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富山県のイラストレーターブログ

富山県で絵描きとして活動中のだいごろうのアート作品ブログ。

 

 

 

先日、遅れながら、『残暑お見舞い』のハガキを投函した。

 

プライベートでお付き合いがある人たちではなく、

そのほとんどが、絵描き士・だいごろうとして、

イラストレーターとしてお付き合いいただいている方々だ。

 

今年、1月に送られてきた年賀状を見ながら、

もしくは、こちらが出すよりも先に、送られてきた『暑中見舞い』のハガキを見ながら、

お一人お一人に、メッセージを添えた。

 

俺は、住所と名前が分かっている人たちへ、

連絡先を交換したことがある人たちへ、

自分勝手に、年賀状や、残暑見舞いを送りつけているだけだ。

 

俺が、一度繋がった『ご縁』を切りたくなくて・・・。

繋がっていたくて・・・。

友達じゃなくても、知人でもいいから、『ご縁』で結ばれていたくて・・・。

相手を想い、メッセージを書いている。

 

こんな自分勝手な俺が、今回送り付けた枚数は、65枚。

こんな俺に、返事を書いてくださっている方々は・・・

俺に、届いていた年賀状は、プライベートを省いて、45枚だった。

あとの20枚は・・・20人の方々とは、

ハガキ以外のやり取りが無いため、生きておられるのか・・・

今、どういう状況なのか・・・知る由が無い。

SNSで繋がっていれば、まだいいが、それすらもなく、

相手のブログも更新が止まったままだと、もう生存が分からない。

ただただ、相手が元気に生きていることを祈って、送った。

 

 

 

イラストは、試行錯誤した。

いや、俺はセンスも技術もないから、

イラストで試行錯誤してないものは、ほとんどない。

 

スラスラと何も考えずに描いたものは、青ペンで落書きする時だけかな。

 

今回は、子供が夏休みに入っているため、

通常の絵仕事すら時間がとれず、真夜中、寝ずに・・・

数日に分けて、描いたものだった。

 

 

 

(ここでは彩色してないものだけ掲載します。

実際は、しっかり彩色したイラストを印刷して送りました。)

 

 

 

見ただけで、「ひんやり」とした空気を感じられるような・・・

一瞬だけでも暑さを忘れて、「涼」を感じてもらえるような・・・

そんなイラストを目指した。

 

ただ、喜んでもらいたくて・・・その一心で描いて、送ったものだった。

 

 

 

まぁ、じつは、このイラスト・・・、

最近、ネットで流行っているというか、ツイッターで

人気になっているイラストレーターさんたちのイラストを見て、

自分も、その作風をマネてみようと試行錯誤したイラストでした。

最近、流行っているのは・・・

「顔がアニメ絵で、体がやたらとリアル」という描き方です。

その方々のイラストは、どう見てもアンバランスなのですが、

それをアンバランスに見せず、『魅せる』イラストを描いてらっしゃる。

うまく『融合』『調和』させてるんですよねぇ・・・。

俺には、その技術が、まだ足りなかったようです・・・。

 

 

 

今まで、そこまで深く考えずに描いて、送り付けていたのだが、

当然ながら、プライベート以外で繋がっている『ご縁』の方々は、

俺と同じように、絵描きさんが多い。

 

同じ絵描きだから分かるけど、『絵描き』という人種にも、いろいろある。

 

ただただ、送られてきただけで、嬉しく感じる人や・・・

 

絵の欠陥を指摘してくる人や・・・

 

絵の欠陥に気づきつつも、見えない努力量を感じ取って、

あえて何も言わず受け取ってくれる人や・・・

 

自分のSNSやブログで紹介してくれて、

俺の存在を広めようと、宣伝してくれる人たちもいる・・・。

 

 

 

じつは、かれこれ10年近く、俺は自分勝手に送り付けていて、

この数年間、わざわざ指摘してくる人はいなかった。

それが、今回、初めてイラストの欠陥を指摘してくれた人がいた。

まぁ、こちらは添削してほしくて送ったわけじゃなく、

純粋に喜んでほしくて、寝ないで描いたものだったので

それなりにショックだったけど・・・不思議と腹は立たなくて。

 

もしかしたら、その人だけじゃなく、今までも、

ツッコミどころ満載のイラストを送りつけられて、

モヤモヤした気持ちのまま受け取ってくれていた人たちもいるのかもしれない。

今回は、そのことに気づけただけでも、収穫だ。

 

・・・とはいえ、欠陥に気づけても、それをどう直せばいいのか

分からないのが現状だから、欠陥のイラストしか描けないのが、今の俺なのだ。

今、現在の、俺の実力は、その程度と思ってもらうほかない。

 

欠陥に気づけたからと言って、それだけで絵がうまくなる人はいない。

そこから、また、描き続けて、描き続けて、描き続けて・・・

というか、これは何も『絵描き』だけに留まる話ではなく、

世の中、すべての職業に通じることだけど。

 

今年よりも来年・・・来年よりも再来年・・・

少しでも、少しずつでも、うまくなっているかな?

あんまり変わらないかな?

上手くなりたいな。

 

そういう想いを、今一度、思い出せたイラストでした。

 

 

 

受け取ってくれた方々、ありがとうございました。

また、描きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

久々に、絵仕事の記事でも・・・(笑)

 

 

 

俺が『絵描き士』としてスタートした頃、

初めての個展で知り合ったお客さん・銀木犀Keiさん。

そのKeiさんに名刺(正確にはメッセージカード)を作成したのは、

もう、数年前の話だが、今でも、その名刺を使ってくれているようで。

 

そのKeiさんのお知り合いが、その名刺を見て、

「私も作って欲しい」という話になり、

今回、名刺を作らせてもらうことになりました。

 

俺が、依頼を受ける時は、とにかく打ち合わせが大事で。

 

でも、コロナ禍なので、簡単にお会いすることが出来ず、

お互いの顔も知らないままに、メッセージのやり取りだけで

打ち合わせさせていただきました。

 

何度も、いろんなパターンの名刺デザインを作成して、

それを画像添付で見てもらって、打ち合わせを進めて、

相手と一緒に考えて、また数パターンのデザインを作っていく。

 

そうして、たくさん悩んでいただいて、

完成したのが、こちら。↓

 

 

 

【表面】

 

 

【裏面】

 

(※許可を得て掲載しております。)

 

 

 

そうそう、お客さんは、『SMAP』の大ファンで。

打ち合わせ時に、それを知って、

名刺にもその情報を記載したいという要望もあって。

 

