::「どうして、やっつけなかったの?」テツがこちらを見上げて尋ねた。
「こら、テツ!」姉が弟の頭を叩く。弟は泣き出した。
「良かった。無事だったか」そう言って、戸を閉めようとしたが、思いとどまり、庭に下りた。
テツの前で膝を折る。
「すまなかった」テツの頭を撫でた。
「卑怯だよ」テツは泣きながら言った。
「そうだ、卑怯だった」
20140729
この数ヶ月のあいだ(それは半年を超え、1年近くにもなる)僕は何人かの人を傷つけて、傷つけて、損ない続けてきた。
それはたとえば、人の心を傷つけることであり、ときには、人の身体を傷つけることであり、あるいは、人との関係を損なうことや、人の所有する時間や可能性を損なうことでもあった。
僕は、ただ自分の思うところに従って(あるいはときには、思いもしないまま)、傷つけて、傷つけて、傷つけて、損ないつづけた。
その認識世界の中で振り返れば、時間が歪み、ゆえに今年はいつもの通り月日の流れが早いと感じる半面、同時に、果てもなく長いようにも感じる。
結局のところ、それは、時間や空間が歪んだのではなくて、僕自身の歪みを時間や空間が吸収し、あるいは反映した結果なのだろう。だからこそ、それが巡り巡って、僕自身を、例えようもない不安や苦痛に晒すのかもしれない。
にもかかわらず、僕は今でも自分がそうした状況を受け容れて、なんとかしのいでしまうことも知っていて、そんなこんなが嫌になった時のために、僕のベッドの脇には、よく研いだペティナイフがしばらく前から置かれている。
傷つけたものや、傷つけたひとや、損なったものは、最終的に、僕自身の選択によって傷つけ、あるいは損なわれ、だからこそ、僕自身の手によって生み出された不安や恐怖や痛みが、どうしようもなく押し寄せてくる。
ついつい、僕は自分を正当化しそうになるし(実際にそうしないことがないようにさえ思える)、過去の自分にとって、ほかに選択のしようなどなかったのだと、やはり思おうとしてしまう(他に何をすればよいのか。神に告解すればよいのか)。
それでも、どれだけ振り返ってもやはり、他に選択肢がなかったように思えることの理不尽。
他の選択肢を、きちんと判断できるだけの条件が整っていたならば話は別なのだろうけれど、そのときには、それ以外に最適なものなど存在しなかったのだと、言い訳するように理屈で固めて正当化をはかる。
それを繰り返すうちに、なにが存在して、なにが存在しなくて、どれが選択肢で、どれが選択肢ではなくて、どれが自分の意思であったのか、あるいはなかったのか、なにより自分自身が分からなくなってしまう。
他人を傷つけたり、あるいは損なうというのはある種の殺人にも等しいのだと僕は思うけれど、物理的には僕は誰も殺していなくて、だから、ある意味では物理的なそれよりよほどもひどいといえる。
それをまざまざと自分の肌に感覚して、僕はたびたびナイフを手に取った。
それは魚を捌くように。
それは獣を捌くように。
物理的に、より効果的な角度や手法をたびたび検討しながら。
まるで剣術の鍛錬のようだった。
僕は自分の身体のなかで、じゅうぶんにやらかくて、じゅうぶんに致命的な部分に到達する場所を、どのようにするとじゅうぶんに損なうことができるのかを何度も検討した。
それは、僕が体を洗ったり、マッサージや料理をするのと完全に同じ手法で。
その解析にしたがって道具を使えば、適切に、僕自身が損なわれる。
まるで簡単で便利で完全なレシピのごとき鮮やかさで。
まな板の上は赤く染まるだろう。
しかしながら、僕が損なわれた後にだって、結局のところ、草一本生えないのだ。
自身を損なうというのは、まったくもってそういうことになる。
(まぁ、虫は、わくわなぁ。わくけれどもなぁ)
それどころか、師匠から預かって10年以上ともに暮らしているポインセチアも、今年の春からともに暮らしているバジルも、ものの数日で損なわれてしまう。
本当に、これ以上、何もかにもが、取り返しのつかないくらいに損なわれてしまう。
