:: ③ 〘物〙 物体が力の作用を受けながら移動するとき,移動方向の力の成分と移動距離の積で表される量。物体が仕事をされると,それだけ運動エネルギーが増加する。




150108

 晴れ。第2回目のハムづくり、最終工程の朝。
 今はコンロの上でボイルしている。

 今日は久しぶりに夢を見て目覚めた。
 夢の中で僕は仕事をしていたが、今までの仕事とは関係のない仕事をしていた。

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「むつかしい」といって、ものごとを自分から遠ざけようとする人が多いように思える。
 そういう人は「むつかしい、だから、できない」という暗黙の理論構築をこちらに提示してくる。
「私には、むつかしい(だから、できない)」というわけである。
 僕が「簡単だよ」と言っても、まず信じない。彼ら、彼女たちにとっては、それは「むつかしい」のである。

 たとえば仕事上のことでもそうだし、パソコンの操作や、数学などでもいいだろう。
 僕はこれらを「むつかしい」と思ったことはない。
 極端な話、今の僕には理解ができていない量子力学やら一般相対性理論、波動方程式、株式市場、会社法とその設立の実務などを、僕は「むつかしい」とは思わない。
 自分に理解ができていないだけのことであって、今の自分にそれを処理する能力がないのだとして、それは「むつかしい」ことだろうか。

 僕は言葉をなるべく正直に使いたいといつも思っている。
 理解ができないことは理解ができないこと。能力がないことは能力がないこと。やりたくないことはやりたくないこと。
 いずれも「むつかしい」わけではない。

 そもそも、むつかしい、とはどういうことなんだろう。

 新聞やニュースなどでも「難しい局面」なんて言ったりする。
 たしかに設計をしていると「むつかしい曲面」にぶつかったりして、どうやってこれを作図したものか、と思ったりする。
(これは工作でもCGでも一緒)

 僕にとって「むつかしい」とは、「こういうふうにしたいのだけれど、今はその手法がうまく導けない」というときに感じることであって、それでも「こうしたい」という感情が僕自身を後押ししてくれる。
 つまり「むつかしい」という言葉を発する時に、ほとんどの場合、それを楽しみにしている自分を発見する。

 しかし見回した範囲でほとんどの人が、悪い意味で使っている。
 理解や実行が「困難である」(と感じているだけの場合が多いのだけれど)から、それは成功率が低く、簡単で容易なことに比べて悪いことだ、と思っている。
 ほんとうにそうなのだろうか。

 簡単なもの、便利なもの、手軽なものが本当に増えた。これはこれで喜ばしいことだと思う。
 では、自分の日常の中で「これはなかなか手強いな」と思う状況は、もはや存在しないのだろうか。

 たとえば半年放置してしまった換気扇の掃除。
 たとえば半年放置してしまった浴室の排水溝の掃除。
 たとえば今まで一度もチャレンジしたことのない料理。
 たとえば数年付き合ってきた恋人の浮気。

 それぞれ手強い。つまりむつかしい事象であり、局面でもある。曲面といってもいいかもしれない。
 たとえるならハードルが高い。つまり容易ではない。別の言葉でいうと、むつかしい。

 もちろん、もちろん。

 TVでは、いろんな汚れを落とす洗剤のCMがある(実際、どの程度、手軽で、便利かは別問題ではあるが)。
 美味しいものなど、お金を払って買えばいい(実際、どの程度、口に合うかは別問題ではあるが)。
 自分で作るにしても、レシピはそのへんにいくらでもあるから、その通りに作ればなんとかなる(技量にもよるが)。
 浮気にしたって、周囲の友人から週刊誌、Y!知恵袋にいたるまで、いろいろな人の意見を聞くことができるだろう(判断基準のレベルが低いとは思うが)。

 仮にこれが仕事の上での新しい手法であるとしても、理数で今まで自分が理解していなかった理論にしても、同様である。

 たしかに今の自分には、むつかしいもの、なのかもしれない。
 ハードルというのか、階段の段差というのか、とにかく高さを感じるのだと思う。
 だからといって、それを理由に、それは遠ざけられるべきものなのだろうか。
 むつかしい、というたったそれだけの理由で。

 食べるものに喩えるとわかりやすいかもしれない。
 美味しいものは、だいたい手間もかかるし、そう簡単に入手できない。
 骨付きの肉は骨のまわりが美味しいわけだけれど、肉から骨をはがすのは容易ではない。
 骨ごと食べるか、苦労して骨を外して食べるか、という手法を僕は考える。
「自分にはむつかしい」という理由で諦める人は、それを食べない(食べものに関していえば、実際には、そんな人はまずいないのだけれど)。

 綺麗に骨が外れなくてもいいと思う。
 骨ごと齧って、骨だけ吐き出してもいいと思う。
 ただ「自分にはむつかしい」という理由で、箸もつけないのはどうなのだろう。
「面倒だから」という気持ちが潜在的にあるとしても、食べたくないのなら「食べたくない」というのが食べない理由だし、それを正直に伝えたほうがいいと思う。
 むつかしい、というのは単なる事象に対しての個人的な評価である。同じ個人的な評価であれば、美味しいのか、美味しくないのかを知りたい。それ以前に、食べたいのか、食べたくないのかを、明確にして欲しいと思う。

「むつかしい、けれど食べたいから食べる」のか。
「むつかしい、けれど食べたい、にもかかわらずうまく食べられない」のか。
「むつかしい、なので食べたくない」のか。

 仕事でも僕は長年「あなたがもしこれをしたくないと思ったら、私が代わりにするからそう言って欲しい」と周囲に言ってきた。
 なぜなら僕自身、やりたくない仕事は誰かにやってもらいたいからだ。
(もっとも、僕にとっての「誰か」がいない場合は、僕自身でするしかないのだけれど)

