20141112

 曇天。寒い。

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 先日の日記( http://blogs.yahoo.co.jp/bluecat_engineering/39068349.html )にあるとおり、僕は自分が煙草嫌いなのだと思っていた。
 なにせ「煙草好き」を自称する人たちは、一日にシガレットのひと箱くらいは軽く吸ってしまう。
 多い人は3箱やら5箱やら(ショートホープではないと思うので、ひと箱20本換算で60~100本)を吸う。一日で、だ。
(※知らない人のために記載しておくと、ショートホープシリーズはひと箱10本。1パッケージ20本入りでない銘柄はそれほど多くはないが、ほかにも存在する)

 それだけ吸ってなお「煙草はやめられない」というのだから、本当に好きなのだと思った。

 僕にはそれは無理だ。
 一日にがんばって(がんばって?)もひと箱がやっと。
 チェーンスモーキングも3本になるとたいてい美味しく感じられなくて途中で消してしまう。
 一日トータルで8本を越えると、たいてい美味しく感じられなくなってしまう。
 寝起き後1時間は煙草を吸っても美味しくないし、就寝前1時間に煙草を吸うと翌朝の体調がすぐれないから吸わない。
 風邪を引いたら吸わない。
 健康でも一日吸わずにいて問題はない。1年くらいの禁煙は苦もなくできるし、再開も「なんとなく美味しく吸えそうだと思ったから」始めるだけだ。
 煙草に依存などしていないし、中毒でもない。吸わずに、まったく問題がない。
 ただ、美味しい(と予感できる)ときは吸いたい。

 運転中の煙草が美味しいケースは40%の確率。
 運転中の煙草が非常に美味しいケースは5%の確率。

 仕事中(休憩中)の煙草が美味しいケースは10%
 イライラしているときの煙草が美味しいケースは20%
 趣味の時間中の煙草が美味しいケースは30%
 料理中の煙草が美味しいケースは40%
 食後の煙草が美味しいケースは30%
 掃除の後の煙草が美味しいケースは60%
 お酒の席での煙草が美味しいケースは5%
 運動後の煙草が美味しいケースは60%
 体調が悪いときに煙草が美味しいケースは0%
 風邪を引いているときに煙草が美味しいケースは0%
 セックスのあとに煙草が美味しいケースは5%(めったにそんなことしないが)

 チェーンスモーキングの2本目が(どうしても吸いたくて)1本目と同じくらいに美味しいケースは50%
 3本目が(どうしても吸いたくて)2本目と同程度に美味しいケースは5%
 30分時間をおいて2本目を吸う場合に美味しいケースは40%

(以下はいずれもシガレットに合う飲み物がある場合のおおよその数値。飲み物や環境、同席している人や話題によっても大きく変わる)

 この通り。
 多くの場合、僕は煙草を吸うたびに「一番美味しいときの煙草と比べて、美味しくないな」と感じていたわけだ。
 比較対象が悪いのかもしれないが、煙草というのは美味しくもない煙を吸うために火を灯けるようなものではないと僕は感じている。

 どうでもいい気持ちで喫煙するのがいやだったし、適当に吸い続けていて喉を痛めたりするのも嫌だった。
 なんとなく吸うのが嫌いで、どうしても吸いたいときに、美味しく思えるという確信の上で吸いたいと思っている。

 食事ではないので、その欲求は測りづらい。
 これが「いま吸う煙草が果たして本当に美味しいかどうか」のバロメータなのに。
 結果的に、先ほどのような「煙草を美味しく感じられる状況が半分にも満たない」という状況(記憶)になっていた、というわけだ。

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 ここまで書いて気がついたのだけれど、僕にとって食事もこんな感じだ。
 時間や習慣にとらわれず、満足を通り越えて過剰になったときの感覚不全や体調不良も予測し、一番美味しく感じられるところを基準に、満足の感覚が下降しはじめたら終わりにして余韻を楽しむ。
(いや、まぁ、あれですね。食事以外でも同様の傾向がありますね、はい)

 五感を刺激するものに対して「体調や環境も含めたコンディション/対象に対する心身の欲求の強さ/満足感そのもの/満足できることが予測できる可能性」を僕はなんとなく記憶しているらしい。
 なおかつ、コントロールできる範囲で、いま求めている刺激感覚をよりよい状態にしようと考える。
 だから、空腹感や渇望感が好きなのだろう。
 満たしたいという(満たされていない)状態の感覚をつぶさに感覚し、それが満たされるときの感覚をつぶさに感覚する。
 自分で書くのもなんだけれど、僕はよくいえば敏感、悪くいうとド変態に属するのかもしれません。

 が、普通といえば普通。
 誰だって、不味いものは食べたくない。美味しいものを食べたい。そういうものだと思う。
 だからこそ外食ならば店を選び、一緒に行く人(あるいはソロ)を選び、時間を選び、服を選び、メニューを選び、流れを考えるのではないのだろうか。
 自炊なら材料を選び、メニューを考え、最適な調理法を吟味し、器を選び、時間を考え、体調を整え(空腹にし)、手をかけたぶんだけ味わって、少しずつ食べるのではないだろうか。

