::それが僕の躰に残ったどんな傷よりも誇らしげに永遠の痛みを訴えるのだ。






20140827

 どうしても解せないことがひとつあって。
 僕にとってはどんな高級車よりもエライ乗り物があって。
 それが、一部の人には言わずと知れた飛行機なのですしかも旅客機よりも軍用戦闘機の方がエラくて戦闘機よりもセスナのような小型プロペラ機の方がエライ。
 理屈は簡単で、より自由であることがエライことの基準なのです。

 確かに自動車は偉いと思う。
 高級車は大衆車より凄いと思う。
 凄いというのは技術や無駄なアートが。
 僕は技術者でもあるし、サービス業従事者でもあるので、決して馬鹿にする意味で使っているのではない。僕が凄いといったら、それはなんというか、凄いのだ。

 高級車というのはただ豪華に飾られた車両のことをいうのだろうか。そんなことはないだろう。
(そんなことを言っていたらデコトラだって立派な高級車になってしまうが、あれはアーティスティックな「だけ」の作業車だ)
 けれども、高級車が大衆車に比べて圧倒的に自由かというとそんなことはない。
 高級車だって赤信号で止まらなくてはならない(緊急車両は、しかしもっと不自由だ)。
 携帯電話で話しながら運転してよいわけでもない。
 武装が許可されているわけでもない。
 上昇できるわけでも、下降できるわけでもない。移動座標軸がふたつしかない。
 凄いけれども、偉いわけではない、というのはそういうこと。

 旅客機は空を飛べるけれども、貨物作業機だからルールがうるさくて不自由だ。
 戦闘機は運動性能どころか攻撃性さえ備えているけれども、もっと不自由だ。
 するとどうだろう。セスナやグライダが、圧倒的な自由さを持っていると思えてこないだろうか(思えない人は別にかまいません)。

 さらにいえば、ヘリの方が自由度は高い(理由は説明しません)。

>>>

 人と話をしていると一般的に、どうしても物事の、話の、構想の、想像の、ビジョンの、ビッグピクチャの、サイズが、スケールが小さいように感じられる。
 メディアが枠組みしてしまうから余計にそうなるのだろうか。
 TVプログラムはすっかり画一的だし、政治はなんというかそれに携わるすべての人(あれこれ批判する人までも)が「政治(笑)」みたいな雰囲気になっているとさえ感じる。

 僕の住んでいる地域は都会ではないため、交通機関といったらやはり自動車が主流ではある。
 でも、不便なりに電車もあればバスもある。自転車だって、自動車よりは自由な場面がある。
 ところが、この地域(だいたい僕を中心に半径35km)(その先は、首都圏に入ってしまう)の人は、そもそもそんな発想を持たない。
 自動車が主流、ではなくて自動車しかない、と思っている免許所持者ばかりだと言ってよい。
 誰が言い出したのか知らないが、すっかりそういうことになっている。
 私の死んだ親もそうだったし、地震を経てなお、ほとんどの人間がもとの意識に戻っている。口を開いたと思えば「ガソリンが高い」である。
 枯渇するのが分かっている資源なのだ。嫌なら使うな、と叱るような人もどうやらいないらしい。

 電気も同様だ。
 どういう理屈か知らないが、ソーラーパネルがあちこちに林立している。
 あれがエコなのか。
 僕には疑わしい。
 なんらかの経済的な目論見がマッチした結果と聞いている(気になる人は調べましょう)が、あんな、いつ壊れるか分からないもののために、基礎や囲いやセキュリティまで設置して、いったい何をしているのかと思う。
 どれだけ資源を使って、どれだけのエナジが回収できる見込みで、どのような維持/撤去をする見通しなのか。今現在の数字しか見ていない人間は、そこまでは全く考えていない様子だ。
「自分が死ぬまで動いていればいいし、税金対策になればそれでいいし」というような。

 それで電気を含めた資源を使いながら「原発は絶対ダメだ」なんていう。
(まぁ、反対している人のほとんどは今でも節電していると思うけれど)
 計画停電をしていた頃の静かなありようが僕は気に入っていたのだけれど、人は喉元を過ぎると忘れるらしい。僕も良く忘れるから注意しよう。

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 いままで思っていたのだ。
 僕の思っていることが、こんなにズレているのは、多くからズレているのは、僕が多数派に位置していないのは、僕が間違っているからなのではないか、と。

 もちろん間違っていることもある。それは重々承知していて、僕は近頃ますます失言を恐れる政治家のように慎重である(日本語が変)。
 しかし一方、多くの人は結局、周囲の人の意見や自分の中の慣習に流されてしまって、自分で考えてなどいないのだ、という結論に、ようやく到達した。

 何か指摘したところで「だって」なのである。
 だって飛行機なんて乗れないよ。
 それはもちろん、セスナで常に移動しようよなんて無茶は言わないし言えない。
 航空燃料は重油だと思ったが、きっと等比で値上がりしていることだろう。

 ただ、外部の燃料に委託して、他人に決められたルールに従って、誰かの整備した道路を走るような思考ばかりが、やはり「普通」なのだ。
 その「普通」の中でしか考えないなら、まぁ結果がわかりやすいというかなんというか(お茶を濁しました)。

