::「犀川先生に直接、ご相談すれば?」国枝が言った。「私に聞いても無意味ね、そういうことは」
「先生は、中国に行かれているので……」
「帰ってこられるでしょう? 来週。それが待てないわけ?」
「はい」萌絵は、初めて本心が素直に言えた。
「ふうん……」国枝は萌絵を睨んだ。「じゃあ、中国まで行ったら」
「え?」萌絵は国枝が冗談を言ったと思った。だが、相変わらず国枝は真面目な顔をしている。萌絵が何も言えず黙って見ていると、国枝はメガネを取って、デスクの上にあった布でレンズを拭いた。全く化粧をしていない。メガネを外した国枝の顔は初めてだった。






150907

 昨日に引き続き、どういうわけか、アタマを動かすとしばらく世界が揺れる。
 まさかのノー飲酒酔い。これはお酒が不要になる世界の到来だ! とか喜んでいる場合ではない。

 職場でのトラブルについては、キーを置いておいた。

>>>

 僕は物事に対して、微分積分的な手法を使う。
 たとえは人というのは複数の要素を内包する多次元配列変数のようなものだと感覚している。
 それぞれの能力や意思や欲求は複数の項目に分かれてパラメータ化され、その数値は特定の導関数によって変化する。
 単一項目で見た場合、導関数の特性は単純なものが多い。
 Aを見るとBと反応する。そういう人がほとんどである。
 Aを見て、昨日はBと反応したはずが、Cと反応する場合、この人は一日で成長したか、昨日は嘘をついていて今日は本当のことを言っているか、その逆か、そもそも両方とも嘘八百か、気分でものを答えているかのいずれかだと推測される。

 通常、人間の思考は物体ではないので、その導関数を含む配列変数ベクトルは衝突しない。
 他のいかなる導関数も関与しないし、配列変数のベクトルは、他の配列変数ベクトル(つまりは他人)と干渉し、演算する必要は発生しない。

 特定の個人の特定の状態に対して、僕は、そのポイントではなく、導関数と変数を求める。
 この作業は非言語的で、漠然としたイメージが多く、適切な答えを抽出するのに時間を要する。
 それでも多くの人を観察していれば、ある程度の一般解を導くことができる。
 ナイフで脇腹を刺されて痛くない人はいない(意識不明やすでに死んでいる場合を除く)し、嫌なことという感覚によって定義づけられたものを回避するように記憶し、また好ましい感覚によって定義づけられたものについてはそれを繰り返し再現するように記憶し、それらに基づいて行動する。

 そうした思考同士は、ときおり、物理的な衝突によって関数同士のベクトル演算が始まることがある。
 考えの違う他人同士が、たとえば交通事故などによって、それぞれの見解や視点から、自分自身の中にある尺度に基づいて「あれはこうだ」「これはこうだ」とやりとりをするわけである。

 とにかく最初はひたすら話を聞かないと導関数が分からない。
 何度も繰り返すうちにある程度のパターンが見えるようになったけれど、それでも僕自身もひとつの視点を持っていて、自分なりの見解があったために、最初はとても困難だった。
 自分のものをとりあえず捨ててしまって、そうすることでようやく見えてくるものがある。

 だから僕は自分の価値観を容易に捨てることがあるし、それはときにとても便利で、そしてときにとんでもない災難を招いた。

 導関数は、しかし試してみないとどういうものか分からないのである。
 そのためにこそ、価値観を刷新してでも新しいものに飛び込む気持ちを、僕は大事なものだと思っていた。

 自分がその導関数を取り込むことによって、新しい配列変数による演算が可能になるし、それらの相互作用も把握しやすくなる。
 多次元配列変数におけるパラメータの変化は二次元的な描画は不可能であるものの、また言語化そのものは非常に抽象的になったり、具体的にすることでかなり限定された不完全なものになってしまうため、僕は自分の感覚や予測(予感)を、うまく言葉にすることができない。

 ただ、サンプリングした関数が精細にサンプリングしたものであればあるほど、近似値よりも正確な、範囲予測よりも的確な演算が可能になる。
 そうするとAさんの意見とBさんの意見との中和点にうまく両者を導くような誘導も可能になる。
 これには本来、直接関係あるものとは全く関係のないパラメータが作用していることがほとんどである。
 たとえば自動車事故でも、ちょっとしたモノの言い方のせいで相手がヘソを曲げて示談に応じないなんてことは往々にしてあるし、ちょっと相手の立場に立って(つまり視野を広げたり、視座を高くしたり、視界を伸ばしたりするような説明をして)話をするうちに妥協点に導くことが容易になったりする。

 多分、ここまで読んでいる人も、言っている内容を理解している人も皆無だと思うので、僕が総理大臣なった暁には、全国の小学校にゲームセンタを作りたいと思います! とどさくさにまぎれて宣言しておこうと思う。

 誘導というのは、予測であるし、持っている配列変数内のパラメータの数値を相殺する演算を組み立てることでもある。
 おなじように、いろいろな物事には導関数が潜んでいる。
 僕はそれを感じることがある。

 もちろん、それが分かったときには、手遅れになっていることもあるかもしれない。
 解明より必要なこともときにはあるということだろうか。






::「私なら、行くよ」国枝がもう一度言う。
「あの……、そこまで深刻という訳じゃあ……」やっと萌絵は言葉を思いつく。
「言っていることが矛盾してる」国枝がメガネを再びかける。
「あ、はい、そうですね」萌絵は赤面した。「すみません」
「西之園さん、貴女、犀川先生が好きなの?」
「はい」萌絵は上を向いて、国枝を見る。
「あそう。それがわかっているなら、充分じゃない」
「え? どういうことですか?」
「貴女としては、それで充分だということ。何が不満なの?」それから、国枝は、視線を萌絵の背後に向けた。「コーヒー、できたみたいだよ」
 コーヒーメーカがしゅっと音を立てて最後の蒸気を吐いた。







 引用は
「第5章:追跡する疲労」(p.178~179)
From「詩的私的ジャック ~ JACK THE POETICAL PRIVATE ~」
(著作:森 博嗣 / 発行:講談社文庫)
によりました。
 



::「私……」萌絵は笑いながら言った。「明後日までは、とても待てない」






130527

 曇り。

 昨日、クリーニングに出かけたついでに(しては遠い場所にあるが)事務所に行き、自転車で帰宅した。

 妹の旦那様が家を建てたので、土曜日はその家に行き、お茶を飲んでソファで昼寝をした。
 何をしにいったのかよく分からない有様である。

 仕事の関係もあって行ったため、新築祝いなんて思いつきもしなかったのだけれど、近々また行って渡してこようと思う。

>>>

 僕はモノよりもお金をプレゼントすることのほうが多い。
 もらうほうもこちらのほうが便利だろうという、僕なりの配慮だ。

 一部に、直接お金をやり取りすることを嫌って商品券で代用するケースもあるようだけれど、僕は現金である。
 商品券は使いづらい。たいていは使う場所や使い方が限定されている。ひどい場合は使う対象まで限定されている。
 相手に対する気遣いとしては悪くないかもしれないけれど、本当に使いやすいのはやはり現金だと感じる。

 ただ、現金のやり取りを嫌う人は多い。
 お見舞い、お祝い、その他もろもろ。
 品物をやりとりする風習が(たとえば縁起担ぎなどのために)根強く残っているものもあるけれど、商品券によるものも増えたように思う。
 そのためか、カタログギフトなんてものもある。

>>>

 まったくの余談だけれど、僕はカタログギフトの類が嫌いなので、カタログを頂いても開きもしないで捨てることが多い。
 カタログよりも読みたい本があるし、カタログで商品を選ぶよりもしたいことがある。
 それに、欲しいものを「他人に与えられた範囲から選ぶ」という行為が、大嫌いなのだ。

 僕にとって、自分で使うモノは「自分で探すもの」であって、誰かに範囲を限定されたりするものではないと考えている。
 ところがそこで行われるのは「こんなものを使いなさい」というその潜在的な強要なのだ。
 もちろんそこから新しい発見があるときもある。
 ただ、他人に何かを強要する姿勢を、僕は持ちたくない。
 ものごとに「学ぶ」べきものはあっても「教えられる」べきものなどないと考える。
(意味が分からない人は、分からないままでいいと思う)

