::それが僕の躰に残ったどんな傷よりも誇らしげに永遠の痛みを訴えるのだ。






20140827

 どうしても解せないことがひとつあって。
 僕にとってはどんな高級車よりもエライ乗り物があって。
 それが、一部の人には言わずと知れた飛行機なのですしかも旅客機よりも軍用戦闘機の方がエラくて戦闘機よりもセスナのような小型プロペラ機の方がエライ。
 理屈は簡単で、より自由であることがエライことの基準なのです。

 確かに自動車は偉いと思う。
 高級車は大衆車より凄いと思う。
 凄いというのは技術や無駄なアートが。
 僕は技術者でもあるし、サービス業従事者でもあるので、決して馬鹿にする意味で使っているのではない。僕が凄いといったら、それはなんというか、凄いのだ。

 高級車というのはただ豪華に飾られた車両のことをいうのだろうか。そんなことはないだろう。
(そんなことを言っていたらデコトラだって立派な高級車になってしまうが、あれはアーティスティックな「だけ」の作業車だ)
 けれども、高級車が大衆車に比べて圧倒的に自由かというとそんなことはない。
 高級車だって赤信号で止まらなくてはならない(緊急車両は、しかしもっと不自由だ)。
 携帯電話で話しながら運転してよいわけでもない。
 武装が許可されているわけでもない。
 上昇できるわけでも、下降できるわけでもない。移動座標軸がふたつしかない。
 凄いけれども、偉いわけではない、というのはそういうこと。

 旅客機は空を飛べるけれども、貨物作業機だからルールがうるさくて不自由だ。
 戦闘機は運動性能どころか攻撃性さえ備えているけれども、もっと不自由だ。
 するとどうだろう。セスナやグライダが、圧倒的な自由さを持っていると思えてこないだろうか(思えない人は別にかまいません)。

 さらにいえば、ヘリの方が自由度は高い(理由は説明しません)。

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 人と話をしていると一般的に、どうしても物事の、話の、構想の、想像の、ビジョンの、ビッグピクチャの、サイズが、スケールが小さいように感じられる。
 メディアが枠組みしてしまうから余計にそうなるのだろうか。
 TVプログラムはすっかり画一的だし、政治はなんというかそれに携わるすべての人(あれこれ批判する人までも)が「政治(笑)」みたいな雰囲気になっているとさえ感じる。

 僕の住んでいる地域は都会ではないため、交通機関といったらやはり自動車が主流ではある。
 でも、不便なりに電車もあればバスもある。自転車だって、自動車よりは自由な場面がある。
 ところが、この地域(だいたい僕を中心に半径35km)(その先は、首都圏に入ってしまう)の人は、そもそもそんな発想を持たない。
 自動車が主流、ではなくて自動車しかない、と思っている免許所持者ばかりだと言ってよい。
 誰が言い出したのか知らないが、すっかりそういうことになっている。
 私の死んだ親もそうだったし、地震を経てなお、ほとんどの人間がもとの意識に戻っている。口を開いたと思えば「ガソリンが高い」である。
 枯渇するのが分かっている資源なのだ。嫌なら使うな、と叱るような人もどうやらいないらしい。

 電気も同様だ。
 どういう理屈か知らないが、ソーラーパネルがあちこちに林立している。
 あれがエコなのか。
 僕には疑わしい。
 なんらかの経済的な目論見がマッチした結果と聞いている(気になる人は調べましょう)が、あんな、いつ壊れるか分からないもののために、基礎や囲いやセキュリティまで設置して、いったい何をしているのかと思う。
 どれだけ資源を使って、どれだけのエナジが回収できる見込みで、どのような維持/撤去をする見通しなのか。今現在の数字しか見ていない人間は、そこまでは全く考えていない様子だ。
「自分が死ぬまで動いていればいいし、税金対策になればそれでいいし」というような。

 それで電気を含めた資源を使いながら「原発は絶対ダメだ」なんていう。
(まぁ、反対している人のほとんどは今でも節電していると思うけれど)
 計画停電をしていた頃の静かなありようが僕は気に入っていたのだけれど、人は喉元を過ぎると忘れるらしい。僕も良く忘れるから注意しよう。

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 いままで思っていたのだ。
 僕の思っていることが、こんなにズレているのは、多くからズレているのは、僕が多数派に位置していないのは、僕が間違っているからなのではないか、と。

 もちろん間違っていることもある。それは重々承知していて、僕は近頃ますます失言を恐れる政治家のように慎重である(日本語が変)。
 しかし一方、多くの人は結局、周囲の人の意見や自分の中の慣習に流されてしまって、自分で考えてなどいないのだ、という結論に、ようやく到達した。

