20140916

 晴れ。
 このところ、いろいろな人に「痩せましたね」「痩せましたね」「本当に痩せましたね」と言われる。
 疑問形ではなく、断定形である。質問さえもない。
 しかも、その心配の仕方が尋常ではない。
 ひどい場合、別人に間違われたこともある。

 ほとんどの人が「この人の痩せ方はただならぬ何か(たとえば病気のようなもの)が作用しているに違いない」というような、なんだか重病人を見るような目でこちらを見る。心配そうにこちらを窺う。
 たまにしか会わないクライアントだけではない。毎日のように顔を合わせるパートさんも「なんだかめっきり痩せたよね」というのである。(事実痩せたのだけれど)

 その上、ダイレクトに「ご病気か何かされましたか?」と、私のように尋ねるような素直な(一般には「デリカシィに欠ける」と評される)人は皆無である様子からしても、大体の人が(重病、もしくは末期ガン)ではないのか、と思いつつもダイレクトに尋ねるのが憚られている、という可能性は否定できない。

 数ヶ月前までは、たしかに63kgくらいはあった。1年前なら67kg近くあった。
 それが今は59kgである。日によっては58kgである。
 でも放っておけば61kgくらいにはすぐに戻る。

 ただ、たしかに全体に脂肪がなくなってきたので、flex状態でもあちこち骨ばっているし、fixさせるとなんだか骨やら筋だらけだ。
 腰骨まわりをはじめ、下腹部や太腿にも血管が浮くことがあり、といっても奥さん、下腹部ってそこは違いますよ、あっ、あっ、違いますから奥さん、血管て違うんです。あっ、やめ、やめてください。あっ。

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 思うに、お風呂で足を洗う際、おなかの贅肉が引っかかったのが昨年の3月。あれから18ヶ月である。
 体脂肪率は半年ほど前から16~17%台で変わらない。体重が落ちたのに伴って骨格筋率が38%前後になったくらいだ。もし癌にかかっていたならば、これからますます体重が減るだろう。

 たしかにこの2ヶ月ほど、僕は食事もできない状態の日もあった。
 いまでもときどき発作が起こることがあるし、そうなるとその前後は食事や睡眠どころの状態ではなくなってしまう。
 こんなことになるのは初めてだったけれど、なんとかそれを回避するように僕は自分の制御系をより堅牢に組みなおしつつあるし、それに失敗したときはそのときだ。


 その過程で、僕は痩せた。

 病気ではないと思うが検査したわけでもないので今のところ分からない。(痩せるほどの癌なら肌の色も悪くなっているだろうけれど、相変わらずつるつるピカピカである)
 感覚からいえば、単に食事量が減っただけで、ひとまず健康だと思うのだけれど。


 でも、体重を増やすのは簡単かもしれない。
 もちろん、減らすのも簡単なことなのだけれど。
胸肉でもおk。

0.調味液を適当に作る。
(例:めんつゆ(もしくは醤油)、塩、砂糖、酒、みりん:わさび、からし、唐辛子、胡椒、ハーブを混ぜても良い)

1.ささみは洗って水気を拭き取り、調味液に漬け、ひと晩放置する。ときどき混ぜること。

2.キッチンペーパなどで水気を拭き取り、干す。このとき、90%以上のアルコール(エタノールでもよい)に浸してから干しても良い。
(通常、燻製は塩漬けにしてから水抜きし、そのあとに干すのだけれど、鶏肉は水分含有量が多いため、この行程がむつかしく殺菌が困難なため。ただし、長期保存でなければそれほど気にしなくてよい)

3.12~36時間干して表面が乾燥し、全体に身が締まって硬くなったら(保存期間に応じて水分を飛ばすが、たいてい3日もしないうちになくなるから好みでよい)燻煙にかける。

4.燻煙はだいたい30分。長期保存の場合は45分程度。(庫内温度を80~100℃まで上げて20分は加熱する)

5.冷めたら密閉袋で保存。できれば翌日以降に食べる。
20140913

 体臭が気になったので、久しぶりに2時間半ほどお風呂に入る。
 食肉して気がついたのだが、体臭が問題ではないようで、単に、嗅覚が過敏になっているらしい。
 すなわち、肉の臭いが気になって、うまく食べられなかった。
 ときどきこういう現象に出くわす。

 鳥のささみが安く売っていたので、調味液に漬けて干していた。
 明日、燻製にする予定。
 料理というのは静かでよいと思う。
 


 自転車で10分ほど離れたところに、それはある。
 国道から幹線道路に入り、さらに生活道路へ曲がった先にあるそれは、すこし変わった外観をしている、民家だ。

 外壁に沿うようにして、パイプが組まれている。
 まるで建設途中か改築を始めようとして足場をこしらえたような、無骨な金属パイプの集合は、しかし、足場のように整然と組まれているようには見えない。
 むしろ乱雑で、急ごしらえな印象を与える。それと同時に、そのパイプが、地面から組まれているわけでもないことにも気がつく。
 そう。それは足場ではない。足場などではない。

