20090313

 0730起床。
 激しく身体がだるい。
 筋肉痛の直前くらいの状態。おお、30代をして「以前よりも疲れやすくなりました」と言わしめるのはこれか、と思ったが、昨日、普段しない腹筋なんぞを動かしたためだ。
 ほとんど遅刻寸前に会社に到着するが、相変わらず、遅刻という概念を忘れたかのような私の会社である。
 いうなれば、季節を忘れた渡り鳥のように、開くことを忘れた花の蕾のように、詩的な言い回しをあえてしているが、要はテキトーでもやってけるぜ、ということ。

 Safariの設定はほぼ終了。
 よく落ちる上、どうも毎回のようにサイトアクセスでIDとパスワードを求められる。
 しかも、Safariでアクセスしたあとのサイトは、他のブラウザでアクセスするとふたたびIDとパスワードを求められる。
 いわゆる「求められてばかりの状態」であり、これを「サイトにモテている」というとかいわないとか。
 言わない。

 僕は気分が乗らないときは、まず、コミュニケーションを絶つようにしている。
 たとえば、仕事でイライラした日には、なるべく友達や女の子には会わないようにしている。
 あるいはそういう親しい人と会う日には、なるべくイライラしたりしないように気をつけている。
 どうしても、人とコミュニケーションをとらない、ストイックな生活をしていると、そういう部分でずぼらになる。
 感情をいちいちコントロールしなくても、なんとかなるのである。

 身の回りをざっと見回すと、自分以外の誰かの思考や感情を、勝手に憶測する人間は多い。
 しかも、確認するでもなく、ぱっと見た判断だけで、検証するでもなく「あの人はこう思っているに違いない」と断定し、そのうえで対応を考える人が少なくないように観察される。
 僕は14歳の頃、アタマが可笑しくなるくらい日記を書き連ねる中で、いろんな可能性を考えるようになった。
 人の思考や感情は、その時点での可能性の広がりと、時間的な因果関係としての奥行きがある。
 その立体的な空間の中で、その瞬間にその人間が見せた表情は、あまりにも刹那で、氷山の一角どころか、ひとかけらの氷の粒のようなものだ。
 その一点から、すべての可能性を網羅することは当然不可能だし、その一点につながる道筋を断定することもできない。
 それでも、僕はそれをひたすら考え続けた。
 なぜかといったら、それが楽しかったからだ。

 世の中にはツンツンしている人もいるし、デレデレしている人もいる。
 しかし、ツンデレの人も、その逆もいちおう社会的地位(地位?)として認められるようになったわけだが、SM二元論的な、一方的、かつ不的確なキャラクタの設定を他人に押しつけたり、押しつけられたりという場面は、意識的でなくとも、誰でもがしてしまいがちな過ちである。

 僕は、その、氷山の一粒子だけで全体を規定することのあやうさに気がついて以来、他人の一点をして「この人はこういうひとだ」という断定はしなくなった。
 ただ、その人の、その状態が、その瞬間「そう見える」というだけのことだ。
 真実を知ることは、とてもむつかしい。

 簡単な方法がある。
 他人のその瞬間については、そのときは深く考えないことだ。
 あとで、一人になったときにでも、深く深く考えることだ。
 そして、それを相手に直接確認しないことだ。
 なぜならば、よほど親しい人間でも、人間は本当のことを言わない。
 酔っぱらっている人間ですら、自分が酔っていることを認めない。
 怒っている人は怒っていることを否定する(私はたいてい腹が立っていると、否定する)し、悲しい人は強がる。凶暴な人は猫をかぶるし、好きな人に好きといえるまでには時間がかかる。

 どうだろう。

 少なくとも僕は、この日記の上では猫をかぶっている。
 いつでもどこでも素直な人間はあまり見かけないが、そういう人はとても魅力的で、なんというか、尊敬に値する。

 とにかく考えすぎてゲシュタルト崩壊を起こすくらいまで考えると、もはやどうでもよくなってくる。
 最終的に、自分が相手をどう思っているか、どう接したいか、というシンプルなところに行き着く。
(行き着かない人は、考えが浅いのだ)(いま、断言しましたね)

 簡単な方法がある、と書いてからまた横道に逸れてしまったが「逸」という字は「逸脱」という意味のはずが「逸品」などという風にも使われるので、いったいどういうことなのだろうかと、急に気になってしまった。
 気になってしまったが、ここは僕の強靱な意志と理性と理想と理力も総動員した上で、精神力と神頼みと面倒くさがりな気分とを駆使して、なんとか本筋に戻ることにする。
 簡単にいってしまえば(早く言え!)自分がどうしたいか、ということなのだ。(あ、さっき書いたよね)