ボツになったデザインには・・・

 

 

 

 

 

 

『SMAP』のファンなら分かるようなデザインを作成したり(笑)

 

でも、最終的に、「シンプルなものが好き」ということで、

これらのデザインは選ばれなかったけど。

 

作っていて、楽しかった(笑)

 

お客さんの「好き」というモノをカタチにしていくという作業が。

 

 

 

(名刺の印刷は、印刷所に依頼してます。)

 

 

 

名刺のお渡しは、郵送という方法も提案したけど、

お会いして直接お渡しするという方法を選んでくれたので、

先日、完成した名刺をお渡ししてきました。

 

お互いに、顔が見えない相手との打ち合わせが、

とても不透明で・・・とても気を使ってたと話してました。

そうですよね(汗)

リモートで済ませることもできるけれど、

人間相手は、やっぱり直接、顔を合わせて、

目を見て、話し合いたいものですよね。

 

楽しいお話を、ずっと聞かせてもらいました。

あー、楽しかった(^^)

 

 

 

お客さんの「料理教室」は、まだまだ手探り状態みたいで。

だから、住所とか、具体的な項目とか、名刺には載せてないけれど、

これから先、やっていく中で、また状況が変化していけば、

このシンプルな名刺の内容も、変わっていくのかもしれない。

お客さんとともに変化、成長していく名刺。

そのお手伝いができるのも、俺の楽しみのひとつです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢を追いかけていたり・・・、夢中になってたり・・・、

好きなことを仕事にしようと、がんばっていたり・・・

ずっと好きなことを仕事にしていても・・・

 

「才能が無いから、やめたほうがいい」

 

「あなたの努力や人生が無駄になるから、言ってあげている」

 

これらの言葉を言われたら、

「うっせぇわ」の一言で片づけて良い。

 

たとえ、相手がプロで、先見の目があったとしても、

そいつは、あなたの才能に気づけなかった、節穴の目だ。

 

「応援なんて、無責任で、残酷な行為だ」

 

そんなことを言うやつもいた。

そう言うやつに限って、責任感が強いんだろうけど、

それも「うっせぇわ」の一言で片づけられる。

 

心のこもった「応援してるよ」も、

心無い「やめたほうがいい」も、

じつは、どちらも無責任。

 

本来、赤の他人なんて、自分の人生に、1ミリも関係ない。

ネットの中での応援や批判なら、なおさらだ。

顔も名前も知らない人間の言葉に、

自分の人生の責任をとらせるなんて、有り得ない。

 

人生は、すべて「自己責任」。

自分の人生なのに、他人に責任を負わせようなんて、

そんな甘っちょろいやつは、夢追う人間の中にはいない。

 

ちなみに、この記事も、無責任な記事だし、

この記事を書いている俺も無責任なやつだ。

誰もあなたの人生の責任を、代わりに背負うことは出来ない。

あなたの人生は、あなただけのものだから。

 

 

 

これは、心の話だ。

 

 

 

ビジネスにおいては、

「需要と供給」が重視されていて、

「需要のない物を供給しても意味がない」とされている。

たとえば、自分の町に「パン屋があればいいのに」という要望があって、

まだ誰もやっていないなら、それをやるべきだ・・・という話になる。

でも、自分が好きなこと、やりたいことが「パン屋」ではなく「蕎麦屋」で、

すでに、その町の近くに「蕎麦屋」があった場合、

ライバルがいる町にわざわざ店を構えるなんて、よほど勝てる要因が無ければ、

ビジネスにおいては、「やめるべきだ」という話になる。

 

ビジネスに関して物凄い知識と経験がある人のセミナーへ行って、

「パン屋をやれ。蕎麦屋はやるな。」と提案してくれたとしても、

自分が好きなこと、やりたいことが「蕎麦屋」であるならば、

あなたは、それをするべきだ。

 

ビジネスにおいて、儲からず失敗したとしても、

心の話としては、失敗という経験すらも成功なのだ。

 

好きなことをした。やりたいことをした。

 

それが一番重要で、

たとえ「言われたとおりにパン屋をやったら、大儲けだった」としても、

その後の人生、いつまでも「でも、好きなのは蕎麦屋、やりたかったのは蕎麦屋なんだ」という

後悔が残る。

もし、それで後悔しなかったなら、あなたは初めから

「蕎麦屋」が好きなこと、やりたかったことではなかった、ということだ。

 

だいたい、ビジネスセミナーに行く人で、

講師の言われたとおりに、なんでもできる人は、

初めから、好きなこと、やりたいことがなかった人だ。

「とりあえず儲かるなら、なんでもいい」という人は、

お金が目的だから、パン屋だろうが、蕎麦屋だろうが、

大ヒットすれば、なんでもいいわけで。

 

あと、「好きなことを仕事にするにはどうしたらいいか分からない」という

人たちが、ビジネスセミナーに行くこともあるだろうけど、それはオススメしない。

たいていの場合、「パン屋をやれ。蕎麦屋はやるな。」とアドバイスされるからだ。

なぜなら、講師は、自分の評判を落とさないために

成功(儲かる)確率が高いことを提案してくるからだ。

自分のセミナーの受講生が失敗したら困るのだ。

俺からしたら「蕎麦屋をやるにはどうしたらいいか?」と聞いているのに、

「パン屋をやれ。蕎麦屋はやるな。」と答える講師は、

ビジネスの才能がないとしか言いようがない。

保身しか考えていないわけで、それこそ「無責任」極まりない。

 

 

 

これは、心の話だ。

 

 

 

心において、成功は結果じゃない。過程が大事。

好きなことをした。やりたいことをした。

その結果、儲かった。儲からなかった。

どちらの結果も、心にとっては過程なのだ。

 

昔、ある人が

「おみくじで絶対、大吉をひく方法」とか言ってて、それが

「大吉が出るまで、おみくじを引き続ける」ことだった。

それを聞いた時は、「んな、アホな!」と思ったものだが、

その人にとっては、結果よりも過程が大事で、

「大吉が出るまで、引き続けた結果、大吉が出た」という結果も含めて、

すべてが過程であり、

その結果、「それを実行した自分」という過程(実体験)を得ていたわけだ。

 

結果と過程を混ぜているから、とても理解しがたいだろうけど。

心においては、「結果=過程」ということだ。

 

 

 

大事なことだから、何度も書く。

これは、心の話だ。

 

 

 