 パイプの上端には、3枚羽根のプロペラが回っている。
 ひとつではなく4つ、いや6つある。
 風を受けて回っている。屋根にはソーラーパネルが設置されてもいる。

 それらは局所発電装置だ。

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 僕は原発のことをあまりよく知らない。
 多少は調べたが、放射線の人体に対する影響についても、あまり具体的なイメージを持つことができない。

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 ここでいうイメージとは「放射線が怖い」「放射線はよくない」というような、感情的なイメージのことではない。
 放射線に対して感情を持っても大した意味や影響はないと僕は考えている。
 放射線を恐れていようが、放射性物質を好ましく思っていようが、放射線とその科学的な作用に変化はない。
 たとえば放射線の持つ電離作用によって細胞の活動能力が低下したり、あるいは遺伝子損傷を起こすのは一般にも知られていることだと思っているけれど、それは被曝者の感情によって軽減されたり増幅されることはない。
 細胞の活性という意味では、感情が人体に影響を与えるのは間違いないが、原理も原因も別のものだろう。

 もし仮に、放射線のことを考えていて(つまりそれが原因で)精神的疲労が蓄積し、細胞の活性が極端に低下したというのなら「そんなこと考えるのやめなよ」でおしまいである。
 原因はたしかに放射線かもしれないけれど、同じ放射線量ですべての人とその精神が等しく変容するのでなければ、それは「その個体にとっては」放射線が原因かもしれないけれど、科学的な因果関係はない。

 僕のいっているイメージというのは、具体的にどのくらいの放射線をどのくらいの可視的な情報(たとえば空中に放射される細い糸のような線)として認識するべきで、それによって僕の身体の細胞にどの程度のダメージがどの程度の期間で発生するのかを厳密にイメージできない、ということだ。

 こういうことを書いていると、もしかしたら僕を「原発擁護派だ」と非難する人もいるかもしれない。あるいは身近に反原発思想の人がいれば「その人のことを馬鹿にしているのか」と怒り出す人もいるかもしれない。
 僕が言っていることは(そしてこれから言おうとしていることは)、決してそうではない。いつものとおり、白だ黒だというのではない、という話をしようとしているので、誤解のないように。

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 原発については、僕はほとんど何も知らない。
 また放射線についてもうまくイメージできないため、危険閾値を把握し、公示されているデータを信頼して対処する(あるいは何もしないと判断する)より他に、今のところは手を打っていない。
(まさかガイガーカウンターを持ち歩くわけにも、家の外壁を鉛にするわけにもいかないだろう)

 ただ僕は、その家のことを、その家で局所発電装置を(おそらくは自作して)設置したのであろう人のことを、その思想や発想を、とても素敵なものだと感じている。

 思想や思考や発想に美しさもなにもない、という人もいるけれど、僕はそうは思わない。いや、そう思おうとしてはみるのだけれど、どうしても、ありようとして、反原発運動でデモをするよりも、美しいありようだと感じてしまうのだ。
(繰り返すけれど、反原発運動が無価値だとか、そういう話ではない)

 地域的にこの辺りは放射線量も一般的な範囲で、ああいうシステムを自作できるくらいだから、設計者は相応の技術力や財力や時間もあり、相応の年齢の大人であろうと僕は思う。

 自分の老い先が短いから、放射線のことなど知ったことではない。
 自分の両手の範囲がまずまず幸せなら他はどうでもいいし、電気も供給されたものを買って使えるのだからそれでいい。
 自分が何かしたって、そんなことは微々たるもので、大勢に影響を与えるものではない。結局無駄だから、何をしてもするだけ損だ。

 そういう考え方は、現実的で、具体的で、美しいだろうか。
 そういう考え方から、ああいう(家の外観をちょっと損ねるような)装置を設置することができるだろうか。

 僕には、どうしてもそうは思えない。
 仮に子供や孫がいるにしても、直接影響の少ない比較的安全なこのエリアで、わざわざ(路地裏の目立たない自宅なのだからおそらくはプロパガンダのためでもなく)ああした装置を実際に設置することのできる人を、僕は深く強く尊敬する。

 それでこそ技術の力を具現するに足る人だと。

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 たとえば身近に困ったことがある。
 あるいは自分以外の誰かが、困っている、困りそうだと予測できる。
 それに対して僕たちは、いや僕は、いったい何をすることができて、実際には何をするだろう。

 ニュースで他人の不幸を見て涙を流す人は確かに優しいと思う。
 大きな勢力に対して怒りを感じ、運動を展開することも時には必要なことだと思う。

 技術者の多くは「何を考えているか分からない」と言われることが多い。
 泣もしないし怒りもしない。その様子だけで「人を馬鹿にしているのかと」怒り出す人もいる。
 自分と同じように感じなければそれですぐに、相容れない、理解できないと判断され、人間ではない、と言われることさえある。