 たとえば車が好きな人に、だからといって車のプラモデルをプレゼントしても(たいてい、少なくとも本心では)喜ばれない。
 仮に実車をプレゼントしたとしても、好きなメーカの好きなクラスがあるわけで、それ以外のものはごみと一緒であるはずだ。
 中には、実車よりもプラモデルが好きな人や、エンジンが何より好きな人、メータやゲージこそを愛する人もいる。
 彼ら(彼女たち)にとって、それ以外はごみだと思う。
 すくなくとも僕はそういうセンスとその持ち主をこそ大切にする。
 何でも喜ぶような人間には、何を与える価値もないのだ。僕が与える意味さえない。

 誰かに、形の残る何かをプレゼントするのは、そのくらいリスキィで、破天荒だということ。
 本人の好きなものをあらかじめ下調べして、それ(もしくはそれに似たもの)をプレゼントしてもいいだろうけれど、それはそれで「自分で探したもの」を買ってあげるだけの行為になってしまうから、プレゼントとしてどうなのか、という気がしないでもない。
 それならば「購入する」という経験のすべてを含めて体験して貰う方が素敵ではないだろうか。

>>>

「現金のやり取りはいやらしい」という気持ちが人の心にはあるのかもしれない。
 しかしお金は、果たして、いやらしい存在だろうか。
 お金が仮にいやらしいものだとしたら、それはいやらしいことにお金を使うからいやらしくなるのではないのか。

 たとえば店でモノを買う。サービスを買う。
 このときの金銭の交換は、特にいやらしいものではないだろう。
 仮にそこで購入するものが、ちょっと人前で言うことがはばかられるようなものであったとしても。

 では、どんなやり取りがいやらしいのだろう。

 モノやサービスが介在していないときに、お金は対価としての意味を失う。
 プレゼントやお祝い、お見舞いなどはまさにそうだ。
 そこでは、喜びの気持ちや、いたわりの気持ち、感謝の気持ちを伝えたいという意思が存在する。
 それがやり取りされるものの意味だ。

 意味の媒体がお金では不都合だろうか。いやらしいだろうか。
 お祝いやお見舞いがお金であるのは今では一般的になっているから、さほど抵抗はないように思う。

 たしかに、両方がお金でのやりとりをしてしまうと、容易に相殺ができてしまう。
 お祝いで1万円もらった。
 お返しで5千円返した。
 これなら「最初からお祝いとして5千円を渡せば手間が省けていいじゃない」ということになる。
 それでも、頂いたものに対して「その場あるいは直近に、お返しをしなくてはならない」というのが儀礼上は普通なのかもしれない。

 けれども、お祝いする側になることもあれば、お祝いされる側になることもあるわけで、そんなのはどうだっていいんじゃねーの? 持ちつ持たれつで、めぐりめぐって、まわるまわるよ時代も回るんじゃないの?
 なんて僕などは思うのだけれど。

 もしも現金のやりとりがいやらしいのだとしたら、それはその「価値があからさまに見える」ことが理由だろう。
 現金の価値は数字でしかない。
 ピン札だろうと、破れたお札だろうと、(通貨としての)価値は変わらない。
 だからこそ、紙幣を渡すときは、その渡し方が大切になる。

 しかし価値が変わらない以上は、結果的に「ああ、あの人はこの金額をくれたのだな」と、数値化されることになる。
 自分や他人の価値、その気持ちの数値化を嫌うために、人は現金のやりとりを嫌うようになったのだろう。

 ただ、もしも「気持ちが大切」という概念を持ちそれを信奉しているのならば、気持ちが数値化されるなんて概念など信じるに値しないと僕は思うがどうだろう。
 100円だって百万円だって、それは単なるカタチでしかない。
 もし本当にキモチが大事だというなら、カタチなど無視していいではないか。

>>>

 僕は他人のお祝いやお見舞いばかりで、自分が祝われたり見舞われる機会に乏しいけれど、それで損をしていると感じることはない。
 祝いたくて祝っているし、見舞いたくて見舞っているのだ。
 意味に見合った価値を受け取ってもらうのだから「受け取ってくれてありがとう」という気持ちである。
 決まりに則るつもりは全くないから、結婚式やお葬式に手ぶらで行くことも辞さない覚悟だ。
 もちろん、そんな極端なことをしたことはないが、それは単に、行く価値のない場所へ僕は行かないからにすぎない。
(葬儀に上着なしのカラーシャツで出かけることはしばしばあるが、それが弔う気持ちの上で問題になるとはどうしても思えないので気にしていない)

 僕は「万障お繰り合わせ」が必要であればいくらでもするし、必要がないと感じればいくらでもしない。
 そういうポリシィだから、価値や意味を感じないことはできるかぎりしない。

 受け取る側になる場合も、遠慮も何もなくストレートに「ありがとう」と頂いてしまう。
 それが現金であれモノであれ、遠慮も疑問もなくいただいてしまう。
 そこでは受け取ることがむしろ大切だとすら思う。
 気持ちというのはそうやって、最低でも一度、ストレートに受けいれるのが礼にかない、渡す側にとっても嬉しいものだと僕は思っている。

 ただ、ギフト券は処分に困る。
 普段からお財布に入れておくものでもないし「あの店で買い物をしなくては!」という「あの店」は里にしかなく、山奥に棲んでいる僕にとって、そのためだけに里に下りるなんて果てしなく鬱陶しい。
 それに、カタログギフトも困る。
 本を開いて選んではがきを出すだけなんだから、それを受け取らないのは不義理だ! なんて伯母から叱られたこともあるけれど、それでも僕は一向にカタログギフトのシステムを利用して受け取らない。

 差し上げたものに対してお返しが来るものは、システムとして仕方ないとは思うけれど「好きなものを選びなさい」というのが苦痛だ。
 そのなかに気に入ったものがあったとしても、それは、それを見るまでは「なくても良かったもの」だろう。
 気に入るものがなかったらどうしたらいいのだろう。
「それでも何か適当に選びなさい、それが義理人情よ」と、伯母には言われそうではある(実際に言われたが)。

 欲しくもないものを受け取るのは確かに人情かもしれない。
 ただ、そんなふうにやり取りされるモノはたいそうかわいそうだ。
 それに「ああ、この人からはべつに欲しくもないものをもらったんだな」というのを関係性の記憶に上書きするくらいなら、受け取らないでいたほうが僕の精神衛生上はよい。

 ここから転じて考えれば、僕はプレゼントを「それ、好みじゃないからいらない」といわれても(捨てられても)気にしない、ということになる。
 そして実にそのとおりで、特に気にしないのだ。

 プレゼントは気持ちだ、と言われる。
 しかし、そこでやりとりするもの(媒介)は常に物質だ。エクトプラズムとか渡されても困るではないか。
 だから、気持ちを渡せたのなら、モノは捨てられても問題ない。そういう道理である。

>>>

 そのようなわけで、僕は、お見舞いやお祝いで人に渡すモノはたいてい現金である。
 おそらく(この先まかりまちがって婚姻を結んでも)結婚式はしないと思うが、するとしたら、そうとう風変わりな決まり事があらかじめ通達されるだろう。
(僕の変人ぶりを考えるに、それだけで先が思いやられるというものだ)
 すなわち「祝宴だけ開くので、お祝いはとくに必要ありません。スピーチもありません。お返しもありません。僕には両親もありません。食事と雑談しかありませんから期待しないでください」というもの。

 現金のやりとりを嫌う人は、しかし、自分できちんとポリシィがあってそうしているのだろうか。
 僕にはよくわからない。
 ただ、僕は自分のポリシィに基づいてプレゼントを現金にしているだけで、現金でなければ必ず捨てる、というものではない。
 ポリシィのある人のプレゼントというのは素直に受け取って、嬉しいし、感心させられ、発見のあるものばかりだ。
 贈られるものは確かに無難といえば無難なのかもしれないが、そこには思慮深さがあったり、その人の考え方が見えたりすることもある。

 何事についても「こうでなくてはならない」とは思わないように心がけている。
 ただ、考えなしであること、意味や価値を当の本人が見いだしていないことは(その逆ももちろん)きちんと伝わると僕は思う。

