150518

 同じようなことを言う人間がたくさんいる人間関係は、読みづらい小説に似ている。
 名前は違っても、同じようなことを言う登場人物ばかり。そんなことでもストーリィは進むものなのだろうか。

 失意などという言葉を使うと、また人が笑うとは思う。
 笑われてばかりであるが、そういうのも慣れてはいる。
 なので青猫工場では、昔から書いている「(笑いたければ)笑え。笑えよ。」と。

 そんなコンテンツの多くも消えた。
 いや、消えたのではない。消したのだ。僕が。バックアップもないままに。

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 小学生の頃、作文を書いて提出したところ、「ちゃんと思ったことを書いてほしいなぁ」と担任に言われたことがある。
「ちゃんと思ったことを書く」とはどういうことだろうかと、しばらく考え込んでしまった。
 言われるまでもなく、自分が思ったこと/考えたことを書くのが作文だと僕は思っていて、だからこそ自分が思ったこと/考えたことを書いたのだ。
 にもかかわらず「ちゃんと思ったことを書いてほしい」という注文(およそ非難がましいクレームに近かった)と言われたのである。

 高校生になっても同じようなことがあった。
 当時所属していたある組織の管理者に作文を提出して(作文を書く課題があったのだ)その際に「綺麗にまとめようとしなくてもいいんだよ」と(にこやかに、そして非難がましく)言われた。

 そのときは気が付かなかったけれど、今は分かる。
 彼らは僕の作文を読んで「綺麗にまとまっていて、心がこもっていない」と思ったのだ。今ふうにいうと「綺麗にまとまりすぎていて、心がこもっていなさすぎる」と感じたのだ。
 余計なお世話である。

 きっと、ぐしゃぐしゃで右往左往していて、それでもひたむきで力いっぱいな感じがほしかったのだろう。
 子供を相手にしている人たちならではの感性だとは思う。
 一方の僕はといえば、大人しい(あえての漢字表記)、冷めたタイプの子供であったから、まぁ彼らの気に入るタイプではなかっただろうと容易に想像できる。

 それにしても「ちゃんと思ったことを書いてほしい」とはずいぶんな言い方ではないだろうか。
 要は「あなたの書いたこれは、嘘でしょう?」ということである。
 人が思っていること、考えていること、あるいは思っていないこと、考えていないことを、他人が勝手に決めつけているのである。
「あなたはそうは思っていないと私は断言するのだからあなたは絶対にそうは思っていない」ということである。
 いくら「大人/子供」「教師/生徒」という関係性があるにしても、それはあんまりだ。
 人のことを勝手に決めつけるのはやめてほしい。

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 小中学生の頃、学年に一人か二人は居なかっただろうか「あいつ(どこかのクラスの女子)はオレのことが好きなんだぜ」とか公言するやつ。
 10代ならばまだ笑って済ませることができるが、20代を過ぎてもそういうアブナイ奴はいる。
 相手にも選ぶ権利があるとか、相手の気持ちを考えなよ、とかそれ以前に、勝手に人のことを決めつけられるそのデリカシィのなさは問題だ。
 30代、40代と年齢を重ねてなおその性状が直らないとしたら、立派に犯罪的な人間だと僕などは思う。異常で危険な性質ではないだろうか。

 10代そこそこの人間の書く文章が「綺麗にまとまっている」ことが気に入らない、というのもどうかと思う。
 綺麗にまとまっていることが好きな人もいるし、そもそも綺麗にまとまっている人間だっているかもしれない。
 10代にして人間が綺麗にまとまっていることをちょっとした問題だと危惧する気持ちは、教育者として間違ってはいないとも思うけれど、だからといって綺麗にまとまっていることを否定する必要もないだろう。
 綺麗にまとまろうとすることが、人の意志の方向性なのだから。

 小さくまとまるな、ということなら意味も分かる。
 そしてそれを端的に伝えることがとてもむつかしいことも分かる。
 小さくまとまらない。ということは、小綺麗に飾ることなく、ダイナミックに力強く、思うままに。ということなのだろうとざっくりとだけれど考えることができる。

 なるほど、そう考えれば「小綺麗にまとまっている=力を出し切っていない=本心を隠している」ということにもなるだろう。
 けれども、僕はそもそもそんなに力いっぱいな人間ではない。むしろ非力である。
 だから力を出し切っていないように見えて、相当に背伸びをしている可能性も高い。
 本心を隠しているのではなく、そこまで(いわゆる「ヒトの本心」というところまで)考えが及ばない可能性も高い。

 飛べない人間に飛べと言うようなものである。小綺麗にまとまっているようでいて、それが限界なのである。
 繰り返すが「子供なんだからもっとダイナミックに、小さくまとまらないでほしい」という気持ち、姿勢は、教育者としてはたしかにいい姿勢だと思う。
 しかし、そもそもダイナミックに振る舞うことを知らず、綺麗であることを目指すタイプの子供(要するに子供らしさの足りない、子供としての子供を演じる能力に乏しい子供)もいるのである。