 一般に「命令ならば、仕事なのだから、します」という態度の人ほど、仕事に対する好き嫌いが激しいし、その一方で好き嫌いを表明しないように思える。

 二つの仕事があって「好きな方を選んで。残りは私がやるから」と言った時に、
「じゃあ、こちらをやります」と答えられる人は、むつかしいものにもチャレンジしてゆける傾向が強いように思う。

 むつかしいものが嫌いだ、という人もいるけれど、おかゆのように歯ごたえのないものや、簡単で便利で安い薬品まみれの食品、自分の意見にいつも賛同してくれるような手軽な友人が好きで、そういうものを身の回りに集めて安心しているのだろうと想像する。

 高い場所に移動するのは、たしかに面倒なことではある。
 しかし、高い場所からしか見えないこと、面倒を乗り越えて分かることが、確実に、ある。

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 それにしても仕事ってなんだろう。










引用は、
『仕事』
from「辞書 ver 2.2.1(156)」© 2005-2011 Apple Inc. All Rights Reserved.
によりました。
 


::バイブレーターは、男性と女性の買い方が違います。
 男性は、この機能は押すとどうなるんですかと、まずボタンを押します。
 女性は、そんなものは一切押しません。
 女性は機能ではなく、目をつむって感触を確かめます。
 持つ向きが男性と違うのです。




150101

 13年間、365日、24時間を拘束される仕事に就いていたが、それを辞めた。
 いつ、どんなトラブルがあるかわからず、その対応も(もちろん日常業務も)任され、時には神経症のような症状に見舞われることもあった。
 それが日常化した今、今度は拘束されていない状況が信じられなくて、どうにも落ち着かない。
 未明のうちに目が覚めて、あれこれ考えを巡らせる。
 しかし、からっぽの状態、状況というのはたいそう気持ちのよいものである。

 僕はこれをよく倉庫に喩える。
 中身がいっぱいの倉庫は、もうなにも入らない。
 冷蔵庫だってそうだろう。
 それがいい、という人はそれでいいと思う。

 たまたま僕は、そうは思わない。
 倉庫は、中から外に出すものであるのと同時に、外から中に入れるものでもある。
 どちらに捉えるかは、使い方にもよるし、その人のスタイルにも依るだろう。

 ざっと見て、中身がいっぱいある方がよい、という人は、物事を消費していくタイプの人のように思う。
 消費してしまうから、ものがなくなることを怖れるのだ。

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 前厄の前年であるにもかかわらず、2014年はろくでもないことのオンパレードだった。
 物事をあしざまに書き連ねるのは性分に合わないので、よかったことを記しておきたい。

○ ベーコンづくりが上手になった。
○ ハムづくりに成功した。
○ 職場の近くの酒屋さんの若旦那と親しくなった。
○ 裏山の美味しいそば屋をまたひとつ発見した。
○ パイプ煙草の美味しさを知った(煙草はじつはとても美味しいものだった)。
○ パイプ煙草を友人に布教した。
○ Macが直った。
○ 歳を重ねるにつれ、自分の年齢が本当にわからなくなってきた。
○ 新しいカセットコンロがすごい。
○ 13年履いている靴を、やっと修理してもらえた。

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 仕事を通して、今年は本当に多くの人と親しくなった。
 今まで、僕はどれほど人と距離を取っていたのだろうかと思うほどだ。
 仕事を辞めるのにあたって「独立したらぜひ教えてね」と言われたが、今のところ、なにも決まってはいない。

 長い間、旅行に行くことさえままならなかった。
 本当はとても好きな、温泉旅行を、今は計画している。

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 物事を一方からしか見ないというありようや、自分の先入観による決めつけとそれによる閉塞を、僕はかなり嫌っている。
 いつも俯瞰して全体を客観的に観察する、これは習慣のようなものとして僕の身に、今はついている。

 抽象的であるとか、何を考えているかわからないとか、自分のことなのに他人事みたいとか、生まれ育ちによる根本的な性質を非難されることも多くなったが、今後はそういう人とはお互いに近づかない方向でゆけばよいのだと思った。そもそもあなたは私の親じゃない。

 そう考えると、僕の父はとても包容力のある人だった。
 たとえるなら、どこまでいっても柵のない牧場のような人だ。
 もしかしたら柵などなかったのかもしれないし、牧場でさえなかったのかもしれないし、父親ではなかったのかもしれない。どうだろう。そんなはずはないと思うが。

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 僕はもう、会社の備品ではないし、誰かの付属品でもない。
 僕は僕のために能力を使うことができるし、僕のために時間を使えばそれでいい。
 人がましい顔で「これはこうでなくてはならない」と説教を垂れる人間のおよそ10割は、その人自身の狭い人生観から得た教訓を信じ込んでいる人であって、残念なことに僕の人生を生きたことのない人でもある。

 これは「信念など持たない方がいい」ということが言いたいのではない。
 信念は必要だ。
 しかし信念は、誰にも見えない自分のなかの芯に隠し持っていてこそ意味があると僕は思っている。(これもまた信念)
(新年から信念ネタ)
 誰かに見せびらかして、あるいは道を諭すために振り回すのが信念ではない。
 誰かのためのものではないから、自分の役にしか立たない。だからこそ自分にとって最上の意味があるのだし、だからこそ他人にそれを自慢することはとても恥ずかしいことだと思う。

 自分にとって本当に大切なこと、本当に大事なことは、たとえば簡単に言葉にできるようなものではないかもしれない。
(簡単に言葉にできることを大切にしている人もいると思うのでそれはそれでいいと思います)
 概念的、抽象的な茫洋としたものが、確固としているからこそ、人はひとつの方向に進んでいけると思うし、同時に臨機応変にもなれるのだと思う。

 その人の人生はその人のものだ。
 言葉でわかっていても、身近な、つまりは愛する人にそれを具現できる人はなかなかいないような気がする。
 近しくなればなるほど、ついぞまるで自分の所有物のように、他人の人生をコントロールしたくなるのが人間なのかもしれない。

