150529

 静かだ。とても静か。

 春先から就いた仕事は、イヤになるくらい頭を使わず、気を遣うこともない。
 こんな仕事があるのか、と驚くと同時に、こんな仕事をしていたら、間違いなくアタマが悪くなるだろう、とも思う。

 しかしよくよく考えてみると、仕事というのは、誰にでもできるものが殆どである。
 一部に、専門的な知識や技術を要するものもあるにはある。
 けれども今までの経験で感じた大半は「それは私でもできるだろう」というものだった。

 以前は民間の保険会社の商品に携わる仕事をしていて、確かに紛争を伴う事故が発生した場合は相応に骨を折ることにはなったものの、それでも誰にでもできると僕は感じた。なにせ、いさかいごとが嫌いで、大人しくて、決断力に欠けて、思慮もさほどに深くはない僕でもできて、それなりには評価されていたのだから。

 紛争事案は保険商品というサービスの、いわば出口の部分に当たる。
 一方で商品を買ってもらうことは入り口である。実際に事故が発生するかどうかは入り口では分からないし、事故がなかったからといって出口でお金を払い戻すシステムは存在しない。

 保険会社というのは面白いもので、事故は嫌うが契約を欲しがる。
 加入者も事故が好きな人はまずいない(いた場合は加入者としてふさわしくないので排除される)。
 それらの橋渡しをするのが代理店なのだろうな、と少し離れた今は思う。

 僕は自分の事務所が取り扱わない商品もよく調べることがあった。
 それら(つまり自分が取り扱わない商品)も踏まえて、お客様に提案することが多々あった。
 他社商品に加入するのに当たっての手続きを手伝ったこともある。
 僕にとって得か損かは分からない。判断したい人がすればいいと思う。

 しかしこういうことをすると、ときおり驚くお客様もいて、お話しを聞くとやはり大抵の人は自社の商品しか案内しないのだという。
 周囲をざっと見渡しても、そんなことをしている人はいなかった。
 自社の商品を勉強し、それを提供するだけで手一杯なのだと思う。

 それらを踏まえて総合的に、どう考えても僕は遊んでいたとしか思えない。
 それはそうだろう。自社の商品を勉強して、それを提供することしかしない人間もいるのだ。
 もっとも、それがすごいことなのかどうか、誰の役に立って、誰の得になっているのかについては、僕には分からない。

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 近い将来(早ければ20年、遅くとも50年)、人間は労働から解放されるだろう、とあるお客様と話していたことを思い出す。
 人間社会はそれをなかなか受け入れられないかもしれないけれど、すでに基盤はできあがっている。
 ロボットは安価で高性能になってきたし、AIも活躍するようになってきた。

 コンピュータは人間の脳の働きだけを機械化したようなものだから、本当は、知的労働層から次第にその職がなくなるはずだと僕は思っている。これは理屈ではなく道理である。
 つまり、ねじ穴を見つけてビスを止めるよりも、過去の判例から今回の事案に適した例を多数参照して最適解を見つけるような、そういう仕事をAIは得意とすると思う。

 たとえば裁判や保険会社の示談内容など、今は多くの人間が経験を積んで時間を費やして、ようやく答えを導いているようなものが、AIであれば過去のデータベースを参照して最適解をいくつか示して最終判断を人間に提示するだけの、きわめて簡単な作業として処理できるだろう。

 動物が身体の高度化から脳の高度化へと進化してきたのに対し、高度化したコンピュータは逆方向の進化をすることを考えても、AIが自動化しやすいのはハードウェアを介する作業ではないことが容易に想像できる。

 ただ知的階級層が行っている仕事の多くを、実はAIの方が適切に処理できるとして、それを知っていればこそ人間はその座を譲らないだろうとも思う。

 AIは人間を排斥する、なんていう古典SFのようなことを恐れる人は未だにいるようだけれど、それはあまり考えなくてもよいような気がする。
 考えるのは必要かもしれないけれど、心配するほどの現実味はないように思える。
 もっともこのあたりの見積もりは人それぞれかもしれないけれど。

 いずれにしても高度な自動化によって労働から開放されれば、経済の概念も大幅に変わるだろう。

 自動走行車が一般化すればタクシーの形態も変わる。
 すでにそれを考えている人たちがいるはずだ。

 それが悪いとは僕は思わない。
 人は「しなくてはいけないこと」や「するのが得意なこと」ではなく「したいこと」ができるようになる。
 もっとも、本当にしたいこと、というのがない人も多いのだと今は思う。

 どんな些細なことでもいいのだけれど「本当にしたいこと」がないように見受けられる人が、少なからずいる。
 まぁ、それはそれで仕方ないのだろう。
 それもひとつの自由だし、とても平和的ではないだろうか。

 刺しただの刺されただの、そんな事件ばかり報道するニュースを見ているよりは、ぼんやり外でも眺めている方がよほども人間は平和だと思う。

 以前は「TVでニュースも見ないのか」「新聞も読まないのか」と言われることが多かった。
 僕は内心「この人はニュースなんか見ているのか」「新聞なんか読んでいるんだ」と驚いたものである。
 お金のことと将来の不安と人が死んだことしか情報に流れていない。それがニュースだ。
 それ以外のTVプログラムに至っては、健康と食べものと馬鹿騒ぎがほとんどだ。

 僕はそのいずれにも興味がなかったし、それを興味深く毎日眺められる精神は、どういうものなのかと今も感じる。
 そうなのだ、そんな情報よりも、庭先や道端に咲いた草花を眺めている方がよほどぼ有益で得るものがある。
 いろいろな発見があって、驚きがあって、気持ちも穏やかで豊かになる。
 人間とは、そういうものではないのだろうか。

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 もっとむつかしい、アタマを使う仕事に切り替えるべきか、ずっと考えている。
 平和な環境はステキだけれど、アタマが悪くなるのは望ましくない。




 追記。
 あまりにもバカ丸出しなタイトルなので変更した。
 僕はバカから元には戻らないのだろうか。
 もっとひどくなって、もっと稚拙になって、それでおしまいか。

 いつだったか「僕はね、自分の書いたものを稚拙だなんて自分で言い出す人間はどうしようもないと思っている」と言ったことがある。
 それさえも含めて、今はとても情けないと思う。

 それが悪いというのではない。
 ただ、情けないとは思う。