 もちろん、毎日毎食そんなことをするのはむつかしいだろう。
 ならば、せめて週に1度くらい、できれば週に3回は、そういう感覚を大事にする日にしてもよいのではないだろうか。
 僕はできあいのものを食べる機会も多いが、一日一食であれば当然のように、どれで空腹を満たすかよく吟味するし、空腹だからたいていは美味しいし、それでも不味い場合はそのまま捨てる。
 不味い料理(口に合わない料理とはまた異なる)は、食材で作られたゴミだ(だいたいケミカルな味がする)。ゴミが自分の身体を形成することに無神経でいるのはどうかと僕は思う。
 放射線濃度が高い食品が身体に悪いなら、身体が美味しく感じないものもまたすべて身体に悪い。そんなものはすぐ捨てて、二度と買わなければ良い。

 食べ物がもったいないという人もいるとは思うが、自分の身体がそんな食べ物で汚されることのほうがもったいないと思ってほしい。
 空腹なのに不味く感じるものは、よほど身体に合わないのだ。
 捨てる食べ物よりも、汚れて傷つく自分の身体がもったいないと感じるのが普通ではないだろうか。

 美味しいときは美味しいときで「美味しい!」という感覚を味わいつくす。
 同じように、不味いときは不味いなりに「不味い!」という感覚を十分に感じ取れば(そしてすぐ捨ててしまえば)同じ過ちを繰り返さないで済む。

 それ以外の身体の感覚も同様で、自分の下腹部が出てみっともないと感じたり、身体が思いと感じたら運動(端的にいえば筋トレ)をする。
 トレーニングは始めるまでが面倒だし、していても苦しくなったりするし、決して楽しいわけではない。
 けれども身体が思うとおりに、軽く、しなやかに動くことの快感を知っていれば(その感覚を覚えていて、思い出せるならば)多少は我慢もできるし、きっかけもつかみやすいし、続けられるものだろう(実のところ近年の僕は続けられたが、20代まで極端な運動音痴でそんなことはできなかった)。

 どうでもよいものを身の回りに置いて、どうでも良いものを身に着けて、どうでもよいことばかりしているから、感覚が鈍るのだろう。
 どうでもよい人と一緒にどうでもよいことをして、どうでもよい情報や感覚にまみれて、どうでもよい感想を持つ。

 そうやって、どうでもよい人間が出来上がってゆく。

 外部からの情報で圧力形成されたどうでもいい人間には、ある種の無神経さがある。デリカシィのなさ、下品さ、身勝手さがある。
 自分という内側から生まれた情報や感覚で形成された人間が繊細で、思慮深く、上品だとはいわないが、なんというのか、肌に合うのだ。

 どちらがいい、ということではなく、あくまでも好みの問題ではある。
 おそらく逆方向からは、気取り屋で、意固地で、お高くとまっていて、小難しい厭味な人間だと観察されるとは承知しているので。

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 とにかくそのようなわけで、僕はあまりにも「煙草の美味しさ」に(無自覚に)こだわるあまり喫煙量が減り、喫煙量の多い人を見て、あるいは他の多くの人から(それほど吸わないのならやめてしまいなよ)と言われるうち、自分が煙草嫌いなのだと思っていた。(実際、他人のシガレットの煙は嫌いだし)
 が、逆に考えると、そんなにこだわるくらい、僕は煙草が好きなのだった。
 これぞというコンディションで、美味しい煙だけを吸い、それ以外は吸いたくないという、そういうのもひとつの煙草に対する愛着である。

 ただやみくもに、美味しいと感じる暇もないほど習慣化した喫煙は僕には無理だったけれど、つまり僕は煙草グルメだったのだ。

 そのようなわけでパイプ煙草をはじめたら、これが美味しかった。
(もちろん、最初はなかなか美味しく吸えなかったし、今でもよく失敗するが)

 結論として、僕は煙草が好きなんだと思う。嫌いじゃなかったのだ。

 わざわざ好き好んで時間も手間もかかるパイプスモーキングを始め、それでもシガレットより美味しく感じられるという理由で続けることにしたのだから、まぁ、少なくとも合っているのだろう。

 パイプ煙草を喫むようになってから、シガレットは吸わなくなった。吸いたい、とは、今のところ思わない。



 で、やっぱりパイプ喫煙の話から逸れた。
 まるで目的のない旅のようだ。
 


::役に立たなくても魅力的なもの。そういったモノや行為は日々の生活の中に多々存在している。そして、その魅力が大きいほど、それは「毒」を含んでいる。また、役に立たないコトを真剣に考えたり、思考で捏ねくり回すとユーモアが生まれる。



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20141107

 晴れ。風が強い。冬かも。

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 以前書いたかもしれない。
 思索というのは散策に似ていると僕は思っている。

 ただ考えること。目の前にあることを考えること。自分や自分の損得が含まれることを考えること。
 これらは誰でも簡単にできる。最初の頃はそういう方向にばかり考えが行くだろう。動物や乳幼児を見ているとそう思える。
 大人になるにしたがって、そればかりになってしまい、自分の思考のルートがすっかり決まっている人も多い。

