20140809

 日付入力ができるようになったというのに、日付を記載する癖が抜けなくて困っている。

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アドレナリン分泌過多に関するメモ

[禁則事項]

・禁則を強制しない。
 言語認識レベルで強制にならなければ良い。
「~したほうがよい」と表現を変えることで思考誘導をする。
「~してはいけない」よりは「~しないほうがよい」。
 
・衝動を先延ばしにする。
 現代はそうそう衝動的な行動が有効な局面が多いわけではないので、各種衝動に対して必要に応じた先延ばしを提案して思考誘導する。
「より完璧なプランはないか」
「必要なものは何か」
 などなど、目的を阻止することなく時間を稼ぐことで衝動をコントロールしやすくなる。

・上白糖などの精製糖は控える。
 吸収しやすく過剰なエナジとなるため。

・煙草は控える。
 血管が収縮し、分泌反応が過剰になる。

・アルコールも控える。
 血流が増大し、分泌反応が過剰になる。

・カフェインは摂取しない方が良い。
 アドレナリンと似た作用のため、反応が大きくなる。

 上記の摂取禁則リストは、少量/単独であればあまり問題視しなくても良いが、多量/重複摂取には注意を要する。



[奨励事項]

・インターバル運動をする。
 分泌されたアドレナリンを代謝するために、無酸素強強度運動と有酸素運動を交互に繰り返して肉体を疲労させる。披露はしない方がいい。

・摂食はタンパク質を中心に。
 豆腐食べてるからおk。


 適切な代謝を行わないと、分泌過多になりやすい私のような人間はいつまでも分泌が続く。
 行きつくところまで行ってしまうと、今度はいわゆる「燃え尽き症候群」のような状態になってしまって、何に意味を感じるでもなく、何に価値を見出せるわけでもなく、本当に寝たきりになってしまう。

 分泌過多の時期も辛いが、分泌不全の時期も相当辛いのである。辛いなんて軽々しく言えるのはその辛さを知らないからだなんて言われたりするが、からいのではないので誤解のないように。

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 機能が回復してきたので、夜は餃子を焼いてみた。あと豆腐を食べる。

 諸般の事情により私の家には現在、私の恋人がどこにもいない。
 どこを探してもこの家にはいないし、かくれんぼをしているわけでもない(「ほぅら、見つけたぞぅ!」「きゃー、やめてよもぅ」みたいな展開ももちろんない)のだが、彼女は僕が餃子を焼くと、それをとても嬉しそうに見ていた。
 まぁ餃子に限らず、彼女はだいたい僕が料理しているところを興味津々で覗き込むのであって、その様子たるや非常に愛でるべき存在なのである。
 まぁこんなこと自分で言うのもなんだが、僕は餃子を焼くのもなかなか上手なのである。

 とはいえ彼女の料理もなかなか素晴らしいものがあり、とくに傑作だったのは彼女の作ったパンであるのだけれど、これの傑作具合はまた別の機会に。
 あと彼女は、僕が帰宅して疲れている様子になってくると、パイ(アップルパイなど)を焼いてくれたりするので、やっぱり愛でるべき存在なのである。

 ただ、水を飲まないのと、自分ではあまり丁寧に身体を洗わないのがよろしくない。
 いわく「水に濡れるのが嫌」なのだそうだが、どう考えてもただのモノグサである。
 もしや砂漠のイキモノなのではないかといぶかしむこと多々ありなのだけれど、出身は関東なので、多分、砂漠は関係ない。

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 自分で作った酒器セットに酒を入れてみたものの、なんとなく、こぼれる。
 ちょっと残念な結果。

