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この台場は山慣れない人が単独で訪問するのは危険と思われます。選んだ経路によっては周囲の地形を読み取りながら道の無いヤブを漕いでゆくような場所もあります。少なくとも地形図から現在地を読み取るスキルは必須でしょう。

入城日現在、携帯電話(docomo)の電波状態は終始良好でした。

ヒグマの出る山でもあるとの事で、経験者に同行してもらい、クマや虫等に対する装備も整えて訪問するべきでしょう。

 

峠下台場は七飯台場とも呼ばれ、国道5号と函館本線が小沼へ抜けようかという峠の東方、標高345メートルの台場山なる小ピークに眠っている。

北方の鷲ノ木(茅部郡森町)に上陸した榎本武揚率いる旧幕府軍がこのあたりを通って箱館の五稜郭を奪った直後の明治元年(1868年)11月、フランス軍人ジュール・ブリュネの指導のもと四稜郭などとともに短期間で築城されたとのこと。ブリュネはフランス軍事顧問団の副隊長として派遣されたが、大政奉還に伴って幕府から解雇された後には北へ向かう榎本武揚らと合流していた。

稜堡を7方向に設けた西洋式の要塞で、俗に七稜郭とも呼ばれる。日本では星形要塞とされるが欧米ではテナイユという分類になるのだそう。

昭和48 年(1973年)に発見されたという。

 

この台場の存在は北海道遠征中にtwitterのフォロワーさんから聞いて知った😅

かなり奥の山中で時間もかかりそうだったが、この日は朝から志苔館、四稜郭と快調にこなして時間が出来たので、戸切地陣屋に行くか迷った末に挑戦してみることにした。

 

訪問ルートは七飯町側と大沼側の2つあるとのことだが、ネットでの情報を見た上で大沼側から登ることにした。

検索したら冬季の雪山登山の記録がいくつかヒットした。

マイナーだけどポピュラーなのか??

(地理院地図上に作図)

注意:GPSログではない!経路は正確でない!

 

現在位置(Googleマップへ)

登り口は県道338号、小沼畔のこのあたり。

林道の入口、路肩に駐車スペース1台分。

案内は全く無い⚠

 

登り始めは、荒れた林道を緩やかに登ってゆく。
流水で真ん中が洗掘されたり、泥濘んだりして歩きづらい…

 
左手から落ちてくる支流を築堤で渡ると、道はかなり大きな沢の右岸斜面をトラバースしながら少しずつ登るようになる。
 
400メートルほど道なりに進むと、分岐が現れる。
直進する道から左上に、少し細い道が登っている。
ここは左の道に入ってゆく。
 
分岐点に立つ、小さな案内。
ここまで来れば安全圏……
というほど甘くはない😨
 
入った先は、元は幅のある林道だったかも知れないが、今はササヤブに覆われている😮

 
しばらく登ってゆくと、ピンクリボンで示された左側に斜面を登ってゆく踏跡が現れる。
これを登ってゆくのがルートのようで、今回はここから登って行ったが、山慣れない人が単独で入るのは危険だろう。
 
位置は、図中に青点で示したあたり。
この位置だけはGPSで確認を取っておいた。
(地理院地図上に作図)
 
ちなみに、ここまで登ってきた道は、その先なおも直進している。
そちらを進むと台場のある345m山頂の南西にある小ピークを西から回り込んで七飯町方面からの道に合流出来るのかも知れないが、今回はそこまで調べられなかった。
 
20メートルばかり斜面を直登して平場に出たら、左に進む。
ここもつづら折れの道型に見えるが、直進する濃い踏跡に従って進む。
すぐに急斜面を斜上するようになって、踏跡も頼りなくなるが、登り始めで少しジグザグの後は、ほとんど直線的。
 
ひとしきり登ると、斜面を北にトラバースしながら少しずつ直線的に登るようになる。
 
踏跡はしっかりしていて、ここまで来れば安全圏…
とは行かない😨
 
踏跡はずっと直進していて、台場のある345メートルのピークよりも北に行ってしまう…
と思ったところで、この場所に出る。
 
踏跡が倒木に塞がれてる!
と思うところだが、よく探すと右手のヤブっぽい斜面にピンクリボンが掛かっていて、ボサの向こうに上へ登ってゆく踏跡らしいものが見える。
そちらへ入って行くのだが、間もなく濃いササヤブの中に踏跡は消えてしまう…💦
 
道どこだ〜😱
道が無いくらいで進退窮まってしまうようだと危険だぜよ…
 
あとは地形図等で345メートルの山頂の方向を見定めながら、高い方、高い方へヤブを掻き分けつつ登ってゆく💦
かなりの急斜面の直登になるが、所々にトラロープを設えられた場所があって、かつてはここから登らせようとしていた事は間違いないだろう。
 

ヤブの斜面を直登すること、高度差にして50メートルぐらいか…

 
いきなり来たぁ🤯

 

