20140810

 おそらく僕のアタマはちょっと、あるいはそれどころか一般的な人だと到底相入れないくらい、非常に、異常なほど、おかしいのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。
 比較的長い期間にわたって、僕はいろいろな人から反省を求められている。
 もちろん、反省をしなさいと言われるだけのことを僕がしたのは事実で、それによっていろいろな人を苦しめているのも事実だ。

 だからこの文書は、反省をしなさいと言う人がおかしいという趣旨ではない。
 僕が反省をする必要があるのかという反抗声明をするわけでもしたいわけでもない。
 また、反省という概念に対する反証を行いたいのでもない。
 反省という概念? とも僕は思うが、たしかに反省にも概念が存在する。そして明らかに、僕と、僕の中(あるいはまぁ、ありていに言って表面)に反省の色を確認できないでいる人たちとの間では「反省」の意味であるとか、概念であるとかが違う可能性も考えなくてはと思ったのだ。

 僕はその、反省の概念が、どうしてこんなに(おそらくだけれど)僕の中で「だけ」ズレているのか、が分からない。だからそれを知りたいと思っている。
 僕には「反省の色が見えない」という概念がうまく理解できなくて、その理解できていないということを理解しようと思ってこれを書いている。

 なぜならば、第三者の人にまで「あなたは反省しているように見えない」と言われるのだ。

 そこから導き出されるのは、僕はまったく反省しているように見えなくて、もしかしたら今の僕の持っている自責の念であるとかは、反省とはまったく異なる座標系で、まったく異なる方向にしか事態を運ばないかもしれないということだ。
 僕は僕で僕なりに、今までにないくらい反省している。
 定量的に示すのはむつかしいけれど、砂漠の果て、誰も知らない場所にある、象の墓場に建てられた墓碑のように反省している、とでも言えば伝わるだろうか。およそ逆効果のような気がしてきたが。

 こんなことを書いている時点で、僕に反省の色が見えないという人たちが呆れ果てて怒り出すであろうことに僕は怯えている。
 そもそもこれは概念とか座標系とか方向性とかいう問題ではないのだ、と、いま耳の中でありありとその叱責の声を僕は聞くことができる。ほとんど悲鳴に近い声で僕は非難される。
 なぜなら、僕がますます反省という行為をしているようには観察できないから。

 多数決原理に基づいて考えると、僕の反省の意味や概念がそもそも間違っている可能性が強くて、僕はそれを修正する必要がある。

 それで僕は基本に立ち返って、反省について考えなくてはならない。
 わかるだろうか(読者が分かる必要はまったくありません)。

 僕の反省は、何を解決する方向にも働きかけておらず、それどころか、事態を悪化させ、再発させ、さらにひどい状況を生み出すものと認識されている可能性があり、実際にそうかもしれないのだ。
 僕が僕に対して行なってきた教育のうち、それが欠如しているがために多くコミュニケーション不全を起こすのだとしたら、僕はそれを学んでおいた方が良いだろうと思っている。

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 反省そのものの定義については以下を参照することにしよう。

http://ja.m.wikipedia.org/wiki/反省 より以下を引用する。

::反省(はんせい、英: reflection)とは、一般的には自分がしてきた行動や発言に関して振り返り、それについて何らかの評価を下すこと[1]、あるいは自分の行動や言動の良くなかった点を意識しそれを改めようと心がけること[2]。あるいは自己の心理状態を振り返り意識されたものにすること。

::自分が正しいと思ったとき人は反省しない。軽い気持ちかもしれないが、 人にはそういう紛争の種が潜んでいはしないか。放っておくと危険だろう。

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 僕の思う反省の概念もだいたい一緒である。今調べていて、ほっと胸をなでおろした。
 もちろん、それでも僕は間違っているかもしれない。
 wikipedia も、辞書も、僕も、その全てが間違えている可能性を、今の僕は否定できない。
 これはふざけているのではなく、僕が真剣に「僕が間違っているかもしれない」ということをつぶさに意識しようとしている結果であって、こうしたことを書くことそのものが滑稽であるあまり「またふざけている」と怒り出す人もいることを僕は十分に承知した上で、それでも慎重に、注意深く、できうる限りの誠実さで、反省について、そしてその反省というものに対する僕の認識の不整合や不具合や不完全さについて僕は考えようとしている。
 なぜなら僕は反省しているからだ。

