::役に立たなくても魅力的なもの。そういったモノや行為は日々の生活の中に多々存在している。そして、その魅力が大きいほど、それは「毒」を含んでいる。また、役に立たないコトを真剣に考えたり、思考で捏ねくり回すとユーモアが生まれる。



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20141107

 晴れ。風が強い。冬かも。

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 以前書いたかもしれない。
 思索というのは散策に似ていると僕は思っている。

 ただ考えること。目の前にあることを考えること。自分や自分の損得が含まれることを考えること。
 これらは誰でも簡単にできる。最初の頃はそういう方向にばかり考えが行くだろう。動物や乳幼児を見ているとそう思える。
 大人になるにしたがって、そればかりになってしまい、自分の思考のルートがすっかり決まっている人も多い。

 お年寄りになるとこれらは非常に顕著で、自分以外の、たとえば他人のこと、他国のこと、世界全体のこと、自分がいなくなった時代も含めた未来のこと、敵対者のこと、などを考えられる人も多くいる一方、自分のこと、目の前のことだけで我利我利になっている人もいる。

 好みの問題であるから、いずれが良い、悪い、という話ではない。
(これは僕の文書の常套句になっているが、文字通りの意味である。良いということ、悪いということの本質的な意味を、たまには考えるべきだと僕は思うので、僕はそうしている)

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 自分の利を最優先に考える、というのは、まぁ、動物としてはとても自然であたりまえの状態だとは思う。
 利を求め、損失を嫌い、他者のことなど生死を問わずお構いなし。
 生かして搾取し、殺して奪取する。
 人間相手でないならば、僕らは日常でそれをしている。あまりにそれに慣れすぎてしまえば、もはやなんとも思わなくなる。その無神経が高じれば、やがて人間相手にそれを行うようになる。
 体裁を取り繕うなんてどうにでもなる。そんな刷り込みが暗黙のうちにされてはいないだろうか。

 もちろん僕もそうだ。
 スーパーで鶏肉を買うのに、ここに居もしない生きたニワトリやらヒヨコやらの未来をいちいち憂いているわけにもゆかない。
 それに、目の前のそれはすでに殺された死体だ。
 もちろん、買わないことで長期的には死ぬ個体を減らすことができるが、それはすなわち生まれる個体を減らすことである。

 豆腐(私はかなりの豆腐好きである)はどうか。
 人間の都合で交配され、改良され、栽培されて誕生し、刈り取られて死を迎え、加工され、捕食される。
 植物にも生きる権利くらいはあるが、生きました、はいサヨナラ、というのもそれはそれで哀れではある。
 そもそもその捕食はいったいどこから始まっているのか。生まれる前からではないのか。

 いやなに、何かを責めようというものではない。懺悔なさい、という趣旨でもないし宗旨でもない。
 僕は釣りもすればベーコンも作る。鉄砲撃ちの知人から聞く、鹿や熊を狩る話で盛り上がり、バジルを栽培したりもする。

 愛玩用の動物が大量に山に捨てられていたニュースがあったが、愛玩用の動物と、食用の動物の違いというのは、いったいなんだろう。
 これも、答えが欲しいわけではない。答えは人それぞれにあるだろう。良いも悪いもない。それを決めるのは、いつも人間。つまり私やあなただ。
 それぞれに良いことと悪いことが違う。それが本来のありようだろう。

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 答えを出すというのは非常に簡単な(あるいは合理的な)処理の仕方だ。
「これは良い」「これは悪い」と答えを公式に当てはめて算出し、それでおしまい。
 公式を(ひどい場合は答えを)単純に暗記する。それですべて分かったつもりになる。
 同じ事象(まったく同じ事象なんて、ほんとうはどこにもない)が、発生すれば分かったつもりで答えを出しておしまい。こうなるともはや考える必要もない。
 それがとても一般的で常識的な対応である。時間の短縮という目的からすれば非常に合理的だ。
(これも、とくに良いわけでも悪いわけでもない。単純にそういった原理やしくみがあって、それに則って動いている現象が一般に観察される、というだけのことだ)

 僕の場合、基本的に自分が納得する答えを求めてあれこれ考える場合もあるけれど、そもそも答えがないことを知っていて考えることも多い。答えがほしいのではないし、善悪の判断をしたいわけでもない。ただ、正しさを考えたいだけだから、僕にとってはこれでよいと思っている。
 実際のところ、答えの出ない問題はとても多いし、提示された答えに安易に飛びつく人は一般に、それが単に自分(やその考え)にとって都合が良い答えだから飛びついている場合がほとんどに思える。
 つまり正しいかどうかなんてことはどうでもよくて、自分が得をする(気分の良くなる)答えを良しとし、損をする(気分の悪くなる)答えを悪とする、それだけのことのように観察される。
(領土問題などは格好の例かもしれない。ところでそもそも領土って何?)

