::『世界中、日本中を飛び回っている、会合や打ち合わせには、必ず遅れてくる、という「忙しそうな奴」があなたの周囲にきっと何人かいるのではないだろうか。さあ、よくよく観察してみよう。絶対に大した奴ではない。これはもうほぼ断言できる。少なくとも僕の周りでは例外はなかった。もう少し具体的な例を挙げると、過去に一度だけ外国に住んだことがある、という程度なのに、何かあるごとに「フランスにいたときにね……」という枕詞をつける奴とか、いない? そんなにフランスが良かったら、帰ってくるなよ、と言いたくなるが、それと同様に、「そんなに忙しかったら、仕事、断れよ?」という非常に単純明快な道理が忘れられがちである。顔をしかめて「もう忙しくて大変」なんて言っている人間は、顔をしかめて大変だと言いたいだけの人物であって、そのために、わざわざくだらない仕事を作っていたりするから巻き込まれないように気をつけよう』





20140809

 午前中、仕事。
 長い間(完全に社長の不備で)軋轢が積み重なっていたお客様にお会いして、きちんとお話しすることがようやくできた。
 酷く凝り固まったものが、ようやくほどけた気分。
 誤解は解け、過去は清算し、一度は縁を断つことでお互いに合意したが、こういうことをきちんと(しかもお互い心からの笑顔で)することがとても貴重で大切なのだと、今の僕にはよく分かる。
 売り上げを失うこととお客様を失うことは、まったく異なることだ。

 気分が良かったので、帰りに、ひとり工房に立寄る。
 自分の最後の作品が、そこに置かれている。


 自分の作ったものが、他の人にどう見えるのか、僕にはよく分からない。
 でも、僕にはそれらが、僕自身と同じように、とても愛おしいものに思える。
 同じものを見ているのに、僕にしか分からないたくさんのことが、そこにはある。

 これは作った人にしか分からない感覚だと思う。
 僕には出来上がったもののその全て、最初から最後までを知っているのだから。

 気に入るものもあれば、気に入らないものもある。
 それでもいずれは、その愛着を断ち切って、次のものを作らなくてはならないだろう。
 そうしなければ、いつまでも同じようなものばかりを作り続けることになる。

>>>

 モノを作りもしない人間が幅を利かせるようになって久しい。
 モノはどこまでもその価値をおとしめ、人はゴミ屑よりはマシなものとばかり、モノを買い叩くようになった。
 一流メーカと呼ばれた企業は、結果的に、モノの価値をコスト最優先にしたがために自らの首を絞め、くずおれて、下流へと流されてゆく。

 真面目にモノを作る人のほとんどは、その技術はもちろん、経験までもを「ゴミ屑よりはマシなもの」とばかり買い叩かれ、結果的に、何を作るわけでもない人間が、それをいいように弄んでいるように思えることがある。

 ごく一握りの技術者はそれに反旗を翻すものの、ニュースのエサとしてこれも浪費されることがほとんどだろう。

 本当にモノを作る者は、いつも静かだ。
 なぜなら、モノは語らない。語って聞かせる必要もない。
 ただそこにあって、あるいはそこになくて、使われる日を、生み出される日を、待っている。
 技術の根幹というのは本来、言語化する必要がない。
 それを誰かに伝えるときにだけ情報化される必要がある。それだけだ。

 世に流布する多くのものは、機械的に大量生産されたものがほとんどだ。
 けれども、必ずどこかに人の手がかかっていて、人の思いが込められている。
 たとえ100円ショップの計量カップであったとしても、僕はそれを前に、人の意思を感じる。

 モノを作りもしない人間たちは、モノを前にしてそこに掲げられた数字しか見ない。
 そこに人間がいて、人間の意志があって、人の思いがあって、望みがあって、理想があって、そうしてそれらが結実したのだというそれを、単なる数字としか見ない。

 人の価値は底なしに下がってゆき、情報が最も価値のある、崇高なものだとされてゆく。
 人はたしかに情報を持つが、情報は人そのものではない。
 にもかかわらず、それを忘れた人間たちが、情報を優先し、やがて人を道具に仕立てようとしている。