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 先日、人と話をしていて(僕の説明が悪かったのだけれど)僕の考えている(まだやっているのか! と怒られそうだけれど)住宅水冷構想が「ああ、水冷クーラね」ということで片付けられてしまった。

 輻射熱や建材の蓄熱について、まぁ、講義する時間でも状況でも立場でもなかったので諦めたが、つまるところ、人は、自分の知っているものからさらに外側にあるものを知ることが、あるいは知ろうとすることが、なかなかむつかしいし、それは知識を積み重ねるごとにむつかしくなるのだろう。
 今では子供だって、インターネットで答えを探す。
 その答えが匿名の人の答えだったりして、根拠も不明で、それでも単なる「ベストアンサー」だからという理由で、歓迎されたり、ひどい場合は迎合されることもあるのだろう。

 内側の答えも、外側の答えもあり、そしてそれは必要で、なんだか脱構築しているような気分になってきたけれど、知性を磨くというのは、答えを知ることでも導くことでもなくて、その過程すべての経路を構成する環境を整備することなんだよね(もうこの口調でいいや)。

>>>

 空気や水の熱伝導率は、金属のそれに比べてはるかに低い。
 もし空気が鉄と同レベルの熱伝導率を持っていた場合、料理をすると高確率で火災が発生し、キャンプファイアは集団自殺になる(意味が分からない?)。

 住宅建材のうち、非金属建材は熱伝導そのものは悪いものの輻射熱は発生し、しかもその多くは直接水を掛けることができない。
 金属建材は熱伝導が良く、水にも強いため、他の建材の熱をそこ(金属建材)で水を利用して吸熱することによって、建物自体(中の空気ではない)を冷却する(正確には輻射熱を減少させる)ことができて、これがどうして実はなかなか大きなエナジの削減かも知れないと僕は思っているのだけれど、ほらキミ、聞いてないでしょう?

 というまさに文字通りの水掛け論が展開されるのであった。

>>>

 僕にとっては、エライことはさほど重要ではなくて、自由であることが何よりエライことなのであった(いきなり過去形)。
 自分自身からさえも自由であるということは、ときに死のように不自由だ。
 けれどその、自分自身さえいつも置いてけぼりにするかのような加速感や上昇感を、あるいは感情的にいうならば高揚感を、僕は渇望している。
 きっと、死ぬまでそうだろうし、そうでありたいと望んでいる。

 見下ろす道路はいつも渋滞だ。

 僕はどこに行こうとしているのだろう。
 何をしようとしているのだろう。

 少なくとも、そう。行列に並ぶことではない。

 少なくとも僕には、それは当たり前のことだ。










::夢の中で、僕はただ戦った。誰のためでもなく、何も望まずに、純粋な気持ちで相手に向かっていった。僕は誰にも負けなかった。誰も僕を墜とすことはできなかった。
 僕は特別な子供で、普通とは多少違った神経を持ってたから、その分普通とは違う感情を持っていたし、普通とは違う動きもできた。僕は、自分を取り囲む存在から外へ抜け出そうとして、それはつまり、その中へ閉じ籠もることに等しかったのだけれど、ずっと考え続けてきたし、抵抗もした。
 たぶんきっと、こんな表現ではわからないだろう。
 誰にもわかってもらえないのに違いない。
 わかってもらう必要などないのだ。
 ただ、一つ確かなことは、彼女が、僕と同じだった、ということ。それがわかった。誰のためでもなく戦うことができる純粋さを、彼女も持っていたからだ。
 それなのに、
 周りのみんなは理由を沢山用意する。この世は、うんざりするほど理由でいっぱいだ。ゴミのように理由で溢れている。人はみんな理由で濁った水を飲むから、だんだん気持ちまで理由で不透明になる。躰の中に、どんどん理由が沈殿する。
 だから、
 最後には、自分もゴミになりたくなってしまう。
 追い込まれてしまうのだ。












引用は、
「スカイ・クロラ ~ The Sky Crawlers ~」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)によりました。

冒頭引用
「プロローグ ~ prologue ~」(p.9)
文末引用
「エピローグ ~ depilogue ~」(p.301-302)
 アヒージョというのは、アーリオ・オーリオソースで魚介や野菜を蒸し煮にする料理(と認識しているが、一般表記はときに異なる)。

 基本的に水を使わないが、材料のだしが濃くなりすぎた場合は、少量足してもよい。

1.ソースを作る。
 オリーブオイルを(ええ? こんなに入れて大丈夫?)というくらいまで入れる。だいたい200~300cc。
 皮をむいたニンニクは包丁で潰し、ヘタと種を取り除いた唐辛子を2本とともにオイルの中に入れて、とろ火で加熱する。
 香り付けのため、好みであらびき胡椒を少量入れておいてもよい。

2.材料を入れる。
 ひと口大より少し小さく切った野菜をソースに入れる。
 大きさは1~3cm程度のブロックにすると食べやすいかもしれない。でも決まりがあるわけでもない。
 魚介類から入れると出汁がよく出るが、過熱を続けるうちに材料が収縮し、味もえぐみが出やすくなるので、材料の特性に応じて見極めが必要。

