::「どうして、やっつけなかったの?」テツがこちらを見上げて尋ねた。
「こら、テツ!」姉が弟の頭を叩く。弟は泣き出した。
「良かった。無事だったか」そう言って、戸を閉めようとしたが、思いとどまり、庭に下りた。
 テツの前で膝を折る。
「すまなかった」テツの頭を撫でた。
「卑怯だよ」テツは泣きながら言った。
「そうだ、卑怯だった」





20140729

この数ヶ月のあいだ(それは半年を超え、1年近くにもなる)僕は何人かの人を傷つけて、傷つけて、損ない続けてきた。
それはたとえば、人の心を傷つけることであり、ときには、人の身体を傷つけることであり、あるいは、人との関係を損なうことや、人の所有する時間や可能性を損なうことでもあった。

僕は、ただ自分の思うところに従って(あるいはときには、思いもしないまま)、傷つけて、傷つけて、傷つけて、損ないつづけた。

その認識世界の中で振り返れば、時間が歪み、ゆえに今年はいつもの通り月日の流れが早いと感じる半面、同時に、果てもなく長いようにも感じる。
結局のところ、それは、時間や空間が歪んだのではなくて、僕自身の歪みを時間や空間が吸収し、あるいは反映した結果なのだろう。だからこそ、それが巡り巡って、僕自身を、例えようもない不安や苦痛に晒すのかもしれない。

にもかかわらず、僕は今でも自分がそうした状況を受け容れて、なんとかしのいでしまうことも知っていて、そんなこんなが嫌になった時のために、僕のベッドの脇には、よく研いだペティナイフがしばらく前から置かれている。

傷つけたものや、傷つけたひとや、損なったものは、最終的に、僕自身の選択によって傷つけ、あるいは損なわれ、だからこそ、僕自身の手によって生み出された不安や恐怖や痛みが、どうしようもなく押し寄せてくる。
ついつい、僕は自分を正当化しそうになるし(実際にそうしないことがないようにさえ思える)、過去の自分にとって、ほかに選択のしようなどなかったのだと、やはり思おうとしてしまう(他に何をすればよいのか。神に告解すればよいのか)。

それでも、どれだけ振り返ってもやはり、他に選択肢がなかったように思えることの理不尽。
他の選択肢を、きちんと判断できるだけの条件が整っていたならば話は別なのだろうけれど、そのときには、それ以外に最適なものなど存在しなかったのだと、言い訳するように理屈で固めて正当化をはかる。
それを繰り返すうちに、なにが存在して、なにが存在しなくて、どれが選択肢で、どれが選択肢ではなくて、どれが自分の意思であったのか、あるいはなかったのか、なにより自分自身が分からなくなってしまう。

他人を傷つけたり、あるいは損なうというのはある種の殺人にも等しいのだと僕は思うけれど、物理的には僕は誰も殺していなくて、だから、ある意味では物理的なそれよりよほどもひどいといえる。

それをまざまざと自分の肌に感覚して、僕はたびたびナイフを手に取った。
それは魚を捌くように。
それは獣を捌くように。
物理的に、より効果的な角度や手法をたびたび検討しながら。

まるで剣術の鍛錬のようだった。
僕は自分の身体のなかで、じゅうぶんにやらかくて、じゅうぶんに致命的な部分に到達する場所を、どのようにするとじゅうぶんに損なうことができるのかを何度も検討した。
それは、僕が体を洗ったり、マッサージや料理をするのと完全に同じ手法で。

その解析にしたがって道具を使えば、適切に、僕自身が損なわれる。
まるで簡単で便利で完全なレシピのごとき鮮やかさで。
まな板の上は赤く染まるだろう。

しかしながら、僕が損なわれた後にだって、結局のところ、草一本生えないのだ。
自身を損なうというのは、まったくもってそういうことになる。
(まぁ、虫は、わくわなぁ。わくけれどもなぁ)
それどころか、師匠から預かって10年以上ともに暮らしているポインセチアも、今年の春からともに暮らしているバジルも、ものの数日で損なわれてしまう。

本当に、これ以上、何もかにもが、取り返しのつかないくらいに損なわれてしまう。
(もちろんそれでも、損なわれずに続いてゆくものがあるのもまた事実なのだ。そこに僕の知る由もないどんな痛みが残っていようとも)

僕自身が耐えるにはあまり易しくない程度の人びとを裏切って、傷つけて、損なって。
このうえ、自身をも損なうのはたしかにとても気楽なことではあるのだけれど、それは何者も救わないのだった。

そのような自分の思考プロセスも僕は十分に熟知していて、もちろん、そのいずれもが優しさなどではなく、独善と偏見に満ち満ちていて、にもかかわらず、そうした独善を憎んで手放してしまうことはすなわち自分自身を損なうこととまったく等しくて。
そして自分を損なうことで満足することもまた独善で。