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 僕の人生を歩んだこともないようなよく分からない人間がたくさん出てきて、まぁまぁ正論らしい正論を並べて何かを強要してくる、という状況を、僕は過去に経験したことがある。一度ではない。
 相手にしてみれば、それが正義であったり、倫理であったり、あるいは親切であったりもするのだろうとは思う。

 しかし、それがあまりに強固に押し付けられる場合「あいつオレのこと好きなんだぜ」と平気でのたまうガキを見ているような気分になる。つまりぶっとばしちゃいたくなる。
 人のことを勝手に決めつけて悦に入ってるより前に、自分が何をどうするかを考えたほうがいい。と僕は思う。

 実際のところ、僕は自分に根がないことを知っているので、柔軟さを発揮して、他人の言うとおりに従ってみたりはするのである。だいたい頭数が多い人間というのは声も大きい。選挙の時期の宣伝カーのようなものだ。
 結果はどうかというと、かなりの割合で、ろくなことがない。これは断言できる。

 先の作文の例で、僕はその後に「ちゃんと思ったことだと思われるように」「なるべく綺麗にまとまらないように」書いたけれど、僕にとってはとんでもないくらい「僕の思っていること」からは遠く離れた内容で「僕の思ったまとめ方」からもかけ離れた、つまるところ「僕が書いた、僕じゃない誰かが思って考えて書いたような作文」のようなものになって、書き上げて「ふうん、まぁまぁこれならいいんじゃない」という目を向けられると、ますますひどい気分になって数日落ち込んだ記憶がある。
 今ふうにいうと「失意」である。

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 小説を書くときに、そのキャラが立つかどうかの基準に「考えたり、言ったり、思ったりするだけではなく、実際に走ったり動いたりすること」が重要だと僕は思っている。
 生身の人間が生きることも同様だろう。
 他人のことをとやかく言うことが生きることだと勘違いしているとしたら、それは死んでいる人間と一緒だろう。
 自分が、何をどうするか。それだけでいいと思う。

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 本当のことを書いても通じないことは多い。
 かといって、嘘を書いたら通じるかというと、嘘が嘘のまま(裏返ることなく)相手に信じられてしまったりする。
 思ったことを書いたところで、それが思っているとは信じてもらえないことも多い。
 思ってもいないことを書くと、これがときどきウケたりする。
 書きたいことを書くなんてもってのほかだ。

 そんなふうに思って、何も書かないでいたら、どんどん気持ちが塞いできて危うくなってきた。

 読む人は勝手に読んで勝手に私の考えていることや私の行動や私の過去についてを(けっこう見当違いに)憶測し、私を評価する。
 先日も、ある人から「あなたと、あなたの書く文章はすばらしい」と褒められたものの、もう私は失意の底なのですから勝手に私の書いたものから私を評価したり憶測するのはやめてくださいたぶんわたしはそんなに素晴らしくないですし私の書いたものが素晴らしく見えたのはたまたまあなたが素晴らしい気持ちで読むことができたからでしかないのですと言おうと思ったのだけれどこれもこれでひどく面倒で苦痛で。

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 もうじき今年も半分が過ぎようとしている。

 僕は結婚をしなかった。
 たぶんこの先もしないんじゃないかという気がしている。

 誰かが僕を決めつけているのだと僕が決めつけている可能性について、僕は思いを馳せる。
 とても滑稽ではないだろうか。
 つまり決めつけているのは、ほかの誰でもない僕自身なのだ。
150426

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破壊点:
物体に加えられる外力とそれに抗する応力との釣り合いが破れ,物体が大きく変化して破壊されるその極限の点。

質量:
物体に固有な力学的基本量。慣性の大きさを表す量として定義される慣性質量と,物体にはたらく重力の大きさが基準物体(例えばキログラム原器)にはたらく重力の何倍であるかによって定義される重力質量とがある。両者が比例することはエートベッシュによって実験的に確かめられているが,一般相対性理論では,両者が等価であるとされる。また,特殊相対性理論によれば,慣性質量は物体の速さが大きくなれば増加し,質量はエネルギーの一形態であると見なされる。単位は SI ではkg,CGS 単位系ではg。

運動の法則:
物体の運動を説明する基本的な法則。普通は古典力学の基礎であるニュートンの運動の三法則をさす。(1)第一法則(慣性の法則)静止または等速直線運動をする物体は力が作用しないかぎりその状態を保つ。(2)第二法則(ニュートンの運動方程式)物体に外力がはたらくとその方向に,力に比例し質量に反比例した加速度を生ずる。(3)第三法則(作用反作用の法則)物体が他の物体に力を及ぼすとき,相手の物体は同一直線上にあって大きさが等しい逆向きの力をはたらき返す。