 僕にはよく分からない。









引用は
「大人のおもちゃも、男性は機能で選び、女性は感触で選ぶ。(第5章 「愛してる」の伝え方。)」(p.116-117)
from「初めての、恋のしかた」(著作:中谷 彰宏 / 発行:大和書房 )
によりました。
1.「アヲネコジルシ」の手作りハムを用意する。

2.厚さ10mm~20mmほどに切る。

3.フライパンを熱する。
  箸で持ちながら、ロースの脂身の部分を強めの中火で10分ほど焼く。
  油が出てきたらフライパン全体になじませながら、脂身全体を焼く。

4.脂身のほとんどが半透明になったら、強火にして片面を焼く。

5.強い焼き色がついたら裏返して焼く。

(もともと加熱済みのものなので、あたためることと焼き色をつけることが目的である。網焼きでもよい)

6.お皿に盛りつける。





感想:
とても美味しかった。
 


::女が少しでも美しく見せたいために、あらゆる努力を惜しまないのは、正当な理由がちゃんとあって、ために真剣な話なのである。だが、男は、真剣な態度でのぞむことは別にあるのが、男というものだ。ずいぶんと保守的なことを言うと思う人がいるかもしれないが、それはまちがっている。なぜならば、所詮、われわれ女は、身だしなみ以外に真剣勝負するものを持っている男を欲しているからである。





141226

 最近の女というのは愛を知らない。
 なべてひとしく例外もなく、とまではいわないが、おおむねそこにあるのは自己愛と打算である。
 チョコレートコーティングのように優しく甘やかに見せかける向きもあるが、何のことはない、薄っぺらな鍍金皮膜である。(もちろん、人生経験の浅い私にとって、齧ってみないことには分からないのだけれど)

 男が強い時代から一転、女が強くなったと呼ばれる時代も過ぎたが、すべて終わってみれば結局、誰も強くなどなかった。
 遠い昔から人間は強さを争ってきたが、そのあとに残るのは荒涼とした寂寞だけである。誰かが決定的に強かったためしなどない。
 人は歴史から何も学ばないというが、確かにそうなのだろうと思える。

 女が愛を知らないのには、その母親たる女にも責任があり、またその夫たる男にも責任がある。
 家族という関係性など、砂漠に埋もれた遺跡のごとくにすっかり破綻した環境で育った私がいうのも笑われる話かもしれない。
 けれども、物心ついた頃から「家族」というものを遠い花火のようにしか見てこなかったからこそ、僕は家庭というものの持つ関係性に憧れもしたし、同時にそれが少なくとも自分の身の回りではどうにも再現されようのない憧憬であることも理解した。
 立脚するものを持たないからこそ、そこにはある程度一般化された人間の力学が見えてくると、自分では思っている。

 女が強いと呼ばれるようになった時代の少し前、男はその座を、なるほどそうまで言うなら女も利口なものなのかもしれないと明け渡したのではある。
 しかし広くいわれる通り、女は浅はかなのでもある。
 力を求め、力に生きるようになった女は、結果的に、女ではなくなる。

 男は一般に力を求める傾向にあるが、これには理由と目的が厳然としてある。むしろなくてはならない。
 性差で比較して女が浅はかであるというのであれば、性差で比較して深遠なるものが男である。
 深遠でなければ男でないといってもいい。女をして浅はかだと微笑むより以上の深遠さを持っているものが男であろう。
 深遠なるものを現実のものとするために、男は力を必要とする。
 深遠なる指針を持たない力の行く末は、暴走しかしない。力というのはそういうものである。
 政治や原子力発電所に喩えなくてもわかりそうなものではある。
 力に振り回されないためには、遠い場所をいつも見ていなくてはならない。
 まして力を振りかざすなどもってのほかである。

 だから力を持つのが深遠なる女であるならば、それはよいことであり歓迎されるべきことである。
 あるいは浅はかなる男が力を持つのであれば、そんなものはないほうがよいということになる。

 浅はかなるものが力を持ったところで、結局は何も残らない。
 太陽信仰の文明は女性崇拝の文化を持つと聞いたことがあるが、果たして女性が国家を動かす世界は、男性を基準とした「力」を同じように用いていたものであろうか。

 つまるところ根底にあるエナジに関する概念が、そもそも間違っているから力というものが暴走するとも考えられる。
(飛躍しましたが、みなさんついてきていらっしゃいますか?)
 人間関係の間に「力関係」という言葉を持ち出す人間がいるが「エナジ関係」がそこには等しく存在しているだろうか。
 何なら「ポテンシャル関係」としてもいいだろう。意味が分からない?
 つまり「力関係」という概念自体が、相当に意味を限定されている。
 「力関係」が「エネルギー関係」であるならば、各位の位置エナジが上であるとか下であるとかと同様に、運動エナジが多いとか少ないとかも論じられるべきなのだけれど、こういうことを言っていると「猫氏がまた分からないことを言っている」と一般には思われるようではある。

 さても愛を知らない女が多いということは、深遠なる男が少なくなり、またそれ(深遠という理解しがたいものを自分の中心に抱えているのが男であるということ)を理解できる女がほとんどいなくなったということだろう。

 男は弱くなったのではない。バカになっただけである。
 浅はかに同調して浅はかになっただけである。

 女は強くなったのではない。愛を忘れただけである。
 力を手に入れるために愛を手放したのである。

 位置エナジと運動エナジは摩擦が存在しない限りにおいては等しく交換が可能である。
 それぞれの失ったポテンシャルが変換され、ふたたび還元されることも、もしかしたら、ありうるのだろうと思いたい。

(どうだ。今日は硬派だろう。)