 お年寄りになるとこれらは非常に顕著で、自分以外の、たとえば他人のこと、他国のこと、世界全体のこと、自分がいなくなった時代も含めた未来のこと、敵対者のこと、などを考えられる人も多くいる一方、自分のこと、目の前のことだけで我利我利になっている人もいる。

 好みの問題であるから、いずれが良い、悪い、という話ではない。
(これは僕の文書の常套句になっているが、文字通りの意味である。良いということ、悪いということの本質的な意味を、たまには考えるべきだと僕は思うので、僕はそうしている)

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 自分の利を最優先に考える、というのは、まぁ、動物としてはとても自然であたりまえの状態だとは思う。
 利を求め、損失を嫌い、他者のことなど生死を問わずお構いなし。
 生かして搾取し、殺して奪取する。
 人間相手でないならば、僕らは日常でそれをしている。あまりにそれに慣れすぎてしまえば、もはやなんとも思わなくなる。その無神経が高じれば、やがて人間相手にそれを行うようになる。
 体裁を取り繕うなんてどうにでもなる。そんな刷り込みが暗黙のうちにされてはいないだろうか。

 もちろん僕もそうだ。
 スーパーで鶏肉を買うのに、ここに居もしない生きたニワトリやらヒヨコやらの未来をいちいち憂いているわけにもゆかない。
 それに、目の前のそれはすでに殺された死体だ。
 もちろん、買わないことで長期的には死ぬ個体を減らすことができるが、それはすなわち生まれる個体を減らすことである。

 豆腐(私はかなりの豆腐好きである)はどうか。
 人間の都合で交配され、改良され、栽培されて誕生し、刈り取られて死を迎え、加工され、捕食される。
 植物にも生きる権利くらいはあるが、生きました、はいサヨナラ、というのもそれはそれで哀れではある。
 そもそもその捕食はいったいどこから始まっているのか。生まれる前からではないのか。

 いやなに、何かを責めようというものではない。懺悔なさい、という趣旨でもないし宗旨でもない。
 僕は釣りもすればベーコンも作る。鉄砲撃ちの知人から聞く、鹿や熊を狩る話で盛り上がり、バジルを栽培したりもする。

 愛玩用の動物が大量に山に捨てられていたニュースがあったが、愛玩用の動物と、食用の動物の違いというのは、いったいなんだろう。
 これも、答えが欲しいわけではない。答えは人それぞれにあるだろう。良いも悪いもない。それを決めるのは、いつも人間。つまり私やあなただ。
 それぞれに良いことと悪いことが違う。それが本来のありようだろう。

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 答えを出すというのは非常に簡単な(あるいは合理的な)処理の仕方だ。
「これは良い」「これは悪い」と答えを公式に当てはめて算出し、それでおしまい。
 公式を(ひどい場合は答えを)単純に暗記する。それですべて分かったつもりになる。
 同じ事象(まったく同じ事象なんて、ほんとうはどこにもない)が、発生すれば分かったつもりで答えを出しておしまい。こうなるともはや考える必要もない。
 それがとても一般的で常識的な対応である。時間の短縮という目的からすれば非常に合理的だ。
(これも、とくに良いわけでも悪いわけでもない。単純にそういった原理やしくみがあって、それに則って動いている現象が一般に観察される、というだけのことだ)

 僕の場合、基本的に自分が納得する答えを求めてあれこれ考える場合もあるけれど、そもそも答えがないことを知っていて考えることも多い。答えがほしいのではないし、善悪の判断をしたいわけでもない。ただ、正しさを考えたいだけだから、僕にとってはこれでよいと思っている。
 実際のところ、答えの出ない問題はとても多いし、提示された答えに安易に飛びつく人は一般に、それが単に自分(やその考え)にとって都合が良い答えだから飛びついている場合がほとんどに思える。
 つまり正しいかどうかなんてことはどうでもよくて、自分が得をする(気分の良くなる)答えを良しとし、損をする(気分の悪くなる)答えを悪とする、それだけのことのように観察される。
(領土問題などは格好の例かもしれない。ところでそもそも領土って何?)

 ひとつの問題は複数の細かい問題の集積によって成り立っている。
 それらを分解したほうがよいこともある。個別に修正することで改善されるものもある。逆に、全体で大きく変えたほうが良いものもあるし、そもそも目の前の問題が、より大きな問題があるために発生していて、にもかかわらずその大きな問題を見過ごしていることもある。
 これは具体的な目の前の事象にとらわれ過ぎたために起こることだけれど、まぁ、大きな問題は見つかってもなかなか簡単に修正できないことが多いから、これには目をつむって放っておいて、目の前の問題の解決だけに取り組めばよいのかもしれない。
 なんだか政治の話しをしているみたいな気持ちになってきた。

 いずれにしても僕にとって、良くても悪くても正しいことがあり、良くても悪くても考えが間違っているあいだはNGなのだ。
(たぶん、たいていの人には意味がわからないと思うけれど、それはそれでいいと思う。そもそも言葉はあいまいなものだ)

