150906

 曇りのち雨。
 どうも訪問者数を確認するに、僕が今日も何かを書いているのではないかという一握りの読者(片手でカウントできるレベル)から、そこはかとない期待を寄せられている気がする。
(このところ駄文しか書いていないですよー、と言いたい)
 そんな心の声をぐっとこらえて、今日も更新をする気持ちを整えるのであった。

 すなわちこれ読者サービス。

 わざわざ閲覧者が少なくなるように最大限の工夫をしているくせに、いやだからこそ、読者サービスをするこの私のサービス精神の満点さよ。

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 身体のようすが少しおかしかったので、体重計に乗ったところ、55kgを下回っていた。
 なんだかこのところ、身体が軽いなぁ(重く感じないなぁ)と思っていたのだけれど、なるほど、体重が減っていたのである。
 しかし上限体重68kg(多分、骨格が変化したので72kgくらいまでは大丈夫だと思うけれど)、適正体重63kg(自転車に乗る骨格と筋肉のバランス点)から考えると、10kg近く少ない。
 まぁ、今年に入ってから自転車に乗った日があったかどうか覚えていないので、無理もない話ではある。

 考えてみると朝から水しか飲んでいない。
 絶食をしているわけではないものの、昨日「そろそろ補給しないと」と思ったのは、夕刻頃だったのではないだろうか。

 ということで、慌てて買い物に出かけて食事をする。
 もうここまでくると「補給」と呼ぶにふさわしい気もする。

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 以前「ヒツジ色の月」というお話を書いたことがあって(いまはどこにもないのだけれど)その登場人物に、病気の女の子が出てきた。
 その女の子の台詞に
「人間同士でなぐさみものにしあう環境で生まれ育った人は、どこまでも、他人も自分自身もなぐさみものにしようとし続ける。きっとそういう人たちは、なぐさみものにしあうことでしか自分や他人を認識できないの。そういう考え方や行動しか知らないから。そのいずれもが私は大嫌い(そうとうおおざっぱな意訳)」
というものがあったような気がする(正確なことは確認するすべがない)。

 ちょーテキトーなことを(今)書いた気がするけれど。

 でも、確かに、そういう人は存在する。
 もちろん、日常生活を送る上では何の支障もないし師匠もない。
 死傷も刺傷もししゃももない。

 それでも、誰かのなぐさみものにされてきたと感じている人は、ときに誰かをなぐさみものにすることを自分に許すものだし、あるいは誰かのなぐさみものにされることに人間関係のようなものを感じるのかもしれない。つまり、価値があると思うのかもしれない。

 今日はアタマが働かない(頭痛がしてまっすぐ歩けなかった)のでこれでおしまい。

 See you next week. Bye-bye !
(ラジオの終わりふうにキメた)
 


::「んー、言いたいことは分かんなくもないけどさ。例えば、【秘密を知ってるクラスメイト】くんにも、死ぬまでにやりたいことはあるでしょう?」
「……なくはない、かな」
「でも今、それをやってないじゃん。私も君も、もしかしたら明日死ぬかもしれないのにさ。そういう意味では私も君も変わんないよ、きっと。一日の価値は全部一緒なんだから、何をしたかの差なんかで私の今日の価値は変わらない。私は今日、楽しかったよ」





150905

 最近になってようやく思い出したのだけれど、僕は子供の頃から、アドレナリン過剰分泌体質なのであった。
 眠れないこと(眠くならないこと)がほとんどで、食欲をほとんど感じることがなく、急にスイッチが切れたように眠る。
 いちど眠り始めると、こんどはこんこんと眠る。
 24時間起きていたかと思うと、こんどは18時間くらい眠り続ける。
 夏休みなど、12時間起きて20時間くらい眠っていたと思う。眠ってばかりではないか。

 一般的な反応なのか分からないのだけれど、僕の場合、アドレナリンによって空腹が分からなくなる。
 身体は当然栄養が足りなくなるらしく、時折、立ちくらみを起こす。
 ひどい場合は貧血で倒れるが、これは子供の頃に一度あったきりだ。

 非常に高い集中力を発揮することがあるものの、ぶつっと途切れて気絶するのはそういう体質的な背景もあったのだろう。

 最近気がついたのだけれど、栄養が足りない状態になると、当然ながら人体は、自分の体組織を分解し始める。
 これがじつに文字通り身体を蝕む感触であり、というのはおおげさで、単に供給不足のところに供給をするための消費を行うので、非常に身体がだるくなることがある、ということ。
 もちろん、たいていはアドレナリン反応によって打ち消されてしまうものの、ひとたび集中が途切れると、ぱたりと倒れて眠る。
 こんこんと眠り続けていたことが、かれこれ10年ほど前にあったけれど、あのときもこんな感じだったのかと思い出す。

 僕はあのとき、確かに餓死しかけたと思う。
 眠りに落ちれば、ただただ身体が自身を解体しては燃料にして、それによって疲れて眠ることができた。
 ただただ眠っていたのだ。

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 そういう理由からか、僕は周囲の人間から、自殺しやすいタイプだと思われているフシがある。
 いや、たぶん理由は違うと思うけれど。
 そもそも、僕が餓死路線にいたことを知る人はほとんどいない。
 ブログを読んでいる人くらいではないだろうか。
 つまり、どれもこれも嘘であり、僕の狂言である可能性もある。

 先日、TU(10代からの古い友人である)と、仕事以外では1年ぶりくらいに電話で話したのだけれど、その際、3年間会う機会もほとんど作らなかったものを「じゃ、今度、遊びに行くよ」と言う。
 あまりにも言う。
 あまりにもしつこく言うものだから、何かの冗談か何かと思っていたら、まことに冗談だったらしくまだ来る気配はない。
 さすがである。