>>>

 上記のような思想から僕は女を追いかけることはやめて仕事に生きようと思ったのだけれど、社長と対立した末、辞職することになった。
 1月から就職活動である。チーン。








::日本に帰国中に、ある男性向きの雑誌のインタビューで、どういう男が好きか、とたずねられた。私の答えは、タキシードの似合う男、というものだった。そして、その理由として、こうつけ加えたのである。
「ジーパンの似合う男が必ずしもタキシードも似合うとはかぎらないが、タキシードの似合う男は、絶対にジーパンも似合うからです」
 遊びは、ヴァリエーションを愉しめるところにしか存在しない。つまり、選択の自由が愉しめるところにしか、存在しないのである。ジーパン・オンリーを自負する男たちは、自分自身でも気づかない間に、束縛からの解放であったはずのジーパンが、「遊び」ではなく「真剣」なことになるという落とし穴に、落ち込んでしまっているのだ。「真剣」にジーパンをはいている男など、「真剣」に背広を着ている男とまったく同じに、こっけいそのものではないか。










 引用は
「古き皮袋に新しき酒を」(冒頭部:p.33 / 文末部:P.34)
 From 「男たちへ」(著作:塩野 七生 / 発行:文春文庫)
 によりました。
141202

 晴れ。風が強い。

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 久しぶりにベーコンを昨日作った。
 今回は半ソミュール液を作っての仕込み。
 次回は完全なソミュール液での仕込みをしようと思う。特にスパイス類はある程度の温度の湯のほうが風味が出るだろう。

 塩抜きはひと晩で、かなり忙しかった。
 干しは一日目の晩に雨が降り出して室内干しをしたので合計36時間ほど。
 燻煙は80~90℃で1時間。
 ひと晩おいて、今日が初の試食。

 味はまぁ、単純に美味しい。
 これまでの中でも屈指のできばえである。
 少々塩味が強いのだけれど、塩抜きは二晩のほうがよかったのかもしれない。
 しかしそうなると、塩漬け4~6日、塩抜き2日、干し2日で10日からの時間を要することになるので、休日に作る、というレベルを超える。

 日本酒がおいしくいただけた。
141201

 雨。

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 僕は自分の棲んでいる場所がたいそう好きですさまざまなオーダやら言い訳やら理由やらが飛び交う昨今ですがみなさんお元気ですか私は元気ですみなさんお元気ですかそうですか。
 いまや人知れず人見知りであるところのわたくしも口をきけないくらいぐったりしまうことが職務上はたびたびありそんなときはTVゲームをしたり料理をしたり掃除や洗濯をしたり気が向かないから何もしなかったりガールに甘やかされたりしつつ回復を待つわけなのですが先日ガールを呼んだところガールもたまたま疲れていたのかわたくしのぐったり加減に耐えられなくなったようで「そんなに疲れてるなら呼ばないでよ」となじられまして以来わたくしは言葉を失いましたええまぁ多分そのくらいわたしのぐったり加減はたれぱんだの比ではないほどのぐったり加減であったことよ(遠い目)いずれにしても私には親がなく実家というものもなくよりどころというのは自分の家と自分しかないのでじっと回復を待つしかないのですがぐったりしている休日でも仕事の電話が最近多くて師走で困ります。今日は早く寝よ。

 あとあとカテゴリが練習用だと広告がでるとかブラウザのプラグインで表示しないようにしていたためにまったく知らなかったのだけれどあまりにもうるさいシステムなのでもうこれからの記事は全部バトンかその他のニュースにしてしまえばいいやと思いましたしカチンときたのでもうおれは一生チョキしか出さねぇと思いました。
20141112

 曇天。寒い。

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 先日の日記( http://blogs.yahoo.co.jp/bluecat_engineering/39068349.html )にあるとおり、僕は自分が煙草嫌いなのだと思っていた。
 なにせ「煙草好き」を自称する人たちは、一日にシガレットのひと箱くらいは軽く吸ってしまう。
 多い人は3箱やら5箱やら(ショートホープではないと思うので、ひと箱20本換算で60~100本)を吸う。一日で、だ。
(※知らない人のために記載しておくと、ショートホープシリーズはひと箱10本。1パッケージ20本入りでない銘柄はそれほど多くはないが、ほかにも存在する)

 それだけ吸ってなお「煙草はやめられない」というのだから、本当に好きなのだと思った。

 僕にはそれは無理だ。
 一日にがんばって(がんばって?)もひと箱がやっと。
 チェーンスモーキングも3本になるとたいてい美味しく感じられなくて途中で消してしまう。
 一日トータルで8本を越えると、たいてい美味しく感じられなくなってしまう。
 寝起き後1時間は煙草を吸っても美味しくないし、就寝前1時間に煙草を吸うと翌朝の体調がすぐれないから吸わない。
 風邪を引いたら吸わない。
 健康でも一日吸わずにいて問題はない。1年くらいの禁煙は苦もなくできるし、再開も「なんとなく美味しく吸えそうだと思ったから」始めるだけだ。
 煙草に依存などしていないし、中毒でもない。吸わずに、まったく問題がない。
 ただ、美味しい(と予感できる)ときは吸いたい。

 運転中の煙草が美味しいケースは40%の確率。
 運転中の煙草が非常に美味しいケースは5%の確率。

 仕事中(休憩中)の煙草が美味しいケースは10%
 イライラしているときの煙草が美味しいケースは20%
 趣味の時間中の煙草が美味しいケースは30%
 料理中の煙草が美味しいケースは40%
 食後の煙草が美味しいケースは30%
 掃除の後の煙草が美味しいケースは60%
 お酒の席での煙草が美味しいケースは5%
 運動後の煙草が美味しいケースは60%
 体調が悪いときに煙草が美味しいケースは0%
 風邪を引いているときに煙草が美味しいケースは0%
 セックスのあとに煙草が美味しいケースは5%(めったにそんなことしないが)

 チェーンスモーキングの2本目が(どうしても吸いたくて)1本目と同じくらいに美味しいケースは50%
 3本目が(どうしても吸いたくて)2本目と同程度に美味しいケースは5%
 30分時間をおいて2本目を吸う場合に美味しいケースは40%

(以下はいずれもシガレットに合う飲み物がある場合のおおよその数値。飲み物や環境、同席している人や話題によっても大きく変わる)