 焼いたもののうち幾つかは、すでに嫁入り先が決まっている。
 


::『世界中、日本中を飛び回っている、会合や打ち合わせには、必ず遅れてくる、という「忙しそうな奴」があなたの周囲にきっと何人かいるのではないだろうか。さあ、よくよく観察してみよう。絶対に大した奴ではない。これはもうほぼ断言できる。少なくとも僕の周りでは例外はなかった。もう少し具体的な例を挙げると、過去に一度だけ外国に住んだことがある、という程度なのに、何かあるごとに「フランスにいたときにね……」という枕詞をつける奴とか、いない? そんなにフランスが良かったら、帰ってくるなよ、と言いたくなるが、それと同様に、「そんなに忙しかったら、仕事、断れよ?」という非常に単純明快な道理が忘れられがちである。顔をしかめて「もう忙しくて大変」なんて言っている人間は、顔をしかめて大変だと言いたいだけの人物であって、そのために、わざわざくだらない仕事を作っていたりするから巻き込まれないように気をつけよう』





20140809

 午前中、仕事。
 長い間(完全に社長の不備で)軋轢が積み重なっていたお客様にお会いして、きちんとお話しすることがようやくできた。
 酷く凝り固まったものが、ようやくほどけた気分。
 誤解は解け、過去は清算し、一度は縁を断つことでお互いに合意したが、こういうことをきちんと(しかもお互い心からの笑顔で)することがとても貴重で大切なのだと、今の僕にはよく分かる。
 売り上げを失うこととお客様を失うことは、まったく異なることだ。

 気分が良かったので、帰りに、ひとり工房に立寄る。
 自分の最後の作品が、そこに置かれている。


 自分の作ったものが、他の人にどう見えるのか、僕にはよく分からない。
 でも、僕にはそれらが、僕自身と同じように、とても愛おしいものに思える。
 同じものを見ているのに、僕にしか分からないたくさんのことが、そこにはある。

 これは作った人にしか分からない感覚だと思う。
 僕には出来上がったもののその全て、最初から最後までを知っているのだから。

 気に入るものもあれば、気に入らないものもある。
 それでもいずれは、その愛着を断ち切って、次のものを作らなくてはならないだろう。
 そうしなければ、いつまでも同じようなものばかりを作り続けることになる。

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 モノを作りもしない人間が幅を利かせるようになって久しい。
 モノはどこまでもその価値をおとしめ、人はゴミ屑よりはマシなものとばかり、モノを買い叩くようになった。
 一流メーカと呼ばれた企業は、結果的に、モノの価値をコスト最優先にしたがために自らの首を絞め、くずおれて、下流へと流されてゆく。

 真面目にモノを作る人のほとんどは、その技術はもちろん、経験までもを「ゴミ屑よりはマシなもの」とばかり買い叩かれ、結果的に、何を作るわけでもない人間が、それをいいように弄んでいるように思えることがある。

 ごく一握りの技術者はそれに反旗を翻すものの、ニュースのエサとしてこれも浪費されることがほとんどだろう。

 本当にモノを作る者は、いつも静かだ。
 なぜなら、モノは語らない。語って聞かせる必要もない。
 ただそこにあって、あるいはそこになくて、使われる日を、生み出される日を、待っている。
 技術の根幹というのは本来、言語化する必要がない。
 それを誰かに伝えるときにだけ情報化される必要がある。それだけだ。

 世に流布する多くのものは、機械的に大量生産されたものがほとんどだ。
 けれども、必ずどこかに人の手がかかっていて、人の思いが込められている。
 たとえ100円ショップの計量カップであったとしても、僕はそれを前に、人の意思を感じる。

 モノを作りもしない人間たちは、モノを前にしてそこに掲げられた数字しか見ない。
 そこに人間がいて、人間の意志があって、人の思いがあって、望みがあって、理想があって、そうしてそれらが結実したのだというそれを、単なる数字としか見ない。

 人の価値は底なしに下がってゆき、情報が最も価値のある、崇高なものだとされてゆく。
 人はたしかに情報を持つが、情報は人そのものではない。
 にもかかわらず、それを忘れた人間たちが、情報を優先し、やがて人を道具に仕立てようとしている。