 では、涙を流すことで解決する事態があるのか。
 怒ることで単純に解決する問題があるのか。
 もしそうなら、それが最適な選択だろう。
 けれどもそうではないことの方がほとんどではないだろうか。
 現状をできるだけ正確に認識し、最適な手段を考えて、最適な対処を選択することができるのが技術者だと、僕は思う。

 悲しんでいる余裕もなく、怒ることもしない。
 そのありようは確かに非人間的に見えるかもしれない。

 それでも、事態を最善に導こう、問題を何とか解決しよう、と考えなくてはいけないし、そうした姿勢は評価に値するとさえ思える。

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 感情というのは極めて身近で、かつ個人的なものだ。
 それ自体は、決して間違ってもいないし、悪いことでもない。

 ただ、広く全体を見渡す中で、どんなありようが望ましいと思うか、どんな未来が訪れれば幸せか、そういったことを時折にでも考えた方が、人は気持ちが豊かになれるものだと僕は信じている。
 自分だけではない、見たこともない、名前も知らない、そういうたくさんの人が生きているという事実を肌に感じるようにイメージして。その中で、自分に果たせる役割が、たとえどんなに小さなことであっても、何かしらあるはずである。

 泣く者は無力な偽善者だ。
 怒れる者は視野の狭い臆病者だ。
 僕はそれらの感情に自分が振り回されるとき、自分のことをそう思う。

 感情を超えて、人は意志を持つことができると僕は思う。
 自分という枠を超えて、人は未来を信じられると僕は思う。

 抽象的な綺麗ごとだと笑う人が、きっといるだろう。
 具体的なことなど、どこにもないと、嘲る人がいるだろう。

 ならば。
 ならば人は。
 どんな意志を持てばいいのだろう。
 どんな未来を設計すればいいのだろう。

 それとも益体もない意志など捨ててしまえばよいのか。
 確かなものなど何もない未来など、放っておけばよいのか。

 僕には、どうしても、どうしても、そうは思えない。
 捨てようとすればするほど、諦めようとすればするほど、忘れようとすればするほど、突き刺すようにそこに自分がいるのだという痛みが貫く。
 それは現在、一般に言われる「自分 ~ my self ~」ではなく、旧来の日本にあった、もっと根源的な「己 ~ your self or my self ~」の感覚であり「己 ~ your self and my self ~」である。

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 局所発電というのは、結局のところ、自分の家の電力を補助する役割しか果たさないかもしれない。
 局所的に、短絡的に、目の前に見えているだけのことを考えればその通りだ。
 自分たちが、ほんのちょっとだけ、いいことをしているような気分になって終わり、なのかもしれない。

 僕は、風力発電がクリーンだとか、太陽光発電がもっとも安全で確実だとか、そんな風にも思っていない。
 時間が経たないことには分からないことだってある。
 それでも、目の前のことだけ考えることによって起こる失敗があり、それは全体を見渡すことで回避できることもあるのだと感じる。

 今、ここ、にしか自分は存在しない。それを忘れてはいけない。
 けれど、未来のどこかにも自分は存在して、それから自分以外の多くの人も存在しているということも、同時に忘れないでいたい。




 
省エネで高い評価をいただいているワタクシですが、今日のような日は食べても食べても空腹が収まらず、空腹感にあえいでおりますが眠ります。
こういうときの空腹感というのは、普段の空腹感とは比べものにならない、非常に強いものなのですが、夜はかなりきっちり食べました(一日一食ですが)し、空腹というのは実はかなりの快感があるものでして、身体の感覚も研ぎ澄まされるので好きですおやすみなさい。
20140830


 仕事で、隣の隣の街へ。県が違う。
 ひと月以上自転車に乗っていないし限界走行も半年以上していないので、自転車で行こうとしたら、後輪がパンクしていた。
 出がけに緊急修理。

 まぁ、限界を迎えて、最悪ハンガーノックを起こすかもな、と思いつつ出発。

 途中、1L以上の水分を摂取したのだが、帰ってみると体重が2kg軽くなっていた。
 走行距離は往復48km超。
 ハンガーノックは起こさなかったが、かなり危うい状態だった。
 ブランクおそるべし。
 


::それが僕の躰に残ったどんな傷よりも誇らしげに永遠の痛みを訴えるのだ。






20140827

 どうしても解せないことがひとつあって。
 僕にとってはどんな高級車よりもエライ乗り物があって。
 それが、一部の人には言わずと知れた飛行機なのですしかも旅客機よりも軍用戦闘機の方がエラくて戦闘機よりもセスナのような小型プロペラ機の方がエライ。
 理屈は簡単で、より自由であることがエライことの基準なのです。

 確かに自動車は偉いと思う。
 高級車は大衆車より凄いと思う。
 凄いというのは技術や無駄なアートが。
 僕は技術者でもあるし、サービス業従事者でもあるので、決して馬鹿にする意味で使っているのではない。僕が凄いといったら、それはなんというか、凄いのだ。