同時に、ずっと昔、ブログで知り合ったある人が、最後の書き込みののちに自殺してしまったときのことも思い出す。

損なわれてしまったものに対して、僕たちは、為す術(茄子術ではない)を持たない(勝手に自分を含まないでほしい、という全国の治療師の皆様におかれましては、この場を借りて深くお詫び申し上げます)。

あるいは傷付いたものを、修復し、もしくは回復を手伝うことはできる。
結局のところそれも、たとえるなら料理やマッサージとおなじセオリィで。
奇妙なことに、僕はおなじ手法を、物を作ったり、修復したり、あるいは壊したりといった、すべてのことに使っている。

生きることが、ときに奪ったり、殺すことであるように。
守ることが、ときに騙したり、隠すことであるように。

もちろん、そんなことはなるべくなら、ない方が良いのだけれど。
それでも不可避の、あるいはその時点では不可避としか思えないことが、たしかにあるのかもしれない。

僕にとっての不可避があるように、他の人にはその人の不可避が。
僕にとっての苦痛があるように、他の人にはその人の苦痛が。

もちろん、そんな当たり前のことは誰だって知っていて、僕だって知っていて、そのつもりで普段、日々を送っているのだ。

いるのだ、けれど。

それでもときに、僕はそれを忘れるのだ。
覚えることと、思い出すことが、行為として異なるように。
知っていることと、それを忘れずに使いこなし続けることは、行為として、天と地ほども違うのだ。
行って帰ってくるくらい違うのだ。
月とスッポンくらい違うのだ。
松茸と舞茸くらい違うのだ。
海底と高空くらい違うのだ。
北極と南極くらい違うのだ。
ムー大陸とアトランティス大陸くらい違うのだ。
ネッシーとラッシーくらい違うのだ。
シリアスな僕と巫山戯ている僕とは、紙一重の差だけれど。

僕自身を許せるのかどうかという点は、今は先延ばしにすることだ。
大事なことは、自分が傷つけ、損なった幾つものことを、きちんと覚えておくことだ。
目をつむることなく、むしろ見開いて、その光景を焼き付けることだろう。

損なわれたものは回復しないし、傷付いたものも簡単には回復しない。
多くの身体の傷がそうであるように、おまじないで回復する傷など存在しないし、また、傷を瞬時に治せるおまじないも存在しない。

僕は自分の身体を通して、そうした多くのことを学んだ。
そこには痛みと傷が、ただただ残っている。
血が止まっても疵痕が。
骨が繋がってもいびつな骨格が。

人は結局、自分自身からしか、ものを学ばないのかもしれない。学べないのかもしれない。
あるいはそれは、僕だけなのかもしれないけれど。









::「あいつが悪い、あいつを殺してやりたい、あいつに謝らせたい、なんて思うのは、私だけなんだよね」
「ノギさんだけではありません。私も……」
「だってさ、シノちゃんは、そんなこと一言だって言わなかったよ。どうしてだと思う?」
「どうしてですか?」
「だって、しかたないもん。そうでしょう? あいつを殺したって、なんの得にもならないよ。いくら謝らせたって、シノちゃんは元には戻らないんだ。気が収まらないのは、ただの見物人だってことさ」







引用は
「episode 3: Beads string」from「The Skull Breaker」
(著作:森 博嗣 / 発行:講談社文庫)
によりました。
(冒頭引用 p.219 / 文末引用 p.225)



::我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。





20140726

天気などどうでもよい気分。

>>>

人は誰でも、幸せ探す旅人のようなものであり、そのときの最善に沿って思考し、行動する。
逆を言えば、そのときの最善性によって、事後もその行為を正当化することがある。

仮に最善でなかったとしても、最善と思わないと救いがない。
そんなときは、やはり、最善だと思いたくて、最善であったと理屈付けしてしまう。

自らの行いは常に正当で、理由があり、不可避であると。

しかし、僕はこれを、ただの「正しさの病」だと思っている。

正しくなくてはいけない、正々堂々とあらねばならない。

そのためには、ときに自らの認識さえも歪めて「自分は正しい」ことを理屈づけする。

個人的には、人間は矛盾している方が健全だと思っているので、矛盾していない人間や、一貫した理屈付けをする人間に対して「退屈だ」「うわべだけの嫌な奴」と評価してしまう。
科学法則は、いついかなるときも、宇宙のどこにいっても普遍のものだけれど、たかだか人間の、ましてや一個人の認識や判断、価値観が、そうそう、科学法則のような一貫性をもっているわけがないし、持っている方がおかしい。