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 こうした僕の傾向は、日常生活で支障をきたすことがある。
 古くは「優柔不断である」という評価に始まり、最近では「抽象的」「自分のことなのに他人事みたい」などという評価を受けることがあった。
 そうした評価についてさえ、僕は抽象的かつ客観的に「まぁ、そういう評価もあるだろうね」くらいにしか考えない。

 僕に対する評価が変わることで株価が変動するわけでもない。オゾン層がなくなるわけでもない。宇宙の運行もたいした影響はないだろう(冗句です)。身近な範囲で人間関係に変動があるかもしれないけれど、まぁ、それさえも僕の日常にドラスティックな変化はもたらさないと思う。

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 いずれにしても、僕が思索するときにつとめているのは「普段考えないこと」を「普段考えない方向」から「より普段考えない方向」へ考えるということだ。
 つまり「関係ないこと」を考えるのがもっとも楽しい。関係あることを考える場合でも、関係ない方向に進んでゆくのがよい。

 まったく関係ないことを考えるのは慣れないとむつかしいから、身近な問題から、一般的な問題へと視点をシフトする。
 先の「小さな問題と大きな問題の組織的構造と表出事象およびその対策」のことは非常に抽象的だけれど、これは最初の「食べるもの問題」を捨象(抽象化/一般化)した考え方だということができる。

 そんなことをして何になる、といわれてしまうかもしれない。
 では一体、それ以外の、たとえば目先のことにとらわれて何かを解決するだけで、ほんとうにすべての問題は解決しているのか、という風にも僕は思う(もちろん、その意味は分かっているし喧嘩をしたいわけではないので思うのみにとどめて誰にも言わないが)。
 しかし先ほどの「小さな~」の抽象的な思考があれば、問題が表出しているとき、そこに派生している物事や現時点で不明な原因を考えることができるし、問題の根底を解決する一助にはなるだろう。

 あるいは人間の生きる意味、というようなどうでもいい(かつ曖昧な)疑問についても、ある程度の帰着点を探ることができるだろう。
 生きる意味なんて、たしかに日常生活ではどうでもいい、知っていたところで、あるいは考えたところで何の役にも立たないものだけれど、自殺を考える人はたいてい「生きる意味が分からなくなった」と思い、感じるから死んでしまうのではないだろうか。
 つまり普段から、なんとなくでも「自分の生きる意味」を考えることで、自分の自殺を防ぐことができる。
 多くの人が、何の役にも立たない「自分の生きる意味」を考え、答えが出ないなりに自分の中である程度の道筋や帰着点を持っていれば、たとえば自分の価値をやたらと外部に求めたり、あるいは自分の価値を承認するためにしている虚飾をやめることにもなるだろう。具体的なところでいじめなどの問題を解決する糸口になるかもしれない。自分の意味を知れば、他人に意味があることを知るからだ。自分の意味を考えるとき、たぶん人は、他人の意味を考えることができる。

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 誰もが考えたことがあるのに、答えがない。答えがないから誰も声高に言わない。益体もない「生きる意味」なんてことを考えるくらいなら、勉強をしてよい成績をとり、会社で仕事をしてお金を稼ぐことのほうが大切だと周囲からは言われる。そういう世知辛い世の中だ。何が世知辛いかというと、意味のあることにしか意味がないと思っているのが世知辛い。豊かさのかけらもない。共通価値のあるものにしか価値が見出せなくなったら、価値の意味がなくなってしまう。

 そして、そんな具体的なもの、数値化されたものだけを追い回すのが生きる意味なのか。そのために生きているのか。
 自分に意味はあるのか。他人に意味はあるのか。それはどんな意味か。意味はあるのかないのか。意味の意味とはなにか(ここまでくると悪ノリ)。

 答えはないから、各自で考えるしかない。
 あるいは誰か(多くは自分)が、そういう方向に仕向けているのかもしれない。

 日常の、具体的で細かいことをできるだけ確実に、ていねいに処理しながら、時折でもいい、そういった抽象的で、何の役にも立たないことを考えることを、僕はやめられないだろう。

 抽象的な思考など、たしかに何の役にも立たない。
 ええ、ええ。そのとおり。




 というようなことを、いつになく、考えてみた。これも普段はあまり考えないことだからだ。
 こんなことを考えるのは、料理の最中とか、お風呂の中とか、散歩のときとか、サイクリングの最中とか、パイプを喫むときくらいかもしれない。
 けれど、まぁ、こういうのは楽しい。
 何が楽しいといって、役に立たないのがいい。

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 引用は、
「毒とユーモア」From「Pierre smokes every day 2」
http://pierre.ldblog.jp/archives/8020342.html

 によりました。
20141105

 曇り。寒い。

 ごく一部の人しか知らないが、僕は煙草をあまり好き好んで吸わない。
 煙草を吸うようになっておよそ20年が経つが、最初から最後まで、まぁ、そんなに好きではないのに吸っていた。

