::しかし、どう考えて良いものかわからない。解決の方法など、思い浮かぶはずもなかった。そもそも、どうなれば解決なのだろうか。
「どのようになれば良いとお考えでしょうか?」イオカにそれをきいてみた。
140703
自転車というのは体の使い方において、左右のバランスが均等であればあるほど有利になる。
剣道やテニス、野球のように、利き手や軸足というものがあると、必然的に身体にクセがつく。
鍛えるとは、身体にクセを作るということだからだ。
クセがつくことで、より強い手が生まれる。強い手を作るために、もう一方の手足を捨てるといってもよい。
クセが左右均等で、なおかつ強い者があるならば、それは本当に、相当に強いということになる。
たとえば野球でも、左右両方に対応できて、両方とも強く、精密にコントロールできる選手は相当な技量の持ち主だろうと想像する。
普通はなかなか、そうはゆかない。
自転車でも、日常生活のクセは出る。
僕の場合、利き手と利き足がそれぞれ右、利き目も右だけれど、静止視力は左目のほうが優れている。
必然的に、利き足の動きは踏み足(※)も引き足(※)も容易にできる。
一方、普段が軸足のほうは、動きもぎこちなく、そもそもモニタリングがそれほど頻繁に行えない。
>>>
踏み足:
ペダルを踏む動作。
引き足:
ペダルを引き上げる動作。
クリートなどを装備しない自転車にはあまり関係ないと思われがちだが、踏み足と逆側の足をきちんと意識して「持ち上げる」ことによって、運動効率も速度も上がる。
>>>
不慣れなうちは、利き手/利き足に動作を覚えこませ、残りを受け手/軸足とする。
受け手/軸足は、ぱっと見ただけでは動きが少ないために、覚えることが少ない。
実際には、動きの礎を為している部分こそが受け手/軸足であって、こちらがしっかりしていなければどんな動きも無駄が多くなってしまうのだけれど、やはり最初に習うべきは利き手/利き足の動作なのだろう。
自転車の場合は、左右均等に動かすことができるというだけで出力が上がる。
呼吸も整えやすくなるし、疲労分散もしやすくなる。
あるいは利きではない側の手足を主力にすることで、走行中に利き側を休めることもできる。
脚の筋肉でいうと、これは左右だけではなく、前後(もしくは上下)の筋肉にもいえる。
>>>
僕は他人に「気配がしない」と驚かれることが多い。
そのためか、店にいると店員だと勘違いされたりする。
逆に、僕にとっては他人の気配がとても大きく、うるさく感じられることが多い。
たとえば足運びの場合、左右のリズムが狂っている人はそれが普通だと思えるほどたくさんいるし、カカトとつま先の接地リズムが異なることも多い。
僕が神経質なのだろうと自覚しているが、他人の足音を乱暴に感じることがとても多い。
これは僕の棲んでいるアパートが安普請なせいもあるけれど、アスファルトでもリノリウムの床でも、絨毯が敷いてあっても同様に感じる。
その人の身体の使い方ががさつで乱暴なのだろうとつい思ってしまう。
音を立てず、空気もなるべくかき回さないように僕は動く。
これはどういうきっかけでそうなったのか、よくわからない。
近くに他人が居ても居なくても、動き方は変わらない。
たいして意識せずカカトから乱暴に接地すると、大きな音がする。
多くの人は、ただ力を抜くことで接地するのかもしれない。
そうすれば必然的に、乱暴な接地になって大きな音がする。
上体の位置や動きをきちんと意識して制御していなければ、動きが空気をかき乱す。
以前は人混みの中で、そうした大量の位置発信を拾ってしまって、酔うこともあった。
歩くだけでなく、戸を閉めたり、ものを見る動作ひとつでも、がさつな人はやはり大きく気配を出す。
最近は考えを改めた。
そういう人が普通なのだと考えることにした。
たまたま、僕がちょっと神経質に過ぎるのだろうと。
今の社会で、自分の気配を抑制する必要性は、もしかしたらないのかもしれない。
しかし、犬や猫も、利口なものはこちらの気配にはとても敏感だ。
鈍感な者には鈍感な者ならではのかわいらしさがあるのだろうとは思う。
それでも、動物は、多少なり敏感なほうが、僕は安心する。
>>>
自転車でも、速く走れるようにメインテナンスしてあるメカニズムは、とても静かだ。
無駄なところに力をかけず、無駄なところに力を逃がさず、そうすれば綺麗なカタチを、綺麗な動きを保つことができる。
静かに動くことによって疲れにくくなるし、バランスを崩したときのリカバリも早くできるようにもなる。
なにより、バランスを崩しにくい。
また、速く動く場合も、いちいち音を立てるような動きをしていたらその時点ですでに遅いと感じる。
静けさとは、いうなれば、殺気そのものだろう。
殺気というのは、何かを殺そうとする意志や気配のことではない。
相手を察知し、感覚しようとする、そうした意識の働きだと僕は思う。
>>>
7月で会社を辞めることにした。
現在の業界そのものから足を洗うことを僕は選択した。
8月からの予定は、まだ、ない。
僕は無職になることが確定しているが、同時に、とても自由だと感じられる。
13年ほどにもなるだろうか。
どこに行くこともできるし、何をすることもできる。
とても、自由だと感じる。
::それで良いのだ。こんなことを日常としていては生きてはいけない。どんなに獰猛な動物であっても、こんな日常を送ってはいない。
冒頭・文末の引用は、
「episode 1:Searching shadow」From「The Void Shaper」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
によりました。
「どのようになれば良いとお考えでしょうか?」イオカにそれをきいてみた。
140703