 妹も、やけに頻繁に食事に誘うようになった時期があった。
 そうこうしているうちに、伯母が吐血して倒れ意識不明で入院してしまったから、会う機会もできた。
 叔父もいよいよ具合が悪くなっているらしいが、詳しいことは知らない。
 僕の家系はみな短命なので、比較的ふたりは長生きをしていると思う。

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 僕が自殺しそうなタイプに見える理由を、ちょっと考えてみた。
・痩せている。
 (痩せている人は、神経質/打たれ弱いなどと認識されやすい)
・自他の生命を軽んじているような発言をよくする。
 (極論になればいたしかたないと思うのだけれど、そうでなくても僕は生命を生命活動という現象として認識しているので、生命に対する倫理観には欠けるかもしれない)
・目に生気がない。
 (目が細いから光が入らないだけだ、ばかにすんな)
・動きが遅い。
 (本気で速く動くと残像さえも消えているのだ、ばかにすんな)
・意志が感じられない。
 (それはかなり控えめなのかもしれないし、あるいはすでに死んでいるのかもしれない)

 だいたいこんなところだろうか。
 おおよそ理由としてふさわしいかどうかは別にして、思いつきで列挙してみたが、どうだろう。
 こんな人間が自殺するようには、僕には思えないのだけれど。

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 アドレナリン分泌過多によって、不便がないかというとそんなことはない。
 肉体的にも正常なリズムが狂いやすくなるし、精神的にも安定しない。
 そのような背景もあって、僕は自身をより安定させるために青猫工場を作って、仮想猫型人格をいくつも設計し、全体のバランスを取った。

「あなたの情緒は役に立たないし、あなたの書く文書には何の価値もない」とあっさり一刀両断にする人もいる。いままでどのくらいいたものか。

 僕はたびたび失敗を繰り返し、他の人の言うところに従って、僕の情緒反応を減少させたり(そんなスイッチのようにオン/オフができるものか、という人もいるとは思うが、僕に言わせればその程度のこともできないの? といったところである)、文書を書くことをやめたりした。

 結果、工場には生態系を破壊された湖に浮かぶ魚のごとく累々たる猫の死体が横たわり、Nine lives の名の通り、9つの尻尾を持たされた猫的なサムシングさえ、かろうじて息をしているかどうか、といったところである。

 工場の中は荒れ果てて、もはやそこから何かを作り出すことなどできそうには思えない。

 人によって、仮想人格などばかげている、仮想猫など存在しない、仮想工場などといった実体のないものにどれほどの意味があるのかと嗤うことだろう。

 でも、人は自分の心理をして「ムードがどうの」とか「モードがどうの」と言う。
 それは目に見えたり、スイッチで切り替えができるのかと尋ねたいものの尋ねないのは、僕もオトナだからである。

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 今日、職場で知ったことだけれど、僕は職場で完全に孤立しているらしい。
 浮いている、というレベルをとうとう超えた、ともいえる。
 今ふうにいうと「浮きすぎ」ということになるのだろうか。多分ならない。
 浮いている、というのは現象を観察する分には、抜きん出ている、と考えられなくもないが、実情はそんなはずもなく、単純に浮いている、つまりは「つまはじき」にされているらしいのではある。

 まぁ、お友達を作るために仕事に出かけているのではないし、ほとんど孤独な作業で終わってしまうから誰が私をどのように思っていようと(私の本質や私の職務に対して)特に問題はない。

 どういうわけなのか、僕は子供の頃から誤解されることが多い。
 好意的に誤解されることもあれば、悪感情的に誤解されることもある。
 一時は、誤解を解こうと弁明すればするほど誤解が拡散し、深くなったので、とうとう諦めた。

 人間はどうやっても勝手に解釈するし、他人の書いたものを勝手に読んでとやかく思うのであり、書いた人のことや事実関係についても、とくに自分の足で取材などせず勝手に理解するのである。
 事実や背景や全容なんてものは関係なく、本人の気に入らない事象にただただ反応して言葉を並べて騒ぎ立てる。

 ちょうと Twitter などがそうかもしれない。
 多くの人は、何かを発信するのではなく、何かを作るのでもなく、ただただ反射して、反応している。
 少なくとも僕にはそう思える。
 Y!ニュースのコメント欄を見よ。きちんと全体を見渡して意見を述べている人はほとんどいない。

 僕が驚くのは、そうした「考えもせず反応する」タイプの人間が、僕の想像以上に、僕の身の回りにいることだ。
 新しい発明も、発見もしようとせず、何かを作ることもせず、自分の目で何かを確かめ、検証するわけでもなく、ただただ他人を指さして嗤っているわけである。

 昔、TVを相手に文句ばかり付ける人が僕の周囲にいた。
 それを見て、僕は「ああ、こんなふうになってはいけないな」と感じたものである(遠い目)。
 メディアが変わったけれど、コンテンツはさほどかわらず、そして今ではメディアに無駄な反応が大量に(コンテンツのフリをして)流れるようになった。

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 系というのは、大きな流れと小さな渦によって構成されている。
 川などがいい例だ。
 渦というのは、その場でできる、系の中のより小さな系である。

 サイクルはその中に必ずといっていいほどより小さなサイクルを持っているものだし、より大きなサイクルの中に存在している。
 なにかひとつのものがあったり、人がいたり、関係があった場合には、そこに小さな部品が含まれていて、より大きなシステムのなかに存在している。
 そういうことを理解していないと、人は容易に系を破壊するし、破壊された系を修復するのは容易な作業ではない。

 自然環境、という系があったとして、そこには人間も含まれるし、そこに自分も含まれる。
(実際には宇宙も含まれるはずである)
 伸びる鼻毛も自然環境であり、眠れる僕もまた、大自然とはいわないまでも、小自然くらいには属しているのである。