 と、今は心から思うし、そういえる。
 なぜなら、僕はシガレット(一般に広く流通している、あの紙巻煙草のことです)をやめたから。

 そして、パイプを吸うようになったから。

 もちろん、シガレットにも美味しいときはある。
 結局のところ、美味しく感じるときに吸えばよいのだ。
 美味しく感じられないときに吸うのがよくないのだ。

 が、しかし。
 僕にとって、シガレットがとても美味しく感じられる、なんていうのは、場面がとても限られている。
 まず、気分が良くないといけない。
 空腹でも、満腹でもいけない。そもそも、そういう身体的な欲求に目が向いているときは美味しくない。

 飲み物がなくてはならない。
 できればカフェラテやカプチーノ。とびきり甘くて、とびきり苦くて、とびきりクリーミィなほうが望ましい。
 このほか、紅茶などでもよい。炭酸やジュースなども悪くない。

 気分を良くするシチュエーションがかなりむつかしいのだけれど、これはたいてい人為的に作り出すことができる。
 一番は、何かを作ったあとだ。有形無形を問わない。

 何が出来上がる、何か完成する。それが自分の手によって、自分だけで考えて作られたものであればあるほど、気分が良い。
 しかし、そんなことは滅多にない。そんなに簡単に得られる満足ではないのだ。
 自分の満足するものを考えて、自分の満足を満たすものを考えて、それを自分の手で作り出していって、自分なりのアレンジを加えて、最終的に自分の思ったとおり(うまくいった場合はそれ以上)の満足を手に入れる。
 これは手間も時間もかかるし、何よりひらめきが必要だ。ひらめかなければ、何も手に入らないといってもいい。時間も手間も無駄になるし、失敗すれば気分はそれなりに落ち込む。
(もちろん、悩む時間もまた楽しいのだけれど)
 正直なところ、そんな完璧な満足は年に数回もない。年に一度もないときだってある。

 仕方がないので、もっと手軽な方法で、ほどほどの満足した気分を手に入れる。
 部屋の掃除。自転車の整備。美味しい料理を作る。靴を磨く。滅多にしないものの掃除やメインテナンス。全力疾走(自転車に限る)。思索(文書を書くことが含まれる)。
 これなら週に一度、多ければ週に数回は味わうことができる。

 残念ながら、今の僕の仕事は何かを作ったり綺麗な状態にすることができない。ために仕事で満足した気持ちになったことは一度もない。
 仕事仲間とどうでもいい酒を飲みながらクダを巻きつつ煙草葉を煙に変えたとして、そんなものはこれっぽっちも美味しくない。お酒も煙草も、時間ももったいない。なのでたいていは一人だ。
(そもそも自分の満足のために仕事をしているのではないし、友達ごっこをする場所だとも思っていないから、これはこれで問題ない)

 ちなみに、先に挙げた満足は、すべて僕一人で手に入れられる満足ばかりだ。
 また作業の結果だけではなくて作業の行程自体に満足感があるらしく、自分以外の誰かにさせたところで自分でした以上の満足が得られることはまずない。
 部屋が綺麗なだけ、自転車が綺麗なだけ、料理が美味しいだけ、誰かが全力疾走した、というのでは何の嬉しさも楽しさも満足感もない、ということ。
(「料理を作るのが楽しい」というのは「たまに趣味で作るだけだからだろう」という批判を受けるだろうけれど、実際そうだと思う)
 たとえば何かがくすんでいれば気持ちが悪いけれど、誰かが磨いてピカピカしているよりは、自分で磨いたほうが何倍も満足感がある。

 もっとも、ここでいう満足感とは、あくまでも「シガレットを美味しくすうための前提条件である満足感」のことではあるけれど。

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 僕が自分の気分を「自分次第だ」と思っているのはこういう理由による。
 他人が介在して気分が悪くなることは多いし、逆に気分が良くなることは確率的に少ない。

 僕に限った傾向かもしれないがこれは大事な事実だ。
 他人が介在するとかなりの確立で気分が良くなる、という人は、それだけ他人に負担をかけている可能性を疑うべきだと僕は思うし、僕は他人で満足しそうになるとき、自分を疑う。
 僕は他人を使って(利用して/強制して/圧力をかけて)充足感を得ているのではないかと、ちょっとした恐怖さえ感じる。
 もちろん、世の中にはそうやって、強制されたり圧力をかけられてでも利用されることで、かえって満足感を得る人もいるようなので、まぁ、なんともいえないけれど。

 いずれにしても他人がいようといなかろうと、受動的であればたいした満足は得られないと思っている。
 一方、他人がいてもいなくても、能動的であれば、また行程を楽しむ能力があるならば、十分に満足することができるだろう。
 そういう意味で僕はTVを見るくらいなら本を読むし、自分で考えたことを文字にすることが楽しいと感じる。
 これらはすべて、自分の満足感に対して、とてもわがままだからだと認識している。

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 こうした満足感が心の中にあるときに、はじめて僕にとってのシガレットは美味しくなるのだった。
 だから美味しく吸うのが非常に面倒で、そのわりにいたるところで手軽に手に入って、いつでもそばに置いておけるので、なんというか、理想的な状態の再現性とその機会を作る簡便さが、まったくつりあわないのだ。まるで宝くじのように。





