことに謝意を表したい。

 

さて『検証』とは銘打ってみたものの、何しろズブの素人なワタシのこと、実物が当時の洋式軍学の教本をどこまで再現しているか、のような大それたことは畏れ多い限りだし材料になるものも持ち合わせていないので、今までにワタシが見てきた城と違うところを取っかかりとして、当時の洋式軍学のエッセンスをどこまで見ることが出来ていたのか、確かめてみることにした。

なお陣屋築城時に参考にしたとされるサヴァール教本じたいを探すことが出来なかったので、同教本の内容については『北斗市郷土資料館 研究紀要 第1号』(以下「参考文献」)に基づいている。

 

まずは土塁の断面のこと。

表御門のところで目に飛び込んできた、土塁に入れられた犬走りのような段。

(表御門から東に伸びる土塁)
 
同じような段が、外側だけでなく内側にも入っていた。
(東側の土塁内側)
 
よく見ると、外側の段は天端からかなり下、こちら側より少し高いぐらいのところを走っているのに対し、内側のそれは頭上のかなり高いところ、天端から1メートルぐらいのところを走っている。
内側のものは歩兵が土塁に身を隠しつつ銃撃するためだろうと大方想像がついたが、外側のは何のためのものなのか、まるで想像がつかなかった。
これについては内側のものは銃兵足場で上記の通り、外側のものは土塁が崩れるのを防ぐために堀との間隔を取ったものとのこと。
寄せ手に足がかりを与えないよう堀底から土塁天端まで連続的に築く堀+土塁コンボとは異なる考え方に立脚したものだったが、ちゃんと写ってるな🙌

 

次に、南東の稜堡に6基設けられた砲台。

 

この類の遺構は品川台場でしか見たことがなかったが、平坦な土塁天端に大砲(レプリカ)がでんと置かれているのとは随分と外観が違っていて、最初はどこに大砲を据えるのかさえ分からなかった😅
実際には、土塁に開けられた切れ目(砲眼)から筒先を外に向け、大砲本体はその内側に押し固めた土を盛った砲車架台に据えるという。砲台を内側から見た下の写真では、たしかに砲眼の手前側が平坦に盛土されて高くなっている。
なお架台は補強のための根太を地中に埋めて床は板敷きにするそうだが、さすがにそういう跡らしいものは見えなかった。
(稜堡南側の砲台を内側から見たところ)

同じ砲眼を外から見たところ。
堀の向こう側から広角レンズで撮っているので見えにくいが、左側の土塁の切れ目からこちらに向かって扇形をした平場が刻み込まれているのが見える。扇の要が砲眼の方、広がったほうがこちらを向いている。
下の水平な段は犬走りで、扇形はそれより高い位置だが全体が見えていることは、ここが外傾していることを示している。

(稜堡南側の砲台をを外側から見たところ)
 
土塁は想定される砲撃に耐えられるよう厚みを持って盛られていて、砲眼はそれをくり抜くように開けられる。扇形にするのは射撃できる角度を広げるため、外傾させるのは雨水排水のためとのことだが、少なくとも写真に写ったところでは全くその通りに作られていた😮
今までにワタシが見てきた西洋式の城にある砲台は、品川台場にしろ龍岡城にしろ小高い平場の上で敵弾から大砲を守る遮蔽物が無いものだった。それらと比べると、戸切地陣屋の砲台が大砲の生存率を向上させつつ広い射撃角度を確保する土塁と砲眼を併せ持っていたことには、驚くしかなかった…
(品川台場の砲台跡と大砲レプリカ)

(龍岡城の砲台跡)

で、陣屋の立地そのものと構造について。

今回は予習なしのグランドツアーのような軽い気持ちで訪問したために陣屋の周辺まで見て回れなかったので、主に参考文献P24の図23(野崎の丘地形図)を参考にした。

陣屋の南西側、中心から150メートル弱のところを北西―南東に高さ30メートルほどの「アナタヒラの崖」が走っている。戸切地川が刻んだ段丘崖のようで実物は見ていないが、地形図上での等高線の混み具合から見るに傾斜45°ぐらいはありそうで歩兵でも登るのはかなり辛そう。