 高級車というのはただ豪華に飾られた車両のことをいうのだろうか。そんなことはないだろう。
(そんなことを言っていたらデコトラだって立派な高級車になってしまうが、あれはアーティスティックな「だけ」の作業車だ)
 けれども、高級車が大衆車に比べて圧倒的に自由かというとそんなことはない。
 高級車だって赤信号で止まらなくてはならない(緊急車両は、しかしもっと不自由だ)。
 携帯電話で話しながら運転してよいわけでもない。
 武装が許可されているわけでもない。
 上昇できるわけでも、下降できるわけでもない。移動座標軸がふたつしかない。
 凄いけれども、偉いわけではない、というのはそういうこと。

 旅客機は空を飛べるけれども、貨物作業機だからルールがうるさくて不自由だ。
 戦闘機は運動性能どころか攻撃性さえ備えているけれども、もっと不自由だ。
 するとどうだろう。セスナやグライダが、圧倒的な自由さを持っていると思えてこないだろうか(思えない人は別にかまいません)。

 さらにいえば、ヘリの方が自由度は高い(理由は説明しません)。

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 人と話をしていると一般的に、どうしても物事の、話の、構想の、想像の、ビジョンの、ビッグピクチャの、サイズが、スケールが小さいように感じられる。
 メディアが枠組みしてしまうから余計にそうなるのだろうか。
 TVプログラムはすっかり画一的だし、政治はなんというかそれに携わるすべての人(あれこれ批判する人までも)が「政治(笑)」みたいな雰囲気になっているとさえ感じる。

 僕の住んでいる地域は都会ではないため、交通機関といったらやはり自動車が主流ではある。
 でも、不便なりに電車もあればバスもある。自転車だって、自動車よりは自由な場面がある。
 ところが、この地域(だいたい僕を中心に半径35km)(その先は、首都圏に入ってしまう)の人は、そもそもそんな発想を持たない。
 自動車が主流、ではなくて自動車しかない、と思っている免許所持者ばかりだと言ってよい。
 誰が言い出したのか知らないが、すっかりそういうことになっている。
 私の死んだ親もそうだったし、地震を経てなお、ほとんどの人間がもとの意識に戻っている。口を開いたと思えば「ガソリンが高い」である。
 枯渇するのが分かっている資源なのだ。嫌なら使うな、と叱るような人もどうやらいないらしい。

 電気も同様だ。
 どういう理屈か知らないが、ソーラーパネルがあちこちに林立している。
 あれがエコなのか。
 僕には疑わしい。
 なんらかの経済的な目論見がマッチした結果と聞いている(気になる人は調べましょう)が、あんな、いつ壊れるか分からないもののために、基礎や囲いやセキュリティまで設置して、いったい何をしているのかと思う。
 どれだけ資源を使って、どれだけのエナジが回収できる見込みで、どのような維持/撤去をする見通しなのか。今現在の数字しか見ていない人間は、そこまでは全く考えていない様子だ。
「自分が死ぬまで動いていればいいし、税金対策になればそれでいいし」というような。

 それで電気を含めた資源を使いながら「原発は絶対ダメだ」なんていう。
(まぁ、反対している人のほとんどは今でも節電していると思うけれど)
 計画停電をしていた頃の静かなありようが僕は気に入っていたのだけれど、人は喉元を過ぎると忘れるらしい。僕も良く忘れるから注意しよう。

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 いままで思っていたのだ。
 僕の思っていることが、こんなにズレているのは、多くからズレているのは、僕が多数派に位置していないのは、僕が間違っているからなのではないか、と。

 もちろん間違っていることもある。それは重々承知していて、僕は近頃ますます失言を恐れる政治家のように慎重である(日本語が変)。
 しかし一方、多くの人は結局、周囲の人の意見や自分の中の慣習に流されてしまって、自分で考えてなどいないのだ、という結論に、ようやく到達した。

 何か指摘したところで「だって」なのである。
 だって飛行機なんて乗れないよ。
 それはもちろん、セスナで常に移動しようよなんて無茶は言わないし言えない。
 航空燃料は重油だと思ったが、きっと等比で値上がりしていることだろう。

 ただ、外部の燃料に委託して、他人に決められたルールに従って、誰かの整備した道路を走るような思考ばかりが、やはり「普通」なのだ。
 その「普通」の中でしか考えないなら、まぁ結果がわかりやすいというかなんというか(お茶を濁しました)。

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 先日、人と話をしていて(僕の説明が悪かったのだけれど)僕の考えている(まだやっているのか! と怒られそうだけれど)住宅水冷構想が「ああ、水冷クーラね」ということで片付けられてしまった。

 輻射熱や建材の蓄熱について、まぁ、講義する時間でも状況でも立場でもなかったので諦めたが、つまるところ、人は、自分の知っているものからさらに外側にあるものを知ることが、あるいは知ろうとすることが、なかなかむつかしいし、それは知識を積み重ねるごとにむつかしくなるのだろう。
 今では子供だって、インターネットで答えを探す。
 その答えが匿名の人の答えだったりして、根拠も不明で、それでも単なる「ベストアンサー」だからという理由で、歓迎されたり、ひどい場合は迎合されることもあるのだろう。