だから、それを躍起になって実現しようとしたり、あるいは他者に強要するタイプの人を見ると「なんだかつらい環境に育ったのかな」と、同情さえ覚える。

もちろん、僕自身も、ときおりこの病にかかる。
そう。正しさの病は一度かかると治らないものではなく、軽い炎症のようなものなのだ。

僕はかならず相反する価値観をもてあそぶ習慣があり「正しくなければならない」と思う一方「間違いからしか正しさは見つからない」とも思っている。

たとえばゲームでも同様で、洞窟を歩いていて、そこに本当に壁があるのかどうかということは、壁にぶつかるまでは本当は分からない。

本当は壁にぶつかって初めてそれが壁だとわかるのであって、壁に見せかけたカモフラージュや、透明な壁なども存在する現実の世界において、それが「正しい道筋」だなんて本気でいっている人は「ちゃんと壁ばかり伝ってきた人」か「歩いてきた道筋にたまたま壁がなかった人」のいずれかでしかなく、たいていは後者しかいない。

なぜならば、いずれも経験に基づいて話をすると考えるならば(その程度の誠実さは持っていてもらいたいものだ)、壁ばかり伝って歩いてきた人は、壁にぶつかる方法でしか、通路を知らない。
「この道が通路だ」というのではなく「この先にこういう壁があって、その壁をこう伝うとこんな壁がある」ということを伝えることしかできない。

壁を伝って歩いていたら、たまたまこの場所なのであって、意識的に通路を歩いているわけではないし、ここまでが絶対の道筋というわけでもない。
そういう認識になるのが必然だと思うのね(口調が変)。

「この道筋を歩いてきた、だからこの道が正しい。この道だけが正しい」
というのは、そのひと個人には真理かもしれないけれど、それだけを信じさせられる人にとってはちょっと困ったことにもなりかねない。
現実はコンピュータゲームと違い、いつも変化しているし、自分はその人と同一人物ではないのだから。

つまりルートを強要するというのは、とても独善的で、ときに危険なことなのだ。

ただ、たとえば僕の場合は壁伝いに歩くような人間なので、まぁ、ときどき、何かのはずみ程度に、そういう「この道が正しい」というタイプの人のいう通りにするのも、それはそれでとても勉強にはなる。
もうじき齢40の人間が、こんなに柔軟(もしくは軟弱)で良いのかと心配にはなるものの。

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急速に空腹を感じるようになってきたので、2度ほど食事をするが、体重は58.5kg。

日中は、水を浴びたりして過ごす。

もしかしたら、と思って入れたMacの電源は、瞬時に落ちる。

汗に塩気が感じられない。

一人のとき、休日をどのように過ごしていたのかまったく覚えていなくて、洗濯などするものの、時間の使い道をもてあます。

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仮に事象そのものの原因が僕自身にあったとしても、今の僕は、アタマに来たら、なるべく正直にそれを表現するようにしている。
たとえば冷蔵庫の上の電子レンジの扉を開けっ放しにしておいて、気づかずそこを通りかかったときに頭をぶつけた時のように、アタマをぶつけた事実に対しては遠慮なく、怒っていいと僕は思う。
たとえ、ドアを開け放ったのが僕自身であったとしても、遠慮して誤魔化したりしてはいけないと思う。

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食欲が出てきたということは、僕はこれから、またたくさんの思考や感情に翻弄されるということでもある。
僕が食事をしたがらない理由のひとつはそこにある。

僕は食べることの素晴らしさや満腹のヨロコビを知る一方で、食べないことがときに適切であることや空腹の有用性を知ってもいる。

死んだこともない人間が「生きている方が素晴らしい」というのは、ちょっと、どうなんだろう、と疑問に思うのと、それはよく似ている。

え。
疑問に思わない?









::たしかにそれは真実だった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。





引用は「ノルウェイの森(下)」(p.227)
(著作:村上 春樹 / 発行:講談社文庫)
によりました。



::彼女はにっこり笑って、僕の手首にそっと手を触れた。「私、少し前からあなたのこと信じようって決めたの。百パーセント。だからあのときだって私、安心しきってぐっすり眠っちゃったの。あなたとなら大丈夫だ、安心していいって。ぐっすり眠ったでしょう、私?」
「うん、たしかに」と僕は言った。





20140725

自暴自棄になりそうになるとき、僕は自分の右肩の傷を思い出す。

なにか選択をするとき、僕は父が死んだときの主治医の言葉を思い出す。

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僕が右肩の鎖骨を骨折したのは15年ほども前で、僕はそのとき自暴自棄になり、もっと広い範囲で、より完全に、肉体の機能を損壊させようとして失敗した。

それから1ヶ月間は右腕を使うことさえできず、半年間は右肩の機能が不完全で、3年間は右側を下にして眠ることができなかった。

おそらく僕は心の右肩か右腕を、そのとき傷めたのだろう。

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僕は昔から自分の身体が好きだった。
華奢ではあったけれど、肌も造形も、とてもきれいだと思っていた。