(もちろんそれでも、損なわれずに続いてゆくものがあるのもまた事実なのだ。そこに僕の知る由もないどんな痛みが残っていようとも)
僕自身が耐えるにはあまり易しくない程度の人びとを裏切って、傷つけて、損なって。
このうえ、自身をも損なうのはたしかにとても気楽なことではあるのだけれど、それは何者も救わないのだった。
そのような自分の思考プロセスも僕は十分に熟知していて、もちろん、そのいずれもが優しさなどではなく、独善と偏見に満ち満ちていて、にもかかわらず、そうした独善を憎んで手放してしまうことはすなわち自分自身を損なうこととまったく等しくて。
そして自分を損なうことで満足することもまた独善で。
同時に、ずっと昔、ブログで知り合ったある人が、最後の書き込みののちに自殺してしまったときのことも思い出す。
損なわれてしまったものに対して、僕たちは、為す術(茄子術ではない)を持たない(勝手に自分を含まないでほしい、という全国の治療師の皆様におかれましては、この場を借りて深くお詫び申し上げます)。
あるいは傷付いたものを、修復し、もしくは回復を手伝うことはできる。
結局のところそれも、たとえるなら料理やマッサージとおなじセオリィで。
奇妙なことに、僕はおなじ手法を、物を作ったり、修復したり、あるいは壊したりといった、すべてのことに使っている。
生きることが、ときに奪ったり、殺すことであるように。
守ることが、ときに騙したり、隠すことであるように。
もちろん、そんなことはなるべくなら、ない方が良いのだけれど。
それでも不可避の、あるいはその時点では不可避としか思えないことが、たしかにあるのかもしれない。
僕にとっての不可避があるように、他の人にはその人の不可避が。
僕にとっての苦痛があるように、他の人にはその人の苦痛が。
もちろん、そんな当たり前のことは誰だって知っていて、僕だって知っていて、そのつもりで普段、日々を送っているのだ。
いるのだ、けれど。
それでもときに、僕はそれを忘れるのだ。
覚えることと、思い出すことが、行為として異なるように。
知っていることと、それを忘れずに使いこなし続けることは、行為として、天と地ほども違うのだ。
行って帰ってくるくらい違うのだ。
月とスッポンくらい違うのだ。
松茸と舞茸くらい違うのだ。
海底と高空くらい違うのだ。
北極と南極くらい違うのだ。
ムー大陸とアトランティス大陸くらい違うのだ。
ネッシーとラッシーくらい違うのだ。
シリアスな僕と巫山戯ている僕とは、紙一重の差だけれど。
僕自身を許せるのかどうかという点は、今は先延ばしにすることだ。
大事なことは、自分が傷つけ、損なった幾つものことを、きちんと覚えておくことだ。
目をつむることなく、むしろ見開いて、その光景を焼き付けることだろう。
損なわれたものは回復しないし、傷付いたものも簡単には回復しない。
多くの身体の傷がそうであるように、おまじないで回復する傷など存在しないし、また、傷を瞬時に治せるおまじないも存在しない。
僕は自分の身体を通して、そうした多くのことを学んだ。
そこには痛みと傷が、ただただ残っている。
血が止まっても疵痕が。
骨が繋がってもいびつな骨格が。
人は結局、自分自身からしか、ものを学ばないのかもしれない。学べないのかもしれない。
あるいはそれは、僕だけなのかもしれないけれど。
::「あいつが悪い、あいつを殺してやりたい、あいつに謝らせたい、なんて思うのは、私だけなんだよね」
「ノギさんだけではありません。私も……」
「だってさ、シノちゃんは、そんなこと一言だって言わなかったよ。どうしてだと思う?」
「どうしてですか?」
「だって、しかたないもん。そうでしょう? あいつを殺したって、なんの得にもならないよ。いくら謝らせたって、シノちゃんは元には戻らないんだ。気が収まらないのは、ただの見物人だってことさ」
引用は
「episode 3: Beads string」from「The Skull Breaker」
(著作:森 博嗣 / 発行:講談社文庫)
によりました。
(冒頭引用 p.219 / 文末引用 p.225)