 各種の式でやりとりされる品物を見ていて、そんなふうに思わないだろうか。
 僕は、つくづくそれを感じる。

>>>

 先ほど述べたように「気持ちが大事」と声高に訴える人ほど、形式や物質に囚われすぎているように感じることが僕にはある。
 恋愛でも、気持ちや愛情などを、言葉まで使って固執している人ほど、形式や物質、言葉や肉体や関係性に囚われているように見える。
 まぁ、気持ちを計る手段がそれしかないと言われれば、言葉も出ないのだけれど。
「気持ちが大事」という概念そのものが、ひとつの様式で、ひとつの様式美として、深く考えられることもなく浸透している気がする。
 いったい「気持ちがいちばん大事」というのがどういうことなのか、考えたことがあるのだろうか。

 キモチを具現するために与えられたカタチ(あるいは形式)に固執してしまう人も、やはりいるのだろう。
「キモチがあるなら、こういうカタチになるはずだ」というような意味の言葉を、僕は職務でも何度となく耳にしている。
 たとえば「誠意を見せろ(たいていは懇願ではなく命令形である)」などがそれだ。
(正直なところ、僕は誠意というモノを見たことがなく、見えるモノとも思っていないため、そのたびにかすかな笑いや怒りを抑えなくてはならないのだけれど)

 その傲慢さに、僕はちょっと驚く。
 僕だってそうした傲慢さは持ち合わせているが、それをあからさまに他人に強要するのは、ちょっとした狂気だ。

 不思議とこうした物事は、フォーカスしたものを言葉にすればするほど、逆の方向に現象が流されるように思える。
「キモチが大事」という概念を自分の中で曖昧にしか形成していないから、他人の気持ちをカタチからしか測れないのだろう。
 カタチでキモチを測ろうとするから「カタチを重視してしまう」という逆転現象が起こる。
 そういうヒトたちは「キモチ、キモチ」と(なぜか自慢げに)言いながら、やっていることはカタチを追い続けることなのだ。
 もちろん、それが悪いとは思わない。価値観は人それぞれだ。
 ただ、僕はそういう「自分の持っている概念の逆転現象に気づこうともしない無神経さ」はどうかと思う。
 オマエらは十字軍か、という気もしてくる。

 僕は普段から「異性に求めているのはカラダだけ」と言っている。恋人にも平気で言い放つ。
 気持ちとか、優しさとか、愛情とか、癒しとか、そうしたものについて他人から施しを受ける必要などない、という気概を持って生きている。
(ありがちな誤解を多少でも回避するために、念のため付け加えるなら「セックスだけ」と言ったことは今まで一度もない)
 当然のように、そこでは「カラダだけ、と言っていたはずだが、何かがおかしい」という現象(これも逆転現象だ)が起こる。

 贈り物も同様で、それはモノを贈るのにあたって、さまざまに気遣いをするからこそ意味があるのだと僕は思う。
 相手を見ず、その気持ちを考えず、ただのお仕着せで、ルーティンになぞらえられた物が「渡される」だけならば、それをゴミだと言い切って、何の問題があるだろう。
「贈り」物が「気持ちだ」というのは、そういうことではないだろうか。
 それは「気持ち」を「渡すモノ」で示す(あるいは示せ)という概念とは、同じ現象にもかかわらず、真逆の事象である。

 実際にやってみると分かるけれど、お金を人に贈る(いかなる場合にも現金だけを贈る)というのは、これはこれでたいそうむつかしい。
 できるかぎりあっさりと、それをすんなり受け取ってもらえる人間になりたいと僕は常々思っている。
 そこには僕の気持ちや哲学があって、それを言葉ではなく感じ取ってもらえるならば、これほど嬉しいことはない。
 モノではなくキモチだ、というのなら、それはそういう意味だろう。





(初出は日付の通り。おそらく13工場のものと思われる)




::「私、先生が好きです」萌絵はすぐ言った。
「気持ちと思い込みは違う」
「私と結婚して下さい」
「いつ?」犀川は笑いながらきいた。
「いつでも、いいわ……。今でも……」
「今はできないね」
 犀川は車をバックさせる。彼の前髪は窓から入る風で揺れた。
「何故ですか?」
「酔っ払ってる君を、送っていかなくちゃいけないから」
「じゃあ、明日」
「さっき、言っただろう? 明日は東京に出張なんだ」
 萌絵は笑い出した。







引用は
「第9章:思考の道筋」(p.365~366)
From「詩的私的ジャック ~ JACK THE POETICAL PRIVATE ~」
(著作:森 博嗣 / 発行:講談社文庫)
によりました。
 


 4時頃に白猫に起こされる。
 どうも最近うるさい。
 とりあえず鳴いているふしがある。
 それも、わめくように鳴く。
 そういうものだ、と思われると困るので基本的に無視しているが、身体を動かしたり、声の様子が少し違うときがあって、そういうときは意味があるので対処する。
 どうやら、眠っているときでも同じように反応するようだ。
 
 おかげで5時は寝過ごす。
 
 0730起床。
 
 
 
 僕は子供の頃、とても恐がりだった。
 暗闇がこわかったし、一人がこわかった。
 
 そしてあるとき(正確には7歳の5月)「こわいと感じないようになりたい」と思った。
 
 それから半年くらい経ったある日、ふと気がついてみると、以前恐いと感じていた状況に対して、まったく恐怖を感じていないことに気がついた。
 気がついたのはよいが、それはそれでつまらない、物足りないと感じたので「やっぱりこわいと感じるようになりたい」と思った。
 
 それから半年くらい経ったある日、ふと気がついてみると、元どおり、恐いと感じるようになっていることに気がついた。
 
 結局、恐怖心が強いのは何かと不便なので、今は「こわいと感じないように」なっている。
 
 おそらくそれが、僕が自分の感覚や価値観をコントロールした最初だろう。
 意図的で直接的なコントロールでなかったにせよ、自分の意志で、自分の感覚や意識を通して、世界観を変えるというそれは。
 
 何事でもそうだ。
 もしも仮に「認められない」「許せない」「理解できない」という事象があったとしても、それが単一であれば(複数で、複雑に絡み合っていなければ)半年くらいで認めたり、許したり、理解することはできると僕は思う。
 これは学問の単一項目についてもそうだし、他者の価値観や立場、感情や感覚についてもそうだ。
 
 ひとつ、たしかなことがあるとすれば、僕たちは常にそういう選択肢をもっている、ということであり、それと同時に、そういう選択肢を忘れがちだ、ということだろう。
 
 
 
 僕は17歳の頃、恋人に質問されると、20分も30分も答えられないことがよくあった。
 特に電話のときに多かった。
 質問の目的が分からなかったり、質問の意味が分からなかったりして、ひどく文句を言われたこともある。
 おそらく、答えが出るまでひどく時間がかかるので、彼女は「自分は相手にされていないのではないか」「バカにされているのではないか」と思っただろう(実際にそう怒られた)。
 彼女にとっては、とても当たり前の質問で、また答えも(おそらくはいくつか)容易に予測していたと思う。
 けれども、僕には、そういった感覚系や思考系が、まったくなかったのだ。
 
 やがて3ヶ月もすると、彼女は諦めたのか、何十分でも待ってくれるようになった。
 僕が、ぽつり、ぽつりと、与えられた言葉から分かる範囲で認識し、理解した内容を、それに対する自分の考えを言うと、うん、うんと、ただ聞いていてくれた。
 場合によっては、自分の言い方を途中で訂正してくれて、そうすると、そこからまた5分くらいは考え込むことになるのだが、それでも辛抱強く、待ってくれた。
 のちに、彼女は「そうしてでも聞く価値のある答えだった」と言っていた。
 僕にしてみれば、僕のもっている感覚や価値観を言っただけなので、逆にいぶかしく思ったものだ。
 
 
 