連続体の概念(wikipedia - 「連続体力学」より抜粋):
現実の物質は内部に微小構造を持ち、空虚な空間を含み、連続ではない。また微視的な視点からはエネルギーやモーメントのような物理量のゆらぎも許容している。しかしながら研究対象となる物理的現象によっては、こうした微視的な不連続性、不確実性を考慮する必要はなく、巨視的な視点で論じることが可能である。この時物質は連続体と理想化される。連続体は、物質の巨視的な性質を保持した質点の集合体であり、質点は物質の存在する空間内に連続的に、密に分布している。そのため連続体内部の特性は空間的に連続であり、微分方程式を用いて把握することが可能になる。連続体は無限小の要素にまで分解可能であり、その特性はサイズによって変わることはない。
::



 特定のものを動かす。
 このとき、対象の質量が大きければ、必要とされる力もまた大きくなる。
 小さなものは小さな力でも動かせるが、大きなものは小さな力では動かせず、大きな力で動かすことができる。

 外力によって物体の運動を変化させる場合、作用する力が時間的に急激に加えられ、加速度がクリティカルを超えると、物体は破壊される。

 たとえば、お皿の上の豆腐を、そっと手のひらで全体的に押す場合。
 必要十分にゆっくりであれば、豆腐は原型を保つ。一方、必要充分な加速で押せば、豆腐は破壊される。
 局所的に力が加われば、やはり破壊される。
 アイスピックの先端で豆腐を移動することは、とてもむつかしい。

 大きなものを破壊することなく動かすには、力を少しずつ、全体に加えるのが適切である。
 最初の速度が小さいほど、かつ、加速度が小さいほど、破壊を避けることが容易になる。
 つまり接触時点での速度が十分に大きく、加速度も十分に大きいとき、必然的に物体は運動を変化することなく、破壊される。
 たとえば銃弾を手で投げつけても、死ぬ人はほとんどいない。
 歩行速度で自動車に衝突しても、死ぬ人はほとんどいない。
 一方で、相対的に充分な速度と加速度を持つ豆腐の角に当たって、人は死ぬだろう。
(豆腐程度の剛性の物体をそこまで加速することがちょっとした技術ではある)

 これは物体に限らず、人間の作る組織や、個々人の人間関係、さらには個々人の価値観を含めた人格形成にも当てはまるように思える。
150210

 晴れ。

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 僕は保険の代理業をしていたわけだけれど、そこで使う主な道具といえばペンと自分のアタマしかなくて。
 僕は腕時計を嫌うし、懐中時計は今のところ気に入るものが見つかった試しがない。
 スーツは数年で使い捨てにせざるを得ない(嫌味な奴と笑ってもらってかまわないけれど、なにしろ他にまともな服がない)し、靴はいいものを何足も持てない上、気に入ったものがまず見つからない。

 とりわけ、お客様と向き合って書類のやりとりをする中ではボールペンの出番が多かった。
 僕はお気に入りのボールペンをほぼ毎日使っていた。
 朝、シャツの胸に差すのが一日の始まりであり、たとえば出先で使い捨てのものを勧められた場合は断って、胸に仕舞ってあるそれを使った。
 あまり高いものは買えないし、高いからといって使い心地がよいとはかぎらない。
 ブランド物では嫌味に映ったり、かえってみっともない印象を与えることもある。

 そのようなわけでしばらく迷うこと十数年前、いいものにめぐり会った。
 グリップ全体が木のボールペンである。値段も決して高いわけではない。
 高くないのも当然で、名のある、格別によい木、というわけではない。ウィスキー樽に使われていた木だそうだ。
 だから風合いも色合いも、それぞれに違う。コーティングもさほどされているわけではなく、ほとんど無垢ではないだろうか。
 なので、たいそう気に入った。
 手に馴染むのである。

 ところが、使いはじめて一年ほどで、それを失くしてしまった。
 残念な気持ちを抱えながら、今度は同じものを2本と、同系列のすこし握りの細いものを1本買った。それらは今でも使い続けている。

 お世辞かも知れないが、ペンを褒められることもあった。そういうときはたいそう嬉しかった。
 合う人には合う。道具というのはそういうものだろう。
 僕は無機質な素材を好むくせに、肌に触れるものは有機的なものを好む。
 だから金属やゴムが肌に触れるような感じではなく、すこしやわらかくて、すこしぬくみがあって、それからそう、水気を感じるのだ、そのペンは。

 そういえば服も、いまだに生地の肌触りから決める。
 肌が合わない服は、どんなにデザインが気に入ったとしても、そのうち着ないようになってしまう。
 それでは自分も不幸だが、道具も、それを作った人や売った人も不幸だろう。

 相性というのはつくづくにあるものだと思う。

 ボールペンに限っていえば、僕はよいものに出会った。
 僕が気に入ったものの多くは、早い段階で世の中からなくなってしまうことが多いのだけれど、例外的にそのボールペンは今でも売っている。
 過剰な飾り気がなく、気取りもなく、素朴で、でもけっして安っぽいわけではない。