 内側の答えも、外側の答えもあり、そしてそれは必要で、なんだか脱構築しているような気分になってきたけれど、知性を磨くというのは、答えを知ることでも導くことでもなくて、その過程すべての経路を構成する環境を整備することなんだよね(もうこの口調でいいや)。

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 空気や水の熱伝導率は、金属のそれに比べてはるかに低い。
 もし空気が鉄と同レベルの熱伝導率を持っていた場合、料理をすると高確率で火災が発生し、キャンプファイアは集団自殺になる(意味が分からない?)。

 住宅建材のうち、非金属建材は熱伝導そのものは悪いものの輻射熱は発生し、しかもその多くは直接水を掛けることができない。
 金属建材は熱伝導が良く、水にも強いため、他の建材の熱をそこ(金属建材)で水を利用して吸熱することによって、建物自体(中の空気ではない)を冷却する(正確には輻射熱を減少させる)ことができて、これがどうして実はなかなか大きなエナジの削減かも知れないと僕は思っているのだけれど、ほらキミ、聞いてないでしょう?

 というまさに文字通りの水掛け論が展開されるのであった。

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 僕にとっては、エライことはさほど重要ではなくて、自由であることが何よりエライことなのであった(いきなり過去形)。
 自分自身からさえも自由であるということは、ときに死のように不自由だ。
 けれどその、自分自身さえいつも置いてけぼりにするかのような加速感や上昇感を、あるいは感情的にいうならば高揚感を、僕は渇望している。
 きっと、死ぬまでそうだろうし、そうでありたいと望んでいる。

 見下ろす道路はいつも渋滞だ。

 僕はどこに行こうとしているのだろう。
 何をしようとしているのだろう。

 少なくとも、そう。行列に並ぶことではない。

 少なくとも僕には、それは当たり前のことだ。










::夢の中で、僕はただ戦った。誰のためでもなく、何も望まずに、純粋な気持ちで相手に向かっていった。僕は誰にも負けなかった。誰も僕を墜とすことはできなかった。
 僕は特別な子供で、普通とは多少違った神経を持ってたから、その分普通とは違う感情を持っていたし、普通とは違う動きもできた。僕は、自分を取り囲む存在から外へ抜け出そうとして、それはつまり、その中へ閉じ籠もることに等しかったのだけれど、ずっと考え続けてきたし、抵抗もした。
 たぶんきっと、こんな表現ではわからないだろう。
 誰にもわかってもらえないのに違いない。
 わかってもらう必要などないのだ。
 ただ、一つ確かなことは、彼女が、僕と同じだった、ということ。それがわかった。誰のためでもなく戦うことができる純粋さを、彼女も持っていたからだ。
 それなのに、
 周りのみんなは理由を沢山用意する。この世は、うんざりするほど理由でいっぱいだ。ゴミのように理由で溢れている。人はみんな理由で濁った水を飲むから、だんだん気持ちまで理由で不透明になる。躰の中に、どんどん理由が沈殿する。
 だから、
 最後には、自分もゴミになりたくなってしまう。
 追い込まれてしまうのだ。












引用は、
「スカイ・クロラ ~ The Sky Crawlers ~」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)によりました。

冒頭引用
「プロローグ ~ prologue ~」(p.9)
文末引用
「エピローグ ~ depilogue ~」(p.301-302)
 アヒージョというのは、アーリオ・オーリオソースで魚介や野菜を蒸し煮にする料理(と認識しているが、一般表記はときに異なる)。

 基本的に水を使わないが、材料のだしが濃くなりすぎた場合は、少量足してもよい。

1.ソースを作る。
 オリーブオイルを(ええ? こんなに入れて大丈夫?)というくらいまで入れる。だいたい200~300cc。
 皮をむいたニンニクは包丁で潰し、ヘタと種を取り除いた唐辛子を2本とともにオイルの中に入れて、とろ火で加熱する。
 香り付けのため、好みであらびき胡椒を少量入れておいてもよい。

2.材料を入れる。
 ひと口大より少し小さく切った野菜をソースに入れる。
 大きさは1~3cm程度のブロックにすると食べやすいかもしれない。でも決まりがあるわけでもない。
 魚介類から入れると出汁がよく出るが、過熱を続けるうちに材料が収縮し、味もえぐみが出やすくなるので、材料の特性に応じて見極めが必要。

 材料を入れたら、酒(白ワインでもいいが、日本酒でも問題ない)と塩(天然塩が望ましい)を入れてよくなじませる。
 角が立つことはないと思うが、全体の味が丸くならないときは、少量の砂糖(上白糖を除く)やみりんを使う。

3.ふたをして煮詰める。
 とろ火のまましばらく煮る。たまにかき混ぜる程度で、とくに手を加える必要はない。
 全体に火が通ってからお好みの時間、煮詰めてできあがり。
 ブルスケッタなどと一緒に食べる。
某日。

