自転車で10分ほど離れたところに、それはある。
 国道から幹線道路に入り、さらに生活道路へ曲がった先にあるそれは、すこし変わった外観をしている、民家だ。

 外壁に沿うようにして、パイプが組まれている。
 まるで建設途中か改築を始めようとして足場をこしらえたような、無骨な金属パイプの集合は、しかし、足場のように整然と組まれているようには見えない。
 むしろ乱雑で、急ごしらえな印象を与える。それと同時に、そのパイプが、地面から組まれているわけでもないことにも気がつく。
 そう。それは足場ではない。足場などではない。

 パイプの上端には、3枚羽根のプロペラが回っている。
 ひとつではなく4つ、いや6つある。
 風を受けて回っている。屋根にはソーラーパネルが設置されてもいる。

 それらは局所発電装置だ。

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 僕は原発のことをあまりよく知らない。
 多少は調べたが、放射線の人体に対する影響についても、あまり具体的なイメージを持つことができない。

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 ここでいうイメージとは「放射線が怖い」「放射線はよくない」というような、感情的なイメージのことではない。
 放射線に対して感情を持っても大した意味や影響はないと僕は考えている。
 放射線を恐れていようが、放射性物質を好ましく思っていようが、放射線とその科学的な作用に変化はない。
 たとえば放射線の持つ電離作用によって細胞の活動能力が低下したり、あるいは遺伝子損傷を起こすのは一般にも知られていることだと思っているけれど、それは被曝者の感情によって軽減されたり増幅されることはない。
 細胞の活性という意味では、感情が人体に影響を与えるのは間違いないが、原理も原因も別のものだろう。

 もし仮に、放射線のことを考えていて(つまりそれが原因で)精神的疲労が蓄積し、細胞の活性が極端に低下したというのなら「そんなこと考えるのやめなよ」でおしまいである。
 原因はたしかに放射線かもしれないけれど、同じ放射線量ですべての人とその精神が等しく変容するのでなければ、それは「その個体にとっては」放射線が原因かもしれないけれど、科学的な因果関係はない。

 僕のいっているイメージというのは、具体的にどのくらいの放射線をどのくらいの可視的な情報(たとえば空中に放射される細い糸のような線)として認識するべきで、それによって僕の身体の細胞にどの程度のダメージがどの程度の期間で発生するのかを厳密にイメージできない、ということだ。

 こういうことを書いていると、もしかしたら僕を「原発擁護派だ」と非難する人もいるかもしれない。あるいは身近に反原発思想の人がいれば「その人のことを馬鹿にしているのか」と怒り出す人もいるかもしれない。
 僕が言っていることは(そしてこれから言おうとしていることは)、決してそうではない。いつものとおり、白だ黒だというのではない、という話をしようとしているので、誤解のないように。

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 原発については、僕はほとんど何も知らない。
 また放射線についてもうまくイメージできないため、危険閾値を把握し、公示されているデータを信頼して対処する(あるいは何もしないと判断する)より他に、今のところは手を打っていない。
(まさかガイガーカウンターを持ち歩くわけにも、家の外壁を鉛にするわけにもいかないだろう)

 ただ僕は、その家のことを、その家で局所発電装置を(おそらくは自作して)設置したのであろう人のことを、その思想や発想を、とても素敵なものだと感じている。

 思想や思考や発想に美しさもなにもない、という人もいるけれど、僕はそうは思わない。いや、そう思おうとしてはみるのだけれど、どうしても、ありようとして、反原発運動でデモをするよりも、美しいありようだと感じてしまうのだ。
(繰り返すけれど、反原発運動が無価値だとか、そういう話ではない)

 地域的にこの辺りは放射線量も一般的な範囲で、ああいうシステムを自作できるくらいだから、設計者は相応の技術力や財力や時間もあり、相応の年齢の大人であろうと僕は思う。

 自分の老い先が短いから、放射線のことなど知ったことではない。
 自分の両手の範囲がまずまず幸せなら他はどうでもいいし、電気も供給されたものを買って使えるのだからそれでいい。
 自分が何かしたって、そんなことは微々たるもので、大勢に影響を与えるものではない。結局無駄だから、何をしてもするだけ損だ。