 材料を入れたら、酒(白ワインでもいいが、日本酒でも問題ない)と塩(天然塩が望ましい)を入れてよくなじませる。
 角が立つことはないと思うが、全体の味が丸くならないときは、少量の砂糖(上白糖を除く)やみりんを使う。

3.ふたをして煮詰める。
 とろ火のまましばらく煮る。たまにかき混ぜる程度で、とくに手を加える必要はない。
 全体に火が通ってからお好みの時間、煮詰めてできあがり。
 ブルスケッタなどと一緒に食べる。
某日。

揚げ煮びたしを作る。

どういうわけか、夏に作ることが多い。
また、換気扇を掃除した数日後に作ることが多いのも何かのジンクスなのだろうか。

作り方はいたってシンプルで、


1:煮汁を作る。
 お湯を沸騰させてから火を止め、めんつゆ、砂糖、お酒(みりん)などで味を調え、種を取り除いた唐辛子を1~2本ほど入れて軽く火を入れて、沸騰する前に火を止める。

2:具材を揚げる。
 揚げるほどの油を使いたくないので、大めのオリーブオイルで炒める感じに。

○オクラは塩もみして毛を取り(手に大量の棘が刺さったりした)先端とヘタを軽く切り、ヘタの継ぎ目をピーラーなどで削ぐ。
 揚げると破裂するので、数箇所に切込みを入れる。

○ナスはヘタを切り離して、縦半分に切り、皮に格子状の切り目を入れる。
(面倒な場合は切込みを入れなくても問題はないものの、揚げて硬くなった皮を噛み切れない、という事態が往々にして発生する)

○ニンジンは皮をむいて食べやすいサイズに切る。

○それ以外にも、思いついた野菜を揚げやすいように揚げる。引き上げ時の油温は中温が目安。
 焦げ目はほどほどがよいが、多少黒くなったくらいは問題ない。
 フタがあるほうが調理しやすい。

3:揚げた野菜を煮汁に放り込む。
 煮汁が辛すぎる場合は、唐辛子を引き上げる。
 揚げただけで火が通らない野菜があった場合は、必要に応じてしばらく煮る。

4:室温に冷めたら、冷蔵庫にしまう。
 夏場は重要。


といった感じ。
20140810

 おそらく僕のアタマはちょっと、あるいはそれどころか一般的な人だと到底相入れないくらい、非常に、異常なほど、おかしいのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。
 比較的長い期間にわたって、僕はいろいろな人から反省を求められている。
 もちろん、反省をしなさいと言われるだけのことを僕がしたのは事実で、それによっていろいろな人を苦しめているのも事実だ。

 だからこの文書は、反省をしなさいと言う人がおかしいという趣旨ではない。
 僕が反省をする必要があるのかという反抗声明をするわけでもしたいわけでもない。
 また、反省という概念に対する反証を行いたいのでもない。
 反省という概念? とも僕は思うが、たしかに反省にも概念が存在する。そして明らかに、僕と、僕の中(あるいはまぁ、ありていに言って表面)に反省の色を確認できないでいる人たちとの間では「反省」の意味であるとか、概念であるとかが違う可能性も考えなくてはと思ったのだ。

 僕はその、反省の概念が、どうしてこんなに(おそらくだけれど)僕の中で「だけ」ズレているのか、が分からない。だからそれを知りたいと思っている。
 僕には「反省の色が見えない」という概念がうまく理解できなくて、その理解できていないということを理解しようと思ってこれを書いている。

 なぜならば、第三者の人にまで「あなたは反省しているように見えない」と言われるのだ。

 そこから導き出されるのは、僕はまったく反省しているように見えなくて、もしかしたら今の僕の持っている自責の念であるとかは、反省とはまったく異なる座標系で、まったく異なる方向にしか事態を運ばないかもしれないということだ。
 僕は僕で僕なりに、今までにないくらい反省している。
 定量的に示すのはむつかしいけれど、砂漠の果て、誰も知らない場所にある、象の墓場に建てられた墓碑のように反省している、とでも言えば伝わるだろうか。およそ逆効果のような気がしてきたが。

 こんなことを書いている時点で、僕に反省の色が見えないという人たちが呆れ果てて怒り出すであろうことに僕は怯えている。
 そもそもこれは概念とか座標系とか方向性とかいう問題ではないのだ、と、いま耳の中でありありとその叱責の声を僕は聞くことができる。ほとんど悲鳴に近い声で僕は非難される。
 なぜなら、僕がますます反省という行為をしているようには観察できないから。

 多数決原理に基づいて考えると、僕の反省の意味や概念がそもそも間違っている可能性が強くて、僕はそれを修正する必要がある。

 それで僕は基本に立ち返って、反省について考えなくてはならない。
 わかるだろうか(読者が分かる必要はまったくありません)。

 僕の反省は、何を解決する方向にも働きかけておらず、それどころか、事態を悪化させ、再発させ、さらにひどい状況を生み出すものと認識されている可能性があり、実際にそうかもしれないのだ。
 僕が僕に対して行なってきた教育のうち、それが欠如しているがために多くコミュニケーション不全を起こすのだとしたら、僕はそれを学んでおいた方が良いだろうと思っている。