 系に関する感覚は言語化できないわけではないけれど、実のところ、これは純粋な感覚であり(たとえ相反するものであったとしても)自他を含む存在をひとつのものと認識することは、人の情緒の根幹そのものにも大きく関わっているように思う。
 もちろん、そんな感覚は、デジタル化が不可能であるが故に、徐々に消えつつあるのかもしれない。

 インターネットで検索しても、答えが出てこない疑問や感覚を、僕たちはどれほど知っているだろう。

 系を感覚できなければ、人間はどんどん鈍感になってゆく。
 系の構成則をまったく理解していない人間は、ある種類の馬鹿だと僕は思っている。

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 僕は自分の作った青猫工場の中に、さまざまなものを見ていた。
 それは僕自身であり、僕以外でもあったし、誰でもなく、何者でもないものでもあった。







::でもそうだ、彼女の言った通り、僕だってあと何度この道を歩けるのかは分からない。彼女の見る道の色と、僕の見る道の色は本当なら違ってはいけないんだ。




 引用は、
「君の膵臓をたべたい」( 冒頭部 p.13 : 文末部 p.14 )
(著作:住野 よる / 発行:双葉社)
 によりました。
 

 

 

::ある現象について私たちが入手できる情報は,現象全体から見ればきわめて限られた「ある瞬間の部分的な情報」であるのが普通である.人間は,全体を全体のまま一度に理解することはできないからである.
 ならば,どうしたら全体を理解できるのか? 入手可能な「ある瞬間の部分的な情報」を活用して知るしかないのである.微分方程式は,そうした「ある瞬間の部分的な情報」を量的な関係で表現し,現象の全体像を描く数学的な手法である,ということもできる.
 ただし,ここで注意してほしいのは,「ある瞬間の部分的な情報」は,たんなる断片的な情報ではない,ということである.じつはここに,微分方程式の大前提がある.微分方程式が活用する「ある瞬間の部分的な情報」は,「現象全体を支配する法則を反映した情報」なのである.

 

 

 

 


 

 

 

150903

 

 

「私には(どこにも/だれも)味方がいない」という発言を、これまでの人生で4回ほど聞いたことがある。
 彼ら/彼女たちが、どのような経緯で、どのような理由で、どのような心理から、どのような背景原理が働き、何を求めてこんなことを言うのか、僕には分からなかった。
 もちろん、今も分からない。

 

 

 最初こそ「おお、そうであったか。おぬしには味方がいないのであるな」と思ったものの、それは大間違いであることが(数年を経たのち)分かる。
 彼女(最初にそれを私に言ったのは女性である)には、実に味方がいた。
 それほど多くはなかったかもしれないが、ひとりやふたりではなく、深く繋がる味方が、いた。
(インディアン風にいえば、3つ以上は「いっぱい」である)

 

 

 僕はとにかく驚いた。
 当時の彼女の言動の多くは、味方がおらず、孤立無援であるという意識がにじみ出ていた。
 今だからはっきり言ってしまえるが、単なる「ヒロイズム酔い」である。
 しかし実情が分からない以上、駅で突然、嘔吐し始めた人が単なる酔っ払いなのか、それとも別の病気などの理由で具合の悪い人なのか、それは分からないのである。

 

 

 そこで僕は考えた。
 そもそも「私には味方がいない」なんて言葉を、僕はまず口にしない。したくないし、できない。
 いや、すればできる訳だから、できないわけではないのだけれど、やはりすることはできないと感じる。
 なぜか。
 味方がいる人間は通常「私には味方がいない」なんて言わない。
 味方がいるのにそんなことを言えば嘘になる。

 

 

 すなわちその味方との「信頼」など存在しない。
 さぞやその嘘で塗り固めた信頼は、金メッキのように薄っぺらく光輝いていることであろう。
 その「味方」とやらは、いいように自分の姿を取り繕うための道具であり、慰みものとして利用されるだけである。

 

 

 味方をばかにするな、と思う。
 当人がその場にいるとかいないという問題ではない。
 味方や友達というのは心の中に棲むイキモノである。
 最後の最後、何もなくなってしまったときにでも、むしろそのときにこそ、心の中で自分を支え、励ましてくれるイキモノである。

 

 

 味方であるはずのところの人間を「味方ではない」とどこかで少しでも思っているならば、それは味方などではない。
 もちろん、その発言者当人も、味方同士などではない。

 

 

 一方、味方のいない人間ならばどうだろう。
「私には味方がいない」なんてことを、いったい誰に言うのだろう。
 僕ならそんなことは言えない。味方でない人間に言うのは、あまりにもさもしい。
 味方予備軍(そんなものがあるのか?)に言うのも、ずいぶんではないだろうか。
 味方に言っているとしたら、もはや金メッキの信頼関係は消失している。

 

 

 そのため、僕は「味方がいない」なんてことは、口が裂けても言えない。
 僕の味方をしてくれる(くれている/くれるであろう)人に失礼であるし、味方でない人に言う必要はない。

 

 

 これらの(きわめて限定的な)考察から、
「わたしには味方がいない」と平気で言える人間というのは「自分のことしか考えられなくなっていて、しかもその自分に酔いしれている」だけの少し可哀想な人だと分かる。
 もちろん、これは状態であろう、と思う。思いたい。思えたらいいと感じる。思えるんじゃないだろうか。思うことができたらどんなにいいだろう。思ってもいいのではないか。

 

 

 いや、無理だ。

 

 

 この特性は、生命の本能に起因している。
 本能が強ければ、結果的にそれは発露する。
「自分のことしか考えられない病」がもともとあるところに発作が起こって「私には味方がいない」と発言するのである。
 なぜならば、自分が自分のことばかり考えているからこそ、他者も「自分のことしか考えていない」と思うし、他人は自分の味方などしてくれないと考えるのである。
 自分がそういう病気だからこれは仕方ない。