他人から見て、「成功」とは

その人が、地位や名誉、財産など、目に見える「結果」だけが

その判断材料なのだ。

だから、他人から見て、「失敗」とは

それらを得ていない状態、または失った状態のことだ。

 

でも、心において、それらは重要ではない。

それらを得ていない状態や失った状態の「失敗」した実体験すらも、

過程であり、その状態を得ることも「成功」ということになる。

 

分かりやすい話が「幸せを感じるかどうか」だろう。

 

「幸せ」は、人それぞれ感じ方が違っていて、

地位や名誉、財産という目に見える「結果」がそろっていても、

「幸せ」を感じる人と、感じない人がいる。

「幸せを感じる条件」を、まったく同じように揃えたとしても、

同じように「幸せ」を感じるかどうかは、人それぞれ違うのだ。

 

だから他人から見て「失敗」に見えていても、

本人が「幸せ」を感じているならば、それは心において「成功」なのだ。

いや、心において「過程」を獲得することがすべてであるから、

「幸せ」な過程も、「不幸」な過程も、「成功した」過程も、「失敗」した過程も、

体験した時点で、「成功」ということになる。

 

 

 

それから、

自分が「幸せ」を感じていても、「不幸」を感じていても、

赤の他人の人生には、1ミリも関係がない。

逆も然り。

赤の他人が「幸せ」を感じていても、「不幸」を感じていても、

自分の人生には、1ミリも関係がない。

 

大事なのは、「自分が」「どうなのか」だ。

 

 

 

ここまで、「赤の他人は1ミリも関係ない」とか

「他人の応援や批判が無責任なのは当たり前」みたいに書いてきたけど・・・

 

俺は、応援してくれた人を、大切にする。

 

ネットの中で、顔も名前も知らない、赤の他人の応援であっても。

自分の人生に1ミリも関係ない人のことを、応援するのって、

どんだけ良い人間なんだよ!って感じる。

 

自分の人生に1ミリも関係ない人のことを、罵倒するのは簡単だ。

相手のことを考えず、ただ、自分がイラっとした気持ちを、

ただ、虫の居所が悪かっただけの気持ちを、

無責任にぶつければいいだけのことだからだ。

ネットの中では、そういう人間の方が大半だ。

 

そんな中、応援してくれる人たちって、すごく良い人間で、

そんな人たちに出会う確率の方が、ものすごく低くて、

とても有り難い存在だから。

だから、大切にする。

 

もちろん、これは、自分勝手に、自分の都合のいいように、

相手の言葉を受け取っているだけに過ぎない。

「夢を諦めろ」と無責任に言ってきた人たちの中にも、

俺のことを真剣に想って、言ってくれている、とっても良い人間もいただろう。

 

そういう人の言葉は受け取らず、

自分の都合の良い言葉だけを受け取ってきた。

でも、それでいいんだと思う。

応援も批判も無責任なのだから、

それを受け取る義務も責任も、自分次第でいいのだ。

だって、自分の人生なのだから。

自分で取捨選択して、自分で決定していいのだ。

 

「好きなことを諦める理由を探さず、

続ける理由を探しなさい。」

 

これは、ある野球選手の名言だ。

これも、自分の都合のいいように受け取って、解釈している。

 

人生自己責任。

 

さぁ、自分は、どうしたい?

 

 

 

 

 

 

 

「約束の無い待ち合わせ」 

 

 

 

 

ふと思い出したけど、これ、俺やったことあります。

 

他人からしたら、意味不明で、

出されたコーヒーが冷えきってしまうほど無駄な時間を費やす、

愚かな行為だけど。

 

本人にとっては、ものすごく意味のあることで…

何かを諦めるために必要な時間なのです。

 

たとえば…

 

昔、大切な約束をした、大切な人の命日だったり、ね。

 

 

 

 

 

 

 

遊びで描いているんじゃなくて、プロとして描いているなら、

他人の評価は受け容れるべきだ。

 

 

 

もちろん、謂れのない、根拠がない、だたの暴言や

的外れな酷評は、気にかける必要はないけれど。

 

 

 

コンテストに出品して、そこでつけられた評価・結果に関しては、

受け容れるべきだ。

 

「今の自分の実力は、これぐらいなのだ」と。

 

そこから、また一歩、先へ進んでいけばいい。

 

 

 

 

 

 

「水の中から空を見上げる少年」

 

 

 

 

 

 

「紳士的なライオン」

 

 

 

 

 

「優しい性格なのに顔で損しているネコ」

 

 

 

 

 

 

 

青ペン、けっこう好き。

 

色付けが下手だけど、これで線を描くだけで、

なんとなくパッと見、鮮やかな色に見える。

 

あと、やっぱり、この手のひらサイズのクロッキー帖が便利。

暇な時間に、すぐラクガキができる。

メモ帖としても使えるしな。

 

小さいから精密なイラストには向いてないけど、

これだけ描ければ、俺にはじゅうぶんかなと感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぱっと数分で描いた、ただの落書きだろうと、

 

 

 

 

 

 

技術を駆使して、何時間、何か月も時間を費やして、

魂を込めて、描いた作品だろうと、

 

 

 

 

 

 

批判は、間違いなくある。

 

 

 

 

 

 

そして、高評価も、間違いなくある。

 

 

 

 

 

 

 

答えは、単純明快。

 

作品を創る人も、それを見る人も、人間だからだ。

 

 

 

人間は、「好き、嫌い」が必ずある。

 

この世の全てを受け容れる器があったとしても、

 

「でも、これ嫌い」「これは好まない」というモノが必ずある。

 

「平和も戦争も好きですよ」なんて言う人、いないでしょ?