>>>

 反省そのものの定義については以下を参照することにしよう。

http://ja.m.wikipedia.org/wiki/反省 より以下を引用する。

::反省(はんせい、英: reflection)とは、一般的には自分がしてきた行動や発言に関して振り返り、それについて何らかの評価を下すこと[1]、あるいは自分の行動や言動の良くなかった点を意識しそれを改めようと心がけること[2]。あるいは自己の心理状態を振り返り意識されたものにすること。

::自分が正しいと思ったとき人は反省しない。軽い気持ちかもしれないが、 人にはそういう紛争の種が潜んでいはしないか。放っておくと危険だろう。

>>>

 僕の思う反省の概念もだいたい一緒である。今調べていて、ほっと胸をなでおろした。
 もちろん、それでも僕は間違っているかもしれない。
 wikipedia も、辞書も、僕も、その全てが間違えている可能性を、今の僕は否定できない。
 これはふざけているのではなく、僕が真剣に「僕が間違っているかもしれない」ということをつぶさに意識しようとしている結果であって、こうしたことを書くことそのものが滑稽であるあまり「またふざけている」と怒り出す人もいることを僕は十分に承知した上で、それでも慎重に、注意深く、できうる限りの誠実さで、反省について、そしてその反省というものに対する僕の認識の不整合や不具合や不完全さについて僕は考えようとしている。
 なぜなら僕は反省しているからだ。

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 僕はときどき慇懃無礼だと言われたりもするけれど、僕にとってはそれはかなり普通に礼儀を重んじている結果のことが多い。
 もちろん、人にはそれぞれ払われる必要を感じるレベルが違うこともある。
 でもたとえば僕は、相手が年下であっても、僕が買い物をするコンビニの店員さんであっても、払うべき敬意や重んじるべき礼儀があると思ってそうしているのであって、決して誰かに過剰な礼儀や誠実さを示すことでバカにしようなんて意思があるわけではないし、そんなふうに考えたこともない。
 さらに言えば、礼儀正しい自分を誰かに見せたくてそうしているわけでもない。
 たとえば買い物に行った先の学生バイトの人の態度が悪かったとしても、そこで自分が欲しいと思ったものを売ってもらえる事実に感謝する姿勢なり概念なりを自分なりに持っているから「ありがとうございます」と言ってしまうのだ。
 べつに「お前はロクデナシの学生バイトだけれど俺は礼儀を知っているから挨拶の仕方を教え示してやるぜ」なんていう気持ちからしているのではないのだ。

 それと関係があるのかないのか、真面目に、誠実に考え始めると、どうやら僕は人の考える一般的な領域を逸脱してしまっていることがあるらしくて、それでも僕はそれらを真面目に理解したいと思うから、当たり前のこと、当たり前とされていることからきちんと自分の認識を自覚しようとして、それが結果的に滑稽に映ったり、慇懃に思われたりして、かえって不真面目だと思われることがあるらしく、それで困ってしまうことがある。
 僕が真面目にになればなるほど不真面目に見えて、誠実になろうとすればするほどバカにしているように見えるらしいので。

>>>

 誤解を恐れていても仕方がないので正直に書いてゆくが、反省というのは「他人から観察されないといけない」ものなのだろうか。
 他者が観察して初めて「そこに反省がある」と認定され、そうした認定なしには反省などというものは存在しないのだろうか。
 もっと極端に書くと「反省は人に見せるためのものなのか」ということだ。

 もうこれだけで最低でも8人くらいの人が怒り出していると感じているが、僕はふざけたり、バカにしたり、怒らせるために、それを目的としてこんなことを考えているのではない。
 見せるためだとしたら、それは何故なんだろう。
 あるいは「他者から見える」ものが反省なのだとして、それはどのような条件で見えたり、見えなかったりして、どのような条件で反省が「あること」になったり「ないこと」になったりするのだろう。

 もはや、石を投げられ国から追放される流浪の民みたいな気持ちになってきたのだけれど、それでも正直に書き続けると、僕はそれがよく分からないのだ。

>>>

 僕にとって反省というのは、過去の事象に対して客観的に評価(だいたいいい評価でもなければ、賞賛されるべき事象でもない)をして分析し、再発防止のための策や手法を構築し、それを強固なものとして洗練させ、最終的に行動様式を変えることだと認識している。

・過去の評価
・分析
・再発防止策の作成
・防止策の洗練
・行動

 このいずれか、あるいは全てを、他人に分かりやすくディスプレイする行為が反省だろうか。
 僕のこの疑問ははふざけているのではなく、開き直っているのでもなく、ただ真面目に考えている。
 僕にとっての反省とは、ディスプレイとはかなり性質の異なる行為だ。

 他者の反省を見るということ、反省が見えるということは何だろう。いったいどういう状態を示しているのだろう。
 あるいは僕(反省する者)がディスプレイする行為ではなく、(他者によって)観察できることが、反省の有無や深さに関係するのだろうか。
 それは色なのか音なのか態度なのか行動なのか。

>>>

 たとえば「そういうとき人は土下座して謝るものだ」と言われれば、僕はそうするだろう。それは行動様式の提示ではなく、行動の要請だから僕が考えるまでもなく簡単に実現できる。
 あるいはもしかしたら、僕がコンビニの店員さんに頭を下げるような、礼儀として一般に備わっているべき反応がそこでは決まっているのかもしれない。
 眠るときに「おはよう」なんて言わないくらいの当たり前のことを、僕は今まで知らず、身に付けていなかったことになる。