 何度となく芯を替えて使い続けてきた。
 いつまでも、なくならないでいて欲しいと思う。
 この家で暮らすようになって、どれくらいだろう。
 もう15年くらいになるだろうか。
 父もいない今、僕の帰る場所はここよりほかにない。

 初めての一人暮らしは、それは楽しかった。
 何もかもが自分の自由で、つまりその自由を使って道を逸れてしまうと、その代償もまた自分に戻ってくる。

 調理器具で最初に買ったのは、包丁、まな板、それからボウルとざるだ。
 僕の知る料理人の多くは、当然のように包丁にこだわりがあった。
 料理人の世界というのはそういうものだろう。
 職工であれば道具にこだわるのは必然で、その気持ちもよく分かる。
 道具にこだわることのできない職業の人は、たとえばインテリアやファッション、具体的にはオフィスやペンや時計や靴や服にこだわることだろう。

 僕は料理は好きだけれど、包丁にはさしてこだわりがない。
 むしろそれは消耗品だ。
 いい加減な道具しか使ってこなかった、という可能性は否定できないものの、それでもときにへし折れたりするものなのだ、包丁は。。
 包丁がへし折れる、という状況は、もちろんそうそうあるものではない。
 それは無理な方向から無理な力を加えたことが原因で、包丁そのものはもちろん、素材やその状態に対する無知が大きな原因、ではある。

 ただ、まぁ、10倍の価格の包丁を使ったからといって、10倍おいしい料理ができるわけでもないは事実だ。
 なので包丁についていえば「しっかり手に馴染むこと」これに尽きるし、グリップの問題だけでいえば、ホームセンタのステンレス包丁でも十分に事足りるものが見つかる。

 実のところ、いくつかそろえようと思ったこともあったのだ。
 しかし数多く持っていても、包丁使いが独学で基礎を知らないため、使いこなせなかった。

 刺身包丁を持っていたこともあるのだけれど、手入れを心得ていなくて錆を出す上、使う頻度も低い。
 これは道具と使い手の不幸な組み合わせと思い、手放した。
 牛刀を普段使いしている主婦の方を知っているが、僕は図体が大きいわりに牛刀を使いこなせない。僕の手の感覚に対しては大きすぎるのだ。
 菜切り包丁は、とにかく子供の頃からよくへし折る。マイナスドライバやナタの代わりにしようとするのが間違いなのだ。
 これらから察するに、僕は包丁とはとことん相性が悪いのかもしれない。
 学生の頃、ポケットに忍ばせていた折りたたみナイフ(護身用)も、1年ほどで紛失した。

 そのようなわけで、今は三徳包丁にペティナイフ、それから鋼の出刃だけで間に合っている。
 三徳とペティはステンレスで、両方合わせても五千円にもならなかったように思う。
 頂き物の出刃の出番は滅多にないものの、刃が素材に吸い込まれるようにしてよく切れる。
 かぼちゃの処理などには心強い存在である。

 なるほど、よい道具は必要だということだろう。

 しかしそれでも、吊しのスーツが買えるような値段の包丁には、やはり手が伸びない。
 なんだろう。
 刃物は好きなのだけれど、刃物とは縁がないらしい。
 


:: ③ 〘物〙 物体が力の作用を受けながら移動するとき,移動方向の力の成分と移動距離の積で表される量。物体が仕事をされると,それだけ運動エネルギーが増加する。




150108

 晴れ。第2回目のハムづくり、最終工程の朝。
 今はコンロの上でボイルしている。

 今日は久しぶりに夢を見て目覚めた。
 夢の中で僕は仕事をしていたが、今までの仕事とは関係のない仕事をしていた。

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「むつかしい」といって、ものごとを自分から遠ざけようとする人が多いように思える。
 そういう人は「むつかしい、だから、できない」という暗黙の理論構築をこちらに提示してくる。
「私には、むつかしい(だから、できない)」というわけである。
 僕が「簡単だよ」と言っても、まず信じない。彼ら、彼女たちにとっては、それは「むつかしい」のである。

 たとえば仕事上のことでもそうだし、パソコンの操作や、数学などでもいいだろう。
 僕はこれらを「むつかしい」と思ったことはない。
 極端な話、今の僕には理解ができていない量子力学やら一般相対性理論、波動方程式、株式市場、会社法とその設立の実務などを、僕は「むつかしい」とは思わない。
 自分に理解ができていないだけのことであって、今の自分にそれを処理する能力がないのだとして、それは「むつかしい」ことだろうか。

 僕は言葉をなるべく正直に使いたいといつも思っている。
 理解ができないことは理解ができないこと。能力がないことは能力がないこと。やりたくないことはやりたくないこと。
 いずれも「むつかしい」わけではない。