 もちろん、相手の感情や思惑が気になることもあると思う。
 しかし、気にしてどうする。
 そこを突き詰めて考えると、どうしても、相手を自分の思い通りにしたい、という下賤な現象に気がつくのではないだろうか。
 もちろん、下賤で悪いとは言わない。僕なんか、女の子を前にすると、下賤なことばかり考えてしまう。
 いやしいこと、あるいはいやらしいことばかり考えてしまって、仕事も手につかなくなってしまう。
 手につかないということは、すなわちさらさらしている、ということだ。
 乾燥している。べたつかない。すなわちお札が数えられない。
 よって、紙幣よりも硬貨を使うことになるのだが、お財布が硬貨でぱんぱんになっていればいいものの、そうもいかないときもある。
 では、紙幣をうまいこと数えなくてはならないわけだが、コンビニのレジの前で、かわいいおにゃのこの店員さんの前で、指を舐めるわけにもいかない。
 しかも、この指は、さっきまで自転車のハンドルを握っていたわけで、自転車のハンドルがどれだけ清潔さに欠けるかといったら、まるで自転車のハンドルのようだとしかいいようがない。
 かくして、指を舐める前にハンドクリームくらい塗っておけよ、ということになるわけで、どうしてこんな脱線をしてしまったのか、もはや僕には分からない。

 ここは僕の強靱なフォースの力をもってして、えい、と本筋に戻りたい。
 相手の思考や感情は、完全にトレースできなければ、はっきり言って判断を誤らせるだけだ。
 なおかつ、完全なトレースはおよそ不可能だ。
 よって、あらゆる可能性を検証して、そのあとはきっぱり忘れてしまえばいい。
 そのうち慣れてくると、可能性を検証するより前にきれいさっぱり忘れることができるようになり、いちいち悩むこともなく「あなたって不潔よ!」とか言われても「あ、褒められてる?」とか「うわ、その表情もかわいい(はぁと)」とか思えるようになってきて、なんというか、夢心地である。
 おっといけない、ここから逸脱タイムが始まってしまう。しまいかねない。そういう危険な予測が可能である。警鐘を鳴らす、というやつだ。
 しかし、自分で書いているわけで、予測が可能もないだろう、と思う人もいるかもしれないが、そんなことをいちいち計画してものを書いたりしない。
 僕は計画なしで、いきあたりばったりで、ものを書く。
 いわゆるノープランだ。

 たとえ長編の物語であろうと、なにも考えない。むしろ短編の方が考えているくらいだ。
 考えるだけ無駄だ、というくらいのところまで考えた結果が、これなのだから、いっそショートカットして、ナニも考えない方が良い。
 そうそう、かわいいおにゃのこが目の前にいても、心身滅却して無心の構えで、煩悩を忘れ、寝食を忘れて、自分に下半身などあることを忘れてしまえばいい。いや、寝食を忘れるとおかしな方向に行ってしまうので、ここはもう少しストイックに、そうだ、仕事のことを考えよう。
 だめだ、仕事のことなど考えたら、今以上にいい加減になってしまう。いい加減な人間になってしまう。いい加減にしておかないと仕事なんてやっていられない。いい加減にしろと読者にも怒られそうだが、どっちみち通りすがりの読者ばかりだろうし、コメント書く人もいないわけだからどうだっていい。それよりはやくこんな日記を書き上げてしまいたいのだが、どうもうまく話がまとまらない。ノープランも考えものだ。そうか、考えた末が考えないことだからこういうことになるのか。

 ここはひとつ、悪魔に魂を売って、本筋に戻りたい。
 このようにして、人間が何かを深く考えようとしても、脱線してしまう、ということがいいたいわけではない。
 ただ、自分ではない誰かのことを憶測するのは自由だが、だいたい見当違いになる。
 なぜかといえば、人間は思ったほど筋道が立っていないし、論理的でもない。むしろ野蛮である。混沌としている。アンタに言われたくない、と言われそうだ。なんて的確な憶測をするんだろう、と僕は今思ったけれど、本当にそう思っているのだろうか。いや、そんなことはあるまい。ここまで僕の文章を読んでいるのだ、きっと僕のことが好きで好きで仕方がないに違いない。ユー、我慢してないで認めちゃいなヨ!