 

 

 そうでなければ「味方がいない」なんて発言はできないのではないだろうか。
 自分がいつも誰かの味方をしたいと願い、行動しているならば、違う発想になり、違う発言が生まれ、違う行動をするだろう。

 

 

 そうした自己愛(のビョーキ)に充ち満ちた人が、自己愛をこじらせた結果「私のことをあなたも考えてくれていない」という意味で発言されるのかもしれない。
 それならせめて「Hey ユー、私のこと、もうちょっと味方してくれてもいいんだYO?」と正しく(できるだけ可愛らしく)言ってほしいものである。

 

 

「私には味方がいない」という発言は、そもそも自身に向かって発言されている。
「私には味方がいないからあなたを倒してもっと強い奴に会いに行く」でもなければ、
「私と契約して味方になってよ」でもない。

 

 

 発言の意味に対する回答が「ああ、そう」くらいしか思い浮かばないのである。
 YesもNoもないのである。
 それを堂々と言ってのけられることかれこれ4回である僕はちょっとしたベテランであるのだけれど、それはそれで(僕の方こそ)人としてちょっと問題なのではないかと、3回目あたりから思い始めている。

 

 

 とにかく4回のうち、一度の例外もなく、彼ら/彼女たちにはそれはそれは大層な味方がいた。
 にもかかわらず「味方がいない」と宣言(あるいは、あれは独り言だろうか)してしまえる構造が、僕の想像を超えていた。

 

 

 もちろん、僕の人間に対する見積りはおおむね甘く、楽観的に過ぎるのかもしれない。
 しかし、人間に絶望して生き続けられるほど、僕は弱くも図々しくもない。
 あるいは人間や未来に希望を持ち続けなければ成り立たない精神構造こそ脆弱でふてぶてしいというのなら、それはそれでかまわない。
 僕は姿勢について語っているだけで、それに対する評価は人それぞれだろうし、評価に価値があるとは思っていない。
 姿勢にこそ価値がある。

 

 

 もとより僕には「敵味方」「味方/非味方」という概念がない。
 まったくこれっぽっちもないのである。
 いわば、戦場で、味方を援護し敵兵を行動不能にした後、その敵兵の手当や撤退支援をする勢いである。
 敵に送るのは塩だけでは足りないだろう、という発想がいつもあるタイプである。

 

 

 あまり冗談を言っているとまた笑われるのでほどほどにしておくが、そもそも冗句である。

 

 

 

 

 



::ところが,である.本当のところ,この前提には大きな思考的な飛躍があるのである.よく考えてみてほしい.全体像が分かる前に,どうして「この部分の情報は全体の情報を反映している」と言えるのか.教科書には露わに書かれていないが,そんな保証はどこにもないはずである.
 このような見方をするときに大事なのは,着目している領域での支配則が,全体の領域でもそのまま成り立っているかどうかを確認することである.微分方程式の解は,それが現象を正しく記述している解であると確認できたときに初めて,その正当さが認められる.したがって,微分方程式では,解が実際の現象と合致するかどうかを確かめる検証作業が欠かせないのである.たまたま合致していればメデタシメデタシ,合致しなければまた微分方程式を組み立て直して再度確かめる.という動作が基本になるのである.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 引用は、
「4 時間軸を入れる」 From 「直感でわかる微分積分」( p.112~113 )
(著作:畑村 洋太郎 / 発行:岩波書店)
 によりました。

 

 

 

 

 

 いつか。
 いつの日か、
 記憶は僕を殺す。

 いつか。
 いつの日にか、
 記憶が僕を殺す。

 ずっと彼がそれを望んできたように。
 そして幾度となく僕が、彼を殺して殺して、殺し続けてきたように。
::毎日見る夢?
ああ。最悪だ。



150603

昨年の秋頃から、あちこちの皮膚やら粘膜やらが、腫れたり爛れたりを繰り返している。

良くなったかと思えば、次の場所(それがとこかは分からない)に異常をきたす。

焦燥を通り越した無感覚。
諦観を通り越した無感覚。

なにかをこじらせたかのような、皮膚粘膜の違和感が、この身がたしかにあるのだと知らしめる。

孤独に苦痛はない。
それは背中に負った外套のように、あたたかくさえある。
肉体の苦痛に苦痛はない。
それは波音のように、眠気を誘っていずれ引く。

まるで子守歌のような、静かな無感覚。

ううん、分からない。

それともそれが、音なのかどうかさえ。
150529

 静かだ。とても静か。

 春先から就いた仕事は、イヤになるくらい頭を使わず、気を遣うこともない。
 こんな仕事があるのか、と驚くと同時に、こんな仕事をしていたら、間違いなくアタマが悪くなるだろう、とも思う。

 しかしよくよく考えてみると、仕事というのは、誰にでもできるものが殆どである。
 一部に、専門的な知識や技術を要するものもあるにはある。
 けれども今までの経験で感じた大半は「それは私でもできるだろう」というものだった。

 以前は民間の保険会社の商品に携わる仕事をしていて、確かに紛争を伴う事故が発生した場合は相応に骨を折ることにはなったものの、それでも誰にでもできると僕は感じた。なにせ、いさかいごとが嫌いで、大人しくて、決断力に欠けて、思慮もさほどに深くはない僕でもできて、それなりには評価されていたのだから。

 紛争事案は保険商品というサービスの、いわば出口の部分に当たる。
 一方で商品を買ってもらうことは入り口である。実際に事故が発生するかどうかは入り口では分からないし、事故がなかったからといって出口でお金を払い戻すシステムは存在しない。