揚げ煮びたしを作る。

どういうわけか、夏に作ることが多い。
また、換気扇を掃除した数日後に作ることが多いのも何かのジンクスなのだろうか。

作り方はいたってシンプルで、


1:煮汁を作る。
 お湯を沸騰させてから火を止め、めんつゆ、砂糖、お酒(みりん)などで味を調え、種を取り除いた唐辛子を1~2本ほど入れて軽く火を入れて、沸騰する前に火を止める。

2:具材を揚げる。
 揚げるほどの油を使いたくないので、大めのオリーブオイルで炒める感じに。

○オクラは塩もみして毛を取り(手に大量の棘が刺さったりした)先端とヘタを軽く切り、ヘタの継ぎ目をピーラーなどで削ぐ。
 揚げると破裂するので、数箇所に切込みを入れる。

○ナスはヘタを切り離して、縦半分に切り、皮に格子状の切り目を入れる。
(面倒な場合は切込みを入れなくても問題はないものの、揚げて硬くなった皮を噛み切れない、という事態が往々にして発生する)

○ニンジンは皮をむいて食べやすいサイズに切る。

○それ以外にも、思いついた野菜を揚げやすいように揚げる。引き上げ時の油温は中温が目安。
 焦げ目はほどほどがよいが、多少黒くなったくらいは問題ない。
 フタがあるほうが調理しやすい。

3:揚げた野菜を煮汁に放り込む。
 煮汁が辛すぎる場合は、唐辛子を引き上げる。
 揚げただけで火が通らない野菜があった場合は、必要に応じてしばらく煮る。

4:室温に冷めたら、冷蔵庫にしまう。
 夏場は重要。


といった感じ。
20140810

 おそらく僕のアタマはちょっと、あるいはそれどころか一般的な人だと到底相入れないくらい、非常に、異常なほど、おかしいのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。
 比較的長い期間にわたって、僕はいろいろな人から反省を求められている。
 もちろん、反省をしなさいと言われるだけのことを僕がしたのは事実で、それによっていろいろな人を苦しめているのも事実だ。

 だからこの文書は、反省をしなさいと言う人がおかしいという趣旨ではない。
 僕が反省をする必要があるのかという反抗声明をするわけでもしたいわけでもない。
 また、反省という概念に対する反証を行いたいのでもない。
 反省という概念? とも僕は思うが、たしかに反省にも概念が存在する。そして明らかに、僕と、僕の中(あるいはまぁ、ありていに言って表面)に反省の色を確認できないでいる人たちとの間では「反省」の意味であるとか、概念であるとかが違う可能性も考えなくてはと思ったのだ。

 僕はその、反省の概念が、どうしてこんなに(おそらくだけれど)僕の中で「だけ」ズレているのか、が分からない。だからそれを知りたいと思っている。
 僕には「反省の色が見えない」という概念がうまく理解できなくて、その理解できていないということを理解しようと思ってこれを書いている。

 なぜならば、第三者の人にまで「あなたは反省しているように見えない」と言われるのだ。

 そこから導き出されるのは、僕はまったく反省しているように見えなくて、もしかしたら今の僕の持っている自責の念であるとかは、反省とはまったく異なる座標系で、まったく異なる方向にしか事態を運ばないかもしれないということだ。
 僕は僕で僕なりに、今までにないくらい反省している。
 定量的に示すのはむつかしいけれど、砂漠の果て、誰も知らない場所にある、象の墓場に建てられた墓碑のように反省している、とでも言えば伝わるだろうか。およそ逆効果のような気がしてきたが。

 こんなことを書いている時点で、僕に反省の色が見えないという人たちが呆れ果てて怒り出すであろうことに僕は怯えている。
 そもそもこれは概念とか座標系とか方向性とかいう問題ではないのだ、と、いま耳の中でありありとその叱責の声を僕は聞くことができる。ほとんど悲鳴に近い声で僕は非難される。
 なぜなら、僕がますます反省という行為をしているようには観察できないから。

 多数決原理に基づいて考えると、僕の反省の意味や概念がそもそも間違っている可能性が強くて、僕はそれを修正する必要がある。

 それで僕は基本に立ち返って、反省について考えなくてはならない。
 わかるだろうか(読者が分かる必要はまったくありません)。

 僕の反省は、何を解決する方向にも働きかけておらず、それどころか、事態を悪化させ、再発させ、さらにひどい状況を生み出すものと認識されている可能性があり、実際にそうかもしれないのだ。
 僕が僕に対して行なってきた教育のうち、それが欠如しているがために多くコミュニケーション不全を起こすのだとしたら、僕はそれを学んでおいた方が良いだろうと思っている。

>>>

 反省そのものの定義については以下を参照することにしよう。

http://ja.m.wikipedia.org/wiki/反省 より以下を引用する。

::反省(はんせい、英: reflection)とは、一般的には自分がしてきた行動や発言に関して振り返り、それについて何らかの評価を下すこと[1]、あるいは自分の行動や言動の良くなかった点を意識しそれを改めようと心がけること[2]。あるいは自己の心理状態を振り返り意識されたものにすること。