「脊髄反射で」とweb上で語られることがある。
 誰かの言葉に対して、その場で解釈して、反射的にレスポンスすることをいうようだ。
 
 もちろん「問題そのもの」に対する応対としては、決して間違った対応だとは思わない。
 けれども、人に対する応対としては、あまり褒められる行為ではないと僕は思う。
 
 本当に大切な人や事柄に対して、人間は、かならず一定の間をとる。
 たとえば「あなたが生きる意味について教えてください」と言ったときに、間髪あけずにベラベラ喋るような人間を、僕は、仮に頭が良いと思うとしても、人間としては信用できないと判断すると思う。
 そのひとつの質問は、いくつもの想いや願い、挫折や絶望、希望や意志、想い出や記憶を呼び起こさないではいられないだろう、と僕は想像する。
 それら、いくたりの時間と、いくつもの思考が並列する中で、単一の回答を、単純な言葉として発することは、本当はとてもむつかしい。
 本当はとてもむつかしいことを、いとも簡単にするのは、とてもアタマがよいか、いつもそれを考えているか、のどちらかだ。
 
 しかし、生きる意味とは不思議なもので、とても大切なことのわりに、いつも考えていることはできない。
 それをいつも考えることは、すなわち「生きること」そのものではないからだ。
 まともに「生きる」というのは、生きる意味を考えるヒマもなく生きる、ということだからだ。
 
 たとえば恋愛でも「あなたにとっての私の存在の意味について教えてください」と言われたときに、僕が本気で答えるとするならば、いくら待っても、言葉では答えないだろう。
 僕は一生かけて、言葉以外で答えるだろう。
 それが、その人が存在する、意味だから。
 
 
 
 人間は生きていると、言葉を求められることがある。
 それは仕事でもそうだろうし、恋愛でもそうだろうし、友人関係でもそういうことがあるかもしれない。
 しかし、本当に大切なことには、言葉で答えてはいけないと僕は考えている。
 また、本当は、言葉では、答えることも、教えることもできないと考えている。
 
 確かに、自分にとって不鮮明な事象に対して、人間は他人や当事者に説明を求めることがある。
 けれども、説明で理解できることは、まず、ない。何も、ない。
 それは、説明を求める立場の自分にも、あるいは、説明をする立場の自分にも、当てはまることだ。
 言葉で説明できることならば、そもそも不鮮明な事象にはならない。
 言葉で理解できるならば、そもそも不鮮明な事象にはならない。
 
 それを、簡単に説明したり、理解したりはできない。
 きちんと説明しようとすれば、ものすごく時間がかかるし、きちんと理解しようとすれば、ものすごく時間がかかる。
 
 僕がニュースを見ないのも、そういう理由だ。
 政治家の言葉も、ニュースの言葉も、芸能レポータの言葉も、心がこもっていない。
 心がこもった言葉というのは、いつも沈黙が混じっているし、その沈黙を、聞き手の心が代弁しなくては成り立たない。
 そういう関係性を補完するためにこそ、言葉があると僕は思っている。
 
 そして同時に、どこまでも、言葉は、補助的なものでしかない。
 それは行動の、あるいは表現の。
 
 人間は、自分以外の誰かに、言葉を、説明を求めることがある(僕はないけれど)。
 そのときに、理解する、その結果や解釈については、言葉を発した相手ではなく、それを聞いて受け止める自分自身に多分の選択肢がある、ということを忘れないようにしたい。
 
 
 
 23時半就寝。



(初出:2009/03/26 第6工場だった気がする)
 


::あの電話ボックスに、いったいわたしはいくらお金を投入したろう。それは、わたしのよろこびも悲しみも知りつくした電話ボックスだったに違いない。

::最後にあの電話ボックスにコインを入れた時のことも、よく覚えている。季節と、天気は、なぜだかうまく思い出せないのだが、二つだけ、はっきりと覚えている。
 一つは、電話ボックスを出たとき、自分が泣いていたこと。もう一つは、電話ボックスを出たとたんに、猫が肩に飛び乗ってきたこと。
 悲しい電話だった。傷つけて、傷つけられて。失って、けれどあきらめきれなくて。
 ボックスを出て、悄然とたたずんでいたその刹那、猫が肩に乗ってきたのだ。ぽとんと。なんでもなく。
 猫は「にい」と鳴いた。暖かかった。三毛だった。生まれた時からの、そこが定位置であるかのように、猫は私の肩でくつろいだ。
 ああ、終わったんだ。猫に乗られながら、そう思った。
 もう、おしまい。さよなら。しょうがないよね。
 しばらく猫は肩にとまっていた。何回かまた「にい」と鳴いた。あきらめがわたしの体じゅうにゆきわたったころ、猫は飛び下りた。そのまま夜の中へ消えていった。
 その電話ボックスを使うことは、二度となかった。あきらめることはできたけれど、やっぱり悲しかったから。
 今も、あの夜のことを思うと、かすかに胸がしめつけられる。しなやかに飛ぶ猫を見るたびに、淡い悲しみがこみあげてくる。
 




 先日、ある女の子とファミコンの話になった。
 なんでも、最近、ファミコンでスーパーマリオをしているらしい。
 でも、彼女は、「【普通の】マリオブラザーズ」を知らないらしくて、では、僕の持っているのを貸してあげるよ、と言ったのがことの始まりだ。
 
 結果からいえば「マリオブラザーズ」のカセットは、なかった。
 けれども、僕があのカセットを捨てることは絶対にない。そう断言できる。
 だから、きっと、友達に貸しているんだと、今この瞬間も、僕は思っている。
 
 
 
 僕がここで言っているファミコンていうのは、あの旧式な方法でTV映像入力に介入する、ファミコン(いうなれば1stジェネレーション。ちなみに彼女が持っているのは、きっとAV出力する比較的後期のモデルだろう)であり、僕がそれを初めて手に入れたのは19歳だった。
 
 僕は子供の頃はヘビーなゲーマだったので、7歳の頃にお茶の間を席巻した「任天堂ファミリーコンピュータ」が俄然欲しくてたまらなかったが、諸般の事情により、とうとう手に入れることはかなわぬまま、SEGAのMarkⅢを手に入れたり(10歳)、PCー8801MAを手に入れたり(12歳)するような、数奇な運命をたどった。
 
 きっと、僕はしゃべりすぎたんだと思う。
 マリオブラザーズがどんなゲームで、それがどんなに楽しいゲームか、について。
 
 端折ってしまえば、彼女に言われたのだ。
「何でも捨てちゃうのに、ファミコンとカセットを大事にしてるなんて、らしくないね」
 
 だからといって、19歳でようやく手に入ったファミコンに対して、僕の思い入れがあったわけでは、実は、まったく、ない。
 
 僕はそれからまもなく(20歳の秋)プレイステーションを購入したし、人生でもっとも面白かったゲームは? という質問に対しては、きっと「パンドラプロジェクト(プレイステーション)」とか「スタークルーザー(PC-8801版)」とか「ICO」「塊魂」「ARMORED CORE」と答えるだろう。
 
 マリオブラザーズは、ゲーム単体として考えれば、決して、最高に面白いものではない。
 でも、僕には(レガシィハックな接続の)ファミコンと「マリオブラザーズ」のカセットを、捨てることはできないだろう。
 
 
 
 ある日、友達が、ファミコンを持ってきた。
 僕は19歳の、今風にいうとニート(当時はプータローといわれた)で、彼は浪人生だった。
 その春から僕らのアジトと化した、僕の部屋に、ある日突然、彼は現れた。まるで映画の浪人のようだった。
 彼とは長いし、長かった。
 
 9歳の頃から親しくなって、13歳から親密になって、15歳の春から、とんと会わなくなった。
 漠然とした焦燥や無力感、軽薄な絶望とか気持ちの足が動かない不安とかを、窓から流れてくる生ぬるい風がかき混ぜる。
 そんな午後に、なんの前触れもなく、自転車のブレーキの音の直後に、彼の顔が窓から覗いて僕のあだ名を呼んだのである。
 それは実に3年ぶりに。
 
 話せば長い。
 
 つまるところ、僕にとっては、マリオブラザーズは、その「長い話」のすべてだ。
 ひとことでは語れない。
 
 陳腐な言い回しを使うならば、僕と彼との歴史であるとか、関係そのものであるとか、記憶とか、想い出とか、そういうことになるかもしれない。
(でも、本当は違う。ぜんぜん違う)
 