 保険会社というのは面白いもので、事故は嫌うが契約を欲しがる。
 加入者も事故が好きな人はまずいない(いた場合は加入者としてふさわしくないので排除される)。
 それらの橋渡しをするのが代理店なのだろうな、と少し離れた今は思う。

 僕は自分の事務所が取り扱わない商品もよく調べることがあった。
 それら(つまり自分が取り扱わない商品)も踏まえて、お客様に提案することが多々あった。
 他社商品に加入するのに当たっての手続きを手伝ったこともある。
 僕にとって得か損かは分からない。判断したい人がすればいいと思う。

 しかしこういうことをすると、ときおり驚くお客様もいて、お話しを聞くとやはり大抵の人は自社の商品しか案内しないのだという。
 周囲をざっと見渡しても、そんなことをしている人はいなかった。
 自社の商品を勉強し、それを提供するだけで手一杯なのだと思う。

 それらを踏まえて総合的に、どう考えても僕は遊んでいたとしか思えない。
 それはそうだろう。自社の商品を勉強して、それを提供することしかしない人間もいるのだ。
 もっとも、それがすごいことなのかどうか、誰の役に立って、誰の得になっているのかについては、僕には分からない。

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 近い将来(早ければ20年、遅くとも50年)、人間は労働から解放されるだろう、とあるお客様と話していたことを思い出す。
 人間社会はそれをなかなか受け入れられないかもしれないけれど、すでに基盤はできあがっている。
 ロボットは安価で高性能になってきたし、AIも活躍するようになってきた。

 コンピュータは人間の脳の働きだけを機械化したようなものだから、本当は、知的労働層から次第にその職がなくなるはずだと僕は思っている。これは理屈ではなく道理である。
 つまり、ねじ穴を見つけてビスを止めるよりも、過去の判例から今回の事案に適した例を多数参照して最適解を見つけるような、そういう仕事をAIは得意とすると思う。

 たとえば裁判や保険会社の示談内容など、今は多くの人間が経験を積んで時間を費やして、ようやく答えを導いているようなものが、AIであれば過去のデータベースを参照して最適解をいくつか示して最終判断を人間に提示するだけの、きわめて簡単な作業として処理できるだろう。

 動物が身体の高度化から脳の高度化へと進化してきたのに対し、高度化したコンピュータは逆方向の進化をすることを考えても、AIが自動化しやすいのはハードウェアを介する作業ではないことが容易に想像できる。

 ただ知的階級層が行っている仕事の多くを、実はAIの方が適切に処理できるとして、それを知っていればこそ人間はその座を譲らないだろうとも思う。

 AIは人間を排斥する、なんていう古典SFのようなことを恐れる人は未だにいるようだけれど、それはあまり考えなくてもよいような気がする。
 考えるのは必要かもしれないけれど、心配するほどの現実味はないように思える。
 もっともこのあたりの見積もりは人それぞれかもしれないけれど。

 いずれにしても高度な自動化によって労働から開放されれば、経済の概念も大幅に変わるだろう。

 自動走行車が一般化すればタクシーの形態も変わる。
 すでにそれを考えている人たちがいるはずだ。

 それが悪いとは僕は思わない。
 人は「しなくてはいけないこと」や「するのが得意なこと」ではなく「したいこと」ができるようになる。
 もっとも、本当にしたいこと、というのがない人も多いのだと今は思う。

 どんな些細なことでもいいのだけれど「本当にしたいこと」がないように見受けられる人が、少なからずいる。
 まぁ、それはそれで仕方ないのだろう。
 それもひとつの自由だし、とても平和的ではないだろうか。

 刺しただの刺されただの、そんな事件ばかり報道するニュースを見ているよりは、ぼんやり外でも眺めている方がよほども人間は平和だと思う。

 以前は「TVでニュースも見ないのか」「新聞も読まないのか」と言われることが多かった。
 僕は内心「この人はニュースなんか見ているのか」「新聞なんか読んでいるんだ」と驚いたものである。
 お金のことと将来の不安と人が死んだことしか情報に流れていない。それがニュースだ。
 それ以外のTVプログラムに至っては、健康と食べものと馬鹿騒ぎがほとんどだ。

 僕はそのいずれにも興味がなかったし、それを興味深く毎日眺められる精神は、どういうものなのかと今も感じる。
 そうなのだ、そんな情報よりも、庭先や道端に咲いた草花を眺めている方がよほどぼ有益で得るものがある。
 いろいろな発見があって、驚きがあって、気持ちも穏やかで豊かになる。
 人間とは、そういうものではないのだろうか。

>>>

 もっとむつかしい、アタマを使う仕事に切り替えるべきか、ずっと考えている。
 平和な環境はステキだけれど、アタマが悪くなるのは望ましくない。




 追記。
 あまりにもバカ丸出しなタイトルなので変更した。
 僕はバカから元には戻らないのだろうか。
 もっとひどくなって、もっと稚拙になって、それでおしまいか。

 いつだったか「僕はね、自分の書いたものを稚拙だなんて自分で言い出す人間はどうしようもないと思っている」と言ったことがある。
 それさえも含めて、今はとても情けないと思う。

 それが悪いというのではない。
 ただ、情けないとは思う。
150518

 同じようなことを言う人間がたくさんいる人間関係は、読みづらい小説に似ている。
 名前は違っても、同じようなことを言う登場人物ばかり。そんなことでもストーリィは進むものなのだろうか。

 失意などという言葉を使うと、また人が笑うとは思う。
 笑われてばかりであるが、そういうのも慣れてはいる。
 なので青猫工場では、昔から書いている「(笑いたければ)笑え。笑えよ。」と。