::自分が正しいと思ったとき人は反省しない。軽い気持ちかもしれないが、 人にはそういう紛争の種が潜んでいはしないか。放っておくと危険だろう。

>>>

 僕の思う反省の概念もだいたい一緒である。今調べていて、ほっと胸をなでおろした。
 もちろん、それでも僕は間違っているかもしれない。
 wikipedia も、辞書も、僕も、その全てが間違えている可能性を、今の僕は否定できない。
 これはふざけているのではなく、僕が真剣に「僕が間違っているかもしれない」ということをつぶさに意識しようとしている結果であって、こうしたことを書くことそのものが滑稽であるあまり「またふざけている」と怒り出す人もいることを僕は十分に承知した上で、それでも慎重に、注意深く、できうる限りの誠実さで、反省について、そしてその反省というものに対する僕の認識の不整合や不具合や不完全さについて僕は考えようとしている。
 なぜなら僕は反省しているからだ。

>>>

 僕はときどき慇懃無礼だと言われたりもするけれど、僕にとってはそれはかなり普通に礼儀を重んじている結果のことが多い。
 もちろん、人にはそれぞれ払われる必要を感じるレベルが違うこともある。
 でもたとえば僕は、相手が年下であっても、僕が買い物をするコンビニの店員さんであっても、払うべき敬意や重んじるべき礼儀があると思ってそうしているのであって、決して誰かに過剰な礼儀や誠実さを示すことでバカにしようなんて意思があるわけではないし、そんなふうに考えたこともない。
 さらに言えば、礼儀正しい自分を誰かに見せたくてそうしているわけでもない。
 たとえば買い物に行った先の学生バイトの人の態度が悪かったとしても、そこで自分が欲しいと思ったものを売ってもらえる事実に感謝する姿勢なり概念なりを自分なりに持っているから「ありがとうございます」と言ってしまうのだ。
 べつに「お前はロクデナシの学生バイトだけれど俺は礼儀を知っているから挨拶の仕方を教え示してやるぜ」なんていう気持ちからしているのではないのだ。

 それと関係があるのかないのか、真面目に、誠実に考え始めると、どうやら僕は人の考える一般的な領域を逸脱してしまっていることがあるらしくて、それでも僕はそれらを真面目に理解したいと思うから、当たり前のこと、当たり前とされていることからきちんと自分の認識を自覚しようとして、それが結果的に滑稽に映ったり、慇懃に思われたりして、かえって不真面目だと思われることがあるらしく、それで困ってしまうことがある。
 僕が真面目にになればなるほど不真面目に見えて、誠実になろうとすればするほどバカにしているように見えるらしいので。

>>>

 誤解を恐れていても仕方がないので正直に書いてゆくが、反省というのは「他人から観察されないといけない」ものなのだろうか。
 他者が観察して初めて「そこに反省がある」と認定され、そうした認定なしには反省などというものは存在しないのだろうか。
 もっと極端に書くと「反省は人に見せるためのものなのか」ということだ。

 もうこれだけで最低でも8人くらいの人が怒り出していると感じているが、僕はふざけたり、バカにしたり、怒らせるために、それを目的としてこんなことを考えているのではない。
 見せるためだとしたら、それは何故なんだろう。
 あるいは「他者から見える」ものが反省なのだとして、それはどのような条件で見えたり、見えなかったりして、どのような条件で反省が「あること」になったり「ないこと」になったりするのだろう。

 もはや、石を投げられ国から追放される流浪の民みたいな気持ちになってきたのだけれど、それでも正直に書き続けると、僕はそれがよく分からないのだ。

>>>

 僕にとって反省というのは、過去の事象に対して客観的に評価(だいたいいい評価でもなければ、賞賛されるべき事象でもない)をして分析し、再発防止のための策や手法を構築し、それを強固なものとして洗練させ、最終的に行動様式を変えることだと認識している。

・過去の評価
・分析
・再発防止策の作成
・防止策の洗練
・行動

 このいずれか、あるいは全てを、他人に分かりやすくディスプレイする行為が反省だろうか。
 僕のこの疑問ははふざけているのではなく、開き直っているのでもなく、ただ真面目に考えている。
 僕にとっての反省とは、ディスプレイとはかなり性質の異なる行為だ。

 他者の反省を見るということ、反省が見えるということは何だろう。いったいどういう状態を示しているのだろう。
 あるいは僕(反省する者)がディスプレイする行為ではなく、(他者によって)観察できることが、反省の有無や深さに関係するのだろうか。
 それは色なのか音なのか態度なのか行動なのか。

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 たとえば「そういうとき人は土下座して謝るものだ」と言われれば、僕はそうするだろう。それは行動様式の提示ではなく、行動の要請だから僕が考えるまでもなく簡単に実現できる。
 あるいはもしかしたら、僕がコンビニの店員さんに頭を下げるような、礼儀として一般に備わっているべき反応がそこでは決まっているのかもしれない。
 眠るときに「おはよう」なんて言わないくらいの当たり前のことを、僕は今まで知らず、身に付けていなかったことになる。