 ひとつの問題は複数の細かい問題の集積によって成り立っている。
 それらを分解したほうがよいこともある。個別に修正することで改善されるものもある。逆に、全体で大きく変えたほうが良いものもあるし、そもそも目の前の問題が、より大きな問題があるために発生していて、にもかかわらずその大きな問題を見過ごしていることもある。
 これは具体的な目の前の事象にとらわれ過ぎたために起こることだけれど、まぁ、大きな問題は見つかってもなかなか簡単に修正できないことが多いから、これには目をつむって放っておいて、目の前の問題の解決だけに取り組めばよいのかもしれない。
 なんだか政治の話しをしているみたいな気持ちになってきた。

 いずれにしても僕にとって、良くても悪くても正しいことがあり、良くても悪くても考えが間違っているあいだはNGなのだ。
(たぶん、たいていの人には意味がわからないと思うけれど、それはそれでいいと思う。そもそも言葉はあいまいなものだ)

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 こうした僕の傾向は、日常生活で支障をきたすことがある。
 古くは「優柔不断である」という評価に始まり、最近では「抽象的」「自分のことなのに他人事みたい」などという評価を受けることがあった。
 そうした評価についてさえ、僕は抽象的かつ客観的に「まぁ、そういう評価もあるだろうね」くらいにしか考えない。

 僕に対する評価が変わることで株価が変動するわけでもない。オゾン層がなくなるわけでもない。宇宙の運行もたいした影響はないだろう(冗句です)。身近な範囲で人間関係に変動があるかもしれないけれど、まぁ、それさえも僕の日常にドラスティックな変化はもたらさないと思う。

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 いずれにしても、僕が思索するときにつとめているのは「普段考えないこと」を「普段考えない方向」から「より普段考えない方向」へ考えるということだ。
 つまり「関係ないこと」を考えるのがもっとも楽しい。関係あることを考える場合でも、関係ない方向に進んでゆくのがよい。

 まったく関係ないことを考えるのは慣れないとむつかしいから、身近な問題から、一般的な問題へと視点をシフトする。
 先の「小さな問題と大きな問題の組織的構造と表出事象およびその対策」のことは非常に抽象的だけれど、これは最初の「食べるもの問題」を捨象(抽象化/一般化)した考え方だということができる。

 そんなことをして何になる、といわれてしまうかもしれない。
 では一体、それ以外の、たとえば目先のことにとらわれて何かを解決するだけで、ほんとうにすべての問題は解決しているのか、という風にも僕は思う(もちろん、その意味は分かっているし喧嘩をしたいわけではないので思うのみにとどめて誰にも言わないが)。
 しかし先ほどの「小さな~」の抽象的な思考があれば、問題が表出しているとき、そこに派生している物事や現時点で不明な原因を考えることができるし、問題の根底を解決する一助にはなるだろう。

 あるいは人間の生きる意味、というようなどうでもいい(かつ曖昧な)疑問についても、ある程度の帰着点を探ることができるだろう。
 生きる意味なんて、たしかに日常生活ではどうでもいい、知っていたところで、あるいは考えたところで何の役にも立たないものだけれど、自殺を考える人はたいてい「生きる意味が分からなくなった」と思い、感じるから死んでしまうのではないだろうか。
 つまり普段から、なんとなくでも「自分の生きる意味」を考えることで、自分の自殺を防ぐことができる。
 多くの人が、何の役にも立たない「自分の生きる意味」を考え、答えが出ないなりに自分の中である程度の道筋や帰着点を持っていれば、たとえば自分の価値をやたらと外部に求めたり、あるいは自分の価値を承認するためにしている虚飾をやめることにもなるだろう。具体的なところでいじめなどの問題を解決する糸口になるかもしれない。自分の意味を知れば、他人に意味があることを知るからだ。自分の意味を考えるとき、たぶん人は、他人の意味を考えることができる。

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 誰もが考えたことがあるのに、答えがない。答えがないから誰も声高に言わない。益体もない「生きる意味」なんてことを考えるくらいなら、勉強をしてよい成績をとり、会社で仕事をしてお金を稼ぐことのほうが大切だと周囲からは言われる。そういう世知辛い世の中だ。何が世知辛いかというと、意味のあることにしか意味がないと思っているのが世知辛い。豊かさのかけらもない。共通価値のあるものにしか価値が見出せなくなったら、価値の意味がなくなってしまう。

 そして、そんな具体的なもの、数値化されたものだけを追い回すのが生きる意味なのか。そのために生きているのか。
 自分に意味はあるのか。他人に意味はあるのか。それはどんな意味か。意味はあるのかないのか。意味の意味とはなにか(ここまでくると悪ノリ)。

 答えはないから、各自で考えるしかない。
 あるいは誰か(多くは自分)が、そういう方向に仕向けているのかもしれない。

 日常の、具体的で細かいことをできるだけ確実に、ていねいに処理しながら、時折でもいい、そういった抽象的で、何の役にも立たないことを考えることを、僕はやめられないだろう。

 抽象的な思考など、たしかに何の役にも立たない。
 ええ、ええ。そのとおり。




 というようなことを、いつになく、考えてみた。これも普段はあまり考えないことだからだ。
 こんなことを考えるのは、料理の最中とか、お風呂の中とか、散歩のときとか、サイクリングの最中とか、パイプを喫むときくらいかもしれない。
 けれど、まぁ、こういうのは楽しい。
 何が楽しいといって、役に立たないのがいい。

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 引用は、
「毒とユーモア」From「Pierre smokes every day 2」
http://pierre.ldblog.jp/archives/8020342.html

 によりました。