なのでそれだけが破損して生存し続ける自分に、僕は落ち込んだものだった。

完全な機能回復だけでも数年を要し、外観の修復は終生不可能。

それが気にならなくなったのは、一体いつの頃だったろう。

自暴自棄というのは、目的のいかんを問わず、結局は自分自身を傷つける行為に他ならない。
今の僕はそう思っている。

破壊的で破滅的。
一方で、それを誰かに知っておいて欲しいという幼稚さもそこには隠れている。

それらは、何も生み出さない。
何も先に進めない。
実際のところ、何を壊すでもなく、何を作り出すでもない。
ただただ不毛な行為なのだ。


10代の頃から「自殺しそうなタイプ」と言われていたけれど、それ以降、僕は自暴自棄にならない。
そういう衝動がやって来るたびに、僕の肩の傷を思う。
損なわれた自分のありようを思う。

そのときの衝動に任せても、何も変わらない。

いわゆるリストカッターたちは、流れる血と、自分の傷跡を見て安心するという。
僕にはその精神はよく分からない(よく分からないだけで、否定するつもりも、肯定するつもりもない)。

ただ、肩の状態を見るまでもなく感覚するだけで、僕は自分のありようを感覚できるし、それは長い時間をこそ要したものの、今では何の支障もなく、大抵の運動機能を果たすことができる。

今は自分の身体を信頼しているし、それを損なう気持ちには、なかなかなれない。
それはもっとも信頼できて、もっとも確実な存在だから。
もっとも、自己愛とは思っていない。
僕の身体は、僕のものでありながら、僕が意識しなくてもきちんとその役割を果たしてくれる。
信じてはいるけれど、依存してはいないし、そのつもりもさらさらない。

僕は、できるだけその声に耳を傾け、できるだけ忠実にそれに従い、できるだけ誠実にそれと接することしかできない。
そこから学んだことは実にたくさんあるし、それは、広く多くのことに応用が可能だった。

>>>

Aは時間と空間の関係で進展せず。
平日しか進捗できないのが悩ましい。

Bも進展なし。
ただ、新しい手法を思いついたので検討中。
付随Dについて、今は何をすることも自身に許可していないのでどうにもできないが、最悪(個人的には最良かもしれない)の場合を考慮して、足場を確かにしようと思う。

Cは新しい手法によって大きく前進する可能性あり。
Cost/Efc が気になるところ。

Nobuddy nowhere な状況は、自分のしようとしていることの意味を見失わせるには十分だけれど、身軽だし、なりふりを気にせず済むのはありがたい。

このため、Dについては一切接触しないことにしている。

Eの作業を、昨日は忘れていた。
今朝、少しだけ処理。

>>>

昨日の食肉は成功したようで、うまく消化器官が働き始めた。
肉食獣はこうでないとね。

>>>

悩むとき、父が死んだときの主治医の言葉を思い出す。
医療ミスという単語が世間を賑わせていた時期で、僕はすべての親族を代表して、それを尋ねたのだ。

私は、そうは思いたくはありませんが。
いわゆる医療ミスのようなことがあったのではないかと、父の死について説明するたびに人から言われて、そのたびに、どのように自分が父の死を受け止めて、そのありようを相手に説明したものかと困窮します。
私は、父の死に対して、いったい何を信じれば良いのでしょうか、と。

これが答えになるのか分かりませんが、と、先生は僕に言った。

私たち医師は、ひとつの病気や症状に対して、絶対的な快復を約束することはできません。
たとえ一刻を争うような場合であっても、今ある状態に対して、そのときそのときで、最善と思われることを、するしかありません。

>>>

物事を選択するとき、あるいはそれを振り返って、僕はときどき、自分の選択が、果たして正しいのか、正しかったのか、それとも間違っていないか、間違っていなかったか、あるいはもっとよい選択はないのか、なかったのかと、自問することがある。

後から何をどう思おうと、それは自分も含めた観察者の自由だ。
ただ、それでもそのとき、たしかに最善と思える選択を自分はしていると思うし、あるいはそれは、そう思わないとやりきれないことなのかもしれない。

悪意をもって何かをする人もいるかもしれない。
でも、僕の知る限り、そんな人はごくわずかしかいない。
ほんとうに、本当に、数えるほどしかいない。

人は、たとえ誰かを傷つけることがあったとしても、それはたいてい、それが最善だと(少なくともよい方向に向かうものだと)思って行動した結果のことなのだと、僕は思うようになった。
誰かに傷ついたと感じたときも、きっと、これは最善だとそれぞれが思って行動した結果なのだと。

自分が相手と同じ立場であったとしても、同じようにしただろう、と。

たとえばそれは自分を信じるように。
自分を傷つけた相手を、信じる足掛かりに、すくなくとも今の僕にとっては、なる。
自分を信じれば信じるほど、自分以外の人間を、いともあっさり信じ続けることができる。
それはつまるところ、他人を信じるという行為が、自分という意志や存在から生まれるという、ごくごく当たり前の事象に基づいている。