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 僕はときどき慇懃無礼だと言われたりもするけれど、僕にとってはそれはかなり普通に礼儀を重んじている結果のことが多い。
 もちろん、人にはそれぞれ払われる必要を感じるレベルが違うこともある。
 でもたとえば僕は、相手が年下であっても、僕が買い物をするコンビニの店員さんであっても、払うべき敬意や重んじるべき礼儀があると思ってそうしているのであって、決して誰かに過剰な礼儀や誠実さを示すことでバカにしようなんて意思があるわけではないし、そんなふうに考えたこともない。
 さらに言えば、礼儀正しい自分を誰かに見せたくてそうしているわけでもない。
 たとえば買い物に行った先の学生バイトの人の態度が悪かったとしても、そこで自分が欲しいと思ったものを売ってもらえる事実に感謝する姿勢なり概念なりを自分なりに持っているから「ありがとうございます」と言ってしまうのだ。
 べつに「お前はロクデナシの学生バイトだけれど俺は礼儀を知っているから挨拶の仕方を教え示してやるぜ」なんていう気持ちからしているのではないのだ。

 それと関係があるのかないのか、真面目に、誠実に考え始めると、どうやら僕は人の考える一般的な領域を逸脱してしまっていることがあるらしくて、それでも僕はそれらを真面目に理解したいと思うから、当たり前のこと、当たり前とされていることからきちんと自分の認識を自覚しようとして、それが結果的に滑稽に映ったり、慇懃に思われたりして、かえって不真面目だと思われることがあるらしく、それで困ってしまうことがある。
 僕が真面目にになればなるほど不真面目に見えて、誠実になろうとすればするほどバカにしているように見えるらしいので。

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 誤解を恐れていても仕方がないので正直に書いてゆくが、反省というのは「他人から観察されないといけない」ものなのだろうか。
 他者が観察して初めて「そこに反省がある」と認定され、そうした認定なしには反省などというものは存在しないのだろうか。
 もっと極端に書くと「反省は人に見せるためのものなのか」ということだ。

 もうこれだけで最低でも8人くらいの人が怒り出していると感じているが、僕はふざけたり、バカにしたり、怒らせるために、それを目的としてこんなことを考えているのではない。
 見せるためだとしたら、それは何故なんだろう。
 あるいは「他者から見える」ものが反省なのだとして、それはどのような条件で見えたり、見えなかったりして、どのような条件で反省が「あること」になったり「ないこと」になったりするのだろう。

 もはや、石を投げられ国から追放される流浪の民みたいな気持ちになってきたのだけれど、それでも正直に書き続けると、僕はそれがよく分からないのだ。

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 僕にとって反省というのは、過去の事象に対して客観的に評価(だいたいいい評価でもなければ、賞賛されるべき事象でもない)をして分析し、再発防止のための策や手法を構築し、それを強固なものとして洗練させ、最終的に行動様式を変えることだと認識している。

・過去の評価
・分析
・再発防止策の作成
・防止策の洗練
・行動

 このいずれか、あるいは全てを、他人に分かりやすくディスプレイする行為が反省だろうか。
 僕のこの疑問ははふざけているのではなく、開き直っているのでもなく、ただ真面目に考えている。
 僕にとっての反省とは、ディスプレイとはかなり性質の異なる行為だ。

 他者の反省を見るということ、反省が見えるということは何だろう。いったいどういう状態を示しているのだろう。
 あるいは僕(反省する者)がディスプレイする行為ではなく、(他者によって)観察できることが、反省の有無や深さに関係するのだろうか。
 それは色なのか音なのか態度なのか行動なのか。

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 たとえば「そういうとき人は土下座して謝るものだ」と言われれば、僕はそうするだろう。それは行動様式の提示ではなく、行動の要請だから僕が考えるまでもなく簡単に実現できる。
 あるいはもしかしたら、僕がコンビニの店員さんに頭を下げるような、礼儀として一般に備わっているべき反応がそこでは決まっているのかもしれない。
 眠るときに「おはよう」なんて言わないくらいの当たり前のことを、僕は今まで知らず、身に付けていなかったことになる。

 そうだとすると、僕に足りないのは反省ではなく謝意の表示だ。
 今のところ「反省」とセットではそうした行動様式を持っていなかった僕にとって、これはどうしても技巧になってしまう。
 小手先の技術であり、テクニックであり、行動であり、ディスプレイだ。
 もちろんもちろん、技術や技術的行動やディスプレイが悪いとか、劣っているとか、無意味だと言っているのではない。
 もし仮にそうだとすると「反省しなさい」という日本語にはきっと「理解できるように謝罪の表示をしなさい」という意味が含まれているのだろう、暗黙のうちにであれ、明示されているのであれ。
 そうなると、たしかに僕の「反省の概念」は間違っていることになる。