自転車というのは体の使い方において、左右のバランスが均等であればあるほど有利になる。
剣道やテニス、野球のように、利き手や軸足というものがあると、必然的に身体にクセがつく。
鍛えるとは、身体にクセを作るということだからだ。
クセがつくことで、より強い手が生まれる。強い手を作るために、もう一方の手足を捨てるといってもよい。
クセが左右均等で、なおかつ強い者があるならば、それは本当に、相当に強いということになる。
たとえば野球でも、左右両方に対応できて、両方とも強く、精密にコントロールできる選手は相当な技量の持ち主だろうと想像する。
普通はなかなか、そうはゆかない。
自転車でも、日常生活のクセは出る。
僕の場合、利き手と利き足がそれぞれ右、利き目も右だけれど、静止視力は左目のほうが優れている。
必然的に、利き足の動きは踏み足(※)も引き足(※)も容易にできる。
一方、普段が軸足のほうは、動きもぎこちなく、そもそもモニタリングがそれほど頻繁に行えない。
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踏み足:
ペダルを踏む動作。
引き足:
ペダルを引き上げる動作。
クリートなどを装備しない自転車にはあまり関係ないと思われがちだが、踏み足と逆側の足をきちんと意識して「持ち上げる」ことによって、運動効率も速度も上がる。
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不慣れなうちは、利き手/利き足に動作を覚えこませ、残りを受け手/軸足とする。
受け手/軸足は、ぱっと見ただけでは動きが少ないために、覚えることが少ない。
実際には、動きの礎を為している部分こそが受け手/軸足であって、こちらがしっかりしていなければどんな動きも無駄が多くなってしまうのだけれど、やはり最初に習うべきは利き手/利き足の動作なのだろう。
自転車の場合は、左右均等に動かすことができるというだけで出力が上がる。
呼吸も整えやすくなるし、疲労分散もしやすくなる。
あるいは利きではない側の手足を主力にすることで、走行中に利き側を休めることもできる。
脚の筋肉でいうと、これは左右だけではなく、前後(もしくは上下)の筋肉にもいえる。
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僕は他人に「気配がしない」と驚かれることが多い。
そのためか、店にいると店員だと勘違いされたりする。
逆に、僕にとっては他人の気配がとても大きく、うるさく感じられることが多い。
たとえば足運びの場合、左右のリズムが狂っている人はそれが普通だと思えるほどたくさんいるし、カカトとつま先の接地リズムが異なることも多い。
僕が神経質なのだろうと自覚しているが、他人の足音を乱暴に感じることがとても多い。
これは僕の棲んでいるアパートが安普請なせいもあるけれど、アスファルトでもリノリウムの床でも、絨毯が敷いてあっても同様に感じる。
その人の身体の使い方ががさつで乱暴なのだろうとつい思ってしまう。
音を立てず、空気もなるべくかき回さないように僕は動く。
これはどういうきっかけでそうなったのか、よくわからない。
近くに他人が居ても居なくても、動き方は変わらない。
たいして意識せずカカトから乱暴に接地すると、大きな音がする。
多くの人は、ただ力を抜くことで接地するのかもしれない。
そうすれば必然的に、乱暴な接地になって大きな音がする。
上体の位置や動きをきちんと意識して制御していなければ、動きが空気をかき乱す。
以前は人混みの中で、そうした大量の位置発信を拾ってしまって、酔うこともあった。
歩くだけでなく、戸を閉めたり、ものを見る動作ひとつでも、がさつな人はやはり大きく気配を出す。
最近は考えを改めた。
そういう人が普通なのだと考えることにした。
たまたま、僕がちょっと神経質に過ぎるのだろうと。
今の社会で、自分の気配を抑制する必要性は、もしかしたらないのかもしれない。
しかし、犬や猫も、利口なものはこちらの気配にはとても敏感だ。
鈍感な者には鈍感な者ならではのかわいらしさがあるのだろうとは思う。
それでも、動物は、多少なり敏感なほうが、僕は安心する。
>>>
自転車でも、速く走れるようにメインテナンスしてあるメカニズムは、とても静かだ。
無駄なところに力をかけず、無駄なところに力を逃がさず、そうすれば綺麗なカタチを、綺麗な動きを保つことができる。
静かに動くことによって疲れにくくなるし、バランスを崩したときのリカバリも早くできるようにもなる。
なにより、バランスを崩しにくい。
また、速く動く場合も、いちいち音を立てるような動きをしていたらその時点ですでに遅いと感じる。
静けさとは、いうなれば、殺気そのものだろう。
殺気というのは、何かを殺そうとする意志や気配のことではない。
相手を察知し、感覚しようとする、そうした意識の働きだと僕は思う。
>>>
7月で会社を辞めることにした。
現在の業界そのものから足を洗うことを僕は選択した。
8月からの予定は、まだ、ない。
僕は無職になることが確定しているが、同時に、とても自由だと感じられる。
13年ほどにもなるだろうか。
どこに行くこともできるし、何をすることもできる。
とても、自由だと感じる。
::それで良いのだ。こんなことを日常としていては生きてはいけない。どんなに獰猛な動物であっても、こんな日常を送ってはいない。
冒頭・文末の引用は、
「episode 1:Searching shadow」From「The Void Shaper」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
によりました。