 お金がないから、二人でゴールデンバット(当時は20本入り90円だった)を買ったり、紙パックのジュースを分けて飲んだり。
 ポッカ100レモンと砂糖でレモンジュースを作ったり。
 あいうえお作文で何時間も笑いあったり、厚紙で作ったチェスセットで遊んだり。
 そんな、くだらない記憶の中に、彼と一緒に、自転車で、マリオブラザーズ(もちろん中古)を探し回って見つけたそれは1600円もして(スーパーマリオは、当時400円くらいだった)、どこの店に行ってもだいたい同じ値段なので、ひーひー悲鳴を上げながらお金を出し合って買って、何日も何日も、協力プレイしたり、対戦したりして、指が痛くなってそろそろよそうか、なんてどちらからともなく言い出したりしては煙を吐き出したりしていて、またやりだしてはどうにもならないくらい笑い転げて何度も窒息しそうになった記憶があって。
 
 僕はいろんなものを捨ててきたし、これからだって、要らないものは次々捨ててゆくだろう。
 手放すことが生きることだと僕は思っているし、手に入れることはその入り口だと思っている。
 手に入れることが「欲求」ならば、手放すことは「都合」だ。
 ネットオークションとなんら変わらない。
 
 欲求に従って、僕はいろいろ手に入れてきたし、都合によって、いろいろ手放してきた。
 使えるけれど、不要になって捨てたものもあるし、壊れて、使えなくなって捨てたものもある。
 
 
 
 彼との関係は、どっちだったんだろう。
 分からないけれど、僕はその関係を、捨ててしまった。
 
 もちろん、関係といったって、ただの友達関係だ。
 利害はなかったし、あってはいけない関係だった。
(少なくとも、僕は、友人関係を、そう思う)
 
 
 
 使いもしないし、使えもしない、旧式のファミコンを、家の目立たない片隅に仕舞って。
 肝心のソフトは、きっと彼に貸したままで。
 
 おそらく僕は、使えもしない、何の役にも立たないその記憶を、どうしても捨てられないまま、生きていって、きっとそのまま死んでいくんだと思う。
 
 超えるもののない名作のゲームを、僕はいくつも知っている。
 マリオブラザーズは、シンプルだけれど、それだけでしかない、一般的に考えて名作と呼ぶことはむつかしいであろう、たいしたことのないゲームなのだ。
 
 でも、こんなに、飽きもせず、笑ったり、泣いたり、どきどきしたり、嫌な思いをしたり、せつない気持ちになるゲームは、他にない。
 僕は、マルチプレイのネットゲームをしたことはないし、これから先も、きっとしないだろう。
 もちろん、それが悪いとかつまらないとかではない。
 ただ、コントローラが2つしかなくて、それを友達と交代してやったり、友達同士がそれをやっているのを見るのが、どんなに幸せで楽しいことか、僕は知っていて、その楽しさにこだわって、比較してしまう、セコくて器の小さい人間なのだ。
 
 そしてそういう楽しさは、部屋にゲーム機があれば、そのゲーム機がありさえすればできるというものではない。
 (TVゲームに限らず)ゲームというもののある部屋にうまれる、人とのぬくもりは、ゲーム機の排気からは、けっして感じられない、ある意味でとても贅沢なものなのだ。
 2つしかコントローラのないゲーム機を、僕は永遠に祝福したい。
 あれこそが、完璧なスタイルだと。
 
 
 
 
 
 追記になるが、僕はあれ以来、自分の「都合」というものを、なるべく排除するようになった。
 日本語でいうと「自分の都合はおかまいなし」だ。
 
 自分の都合というのは、自分の欲求にも似ている。
 でも、都合や事情は、ポジティブな欲求ではない。
 
「都合」の名のもとに、僕たちはいろんなものを手放してゆく。
 手放すときに、それの本当の価値が、本当に分かっているのかどうか、少なくとも僕にとっては疑わしい。
 
 彼との関係を手放したことを、後悔しているのかといえば、そんなことはない。
 持ち続けるには、それはすこし、痛すぎた。
 ファミコンと、カセットと、それに付随する、楽しい記憶だけを持っているのさえやっとだったから、目立たないところに仕舞っていたのだろう。
 少なくとも、今までは。
 
 マリオブラザーズ。
 またやりたいな。






::返してよね。
  この世の終わりなんかじゃない。
  だから、貸したお金、返してよね。
::も~~~、がめついんだから~~。







 冒頭引用は
「高井戸・その3」
(From 『此処彼処』 著作:川上 弘美 / 発行:日本経済新聞社)
 
 文末引用は
「何もするな」
(from『20世紀少年(22巻)』 著作:浦沢 直樹 / 発行:小学館)

 によりました。

(初出:2009/05/05:第13工場よりデータを復元)
150906

 曇りのち雨。
 どうも訪問者数を確認するに、僕が今日も何かを書いているのではないかという一握りの読者(片手でカウントできるレベル)から、そこはかとない期待を寄せられている気がする。
(このところ駄文しか書いていないですよー、と言いたい)
 そんな心の声をぐっとこらえて、今日も更新をする気持ちを整えるのであった。

 すなわちこれ読者サービス。

 わざわざ閲覧者が少なくなるように最大限の工夫をしているくせに、いやだからこそ、読者サービスをするこの私のサービス精神の満点さよ。

>>>

 身体のようすが少しおかしかったので、体重計に乗ったところ、55kgを下回っていた。
 なんだかこのところ、身体が軽いなぁ(重く感じないなぁ)と思っていたのだけれど、なるほど、体重が減っていたのである。
 しかし上限体重68kg(多分、骨格が変化したので72kgくらいまでは大丈夫だと思うけれど)、適正体重63kg(自転車に乗る骨格と筋肉のバランス点)から考えると、10kg近く少ない。
 まぁ、今年に入ってから自転車に乗った日があったかどうか覚えていないので、無理もない話ではある。

 考えてみると朝から水しか飲んでいない。
 絶食をしているわけではないものの、昨日「そろそろ補給しないと」と思ったのは、夕刻頃だったのではないだろうか。

 ということで、慌てて買い物に出かけて食事をする。
 もうここまでくると「補給」と呼ぶにふさわしい気もする。

>>>

 以前「ヒツジ色の月」というお話を書いたことがあって(いまはどこにもないのだけれど)その登場人物に、病気の女の子が出てきた。
 その女の子の台詞に
「人間同士でなぐさみものにしあう環境で生まれ育った人は、どこまでも、他人も自分自身もなぐさみものにしようとし続ける。きっとそういう人たちは、なぐさみものにしあうことでしか自分や他人を認識できないの。そういう考え方や行動しか知らないから。そのいずれもが私は大嫌い(そうとうおおざっぱな意訳)」
というものがあったような気がする(正確なことは確認するすべがない)。

 ちょーテキトーなことを(今)書いた気がするけれど。

 でも、確かに、そういう人は存在する。
 もちろん、日常生活を送る上では何の支障もないし師匠もない。
 死傷も刺傷もししゃももない。

 それでも、誰かのなぐさみものにされてきたと感じている人は、ときに誰かをなぐさみものにすることを自分に許すものだし、あるいは誰かのなぐさみものにされることに人間関係のようなものを感じるのかもしれない。つまり、価値があると思うのかもしれない。

 今日はアタマが働かない(頭痛がしてまっすぐ歩けなかった)のでこれでおしまい。

 See you next week. Bye-bye !
(ラジオの終わりふうにキメた)
 


::「んー、言いたいことは分かんなくもないけどさ。例えば、【秘密を知ってるクラスメイト】くんにも、死ぬまでにやりたいことはあるでしょう?」
「……なくはない、かな」
「でも今、それをやってないじゃん。私も君も、もしかしたら明日死ぬかもしれないのにさ。そういう意味では私も君も変わんないよ、きっと。一日の価値は全部一緒なんだから、何をしたかの差なんかで私の今日の価値は変わらない。私は今日、楽しかったよ」





