20141112

 曇天。寒い。

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 先日の日記( http://blogs.yahoo.co.jp/bluecat_engineering/39068349.html )にあるとおり、僕は自分が煙草嫌いなのだと思っていた。
 なにせ「煙草好き」を自称する人たちは、一日にシガレットのひと箱くらいは軽く吸ってしまう。
 多い人は3箱やら5箱やら(ショートホープではないと思うので、ひと箱20本換算で60~100本)を吸う。一日で、だ。
(※知らない人のために記載しておくと、ショートホープシリーズはひと箱10本。1パッケージ20本入りでない銘柄はそれほど多くはないが、ほかにも存在する)

 それだけ吸ってなお「煙草はやめられない」というのだから、本当に好きなのだと思った。

 僕にはそれは無理だ。
 一日にがんばって(がんばって?)もひと箱がやっと。
 チェーンスモーキングも3本になるとたいてい美味しく感じられなくて途中で消してしまう。
 一日トータルで8本を越えると、たいてい美味しく感じられなくなってしまう。
 寝起き後1時間は煙草を吸っても美味しくないし、就寝前1時間に煙草を吸うと翌朝の体調がすぐれないから吸わない。
 風邪を引いたら吸わない。
 健康でも一日吸わずにいて問題はない。1年くらいの禁煙は苦もなくできるし、再開も「なんとなく美味しく吸えそうだと思ったから」始めるだけだ。
 煙草に依存などしていないし、中毒でもない。吸わずに、まったく問題がない。
 ただ、美味しい(と予感できる)ときは吸いたい。

 運転中の煙草が美味しいケースは40%の確率。
 運転中の煙草が非常に美味しいケースは5%の確率。

 仕事中(休憩中)の煙草が美味しいケースは10%
 イライラしているときの煙草が美味しいケースは20%
 趣味の時間中の煙草が美味しいケースは30%
 料理中の煙草が美味しいケースは40%
 食後の煙草が美味しいケースは30%
 掃除の後の煙草が美味しいケースは60%
 お酒の席での煙草が美味しいケースは5%
 運動後の煙草が美味しいケースは60%
 体調が悪いときに煙草が美味しいケースは0%
 風邪を引いているときに煙草が美味しいケースは0%
 セックスのあとに煙草が美味しいケースは5%(めったにそんなことしないが)

 チェーンスモーキングの2本目が(どうしても吸いたくて)1本目と同じくらいに美味しいケースは50%
 3本目が(どうしても吸いたくて)2本目と同程度に美味しいケースは5%
 30分時間をおいて2本目を吸う場合に美味しいケースは40%

(以下はいずれもシガレットに合う飲み物がある場合のおおよその数値。飲み物や環境、同席している人や話題によっても大きく変わる)

 この通り。
 多くの場合、僕は煙草を吸うたびに「一番美味しいときの煙草と比べて、美味しくないな」と感じていたわけだ。
 比較対象が悪いのかもしれないが、煙草というのは美味しくもない煙を吸うために火を灯けるようなものではないと僕は感じている。

 どうでもいい気持ちで喫煙するのがいやだったし、適当に吸い続けていて喉を痛めたりするのも嫌だった。
 なんとなく吸うのが嫌いで、どうしても吸いたいときに、美味しく思えるという確信の上で吸いたいと思っている。

 食事ではないので、その欲求は測りづらい。
 これが「いま吸う煙草が果たして本当に美味しいかどうか」のバロメータなのに。
 結果的に、先ほどのような「煙草を美味しく感じられる状況が半分にも満たない」という状況(記憶)になっていた、というわけだ。

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 ここまで書いて気がついたのだけれど、僕にとって食事もこんな感じだ。
 時間や習慣にとらわれず、満足を通り越えて過剰になったときの感覚不全や体調不良も予測し、一番美味しく感じられるところを基準に、満足の感覚が下降しはじめたら終わりにして余韻を楽しむ。
(いや、まぁ、あれですね。食事以外でも同様の傾向がありますね、はい)

 五感を刺激するものに対して「体調や環境も含めたコンディション/対象に対する心身の欲求の強さ/満足感そのもの/満足できることが予測できる可能性」を僕はなんとなく記憶しているらしい。
 なおかつ、コントロールできる範囲で、いま求めている刺激感覚をよりよい状態にしようと考える。
 だから、空腹感や渇望感が好きなのだろう。
 満たしたいという(満たされていない)状態の感覚をつぶさに感覚し、それが満たされるときの感覚をつぶさに感覚する。
 自分で書くのもなんだけれど、僕はよくいえば敏感、悪くいうとド変態に属するのかもしれません。