 

 

 

人間の「好き、嫌い」は、食べ物の「好き、嫌い」と同じ。

 

必ずある。

 

なんでも食べれる人がいたとしても、

 

「これはちょっと好きじゃない」「これは、ちょっと苦手」というモノが

 

必ずある。

 

 

 

だから、高評価も批判も、いいんだ。

 

それは、個人の「好き、嫌い」なのだから。

 

作品には、1ミリも非はないし、

 

作家にも、1ミリも非はない。

 

 

 

俺は、『納豆』が嫌いだ。

 

ニオイも、味も、最悪だ。

 

でも、これを、わざわざ売ってる人や作っている人に言わないし、

 

これを食べている人に、「そんなもの食べるなよ」とは言わない。

 

なぜなら、『納豆』は栄養価が高く、人間の体に良い物だと、

 

専門家や医者が薦めているのを知っているし、

 

売っている人も、作っている人も、

 

他人に悪意を持って、そうしているわけではないからだ。

 

ただ、俺個人が「嫌い」というわけなのだ。

 

「嫌い」は、俺個人の、個人的意見なのだ。

 

「好き、嫌い」とはいわば、『性癖』みたいなものだ(飛躍的な解釈してみた)

 

『納豆』に、1ミリも罪はない。

 

友人たちといっしょに食事に行った時も、

 

家族と食事する時も、

 

俺の目の前で『納豆』を食べている姿を見るが、

 

俺は、別に、わざわざ「俺はそれが嫌い」とは言わない。

 

そんなの、俺の好みなんて、誰も聞いてないからだ。

 

聞いたところで、「あ、そう。俺は、納豆好きー!」って言われて、

 

話は終わるだろう。それでいい。

 

人間の「好き、嫌い」とは、そういうものなのだ。

 

「俺が納豆嫌いだから、お前らも納豆嫌いになれ!食べるな!」

 

なんて、俺は1ミリも思わない。

 

そんな強欲、俺には無いし、他人の強欲に対しても、

 

「なんで、俺がお前の好みに合わせなきゃならんの?バカじゃないの?おバカなの?」

 

としか思わない。

 

 

 

これを『性癖』で、たとえるならば、

 

「俺は、こういう女が好みで、こういう体位が好きだから、お前らも、同じ性癖になれ!

 

「この体位以外で、イクな!」

 

という・・・もはや、そういう変態にしか見えない意見に聞こえる。

 

 

 

作品も、高評価も、批判も、これと同じことだ。

 

自分の人生に、1ミリも関係ない他人の好み(性癖)に、

 

一喜一憂してしまうのは・・・まぁ、気になるから仕方ないけど、

 

気にしなければ、それまでのことだ。

 

「その作品、好きー!」という高評価に対しては、

 

「好きって言ってくれてありがとう。俺もこの作品好きなんだぁ。」って

 

共感してくれたことに、感謝するし、嬉しくなるけれど、

 

「その作品、嫌い! ド下手!」という、批判に対しては

 

「お前はこれが嫌いなのか。そうか、そうか。」で、終わり。

 

 

 

「モネとゴッホは好きだけど、ピカソとミケランジェロは嫌い」とか

 

「ラッセンが好っきーーー!」とか

 

どんな偉人でも、高評価と批判は、必ずあるんだから、

 

偉人でもない俺やあなたにも、高評価と批判は、あって当たり前なのだ。

 

 

 

中には、批判のつもりがなくて、

 

「もっと、こうして!」とか「もっと練習して、うまくなれよ!」と

 

講釈を垂れてくる人たちがいるが、

 

これも『性癖』にたとえれば、

 

「もっと腰動かして!(そうじゃないと俺がイケないだろ!)」とか

 

「もっと練習して、うまくなれよ!(いつまでも俺が気持ちよくなれないだろ!)」という

 

自分本位な意見でしかないので、無視して結構。

 

 

 

「どんな異見にも、耳を傾けたほうが良い」というのは、

 

元々、ドM体質の『性癖』を持っている人に適した言葉であって、

 

そういう体質じゃない人は、無理して、全てを聞く必要はない。

 

 

 

自分の作品を嫌っている人の好み(性癖)に合わせるために、

 

一喜一憂して、がんばるよりも、

 

自分の作品を好きって言ってくれて、高評価してくれる人たちのために、

 

そして、何よりも、自分の好みをより深く味わうために、

 

がんばったほうが、遥かに、絵描きの人生は楽しい。

 

 

 

・・・というのが、俺個人の好み(性癖)である。(性癖の話かよ!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【多種多様のイラストレーター】

 

 

 

 

 

世間一般の「プロとアマの違い」は、

 

たぶん、その技量とか、それまでの努力とか、

 

もしくは、資格とか、何かすごい賞を獲ったことがある経歴とか、

 

そういう先入観で見ているだろうけど、

 

俺の中の「プロとアマの違い」は、

 

「お金を一円でも稼げばプロ」なのです。

 

そこには、技量も、経歴も関係ない。

 

「その道、30年のプロイラストレーター」も、

 

「その道、10年のプロイラストレーター」も、

 

「今年から初めてのプロイラストレーター」も、

 

「プロ」を自ら名乗り、自分のイラストを1枚でも売り、

 

お客さんから1円でもいただいたら、「プロ」なんです。

 

逆に言えば、どんなにすばらしい技量を持っていようと、

 

どんなにすごい賞を獲った過去があっても、

 

自ら「プロ」と名乗らず、「素人です。絵は趣味です。」と言って、

 

自分の絵を、1枚も売ったことがなければ、その人は「素人」なのです。

 

ずっと「素人」を名乗っている限り、その人が「プロ」になることはない。

 

 

 

はっきり言って、昔から、素人でも「プロ」顔負けなほど

 

素晴らしいイラストを描く人たちが、ゴマンといる。

 

今では、中学生ですら、SNSで自分のイラストを公開して、

 

フォロワーが増え、そのフォロワーから「自分にも絵を描いて」と頼まれるほどだ。

 

中学生だし、お金のトラブルを避けたいからって理由で、

 

その子はお金をもらわないスタイルで、フォロワーたちに

 

絵を描いてあげているけれど、もし、お金の管理がしっかりできるようになれば、

 

すぐにでも「プロ」として、やっていけるわけだ。

 

 

 

・・・ただし、「プロ」であっても、

 

その稼ぎで、生活していけるかどうかは、また別の話だ。

 

イラストレーターの世間一般の相場というのは、人や地域によって違うものだ。

 

そのへんは、ネットで調べてみてほしい。

 

そして、俺から言えることは・・・

 

相場どおりに、自分のイラストを売るべきだ。

 

「上手い、下手」とか「経歴」とか、関係ない。

 

「プロ」を名乗り、お客さんから1円でもいただくのであれば、

 

その時点で、「新人プロ」も「10年プロ」も「30年プロ」も、

 

みんな、同じ土俵に立っているのだから。

 

 


by絵描き士・大五郎

 

 

中には、「こんなに高いの?」というお客さんもいるだろう。

 

そういう人は、自分の絵の価値を、相場以下だと感じているわけだから、

 

相手にしなくてOKだ。

 

・・・ついつい相手を「お客様=神様」という対象で見てしまって、

 

相手が買ってくれる金額に合わせると・・・その後も、その金額で描くことになる。

 

そうなると、どうなるか?