 自分たちの手は汚れない。
 仕組みを作って、それを流布して浸透させ、いいように価値そのものをスライドした、それが今の結果だろう。

 兵隊がいなくなっても、替えの道具などいくらでも補填が効く。
 弾薬がなくなっても、そんなものは無尽蔵に補充される。
 手を汚さず、物も作らない人間は、そういう感覚に汚染されてゆく。
 TVゲームのスクリーンに表示された殺戮のごとき清潔さで。

 いつも綺麗な場所にいるから、そんなふうにしか見えない。
 いつも手を汚さないから、汚れていることに気づきもしない。

 僕は、手を汚す人間がとても好きだ。
 手が汚れていて、肌が荒れているような人が、とても好きだ。
 痩せ衰えて、やっとで立っているような人は強いと思う。
 膝が痛いと言いながら、正座してお話しを聞いてくれる人が好きだ。
 歩き疲れて、膝やかかとが傷んでいる人が好きだ。
 料理で失敗して、指を怪我したりする人が好きだ。
 工作で力が余って、指を落としてしまう人を尊敬している。

 どんなに実力のある人でも、技術を持つ人は謙虚だ。
 なぜなら、モノは、人を選んで言うことを聞いたりはしないからだ。
 どんなに高名でも、どんなに経験豊富でも、どんなに財をなしても、モノはその人の前でだけ変質したりはしないからだ。
 人間しか見ていない人間は、ために、人間を見失う。

 僕のアタマの中にはいくつかの生き物がいて、それらは様々に暮らしているけれど。
 僕のカラダは(最初はそうでなかったにせよ、ある時期からは完全に)僕の育てたモノであって、僕が所有して管理する、誰も奪うことのできないモノだ。

 自分のカラダというモノの管理さえ他人に任せて、ぶくぶくと肥えてゆく類の生き物は、仮に汚れていなかったとして、清潔だったとして、少なくとも僕には美しいとは思えない。

 翼の折れた猛禽がいる。
 脚を失った犬がいる。
 片目を失い、泥に汚れた猫がいる。
 指をなくした技術者がいる。
 その堂々としたありようを、僕は美しいと感じる。

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 僕に陶芸を教えてくれたのは社長だけれど、その社長は今は完全に別人だ。
 以前は思うように作らせてくれていたものを「これは良くない」「こうした方がいい」とあれこれ口を出すようになってしまった。

 モノを作るのはいつもストレスがかかる。
 でもそれは、モノ対自分のストレスであって、そこに余計な人間関係がないからこそ心地よく没頭できたのだ。

 これが社長と作った最後の作品だと思うと、僕は悲しくなる。
 あの頃の社長のことを、僕はとても慕っていたのだから。
 それでも僕は、あの頃の社長が戻ってくるのでない限り、彼とは二度と陶芸をしないだろう。

 最後の本焼きをしたあの日、僕は社長と話し合いの末に決別した。
 そればかりか帰宅してからも本当に悲しいことばかり、悔しいことばかりが続いた。
 それは本当にひどい一日で、ひどい日々のピークで、ひどい日々の始まりだった。

 けれども今、焼きあがったモノを見ていると、なぜだろう、不思議と心が休まる。
 モノにはそういう力があると、僕は思う。











『とにかく、本当にすごい人間は、そんなふうには見せないものだ。さっきの不適切な例で説明すると、海外の生活が長く、世界中の方々で活躍し、本当に凄い経験をしている人間は、見かけはいつも、縁側でのんびり、ぼんやり、庭を見つめているのである。絶対に過去の話などしない。「今日はね、紫陽花が咲いていますね」なんてことしか言わない。ほら、どうだ、格好良いではないか』







引用は、
section11「忙しさとは」(p.133-134)
from「工作少年の日々 ~ Under Construction Forever ~」
(著作:森 博嗣 / 発行:集英社)
によりました。






 
 