 さて、予想通り、話しがパイプから逸れた。

 でも、それでよい、と僕は思う。
牛すね肉が安かったので、シャーとなってやった。後悔はしていない。


1.すね肉に塩胡椒をして10分くらいなじませる。

2.フライパンにオイルを敷いて、1.の肉を強火で焼く。片面にしっかり焼き色がついてから裏返す。

3.あればワインや日本酒をかけて、さらに少し加熱し、火を止める。

4.圧力鍋に肉と汁を入れる。

5.にんにく1片、にんじん乱切り2本くらい、たまねぎ大1個(丸のままかハーフカット程度)、ローリエの葉っぱ3枚くらいをさらに入れる。

6.調味料は好みで。今回はカットトマトの缶詰(レトルト)1個と塩胡椒のみ。

7.加圧。(圧力調整ができる場合は高圧で)25分ほど加圧。
(加圧時間を調整して、すじの部分の柔らかさを変える)

(ジャガイモを入れる場合は加圧終了後、鍋に水をかけて冷やしたり、弁を開放して急速減圧し(自然減圧を待っても良い)、ジャガイモを入れてから5分ほど加圧する)

8.圧力が下がるまで放置(自然減圧)。

塩味やコンソメ味にする場合は、ここでする。

9.できれば半日くらい放置してから、あたためて食べる。
20140916

 晴れ。
 このところ、いろいろな人に「痩せましたね」「痩せましたね」「本当に痩せましたね」と言われる。
 疑問形ではなく、断定形である。質問さえもない。
 しかも、その心配の仕方が尋常ではない。
 ひどい場合、別人に間違われたこともある。

 ほとんどの人が「この人の痩せ方はただならぬ何か(たとえば病気のようなもの)が作用しているに違いない」というような、なんだか重病人を見るような目でこちらを見る。心配そうにこちらを窺う。
 たまにしか会わないクライアントだけではない。毎日のように顔を合わせるパートさんも「なんだかめっきり痩せたよね」というのである。(事実痩せたのだけれど)

 その上、ダイレクトに「ご病気か何かされましたか?」と、私のように尋ねるような素直な(一般には「デリカシィに欠ける」と評される)人は皆無である様子からしても、大体の人が(重病、もしくは末期ガン)ではないのか、と思いつつもダイレクトに尋ねるのが憚られている、という可能性は否定できない。

 数ヶ月前までは、たしかに63kgくらいはあった。1年前なら67kg近くあった。
 それが今は59kgである。日によっては58kgである。
 でも放っておけば61kgくらいにはすぐに戻る。

 ただ、たしかに全体に脂肪がなくなってきたので、flex状態でもあちこち骨ばっているし、fixさせるとなんだか骨やら筋だらけだ。
 腰骨まわりをはじめ、下腹部や太腿にも血管が浮くことがあり、といっても奥さん、下腹部ってそこは違いますよ、あっ、あっ、違いますから奥さん、血管て違うんです。あっ、やめ、やめてください。あっ。

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 思うに、お風呂で足を洗う際、おなかの贅肉が引っかかったのが昨年の3月。あれから18ヶ月である。
 体脂肪率は半年ほど前から16~17%台で変わらない。体重が落ちたのに伴って骨格筋率が38%前後になったくらいだ。もし癌にかかっていたならば、これからますます体重が減るだろう。

 たしかにこの2ヶ月ほど、僕は食事もできない状態の日もあった。
 いまでもときどき発作が起こることがあるし、そうなるとその前後は食事や睡眠どころの状態ではなくなってしまう。
 こんなことになるのは初めてだったけれど、なんとかそれを回避するように僕は自分の制御系をより堅牢に組みなおしつつあるし、それに失敗したときはそのときだ。


 その過程で、僕は痩せた。

 病気ではないと思うが検査したわけでもないので今のところ分からない。(痩せるほどの癌なら肌の色も悪くなっているだろうけれど、相変わらずつるつるピカピカである)
 感覚からいえば、単に食事量が減っただけで、ひとまず健康だと思うのだけれど。


 でも、体重を増やすのは簡単かもしれない。
 もちろん、減らすのも簡単なことなのだけれど。
胸肉でもおk。

0.調味液を適当に作る。
(例:めんつゆ(もしくは醤油)、塩、砂糖、酒、みりん:わさび、からし、唐辛子、胡椒、ハーブを混ぜても良い)

1.ささみは洗って水気を拭き取り、調味液に漬け、ひと晩放置する。ときどき混ぜること。

2.キッチンペーパなどで水気を拭き取り、干す。このとき、90%以上のアルコール(エタノールでもよい)に浸してから干しても良い。
(通常、燻製は塩漬けにしてから水抜きし、そのあとに干すのだけれど、鶏肉は水分含有量が多いため、この行程がむつかしく殺菌が困難なため。ただし、長期保存でなければそれほど気にしなくてよい)

3.12~36時間干して表面が乾燥し、全体に身が締まって硬くなったら(保存期間に応じて水分を飛ばすが、たいてい3日もしないうちになくなるから好みでよい)燻煙にかける。