とても明確な原理なので、僕はその科学的な現象を、ひとつのエンジニアリングの要素として、技術として、大切に取り扱っている。

自分という基礎ができていない人間の上に建つ、信頼関係というビルディングは、すなわち砂上の楼閣として、ふとした拍子に崩れ去ってしまう。
ともすれば人は、その上の建物のことを不良品だと非難するのだけれど、肝心なのは、やはりその基礎なのだと思う。

大事なことは、自分という基礎をしっかり作るということだ。
どんな地震が来ても、津波が来ても、時間が経っても、倒れることなく、流されることなく、朽ちることのない基礎を。

それさえあれば、その上に建つものは、きっと耐えられるし、もし崩れたとしても、基礎さえ永久に朽ちることなく、ゆがむことなくそこにあるならば、きっとすぐにでも同じような建造物を作ることができるだろう。









::「私、あのときあなたが迫ってきてもたぶん拒否できなかったわよ。あのときすごく参ってたから」
「でも僕のは固くて大きいよ」







引用は「ノルウェイの森(下)」(p.185)
(著作:村上 春樹 / 発行:講談社文庫)
によりました。



::強き者が強きを呼んで果てしなく強さを増していく一方で、弱き者は際限なく虐げられ、踏みつけにされ、一片の誇りを持つことさえも許されない。

小才のきく者だけがくるくると回る頭でうまく立ち回り、人がましい顔で幅をきかす。
ならば無能で、人が好く、愚直なだけが取り柄の者は、踏み台となったまま死ねというのか。

それが世の習いと申すなら、
このわしは許さん。





20140718

曇り時々雨。

確認したら、退社まで10日を切っていた。
机の整理や備品の返納などしていない。普通に(あるいはいつも以上に)慌しい。

日常の連続。

>>>

物事が二転三転して、目が回る。
何を信じると良いのか分からないし、やっぱり自分とその勘だけ信じていればそれが一番のような気もするし。
自分しか信じないというのも、それはそれでどうかとも思うし。

食事をする時間もない一日の終わりに呼ばれるまま前社長の家に行ったら、結局、引き留められた。

現社長にはたいした恩義もないし敬意も払えなくなったので辞職を申し出て、一から自分のありようを再設計したものの、前社長に引き留められてしまうと、僕にはどうしても、どうしても、それを振り払うことができないのであった。
それが忠義なのか、人が好いだけなのか、それとも単なる阿呆なのか、もはや考えたくもない。

再設計したいくつものことがまた宙ぶらりんになって、再設計する以前のこともまた宙ぶらりんのままで。

苦々しい気持ちのまま帰宅すると21時であったことよ。

そんな僕の将来の夢はベーコン職人になって山奥でひっそり暮らすことです。

>>>

食欲などどこかに蒸発してしまっていて、しかし昨晩も一日トータル豆腐1丁しか食べていないことを思い出して、にもかかわらず何をする気力もないほど眠くて、そういえば今朝はカステラをひと口食べたと今思い出したものの、体重を計ると60kgを切っていたので慌ててその辺りにあるものを食することにしつつ日記を書いている。
俺の方が癌にかかって死にそうだ。

ちなみにMacは今日も死んでいて、伊藤食品の鯖缶うめー、とつくづく思う。

>>>

いくつかのお客様に対して辞職のお知らせをすでにしてしまっていて、もちろん長年の付き合いでもさらっと社交辞令の方もいれば、ほんの1年程度でも涙ぐみつつ惜しんでくれたり、別の職を探したり自分の仕事に誘ってくれる方までいて、人間相手の仕事って、ほんとにめんどくせえなぁ、と、照れ混じりに思う。

かつて始めた当初、僕はこの仕事が本当に嫌いで嫌いで仕方がなくて、でも一方で、今はとっても気に入っているのもまた事実で、ただいくつもの人間との繋がりが重くて重くて心底厭になって、旅に出ますでも探さないでください西の方へ旅に出ます西の湖のほとりのあたりに行くような気がしますがどうか探さないでください探すなら群馬泉の特別純米酒を持ってきてくださいでもどうそ探さないでください、というような気持ちになることもしばしばであるものの、この職務においてその力を振るうことの快感についてを、この業界を毛嫌いしているからこそ人一倍感じるような気はしている。

>>>

保険というのは、困った人を(契約者に限るが)助けることができる。
それどころか助けるのが仕事だ。
自身の知識や経験を駆使して、災害に遭ってしまったひと、事故に遭われたひと、困窮し、不安になり、心細くなって、ときにはくじけそうにまでなった人を励まし、勇気づけ、助力するのが仕事だ。

実際のところ買ってもらわないことには話にならないが、それでも、大事なことは売ることではなくて買ってもらうことで、それよりなにより困った人に金銭的な助力ができるということだ(僕個人の力ではもちろん、ないけれど)。

