::「んー、言いたいことは分かんなくもないけどさ。例えば、【秘密を知ってるクラスメイト】くんにも、死ぬまでにやりたいことはあるでしょう?」
「……なくはない、かな」
「でも今、それをやってないじゃん。私も君も、もしかしたら明日死ぬかもしれないのにさ。そういう意味では私も君も変わんないよ、きっと。一日の価値は全部一緒なんだから、何をしたかの差なんかで私の今日の価値は変わらない。私は今日、楽しかったよ」





150905

 最近になってようやく思い出したのだけれど、僕は子供の頃から、アドレナリン過剰分泌体質なのであった。
 眠れないこと(眠くならないこと)がほとんどで、食欲をほとんど感じることがなく、急にスイッチが切れたように眠る。
 いちど眠り始めると、こんどはこんこんと眠る。
 24時間起きていたかと思うと、こんどは18時間くらい眠り続ける。
 夏休みなど、12時間起きて20時間くらい眠っていたと思う。眠ってばかりではないか。

 一般的な反応なのか分からないのだけれど、僕の場合、アドレナリンによって空腹が分からなくなる。
 身体は当然栄養が足りなくなるらしく、時折、立ちくらみを起こす。
 ひどい場合は貧血で倒れるが、これは子供の頃に一度あったきりだ。

 非常に高い集中力を発揮することがあるものの、ぶつっと途切れて気絶するのはそういう体質的な背景もあったのだろう。

 最近気がついたのだけれど、栄養が足りない状態になると、当然ながら人体は、自分の体組織を分解し始める。
 これがじつに文字通り身体を蝕む感触であり、というのはおおげさで、単に供給不足のところに供給をするための消費を行うので、非常に身体がだるくなることがある、ということ。
 もちろん、たいていはアドレナリン反応によって打ち消されてしまうものの、ひとたび集中が途切れると、ぱたりと倒れて眠る。
 こんこんと眠り続けていたことが、かれこれ10年ほど前にあったけれど、あのときもこんな感じだったのかと思い出す。

 僕はあのとき、確かに餓死しかけたと思う。
 眠りに落ちれば、ただただ身体が自身を解体しては燃料にして、それによって疲れて眠ることができた。
 ただただ眠っていたのだ。

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 そういう理由からか、僕は周囲の人間から、自殺しやすいタイプだと思われているフシがある。
 いや、たぶん理由は違うと思うけれど。
 そもそも、僕が餓死路線にいたことを知る人はほとんどいない。
 ブログを読んでいる人くらいではないだろうか。
 つまり、どれもこれも嘘であり、僕の狂言である可能性もある。

 先日、TU(10代からの古い友人である)と、仕事以外では1年ぶりくらいに電話で話したのだけれど、その際、3年間会う機会もほとんど作らなかったものを「じゃ、今度、遊びに行くよ」と言う。
 あまりにも言う。
 あまりにもしつこく言うものだから、何かの冗談か何かと思っていたら、まことに冗談だったらしくまだ来る気配はない。
 さすがである。

 妹も、やけに頻繁に食事に誘うようになった時期があった。
 そうこうしているうちに、伯母が吐血して倒れ意識不明で入院してしまったから、会う機会もできた。
 叔父もいよいよ具合が悪くなっているらしいが、詳しいことは知らない。
 僕の家系はみな短命なので、比較的ふたりは長生きをしていると思う。

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 僕が自殺しそうなタイプに見える理由を、ちょっと考えてみた。
・痩せている。
 (痩せている人は、神経質/打たれ弱いなどと認識されやすい)
・自他の生命を軽んじているような発言をよくする。
 (極論になればいたしかたないと思うのだけれど、そうでなくても僕は生命を生命活動という現象として認識しているので、生命に対する倫理観には欠けるかもしれない)
・目に生気がない。
 (目が細いから光が入らないだけだ、ばかにすんな)
・動きが遅い。
 (本気で速く動くと残像さえも消えているのだ、ばかにすんな)
・意志が感じられない。
 (それはかなり控えめなのかもしれないし、あるいはすでに死んでいるのかもしれない)

 だいたいこんなところだろうか。
 おおよそ理由としてふさわしいかどうかは別にして、思いつきで列挙してみたが、どうだろう。
 こんな人間が自殺するようには、僕には思えないのだけれど。

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 アドレナリン分泌過多によって、不便がないかというとそんなことはない。
 肉体的にも正常なリズムが狂いやすくなるし、精神的にも安定しない。
 そのような背景もあって、僕は自身をより安定させるために青猫工場を作って、仮想猫型人格をいくつも設計し、全体のバランスを取った。

「あなたの情緒は役に立たないし、あなたの書く文書には何の価値もない」とあっさり一刀両断にする人もいる。いままでどのくらいいたものか。

 僕はたびたび失敗を繰り返し、他の人の言うところに従って、僕の情緒反応を減少させたり(そんなスイッチのようにオン/オフができるものか、という人もいるとは思うが、僕に言わせればその程度のこともできないの? といったところである)、文書を書くことをやめたりした。