 自分たちの手は汚れない。
 仕組みを作って、それを流布して浸透させ、いいように価値そのものをスライドした、それが今の結果だろう。

 兵隊がいなくなっても、替えの道具などいくらでも補填が効く。
 弾薬がなくなっても、そんなものは無尽蔵に補充される。
 手を汚さず、物も作らない人間は、そういう感覚に汚染されてゆく。
 TVゲームのスクリーンに表示された殺戮のごとき清潔さで。

 いつも綺麗な場所にいるから、そんなふうにしか見えない。
 いつも手を汚さないから、汚れていることに気づきもしない。

 僕は、手を汚す人間がとても好きだ。
 手が汚れていて、肌が荒れているような人が、とても好きだ。
 痩せ衰えて、やっとで立っているような人は強いと思う。
 膝が痛いと言いながら、正座してお話しを聞いてくれる人が好きだ。
 歩き疲れて、膝やかかとが傷んでいる人が好きだ。
 料理で失敗して、指を怪我したりする人が好きだ。
 工作で力が余って、指を落としてしまう人を尊敬している。

 どんなに実力のある人でも、技術を持つ人は謙虚だ。
 なぜなら、モノは、人を選んで言うことを聞いたりはしないからだ。
 どんなに高名でも、どんなに経験豊富でも、どんなに財をなしても、モノはその人の前でだけ変質したりはしないからだ。
 人間しか見ていない人間は、ために、人間を見失う。

 僕のアタマの中にはいくつかの生き物がいて、それらは様々に暮らしているけれど。
 僕のカラダは(最初はそうでなかったにせよ、ある時期からは完全に)僕の育てたモノであって、僕が所有して管理する、誰も奪うことのできないモノだ。

 自分のカラダというモノの管理さえ他人に任せて、ぶくぶくと肥えてゆく類の生き物は、仮に汚れていなかったとして、清潔だったとして、少なくとも僕には美しいとは思えない。

 翼の折れた猛禽がいる。
 脚を失った犬がいる。
 片目を失い、泥に汚れた猫がいる。
 指をなくした技術者がいる。
 その堂々としたありようを、僕は美しいと感じる。

>>>

 僕に陶芸を教えてくれたのは社長だけれど、その社長は今は完全に別人だ。
 以前は思うように作らせてくれていたものを「これは良くない」「こうした方がいい」とあれこれ口を出すようになってしまった。

 モノを作るのはいつもストレスがかかる。
 でもそれは、モノ対自分のストレスであって、そこに余計な人間関係がないからこそ心地よく没頭できたのだ。

 これが社長と作った最後の作品だと思うと、僕は悲しくなる。
 あの頃の社長のことを、僕はとても慕っていたのだから。
 それでも僕は、あの頃の社長が戻ってくるのでない限り、彼とは二度と陶芸をしないだろう。

 最後の本焼きをしたあの日、僕は社長と話し合いの末に決別した。
 そればかりか帰宅してからも本当に悲しいことばかり、悔しいことばかりが続いた。
 それは本当にひどい一日で、ひどい日々のピークで、ひどい日々の始まりだった。

 けれども今、焼きあがったモノを見ていると、なぜだろう、不思議と心が休まる。
 モノにはそういう力があると、僕は思う。











『とにかく、本当にすごい人間は、そんなふうには見せないものだ。さっきの不適切な例で説明すると、海外の生活が長く、世界中の方々で活躍し、本当に凄い経験をしている人間は、見かけはいつも、縁側でのんびり、ぼんやり、庭を見つめているのである。絶対に過去の話などしない。「今日はね、紫陽花が咲いていますね」なんてことしか言わない。ほら、どうだ、格好良いではないか』







引用は、
section11「忙しさとは」(p.133-134)
from「工作少年の日々 ~ Under Construction Forever ~」
(著作:森 博嗣 / 発行:集英社)
によりました。