 そもそも、むつかしい、とはどういうことなんだろう。

 新聞やニュースなどでも「難しい局面」なんて言ったりする。
 たしかに設計をしていると「むつかしい曲面」にぶつかったりして、どうやってこれを作図したものか、と思ったりする。
(これは工作でもCGでも一緒)

 僕にとって「むつかしい」とは、「こういうふうにしたいのだけれど、今はその手法がうまく導けない」というときに感じることであって、それでも「こうしたい」という感情が僕自身を後押ししてくれる。
 つまり「むつかしい」という言葉を発する時に、ほとんどの場合、それを楽しみにしている自分を発見する。

 しかし見回した範囲でほとんどの人が、悪い意味で使っている。
 理解や実行が「困難である」(と感じているだけの場合が多いのだけれど)から、それは成功率が低く、簡単で容易なことに比べて悪いことだ、と思っている。
 ほんとうにそうなのだろうか。

 簡単なもの、便利なもの、手軽なものが本当に増えた。これはこれで喜ばしいことだと思う。
 では、自分の日常の中で「これはなかなか手強いな」と思う状況は、もはや存在しないのだろうか。

 たとえば半年放置してしまった換気扇の掃除。
 たとえば半年放置してしまった浴室の排水溝の掃除。
 たとえば今まで一度もチャレンジしたことのない料理。
 たとえば数年付き合ってきた恋人の浮気。

 それぞれ手強い。つまりむつかしい事象であり、局面でもある。曲面といってもいいかもしれない。
 たとえるならハードルが高い。つまり容易ではない。別の言葉でいうと、むつかしい。

 もちろん、もちろん。

 TVでは、いろんな汚れを落とす洗剤のCMがある(実際、どの程度、手軽で、便利かは別問題ではあるが)。
 美味しいものなど、お金を払って買えばいい(実際、どの程度、口に合うかは別問題ではあるが)。
 自分で作るにしても、レシピはそのへんにいくらでもあるから、その通りに作ればなんとかなる(技量にもよるが)。
 浮気にしたって、周囲の友人から週刊誌、Y!知恵袋にいたるまで、いろいろな人の意見を聞くことができるだろう(判断基準のレベルが低いとは思うが)。

 仮にこれが仕事の上での新しい手法であるとしても、理数で今まで自分が理解していなかった理論にしても、同様である。

 たしかに今の自分には、むつかしいもの、なのかもしれない。
 ハードルというのか、階段の段差というのか、とにかく高さを感じるのだと思う。
 だからといって、それを理由に、それは遠ざけられるべきものなのだろうか。
 むつかしい、というたったそれだけの理由で。

 食べるものに喩えるとわかりやすいかもしれない。
 美味しいものは、だいたい手間もかかるし、そう簡単に入手できない。
 骨付きの肉は骨のまわりが美味しいわけだけれど、肉から骨をはがすのは容易ではない。
 骨ごと食べるか、苦労して骨を外して食べるか、という手法を僕は考える。
「自分にはむつかしい」という理由で諦める人は、それを食べない(食べものに関していえば、実際には、そんな人はまずいないのだけれど)。

 綺麗に骨が外れなくてもいいと思う。
 骨ごと齧って、骨だけ吐き出してもいいと思う。
 ただ「自分にはむつかしい」という理由で、箸もつけないのはどうなのだろう。
「面倒だから」という気持ちが潜在的にあるとしても、食べたくないのなら「食べたくない」というのが食べない理由だし、それを正直に伝えたほうがいいと思う。
 むつかしい、というのは単なる事象に対しての個人的な評価である。同じ個人的な評価であれば、美味しいのか、美味しくないのかを知りたい。それ以前に、食べたいのか、食べたくないのかを、明確にして欲しいと思う。

「むつかしい、けれど食べたいから食べる」のか。
「むつかしい、けれど食べたい、にもかかわらずうまく食べられない」のか。
「むつかしい、なので食べたくない」のか。

 仕事でも僕は長年「あなたがもしこれをしたくないと思ったら、私が代わりにするからそう言って欲しい」と周囲に言ってきた。
 なぜなら僕自身、やりたくない仕事は誰かにやってもらいたいからだ。
(もっとも、僕にとっての「誰か」がいない場合は、僕自身でするしかないのだけれど)

 一般に「命令ならば、仕事なのだから、します」という態度の人ほど、仕事に対する好き嫌いが激しいし、その一方で好き嫌いを表明しないように思える。

 二つの仕事があって「好きな方を選んで。残りは私がやるから」と言った時に、
「じゃあ、こちらをやります」と答えられる人は、むつかしいものにもチャレンジしてゆける傾向が強いように思う。

 むつかしいものが嫌いだ、という人もいるけれど、おかゆのように歯ごたえのないものや、簡単で便利で安い薬品まみれの食品、自分の意見にいつも賛同してくれるような手軽な友人が好きで、そういうものを身の回りに集めて安心しているのだろうと想像する。