 そうだとすると、僕に足りないのは反省ではなく謝意の表示だ。
 今のところ「反省」とセットではそうした行動様式を持っていなかった僕にとって、これはどうしても技巧になってしまう。
 小手先の技術であり、テクニックであり、行動であり、ディスプレイだ。
 もちろんもちろん、技術や技術的行動やディスプレイが悪いとか、劣っているとか、無意味だと言っているのではない。
 もし仮にそうだとすると「反省しなさい」という日本語にはきっと「理解できるように謝罪の表示をしなさい」という意味が含まれているのだろう、暗黙のうちにであれ、明示されているのであれ。
 そうなると、たしかに僕の「反省の概念」は間違っていることになる。

 たとえば僕が「反省してください」と言う場合、相手がむすっとしていようと、ヘラヘラしていようと、まったく気にしない。
 逆に、そのときは申し訳なさそうに何度も謝るけれど、結局同じミスを繰り返す人を僕は3人ほど知っているし、その人たちのことをあまり信頼していない。
 ミスがあるのは問題だけれど、再発を防いでいないのはもっと問題で、不誠実だと感じる。
 僕はそちらの方がよほど反省していないと感じるし、反省と謝罪はまったく異なるものだと思っている。

 大事なことは再発しないこと、させないことだし、相手も相応に大人であるケースしかないため、よほど重篤な失敗でない限りは防止策の提示もさせない。そんなものを確認している暇もこちらにはない。

 僕が人に言うのはむしろ「反省は3秒で終わりにしてください」だ。
 いつまでもクヨクヨヘナヘナされていると、こちらも困る。

 ところが、反省というのは一人称的に完結し、未来を改善する行為ではなく、それを含めても含めなくても(つまり再発防止は二の次として)とりあえず謝意を表明することなのかもしれない。

 なんだかますます自分がアタマオカシイ人のような気がしてきた。

>>>

 僕の行動様式としては、自責の念に駆られているところをあまり過剰にディスプレイするものではないと思っている。
 落ち込んでいたり、のたうちまわっていたり、泣いていたり、塞いでいたりというのは、見せられるほうもなかなか対応に困るものだと思う。
 これもディスプレイだと思われるのはあまり嬉しいことではないのであまり書きたくないが、僕は人に表現する以前に自分の感情を抑えてフィルタしている。
(きっと誰でもそうだと思うが)
 なんでもかんでも表現すればいい、というふうには思っていない。
(きっと誰でもそうだと思うが)
 だからといって「これはいい感情だから表現しよう」「これは悪い感情だから露出を控えよう」なんて差別をするつもりもない。
 単純に、そんなにディスプレイしないのだ。そういう行動様式で生きてきたから、なんでもかんでも100%ディスプレイしなさい、と言われたら、今度はディスプレイだけが目的になってしまう。
 そんなことをしたら、僕の反省(あるいは内省と表記を改めれば良いのか。しかしそれは言葉だけの問題だろうか)は何処かに消えてしまう。
 消えなくても、自分の中で占める割合は少なからず減ってしまうだろう。
 誰かに認められよう、気に入るように取り繕ってその場をしのごう、とすることで、かえって反省から遠ざかることが懸念される。
 僕なら平気でそれをしそうだ。

 僕の思う範囲においては、これ見よがしだと、それこそ見せるために自分を責めているようだと感じる。
「こんなに自分を責めているんです」というのをディスプレイして、それで反省していると思われたり、同情を誘ったりするようでは、やがてディスプレイが目的になってしまうかもしれない。
 コンビニの店員さんにお礼を言うのは、あいさつで、ディスプレイだから、ディスプレイが目的ということでそもそも間違っていないと思う。
(相手に対してでも、第三者に対してでも、自分に対してでもなく、自分の中心の部分に対してのディスプレイ、である)

 反省について「見えない」「見せなさい」というのは、つまるところ「挨拶をしていない」「挨拶をしなさい」という意味かもしれない。それならなんとなく理解できる。
 だとすれば、僕の行動様式と反省という言葉に対する認識が一般常識からズレていた、と理解できる。
 辞書や Wikipedia が絶対で、それが正しいなんて、僕は思わないし主張もしない。したくもない。
 僕には僕の考えがあって行動様式があって概念があって認識があるわけだけれど、それが絶対だとは思っていないし、そもそもいつだって僕は自分で考えて到達した答えしか信じないから、いつだって間違っているかもしれないのだ。

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 それにしても僕が深い自責の念に駆られてときどきのたうちまわったり色々している事実を(なんて書くともうそれだけでこれ見よがしな気がして自分のことが厭になるけれど)相手に対して反省していると分かるようにするにはどうすればいいのだろう。
 極論を言ってしまうと、どうディスプレイすると伝わるのだろう。
 こうなるともはや技巧だ、いけないいけない、と思いつつ。



 最後に、この文章を読んでお怒りになってしまったすべての人に、この場を借りてお詫び申し上げます。ホントに! ふざけてるんじゃなくてホントに!
20140809

 日付入力ができるようになったというのに、日付を記載する癖が抜けなくて困っている。

>>>

アドレナリン分泌過多に関するメモ

[禁則事項]