>>>

そうはいっても、今日はさすがにほとほと疲れた。
腹に贅肉などなくなったが、それでも疲れるときは疲れる。

たまには何も考えず泥のように眠ろう。









::武ある者が武なき者を足蹴にし、才ある者が才なき者の鼻面をいいように引き回す。これが人の世か。

ならばわしはいやじゃ。

わしだけはいやじゃ。










冒頭・文末の引用は
「のぼうの城」(著作:和田 竜 / 発行:小学館)
によりました。
20140717

手指に水疱ができては消え、ときに潰れる。
ところどころに変な疵が残り、しかしそれもやがて消えることがわかっている。

身体の感覚のいろいろがうまく把握できなくて、時間が歪んだりする。
なので食事を忘れたりする。
思い出したのに、食欲を忘れていたりする。
食欲を思い出したのに、味覚を忘れていたりする。

しかし君が深淵を覗き込むとき、深淵もまた君を覗き込むように、時間が歪むとき、私もまたぐにゃりとしていることだろう。

いろいろなことが分からなくなったりする中で、ではいったい、僕は何を分かっていたのだろうかと自問する。



もしかしたら。

僕は何も知らなかったのではないだろうか、そもそものはじめから。

とはいえそれさえ、良いとも悪いとも思わない。

不思議な感覚な気がする。
あるいはそもそも、何も感じてなどいないのかもしれない、ずっとずっと昔から。


>>>

会社を去る前に、その歪みを少しでも正すことができればと、前社長の家に行く。
あいにくこれからライオンズクラブの集会だということで、打合せは明日に持ち越し。
奥様と30分ほど話す。

本当に、誰にも言えず、言わずにいた愚痴めいたことを、初めてきちんと言った気がする。

そういえば、会社を辞めようと思ったのは先月の23日の朝で、その夕方には辞意表明をしていたのだから、ほんとうにどうかしているのだろうとは思う。

いろいろ辛かった気もする。

しかしどうだろう。

そうでもないような気もして、やっぱりよくわからないのだ。
140710

 曇り。

 Macの電源の不具合が再発し、起動しなくなって数日が経つ。
 今まで騙し騙し使っていたのだけれど、騙しすぎたのだろうか。よく分からない。
 毎日、30分から1時間は試しているのだけれど、まったく動作しない。
 そろそろ買い換えたものか、どうしたものか。悩んでいる。

>>>

 ここ数ヶ月「あなたはこう思っているに違いない」という指摘を受けることが多い。
 これまでの人生でもたびたびあったことである。老若男女、特定されているわけでもない。

 理由は後述するが、僕はその「他人から指摘される僕の思考」が間違っていても基本的に否定しない。
 指摘されることそのもので気分が悪くても、正しければ肯定する。

 しかし、実態としては「そんなふうにはまったく思っていない」ということが多い。本当に多い。
 そういうとき、ぜんぜんまったくさっぱり思っていないことなのだけれど、僕は自分の思ってもいないことを思っていることにされてしまう。
 にもかかわらず、僕はそれを否定しない。否定しないから余計、僕はそう思っていることになるらしい。

 なので時々は否定をすることもある。
「僕はそんなことを思っていないし考えてもいない」と。

 しかし、どういうわけなのか、そういう状況において、僕の思考を断定してくる人の多くは僕の意見を聞かない。
 僕の考えを僕以上に知っていて、理解しているかのように振舞う。
 どういう道理なのかは分からないが、その様子があまりにも自信満々であるために、僕よりも僕の思考に詳しいのかもしれないと、当の僕自身が感じて自信を失うこともあるほどだ。

 実際のところ、僕はいちいち物事を考えて行動しない。
 考えるときは(ちょうど今そうしているように)考え抜くけれど、行動のときはなるべく考えないようにしているし、考えていない。

 そのため「ではどう思っていたのか」と尋ねられても「たいして何も考えていなかった」という答えしか出せないことがほとんど。
 僕は誰かに説明するために生きているわけでも、行動するわけでもないから、言葉で明確に説明できることのほうが少ないし、それが自然だとさえ思っている。
 どうやらその時点で、一部の人とはちょっと違う様態ではあるらしいけれど、僕には理にかなっているから、説明のしようもない。
 こうした状況がますます相手の理屈を強化するものらしい。

 いよいよ面倒になるので、僕はもはやどうでもよくなってしまう。

 僕が何をどう思っていようと、そんなものは目に見えない。見えるはずがない。
 僕の、なおかつ見えないものを取り上げて、それを「こうに違いない」と断定されて、否定しても効果がなく、またそれを否定する根拠もとくに用意がないのだ。
 行動から逆算して僕の思考が読めるというのならば、僕は他人の逆算やその答えなど無視して、ありのままに行動していればいい。
 仮に誤解があったとしても、僕の本心がきっとそこに現れ(たぐい稀な幸運にたまさか偶然ばったりと恵まれてしまった場合は)読み取ってもらえるだろう。

 誤解を気にしていても仕方がない、という僕の思考はこうして生まれた。
 曲解に曲解を重ねる人もいるだろうけれど、それは放っておけば、僕に近づいてこなくなる。
 誰が近づこうが、誰が遠ざかろうが、その基準を考えるのはその人であって、僕がそれを逆算してまでコントロールする必要などないし、そんないやらしいことをしたいとは思わない。