 この通り。
 多くの場合、僕は煙草を吸うたびに「一番美味しいときの煙草と比べて、美味しくないな」と感じていたわけだ。
 比較対象が悪いのかもしれないが、煙草というのは美味しくもない煙を吸うために火を灯けるようなものではないと僕は感じている。

 どうでもいい気持ちで喫煙するのがいやだったし、適当に吸い続けていて喉を痛めたりするのも嫌だった。
 なんとなく吸うのが嫌いで、どうしても吸いたいときに、美味しく思えるという確信の上で吸いたいと思っている。

 食事ではないので、その欲求は測りづらい。
 これが「いま吸う煙草が果たして本当に美味しいかどうか」のバロメータなのに。
 結果的に、先ほどのような「煙草を美味しく感じられる状況が半分にも満たない」という状況(記憶)になっていた、というわけだ。

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 ここまで書いて気がついたのだけれど、僕にとって食事もこんな感じだ。
 時間や習慣にとらわれず、満足を通り越えて過剰になったときの感覚不全や体調不良も予測し、一番美味しく感じられるところを基準に、満足の感覚が下降しはじめたら終わりにして余韻を楽しむ。
(いや、まぁ、あれですね。食事以外でも同様の傾向がありますね、はい)

 五感を刺激するものに対して「体調や環境も含めたコンディション/対象に対する心身の欲求の強さ/満足感そのもの/満足できることが予測できる可能性」を僕はなんとなく記憶しているらしい。
 なおかつ、コントロールできる範囲で、いま求めている刺激感覚をよりよい状態にしようと考える。
 だから、空腹感や渇望感が好きなのだろう。
 満たしたいという(満たされていない)状態の感覚をつぶさに感覚し、それが満たされるときの感覚をつぶさに感覚する。
 自分で書くのもなんだけれど、僕はよくいえば敏感、悪くいうとド変態に属するのかもしれません。

 が、普通といえば普通。
 誰だって、不味いものは食べたくない。美味しいものを食べたい。そういうものだと思う。
 だからこそ外食ならば店を選び、一緒に行く人(あるいはソロ)を選び、時間を選び、服を選び、メニューを選び、流れを考えるのではないのだろうか。
 自炊なら材料を選び、メニューを考え、最適な調理法を吟味し、器を選び、時間を考え、体調を整え(空腹にし)、手をかけたぶんだけ味わって、少しずつ食べるのではないだろうか。

 もちろん、毎日毎食そんなことをするのはむつかしいだろう。
 ならば、せめて週に1度くらい、できれば週に3回は、そういう感覚を大事にする日にしてもよいのではないだろうか。
 僕はできあいのものを食べる機会も多いが、一日一食であれば当然のように、どれで空腹を満たすかよく吟味するし、空腹だからたいていは美味しいし、それでも不味い場合はそのまま捨てる。
 不味い料理(口に合わない料理とはまた異なる)は、食材で作られたゴミだ(だいたいケミカルな味がする)。ゴミが自分の身体を形成することに無神経でいるのはどうかと僕は思う。
 放射線濃度が高い食品が身体に悪いなら、身体が美味しく感じないものもまたすべて身体に悪い。そんなものはすぐ捨てて、二度と買わなければ良い。

 食べ物がもったいないという人もいるとは思うが、自分の身体がそんな食べ物で汚されることのほうがもったいないと思ってほしい。
 空腹なのに不味く感じるものは、よほど身体に合わないのだ。
 捨てる食べ物よりも、汚れて傷つく自分の身体がもったいないと感じるのが普通ではないだろうか。

 美味しいときは美味しいときで「美味しい!」という感覚を味わいつくす。
 同じように、不味いときは不味いなりに「不味い!」という感覚を十分に感じ取れば(そしてすぐ捨ててしまえば)同じ過ちを繰り返さないで済む。

 それ以外の身体の感覚も同様で、自分の下腹部が出てみっともないと感じたり、身体が思いと感じたら運動(端的にいえば筋トレ)をする。
 トレーニングは始めるまでが面倒だし、していても苦しくなったりするし、決して楽しいわけではない。
 けれども身体が思うとおりに、軽く、しなやかに動くことの快感を知っていれば(その感覚を覚えていて、思い出せるならば)多少は我慢もできるし、きっかけもつかみやすいし、続けられるものだろう(実のところ近年の僕は続けられたが、20代まで極端な運動音痴でそんなことはできなかった)。

 どうでもよいものを身の回りに置いて、どうでも良いものを身に着けて、どうでもよいことばかりしているから、感覚が鈍るのだろう。
 どうでもよい人と一緒にどうでもよいことをして、どうでもよい情報や感覚にまみれて、どうでもよい感想を持つ。

 そうやって、どうでもよい人間が出来上がってゆく。

 外部からの情報で圧力形成されたどうでもいい人間には、ある種の無神経さがある。デリカシィのなさ、下品さ、身勝手さがある。
 自分という内側から生まれた情報や感覚で形成された人間が繊細で、思慮深く、上品だとはいわないが、なんというのか、肌に合うのだ。

 どちらがいい、ということではなく、あくまでも好みの問題ではある。
 おそらく逆方向からは、気取り屋で、意固地で、お高くとまっていて、小難しい厭味な人間だと観察されるとは承知しているので。

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 とにかくそのようなわけで、僕はあまりにも「煙草の美味しさ」に(無自覚に)こだわるあまり喫煙量が減り、喫煙量の多い人を見て、あるいは他の多くの人から(それほど吸わないのならやめてしまいなよ)と言われるうち、自分が煙草嫌いなのだと思っていた。(実際、他人のシガレットの煙は嫌いだし)
 が、逆に考えると、そんなにこだわるくらい、僕は煙草が好きなのだった。
 これぞというコンディションで、美味しい煙だけを吸い、それ以外は吸いたくないという、そういうのもひとつの煙草に対する愛着である。

 ただやみくもに、美味しいと感じる暇もないほど習慣化した喫煙は僕には無理だったけれど、つまり僕は煙草グルメだったのだ。

 そのようなわけでパイプ煙草をはじめたら、これが美味しかった。
(もちろん、最初はなかなか美味しく吸えなかったし、今でもよく失敗するが)

