::バイブレーターは、男性と女性の買い方が違います。
 男性は、この機能は押すとどうなるんですかと、まずボタンを押します。
 女性は、そんなものは一切押しません。
 女性は機能ではなく、目をつむって感触を確かめます。
 持つ向きが男性と違うのです。




150101

 13年間、365日、24時間を拘束される仕事に就いていたが、それを辞めた。
 いつ、どんなトラブルがあるかわからず、その対応も(もちろん日常業務も)任され、時には神経症のような症状に見舞われることもあった。
 それが日常化した今、今度は拘束されていない状況が信じられなくて、どうにも落ち着かない。
 未明のうちに目が覚めて、あれこれ考えを巡らせる。
 しかし、からっぽの状態、状況というのはたいそう気持ちのよいものである。

 僕はこれをよく倉庫に喩える。
 中身がいっぱいの倉庫は、もうなにも入らない。
 冷蔵庫だってそうだろう。
 それがいい、という人はそれでいいと思う。

 たまたま僕は、そうは思わない。
 倉庫は、中から外に出すものであるのと同時に、外から中に入れるものでもある。
 どちらに捉えるかは、使い方にもよるし、その人のスタイルにも依るだろう。

 ざっと見て、中身がいっぱいある方がよい、という人は、物事を消費していくタイプの人のように思う。
 消費してしまうから、ものがなくなることを怖れるのだ。

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 前厄の前年であるにもかかわらず、2014年はろくでもないことのオンパレードだった。
 物事をあしざまに書き連ねるのは性分に合わないので、よかったことを記しておきたい。

○ ベーコンづくりが上手になった。
○ ハムづくりに成功した。
○ 職場の近くの酒屋さんの若旦那と親しくなった。
○ 裏山の美味しいそば屋をまたひとつ発見した。
○ パイプ煙草の美味しさを知った(煙草はじつはとても美味しいものだった)。
○ パイプ煙草を友人に布教した。
○ Macが直った。
○ 歳を重ねるにつれ、自分の年齢が本当にわからなくなってきた。
○ 新しいカセットコンロがすごい。
○ 13年履いている靴を、やっと修理してもらえた。

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 仕事を通して、今年は本当に多くの人と親しくなった。
 今まで、僕はどれほど人と距離を取っていたのだろうかと思うほどだ。
 仕事を辞めるのにあたって「独立したらぜひ教えてね」と言われたが、今のところ、なにも決まってはいない。

 長い間、旅行に行くことさえままならなかった。
 本当はとても好きな、温泉旅行を、今は計画している。

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 物事を一方からしか見ないというありようや、自分の先入観による決めつけとそれによる閉塞を、僕はかなり嫌っている。
 いつも俯瞰して全体を客観的に観察する、これは習慣のようなものとして僕の身に、今はついている。

 抽象的であるとか、何を考えているかわからないとか、自分のことなのに他人事みたいとか、生まれ育ちによる根本的な性質を非難されることも多くなったが、今後はそういう人とはお互いに近づかない方向でゆけばよいのだと思った。そもそもあなたは私の親じゃない。

 そう考えると、僕の父はとても包容力のある人だった。
 たとえるなら、どこまでいっても柵のない牧場のような人だ。
 もしかしたら柵などなかったのかもしれないし、牧場でさえなかったのかもしれないし、父親ではなかったのかもしれない。どうだろう。そんなはずはないと思うが。

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 僕はもう、会社の備品ではないし、誰かの付属品でもない。
 僕は僕のために能力を使うことができるし、僕のために時間を使えばそれでいい。
 人がましい顔で「これはこうでなくてはならない」と説教を垂れる人間のおよそ10割は、その人自身の狭い人生観から得た教訓を信じ込んでいる人であって、残念なことに僕の人生を生きたことのない人でもある。

 これは「信念など持たない方がいい」ということが言いたいのではない。
 信念は必要だ。
 しかし信念は、誰にも見えない自分のなかの芯に隠し持っていてこそ意味があると僕は思っている。(これもまた信念)
(新年から信念ネタ)
 誰かに見せびらかして、あるいは道を諭すために振り回すのが信念ではない。
 誰かのためのものではないから、自分の役にしか立たない。だからこそ自分にとって最上の意味があるのだし、だからこそ他人にそれを自慢することはとても恥ずかしいことだと思う。

 自分にとって本当に大切なこと、本当に大事なことは、たとえば簡単に言葉にできるようなものではないかもしれない。
(簡単に言葉にできることを大切にしている人もいると思うのでそれはそれでいいと思います)
 概念的、抽象的な茫洋としたものが、確固としているからこそ、人はひとつの方向に進んでいけると思うし、同時に臨機応変にもなれるのだと思う。

 その人の人生はその人のものだ。
 言葉でわかっていても、身近な、つまりは愛する人にそれを具現できる人はなかなかいないような気がする。
 近しくなればなるほど、ついぞまるで自分の所有物のように、他人の人生をコントロールしたくなるのが人間なのかもしれない。

 僕にはよく分からない。









引用は
「大人のおもちゃも、男性は機能で選び、女性は感触で選ぶ。(第5章 「愛してる」の伝え方。)」(p.116-117)
from「初めての、恋のしかた」(著作:中谷 彰宏 / 発行:大和書房 )
によりました。