 これは他者の思考の逆算に応用できる。

 他人の思考は目に見えない。
 いくつもの筋を考え、予測するけれど、そのほとんどは外れる。
 それはたとえ本当に当たっていたとしても、当人が素直に認められない場合もあるから、それも含めて「結果的にほとんど外れる」ということだ。
 また、行動に対しての思考が後付けになることも実際は多いように感じる。
 たいした理由もなかったことに対して、あれこれと理屈を付ける人は実に多いし、本人は質問された時点での思考をもって「過去の思考がそうであった」として上書きする。
 僕からすれば、それこそ素直ではないし、正しくもない。何にも考えていなかったことに対して無自覚なのにも関わらず、無自覚であることに無自覚だからこそできる芸当だとすら思う。
 もちろん、それが悪いことだと言いたいわけではないので誤解のないように。

 ただ、何も考えずなんとなく行動していることを偽り、同じようになんとなく行動している人を非難するのはどうかと思う。
 要するに、どうせ同じなら仲良くしようよ、ということが言いたい。

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 どこで自分に書き込まれたものか、人の考えを否定しないことが僕の中では道理として推奨されている。
 僕以外の人間の思考は、それを考えた人の所有物であり、生産物であり、それを否定することは、僕にとっては不可侵の領域を侵すことであるように思える。
 もちろん他人の考えに、そうそう迎合できることがあるわけではない。

 やや違うかな、と感じるときもあれば、とうてい相容れない考えもときにある。
 しかしその思考は、その人のものだ。僕の考えではない。
 ために僕はそれを否定しない。否定する余地もない。
 その思考は僕の所有物ではないし、生産物でもないのだから、僕はそれを所有する必要がないし、使用しなければならない義理もない。

 好みでない商品が店頭に並んでいるのと一緒だ。
 並べるのはお店の勝手、買わないのはこちらの勝手。

 僕自身の思考も同様、考えるのは僕の勝手、それを並べるのも僕の勝手。

 しかしもちろん、それを他人に押し付ければ、当然ながら失礼にあたる。
 だから僕は、できるかりぎ自分の思考を他人に押し付けるつもりはないし、自分の考えた道理も僕だけのものだろうと思っている。

>>>

 僕にとって物事の道理の互換性というのは、話し合いで「こうしましょう」と到達するものではなく、事象に対する観察と力学的な最適化によって、意思とは関係なく思考のみによってそれぞれ導き出される答えがそれぞれに近似することだと考えている。
 たとえば星が空を巡るのを見て「星が動いている」と思っている人と「大地が動いている」と思う人がいたとしよう。
 それでも最終的にひとつの答えにたどり着くことが可能なのは、星が空を巡ることについて、合理的な答えを誰かが導き出して、それを多くの人が最適であると認められるからである。

 もちろん、声高に「これが最適である」とアナウンスすることで、その浸透速度は上がるかもしれない。
 けれどもそれは道理ではない。
「最適である」ことというのは、適していることであって、正しいとか間違っているとかではない。
 ただ、主流であり、そうあることが望ましいというだけで、そんなことが浸透しても、何の意味もない。

 大事なことは「合理であること」。つまり、理にかなっていて、本当に正しい、つまり真理だということだ。
 その道筋が道理であり、その道のところどころに置かれる道標が理屈だろう。

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 もっとも天体の運行のようなものは、その合理的なありようというのを計算などによって求めることができる。
 合理の姿がわかりやすいのだ。

 いっぽう人の心理や気持ち、感覚や感情というのは、理を計算しづらいもののようである。
 これは環境や学習、場合によっては教育やしつけや経験などによっても大きく左右されるからであろう。

 しかし同じ人間である以上、ある程度の傾向はある。
 同時に、個別の傾向もある。
 だから算出は困難で、さまざまな筋が考えられるし、いずれが正しいとも限らない。

 あなたの予測は間違っているといわれれば「そうですね」となる。
 それどころか「勝手に断定して失礼をした」という程度の気持ちに、僕はなる。

 ただ僕の思考を断定する他者が、どう思っているのかは、やっぱり僕には分からない。

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 湿度が高い。
::しかし、どう考えて良いものかわからない。解決の方法など、思い浮かぶはずもなかった。そもそも、どうなれば解決なのだろうか。
「どのようになれば良いとお考えでしょうか?」イオカにそれをきいてみた。





140703

自転車というのは体の使い方において、左右のバランスが均等であればあるほど有利になる。
剣道やテニス、野球のように、利き手や軸足というものがあると、必然的に身体にクセがつく。
鍛えるとは、身体にクセを作るということだからだ。
クセがつくことで、より強い手が生まれる。強い手を作るために、もう一方の手足を捨てるといってもよい。