 
::無駄な戦いは避けねばならない。何故なら、無駄ではない戦いに備えるためだ。自分はそう信じている。無駄でない戦いもあると思う。戦わなければ正しさが証明されないことが、きっと、いつも、そしてまたどこにでも、あるのではないか。
 そうでなければ、侍は無駄だ。刀など不要だ。侍が刀を持ち、皆がこうして剣術に励むのは、人が正しさを求めている証ではないのか。





20140808

 最近、子供の頃のことをよく思い出す。
 あまりにも、あの頃のいろいろな感覚を思い出すので。
 動悸やめまいのほか、手足の末端のしびれ、気温に対する無感覚、光や音に対する過敏な状態、食欲の無感覚、食品や食べることに対する拒否反応などなど、これは単なる更年期障害なのだろうかとさえ思うが、まさかの子供がえりかもしれぬ。

 アドレナリン分泌過多。
 僕はきっとそういう体質なのだろう。
 だから大量の糖分を必要とし(それをほとんどすべて燃焼し)、セロトニン生成のためにタンパク質のほとんどを使ってしまう。
 だから子供の頃はいつも食欲がなくて、神経過敏で、怒りっぽくて、暴力的で、対人恐怖症だったのだろうと思う(ついでにどうやっても筋肉が発達しない)。
 後半については、近年「それはありえない」という評価をいただくが、僕は子供の頃、いろんな生き物(その中には飼い猫が含まれる)を殺したし、20代には自動車で他人様の家に突っ込んで大怪我をした。

 僕はその「生きにくい体質」に折り合いをつけるために、考え方や価値観を変え(あるいはその方法を模索し)、関係ないものに怒りを投射して殺したり、壊したり、自暴自棄になって他人様に迷惑をかけることのないように、なるべく気をつけるようになった。
 関係ないものに怒りをぶつけたところで、10歳の頃に気づいたように、本当にほんとうに、何も救わないし何も良くなったりしない。
 あとには激しい自己嫌悪と絶望が残るだけだ。

 そのためか僕の中では今も、猫や、自分の肩の傷が、ストッパとして大きな意味を持っている。
 あるいは、ある人の、ある言葉が、大きく意味を持って焼き付いている。
 当然アドレナリン分泌過多になっても、今は、車に乗っていておかしな衝動に駆られたとしてもそれを御することができるし、どんなに腹が立っていても、モノや生き物に危害を加えないでいられる。
 つまりそれは記憶を引き金として人間は自己を制御できるという証左だ。
 ここでいう記憶というのは外部から与えられる無意味なまじないなどではなく、自分の中で意味として結実しているお守りの類として機能し、あるいは機能できるもののことだろう。
(わがブードゥーとその「ほこら」に栄光あれ)

 どの段階が僕にとってのデフォルトなのか分からない。
 もとよりこれが先天的な体質なのか、環境によって最適化されて固着したのかも分からない。
 いずれにしても、僕はいちどアドレナリン分泌過多の状態になるとそれがなかなか収まらない(きっと誰でもそうだ)し、それを抑える状態が普通であるとすると、あまりにものんびりぼんやりになってしまうために、カフェインを定期的に(通常のカフェインを含む飲料では足りないレベルで)必要としたりする。

 分泌過多で疲れたときは食事もしないで眠り続け、いっぽう分泌が不足しているときはかなりの頻度で役立たずである。

 カラダが悪いのか、アタマが悪いのかは分からない。
 僕はそれでもこのカラダをとても信頼している。
 むしろアタマがおかしいのだとたびたび思うことはあるが、それとて、アタマはアタマでなんとか自分の性質と折り合いをつけるための手法をいまだに模索し続けている。
(超高度なプチダノンのCMか)
(20年近くろくにTVを見ていない人がこれを書いています)

 一日食事をしていないものの、今日はこのまま食べない方がいいのかもしれないとうっすら感じている本日のワタクシなのであった。

 だけどやっぱり豆腐食べよ。









::これは正しいのか。己は正しいのか。生きることは、死ぬことよりも正しいのか。行き着くところは、その疑問。
 正しさとは、何だ?