 そんなコンテンツの多くも消えた。
 いや、消えたのではない。消したのだ。僕が。バックアップもないままに。

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 小学生の頃、作文を書いて提出したところ、「ちゃんと思ったことを書いてほしいなぁ」と担任に言われたことがある。
「ちゃんと思ったことを書く」とはどういうことだろうかと、しばらく考え込んでしまった。
 言われるまでもなく、自分が思ったこと/考えたことを書くのが作文だと僕は思っていて、だからこそ自分が思ったこと/考えたことを書いたのだ。
 にもかかわらず「ちゃんと思ったことを書いてほしい」という注文(およそ非難がましいクレームに近かった)と言われたのである。

 高校生になっても同じようなことがあった。
 当時所属していたある組織の管理者に作文を提出して(作文を書く課題があったのだ)その際に「綺麗にまとめようとしなくてもいいんだよ」と(にこやかに、そして非難がましく)言われた。

 そのときは気が付かなかったけれど、今は分かる。
 彼らは僕の作文を読んで「綺麗にまとまっていて、心がこもっていない」と思ったのだ。今ふうにいうと「綺麗にまとまりすぎていて、心がこもっていなさすぎる」と感じたのだ。
 余計なお世話である。

 きっと、ぐしゃぐしゃで右往左往していて、それでもひたむきで力いっぱいな感じがほしかったのだろう。
 子供を相手にしている人たちならではの感性だとは思う。
 一方の僕はといえば、大人しい(あえての漢字表記)、冷めたタイプの子供であったから、まぁ彼らの気に入るタイプではなかっただろうと容易に想像できる。

 それにしても「ちゃんと思ったことを書いてほしい」とはずいぶんな言い方ではないだろうか。
 要は「あなたの書いたこれは、嘘でしょう?」ということである。
 人が思っていること、考えていること、あるいは思っていないこと、考えていないことを、他人が勝手に決めつけているのである。
「あなたはそうは思っていないと私は断言するのだからあなたは絶対にそうは思っていない」ということである。
 いくら「大人/子供」「教師/生徒」という関係性があるにしても、それはあんまりだ。
 人のことを勝手に決めつけるのはやめてほしい。

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 小中学生の頃、学年に一人か二人は居なかっただろうか「あいつ(どこかのクラスの女子)はオレのことが好きなんだぜ」とか公言するやつ。
 10代ならばまだ笑って済ませることができるが、20代を過ぎてもそういうアブナイ奴はいる。
 相手にも選ぶ権利があるとか、相手の気持ちを考えなよ、とかそれ以前に、勝手に人のことを決めつけられるそのデリカシィのなさは問題だ。
 30代、40代と年齢を重ねてなおその性状が直らないとしたら、立派に犯罪的な人間だと僕などは思う。異常で危険な性質ではないだろうか。

 10代そこそこの人間の書く文章が「綺麗にまとまっている」ことが気に入らない、というのもどうかと思う。
 綺麗にまとまっていることが好きな人もいるし、そもそも綺麗にまとまっている人間だっているかもしれない。
 10代にして人間が綺麗にまとまっていることをちょっとした問題だと危惧する気持ちは、教育者として間違ってはいないとも思うけれど、だからといって綺麗にまとまっていることを否定する必要もないだろう。
 綺麗にまとまろうとすることが、人の意志の方向性なのだから。

 小さくまとまるな、ということなら意味も分かる。
 そしてそれを端的に伝えることがとてもむつかしいことも分かる。
 小さくまとまらない。ということは、小綺麗に飾ることなく、ダイナミックに力強く、思うままに。ということなのだろうとざっくりとだけれど考えることができる。

 なるほど、そう考えれば「小綺麗にまとまっている=力を出し切っていない=本心を隠している」ということにもなるだろう。
 けれども、僕はそもそもそんなに力いっぱいな人間ではない。むしろ非力である。
 だから力を出し切っていないように見えて、相当に背伸びをしている可能性も高い。
 本心を隠しているのではなく、そこまで(いわゆる「ヒトの本心」というところまで)考えが及ばない可能性も高い。

 飛べない人間に飛べと言うようなものである。小綺麗にまとまっているようでいて、それが限界なのである。
 繰り返すが「子供なんだからもっとダイナミックに、小さくまとまらないでほしい」という気持ち、姿勢は、教育者としてはたしかにいい姿勢だと思う。
 しかし、そもそもダイナミックに振る舞うことを知らず、綺麗であることを目指すタイプの子供(要するに子供らしさの足りない、子供としての子供を演じる能力に乏しい子供)もいるのである。

>>>

 僕の人生を歩んだこともないようなよく分からない人間がたくさん出てきて、まぁまぁ正論らしい正論を並べて何かを強要してくる、という状況を、僕は過去に経験したことがある。一度ではない。
 相手にしてみれば、それが正義であったり、倫理であったり、あるいは親切であったりもするのだろうとは思う。

 しかし、それがあまりに強固に押し付けられる場合「あいつオレのこと好きなんだぜ」と平気でのたまうガキを見ているような気分になる。つまりぶっとばしちゃいたくなる。
 人のことを勝手に決めつけて悦に入ってるより前に、自分が何をどうするかを考えたほうがいい。と僕は思う。

 実際のところ、僕は自分に根がないことを知っているので、柔軟さを発揮して、他人の言うとおりに従ってみたりはするのである。だいたい頭数が多い人間というのは声も大きい。選挙の時期の宣伝カーのようなものだ。
 結果はどうかというと、かなりの割合で、ろくなことがない。これは断言できる。

 先の作文の例で、僕はその後に「ちゃんと思ったことだと思われるように」「なるべく綺麗にまとまらないように」書いたけれど、僕にとってはとんでもないくらい「僕の思っていること」からは遠く離れた内容で「僕の思ったまとめ方」からもかけ離れた、つまるところ「僕が書いた、僕じゃない誰かが思って考えて書いたような作文」のようなものになって、書き上げて「ふうん、まぁまぁこれならいいんじゃない」という目を向けられると、ますますひどい気分になって数日落ち込んだ記憶がある。
 今ふうにいうと「失意」である。