 高い場所に移動するのは、たしかに面倒なことではある。
 しかし、高い場所からしか見えないこと、面倒を乗り越えて分かることが、確実に、ある。

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 それにしても仕事ってなんだろう。










引用は、
『仕事』
from「辞書 ver 2.2.1(156)」© 2005-2011 Apple Inc. All Rights Reserved.
によりました。
 


::バイブレーターは、男性と女性の買い方が違います。
 男性は、この機能は押すとどうなるんですかと、まずボタンを押します。
 女性は、そんなものは一切押しません。
 女性は機能ではなく、目をつむって感触を確かめます。
 持つ向きが男性と違うのです。




150101

 13年間、365日、24時間を拘束される仕事に就いていたが、それを辞めた。
 いつ、どんなトラブルがあるかわからず、その対応も(もちろん日常業務も)任され、時には神経症のような症状に見舞われることもあった。
 それが日常化した今、今度は拘束されていない状況が信じられなくて、どうにも落ち着かない。
 未明のうちに目が覚めて、あれこれ考えを巡らせる。
 しかし、からっぽの状態、状況というのはたいそう気持ちのよいものである。

 僕はこれをよく倉庫に喩える。
 中身がいっぱいの倉庫は、もうなにも入らない。
 冷蔵庫だってそうだろう。
 それがいい、という人はそれでいいと思う。

 たまたま僕は、そうは思わない。
 倉庫は、中から外に出すものであるのと同時に、外から中に入れるものでもある。
 どちらに捉えるかは、使い方にもよるし、その人のスタイルにも依るだろう。

 ざっと見て、中身がいっぱいある方がよい、という人は、物事を消費していくタイプの人のように思う。
 消費してしまうから、ものがなくなることを怖れるのだ。

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 前厄の前年であるにもかかわらず、2014年はろくでもないことのオンパレードだった。
 物事をあしざまに書き連ねるのは性分に合わないので、よかったことを記しておきたい。

○ ベーコンづくりが上手になった。
○ ハムづくりに成功した。
○ 職場の近くの酒屋さんの若旦那と親しくなった。
○ 裏山の美味しいそば屋をまたひとつ発見した。
○ パイプ煙草の美味しさを知った(煙草はじつはとても美味しいものだった)。
○ パイプ煙草を友人に布教した。
○ Macが直った。
○ 歳を重ねるにつれ、自分の年齢が本当にわからなくなってきた。
○ 新しいカセットコンロがすごい。
○ 13年履いている靴を、やっと修理してもらえた。

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 仕事を通して、今年は本当に多くの人と親しくなった。
 今まで、僕はどれほど人と距離を取っていたのだろうかと思うほどだ。
 仕事を辞めるのにあたって「独立したらぜひ教えてね」と言われたが、今のところ、なにも決まってはいない。

 長い間、旅行に行くことさえままならなかった。
 本当はとても好きな、温泉旅行を、今は計画している。

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 物事を一方からしか見ないというありようや、自分の先入観による決めつけとそれによる閉塞を、僕はかなり嫌っている。
 いつも俯瞰して全体を客観的に観察する、これは習慣のようなものとして僕の身に、今はついている。

 抽象的であるとか、何を考えているかわからないとか、自分のことなのに他人事みたいとか、生まれ育ちによる根本的な性質を非難されることも多くなったが、今後はそういう人とはお互いに近づかない方向でゆけばよいのだと思った。そもそもあなたは私の親じゃない。

 そう考えると、僕の父はとても包容力のある人だった。
 たとえるなら、どこまでいっても柵のない牧場のような人だ。
 もしかしたら柵などなかったのかもしれないし、牧場でさえなかったのかもしれないし、父親ではなかったのかもしれない。どうだろう。そんなはずはないと思うが。

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 僕はもう、会社の備品ではないし、誰かの付属品でもない。
 僕は僕のために能力を使うことができるし、僕のために時間を使えばそれでいい。
 人がましい顔で「これはこうでなくてはならない」と説教を垂れる人間のおよそ10割は、その人自身の狭い人生観から得た教訓を信じ込んでいる人であって、残念なことに僕の人生を生きたことのない人でもある。

 これは「信念など持たない方がいい」ということが言いたいのではない。
 信念は必要だ。
 しかし信念は、誰にも見えない自分のなかの芯に隠し持っていてこそ意味があると僕は思っている。(これもまた信念)
(新年から信念ネタ)
 誰かに見せびらかして、あるいは道を諭すために振り回すのが信念ではない。
 誰かのためのものではないから、自分の役にしか立たない。だからこそ自分にとって最上の意味があるのだし、だからこそ他人にそれを自慢することはとても恥ずかしいことだと思う。