4.燻煙はだいたい30分。長期保存の場合は45分程度。(庫内温度を80~100℃まで上げて20分は加熱する)

5.冷めたら密閉袋で保存。できれば翌日以降に食べる。
20140913

 体臭が気になったので、久しぶりに2時間半ほどお風呂に入る。
 食肉して気がついたのだが、体臭が問題ではないようで、単に、嗅覚が過敏になっているらしい。
 すなわち、肉の臭いが気になって、うまく食べられなかった。
 ときどきこういう現象に出くわす。

 鳥のささみが安く売っていたので、調味液に漬けて干していた。
 明日、燻製にする予定。
 料理というのは静かでよいと思う。
 


 自転車で10分ほど離れたところに、それはある。
 国道から幹線道路に入り、さらに生活道路へ曲がった先にあるそれは、すこし変わった外観をしている、民家だ。

 外壁に沿うようにして、パイプが組まれている。
 まるで建設途中か改築を始めようとして足場をこしらえたような、無骨な金属パイプの集合は、しかし、足場のように整然と組まれているようには見えない。
 むしろ乱雑で、急ごしらえな印象を与える。それと同時に、そのパイプが、地面から組まれているわけでもないことにも気がつく。
 そう。それは足場ではない。足場などではない。

 パイプの上端には、3枚羽根のプロペラが回っている。
 ひとつではなく4つ、いや6つある。
 風を受けて回っている。屋根にはソーラーパネルが設置されてもいる。

 それらは局所発電装置だ。

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 僕は原発のことをあまりよく知らない。
 多少は調べたが、放射線の人体に対する影響についても、あまり具体的なイメージを持つことができない。

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 ここでいうイメージとは「放射線が怖い」「放射線はよくない」というような、感情的なイメージのことではない。
 放射線に対して感情を持っても大した意味や影響はないと僕は考えている。
 放射線を恐れていようが、放射性物質を好ましく思っていようが、放射線とその科学的な作用に変化はない。
 たとえば放射線の持つ電離作用によって細胞の活動能力が低下したり、あるいは遺伝子損傷を起こすのは一般にも知られていることだと思っているけれど、それは被曝者の感情によって軽減されたり増幅されることはない。
 細胞の活性という意味では、感情が人体に影響を与えるのは間違いないが、原理も原因も別のものだろう。

 もし仮に、放射線のことを考えていて(つまりそれが原因で)精神的疲労が蓄積し、細胞の活性が極端に低下したというのなら「そんなこと考えるのやめなよ」でおしまいである。
 原因はたしかに放射線かもしれないけれど、同じ放射線量ですべての人とその精神が等しく変容するのでなければ、それは「その個体にとっては」放射線が原因かもしれないけれど、科学的な因果関係はない。

 僕のいっているイメージというのは、具体的にどのくらいの放射線をどのくらいの可視的な情報(たとえば空中に放射される細い糸のような線)として認識するべきで、それによって僕の身体の細胞にどの程度のダメージがどの程度の期間で発生するのかを厳密にイメージできない、ということだ。

 こういうことを書いていると、もしかしたら僕を「原発擁護派だ」と非難する人もいるかもしれない。あるいは身近に反原発思想の人がいれば「その人のことを馬鹿にしているのか」と怒り出す人もいるかもしれない。
 僕が言っていることは(そしてこれから言おうとしていることは)、決してそうではない。いつものとおり、白だ黒だというのではない、という話をしようとしているので、誤解のないように。

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 原発については、僕はほとんど何も知らない。
 また放射線についてもうまくイメージできないため、危険閾値を把握し、公示されているデータを信頼して対処する(あるいは何もしないと判断する)より他に、今のところは手を打っていない。
(まさかガイガーカウンターを持ち歩くわけにも、家の外壁を鉛にするわけにもいかないだろう)

 ただ僕は、その家のことを、その家で局所発電装置を(おそらくは自作して)設置したのであろう人のことを、その思想や発想を、とても素敵なものだと感じている。

 思想や思考や発想に美しさもなにもない、という人もいるけれど、僕はそうは思わない。いや、そう思おうとしてはみるのだけれど、どうしても、ありようとして、反原発運動でデモをするよりも、美しいありようだと感じてしまうのだ。
(繰り返すけれど、反原発運動が無価値だとか、そういう話ではない)

 地域的にこの辺りは放射線量も一般的な範囲で、ああいうシステムを自作できるくらいだから、設計者は相応の技術力や財力や時間もあり、相応の年齢の大人であろうと僕は思う。

 自分の老い先が短いから、放射線のことなど知ったことではない。
 自分の両手の範囲がまずまず幸せなら他はどうでもいいし、電気も供給されたものを買って使えるのだからそれでいい。
 自分が何かしたって、そんなことは微々たるもので、大勢に影響を与えるものではない。結局無駄だから、何をしてもするだけ損だ。

 そういう考え方は、現実的で、具体的で、美しいだろうか。
 そういう考え方から、ああいう(家の外観をちょっと損ねるような)装置を設置することができるだろうか。

 僕には、どうしてもそうは思えない。
 仮に子供や孫がいるにしても、直接影響の少ない比較的安全なこのエリアで、わざわざ(路地裏の目立たない自宅なのだからおそらくはプロパガンダのためでもなく)ああした装置を実際に設置することのできる人を、僕は深く強く尊敬する。