なんとか斜面を登り切って345メートルのピークに出ると、そこには息を呑むような土の芸術が横たわっていた😮

複雑に折れ曲がった土塁に周囲を囲まれて凹んだように見えるのが、台場の内部。

中央に「台場山山頂」という標柱と見取り図が描かれた説明板が立っていたが、土塁の内側が杭とロープで仕切られていたし、踏跡が台場内部に降りていなかったので、踏み込んじゃいけない場所と思って土塁の上からの鑑賞だけになった…😅

西上州の神成城大山城のように、植生保護のために一部領域の立ち入りを禁じているところもある。山城はまた豊かな自然を育んでもいるので、踏み込むのは慎重にしたい。

 

東側の土塁を、南の方から見たところ。

眼の前に函館山方面の稜堡。

土塁の折れが複雑すぎて、奥の方がどうなってるか見通せない…

 
この台場は7つの‘でっぱり’(稜堡)を持っていることが特徴とのことで、そのでっぱりを南側から時計回りに見て行くことにした。
それぞれの‘でっぱり’には、どの方向を向いているか案内がある。
 
まずは、西大沼・森の方を向いたやつ。
登ってきたときは、このすぐ脇に詰め上げた。
 
続いて駒ヶ岳・大沼市街方面を向いたやつ。
土塁の内側が浅くなっているのが稜堡で、ここに大砲を据え付ける。
内側までよく見なかったが、右端の樹木が生えているあたりが大砲を稜堡に引き上げるスロープだったらしい。
 
続いて砂原・鹿部方面。
台場の北西端にあたる。
内側は深く切れ込んでいる。稜堡を付ける前だったのかな…?
 
土塁の先端に櫓台のようなスペースは無く、同じ幅のまま折れ曲がっている。
こういうところは星形要塞そのもの。
先端に塔や櫓台のようなスペースを付けると稜堡以外からの射撃時に櫓台の前面が死角になるので、星形要塞では稜堡の先端を鋭角にしている。
 
東の方に回って、五稜郭・亀田・七飯方面。
稜堡とスロープがあるようにも見えるが、崩れたりして大人しくなってる様子…
 
南隣は古峠方面。
ここは‘でっぱり’も短いように見える…
 
続いて函館山・函館港・渡島平野方面。
ここは稜堡が出来ていた様子。
 
最後は清川陣屋方面。
台場の南東端にあたる。
ここも内側に稜堡出来てるね✨
 
これが全てで、わりと小規模。
陣城のような、一時的に使うために急造した雰囲気が漂っている台場だった…
 
まぁ幕末の頃の大砲(品川台場にレプリカがある)のサイズなら、この台場でも何とか運用できるということなのだろう。
星形にしたのは、指揮したブリュネが得意としていたからか…?

 

この台場が築かれた翌明治二年(1869年)5月には五稜郭の開城というかたちで箱館戦争は終結し、台場には大砲が据え付けられることも実戦で使用されることも無かったという。

そして100年以上、その存在は忘れられていた…

 

戊辰戦争の最終段階を物語る貴重な歴史遺産であるこの台場、一部の登山者だけでなく多くの人が触れることが出来るようになることを願ってやまない🙏

 


さて、帰ろうと思って台場の周囲を見渡すと、清川陣屋方面の稜堡脇から整備された山道が入って来ているのを見つけた。

恐らく七飯町方面からの登山道だろうが、ひょっとして車を置いた大沼方面に分岐しているかと淡い期待を抱きつつ、ここから降りて行くことにした。

 

降り口から台場を振り返る。

 
しばらくは、たおやかな尾根上の道を快調に下ってゆく。
 
堀底道のようにも見える凹を横切るところを、降りてから振り返る。
堀のような両側は🌿🌿に埋もれてしまい、道としては使えない…
 
そして、山頂の南西にある小ピークのあたり。

両側は背丈ほどもあるササのヤブ。

 
ここから、道は南の七飯町方面に下っていた。
もう少し下れば大沼側からの道が分岐していたのかも知れないが、これ以上降りると大沼側に出られなくなると判断して、この付近から先ほど登ってきた林道の分岐点を目指して、藪漕ぎで降りてゆくことにした。
 
ダニもいるという山中で、おっかないことこの上ない…
下山後に道の駅でチェックしたら服の上を1匹這っていた😱
 
経路は赤線で示したあたりで、小さくても沢などのありそうなところは避けて、少し台場の方に戻ってから道のありそうな少し上を狙って藪を漕いで進んで、無事戻ることが出来た。

(地理院地図上に作図)

 

いやはや、ごく短い距離とはいえ方向を地形図で見定めるようなヤブコギを、まさか北海道まで来てやることになるとは…

 

いや待てよ?

根室半島のトウシャム2号チャシでやったっけか…😅

 

★峠下台場

北海道亀田郡七飯町

県道338号沿いの入山口に駐車スペース1台分。

星形要塞

 

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(2023年7月30日 記)