 結論として、僕は煙草が好きなんだと思う。嫌いじゃなかったのだ。

 わざわざ好き好んで時間も手間もかかるパイプスモーキングを始め、それでもシガレットより美味しく感じられるという理由で続けることにしたのだから、まぁ、少なくとも合っているのだろう。

 パイプ煙草を喫むようになってから、シガレットは吸わなくなった。吸いたい、とは、今のところ思わない。



 で、やっぱりパイプ喫煙の話から逸れた。
 まるで目的のない旅のようだ。
 


::役に立たなくても魅力的なもの。そういったモノや行為は日々の生活の中に多々存在している。そして、その魅力が大きいほど、それは「毒」を含んでいる。また、役に立たないコトを真剣に考えたり、思考で捏ねくり回すとユーモアが生まれる。



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20141107

 晴れ。風が強い。冬かも。

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 以前書いたかもしれない。
 思索というのは散策に似ていると僕は思っている。

 ただ考えること。目の前にあることを考えること。自分や自分の損得が含まれることを考えること。
 これらは誰でも簡単にできる。最初の頃はそういう方向にばかり考えが行くだろう。動物や乳幼児を見ているとそう思える。
 大人になるにしたがって、そればかりになってしまい、自分の思考のルートがすっかり決まっている人も多い。

 お年寄りになるとこれらは非常に顕著で、自分以外の、たとえば他人のこと、他国のこと、世界全体のこと、自分がいなくなった時代も含めた未来のこと、敵対者のこと、などを考えられる人も多くいる一方、自分のこと、目の前のことだけで我利我利になっている人もいる。

 好みの問題であるから、いずれが良い、悪い、という話ではない。
(これは僕の文書の常套句になっているが、文字通りの意味である。良いということ、悪いということの本質的な意味を、たまには考えるべきだと僕は思うので、僕はそうしている)

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 自分の利を最優先に考える、というのは、まぁ、動物としてはとても自然であたりまえの状態だとは思う。
 利を求め、損失を嫌い、他者のことなど生死を問わずお構いなし。
 生かして搾取し、殺して奪取する。
 人間相手でないならば、僕らは日常でそれをしている。あまりにそれに慣れすぎてしまえば、もはやなんとも思わなくなる。その無神経が高じれば、やがて人間相手にそれを行うようになる。
 体裁を取り繕うなんてどうにでもなる。そんな刷り込みが暗黙のうちにされてはいないだろうか。

 もちろん僕もそうだ。
 スーパーで鶏肉を買うのに、ここに居もしない生きたニワトリやらヒヨコやらの未来をいちいち憂いているわけにもゆかない。
 それに、目の前のそれはすでに殺された死体だ。
 もちろん、買わないことで長期的には死ぬ個体を減らすことができるが、それはすなわち生まれる個体を減らすことである。

 豆腐(私はかなりの豆腐好きである)はどうか。
 人間の都合で交配され、改良され、栽培されて誕生し、刈り取られて死を迎え、加工され、捕食される。
 植物にも生きる権利くらいはあるが、生きました、はいサヨナラ、というのもそれはそれで哀れではある。
 そもそもその捕食はいったいどこから始まっているのか。生まれる前からではないのか。

 いやなに、何かを責めようというものではない。懺悔なさい、という趣旨でもないし宗旨でもない。
 僕は釣りもすればベーコンも作る。鉄砲撃ちの知人から聞く、鹿や熊を狩る話で盛り上がり、バジルを栽培したりもする。

 愛玩用の動物が大量に山に捨てられていたニュースがあったが、愛玩用の動物と、食用の動物の違いというのは、いったいなんだろう。
 これも、答えが欲しいわけではない。答えは人それぞれにあるだろう。良いも悪いもない。それを決めるのは、いつも人間。つまり私やあなただ。
 それぞれに良いことと悪いことが違う。それが本来のありようだろう。

>>>

 答えを出すというのは非常に簡単な(あるいは合理的な)処理の仕方だ。
「これは良い」「これは悪い」と答えを公式に当てはめて算出し、それでおしまい。
 公式を(ひどい場合は答えを)単純に暗記する。それですべて分かったつもりになる。
 同じ事象(まったく同じ事象なんて、ほんとうはどこにもない)が、発生すれば分かったつもりで答えを出しておしまい。こうなるともはや考える必要もない。
 それがとても一般的で常識的な対応である。時間の短縮という目的からすれば非常に合理的だ。
(これも、とくに良いわけでも悪いわけでもない。単純にそういった原理やしくみがあって、それに則って動いている現象が一般に観察される、というだけのことだ)

 僕の場合、基本的に自分が納得する答えを求めてあれこれ考える場合もあるけれど、そもそも答えがないことを知っていて考えることも多い。答えがほしいのではないし、善悪の判断をしたいわけでもない。ただ、正しさを考えたいだけだから、僕にとってはこれでよいと思っている。
 実際のところ、答えの出ない問題はとても多いし、提示された答えに安易に飛びつく人は一般に、それが単に自分(やその考え)にとって都合が良い答えだから飛びついている場合がほとんどに思える。
 つまり正しいかどうかなんてことはどうでもよくて、自分が得をする(気分の良くなる)答えを良しとし、損をする(気分の悪くなる)答えを悪とする、それだけのことのように観察される。
(領土問題などは格好の例かもしれない。ところでそもそも領土って何?)