・禁則を強制しない。
 言語認識レベルで強制にならなければ良い。
「~したほうがよい」と表現を変えることで思考誘導をする。
「~してはいけない」よりは「~しないほうがよい」。
 
・衝動を先延ばしにする。
 現代はそうそう衝動的な行動が有効な局面が多いわけではないので、各種衝動に対して必要に応じた先延ばしを提案して思考誘導する。
「より完璧なプランはないか」
「必要なものは何か」
 などなど、目的を阻止することなく時間を稼ぐことで衝動をコントロールしやすくなる。

・上白糖などの精製糖は控える。
 吸収しやすく過剰なエナジとなるため。

・煙草は控える。
 血管が収縮し、分泌反応が過剰になる。

・アルコールも控える。
 血流が増大し、分泌反応が過剰になる。

・カフェインは摂取しない方が良い。
 アドレナリンと似た作用のため、反応が大きくなる。

 上記の摂取禁則リストは、少量/単独であればあまり問題視しなくても良いが、多量/重複摂取には注意を要する。



[奨励事項]

・インターバル運動をする。
 分泌されたアドレナリンを代謝するために、無酸素強強度運動と有酸素運動を交互に繰り返して肉体を疲労させる。披露はしない方がいい。

・摂食はタンパク質を中心に。
 豆腐食べてるからおk。


 適切な代謝を行わないと、分泌過多になりやすい私のような人間はいつまでも分泌が続く。
 行きつくところまで行ってしまうと、今度はいわゆる「燃え尽き症候群」のような状態になってしまって、何に意味を感じるでもなく、何に価値を見出せるわけでもなく、本当に寝たきりになってしまう。

 分泌過多の時期も辛いが、分泌不全の時期も相当辛いのである。辛いなんて軽々しく言えるのはその辛さを知らないからだなんて言われたりするが、からいのではないので誤解のないように。

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 機能が回復してきたので、夜は餃子を焼いてみた。あと豆腐を食べる。

 諸般の事情により私の家には現在、私の恋人がどこにもいない。
 どこを探してもこの家にはいないし、かくれんぼをしているわけでもない(「ほぅら、見つけたぞぅ!」「きゃー、やめてよもぅ」みたいな展開ももちろんない)のだが、彼女は僕が餃子を焼くと、それをとても嬉しそうに見ていた。
 まぁ餃子に限らず、彼女はだいたい僕が料理しているところを興味津々で覗き込むのであって、その様子たるや非常に愛でるべき存在なのである。
 まぁこんなこと自分で言うのもなんだが、僕は餃子を焼くのもなかなか上手なのである。

 とはいえ彼女の料理もなかなか素晴らしいものがあり、とくに傑作だったのは彼女の作ったパンであるのだけれど、これの傑作具合はまた別の機会に。
 あと彼女は、僕が帰宅して疲れている様子になってくると、パイ(アップルパイなど)を焼いてくれたりするので、やっぱり愛でるべき存在なのである。

 ただ、水を飲まないのと、自分ではあまり丁寧に身体を洗わないのがよろしくない。
 いわく「水に濡れるのが嫌」なのだそうだが、どう考えてもただのモノグサである。
 もしや砂漠のイキモノなのではないかといぶかしむこと多々ありなのだけれど、出身は関東なので、多分、砂漠は関係ない。

>>>

 自分で作った酒器セットに酒を入れてみたものの、なんとなく、こぼれる。
 ちょっと残念な結果。

 焼いたもののうち幾つかは、すでに嫁入り先が決まっている。
 


::『世界中、日本中を飛び回っている、会合や打ち合わせには、必ず遅れてくる、という「忙しそうな奴」があなたの周囲にきっと何人かいるのではないだろうか。さあ、よくよく観察してみよう。絶対に大した奴ではない。これはもうほぼ断言できる。少なくとも僕の周りでは例外はなかった。もう少し具体的な例を挙げると、過去に一度だけ外国に住んだことがある、という程度なのに、何かあるごとに「フランスにいたときにね……」という枕詞をつける奴とか、いない? そんなにフランスが良かったら、帰ってくるなよ、と言いたくなるが、それと同様に、「そんなに忙しかったら、仕事、断れよ?」という非常に単純明快な道理が忘れられがちである。顔をしかめて「もう忙しくて大変」なんて言っている人間は、顔をしかめて大変だと言いたいだけの人物であって、そのために、わざわざくだらない仕事を作っていたりするから巻き込まれないように気をつけよう』





20140809

 午前中、仕事。
 長い間(完全に社長の不備で)軋轢が積み重なっていたお客様にお会いして、きちんとお話しすることがようやくできた。
 酷く凝り固まったものが、ようやくほどけた気分。
 誤解は解け、過去は清算し、一度は縁を断つことでお互いに合意したが、こういうことをきちんと(しかもお互い心からの笑顔で)することがとても貴重で大切なのだと、今の僕にはよく分かる。
 売り上げを失うこととお客様を失うことは、まったく異なることだ。

 気分が良かったので、帰りに、ひとり工房に立寄る。
 自分の最後の作品が、そこに置かれている。


 自分の作ったものが、他の人にどう見えるのか、僕にはよく分からない。
 でも、僕にはそれらが、僕自身と同じように、とても愛おしいものに思える。
 同じものを見ているのに、僕にしか分からないたくさんのことが、そこにはある。