 結果、工場には生態系を破壊された湖に浮かぶ魚のごとく累々たる猫の死体が横たわり、Nine lives の名の通り、9つの尻尾を持たされた猫的なサムシングさえ、かろうじて息をしているかどうか、といったところである。

 工場の中は荒れ果てて、もはやそこから何かを作り出すことなどできそうには思えない。

 人によって、仮想人格などばかげている、仮想猫など存在しない、仮想工場などといった実体のないものにどれほどの意味があるのかと嗤うことだろう。

 でも、人は自分の心理をして「ムードがどうの」とか「モードがどうの」と言う。
 それは目に見えたり、スイッチで切り替えができるのかと尋ねたいものの尋ねないのは、僕もオトナだからである。

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 今日、職場で知ったことだけれど、僕は職場で完全に孤立しているらしい。
 浮いている、というレベルをとうとう超えた、ともいえる。
 今ふうにいうと「浮きすぎ」ということになるのだろうか。多分ならない。
 浮いている、というのは現象を観察する分には、抜きん出ている、と考えられなくもないが、実情はそんなはずもなく、単純に浮いている、つまりは「つまはじき」にされているらしいのではある。

 まぁ、お友達を作るために仕事に出かけているのではないし、ほとんど孤独な作業で終わってしまうから誰が私をどのように思っていようと(私の本質や私の職務に対して)特に問題はない。

 どういうわけなのか、僕は子供の頃から誤解されることが多い。
 好意的に誤解されることもあれば、悪感情的に誤解されることもある。
 一時は、誤解を解こうと弁明すればするほど誤解が拡散し、深くなったので、とうとう諦めた。

 人間はどうやっても勝手に解釈するし、他人の書いたものを勝手に読んでとやかく思うのであり、書いた人のことや事実関係についても、とくに自分の足で取材などせず勝手に理解するのである。
 事実や背景や全容なんてものは関係なく、本人の気に入らない事象にただただ反応して言葉を並べて騒ぎ立てる。

 ちょうと Twitter などがそうかもしれない。
 多くの人は、何かを発信するのではなく、何かを作るのでもなく、ただただ反射して、反応している。
 少なくとも僕にはそう思える。
 Y!ニュースのコメント欄を見よ。きちんと全体を見渡して意見を述べている人はほとんどいない。

 僕が驚くのは、そうした「考えもせず反応する」タイプの人間が、僕の想像以上に、僕の身の回りにいることだ。
 新しい発明も、発見もしようとせず、何かを作ることもせず、自分の目で何かを確かめ、検証するわけでもなく、ただただ他人を指さして嗤っているわけである。

 昔、TVを相手に文句ばかり付ける人が僕の周囲にいた。
 それを見て、僕は「ああ、こんなふうになってはいけないな」と感じたものである(遠い目)。
 メディアが変わったけれど、コンテンツはさほどかわらず、そして今ではメディアに無駄な反応が大量に(コンテンツのフリをして)流れるようになった。

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 系というのは、大きな流れと小さな渦によって構成されている。
 川などがいい例だ。
 渦というのは、その場でできる、系の中のより小さな系である。

 サイクルはその中に必ずといっていいほどより小さなサイクルを持っているものだし、より大きなサイクルの中に存在している。
 なにかひとつのものがあったり、人がいたり、関係があった場合には、そこに小さな部品が含まれていて、より大きなシステムのなかに存在している。
 そういうことを理解していないと、人は容易に系を破壊するし、破壊された系を修復するのは容易な作業ではない。

 自然環境、という系があったとして、そこには人間も含まれるし、そこに自分も含まれる。
(実際には宇宙も含まれるはずである)
 伸びる鼻毛も自然環境であり、眠れる僕もまた、大自然とはいわないまでも、小自然くらいには属しているのである。

 系に関する感覚は言語化できないわけではないけれど、実のところ、これは純粋な感覚であり(たとえ相反するものであったとしても)自他を含む存在をひとつのものと認識することは、人の情緒の根幹そのものにも大きく関わっているように思う。
 もちろん、そんな感覚は、デジタル化が不可能であるが故に、徐々に消えつつあるのかもしれない。

 インターネットで検索しても、答えが出てこない疑問や感覚を、僕たちはどれほど知っているだろう。

 系を感覚できなければ、人間はどんどん鈍感になってゆく。
 系の構成則をまったく理解していない人間は、ある種類の馬鹿だと僕は思っている。

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 僕は自分の作った青猫工場の中に、さまざまなものを見ていた。
 それは僕自身であり、僕以外でもあったし、誰でもなく、何者でもないものでもあった。







::でもそうだ、彼女の言った通り、僕だってあと何度この道を歩けるのかは分からない。彼女の見る道の色と、僕の見る道の色は本当なら違ってはいけないんだ。




 引用は、
「君の膵臓をたべたい」( 冒頭部 p.13 : 文末部 p.14 )
(著作:住野 よる / 発行:双葉社)
 によりました。