 

自分の生活ができなくなる。絵だけでは食べていけなくなる。

 

相場通りでも、「買いたい」と言ってくれるお客さんこそが神様であり、

 

あなたの絵を高く評価している人たちだから、

 

そういうお客さんだけ、大切にしたらいい。

 

 

 

昨今、「イラストレーター」と「デザイナー」の違いを

 

はっきりと分かる人が少なくなった。

 

その世界で生きている人たちですら、分からない人が多いのだから、

 

お客さんとなる一般人の方々に、その違いが分かるはずもない。

 

そして、すでに分けて考えることがナンセンスだったりする。

 

「イラストレーター」は、自分の画風、タッチがあって、

 

そのままのイラストを売っている人だ。いわば、芸術家タイプ。

 

一方、「デザイナー」は、ある程度、自分の個性的なデザインは持っているものの、

 

お客さんの要望をなるべく取り入れたデザインをするのが仕事だ。

 

つまり、お客さんが納得するものを創り出す人。クリエイタータイプだ。

 

ところが、この線引きが、もう曖昧になってしまっていて、

 

イラストレーターといえども、「自分の想いのままに描いて、そのままで納品」という

 

時代ではなくなってきている。

 

俺も、お客さんの意向を汲んで、イラストを描くことが多い。

 

「お客さんだから」と、相手の意見ばかり聞いていれば、

 

まったく自分の意図しない作品を納品することも有り得る。

 

 

 

中には、まったく自分の画風と違った注文をしてくるお客さんがいる。

 

以前までは、なんとか自分で描いてあげたいと思い、

 

お客さんの満足度にこだわって、描いていた。

 

自分が描きたいものじゃない作品に仕上がっても、だ。

 

そんな仕事をこなしたあとは、ものすごく消化不良をおこす。

 

お客さんは満足したかもしれないけれど、自分が満足できなかったからだ。

 

「お客さんが満足してくれたなら、自分も満足」という人は

 

クリエイタータイプで、そのまま、続けていけばいいと思う。

 

でも、俺のように、お客さんの言うとおりに描いて、消化不良を起こすなら、

 

やり方を変えたほうがいい。

 

 

 

今や、プロもアマも含めれば、日本だけでも数万人いるとされているイラストレーター。

 

一言でイラストと言っても、多種多様なタッチがあるし、お客さんの求めている仕様も多種多様だ。

 

はっきり言って、俺じゃなくてもいいって話だ。

 

初めてのお客さんなら、俺のタッチが分からなくて当然だから、

 

ホームページやポートフォリオなどで作品を見てもらうことも必要だろう。

 

その上で、俺に依頼するのであれば、それは、

 

「だいごろうのイラストだから」という前提をもって、依頼してくれているということだ。

 

そういうお客さんばかりではないのだが、ある程度、

 

俺の絵を認めてくれているお客さんであることは確かだろう。

 

それでも、何度も修正依頼するお客さんもいる。

 

最終的には、もはや俺のタッチがどこにもない状態に仕上がる作品を求められる。

 

そうなったら・・・まことに申し訳ないが、たとえ途中まで描いていても、お断りする。

 

お高くとまっていると思われてもいい。

 

だって、もはや、それは俺の作品とは、ほど遠いものになっているのだから。

 

元から、「だいごろうの作品じゃなきゃ」と思っていなかったということになる。

 

漫画家・鳥山明さんに、「ジョジョっぽく描いて」と頼んでいるようなものなんだ。

 

それなら、最初から、ジョジョの漫画家・荒木飛呂彦さんに頼むべきなんだ。

 

なんなら、失礼にあたるようなことをお客さんは頼んでいるようなものなんだ。

 

自分にとっても、お客さんにとっても、時間の無駄になると思うし、

 

お互いに、気持ちの良い結果にならないのなら、いっそ早めに切ったほうがいい。

 

・・・ということを、最近になって、ようやく、そう思えるようになった(汗)

 

 

 

自信がないから、よくお客さんの要望を聞こうとしてしまう。

 

必要とされていたいんだ。

 

要望を言われると、求められていると感じることが出来るから。

 

でも、上記のような結果を、何度か経験したため・・・

 

今では、本当に、お断りするようにしている。

 

断る勇気も必要なんだ。

 

もちろん、断るのは、最終手段にしている。

 

初めから断ることは、あまり無い。(ゼロではないが)

 

打ち合わせしていて、話し合って、

 

求められていることが、俺に出来るのならば、可能な限り、尽力する。

 

方向が思いっきり違っていても、妥協点を話し合って探す。

 

 

 

俺の場合は、そういう仕事の仕方をしているが、

 

これが正解ではない。どんな仕事にも、正解というのは無い。

 

人、場所、タイミング、条件がちょっとでも違えば、正解は、いつでも変わる。

 

だからこそ、毎回、正解を探る。

 

だから、毎回、必死だ。話し合いの時も、作成するときも。

 

きっと、イージーな仕事なら、それはとてもつまらなくて、情熱を注げなくて、

 

すぐに終わってしまうだろう。きっと続かない。

 

やってみなきゃ、結果が分からない仕事こそが望ましい。

 

だからこそ、ワクワクドキドキして、おもしろいんだ。

 

俺は、すっかり、この仕事にハマっている。

 

 

 

 

 

先日の記事「これからのイラストレーター ①」にも書いた通り、

 

今や、「全人類、総クリエイター時代」。

 

イラストレーターは、アイディアと技術の仕事だから

 

コンピューターに仕事を取られることは無いと聞いたが、

 

ところがどっこい、最近のコンピューターは、写真をイラストや漫画に

 

瞬時に加工できるし、なんだったら、今までの偉人の作品を学習して、

 

新たな作品を生み出すことだって出来てしまう時代になってしまった。

 

そして、「アート」というジャンルは、「何でも有り」の世界だ。

 

高い画力がないと売れないというジャンルではない。

 

芸術の国・フランスへ、あからさまな道着を身に着けた無名の格闘家が、

 

「えいや!」と叫びながら、たった数秒で、墨でデタラメに書いた「書」が、

 

「アート」として認められ、その場で、数百万という値段で取引される世界だ。

 

どこかの動物園の、サルやゾウが描いた絵に、数百万という値がつけられてしまう時代だ。

 

さきほども書いたように、いくらでも替えが効くんだ。

 

あなたじゃなくてもいいし、俺じゃなくてもいいんだ。

 

イラストレーターを目指しやすい世の中に、やっとなったのに、

 

今度は、そのイラストレーターとして生活しづらい世界になってしまったわけだ。

 

 

 