 これは作った人にしか分からない感覚だと思う。
 僕には出来上がったもののその全て、最初から最後までを知っているのだから。

 気に入るものもあれば、気に入らないものもある。
 それでもいずれは、その愛着を断ち切って、次のものを作らなくてはならないだろう。
 そうしなければ、いつまでも同じようなものばかりを作り続けることになる。

>>>

 モノを作りもしない人間が幅を利かせるようになって久しい。
 モノはどこまでもその価値をおとしめ、人はゴミ屑よりはマシなものとばかり、モノを買い叩くようになった。
 一流メーカと呼ばれた企業は、結果的に、モノの価値をコスト最優先にしたがために自らの首を絞め、くずおれて、下流へと流されてゆく。

 真面目にモノを作る人のほとんどは、その技術はもちろん、経験までもを「ゴミ屑よりはマシなもの」とばかり買い叩かれ、結果的に、何を作るわけでもない人間が、それをいいように弄んでいるように思えることがある。

 ごく一握りの技術者はそれに反旗を翻すものの、ニュースのエサとしてこれも浪費されることがほとんどだろう。

 本当にモノを作る者は、いつも静かだ。
 なぜなら、モノは語らない。語って聞かせる必要もない。
 ただそこにあって、あるいはそこになくて、使われる日を、生み出される日を、待っている。
 技術の根幹というのは本来、言語化する必要がない。
 それを誰かに伝えるときにだけ情報化される必要がある。それだけだ。

 世に流布する多くのものは、機械的に大量生産されたものがほとんどだ。
 けれども、必ずどこかに人の手がかかっていて、人の思いが込められている。
 たとえ100円ショップの計量カップであったとしても、僕はそれを前に、人の意思を感じる。

 モノを作りもしない人間たちは、モノを前にしてそこに掲げられた数字しか見ない。
 そこに人間がいて、人間の意志があって、人の思いがあって、望みがあって、理想があって、そうしてそれらが結実したのだというそれを、単なる数字としか見ない。

 人の価値は底なしに下がってゆき、情報が最も価値のある、崇高なものだとされてゆく。
 人はたしかに情報を持つが、情報は人そのものではない。
 にもかかわらず、それを忘れた人間たちが、情報を優先し、やがて人を道具に仕立てようとしている。

 自分たちの手は汚れない。
 仕組みを作って、それを流布して浸透させ、いいように価値そのものをスライドした、それが今の結果だろう。

 兵隊がいなくなっても、替えの道具などいくらでも補填が効く。
 弾薬がなくなっても、そんなものは無尽蔵に補充される。
 手を汚さず、物も作らない人間は、そういう感覚に汚染されてゆく。
 TVゲームのスクリーンに表示された殺戮のごとき清潔さで。

 いつも綺麗な場所にいるから、そんなふうにしか見えない。
 いつも手を汚さないから、汚れていることに気づきもしない。

 僕は、手を汚す人間がとても好きだ。
 手が汚れていて、肌が荒れているような人が、とても好きだ。
 痩せ衰えて、やっとで立っているような人は強いと思う。
 膝が痛いと言いながら、正座してお話しを聞いてくれる人が好きだ。
 歩き疲れて、膝やかかとが傷んでいる人が好きだ。
 料理で失敗して、指を怪我したりする人が好きだ。
 工作で力が余って、指を落としてしまう人を尊敬している。

 どんなに実力のある人でも、技術を持つ人は謙虚だ。
 なぜなら、モノは、人を選んで言うことを聞いたりはしないからだ。
 どんなに高名でも、どんなに経験豊富でも、どんなに財をなしても、モノはその人の前でだけ変質したりはしないからだ。
 人間しか見ていない人間は、ために、人間を見失う。

 僕のアタマの中にはいくつかの生き物がいて、それらは様々に暮らしているけれど。
 僕のカラダは(最初はそうでなかったにせよ、ある時期からは完全に)僕の育てたモノであって、僕が所有して管理する、誰も奪うことのできないモノだ。

 自分のカラダというモノの管理さえ他人に任せて、ぶくぶくと肥えてゆく類の生き物は、仮に汚れていなかったとして、清潔だったとして、少なくとも僕には美しいとは思えない。

 翼の折れた猛禽がいる。
 脚を失った犬がいる。
 片目を失い、泥に汚れた猫がいる。
 指をなくした技術者がいる。
 その堂々としたありようを、僕は美しいと感じる。

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 僕に陶芸を教えてくれたのは社長だけれど、その社長は今は完全に別人だ。
 以前は思うように作らせてくれていたものを「これは良くない」「こうした方がいい」とあれこれ口を出すようになってしまった。

 モノを作るのはいつもストレスがかかる。
 でもそれは、モノ対自分のストレスであって、そこに余計な人間関係がないからこそ心地よく没頭できたのだ。

 これが社長と作った最後の作品だと思うと、僕は悲しくなる。
 あの頃の社長のことを、僕はとても慕っていたのだから。
 それでも僕は、あの頃の社長が戻ってくるのでない限り、彼とは二度と陶芸をしないだろう。