 それでこそ技術の力を具現するに足る人だと。

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 たとえば身近に困ったことがある。
 あるいは自分以外の誰かが、困っている、困りそうだと予測できる。
 それに対して僕たちは、いや僕は、いったい何をすることができて、実際には何をするだろう。

 ニュースで他人の不幸を見て涙を流す人は確かに優しいと思う。
 大きな勢力に対して怒りを感じ、運動を展開することも時には必要なことだと思う。

 技術者の多くは「何を考えているか分からない」と言われることが多い。
 泣もしないし怒りもしない。その様子だけで「人を馬鹿にしているのかと」怒り出す人もいる。
 自分と同じように感じなければそれですぐに、相容れない、理解できないと判断され、人間ではない、と言われることさえある。

 では、涙を流すことで解決する事態があるのか。
 怒ることで単純に解決する問題があるのか。
 もしそうなら、それが最適な選択だろう。
 けれどもそうではないことの方がほとんどではないだろうか。
 現状をできるだけ正確に認識し、最適な手段を考えて、最適な対処を選択することができるのが技術者だと、僕は思う。

 悲しんでいる余裕もなく、怒ることもしない。
 そのありようは確かに非人間的に見えるかもしれない。

 それでも、事態を最善に導こう、問題を何とか解決しよう、と考えなくてはいけないし、そうした姿勢は評価に値するとさえ思える。

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 感情というのは極めて身近で、かつ個人的なものだ。
 それ自体は、決して間違ってもいないし、悪いことでもない。

 ただ、広く全体を見渡す中で、どんなありようが望ましいと思うか、どんな未来が訪れれば幸せか、そういったことを時折にでも考えた方が、人は気持ちが豊かになれるものだと僕は信じている。
 自分だけではない、見たこともない、名前も知らない、そういうたくさんの人が生きているという事実を肌に感じるようにイメージして。その中で、自分に果たせる役割が、たとえどんなに小さなことであっても、何かしらあるはずである。

 泣く者は無力な偽善者だ。
 怒れる者は視野の狭い臆病者だ。
 僕はそれらの感情に自分が振り回されるとき、自分のことをそう思う。

 感情を超えて、人は意志を持つことができると僕は思う。
 自分という枠を超えて、人は未来を信じられると僕は思う。

 抽象的な綺麗ごとだと笑う人が、きっといるだろう。
 具体的なことなど、どこにもないと、嘲る人がいるだろう。

 ならば。
 ならば人は。
 どんな意志を持てばいいのだろう。
 どんな未来を設計すればいいのだろう。

 それとも益体もない意志など捨ててしまえばよいのか。
 確かなものなど何もない未来など、放っておけばよいのか。

 僕には、どうしても、どうしても、そうは思えない。
 捨てようとすればするほど、諦めようとすればするほど、忘れようとすればするほど、突き刺すようにそこに自分がいるのだという痛みが貫く。
 それは現在、一般に言われる「自分 ~ my self ~」ではなく、旧来の日本にあった、もっと根源的な「己 ~ your self or my self ~」の感覚であり「己 ~ your self and my self ~」である。

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 局所発電というのは、結局のところ、自分の家の電力を補助する役割しか果たさないかもしれない。
 局所的に、短絡的に、目の前に見えているだけのことを考えればその通りだ。
 自分たちが、ほんのちょっとだけ、いいことをしているような気分になって終わり、なのかもしれない。

 僕は、風力発電がクリーンだとか、太陽光発電がもっとも安全で確実だとか、そんな風にも思っていない。
 時間が経たないことには分からないことだってある。
 それでも、目の前のことだけ考えることによって起こる失敗があり、それは全体を見渡すことで回避できることもあるのだと感じる。

 今、ここ、にしか自分は存在しない。それを忘れてはいけない。
 けれど、未来のどこかにも自分は存在して、それから自分以外の多くの人も存在しているということも、同時に忘れないでいたい。




 
省エネで高い評価をいただいているワタクシですが、今日のような日は食べても食べても空腹が収まらず、空腹感にあえいでおりますが眠ります。
こういうときの空腹感というのは、普段の空腹感とは比べものにならない、非常に強いものなのですが、夜はかなりきっちり食べました(一日一食ですが)し、空腹というのは実はかなりの快感があるものでして、身体の感覚も研ぎ澄まされるので好きですおやすみなさい。
20140830


 仕事で、隣の隣の街へ。県が違う。
 ひと月以上自転車に乗っていないし限界走行も半年以上していないので、自転車で行こうとしたら、後輪がパンクしていた。
 出がけに緊急修理。

 まぁ、限界を迎えて、最悪ハンガーノックを起こすかもな、と思いつつ出発。

 途中、1L以上の水分を摂取したのだが、帰ってみると体重が2kg軽くなっていた。
 走行距離は往復48km超。
 ハンガーノックは起こさなかったが、かなり危うい状態だった。
 ブランクおそるべし。