150905

 最近になってようやく思い出したのだけれど、僕は子供の頃から、アドレナリン過剰分泌体質なのであった。
 眠れないこと(眠くならないこと)がほとんどで、食欲をほとんど感じることがなく、急にスイッチが切れたように眠る。
 いちど眠り始めると、こんどはこんこんと眠る。
 24時間起きていたかと思うと、こんどは18時間くらい眠り続ける。
 夏休みなど、12時間起きて20時間くらい眠っていたと思う。眠ってばかりではないか。

 一般的な反応なのか分からないのだけれど、僕の場合、アドレナリンによって空腹が分からなくなる。
 身体は当然栄養が足りなくなるらしく、時折、立ちくらみを起こす。
 ひどい場合は貧血で倒れるが、これは子供の頃に一度あったきりだ。

 非常に高い集中力を発揮することがあるものの、ぶつっと途切れて気絶するのはそういう体質的な背景もあったのだろう。

 最近気がついたのだけれど、栄養が足りない状態になると、当然ながら人体は、自分の体組織を分解し始める。
 これがじつに文字通り身体を蝕む感触であり、というのはおおげさで、単に供給不足のところに供給をするための消費を行うので、非常に身体がだるくなることがある、ということ。
 もちろん、たいていはアドレナリン反応によって打ち消されてしまうものの、ひとたび集中が途切れると、ぱたりと倒れて眠る。
 こんこんと眠り続けていたことが、かれこれ10年ほど前にあったけれど、あのときもこんな感じだったのかと思い出す。

 僕はあのとき、確かに餓死しかけたと思う。
 眠りに落ちれば、ただただ身体が自身を解体しては燃料にして、それによって疲れて眠ることができた。
 ただただ眠っていたのだ。

>>>

 そういう理由からか、僕は周囲の人間から、自殺しやすいタイプだと思われているフシがある。
 いや、たぶん理由は違うと思うけれど。
 そもそも、僕が餓死路線にいたことを知る人はほとんどいない。
 ブログを読んでいる人くらいではないだろうか。
 つまり、どれもこれも嘘であり、僕の狂言である可能性もある。

 先日、TU(10代からの古い友人である)と、仕事以外では1年ぶりくらいに電話で話したのだけれど、その際、3年間会う機会もほとんど作らなかったものを「じゃ、今度、遊びに行くよ」と言う。
 あまりにも言う。
 あまりにもしつこく言うものだから、何かの冗談か何かと思っていたら、まことに冗談だったらしくまだ来る気配はない。
 さすがである。

 妹も、やけに頻繁に食事に誘うようになった時期があった。
 そうこうしているうちに、伯母が吐血して倒れ意識不明で入院してしまったから、会う機会もできた。
 叔父もいよいよ具合が悪くなっているらしいが、詳しいことは知らない。
 僕の家系はみな短命なので、比較的ふたりは長生きをしていると思う。

>>>

 僕が自殺しそうなタイプに見える理由を、ちょっと考えてみた。
・痩せている。
 (痩せている人は、神経質/打たれ弱いなどと認識されやすい)
・自他の生命を軽んじているような発言をよくする。
 (極論になればいたしかたないと思うのだけれど、そうでなくても僕は生命を生命活動という現象として認識しているので、生命に対する倫理観には欠けるかもしれない)
・目に生気がない。
 (目が細いから光が入らないだけだ、ばかにすんな)
・動きが遅い。
 (本気で速く動くと残像さえも消えているのだ、ばかにすんな)
・意志が感じられない。
 (それはかなり控えめなのかもしれないし、あるいはすでに死んでいるのかもしれない)

 だいたいこんなところだろうか。
 おおよそ理由としてふさわしいかどうかは別にして、思いつきで列挙してみたが、どうだろう。
 こんな人間が自殺するようには、僕には思えないのだけれど。

>>>

 アドレナリン分泌過多によって、不便がないかというとそんなことはない。
 肉体的にも正常なリズムが狂いやすくなるし、精神的にも安定しない。
 そのような背景もあって、僕は自身をより安定させるために青猫工場を作って、仮想猫型人格をいくつも設計し、全体のバランスを取った。

「あなたの情緒は役に立たないし、あなたの書く文書には何の価値もない」とあっさり一刀両断にする人もいる。いままでどのくらいいたものか。

 僕はたびたび失敗を繰り返し、他の人の言うところに従って、僕の情緒反応を減少させたり(そんなスイッチのようにオン/オフができるものか、という人もいるとは思うが、僕に言わせればその程度のこともできないの? といったところである)、文書を書くことをやめたりした。

 結果、工場には生態系を破壊された湖に浮かぶ魚のごとく累々たる猫の死体が横たわり、Nine lives の名の通り、9つの尻尾を持たされた猫的なサムシングさえ、かろうじて息をしているかどうか、といったところである。

 工場の中は荒れ果てて、もはやそこから何かを作り出すことなどできそうには思えない。

 人によって、仮想人格などばかげている、仮想猫など存在しない、仮想工場などといった実体のないものにどれほどの意味があるのかと嗤うことだろう。

 でも、人は自分の心理をして「ムードがどうの」とか「モードがどうの」と言う。
 それは目に見えたり、スイッチで切り替えができるのかと尋ねたいものの尋ねないのは、僕もオトナだからである。

>>>

 今日、職場で知ったことだけれど、僕は職場で完全に孤立しているらしい。
 浮いている、というレベルをとうとう超えた、ともいえる。
 今ふうにいうと「浮きすぎ」ということになるのだろうか。多分ならない。
 浮いている、というのは現象を観察する分には、抜きん出ている、と考えられなくもないが、実情はそんなはずもなく、単純に浮いている、つまりは「つまはじき」にされているらしいのではある。

 まぁ、お友達を作るために仕事に出かけているのではないし、ほとんど孤独な作業で終わってしまうから誰が私をどのように思っていようと(私の本質や私の職務に対して)特に問題はない。

 どういうわけなのか、僕は子供の頃から誤解されることが多い。
 好意的に誤解されることもあれば、悪感情的に誤解されることもある。
 一時は、誤解を解こうと弁明すればするほど誤解が拡散し、深くなったので、とうとう諦めた。

 人間はどうやっても勝手に解釈するし、他人の書いたものを勝手に読んでとやかく思うのであり、書いた人のことや事実関係についても、とくに自分の足で取材などせず勝手に理解するのである。
 事実や背景や全容なんてものは関係なく、本人の気に入らない事象にただただ反応して言葉を並べて騒ぎ立てる。

 ちょうと Twitter などがそうかもしれない。
 多くの人は、何かを発信するのではなく、何かを作るのでもなく、ただただ反射して、反応している。
 少なくとも僕にはそう思える。
 Y!ニュースのコメント欄を見よ。きちんと全体を見渡して意見を述べている人はほとんどいない。

 僕が驚くのは、そうした「考えもせず反応する」タイプの人間が、僕の想像以上に、僕の身の回りにいることだ。
 新しい発明も、発見もしようとせず、何かを作ることもせず、自分の目で何かを確かめ、検証するわけでもなく、ただただ他人を指さして嗤っているわけである。

 昔、TVを相手に文句ばかり付ける人が僕の周囲にいた。
 それを見て、僕は「ああ、こんなふうになってはいけないな」と感じたものである(遠い目)。
 メディアが変わったけれど、コンテンツはさほどかわらず、そして今ではメディアに無駄な反応が大量に(コンテンツのフリをして)流れるようになった。

>>>

 系というのは、大きな流れと小さな渦によって構成されている。
 川などがいい例だ。
 渦というのは、その場でできる、系の中のより小さな系である。

 サイクルはその中に必ずといっていいほどより小さなサイクルを持っているものだし、より大きなサイクルの中に存在している。
 なにかひとつのものがあったり、人がいたり、関係があった場合には、そこに小さな部品が含まれていて、より大きなシステムのなかに存在している。
 そういうことを理解していないと、人は容易に系を破壊するし、破壊された系を修復するのは容易な作業ではない。

 自然環境、という系があったとして、そこには人間も含まれるし、そこに自分も含まれる。
(実際には宇宙も含まれるはずである)
 伸びる鼻毛も自然環境であり、眠れる僕もまた、大自然とはいわないまでも、小自然くらいには属しているのである。