 何か指摘したところで「だって」なのである。
 だって飛行機なんて乗れないよ。
 それはもちろん、セスナで常に移動しようよなんて無茶は言わないし言えない。
 航空燃料は重油だと思ったが、きっと等比で値上がりしていることだろう。

 ただ、外部の燃料に委託して、他人に決められたルールに従って、誰かの整備した道路を走るような思考ばかりが、やはり「普通」なのだ。
 その「普通」の中でしか考えないなら、まぁ結果がわかりやすいというかなんというか(お茶を濁しました)。

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 先日、人と話をしていて(僕の説明が悪かったのだけれど)僕の考えている(まだやっているのか! と怒られそうだけれど)住宅水冷構想が「ああ、水冷クーラね」ということで片付けられてしまった。

 輻射熱や建材の蓄熱について、まぁ、講義する時間でも状況でも立場でもなかったので諦めたが、つまるところ、人は、自分の知っているものからさらに外側にあるものを知ることが、あるいは知ろうとすることが、なかなかむつかしいし、それは知識を積み重ねるごとにむつかしくなるのだろう。
 今では子供だって、インターネットで答えを探す。
 その答えが匿名の人の答えだったりして、根拠も不明で、それでも単なる「ベストアンサー」だからという理由で、歓迎されたり、ひどい場合は迎合されることもあるのだろう。

 内側の答えも、外側の答えもあり、そしてそれは必要で、なんだか脱構築しているような気分になってきたけれど、知性を磨くというのは、答えを知ることでも導くことでもなくて、その過程すべての経路を構成する環境を整備することなんだよね(もうこの口調でいいや)。

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 空気や水の熱伝導率は、金属のそれに比べてはるかに低い。
 もし空気が鉄と同レベルの熱伝導率を持っていた場合、料理をすると高確率で火災が発生し、キャンプファイアは集団自殺になる(意味が分からない?)。

 住宅建材のうち、非金属建材は熱伝導そのものは悪いものの輻射熱は発生し、しかもその多くは直接水を掛けることができない。
 金属建材は熱伝導が良く、水にも強いため、他の建材の熱をそこ(金属建材)で水を利用して吸熱することによって、建物自体(中の空気ではない)を冷却する(正確には輻射熱を減少させる)ことができて、これがどうして実はなかなか大きなエナジの削減かも知れないと僕は思っているのだけれど、ほらキミ、聞いてないでしょう?

 というまさに文字通りの水掛け論が展開されるのであった。

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 僕にとっては、エライことはさほど重要ではなくて、自由であることが何よりエライことなのであった(いきなり過去形)。
 自分自身からさえも自由であるということは、ときに死のように不自由だ。
 けれどその、自分自身さえいつも置いてけぼりにするかのような加速感や上昇感を、あるいは感情的にいうならば高揚感を、僕は渇望している。
 きっと、死ぬまでそうだろうし、そうでありたいと望んでいる。

 見下ろす道路はいつも渋滞だ。

 僕はどこに行こうとしているのだろう。
 何をしようとしているのだろう。

 少なくとも、そう。行列に並ぶことではない。

 少なくとも僕には、それは当たり前のことだ。










::夢の中で、僕はただ戦った。誰のためでもなく、何も望まずに、純粋な気持ちで相手に向かっていった。僕は誰にも負けなかった。誰も僕を墜とすことはできなかった。
 僕は特別な子供で、普通とは多少違った神経を持ってたから、その分普通とは違う感情を持っていたし、普通とは違う動きもできた。僕は、自分を取り囲む存在から外へ抜け出そうとして、それはつまり、その中へ閉じ籠もることに等しかったのだけれど、ずっと考え続けてきたし、抵抗もした。
 たぶんきっと、こんな表現ではわからないだろう。
 誰にもわかってもらえないのに違いない。
 わかってもらう必要などないのだ。
 ただ、一つ確かなことは、彼女が、僕と同じだった、ということ。それがわかった。誰のためでもなく戦うことができる純粋さを、彼女も持っていたからだ。
 それなのに、
 周りのみんなは理由を沢山用意する。この世は、うんざりするほど理由でいっぱいだ。ゴミのように理由で溢れている。人はみんな理由で濁った水を飲むから、だんだん気持ちまで理由で不透明になる。躰の中に、どんどん理由が沈殿する。
 だから、
 最後には、自分もゴミになりたくなってしまう。
 追い込まれてしまうのだ。












引用は、
「スカイ・クロラ ~ The Sky Crawlers ~」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)によりました。

冒頭引用
「プロローグ ~ prologue ~」(p.9)
文末引用
「エピローグ ~ depilogue ~」(p.301-302)