 そうだとすると、僕に足りないのは反省ではなく謝意の表示だ。
 今のところ「反省」とセットではそうした行動様式を持っていなかった僕にとって、これはどうしても技巧になってしまう。
 小手先の技術であり、テクニックであり、行動であり、ディスプレイだ。
 もちろんもちろん、技術や技術的行動やディスプレイが悪いとか、劣っているとか、無意味だと言っているのではない。
 もし仮にそうだとすると「反省しなさい」という日本語にはきっと「理解できるように謝罪の表示をしなさい」という意味が含まれているのだろう、暗黙のうちにであれ、明示されているのであれ。
 そうなると、たしかに僕の「反省の概念」は間違っていることになる。

 たとえば僕が「反省してください」と言う場合、相手がむすっとしていようと、ヘラヘラしていようと、まったく気にしない。
 逆に、そのときは申し訳なさそうに何度も謝るけれど、結局同じミスを繰り返す人を僕は3人ほど知っているし、その人たちのことをあまり信頼していない。
 ミスがあるのは問題だけれど、再発を防いでいないのはもっと問題で、不誠実だと感じる。
 僕はそちらの方がよほど反省していないと感じるし、反省と謝罪はまったく異なるものだと思っている。

 大事なことは再発しないこと、させないことだし、相手も相応に大人であるケースしかないため、よほど重篤な失敗でない限りは防止策の提示もさせない。そんなものを確認している暇もこちらにはない。

 僕が人に言うのはむしろ「反省は3秒で終わりにしてください」だ。
 いつまでもクヨクヨヘナヘナされていると、こちらも困る。

 ところが、反省というのは一人称的に完結し、未来を改善する行為ではなく、それを含めても含めなくても(つまり再発防止は二の次として)とりあえず謝意を表明することなのかもしれない。

 なんだかますます自分がアタマオカシイ人のような気がしてきた。

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 僕の行動様式としては、自責の念に駆られているところをあまり過剰にディスプレイするものではないと思っている。
 落ち込んでいたり、のたうちまわっていたり、泣いていたり、塞いでいたりというのは、見せられるほうもなかなか対応に困るものだと思う。
 これもディスプレイだと思われるのはあまり嬉しいことではないのであまり書きたくないが、僕は人に表現する以前に自分の感情を抑えてフィルタしている。
(きっと誰でもそうだと思うが)
 なんでもかんでも表現すればいい、というふうには思っていない。
(きっと誰でもそうだと思うが)
 だからといって「これはいい感情だから表現しよう」「これは悪い感情だから露出を控えよう」なんて差別をするつもりもない。
 単純に、そんなにディスプレイしないのだ。そういう行動様式で生きてきたから、なんでもかんでも100%ディスプレイしなさい、と言われたら、今度はディスプレイだけが目的になってしまう。
 そんなことをしたら、僕の反省(あるいは内省と表記を改めれば良いのか。しかしそれは言葉だけの問題だろうか)は何処かに消えてしまう。
 消えなくても、自分の中で占める割合は少なからず減ってしまうだろう。
 誰かに認められよう、気に入るように取り繕ってその場をしのごう、とすることで、かえって反省から遠ざかることが懸念される。
 僕なら平気でそれをしそうだ。

 僕の思う範囲においては、これ見よがしだと、それこそ見せるために自分を責めているようだと感じる。
「こんなに自分を責めているんです」というのをディスプレイして、それで反省していると思われたり、同情を誘ったりするようでは、やがてディスプレイが目的になってしまうかもしれない。
 コンビニの店員さんにお礼を言うのは、あいさつで、ディスプレイだから、ディスプレイが目的ということでそもそも間違っていないと思う。
(相手に対してでも、第三者に対してでも、自分に対してでもなく、自分の中心の部分に対してのディスプレイ、である)

 反省について「見えない」「見せなさい」というのは、つまるところ「挨拶をしていない」「挨拶をしなさい」という意味かもしれない。それならなんとなく理解できる。
 だとすれば、僕の行動様式と反省という言葉に対する認識が一般常識からズレていた、と理解できる。
 辞書や Wikipedia が絶対で、それが正しいなんて、僕は思わないし主張もしない。したくもない。
 僕には僕の考えがあって行動様式があって概念があって認識があるわけだけれど、それが絶対だとは思っていないし、そもそもいつだって僕は自分で考えて到達した答えしか信じないから、いつだって間違っているかもしれないのだ。

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 それにしても僕が深い自責の念に駆られてときどきのたうちまわったり色々している事実を(なんて書くともうそれだけでこれ見よがしな気がして自分のことが厭になるけれど)相手に対して反省していると分かるようにするにはどうすればいいのだろう。
 極論を言ってしまうと、どうディスプレイすると伝わるのだろう。
 こうなるともはや技巧だ、いけないいけない、と思いつつ。



 最後に、この文章を読んでお怒りになってしまったすべての人に、この場を借りてお詫び申し上げます。ホントに! ふざけてるんじゃなくてホントに!