 系に関する感覚は言語化できないわけではないけれど、実のところ、これは純粋な感覚であり(たとえ相反するものであったとしても)自他を含む存在をひとつのものと認識することは、人の情緒の根幹そのものにも大きく関わっているように思う。
 もちろん、そんな感覚は、デジタル化が不可能であるが故に、徐々に消えつつあるのかもしれない。

 インターネットで検索しても、答えが出てこない疑問や感覚を、僕たちはどれほど知っているだろう。

 系を感覚できなければ、人間はどんどん鈍感になってゆく。
 系の構成則をまったく理解していない人間は、ある種類の馬鹿だと僕は思っている。

>>>

 僕は自分の作った青猫工場の中に、さまざまなものを見ていた。
 それは僕自身であり、僕以外でもあったし、誰でもなく、何者でもないものでもあった。







::でもそうだ、彼女の言った通り、僕だってあと何度この道を歩けるのかは分からない。彼女の見る道の色と、僕の見る道の色は本当なら違ってはいけないんだ。




 引用は、
「君の膵臓をたべたい」( 冒頭部 p.13 : 文末部 p.14 )
(著作:住野 よる / 発行:双葉社)
 によりました。
 

 

 

::ある現象について私たちが入手できる情報は,現象全体から見ればきわめて限られた「ある瞬間の部分的な情報」であるのが普通である.人間は,全体を全体のまま一度に理解することはできないからである.
 ならば,どうしたら全体を理解できるのか? 入手可能な「ある瞬間の部分的な情報」を活用して知るしかないのである.微分方程式は,そうした「ある瞬間の部分的な情報」を量的な関係で表現し,現象の全体像を描く数学的な手法である,ということもできる.
 ただし,ここで注意してほしいのは,「ある瞬間の部分的な情報」は,たんなる断片的な情報ではない,ということである.じつはここに,微分方程式の大前提がある.微分方程式が活用する「ある瞬間の部分的な情報」は,「現象全体を支配する法則を反映した情報」なのである.

 

 

 

 


 

 

 

150903

 

 

「私には(どこにも/だれも)味方がいない」という発言を、これまでの人生で4回ほど聞いたことがある。
 彼ら/彼女たちが、どのような経緯で、どのような理由で、どのような心理から、どのような背景原理が働き、何を求めてこんなことを言うのか、僕には分からなかった。
 もちろん、今も分からない。

 

 

 最初こそ「おお、そうであったか。おぬしには味方がいないのであるな」と思ったものの、それは大間違いであることが(数年を経たのち)分かる。
 彼女(最初にそれを私に言ったのは女性である)には、実に味方がいた。
 それほど多くはなかったかもしれないが、ひとりやふたりではなく、深く繋がる味方が、いた。
(インディアン風にいえば、3つ以上は「いっぱい」である)

 

 

 僕はとにかく驚いた。
 当時の彼女の言動の多くは、味方がおらず、孤立無援であるという意識がにじみ出ていた。
 今だからはっきり言ってしまえるが、単なる「ヒロイズム酔い」である。
 しかし実情が分からない以上、駅で突然、嘔吐し始めた人が単なる酔っ払いなのか、それとも別の病気などの理由で具合の悪い人なのか、それは分からないのである。

 

 

 そこで僕は考えた。
 そもそも「私には味方がいない」なんて言葉を、僕はまず口にしない。したくないし、できない。
 いや、すればできる訳だから、できないわけではないのだけれど、やはりすることはできないと感じる。
 なぜか。
 味方がいる人間は通常「私には味方がいない」なんて言わない。
 味方がいるのにそんなことを言えば嘘になる。

 

 

 すなわちその味方との「信頼」など存在しない。
 さぞやその嘘で塗り固めた信頼は、金メッキのように薄っぺらく光輝いていることであろう。
 その「味方」とやらは、いいように自分の姿を取り繕うための道具であり、慰みものとして利用されるだけである。

 

 

 味方をばかにするな、と思う。
 当人がその場にいるとかいないという問題ではない。
 味方や友達というのは心の中に棲むイキモノである。
 最後の最後、何もなくなってしまったときにでも、むしろそのときにこそ、心の中で自分を支え、励ましてくれるイキモノである。

 

 

 味方であるはずのところの人間を「味方ではない」とどこかで少しでも思っているならば、それは味方などではない。
 もちろん、その発言者当人も、味方同士などではない。

 

 

 一方、味方のいない人間ならばどうだろう。
「私には味方がいない」なんてことを、いったい誰に言うのだろう。
 僕ならそんなことは言えない。味方でない人間に言うのは、あまりにもさもしい。
 味方予備軍(そんなものがあるのか?)に言うのも、ずいぶんではないだろうか。
 味方に言っているとしたら、もはや金メッキの信頼関係は消失している。

 

 

 そのため、僕は「味方がいない」なんてことは、口が裂けても言えない。
 僕の味方をしてくれる(くれている/くれるであろう)人に失礼であるし、味方でない人に言う必要はない。

 

 

 これらの(きわめて限定的な)考察から、
「わたしには味方がいない」と平気で言える人間というのは「自分のことしか考えられなくなっていて、しかもその自分に酔いしれている」だけの少し可哀想な人だと分かる。
 もちろん、これは状態であろう、と思う。思いたい。思えたらいいと感じる。思えるんじゃないだろうか。思うことができたらどんなにいいだろう。思ってもいいのではないか。

 

 

 いや、無理だ。

 

 

 この特性は、生命の本能に起因している。
 本能が強ければ、結果的にそれは発露する。
「自分のことしか考えられない病」がもともとあるところに発作が起こって「私には味方がいない」と発言するのである。
 なぜならば、自分が自分のことばかり考えているからこそ、他者も「自分のことしか考えていない」と思うし、他人は自分の味方などしてくれないと考えるのである。
 自分がそういう病気だからこれは仕方ない。

 

 

 そうでなければ「味方がいない」なんて発言はできないのではないだろうか。
 自分がいつも誰かの味方をしたいと願い、行動しているならば、違う発想になり、違う発言が生まれ、違う行動をするだろう。

 

 

 そうした自己愛(のビョーキ)に充ち満ちた人が、自己愛をこじらせた結果「私のことをあなたも考えてくれていない」という意味で発言されるのかもしれない。
 それならせめて「Hey ユー、私のこと、もうちょっと味方してくれてもいいんだYO?」と正しく(できるだけ可愛らしく)言ってほしいものである。

 

 

「私には味方がいない」という発言は、そもそも自身に向かって発言されている。
「私には味方がいないからあなたを倒してもっと強い奴に会いに行く」でもなければ、
「私と契約して味方になってよ」でもない。

 

 

 発言の意味に対する回答が「ああ、そう」くらいしか思い浮かばないのである。
 YesもNoもないのである。
 それを堂々と言ってのけられることかれこれ4回である僕はちょっとしたベテランであるのだけれど、それはそれで(僕の方こそ)人としてちょっと問題なのではないかと、3回目あたりから思い始めている。

 

 

 とにかく4回のうち、一度の例外もなく、彼ら/彼女たちにはそれはそれは大層な味方がいた。
 にもかかわらず「味方がいない」と宣言(あるいは、あれは独り言だろうか)してしまえる構造が、僕の想像を超えていた。

 

 

 もちろん、僕の人間に対する見積りはおおむね甘く、楽観的に過ぎるのかもしれない。
 しかし、人間に絶望して生き続けられるほど、僕は弱くも図々しくもない。
 あるいは人間や未来に希望を持ち続けなければ成り立たない精神構造こそ脆弱でふてぶてしいというのなら、それはそれでかまわない。
 僕は姿勢について語っているだけで、それに対する評価は人それぞれだろうし、評価に価値があるとは思っていない。
 姿勢にこそ価値がある。

 

 

 もとより僕には「敵味方」「味方/非味方」という概念がない。
 まったくこれっぽっちもないのである。
 いわば、戦場で、味方を援護し敵兵を行動不能にした後、その敵兵の手当や撤退支援をする勢いである。
 敵に送るのは塩だけでは足りないだろう、という発想がいつもあるタイプである。

 

 

 あまり冗談を言っているとまた笑われるのでほどほどにしておくが、そもそも冗句である。

 

 

 

 

 