 が、普通といえば普通。
 誰だって、不味いものは食べたくない。美味しいものを食べたい。そういうものだと思う。
 だからこそ外食ならば店を選び、一緒に行く人(あるいはソロ)を選び、時間を選び、服を選び、メニューを選び、流れを考えるのではないのだろうか。
 自炊なら材料を選び、メニューを考え、最適な調理法を吟味し、器を選び、時間を考え、体調を整え(空腹にし)、手をかけたぶんだけ味わって、少しずつ食べるのではないだろうか。

 もちろん、毎日毎食そんなことをするのはむつかしいだろう。
 ならば、せめて週に1度くらい、できれば週に3回は、そういう感覚を大事にする日にしてもよいのではないだろうか。
 僕はできあいのものを食べる機会も多いが、一日一食であれば当然のように、どれで空腹を満たすかよく吟味するし、空腹だからたいていは美味しいし、それでも不味い場合はそのまま捨てる。
 不味い料理(口に合わない料理とはまた異なる)は、食材で作られたゴミだ(だいたいケミカルな味がする)。ゴミが自分の身体を形成することに無神経でいるのはどうかと僕は思う。
 放射線濃度が高い食品が身体に悪いなら、身体が美味しく感じないものもまたすべて身体に悪い。そんなものはすぐ捨てて、二度と買わなければ良い。

 食べ物がもったいないという人もいるとは思うが、自分の身体がそんな食べ物で汚されることのほうがもったいないと思ってほしい。
 空腹なのに不味く感じるものは、よほど身体に合わないのだ。
 捨てる食べ物よりも、汚れて傷つく自分の身体がもったいないと感じるのが普通ではないだろうか。

 美味しいときは美味しいときで「美味しい!」という感覚を味わいつくす。
 同じように、不味いときは不味いなりに「不味い!」という感覚を十分に感じ取れば(そしてすぐ捨ててしまえば)同じ過ちを繰り返さないで済む。

 それ以外の身体の感覚も同様で、自分の下腹部が出てみっともないと感じたり、身体が思いと感じたら運動(端的にいえば筋トレ)をする。
 トレーニングは始めるまでが面倒だし、していても苦しくなったりするし、決して楽しいわけではない。
 けれども身体が思うとおりに、軽く、しなやかに動くことの快感を知っていれば(その感覚を覚えていて、思い出せるならば)多少は我慢もできるし、きっかけもつかみやすいし、続けられるものだろう(実のところ近年の僕は続けられたが、20代まで極端な運動音痴でそんなことはできなかった)。

 どうでもよいものを身の回りに置いて、どうでも良いものを身に着けて、どうでもよいことばかりしているから、感覚が鈍るのだろう。
 どうでもよい人と一緒にどうでもよいことをして、どうでもよい情報や感覚にまみれて、どうでもよい感想を持つ。

 そうやって、どうでもよい人間が出来上がってゆく。

 外部からの情報で圧力形成されたどうでもいい人間には、ある種の無神経さがある。デリカシィのなさ、下品さ、身勝手さがある。
 自分という内側から生まれた情報や感覚で形成された人間が繊細で、思慮深く、上品だとはいわないが、なんというのか、肌に合うのだ。

 どちらがいい、ということではなく、あくまでも好みの問題ではある。
 おそらく逆方向からは、気取り屋で、意固地で、お高くとまっていて、小難しい厭味な人間だと観察されるとは承知しているので。

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 とにかくそのようなわけで、僕はあまりにも「煙草の美味しさ」に(無自覚に)こだわるあまり喫煙量が減り、喫煙量の多い人を見て、あるいは他の多くの人から(それほど吸わないのならやめてしまいなよ)と言われるうち、自分が煙草嫌いなのだと思っていた。(実際、他人のシガレットの煙は嫌いだし)
 が、逆に考えると、そんなにこだわるくらい、僕は煙草が好きなのだった。
 これぞというコンディションで、美味しい煙だけを吸い、それ以外は吸いたくないという、そういうのもひとつの煙草に対する愛着である。

 ただやみくもに、美味しいと感じる暇もないほど習慣化した喫煙は僕には無理だったけれど、つまり僕は煙草グルメだったのだ。

 そのようなわけでパイプ煙草をはじめたら、これが美味しかった。
(もちろん、最初はなかなか美味しく吸えなかったし、今でもよく失敗するが)

 結論として、僕は煙草が好きなんだと思う。嫌いじゃなかったのだ。

 わざわざ好き好んで時間も手間もかかるパイプスモーキングを始め、それでもシガレットより美味しく感じられるという理由で続けることにしたのだから、まぁ、少なくとも合っているのだろう。

 パイプ煙草を喫むようになってから、シガレットは吸わなくなった。吸いたい、とは、今のところ思わない。



 で、やっぱりパイプ喫煙の話から逸れた。
 まるで目的のない旅のようだ。