150518
同じようなことを言う人間がたくさんいる人間関係は、読みづらい小説に似ている。
名前は違っても、同じようなことを言う登場人物ばかり。そんなことでもストーリィは進むものなのだろうか。
名前は違っても、同じようなことを言う登場人物ばかり。そんなことでもストーリィは進むものなのだろうか。
失意などという言葉を使うと、また人が笑うとは思う。
笑われてばかりであるが、そういうのも慣れてはいる。
なので青猫工場では、昔から書いている「(笑いたければ)笑え。笑えよ。」と。
笑われてばかりであるが、そういうのも慣れてはいる。
なので青猫工場では、昔から書いている「(笑いたければ)笑え。笑えよ。」と。
そんなコンテンツの多くも消えた。
いや、消えたのではない。消したのだ。僕が。バックアップもないままに。
いや、消えたのではない。消したのだ。僕が。バックアップもないままに。
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小学生の頃、作文を書いて提出したところ、「ちゃんと思ったことを書いてほしいなぁ」と担任に言われたことがある。
「ちゃんと思ったことを書く」とはどういうことだろうかと、しばらく考え込んでしまった。
言われるまでもなく、自分が思ったこと/考えたことを書くのが作文だと僕は思っていて、だからこそ自分が思ったこと/考えたことを書いたのだ。
にもかかわらず「ちゃんと思ったことを書いてほしい」という注文(およそ非難がましいクレームに近かった)と言われたのである。
「ちゃんと思ったことを書く」とはどういうことだろうかと、しばらく考え込んでしまった。
言われるまでもなく、自分が思ったこと/考えたことを書くのが作文だと僕は思っていて、だからこそ自分が思ったこと/考えたことを書いたのだ。
にもかかわらず「ちゃんと思ったことを書いてほしい」という注文(およそ非難がましいクレームに近かった)と言われたのである。
高校生になっても同じようなことがあった。
当時所属していたある組織の管理者に作文を提出して(作文を書く課題があったのだ)その際に「綺麗にまとめようとしなくてもいいんだよ」と(にこやかに、そして非難がましく)言われた。
当時所属していたある組織の管理者に作文を提出して(作文を書く課題があったのだ)その際に「綺麗にまとめようとしなくてもいいんだよ」と(にこやかに、そして非難がましく)言われた。
そのときは気が付かなかったけれど、今は分かる。
彼らは僕の作文を読んで「綺麗にまとまっていて、心がこもっていない」と思ったのだ。今ふうにいうと「綺麗にまとまりすぎていて、心がこもっていなさすぎる」と感じたのだ。
余計なお世話である。
彼らは僕の作文を読んで「綺麗にまとまっていて、心がこもっていない」と思ったのだ。今ふうにいうと「綺麗にまとまりすぎていて、心がこもっていなさすぎる」と感じたのだ。
余計なお世話である。
きっと、ぐしゃぐしゃで右往左往していて、それでもひたむきで力いっぱいな感じがほしかったのだろう。
子供を相手にしている人たちならではの感性だとは思う。
一方の僕はといえば、大人しい(あえての漢字表記)、冷めたタイプの子供であったから、まぁ彼らの気に入るタイプではなかっただろうと容易に想像できる。
子供を相手にしている人たちならではの感性だとは思う。
一方の僕はといえば、大人しい(あえての漢字表記)、冷めたタイプの子供であったから、まぁ彼らの気に入るタイプではなかっただろうと容易に想像できる。
それにしても「ちゃんと思ったことを書いてほしい」とはずいぶんな言い方ではないだろうか。
要は「あなたの書いたこれは、嘘でしょう?」ということである。
人が思っていること、考えていること、あるいは思っていないこと、考えていないことを、他人が勝手に決めつけているのである。
「あなたはそうは思っていないと私は断言するのだからあなたは絶対にそうは思っていない」ということである。
いくら「大人/子供」「教師/生徒」という関係性があるにしても、それはあんまりだ。
人のことを勝手に決めつけるのはやめてほしい。
要は「あなたの書いたこれは、嘘でしょう?」ということである。
人が思っていること、考えていること、あるいは思っていないこと、考えていないことを、他人が勝手に決めつけているのである。
「あなたはそうは思っていないと私は断言するのだからあなたは絶対にそうは思っていない」ということである。
いくら「大人/子供」「教師/生徒」という関係性があるにしても、それはあんまりだ。
人のことを勝手に決めつけるのはやめてほしい。
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小中学生の頃、学年に一人か二人は居なかっただろうか「あいつ(どこかのクラスの女子)はオレのことが好きなんだぜ」とか公言するやつ。