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 小説を書くときに、そのキャラが立つかどうかの基準に「考えたり、言ったり、思ったりするだけではなく、実際に走ったり動いたりすること」が重要だと僕は思っている。
 生身の人間が生きることも同様だろう。
 他人のことをとやかく言うことが生きることだと勘違いしているとしたら、それは死んでいる人間と一緒だろう。
 自分が、何をどうするか。それだけでいいと思う。

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 本当のことを書いても通じないことは多い。
 かといって、嘘を書いたら通じるかというと、嘘が嘘のまま(裏返ることなく)相手に信じられてしまったりする。
 思ったことを書いたところで、それが思っているとは信じてもらえないことも多い。
 思ってもいないことを書くと、これがときどきウケたりする。
 書きたいことを書くなんてもってのほかだ。

 そんなふうに思って、何も書かないでいたら、どんどん気持ちが塞いできて危うくなってきた。

 読む人は勝手に読んで勝手に私の考えていることや私の行動や私の過去についてを(けっこう見当違いに)憶測し、私を評価する。
 先日も、ある人から「あなたと、あなたの書く文章はすばらしい」と褒められたものの、もう私は失意の底なのですから勝手に私の書いたものから私を評価したり憶測するのはやめてくださいたぶんわたしはそんなに素晴らしくないですし私の書いたものが素晴らしく見えたのはたまたまあなたが素晴らしい気持ちで読むことができたからでしかないのですと言おうと思ったのだけれどこれもこれでひどく面倒で苦痛で。

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 もうじき今年も半分が過ぎようとしている。

 僕は結婚をしなかった。
 たぶんこの先もしないんじゃないかという気がしている。

 誰かが僕を決めつけているのだと僕が決めつけている可能性について、僕は思いを馳せる。
 とても滑稽ではないだろうか。
 つまり決めつけているのは、ほかの誰でもない僕自身なのだ。
150426

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破壊点:
物体に加えられる外力とそれに抗する応力との釣り合いが破れ,物体が大きく変化して破壊されるその極限の点。

質量:
物体に固有な力学的基本量。慣性の大きさを表す量として定義される慣性質量と,物体にはたらく重力の大きさが基準物体(例えばキログラム原器)にはたらく重力の何倍であるかによって定義される重力質量とがある。両者が比例することはエートベッシュによって実験的に確かめられているが,一般相対性理論では,両者が等価であるとされる。また,特殊相対性理論によれば,慣性質量は物体の速さが大きくなれば増加し,質量はエネルギーの一形態であると見なされる。単位は SI ではkg,CGS 単位系ではg。

運動の法則:
物体の運動を説明する基本的な法則。普通は古典力学の基礎であるニュートンの運動の三法則をさす。(1)第一法則(慣性の法則)静止または等速直線運動をする物体は力が作用しないかぎりその状態を保つ。(2)第二法則(ニュートンの運動方程式)物体に外力がはたらくとその方向に,力に比例し質量に反比例した加速度を生ずる。(3)第三法則(作用反作用の法則)物体が他の物体に力を及ぼすとき,相手の物体は同一直線上にあって大きさが等しい逆向きの力をはたらき返す。

連続体の概念(wikipedia - 「連続体力学」より抜粋):
現実の物質は内部に微小構造を持ち、空虚な空間を含み、連続ではない。また微視的な視点からはエネルギーやモーメントのような物理量のゆらぎも許容している。しかしながら研究対象となる物理的現象によっては、こうした微視的な不連続性、不確実性を考慮する必要はなく、巨視的な視点で論じることが可能である。この時物質は連続体と理想化される。連続体は、物質の巨視的な性質を保持した質点の集合体であり、質点は物質の存在する空間内に連続的に、密に分布している。そのため連続体内部の特性は空間的に連続であり、微分方程式を用いて把握することが可能になる。連続体は無限小の要素にまで分解可能であり、その特性はサイズによって変わることはない。
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 特定のものを動かす。
 このとき、対象の質量が大きければ、必要とされる力もまた大きくなる。
 小さなものは小さな力でも動かせるが、大きなものは小さな力では動かせず、大きな力で動かすことができる。

 外力によって物体の運動を変化させる場合、作用する力が時間的に急激に加えられ、加速度がクリティカルを超えると、物体は破壊される。

 たとえば、お皿の上の豆腐を、そっと手のひらで全体的に押す場合。
 必要十分にゆっくりであれば、豆腐は原型を保つ。一方、必要充分な加速で押せば、豆腐は破壊される。
 局所的に力が加われば、やはり破壊される。
 アイスピックの先端で豆腐を移動することは、とてもむつかしい。

 大きなものを破壊することなく動かすには、力を少しずつ、全体に加えるのが適切である。
 最初の速度が小さいほど、かつ、加速度が小さいほど、破壊を避けることが容易になる。
 つまり接触時点での速度が十分に大きく、加速度も十分に大きいとき、必然的に物体は運動を変化することなく、破壊される。
 たとえば銃弾を手で投げつけても、死ぬ人はほとんどいない。
 歩行速度で自動車に衝突しても、死ぬ人はほとんどいない。
 一方で、相対的に充分な速度と加速度を持つ豆腐の角に当たって、人は死ぬだろう。
(豆腐程度の剛性の物体をそこまで加速することがちょっとした技術ではある)