それでも、仕事というのは、どこまでいっても「人と人」なんだ。

 

コロナ禍で、テレワークがどうとか言われてたけど、

 

ちゃんとした打ち合わせは、やっぱり直接会わないとダメなんだ。

 

「売る人」と「買う人」。「仕事する人」と「お金を払う人」。

 

「仕事がない」と言っている人は、ネットなんかで募集をかけるだけじゃなく、

 

ちゃんと、人に会いに行ったほうがいい。

 

俺の仕事は、ほとんど、

 

会ったことがある人からの依頼だったり、紹介によるものばかりだ。

 

今ではネットで、まったく知らない、遠く離れた人に依頼も出来るけど、

 

やっぱり、会ったこともない、得体の知れない人間に、

 

大切な仕事を依頼することって、なかなか無いものなんだ。

 

人間の本能かもしれない。

 

「会ったことないけど、あの人が紹介してくれたから・・・」

 

「この前のイベントで名刺交換してたから・・・」

 

そうやって、接点が合った人たちからのほうが、断然、依頼されやすい。

 

こちらとしても、まったく知らない人から依頼されるよりは

 

顔見知りの人から頼まれたほうが、安心する。

 

冷やかしもなく、金銭面のトラブルもなく、安全だったりする。

 

お客さんにも、そういう気持ちが働くんだろう。

 

 

 

何度も書くけど、「全人類、総クリエイター時代」。

 

替えはいくらでもいる時代。

 

こんな世界で、有名になるのは、ほんの一握り。

 

それは、昔から変わらない。

 

でも、悲観することはない。

 

誰にも、未来は分からないのだから。可能性は、低い確率でもある。諦めることは無い。

 

そして、諦めない人には、何かしら、チャンスが訪れるってこと。

 

諦めたら、そこで試合終了なのは、昔も今も同じだから。

 

ただ、有名になることは目指してもいいけれど、

 

それを目標にしないほうがいいかもしれない。

 

「チャンスがあれば狙う」ぐらいの心持ちで。

 

富や名声を目標にしてしまうと、すぐにつらくなるし、楽しめない。

 

「楽しむために仕事をしてない」と聞くけれど、

 

苦しいよりも断然、楽しいほうが長続きするのは間違いない。

 

人間の人生のうち、大半の時間は、仕事に費やされる。

 

その大半の時間が苦しみしかなかったら、ストレスで体を壊す。

 

だから、仕事に楽しみを見つけること。

 

 


by絵描き士・大五郎

 

 

「同業者の友人、知人がいても仕事に繋がらないから要らない」という人もいる。

 

同業者は、いわばライバルたちであり、

 

仕事を取り合う最悪の関係で、嫉妬の対象でしかないという人たちもいる。

 

それは個人の考え方なので、それが間違っているとは一概には言えない。

 

でも、俺は、同業者は、お互いを高め合う「良きライバル」であり、

 

同業者だからこそ、同じことで悩み、苦しみ、分かりあえる関係だと思っている。

 

ゆえに、自分に描けないタッチの依頼がきたら、そのタッチが得意な知り合いの同業者に仕事を回す。

 

逆に、仕事を回してもらったこともある。

 

俺は、そういう助け合いの仲であり、同志であるという認識だ。

 

同業者の画力に嫉妬はするし、順風満帆そうに見える同業者にも嫉妬するけど、

 

犬猿の仲になるほど他人を憎むことは無い。

 

画力は、経験や学習、練習の結果だし、

 

うまくいって見えるのは、その人の一面だけしか見えてない証拠だ。

 

その人が、うまくいくまでに、どれだけの苦労や努力があったことか。

 

うまくいっている今もなお、陰で、どれだけ大変な想いをしていることか。

 

当人にしか分からないものだから。

 

それを妬むのは、お門違いだ。

 

他人をどんなに妬んだところで、自分の人生は1ミリも好転しない。

 

他人がどんなに成功しようが、失敗しようが、自分の人生には1ミリも影響しない。

 

何度も書くけど、「全人類、総クリエイター時代」。

 

上も下も、ゴマンといる。ライバルなんて、ゴマンといる。

 

そんな中、すべての同業者を妬み、嫌い、蹴落とすことに、なんの意味があるんだろうか。

 

そんなことに時間を費やしている間に、

 

他の同業者たちは、地道に自分自身のために時間を費やし、

 

立ち止まっているあなたを軽々と飛び越えて、先へ、上へと進んでいくことだろう。

 

はっきり言って、時間の無駄だ。

 

自分自身のために、自分自身が夢中になれるものに、時間を費やすほうが

 

有意義だと思う。

 

 


by絵描き士・大五郎

 

 

これからの時代・・・おそらく、すでに依頼は分散されている。

 

有名人に集中して依頼がいくのは、世の常だが、

 

それ以外のイラストレーターたちへの依頼は、分散される。

 

安い金額設定だと、多く依頼を受けないと生活できない。

 

依頼が分散されると困る人たちが出てくる。

 

だから・・・みんな、一律で、高めの金額設定になり、それがイラストの世界の相場になる。

 

みんな一律で、同じ金額ならば、あとは・・・

 

どれだけ自分の作品、仕事ぶりを、世の中にたくさん発表しているか・・・

 

どれだけ、他人の目に触れる機会が多いか・・・

 

どれだけ、人と人の繋がりを大切にしているか・・・

 

依頼が巡ってくる確率、チャンスが巡ってくる確率は、

 

そういう些細なことで、他人との差となって表れてくるんだと思う。

 

・・・こんなふうに書いたけど、結局、売り方は人ぞれぞれ。

 

「アート」といっしょで「なんでも有り」な世界。

 

義理を欠いていても、バカ売れする人もいるし、

 

ご縁を大切にしていても、売れない人もいる。

 

有名人の成功方法をマネて、うまくいく人もいれば、

 

ぜんぜんうまくいかない人もいる。

 

正攻法なんてない世界だ。

 

思い切って、やってみて、トライ&エラーを繰り返していくしかないかも。

 

 

 

 


by絵描き士・大五郎

 

 

 

 

なんか、当たり障りない文章で、

 

もしかしたら、誰のためにもならない記事かもしれないけど、

 

今の自分が、ふと思ったことを、つらつらと書いてみました。

 

最後まで読んでくれた方々、ありがとうございました。

 

 

 

 

【自分のオタクの根源】

 

 

 

 

 

思い出せば、

 

俺は、小さい頃から絵を描くのが好きで。

 

いや、『絵』というと語弊があるか。

 

俺が描いていたのは、落書きだった。

 