 自分にとって本当に大切なこと、本当に大事なことは、たとえば簡単に言葉にできるようなものではないかもしれない。
(簡単に言葉にできることを大切にしている人もいると思うのでそれはそれでいいと思います)
 概念的、抽象的な茫洋としたものが、確固としているからこそ、人はひとつの方向に進んでいけると思うし、同時に臨機応変にもなれるのだと思う。

 その人の人生はその人のものだ。
 言葉でわかっていても、身近な、つまりは愛する人にそれを具現できる人はなかなかいないような気がする。
 近しくなればなるほど、ついぞまるで自分の所有物のように、他人の人生をコントロールしたくなるのが人間なのかもしれない。

 僕にはよく分からない。









引用は
「大人のおもちゃも、男性は機能で選び、女性は感触で選ぶ。(第5章 「愛してる」の伝え方。)」(p.116-117)
from「初めての、恋のしかた」(著作:中谷 彰宏 / 発行:大和書房 )
によりました。
1.「アヲネコジルシ」の手作りハムを用意する。

2.厚さ10mm~20mmほどに切る。

3.フライパンを熱する。
  箸で持ちながら、ロースの脂身の部分を強めの中火で10分ほど焼く。
  油が出てきたらフライパン全体になじませながら、脂身全体を焼く。

4.脂身のほとんどが半透明になったら、強火にして片面を焼く。

5.強い焼き色がついたら裏返して焼く。

(もともと加熱済みのものなので、あたためることと焼き色をつけることが目的である。網焼きでもよい)

6.お皿に盛りつける。





感想:
とても美味しかった。
 


::女が少しでも美しく見せたいために、あらゆる努力を惜しまないのは、正当な理由がちゃんとあって、ために真剣な話なのである。だが、男は、真剣な態度でのぞむことは別にあるのが、男というものだ。ずいぶんと保守的なことを言うと思う人がいるかもしれないが、それはまちがっている。なぜならば、所詮、われわれ女は、身だしなみ以外に真剣勝負するものを持っている男を欲しているからである。





141226

 最近の女というのは愛を知らない。
 なべてひとしく例外もなく、とまではいわないが、おおむねそこにあるのは自己愛と打算である。
 チョコレートコーティングのように優しく甘やかに見せかける向きもあるが、何のことはない、薄っぺらな鍍金皮膜である。(もちろん、人生経験の浅い私にとって、齧ってみないことには分からないのだけれど)

 男が強い時代から一転、女が強くなったと呼ばれる時代も過ぎたが、すべて終わってみれば結局、誰も強くなどなかった。
 遠い昔から人間は強さを争ってきたが、そのあとに残るのは荒涼とした寂寞だけである。誰かが決定的に強かったためしなどない。
 人は歴史から何も学ばないというが、確かにそうなのだろうと思える。

 女が愛を知らないのには、その母親たる女にも責任があり、またその夫たる男にも責任がある。
 家族という関係性など、砂漠に埋もれた遺跡のごとくにすっかり破綻した環境で育った私がいうのも笑われる話かもしれない。
 けれども、物心ついた頃から「家族」というものを遠い花火のようにしか見てこなかったからこそ、僕は家庭というものの持つ関係性に憧れもしたし、同時にそれが少なくとも自分の身の回りではどうにも再現されようのない憧憬であることも理解した。
 立脚するものを持たないからこそ、そこにはある程度一般化された人間の力学が見えてくると、自分では思っている。

 女が強いと呼ばれるようになった時代の少し前、男はその座を、なるほどそうまで言うなら女も利口なものなのかもしれないと明け渡したのではある。
 しかし広くいわれる通り、女は浅はかなのでもある。
 力を求め、力に生きるようになった女は、結果的に、女ではなくなる。

 男は一般に力を求める傾向にあるが、これには理由と目的が厳然としてある。むしろなくてはならない。
 性差で比較して女が浅はかであるというのであれば、性差で比較して深遠なるものが男である。
 深遠でなければ男でないといってもいい。女をして浅はかだと微笑むより以上の深遠さを持っているものが男であろう。
 深遠なるものを現実のものとするために、男は力を必要とする。
 深遠なる指針を持たない力の行く末は、暴走しかしない。力というのはそういうものである。
 政治や原子力発電所に喩えなくてもわかりそうなものではある。
 力に振り回されないためには、遠い場所をいつも見ていなくてはならない。
 まして力を振りかざすなどもってのほかである。

 だから力を持つのが深遠なる女であるならば、それはよいことであり歓迎されるべきことである。
 あるいは浅はかなる男が力を持つのであれば、そんなものはないほうがよいということになる。

 浅はかなるものが力を持ったところで、結局は何も残らない。
 太陽信仰の文明は女性崇拝の文化を持つと聞いたことがあるが、果たして女性が国家を動かす世界は、男性を基準とした「力」を同じように用いていたものであろうか。