引用は
「episode 2: Bamboo pearl」(冒頭部:p.113)(文末部:p.114)
from「The Blood Scooper」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
によりました。
20140801

晴れ。
昨日は豆腐2つ、りんごジュースひとつ、ヨーグルト1つが一日の食事。
まったく食欲が湧かないばかりか、食べ物を見たときの吐き気がひどい。
トレーニングは普通にできる。
身体は動くし、気力もある。しかし、食べ物に対して、少し変わった反応をしている。これではガールに一杯奢ってもらおうにも、もらえない。

夕刻、自動車を運転していて気がついた。
これは、身体が臨戦態勢を続けているから、なのだと。

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ある時期から僕は自分の身体をとても信頼していて、それは身体と頭を比較した場合に、多くは身体の感覚のほうが正確で、また判断についても的確なのだ。

比較的高度で頭脳的な判断の場合でも、それらの情報を入力するには身体の各器官を駆使することが絶対的に必要だ(かのヘレン・ケラーでさえ、触覚を利用して情報を入手していたたのだから)。

ただ、それらの情報をアタマで処理するために、純粋な情報と、感覚や感情、理念や欲求といったものがどうしても混ざってしまって、判断が鈍る、という傾向にあるように個人的には思う。
え。なにその「それはお前の心が濁っているからだ」的な視線は。

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浅い眠り、とがった感覚器官、欲求のことごとくが減衰したのに、気力もあって、身体も十分動く。
僕はこうした状態で動作する、自分という機能が嫌いではない。

今、僕のカラダは、とても苛立っていて、攻撃的な状態になっている。
戦争のように長期的かつ極度の緊張状態を維持していて、結果的に、アタマとの間に齟齬が生まれている。
僕の頭の中は、普段通りにのんびりぼんやりのペースなのに、身体は超特急で動くためのアイドリングを続けている。
(この状態は非常に心地よいものの、長期にわたると皮膚や粘膜の炎症や肌荒れ、粘膜の機能不全により風邪をひいたり、貧血を起こしたりする)

以前のように毎日、眠る前と目覚めたあと、身体を撫ぜるものの、今はほとんど身体が受け付けてくれない。
感覚が鈍くなっているのか、なだめても聞いてくれない、といった状態なのだ。

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20140807

10歳の頃、僕はある日突然にひらめいて、それからというもの、僕は怒りの感情を一般的な反応とは全く違うかたちで処理するしくみを自分の中に構築していった。

そのとき僕が天啓のごとくに得た感慨というのは、
「怒りは、それがどんなに強いもので、どんなに深いもので、どんなに適正なものであったとしても、何も救わず、何も生み出さない」というものだった。
僕はその頃まで、数年にわたって、それはそれは強い怒りを自分の中に持っていた。怒りというか憎しみというか、とにかく、破壊的な、あるいは殺人衝動的な、それは感情だった。

あまりにも長い間それを持ち続けていたために、その感情は僕の身体と一体化し、僕は何も信頼せず、何も感じず、そして何をすることもできなかった。
僕は憎しみのあまり食欲を感覚せず、怒りのあまり肉体の状態が把握できず、憎しみのあまり他者を気遣う余地もなかったし、それらはすべて怒りの対象のせいだと思っていた。
本当になにも感じていなかった。

しかし、その感情は、結局何も生み出さなかったし、仮にその感情に任せてありとあらゆる破壊的な衝動を実践したとしても、結局なにも残らないことが、何年ものシミュレートの末、理解できた。
何を壊しても、何を殺しても、何も解決しないのだ。

それに、人にはそれぞれ思うところというものがある。
僕自身にとってそうであったように、僕以外のひとりひとりに思うところがあり、それがあるのが当然なのだと、ある日の僕は気がついたのだ。突然。

以来、怒りが頭をもたげるたびに、僕は「この怒りは、それはそれで不可避の、他者の思うところによってなされた現実に対する、僕の個人的な感情に過ぎない」と思うようになった。
まるで高僧のように穏やかな心持ちを僕は得ることができて、とても優しい気持ちになれたものだった。