クセが左右均等で、なおかつ強い者があるならば、それは本当に、相当に強いということになる。
たとえば野球でも、左右両方に対応できて、両方とも強く、精密にコントロールできる選手は相当な技量の持ち主だろうと想像する。
普通はなかなか、そうはゆかない。

自転車でも、日常生活のクセは出る。
僕の場合、利き手と利き足がそれぞれ右、利き目も右だけれど、静止視力は左目のほうが優れている。
必然的に、利き足の動きは踏み足(※)も引き足(※)も容易にできる。
一方、普段が軸足のほうは、動きもぎこちなく、そもそもモニタリングがそれほど頻繁に行えない。

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踏み足:
ペダルを踏む動作。

引き足:
ペダルを引き上げる動作。
クリートなどを装備しない自転車にはあまり関係ないと思われがちだが、踏み足と逆側の足をきちんと意識して「持ち上げる」ことによって、運動効率も速度も上がる。

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不慣れなうちは、利き手/利き足に動作を覚えこませ、残りを受け手/軸足とする。
受け手/軸足は、ぱっと見ただけでは動きが少ないために、覚えることが少ない。
実際には、動きの礎を為している部分こそが受け手/軸足であって、こちらがしっかりしていなければどんな動きも無駄が多くなってしまうのだけれど、やはり最初に習うべきは利き手/利き足の動作なのだろう。

自転車の場合は、左右均等に動かすことができるというだけで出力が上がる。
呼吸も整えやすくなるし、疲労分散もしやすくなる。
あるいは利きではない側の手足を主力にすることで、走行中に利き側を休めることもできる。
脚の筋肉でいうと、これは左右だけではなく、前後(もしくは上下)の筋肉にもいえる。

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僕は他人に「気配がしない」と驚かれることが多い。
そのためか、店にいると店員だと勘違いされたりする。

逆に、僕にとっては他人の気配がとても大きく、うるさく感じられることが多い。

たとえば足運びの場合、左右のリズムが狂っている人はそれが普通だと思えるほどたくさんいるし、カカトとつま先の接地リズムが異なることも多い。

僕が神経質なのだろうと自覚しているが、他人の足音を乱暴に感じることがとても多い。
これは僕の棲んでいるアパートが安普請なせいもあるけれど、アスファルトでもリノリウムの床でも、絨毯が敷いてあっても同様に感じる。
その人の身体の使い方ががさつで乱暴なのだろうとつい思ってしまう。

音を立てず、空気もなるべくかき回さないように僕は動く。
これはどういうきっかけでそうなったのか、よくわからない。
近くに他人が居ても居なくても、動き方は変わらない。

たいして意識せずカカトから乱暴に接地すると、大きな音がする。
多くの人は、ただ力を抜くことで接地するのかもしれない。
そうすれば必然的に、乱暴な接地になって大きな音がする。
上体の位置や動きをきちんと意識して制御していなければ、動きが空気をかき乱す。
以前は人混みの中で、そうした大量の位置発信を拾ってしまって、酔うこともあった。

歩くだけでなく、戸を閉めたり、ものを見る動作ひとつでも、がさつな人はやはり大きく気配を出す。
最近は考えを改めた。
そういう人が普通なのだと考えることにした。
たまたま、僕がちょっと神経質に過ぎるのだろうと。
今の社会で、自分の気配を抑制する必要性は、もしかしたらないのかもしれない。

しかし、犬や猫も、利口なものはこちらの気配にはとても敏感だ。
鈍感な者には鈍感な者ならではのかわいらしさがあるのだろうとは思う。
それでも、動物は、多少なり敏感なほうが、僕は安心する。

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自転車でも、速く走れるようにメインテナンスしてあるメカニズムは、とても静かだ。
無駄なところに力をかけず、無駄なところに力を逃がさず、そうすれば綺麗なカタチを、綺麗な動きを保つことができる。
静かに動くことによって疲れにくくなるし、バランスを崩したときのリカバリも早くできるようにもなる。
なにより、バランスを崩しにくい。
また、速く動く場合も、いちいち音を立てるような動きをしていたらその時点ですでに遅いと感じる。

静けさとは、いうなれば、殺気そのものだろう。
殺気というのは、何かを殺そうとする意志や気配のことではない。
相手を察知し、感覚しようとする、そうした意識の働きだと僕は思う。

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7月で会社を辞めることにした。
現在の業界そのものから足を洗うことを僕は選択した。

8月からの予定は、まだ、ない。

僕は無職になることが確定しているが、同時に、とても自由だと感じられる。
13年ほどにもなるだろうか。
どこに行くこともできるし、何をすることもできる。
とても、自由だと感じる。







::それで良いのだ。こんなことを日常としていては生きてはいけない。どんなに獰猛な動物であっても、こんな日常を送ってはいない。






冒頭・文末の引用は、
「episode 1:Searching shadow」From「The Void Shaper」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
によりました。

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(in アラブ)

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