10代ならばまだ笑って済ませることができるが、20代を過ぎてもそういうアブナイ奴はいる。
相手にも選ぶ権利があるとか、相手の気持ちを考えなよ、とかそれ以前に、勝手に人のことを決めつけられるそのデリカシィのなさは問題だ。
30代、40代と年齢を重ねてなおその性状が直らないとしたら、立派に犯罪的な人間だと僕などは思う。異常で危険な性質ではないだろうか。
10代ならばまだ笑って済ませることができるが、20代を過ぎてもそういうアブナイ奴はいる。
相手にも選ぶ権利があるとか、相手の気持ちを考えなよ、とかそれ以前に、勝手に人のことを決めつけられるそのデリカシィのなさは問題だ。
30代、40代と年齢を重ねてなおその性状が直らないとしたら、立派に犯罪的な人間だと僕などは思う。異常で危険な性質ではないだろうか。
10代そこそこの人間の書く文章が「綺麗にまとまっている」ことが気に入らない、というのもどうかと思う。
綺麗にまとまっていることが好きな人もいるし、そもそも綺麗にまとまっている人間だっているかもしれない。
10代にして人間が綺麗にまとまっていることをちょっとした問題だと危惧する気持ちは、教育者として間違ってはいないとも思うけれど、だからといって綺麗にまとまっていることを否定する必要もないだろう。
綺麗にまとまろうとすることが、人の意志の方向性なのだから。
綺麗にまとまっていることが好きな人もいるし、そもそも綺麗にまとまっている人間だっているかもしれない。
10代にして人間が綺麗にまとまっていることをちょっとした問題だと危惧する気持ちは、教育者として間違ってはいないとも思うけれど、だからといって綺麗にまとまっていることを否定する必要もないだろう。
綺麗にまとまろうとすることが、人の意志の方向性なのだから。
小さくまとまるな、ということなら意味も分かる。
そしてそれを端的に伝えることがとてもむつかしいことも分かる。
小さくまとまらない。ということは、小綺麗に飾ることなく、ダイナミックに力強く、思うままに。ということなのだろうとざっくりとだけれど考えることができる。
そしてそれを端的に伝えることがとてもむつかしいことも分かる。
小さくまとまらない。ということは、小綺麗に飾ることなく、ダイナミックに力強く、思うままに。ということなのだろうとざっくりとだけれど考えることができる。
なるほど、そう考えれば「小綺麗にまとまっている=力を出し切っていない=本心を隠している」ということにもなるだろう。
けれども、僕はそもそもそんなに力いっぱいな人間ではない。むしろ非力である。
だから力を出し切っていないように見えて、相当に背伸びをしている可能性も高い。
本心を隠しているのではなく、そこまで(いわゆる「ヒトの本心」というところまで)考えが及ばない可能性も高い。
けれども、僕はそもそもそんなに力いっぱいな人間ではない。むしろ非力である。
だから力を出し切っていないように見えて、相当に背伸びをしている可能性も高い。
本心を隠しているのではなく、そこまで(いわゆる「ヒトの本心」というところまで)考えが及ばない可能性も高い。
飛べない人間に飛べと言うようなものである。小綺麗にまとまっているようでいて、それが限界なのである。
繰り返すが「子供なんだからもっとダイナミックに、小さくまとまらないでほしい」という気持ち、姿勢は、教育者としてはたしかにいい姿勢だと思う。
しかし、そもそもダイナミックに振る舞うことを知らず、綺麗であることを目指すタイプの子供(要するに子供らしさの足りない、子供としての子供を演じる能力に乏しい子供)もいるのである。
繰り返すが「子供なんだからもっとダイナミックに、小さくまとまらないでほしい」という気持ち、姿勢は、教育者としてはたしかにいい姿勢だと思う。
しかし、そもそもダイナミックに振る舞うことを知らず、綺麗であることを目指すタイプの子供(要するに子供らしさの足りない、子供としての子供を演じる能力に乏しい子供)もいるのである。
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僕の人生を歩んだこともないようなよく分からない人間がたくさん出てきて、まぁまぁ正論らしい正論を並べて何かを強要してくる、という状況を、僕は過去に経験したことがある。一度ではない。
相手にしてみれば、それが正義であったり、倫理であったり、あるいは親切であったりもするのだろうとは思う。
相手にしてみれば、それが正義であったり、倫理であったり、あるいは親切であったりもするのだろうとは思う。