 たとえば僕が「反省してください」と言う場合、相手がむすっとしていようと、ヘラヘラしていようと、まったく気にしない。
 逆に、そのときは申し訳なさそうに何度も謝るけれど、結局同じミスを繰り返す人を僕は3人ほど知っているし、その人たちのことをあまり信頼していない。
 ミスがあるのは問題だけれど、再発を防いでいないのはもっと問題で、不誠実だと感じる。
 僕はそちらの方がよほど反省していないと感じるし、反省と謝罪はまったく異なるものだと思っている。

 大事なことは再発しないこと、させないことだし、相手も相応に大人であるケースしかないため、よほど重篤な失敗でない限りは防止策の提示もさせない。そんなものを確認している暇もこちらにはない。

 僕が人に言うのはむしろ「反省は3秒で終わりにしてください」だ。
 いつまでもクヨクヨヘナヘナされていると、こちらも困る。

 ところが、反省というのは一人称的に完結し、未来を改善する行為ではなく、それを含めても含めなくても(つまり再発防止は二の次として)とりあえず謝意を表明することなのかもしれない。

 なんだかますます自分がアタマオカシイ人のような気がしてきた。

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 僕の行動様式としては、自責の念に駆られているところをあまり過剰にディスプレイするものではないと思っている。
 落ち込んでいたり、のたうちまわっていたり、泣いていたり、塞いでいたりというのは、見せられるほうもなかなか対応に困るものだと思う。
 これもディスプレイだと思われるのはあまり嬉しいことではないのであまり書きたくないが、僕は人に表現する以前に自分の感情を抑えてフィルタしている。
(きっと誰でもそうだと思うが)
 なんでもかんでも表現すればいい、というふうには思っていない。
(きっと誰でもそうだと思うが)
 だからといって「これはいい感情だから表現しよう」「これは悪い感情だから露出を控えよう」なんて差別をするつもりもない。
 単純に、そんなにディスプレイしないのだ。そういう行動様式で生きてきたから、なんでもかんでも100%ディスプレイしなさい、と言われたら、今度はディスプレイだけが目的になってしまう。
 そんなことをしたら、僕の反省(あるいは内省と表記を改めれば良いのか。しかしそれは言葉だけの問題だろうか)は何処かに消えてしまう。
 消えなくても、自分の中で占める割合は少なからず減ってしまうだろう。
 誰かに認められよう、気に入るように取り繕ってその場をしのごう、とすることで、かえって反省から遠ざかることが懸念される。
 僕なら平気でそれをしそうだ。

 僕の思う範囲においては、これ見よがしだと、それこそ見せるために自分を責めているようだと感じる。
「こんなに自分を責めているんです」というのをディスプレイして、それで反省していると思われたり、同情を誘ったりするようでは、やがてディスプレイが目的になってしまうかもしれない。
 コンビニの店員さんにお礼を言うのは、あいさつで、ディスプレイだから、ディスプレイが目的ということでそもそも間違っていないと思う。
(相手に対してでも、第三者に対してでも、自分に対してでもなく、自分の中心の部分に対してのディスプレイ、である)

 反省について「見えない」「見せなさい」というのは、つまるところ「挨拶をしていない」「挨拶をしなさい」という意味かもしれない。それならなんとなく理解できる。
 だとすれば、僕の行動様式と反省という言葉に対する認識が一般常識からズレていた、と理解できる。
 辞書や Wikipedia が絶対で、それが正しいなんて、僕は思わないし主張もしない。したくもない。
 僕には僕の考えがあって行動様式があって概念があって認識があるわけだけれど、それが絶対だとは思っていないし、そもそもいつだって僕は自分で考えて到達した答えしか信じないから、いつだって間違っているかもしれないのだ。

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 それにしても僕が深い自責の念に駆られてときどきのたうちまわったり色々している事実を(なんて書くともうそれだけでこれ見よがしな気がして自分のことが厭になるけれど)相手に対して反省していると分かるようにするにはどうすればいいのだろう。
 極論を言ってしまうと、どうディスプレイすると伝わるのだろう。
 こうなるともはや技巧だ、いけないいけない、と思いつつ。



 最後に、この文章を読んでお怒りになってしまったすべての人に、この場を借りてお詫び申し上げます。ホントに! ふざけてるんじゃなくてホントに!