::彼女はにっこり笑って、僕の手首にそっと手を触れた。「私、少し前からあなたのこと信じようって決めたの。百パーセント。だからあのときだって私、安心しきってぐっすり眠っちゃったの。あなたとなら大丈夫だ、安心していいって。ぐっすり眠ったでしょう、私?」
「うん、たしかに」と僕は言った。





20140725

自暴自棄になりそうになるとき、僕は自分の右肩の傷を思い出す。

なにか選択をするとき、僕は父が死んだときの主治医の言葉を思い出す。

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僕が右肩の鎖骨を骨折したのは15年ほども前で、僕はそのとき自暴自棄になり、もっと広い範囲で、より完全に、肉体の機能を損壊させようとして失敗した。

それから1ヶ月間は右腕を使うことさえできず、半年間は右肩の機能が不完全で、3年間は右側を下にして眠ることができなかった。

おそらく僕は心の右肩か右腕を、そのとき傷めたのだろう。

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僕は昔から自分の身体が好きだった。
華奢ではあったけれど、肌も造形も、とてもきれいだと思っていた。

なのでそれだけが破損して生存し続ける自分に、僕は落ち込んだものだった。

完全な機能回復だけでも数年を要し、外観の修復は終生不可能。

それが気にならなくなったのは、一体いつの頃だったろう。

自暴自棄というのは、目的のいかんを問わず、結局は自分自身を傷つける行為に他ならない。
今の僕はそう思っている。

破壊的で破滅的。
一方で、それを誰かに知っておいて欲しいという幼稚さもそこには隠れている。

それらは、何も生み出さない。
何も先に進めない。
実際のところ、何を壊すでもなく、何を作り出すでもない。
ただただ不毛な行為なのだ。


10代の頃から「自殺しそうなタイプ」と言われていたけれど、それ以降、僕は自暴自棄にならない。
そういう衝動がやって来るたびに、僕の肩の傷を思う。
損なわれた自分のありようを思う。

そのときの衝動に任せても、何も変わらない。

いわゆるリストカッターたちは、流れる血と、自分の傷跡を見て安心するという。
僕にはその精神はよく分からない(よく分からないだけで、否定するつもりも、肯定するつもりもない)。

ただ、肩の状態を見るまでもなく感覚するだけで、僕は自分のありようを感覚できるし、それは長い時間をこそ要したものの、今では何の支障もなく、大抵の運動機能を果たすことができる。

今は自分の身体を信頼しているし、それを損なう気持ちには、なかなかなれない。
それはもっとも信頼できて、もっとも確実な存在だから。
もっとも、自己愛とは思っていない。
僕の身体は、僕のものでありながら、僕が意識しなくてもきちんとその役割を果たしてくれる。
信じてはいるけれど、依存してはいないし、そのつもりもさらさらない。

僕は、できるだけその声に耳を傾け、できるだけ忠実にそれに従い、できるだけ誠実にそれと接することしかできない。
そこから学んだことは実にたくさんあるし、それは、広く多くのことに応用が可能だった。

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Aは時間と空間の関係で進展せず。
平日しか進捗できないのが悩ましい。

Bも進展なし。
ただ、新しい手法を思いついたので検討中。
付随Dについて、今は何をすることも自身に許可していないのでどうにもできないが、最悪(個人的には最良かもしれない)の場合を考慮して、足場を確かにしようと思う。

Cは新しい手法によって大きく前進する可能性あり。
Cost/Efc が気になるところ。

Nobuddy nowhere な状況は、自分のしようとしていることの意味を見失わせるには十分だけれど、身軽だし、なりふりを気にせず済むのはありがたい。

このため、Dについては一切接触しないことにしている。

Eの作業を、昨日は忘れていた。
今朝、少しだけ処理。

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昨日の食肉は成功したようで、うまく消化器官が働き始めた。
肉食獣はこうでないとね。

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悩むとき、父が死んだときの主治医の言葉を思い出す。
医療ミスという単語が世間を賑わせていた時期で、僕はすべての親族を代表して、それを尋ねたのだ。

私は、そうは思いたくはありませんが。
いわゆる医療ミスのようなことがあったのではないかと、父の死について説明するたびに人から言われて、そのたびに、どのように自分が父の死を受け止めて、そのありようを相手に説明したものかと困窮します。
私は、父の死に対して、いったい何を信じれば良いのでしょうか、と。

これが答えになるのか分かりませんが、と、先生は僕に言った。

私たち医師は、ひとつの病気や症状に対して、絶対的な快復を約束することはできません。
たとえ一刻を争うような場合であっても、今ある状態に対して、そのときそのときで、最善と思われることを、するしかありません。

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物事を選択するとき、あるいはそれを振り返って、僕はときどき、自分の選択が、果たして正しいのか、正しかったのか、それとも間違っていないか、間違っていなかったか、あるいはもっとよい選択はないのか、なかったのかと、自問することがある。

後から何をどう思おうと、それは自分も含めた観察者の自由だ。
ただ、それでもそのとき、たしかに最善と思える選択を自分はしていると思うし、あるいはそれは、そう思わないとやりきれないことなのかもしれない。

悪意をもって何かをする人もいるかもしれない。
でも、僕の知る限り、そんな人はごくわずかしかいない。
ほんとうに、本当に、数えるほどしかいない。

人は、たとえ誰かを傷つけることがあったとしても、それはたいてい、それが最善だと(少なくともよい方向に向かうものだと)思って行動した結果のことなのだと、僕は思うようになった。
誰かに傷ついたと感じたときも、きっと、これは最善だとそれぞれが思って行動した結果なのだと。

自分が相手と同じ立場であったとしても、同じようにしただろう、と。

たとえばそれは自分を信じるように。
自分を傷つけた相手を、信じる足掛かりに、すくなくとも今の僕にとっては、なる。
自分を信じれば信じるほど、自分以外の人間を、いともあっさり信じ続けることができる。
それはつまるところ、他人を信じるという行為が、自分という意志や存在から生まれるという、ごくごく当たり前の事象に基づいている。

とても明確な原理なので、僕はその科学的な現象を、ひとつのエンジニアリングの要素として、技術として、大切に取り扱っている。

自分という基礎ができていない人間の上に建つ、信頼関係というビルディングは、すなわち砂上の楼閣として、ふとした拍子に崩れ去ってしまう。
ともすれば人は、その上の建物のことを不良品だと非難するのだけれど、肝心なのは、やはりその基礎なのだと思う。

大事なことは、自分という基礎をしっかり作るということだ。
どんな地震が来ても、津波が来ても、時間が経っても、倒れることなく、流されることなく、朽ちることのない基礎を。

それさえあれば、その上に建つものは、きっと耐えられるし、もし崩れたとしても、基礎さえ永久に朽ちることなく、ゆがむことなくそこにあるならば、きっとすぐにでも同じような建造物を作ることができるだろう。









::「私、あのときあなたが迫ってきてもたぶん拒否できなかったわよ。あのときすごく参ってたから」
「でも僕のは固くて大きいよ」







引用は「ノルウェイの森(下)」(p.185)
(著作:村上 春樹 / 発行:講談社文庫)
によりました。