いっぽう北東側、中心から250メートル弱のところには小さな沢がこれまた北西―南東に流れ下っている。深さは陣屋付近では10メートルぐらいで浅く、傾斜も30°以下らしいが陣屋北方の源流付近では深く鋭く切れ込んでいるようす。歩兵は渡れるかも知れないが重い砲などはムリだろうし、北側から回り込むのはより難しいだろう。

そうなると、北の平地に無防備に置かれたようにも見える火薬庫も、じつは地形と砲の射程に塞がれた奥の、いちばん安全な場所に配置されている事が見て取れる。

(表御門脇のポール裏に描かれた「野崎の丘」地形図
 参考文献P24、P26 に加筆された図あり。
 レタッチソフトで露光や歪みを補正)

こういう高低差や傾斜のある地形を取り込んで防御に利用している城は数多く見てきたが、この陣屋での地形の取り込み方は、なるほど射程距離の長くなった大砲での戦いを想定していることを雄弁に語ってくれているだろう。陣屋の位置が東西の崖や沢の中心ではなく西に寄っているのは歩兵が崖を登ってきたところを銃撃出来るようにするためだろうし(陣屋の端から崖まで50〜80メートルで、マスケット銃でも届く距離)、砲台が陣屋の表御門側でなく東端に据えられたのは東西の崖や沢の中心に据えるためだろう。

これらを自分の目で確かめようとなると、けっこうあちこちを歩き回る必要があるだろう。いずれ追試してこの記事補訂するか…😅

 

これは稜堡の南側に開口する砲眼から外を見た様子。植栽などで分かりにくいが、ここから120メートルばかり先の武家屋敷土塁と並走する道まで楽に見通せている。
侵入する敵が身を隠せるような障害物を排除するという教本の意味を理解し、忠実に築城した様子が表れているのだろう。

(稜堡南側の砲眼から望む景色)
 

この写真では水平の位置が分からないので、この砲台の外側の広場に対する砲の高さ、さらには広場そのものの傾き…砲台が周囲に対してどのぐらいの高さで相対しているか、などは読み取れないな…😅

城を見る目が遺構中心で立地などに目が向いていないことの表れだろうなぁ…😅

 

そして参考文献をして『松前藩内における洋式軍学への理解・優先度がほぼ皆無であったことの証左ともいえるだろう』(44ページ目)としている南東側の武家屋敷を囲む土塁。

高さは1メートルぐらいだが断面はけっこう鋭く、たしかに攻撃側が背後に身を隠す事ができてしまう。

(武家屋敷西端付近、駐車場裏の土塁)
 

(武家屋敷の土塁、表御門への道入口付近)
 
ついでに言えば、表御門までの堀状の通路も、本来は平坦にしようとしていたのだろうか。

(武家屋敷土塁から表御門までの通路。
 堀状の向こうに表御門が小さく見える)
 

ここまで完璧に築いてきた城塞を、こんなんで台無しにするかぁ😭

 
という藤原主馬の嘆きが聞こえてきそうなところ。
 
日本初の星型要塞である戸切地陣屋だが、けっきょく本格的な戦闘はいちども経験することなく、その役目を終えたという。
陣屋が築かれてから13年後に勃発した箱館戦争の際、松前藩は箱館府のあった五稜郭に主力を置いていたが榎本武揚らの軍勢に敗れ、陣屋に残った兵は戦うことなく自ら陣屋を焼き払って退去したとの事。

松前城も移転先だった館城も落とされ、けっきょく北海道から一旦退去せざるを得なかったとのことで、軍事の知識もそれを使って戦う力も、もはや松前藩には残っていなかったという事だったのだろうか…

 

★参考文献

北斗市郷土資料館 研究紀要

第1号(令和5年度・2023年)

「日本最初の星の城」松前藩戸切地陣屋における19世紀洋式軍学の実践

―日本における稜堡式城郭の理解のために―

時田 太一郎

 

★松前藩戸切地陣屋

北海道北斗市

周辺の歴史公園の各所に駐車場あり。

星型要塞

 

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(2024年9月24日 記)