17歳のころ付き合った最初の恋人は、そんな風に「何があっても怒らない」僕を、何とかして怒らせようと躍起になり、やがてそれに成功する。
味覚や触覚というものを、人は、多くは女性から教わるのだろうと思う。
たいていは子供の頃に母親から。
僕の場合は恋人からそれを教わり、今はほとんどの場面で、味覚も触覚も自分の手で満たすようにしている。

僕は信頼していない人間の作った料理を食べることができない。
たとえば好きな女であった場合、セックスは簡単にできるが、手料理を食べるのは信頼していない限りできない。たとえば買って来た食べ物だとしても、信頼していない相手からもらったものは間違いなく捨てる。

子供の頃、僕は多分、誰も信頼していなかったのだと、今は思う。
いつも緊張していて、いつも戦場に放り出されているような、そんな気分だったのだろうと今はわかる。

臨戦態勢が、今も身体の多くの部分を支配してる。
僕の身体は撫でてもリラックスしないし、食欲もうまく自覚できない。
それでも僕は自分の身体を一番信頼しているし、僕の身体のために、できるだけのことをしようと思っている。
あ、でもでも、お昼ごはんはいっぱい食べたのだった。
20140807

いろいろなものごとが、瓦解してゆく、その音が聞こえるようでだんだん楽しくなってくるのですが、これはべつに、私にとっての都合が良いとか悪いとかいった問題ではなくて、単純に、ものごとが壊れてゆくのは楽しいからですが、これは最初から楽しかったのか、楽しくないものがどこまでもどこまでも積み重なった結果としてだんだん楽しくなってきたのかは分かりませんが、ネットストーカというものをなんとなく嫌う私にとっては、こんな話はどうでもよいかとも思うのでした。



::「ゼン様、ここにずっといて下さい。ゼン様のお側にいれば、恐くはありません」
「私は、いつも私とともにいますが、恐いものは恐い」
「恐い?」
「はい。剣を向け合うときも恐い。相手のことを考えるだけで恐い」





20140806

7月末の頃より、現社長との間に積み重なった軋轢が、悪い意味で崩れ始めている。
以前、どこぞの部長に「ユー社長の椅子を奪っちゃいなYO!」などとけしかけられつつ、自分はそんな器ではないと言い、また思ってもいたのだけれど、今では先頭を切って社長に反旗を翻す係になってしまった感がある。
おかしい、私は彼を慕っていたのではなかったのか。
こんな役に向いているはずもない。

はやくこんなことはやめたい。
(早くこんな子とはやめたい、でも、早くこんな子と早めたい、でもないので誤解のないように)
と思うものの、組織運営にあたって、僕としても許せないことは許せないわけで。
(北の国から口調)

もとより零細企業なので、そのまま放って潰してしまえば話は早いのだけれど、取引先やお客様から「猫氏がいないと困るんです」と言われるたびに「僕は僕がいると困るんです」と内心思ったりしつつも、まぁ、ないがしろにもできないわけで。

仕事そのものがトラブルを対象とする場面が多いのに、社内もトラブルを歯車に動いているような状態で、本当に神経が擦り切れそうになることもある。
擦り切れそうというだけで、べつに擦り切れたりしないあたり、タフになったことよ(遠い目)。

肉食って寝よ。








::「美しさを知る心、強さを感じる心です。今の私には、美しさや強さを見失うこと、それこそが悲しく、寂しいことです。人の死も、それが美しく強いものであれば、悲しむべきものではないと思います」







文頭引用は
「episode 3: Beastly rain」(p.207)

文末引用は
「episode 2: Bamboo pearl」(p.175)

ともに
「The Blood Scooper」(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
によりました。
20140803

それ以来、僕は救急車のサイレンをこの上なく恐れている。
あの音を聞いていると、分からなくなってくるのだ。
今がいつで、ここがどこなのか。

だからあれ以来、耳栓をして眠ることがある。