 ひとつの問題は複数の細かい問題の集積によって成り立っている。
 それらを分解したほうがよいこともある。個別に修正することで改善されるものもある。逆に、全体で大きく変えたほうが良いものもあるし、そもそも目の前の問題が、より大きな問題があるために発生していて、にもかかわらずその大きな問題を見過ごしていることもある。
 これは具体的な目の前の事象にとらわれ過ぎたために起こることだけれど、まぁ、大きな問題は見つかってもなかなか簡単に修正できないことが多いから、これには目をつむって放っておいて、目の前の問題の解決だけに取り組めばよいのかもしれない。
 なんだか政治の話しをしているみたいな気持ちになってきた。

 いずれにしても僕にとって、良くても悪くても正しいことがあり、良くても悪くても考えが間違っているあいだはNGなのだ。
(たぶん、たいていの人には意味がわからないと思うけれど、それはそれでいいと思う。そもそも言葉はあいまいなものだ)

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 こうした僕の傾向は、日常生活で支障をきたすことがある。
 古くは「優柔不断である」という評価に始まり、最近では「抽象的」「自分のことなのに他人事みたい」などという評価を受けることがあった。
 そうした評価についてさえ、僕は抽象的かつ客観的に「まぁ、そういう評価もあるだろうね」くらいにしか考えない。

 僕に対する評価が変わることで株価が変動するわけでもない。オゾン層がなくなるわけでもない。宇宙の運行もたいした影響はないだろう(冗句です)。身近な範囲で人間関係に変動があるかもしれないけれど、まぁ、それさえも僕の日常にドラスティックな変化はもたらさないと思う。

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 いずれにしても、僕が思索するときにつとめているのは「普段考えないこと」を「普段考えない方向」から「より普段考えない方向」へ考えるということだ。
 つまり「関係ないこと」を考えるのがもっとも楽しい。関係あることを考える場合でも、関係ない方向に進んでゆくのがよい。

 まったく関係ないことを考えるのは慣れないとむつかしいから、身近な問題から、一般的な問題へと視点をシフトする。
 先の「小さな問題と大きな問題の組織的構造と表出事象およびその対策」のことは非常に抽象的だけれど、これは最初の「食べるもの問題」を捨象(抽象化/一般化)した考え方だということができる。

 そんなことをして何になる、といわれてしまうかもしれない。
 では一体、それ以外の、たとえば目先のことにとらわれて何かを解決するだけで、ほんとうにすべての問題は解決しているのか、という風にも僕は思う(もちろん、その意味は分かっているし喧嘩をしたいわけではないので思うのみにとどめて誰にも言わないが)。
 しかし先ほどの「小さな~」の抽象的な思考があれば、問題が表出しているとき、そこに派生している物事や現時点で不明な原因を考えることができるし、問題の根底を解決する一助にはなるだろう。

 あるいは人間の生きる意味、というようなどうでもいい(かつ曖昧な)疑問についても、ある程度の帰着点を探ることができるだろう。
 生きる意味なんて、たしかに日常生活ではどうでもいい、知っていたところで、あるいは考えたところで何の役にも立たないものだけれど、自殺を考える人はたいてい「生きる意味が分からなくなった」と思い、感じるから死んでしまうのではないだろうか。
 つまり普段から、なんとなくでも「自分の生きる意味」を考えることで、自分の自殺を防ぐことができる。
 多くの人が、何の役にも立たない「自分の生きる意味」を考え、答えが出ないなりに自分の中である程度の道筋や帰着点を持っていれば、たとえば自分の価値をやたらと外部に求めたり、あるいは自分の価値を承認するためにしている虚飾をやめることにもなるだろう。具体的なところでいじめなどの問題を解決する糸口になるかもしれない。自分の意味を知れば、他人に意味があることを知るからだ。自分の意味を考えるとき、たぶん人は、他人の意味を考えることができる。

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 誰もが考えたことがあるのに、答えがない。答えがないから誰も声高に言わない。益体もない「生きる意味」なんてことを考えるくらいなら、勉強をしてよい成績をとり、会社で仕事をしてお金を稼ぐことのほうが大切だと周囲からは言われる。そういう世知辛い世の中だ。何が世知辛いかというと、意味のあることにしか意味がないと思っているのが世知辛い。豊かさのかけらもない。共通価値のあるものにしか価値が見出せなくなったら、価値の意味がなくなってしまう。

 そして、そんな具体的なもの、数値化されたものだけを追い回すのが生きる意味なのか。そのために生きているのか。
 自分に意味はあるのか。他人に意味はあるのか。それはどんな意味か。意味はあるのかないのか。意味の意味とはなにか(ここまでくると悪ノリ)。

 答えはないから、各自で考えるしかない。
 あるいは誰か(多くは自分)が、そういう方向に仕向けているのかもしれない。

 日常の、具体的で細かいことをできるだけ確実に、ていねいに処理しながら、時折でもいい、そういった抽象的で、何の役にも立たないことを考えることを、僕はやめられないだろう。

 抽象的な思考など、たしかに何の役にも立たない。
 ええ、ええ。そのとおり。




 というようなことを、いつになく、考えてみた。これも普段はあまり考えないことだからだ。
 こんなことを考えるのは、料理の最中とか、お風呂の中とか、散歩のときとか、サイクリングの最中とか、パイプを喫むときくらいかもしれない。
 けれど、まぁ、こういうのは楽しい。
 何が楽しいといって、役に立たないのがいい。

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 引用は、
「毒とユーモア」From「Pierre smokes every day 2」
http://pierre.ldblog.jp/archives/8020342.html

 によりました。
20141105

 曇り。寒い。

 ごく一部の人しか知らないが、僕は煙草をあまり好き好んで吸わない。
 煙草を吸うようになっておよそ20年が経つが、最初から最後まで、まぁ、そんなに好きではないのに吸っていた。

 と、今は心から思うし、そういえる。
 なぜなら、僕はシガレット(一般に広く流通している、あの紙巻煙草のことです)をやめたから。

 そして、パイプを吸うようになったから。

 もちろん、シガレットにも美味しいときはある。
 結局のところ、美味しく感じるときに吸えばよいのだ。
 美味しく感じられないときに吸うのがよくないのだ。

 が、しかし。
 僕にとって、シガレットがとても美味しく感じられる、なんていうのは、場面がとても限られている。
 まず、気分が良くないといけない。
 空腹でも、満腹でもいけない。そもそも、そういう身体的な欲求に目が向いているときは美味しくない。