::ところが,である.本当のところ,この前提には大きな思考的な飛躍があるのである.よく考えてみてほしい.全体像が分かる前に,どうして「この部分の情報は全体の情報を反映している」と言えるのか.教科書には露わに書かれていないが,そんな保証はどこにもないはずである.
 このような見方をするときに大事なのは,着目している領域での支配則が,全体の領域でもそのまま成り立っているかどうかを確認することである.微分方程式の解は,それが現象を正しく記述している解であると確認できたときに初めて,その正当さが認められる.したがって,微分方程式では,解が実際の現象と合致するかどうかを確かめる検証作業が欠かせないのである.たまたま合致していればメデタシメデタシ,合致しなければまた微分方程式を組み立て直して再度確かめる.という動作が基本になるのである.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 引用は、
「4 時間軸を入れる」 From 「直感でわかる微分積分」( p.112~113 )
(著作:畑村 洋太郎 / 発行:岩波書店)
 によりました。

 

 

 

 

 

 いつか。
 いつの日か、
 記憶は僕を殺す。

 いつか。
 いつの日にか、
 記憶が僕を殺す。

 ずっと彼がそれを望んできたように。
 そして幾度となく僕が、彼を殺して殺して、殺し続けてきたように。
::毎日見る夢?
ああ。最悪だ。



150603

昨年の秋頃から、あちこちの皮膚やら粘膜やらが、腫れたり爛れたりを繰り返している。

良くなったかと思えば、次の場所(それがとこかは分からない)に異常をきたす。

焦燥を通り越した無感覚。
諦観を通り越した無感覚。

なにかをこじらせたかのような、皮膚粘膜の違和感が、この身がたしかにあるのだと知らしめる。

孤独に苦痛はない。
それは背中に負った外套のように、あたたかくさえある。
肉体の苦痛に苦痛はない。
それは波音のように、眠気を誘っていずれ引く。

まるで子守歌のような、静かな無感覚。

ううん、分からない。

それともそれが、音なのかどうかさえ。
150529

 静かだ。とても静か。

 春先から就いた仕事は、イヤになるくらい頭を使わず、気を遣うこともない。
 こんな仕事があるのか、と驚くと同時に、こんな仕事をしていたら、間違いなくアタマが悪くなるだろう、とも思う。

 しかしよくよく考えてみると、仕事というのは、誰にでもできるものが殆どである。
 一部に、専門的な知識や技術を要するものもあるにはある。
 けれども今までの経験で感じた大半は「それは私でもできるだろう」というものだった。

 以前は民間の保険会社の商品に携わる仕事をしていて、確かに紛争を伴う事故が発生した場合は相応に骨を折ることにはなったものの、それでも誰にでもできると僕は感じた。なにせ、いさかいごとが嫌いで、大人しくて、決断力に欠けて、思慮もさほどに深くはない僕でもできて、それなりには評価されていたのだから。

 紛争事案は保険商品というサービスの、いわば出口の部分に当たる。
 一方で商品を買ってもらうことは入り口である。実際に事故が発生するかどうかは入り口では分からないし、事故がなかったからといって出口でお金を払い戻すシステムは存在しない。

 保険会社というのは面白いもので、事故は嫌うが契約を欲しがる。
 加入者も事故が好きな人はまずいない(いた場合は加入者としてふさわしくないので排除される)。
 それらの橋渡しをするのが代理店なのだろうな、と少し離れた今は思う。

 僕は自分の事務所が取り扱わない商品もよく調べることがあった。
 それら(つまり自分が取り扱わない商品)も踏まえて、お客様に提案することが多々あった。
 他社商品に加入するのに当たっての手続きを手伝ったこともある。
 僕にとって得か損かは分からない。判断したい人がすればいいと思う。

 しかしこういうことをすると、ときおり驚くお客様もいて、お話しを聞くとやはり大抵の人は自社の商品しか案内しないのだという。
 周囲をざっと見渡しても、そんなことをしている人はいなかった。
 自社の商品を勉強し、それを提供するだけで手一杯なのだと思う。

 それらを踏まえて総合的に、どう考えても僕は遊んでいたとしか思えない。
 それはそうだろう。自社の商品を勉強して、それを提供することしかしない人間もいるのだ。
 もっとも、それがすごいことなのかどうか、誰の役に立って、誰の得になっているのかについては、僕には分からない。

>>>

 近い将来(早ければ20年、遅くとも50年)、人間は労働から解放されるだろう、とあるお客様と話していたことを思い出す。
 人間社会はそれをなかなか受け入れられないかもしれないけれど、すでに基盤はできあがっている。
 ロボットは安価で高性能になってきたし、AIも活躍するようになってきた。

 コンピュータは人間の脳の働きだけを機械化したようなものだから、本当は、知的労働層から次第にその職がなくなるはずだと僕は思っている。これは理屈ではなく道理である。
 つまり、ねじ穴を見つけてビスを止めるよりも、過去の判例から今回の事案に適した例を多数参照して最適解を見つけるような、そういう仕事をAIは得意とすると思う。

 たとえば裁判や保険会社の示談内容など、今は多くの人間が経験を積んで時間を費やして、ようやく答えを導いているようなものが、AIであれば過去のデータベースを参照して最適解をいくつか示して最終判断を人間に提示するだけの、きわめて簡単な作業として処理できるだろう。

 動物が身体の高度化から脳の高度化へと進化してきたのに対し、高度化したコンピュータは逆方向の進化をすることを考えても、AIが自動化しやすいのはハードウェアを介する作業ではないことが容易に想像できる。

 ただ知的階級層が行っている仕事の多くを、実はAIの方が適切に処理できるとして、それを知っていればこそ人間はその座を譲らないだろうとも思う。

 AIは人間を排斥する、なんていう古典SFのようなことを恐れる人は未だにいるようだけれど、それはあまり考えなくてもよいような気がする。
 考えるのは必要かもしれないけれど、心配するほどの現実味はないように思える。
 もっともこのあたりの見積もりは人それぞれかもしれないけれど。

 いずれにしても高度な自動化によって労働から開放されれば、経済の概念も大幅に変わるだろう。

 自動走行車が一般化すればタクシーの形態も変わる。
 すでにそれを考えている人たちがいるはずだ。

 それが悪いとは僕は思わない。
 人は「しなくてはいけないこと」や「するのが得意なこと」ではなく「したいこと」ができるようになる。
 もっとも、本当にしたいこと、というのがない人も多いのだと今は思う。

 どんな些細なことでもいいのだけれど「本当にしたいこと」がないように見受けられる人が、少なからずいる。
 まぁ、それはそれで仕方ないのだろう。
 それもひとつの自由だし、とても平和的ではないだろうか。

 刺しただの刺されただの、そんな事件ばかり報道するニュースを見ているよりは、ぼんやり外でも眺めている方がよほども人間は平和だと思う。

 以前は「TVでニュースも見ないのか」「新聞も読まないのか」と言われることが多かった。
 僕は内心「この人はニュースなんか見ているのか」「新聞なんか読んでいるんだ」と驚いたものである。
 お金のことと将来の不安と人が死んだことしか情報に流れていない。それがニュースだ。
 それ以外のTVプログラムに至っては、健康と食べものと馬鹿騒ぎがほとんどだ。

 僕はそのいずれにも興味がなかったし、それを興味深く毎日眺められる精神は、どういうものなのかと今も感じる。
 そうなのだ、そんな情報よりも、庭先や道端に咲いた草花を眺めている方がよほどぼ有益で得るものがある。
 いろいろな発見があって、驚きがあって、気持ちも穏やかで豊かになる。
 人間とは、そういうものではないのだろうか。

>>>

 もっとむつかしい、アタマを使う仕事に切り替えるべきか、ずっと考えている。
 平和な環境はステキだけれど、アタマが悪くなるのは望ましくない。




 追記。
 あまりにもバカ丸出しなタイトルなので変更した。
 僕はバカから元には戻らないのだろうか。
 もっとひどくなって、もっと稚拙になって、それでおしまいか。

 いつだったか「僕はね、自分の書いたものを稚拙だなんて自分で言い出す人間はどうしようもないと思っている」と言ったことがある。
 それさえも含めて、今はとても情けないと思う。

 それが悪いというのではない。
 ただ、情けないとは思う。