 最後の本焼きをしたあの日、僕は社長と話し合いの末に決別した。
 そればかりか帰宅してからも本当に悲しいことばかり、悔しいことばかりが続いた。
 それは本当にひどい一日で、ひどい日々のピークで、ひどい日々の始まりだった。

 けれども今、焼きあがったモノを見ていると、なぜだろう、不思議と心が休まる。
 モノにはそういう力があると、僕は思う。











『とにかく、本当にすごい人間は、そんなふうには見せないものだ。さっきの不適切な例で説明すると、海外の生活が長く、世界中の方々で活躍し、本当に凄い経験をしている人間は、見かけはいつも、縁側でのんびり、ぼんやり、庭を見つめているのである。絶対に過去の話などしない。「今日はね、紫陽花が咲いていますね」なんてことしか言わない。ほら、どうだ、格好良いではないか』







引用は、
section11「忙しさとは」(p.133-134)
from「工作少年の日々 ~ Under Construction Forever ~」
(著作:森 博嗣 / 発行:集英社)
によりました。






 
 
 
::無駄な戦いは避けねばならない。何故なら、無駄ではない戦いに備えるためだ。自分はそう信じている。無駄でない戦いもあると思う。戦わなければ正しさが証明されないことが、きっと、いつも、そしてまたどこにでも、あるのではないか。
 そうでなければ、侍は無駄だ。刀など不要だ。侍が刀を持ち、皆がこうして剣術に励むのは、人が正しさを求めている証ではないのか。





20140808

 最近、子供の頃のことをよく思い出す。
 あまりにも、あの頃のいろいろな感覚を思い出すので。
 動悸やめまいのほか、手足の末端のしびれ、気温に対する無感覚、光や音に対する過敏な状態、食欲の無感覚、食品や食べることに対する拒否反応などなど、これは単なる更年期障害なのだろうかとさえ思うが、まさかの子供がえりかもしれぬ。

 アドレナリン分泌過多。
 僕はきっとそういう体質なのだろう。
 だから大量の糖分を必要とし(それをほとんどすべて燃焼し)、セロトニン生成のためにタンパク質のほとんどを使ってしまう。
 だから子供の頃はいつも食欲がなくて、神経過敏で、怒りっぽくて、暴力的で、対人恐怖症だったのだろうと思う(ついでにどうやっても筋肉が発達しない)。
 後半については、近年「それはありえない」という評価をいただくが、僕は子供の頃、いろんな生き物(その中には飼い猫が含まれる)を殺したし、20代には自動車で他人様の家に突っ込んで大怪我をした。

 僕はその「生きにくい体質」に折り合いをつけるために、考え方や価値観を変え(あるいはその方法を模索し)、関係ないものに怒りを投射して殺したり、壊したり、自暴自棄になって他人様に迷惑をかけることのないように、なるべく気をつけるようになった。
 関係ないものに怒りをぶつけたところで、10歳の頃に気づいたように、本当にほんとうに、何も救わないし何も良くなったりしない。
 あとには激しい自己嫌悪と絶望が残るだけだ。

 そのためか僕の中では今も、猫や、自分の肩の傷が、ストッパとして大きな意味を持っている。
 あるいは、ある人の、ある言葉が、大きく意味を持って焼き付いている。
 当然アドレナリン分泌過多になっても、今は、車に乗っていておかしな衝動に駆られたとしてもそれを御することができるし、どんなに腹が立っていても、モノや生き物に危害を加えないでいられる。
 つまりそれは記憶を引き金として人間は自己を制御できるという証左だ。
 ここでいう記憶というのは外部から与えられる無意味なまじないなどではなく、自分の中で意味として結実しているお守りの類として機能し、あるいは機能できるもののことだろう。
(わがブードゥーとその「ほこら」に栄光あれ)

 どの段階が僕にとってのデフォルトなのか分からない。
 もとよりこれが先天的な体質なのか、環境によって最適化されて固着したのかも分からない。
 いずれにしても、僕はいちどアドレナリン分泌過多の状態になるとそれがなかなか収まらない(きっと誰でもそうだ)し、それを抑える状態が普通であるとすると、あまりにものんびりぼんやりになってしまうために、カフェインを定期的に(通常のカフェインを含む飲料では足りないレベルで)必要としたりする。

 分泌過多で疲れたときは食事もしないで眠り続け、いっぽう分泌が不足しているときはかなりの頻度で役立たずである。

 カラダが悪いのか、アタマが悪いのかは分からない。
 僕はそれでもこのカラダをとても信頼している。
 むしろアタマがおかしいのだとたびたび思うことはあるが、それとて、アタマはアタマでなんとか自分の性質と折り合いをつけるための手法をいまだに模索し続けている。
(超高度なプチダノンのCMか)
(20年近くろくにTVを見ていない人がこれを書いています)

 一日食事をしていないものの、今日はこのまま食べない方がいいのかもしれないとうっすら感じている本日のワタクシなのであった。

 だけどやっぱり豆腐食べよ。









::これは正しいのか。己は正しいのか。生きることは、死ぬことよりも正しいのか。行き着くところは、その疑問。
 正しさとは、何だ?







引用は
「episode 2: Bamboo pearl」(冒頭部:p.113)(文末部:p.114)
from「The Blood Scooper」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
によりました。