しかし、それがあまりに強固に押し付けられる場合「あいつオレのこと好きなんだぜ」と平気でのたまうガキを見ているような気分になる。つまりぶっとばしちゃいたくなる。
人のことを勝手に決めつけて悦に入ってるより前に、自分が何をどうするかを考えたほうがいい。と僕は思う。
人のことを勝手に決めつけて悦に入ってるより前に、自分が何をどうするかを考えたほうがいい。と僕は思う。
実際のところ、僕は自分に根がないことを知っているので、柔軟さを発揮して、他人の言うとおりに従ってみたりはするのである。だいたい頭数が多い人間というのは声も大きい。選挙の時期の宣伝カーのようなものだ。
結果はどうかというと、かなりの割合で、ろくなことがない。これは断言できる。
結果はどうかというと、かなりの割合で、ろくなことがない。これは断言できる。
先の作文の例で、僕はその後に「ちゃんと思ったことだと思われるように」「なるべく綺麗にまとまらないように」書いたけれど、僕にとってはとんでもないくらい「僕の思っていること」からは遠く離れた内容で「僕の思ったまとめ方」からもかけ離れた、つまるところ「僕が書いた、僕じゃない誰かが思って考えて書いたような作文」のようなものになって、書き上げて「ふうん、まぁまぁこれならいいんじゃない」という目を向けられると、ますますひどい気分になって数日落ち込んだ記憶がある。
今ふうにいうと「失意」である。
今ふうにいうと「失意」である。
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小説を書くときに、そのキャラが立つかどうかの基準に「考えたり、言ったり、思ったりするだけではなく、実際に走ったり動いたりすること」が重要だと僕は思っている。
生身の人間が生きることも同様だろう。
他人のことをとやかく言うことが生きることだと勘違いしているとしたら、それは死んでいる人間と一緒だろう。
自分が、何をどうするか。それだけでいいと思う。
生身の人間が生きることも同様だろう。
他人のことをとやかく言うことが生きることだと勘違いしているとしたら、それは死んでいる人間と一緒だろう。
自分が、何をどうするか。それだけでいいと思う。
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本当のことを書いても通じないことは多い。
かといって、嘘を書いたら通じるかというと、嘘が嘘のまま(裏返ることなく)相手に信じられてしまったりする。
思ったことを書いたところで、それが思っているとは信じてもらえないことも多い。
思ってもいないことを書くと、これがときどきウケたりする。
書きたいことを書くなんてもってのほかだ。
かといって、嘘を書いたら通じるかというと、嘘が嘘のまま(裏返ることなく)相手に信じられてしまったりする。
思ったことを書いたところで、それが思っているとは信じてもらえないことも多い。
思ってもいないことを書くと、これがときどきウケたりする。
書きたいことを書くなんてもってのほかだ。
そんなふうに思って、何も書かないでいたら、どんどん気持ちが塞いできて危うくなってきた。
読む人は勝手に読んで勝手に私の考えていることや私の行動や私の過去についてを(けっこう見当違いに)憶測し、私を評価する。
先日も、ある人から「あなたと、あなたの書く文章はすばらしい」と褒められたものの、もう私は失意の底なのですから勝手に私の書いたものから私を評価したり憶測するのはやめてくださいたぶんわたしはそんなに素晴らしくないですし私の書いたものが素晴らしく見えたのはたまたまあなたが素晴らしい気持ちで読むことができたからでしかないのですと言おうと思ったのだけれどこれもこれでひどく面倒で苦痛で。
先日も、ある人から「あなたと、あなたの書く文章はすばらしい」と褒められたものの、もう私は失意の底なのですから勝手に私の書いたものから私を評価したり憶測するのはやめてくださいたぶんわたしはそんなに素晴らしくないですし私の書いたものが素晴らしく見えたのはたまたまあなたが素晴らしい気持ちで読むことができたからでしかないのですと言おうと思ったのだけれどこれもこれでひどく面倒で苦痛で。
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もうじき今年も半分が過ぎようとしている。
僕は結婚をしなかった。
たぶんこの先もしないんじゃないかという気がしている。
たぶんこの先もしないんじゃないかという気がしている。
誰かが僕を決めつけているのだと僕が決めつけている可能性について、僕は思いを馳せる。
とても滑稽ではないだろうか。
つまり決めつけているのは、ほかの誰でもない僕自身なのだ。
とても滑稽ではないだろうか。
つまり決めつけているのは、ほかの誰でもない僕自身なのだ。