 そういう考え方は、現実的で、具体的で、美しいだろうか。
 そういう考え方から、ああいう(家の外観をちょっと損ねるような)装置を設置することができるだろうか。

 僕には、どうしてもそうは思えない。
 仮に子供や孫がいるにしても、直接影響の少ない比較的安全なこのエリアで、わざわざ(路地裏の目立たない自宅なのだからおそらくはプロパガンダのためでもなく)ああした装置を実際に設置することのできる人を、僕は深く強く尊敬する。

 それでこそ技術の力を具現するに足る人だと。

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 たとえば身近に困ったことがある。
 あるいは自分以外の誰かが、困っている、困りそうだと予測できる。
 それに対して僕たちは、いや僕は、いったい何をすることができて、実際には何をするだろう。

 ニュースで他人の不幸を見て涙を流す人は確かに優しいと思う。
 大きな勢力に対して怒りを感じ、運動を展開することも時には必要なことだと思う。

 技術者の多くは「何を考えているか分からない」と言われることが多い。
 泣もしないし怒りもしない。その様子だけで「人を馬鹿にしているのかと」怒り出す人もいる。
 自分と同じように感じなければそれですぐに、相容れない、理解できないと判断され、人間ではない、と言われることさえある。

 では、涙を流すことで解決する事態があるのか。
 怒ることで単純に解決する問題があるのか。
 もしそうなら、それが最適な選択だろう。
 けれどもそうではないことの方がほとんどではないだろうか。
 現状をできるだけ正確に認識し、最適な手段を考えて、最適な対処を選択することができるのが技術者だと、僕は思う。

 悲しんでいる余裕もなく、怒ることもしない。
 そのありようは確かに非人間的に見えるかもしれない。

 それでも、事態を最善に導こう、問題を何とか解決しよう、と考えなくてはいけないし、そうした姿勢は評価に値するとさえ思える。

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 感情というのは極めて身近で、かつ個人的なものだ。
 それ自体は、決して間違ってもいないし、悪いことでもない。

 ただ、広く全体を見渡す中で、どんなありようが望ましいと思うか、どんな未来が訪れれば幸せか、そういったことを時折にでも考えた方が、人は気持ちが豊かになれるものだと僕は信じている。
 自分だけではない、見たこともない、名前も知らない、そういうたくさんの人が生きているという事実を肌に感じるようにイメージして。その中で、自分に果たせる役割が、たとえどんなに小さなことであっても、何かしらあるはずである。

 泣く者は無力な偽善者だ。
 怒れる者は視野の狭い臆病者だ。
 僕はそれらの感情に自分が振り回されるとき、自分のことをそう思う。

 感情を超えて、人は意志を持つことができると僕は思う。
 自分という枠を超えて、人は未来を信じられると僕は思う。

 抽象的な綺麗ごとだと笑う人が、きっといるだろう。
 具体的なことなど、どこにもないと、嘲る人がいるだろう。

 ならば。
 ならば人は。
 どんな意志を持てばいいのだろう。
 どんな未来を設計すればいいのだろう。

 それとも益体もない意志など捨ててしまえばよいのか。
 確かなものなど何もない未来など、放っておけばよいのか。

 僕には、どうしても、どうしても、そうは思えない。
 捨てようとすればするほど、諦めようとすればするほど、忘れようとすればするほど、突き刺すようにそこに自分がいるのだという痛みが貫く。
 それは現在、一般に言われる「自分 ~ my self ~」ではなく、旧来の日本にあった、もっと根源的な「己 ~ your self or my self ~」の感覚であり「己 ~ your self and my self ~」である。

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 局所発電というのは、結局のところ、自分の家の電力を補助する役割しか果たさないかもしれない。
 局所的に、短絡的に、目の前に見えているだけのことを考えればその通りだ。
 自分たちが、ほんのちょっとだけ、いいことをしているような気分になって終わり、なのかもしれない。

 僕は、風力発電がクリーンだとか、太陽光発電がもっとも安全で確実だとか、そんな風にも思っていない。
 時間が経たないことには分からないことだってある。
 それでも、目の前のことだけ考えることによって起こる失敗があり、それは全体を見渡すことで回避できることもあるのだと感じる。

 今、ここ、にしか自分は存在しない。それを忘れてはいけない。
 けれど、未来のどこかにも自分は存在して、それから自分以外の多くの人も存在しているということも、同時に忘れないでいたい。