でも、とにかく、それを描いている時は、無心になれたし、

 

嫌なことも忘れて、楽しかった。

 

 

 

小学生の時には、テレビゲームも好きで。

 

俺にとっては、ゲームがあったから友達がいたんだ。

 

ゲームがなかったら、誰とも遊べなかっただろう。

 

 

 

そんな俺が、中学生の時、よく遊んでいた友達が

 

「RPGツクール」という、マニアックなゲームを見つけてきた。

 

俺とそいつは、RPG系のゲームが好きだったから、

すぐに、そのゲームを買おうって話し合って、盛り上がっていた。

でも、当時、そのゲームはパソコン版しか売られていなかった。

PC本体と、そのゲームソフトを合わせた価格は、

 

当時の俺たちには手が届かないほど高値だった。

 

それでも、俺たちは、そのゲームソフトが紹介されている雑誌を

 

食い入るように読んで、家電製品店へ行って、

 

そのゲームのチラシをもらってきては、

 

そのゲームで作れるRPGを妄想して、2人で盛り上がった。

 

2人にとっては、手の届かない価格のことは、もうどうでもよくて。

 

いや、どうでもよくないけれど、

 

「いつかお金を貯めて買えばいい」という安易な考えに至っていて。

だから、2人とも「ゲームソフトが手に入ったら」っていう未来のことで

 

頭いっぱいになっていた。話し合うだけで楽しかったんだ。



それで、そのソフトでは、敵モンスターの外見も、

 

ある程度、ドット絵で自由に描けるみたいな機能があった。

だから、俺は、その敵モンスターの絵を、あれこれ考えながら

 

あれこれ参考にしながら、夢中になってノートに描いてみた。

 

その中で、美しい女性の裸体の敵モンスターも作ってみたかったから

 

自分なりに、美しい裸体の敵モンスターを描いてみたんだ。

 

エルフ、ハーピー、スフィンクスなどなど、ファンタジーに登場する

 

定番の女体だけじゃなく、スライムなんかも女体にしたら、どうだろう?とか、

 

俺は、「好きなもの」に夢中になって妄想を膨らませていた。

 

でも、それを友達に見せるかどうか、けっこう悩んだ。

 

漫画のようなギャグの裸体じゃなく、ちょっとリアルな裸体・・・。

 

ヒかれないだろうか? 拒否されないだろうか? オタク認定されないだろうか?

 

でも、今まで、その友達に自分の落書きを見せたこともあるし、

 

同じゲーム好きだし、大丈夫だろうって思って、勇気出して

 

敵モンスターのイラストを友達に見せてみたら・・・

 

「これは無いだろ。エロすぎだよ、これ。お前、溜まってんのか?」と言われた・・・。

 

その時は、とっさに、友達の口調が冗談ぽかったから、

 

それに合わせて、「やっぱ、エロすぎたかー!はははー!」って

 

ごまかしたけれど、内心は、ショックで・・・。

 

 

 

それ以降、俺が女体を描くことは無くなった。

 

描きたかったけれど、描かなかった。

 

オタクと思われたくなかったからだ。

 

友達にヒかれるのが怖かったからだ。

 

でも、俺に一番「描きたい」と思わせるのは、やはり女体だった。

 

だって、あの美しさは、男には無いものだから。

 

エロと混同してしまう部分も、もちろんあるが、

 

やっぱりそれだけじゃなく、単純に女体のラインの美しさ、柔らかさに、

 

俺は「描きたい」という気持ちを強く感じるのだ。

 

でも、それを封印してしまった俺は・・・

 

結果的に、今、女性を描くのが苦手になってしまった。

 

「そんなのは環境のせいにしているだけで、

 

友達とか関係なく描き続ければよかっただけだ」と、客観的に見たら、そう思うだろう。

 

でも、当時の俺にとって、仲のいい、遊んでくれる友達に

 

オタク認定されて、縁を切られることは、学校生活において死活問題だったんだ。

 

 

 

「では、その当時の友達が、だいごろうの絵を肯定していれば

 

現在、女性を描くことが得意になっていたか?」というと・・・

 

それは、誰にも分からない。

 

もしかしたら、とことん描いて、うまくなっていたかもしれないし、

 

もしかしたら、描くだけ描いて、飽きてしまって、

 

絵を描くことすら辞めていたかもしれない。

 

「では、当時の友達は、ウソをついてまで肯定すればよかったのか?」というと

 

それは違う。だって、それはウソだからだ。

 

俺は、友達にウソをついてまで肯定してほしいとは思っていない。

 

でも、もしかしたら・・・と思う自分がいるのも事実。

 

もし、当時の友達が、俺の絵を見て、笑ったあとに

 

「でも、この女体の絵、うまいな。」とでも付け加えて言ってくれてたら・・・

 

もしかしたら・・・苦手意識くらいは無くなっていたかもしれない。

 

すべては、意味のない想像。

 

すでに違う未来に、俺は進んでいるのだから、

 

今さら、「もしかして」と、違う未来を想像しても詮無いことだ。

 

 

 

今は、オタクにとって、とても生活しやすい環境になった。

 

それは、一見、ノーマルな人に見えても、

 

趣味がマニアックだったりする、そんな人たちが増えたからだ。

 

一言で、「オタク(マニア)」と言っても、多種多様の「オタク」がいるし、

 

そういう人たちの購買力が、

 

全世界の経済にも影響していると認められているからだろう。

 

こんなことなら、もっと「オタク」生活に、どっぷりハマっておくんだった・・・と、

 

今になって思う。本当に、今さら、なのだが。

 

今の俺は・・・中途半端な「オタク」になってしまったと感じている。

 

 

 

はっきり言って、「オタク」というのは、その道の専門知識に長けているということだ。

 

なんだったら、専門的技術もあって、いわば「職人」みたいなものだ。

 

刀の鍛冶屋も、ゲームプログラマーも、フィギュアの造形技師も、漫画家も、

 

ファッションデザイナーも、車のデザイナーも、パッケージのデザイナーも、パン屋も、

 

スポーツ選手も、アウトドア大好き人間も、書道家も、アーティストも、歌手も、アイドルも、

 

料理人も、大工も、医者も、看護師も、薬剤師も、サラリーマンも、コンビニのアルバイトも。

 

そして、イラストレーターも然り。

 

 

 

 

 

 

今では、専門学校も、大学でも学科があったり。

 

いや、昔からあっただろうけど・・・当時の俺には、そんな道があることすら、

 