 つまるところ根底にあるエナジに関する概念が、そもそも間違っているから力というものが暴走するとも考えられる。
(飛躍しましたが、みなさんついてきていらっしゃいますか?)
 人間関係の間に「力関係」という言葉を持ち出す人間がいるが「エナジ関係」がそこには等しく存在しているだろうか。
 何なら「ポテンシャル関係」としてもいいだろう。意味が分からない?
 つまり「力関係」という概念自体が、相当に意味を限定されている。
 「力関係」が「エネルギー関係」であるならば、各位の位置エナジが上であるとか下であるとかと同様に、運動エナジが多いとか少ないとかも論じられるべきなのだけれど、こういうことを言っていると「猫氏がまた分からないことを言っている」と一般には思われるようではある。

 さても愛を知らない女が多いということは、深遠なる男が少なくなり、またそれ(深遠という理解しがたいものを自分の中心に抱えているのが男であるということ)を理解できる女がほとんどいなくなったということだろう。

 男は弱くなったのではない。バカになっただけである。
 浅はかに同調して浅はかになっただけである。

 女は強くなったのではない。愛を忘れただけである。
 力を手に入れるために愛を手放したのである。

 位置エナジと運動エナジは摩擦が存在しない限りにおいては等しく交換が可能である。
 それぞれの失ったポテンシャルが変換され、ふたたび還元されることも、もしかしたら、ありうるのだろうと思いたい。

(どうだ。今日は硬派だろう。)



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 上記のような思想から僕は女を追いかけることはやめて仕事に生きようと思ったのだけれど、社長と対立した末、辞職することになった。
 1月から就職活動である。チーン。








::日本に帰国中に、ある男性向きの雑誌のインタビューで、どういう男が好きか、とたずねられた。私の答えは、タキシードの似合う男、というものだった。そして、その理由として、こうつけ加えたのである。
「ジーパンの似合う男が必ずしもタキシードも似合うとはかぎらないが、タキシードの似合う男は、絶対にジーパンも似合うからです」
 遊びは、ヴァリエーションを愉しめるところにしか存在しない。つまり、選択の自由が愉しめるところにしか、存在しないのである。ジーパン・オンリーを自負する男たちは、自分自身でも気づかない間に、束縛からの解放であったはずのジーパンが、「遊び」ではなく「真剣」なことになるという落とし穴に、落ち込んでしまっているのだ。「真剣」にジーパンをはいている男など、「真剣」に背広を着ている男とまったく同じに、こっけいそのものではないか。










 引用は
「古き皮袋に新しき酒を」(冒頭部:p.33 / 文末部:P.34)
 From 「男たちへ」(著作:塩野 七生 / 発行:文春文庫)
 によりました。
141202

 晴れ。風が強い。

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 久しぶりにベーコンを昨日作った。
 今回は半ソミュール液を作っての仕込み。
 次回は完全なソミュール液での仕込みをしようと思う。特にスパイス類はある程度の温度の湯のほうが風味が出るだろう。

 塩抜きはひと晩で、かなり忙しかった。
 干しは一日目の晩に雨が降り出して室内干しをしたので合計36時間ほど。
 燻煙は80~90℃で1時間。
 ひと晩おいて、今日が初の試食。

 味はまぁ、単純に美味しい。
 これまでの中でも屈指のできばえである。
 少々塩味が強いのだけれど、塩抜きは二晩のほうがよかったのかもしれない。
 しかしそうなると、塩漬け4~6日、塩抜き2日、干し2日で10日からの時間を要することになるので、休日に作る、というレベルを超える。

 日本酒がおいしくいただけた。
141201

 雨。

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 僕は自分の棲んでいる場所がたいそう好きですさまざまなオーダやら言い訳やら理由やらが飛び交う昨今ですがみなさんお元気ですか私は元気ですみなさんお元気ですかそうですか。
 いまや人知れず人見知りであるところのわたくしも口をきけないくらいぐったりしまうことが職務上はたびたびありそんなときはTVゲームをしたり料理をしたり掃除や洗濯をしたり気が向かないから何もしなかったりガールに甘やかされたりしつつ回復を待つわけなのですが先日ガールを呼んだところガールもたまたま疲れていたのかわたくしのぐったり加減に耐えられなくなったようで「そんなに疲れてるなら呼ばないでよ」となじられまして以来わたくしは言葉を失いましたええまぁ多分そのくらいわたしのぐったり加減はたれぱんだの比ではないほどのぐったり加減であったことよ(遠い目)いずれにしても私には親がなく実家というものもなくよりどころというのは自分の家と自分しかないのでじっと回復を待つしかないのですがぐったりしている休日でも仕事の電話が最近多くて師走で困ります。今日は早く寝よ。

 あとあとカテゴリが練習用だと広告がでるとかブラウザのプラグインで表示しないようにしていたためにまったく知らなかったのだけれどあまりにもうるさいシステムなのでもうこれからの記事は全部バトンかその他のニュースにしてしまえばいいやと思いましたしカチンときたのでもうおれは一生チョキしか出さねぇと思いました。