 これは物体に限らず、人間の作る組織や、個々人の人間関係、さらには個々人の価値観を含めた人格形成にも当てはまるように思える。
150210

 晴れ。

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 僕は保険の代理業をしていたわけだけれど、そこで使う主な道具といえばペンと自分のアタマしかなくて。
 僕は腕時計を嫌うし、懐中時計は今のところ気に入るものが見つかった試しがない。
 スーツは数年で使い捨てにせざるを得ない(嫌味な奴と笑ってもらってかまわないけれど、なにしろ他にまともな服がない)し、靴はいいものを何足も持てない上、気に入ったものがまず見つからない。

 とりわけ、お客様と向き合って書類のやりとりをする中ではボールペンの出番が多かった。
 僕はお気に入りのボールペンをほぼ毎日使っていた。
 朝、シャツの胸に差すのが一日の始まりであり、たとえば出先で使い捨てのものを勧められた場合は断って、胸に仕舞ってあるそれを使った。
 あまり高いものは買えないし、高いからといって使い心地がよいとはかぎらない。
 ブランド物では嫌味に映ったり、かえってみっともない印象を与えることもある。

 そのようなわけでしばらく迷うこと十数年前、いいものにめぐり会った。
 グリップ全体が木のボールペンである。値段も決して高いわけではない。
 高くないのも当然で、名のある、格別によい木、というわけではない。ウィスキー樽に使われていた木だそうだ。
 だから風合いも色合いも、それぞれに違う。コーティングもさほどされているわけではなく、ほとんど無垢ではないだろうか。
 なので、たいそう気に入った。
 手に馴染むのである。

 ところが、使いはじめて一年ほどで、それを失くしてしまった。
 残念な気持ちを抱えながら、今度は同じものを2本と、同系列のすこし握りの細いものを1本買った。それらは今でも使い続けている。

 お世辞かも知れないが、ペンを褒められることもあった。そういうときはたいそう嬉しかった。
 合う人には合う。道具というのはそういうものだろう。
 僕は無機質な素材を好むくせに、肌に触れるものは有機的なものを好む。
 だから金属やゴムが肌に触れるような感じではなく、すこしやわらかくて、すこしぬくみがあって、それからそう、水気を感じるのだ、そのペンは。

 そういえば服も、いまだに生地の肌触りから決める。
 肌が合わない服は、どんなにデザインが気に入ったとしても、そのうち着ないようになってしまう。
 それでは自分も不幸だが、道具も、それを作った人や売った人も不幸だろう。

 相性というのはつくづくにあるものだと思う。

 ボールペンに限っていえば、僕はよいものに出会った。
 僕が気に入ったものの多くは、早い段階で世の中からなくなってしまうことが多いのだけれど、例外的にそのボールペンは今でも売っている。
 過剰な飾り気がなく、気取りもなく、素朴で、でもけっして安っぽいわけではない。

 何度となく芯を替えて使い続けてきた。
 いつまでも、なくならないでいて欲しいと思う。
 この家で暮らすようになって、どれくらいだろう。
 もう15年くらいになるだろうか。
 父もいない今、僕の帰る場所はここよりほかにない。

 初めての一人暮らしは、それは楽しかった。
 何もかもが自分の自由で、つまりその自由を使って道を逸れてしまうと、その代償もまた自分に戻ってくる。

 調理器具で最初に買ったのは、包丁、まな板、それからボウルとざるだ。
 僕の知る料理人の多くは、当然のように包丁にこだわりがあった。
 料理人の世界というのはそういうものだろう。
 職工であれば道具にこだわるのは必然で、その気持ちもよく分かる。
 道具にこだわることのできない職業の人は、たとえばインテリアやファッション、具体的にはオフィスやペンや時計や靴や服にこだわることだろう。

 僕は料理は好きだけれど、包丁にはさしてこだわりがない。
 むしろそれは消耗品だ。
 いい加減な道具しか使ってこなかった、という可能性は否定できないものの、それでもときにへし折れたりするものなのだ、包丁は。。
 包丁がへし折れる、という状況は、もちろんそうそうあるものではない。
 それは無理な方向から無理な力を加えたことが原因で、包丁そのものはもちろん、素材やその状態に対する無知が大きな原因、ではある。

 ただ、まぁ、10倍の価格の包丁を使ったからといって、10倍おいしい料理ができるわけでもないは事実だ。
 なので包丁についていえば「しっかり手に馴染むこと」これに尽きるし、グリップの問題だけでいえば、ホームセンタのステンレス包丁でも十分に事足りるものが見つかる。

 実のところ、いくつかそろえようと思ったこともあったのだ。
 しかし数多く持っていても、包丁使いが独学で基礎を知らないため、使いこなせなかった。

 刺身包丁を持っていたこともあるのだけれど、手入れを心得ていなくて錆を出す上、使う頻度も低い。
 これは道具と使い手の不幸な組み合わせと思い、手放した。
 牛刀を普段使いしている主婦の方を知っているが、僕は図体が大きいわりに牛刀を使いこなせない。僕の手の感覚に対しては大きすぎるのだ。
 菜切り包丁は、とにかく子供の頃からよくへし折る。マイナスドライバやナタの代わりにしようとするのが間違いなのだ。
 これらから察するに、僕は包丁とはとことん相性が悪いのかもしれない。
 学生の頃、ポケットに忍ばせていた折りたたみナイフ(護身用)も、1年ほどで紛失した。

 そのようなわけで、今は三徳包丁にペティナイフ、それから鋼の出刃だけで間に合っている。
 三徳とペティはステンレスで、両方合わせても五千円にもならなかったように思う。
 頂き物の出刃の出番は滅多にないものの、刃が素材に吸い込まれるようにしてよく切れる。
 かぼちゃの処理などには心強い存在である。

 なるほど、よい道具は必要だということだろう。

 しかしそれでも、吊しのスーツが買えるような値段の包丁には、やはり手が伸びない。
 なんだろう。
 刃物は好きなのだけれど、刃物とは縁がないらしい。