 飲み物がなくてはならない。
 できればカフェラテやカプチーノ。とびきり甘くて、とびきり苦くて、とびきりクリーミィなほうが望ましい。
 このほか、紅茶などでもよい。炭酸やジュースなども悪くない。

 気分を良くするシチュエーションがかなりむつかしいのだけれど、これはたいてい人為的に作り出すことができる。
 一番は、何かを作ったあとだ。有形無形を問わない。

 何が出来上がる、何か完成する。それが自分の手によって、自分だけで考えて作られたものであればあるほど、気分が良い。
 しかし、そんなことは滅多にない。そんなに簡単に得られる満足ではないのだ。
 自分の満足するものを考えて、自分の満足を満たすものを考えて、それを自分の手で作り出していって、自分なりのアレンジを加えて、最終的に自分の思ったとおり(うまくいった場合はそれ以上)の満足を手に入れる。
 これは手間も時間もかかるし、何よりひらめきが必要だ。ひらめかなければ、何も手に入らないといってもいい。時間も手間も無駄になるし、失敗すれば気分はそれなりに落ち込む。
(もちろん、悩む時間もまた楽しいのだけれど)
 正直なところ、そんな完璧な満足は年に数回もない。年に一度もないときだってある。

 仕方がないので、もっと手軽な方法で、ほどほどの満足した気分を手に入れる。
 部屋の掃除。自転車の整備。美味しい料理を作る。靴を磨く。滅多にしないものの掃除やメインテナンス。全力疾走(自転車に限る)。思索(文書を書くことが含まれる)。
 これなら週に一度、多ければ週に数回は味わうことができる。

 残念ながら、今の僕の仕事は何かを作ったり綺麗な状態にすることができない。ために仕事で満足した気持ちになったことは一度もない。
 仕事仲間とどうでもいい酒を飲みながらクダを巻きつつ煙草葉を煙に変えたとして、そんなものはこれっぽっちも美味しくない。お酒も煙草も、時間ももったいない。なのでたいていは一人だ。
(そもそも自分の満足のために仕事をしているのではないし、友達ごっこをする場所だとも思っていないから、これはこれで問題ない)

 ちなみに、先に挙げた満足は、すべて僕一人で手に入れられる満足ばかりだ。
 また作業の結果だけではなくて作業の行程自体に満足感があるらしく、自分以外の誰かにさせたところで自分でした以上の満足が得られることはまずない。
 部屋が綺麗なだけ、自転車が綺麗なだけ、料理が美味しいだけ、誰かが全力疾走した、というのでは何の嬉しさも楽しさも満足感もない、ということ。
(「料理を作るのが楽しい」というのは「たまに趣味で作るだけだからだろう」という批判を受けるだろうけれど、実際そうだと思う)
 たとえば何かがくすんでいれば気持ちが悪いけれど、誰かが磨いてピカピカしているよりは、自分で磨いたほうが何倍も満足感がある。

 もっとも、ここでいう満足感とは、あくまでも「シガレットを美味しくすうための前提条件である満足感」のことではあるけれど。

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 僕が自分の気分を「自分次第だ」と思っているのはこういう理由による。
 他人が介在して気分が悪くなることは多いし、逆に気分が良くなることは確率的に少ない。

 僕に限った傾向かもしれないがこれは大事な事実だ。
 他人が介在するとかなりの確立で気分が良くなる、という人は、それだけ他人に負担をかけている可能性を疑うべきだと僕は思うし、僕は他人で満足しそうになるとき、自分を疑う。
 僕は他人を使って(利用して/強制して/圧力をかけて)充足感を得ているのではないかと、ちょっとした恐怖さえ感じる。
 もちろん、世の中にはそうやって、強制されたり圧力をかけられてでも利用されることで、かえって満足感を得る人もいるようなので、まぁ、なんともいえないけれど。

 いずれにしても他人がいようといなかろうと、受動的であればたいした満足は得られないと思っている。
 一方、他人がいてもいなくても、能動的であれば、また行程を楽しむ能力があるならば、十分に満足することができるだろう。
 そういう意味で僕はTVを見るくらいなら本を読むし、自分で考えたことを文字にすることが楽しいと感じる。
 これらはすべて、自分の満足感に対して、とてもわがままだからだと認識している。

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 こうした満足感が心の中にあるときに、はじめて僕にとってのシガレットは美味しくなるのだった。
 だから美味しく吸うのが非常に面倒で、そのわりにいたるところで手軽に手に入って、いつでもそばに置いておけるので、なんというか、理想的な状態の再現性とその機会を作る簡便さが、まったくつりあわないのだ。まるで宝くじのように。





 さて、予想通り、話しがパイプから逸れた。

 でも、それでよい、と僕は思う。
牛すね肉が安かったので、シャーとなってやった。後悔はしていない。


1.すね肉に塩胡椒をして10分くらいなじませる。

2.フライパンにオイルを敷いて、1.の肉を強火で焼く。片面にしっかり焼き色がついてから裏返す。

3.あればワインや日本酒をかけて、さらに少し加熱し、火を止める。

4.圧力鍋に肉と汁を入れる。

5.にんにく1片、にんじん乱切り2本くらい、たまねぎ大1個(丸のままかハーフカット程度)、ローリエの葉っぱ3枚くらいをさらに入れる。

6.調味料は好みで。今回はカットトマトの缶詰(レトルト)1個と塩胡椒のみ。

7.加圧。(圧力調整ができる場合は高圧で)25分ほど加圧。
(加圧時間を調整して、すじの部分の柔らかさを変える)

(ジャガイモを入れる場合は加圧終了後、鍋に水をかけて冷やしたり、弁を開放して急速減圧し(自然減圧を待っても良い)、ジャガイモを入れてから5分ほど加圧する)

8.圧力が下がるまで放置(自然減圧)。

塩味やコンソメ味にする場合は、ここでする。

9.できれば半日くらい放置してから、あたためて食べる。