まったく気づかなかったし、自力で調べることもできなかった。

 

結局、俺は・・・なんの専門知識もないまま、なんの資格も技能もないまま、

 

「自称イラストレーター」になった。

 

俺が、この職業に就けたのは、

 

イラストレーターには資格が要らないからだ。

 

だから、「自称イラストレーター」。

 

何かニュースで報じられるときは、そう呼ばれてしまうだろう。

 

 

 

・・・はっきり言って、今の若い人たちがうらやましいと感じている。

 

なんと言っても、多種多様な「オタク」が認められる世界に、ほぼ、なったと思う。

 

まだ完全な世界ではないだろうし、これからも完全にはならないだろう。

 

それは、「水と油」といっしょ。

 

人間の「好き嫌い」は、無くなることがない。

 

だから、これからの世界は「水もいいし、油もいい」という世界。

 

どちらも、この世界に、無くてはならない存在だからだ。

 

「水は好きだけど、油が嫌い。」「水は嫌いだけど、油は好き。」

 

もしくは「水も油も嫌い。」という人たちもいるだろう。

 

そんな人たちが、共感しあうことは無い。

 

今までは、たったそれだけのことで、お互いに否定して、拒絶して、ケンカして、戦争して、

 

分別されていたけれど、これからの世界は違う。

 

人間の「好き嫌い」は、「食べ物の好き嫌い」と同じこと。

 

「俺は好きじゃないけれど、あなたは油が好きなんだね。」

 

「俺は違うけど、そういう価値観もあるんだね。」

 

これだけでいい。お互いを認める、それだけでいい。

 

なにも異常な拒絶反応して、相手を否定したり、攻撃しなくてもいいんだ。

 

 

 

去年から、漫画「鬼滅の刃」が流行り、アニメも映画も流行ったけれど、

 

知人の子供は「気持ち悪くて好きじゃない」と、親に言ったらしい。

 

しかし、小学校の友達も、自分の母親も、大好きで・・・

 

仕方なく、映画を見に行かされたらしいけれど、

 

やっぱり怖くて、気持ち悪かったらしい。

 

俺としては、その子の「嫌い」という気持ちを大切にしてあげたい。

 

 

 

俺も、じつは、「めっちゃ好き」という感じではない。

 

原作は見てないが、アニメは一通り見たし、趣味絵として無惨を描いたこともある。

 

けれど、「好きでも嫌いでもない」程度だ。

 

昔の漫画でも、残酷な表現はあったけれど、

 

今の漫画のほうが、心情的に残酷な表現が多くなった気がする。

 

特に「鬼滅」は、いきなり幸せな家族が皆殺しに遭う・・・(汗)

 

自分の子供には見せたくないと思っているから、俺からは勧めて見せていない。

 

けれど、今では、どこからでも情報が流れてくる。

 

うちの子供たちは、いつの間にか

 

YouTubeに違法アップロードされたアニメをすべて見ていて、

 

「鬼滅」が大好きになってしまっている。

 

主題歌を楽しそうに歌い、「鬼滅」の落書きを描いている。

 

ハロウィンのコスプレでも、「しのぶさんがいい」ということで、

 

そのコスプレをamazonで購入してあげた。

 

 

 

子供たちに勧めないけれど、親の好き嫌いの、自分勝手な価値観を

 

子供たちに、押し付けたくはない。

 

子供が「好きだ」と感じているものを、否定したくはない。

 

でも、子供が「好きだ」と感じていても、同じように「好き」になることもない。

 

みんな、同じモノが好きじゃなくていいんだ。

 

みんなが「好き」だからって、自分も無理に「好き」にならなくていいんだ。

 

みんなが「嫌い」だからって、自分も無理に「嫌い」にならなくていいんだ。

 

自分が「好き」だからって、みんなが「好き」とは限らないんだ。

 

自分と相手の、好きとか嫌いとかの素直な気持ちを否定しない。

 

みんな違って、みんないい。

 

やっと、そういう世界になってきたんだと感じる。

 

 

 

極端に言えば、「オタク(マニア)」な人たちは、こだわりが強い。

 

でも、人間、誰しも、必ずこだわりを持っているものだ。

 

「オタク」じゃない人は、なんのこだわりもない人のことだ。

 

一般常識を、ちょっと知っている程度の、

 

広く浅い知識しか持たない人のことだ。

 

ところがどっこい、こんなふうに言い切ってしまうと、

 

大抵の「自称オタクじゃない」人たちは・・・怒るのだ(笑)

 

「自分には、ちゃんとこだわりがある!」と。

 

「自分は、そんなつまらない浅い人間ではない!」と。

 

みんな、平凡に見られたくないのかな?

 

とにかく、俺が今まで出会って、話をしたことがある人たちは、

 

例外なく、なにかしら、こだわりを持っている人たちばかりだった。

 

みんな、なにかの「オタク」だったり、もしくは、その素質を持っていた。

 

だから、「自分には何もこだわりがない」という人は、

 

ただ、自分で、それに気づいていないだけのことで。

 

そして、もちろん・・・それに気づかなくてもいいし、

 

わざわざ気づかなきゃいけないことは無い。

 

「こだわりがない」ということに、こだわっている人もいるし(笑)

 

 

 

とにかく、何が言いたいかっていうと、

 

こだわっていても、こだわっていなくても、どうでもいい。

 

「オタク」だろうと、そうでなかろうと、どうでもいい。

 

みんな違って、みんないい。

 

「どうでもいい」っていうのは・・・そんな赤の他人のことなんて、

 

みんな、「どうでもいい」感じになってきているってこと。

 

だって、時代は、「全人類、総クリエイター時代」。

 

幼稚園児からお年寄りまで、数億人の人たちが、

 

SNSなどで、インターネットを介して、自分たちの「好き」「嫌い」を表現している時代。

 

とてもじゃないけど、他人のことなんて、気にしてる場合じゃなくなった。

 

他人の「好き」「嫌い」には、共感するか、もしくは

 

「あなたは、そういう価値観なんだね」で、終了。それでいいんだ。

 

他人の「好き」「嫌い」に対して

 

「それって、おかしくね?」という議論は、まったくの不毛だからだ。

 

「食べ物の好き嫌い」と同じことだから。

 

「みんな、納豆好きなんだから、お前も好きになれ」というのは、

 

もう、余計なお節介でしかない。

 

そういう時代に、到達できたんだ。

 

 

 

俺は、もう少し、「自分は女性のイラストが好き」って、胸を張ろうと思う。

 

 

 

つづく