 悪魔もダメならここはひとつ、核の力を借りて、本題に戻りたい。
 どうやって核エネルギーで本題に戻ることが可能なのかが分からないが、きっとすごいテクノロジーが、こんなところで無駄に使われているんだろうな、と思ってもらえればだいたいあっている。
 そもそもMacProをつかって、こんな駄文を書いている時点で人間終わりである。たまたま僕が猫だからこうして生きながらえているわけであって、人間だったら俳人間違いなしだ。357。コルト社の銃の話でも、イラストレータの話でもない。ダメだ、核の力ではびくともしない。むしろ汚染されているとは思わないか。

 猫の手も借りたいとはよく言ったもので、そろそろ5000文字を突破してしまうのではないかと心配している。

 いいたいことはなんとなく伝わっただろう、なんて都合良く期待することはまったく不可能だと思うが、もっと論理的に書いたってどーせわかりゃしないんだからこのくらいでいいだろう、とか思いつつ、強引に話を本筋に戻すなら、下手な考え休むに似たり、でもあり、なんていうかその、もっと自分に自信を持っていれば良いんじゃないですかみなさん。
 自信を持っていれば、他人をあれこれ必要以上に気にする必要もなくなるし、そもそも他人を攻撃する人ほど自信がないわけで。

 夕方に数年ぶりにS女史に会った。仕事で、である。
 また本を貸してくれたのでありがたく借りた。借りていた本を返したが「ヘブン…」は気に入ったから買うよ、といったら「だったらあげる」といってくれた。
 こうして不況が不況を呼ぶのだ。断固新しいものを買うべきだ、よって断る! とかっこよく断れれば良かったのだが、ニコニコしながら「ありがとう」と言ってしまった。素直。

 かわりにマスターキートン全巻と、20世紀少年全巻を巻き上げられた。
 おみやげにいただいたクロワッサンがとてもおいしくて、びっくりした。
 夜はクロワッサンと昨日のオニオンスープ。

 ACFAを2時間ほどプレイして3時頃眠る。
151112

 秋の終わりが山の麓にも降りてきたようで、死に化粧をした木々がそれを迎えている。
 あれら美しい衣の色もくすみ、土に還ろうと地面を敷き詰めるときに冬の風がやってくる。
 死のあとに訪れる、静寂の季節を導いて。

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 死の季節のことについては、過去に2度書いている。
 もちろん、ログはどこにも残っていないから、何食わぬ顔をしてもう一度書いてしまっても良いのだけれど、さすがにそこまで芸のないこともしたくないのでしない。

 身体を感覚していて驚いたのだけれど、肩の筋肉がとても発達していた。
(腹筋はイマイチ発達しない)

 太腿の裏側が未発達で、臀部(おしり)がやたらと痩せている感じなので、太腿の裏側のトレーニングを組み込む。

 数ヶ月前から、シャワーを浴びているとき、太腿から先を洗うときは片足立ちで行っていたのだけれど、ようやくバランスを崩さないようになってきた。
 これはとてもむつかしいので、みなさん5秒くらいためしてみるといいと思います。
(床がシャンプーや石けんでぬるぬるしているときはやめたほうがいいと思います)

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 ときおり人生に疲れがちな僕は、衝動的にベランダから飛びたくなることがあるので、夏は すだれを掛けているものの、秋になれば当然そんなものは外してしまうので、飛びたくならないように窓を拭いたりしています。意味が分からない?

 飛ぶと言えばMRJが飛んで。まぁ、飛ぶよね、とは思っていましたけれど。飛ばすために設計されたものなんだから、飛ばなければおかしい。シミュレートや実験や設計というのは、そういうものだと思うものの。
 でも、リリース前から注目していて、つくづく綺麗なカタチだなぁ、と思っていました。

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 寒いので、ガールがいればガールで暖まるところなのだけれど、ガールはかけらも存在しないので筋トレをして暖をとっている。あと湯豆腐を食べてあたたまったフリをしている。
 いい加減、ヒータを使うべきか迷う。

 あとあと、街を歩いているとときどき、異常なほど歩き方がおかしくなっていて、骨格が歪んでいるガールを見かける。
 後ろから見ると、銭形のとっつぁんも真似できないような歩き方であったりする(どんなだ)。
 10代でこれでは先が思いやられる、と思う。
 20代でこれでは先が知れている、と思う。
 30代でこれでは先がないな、と思う。
 不思議と40代以上の人で、そんなにおかしな歩き方の人はいない。

 もしかして、ある日(40歳の誕生日あたりで)突然、天啓のように目覚めるのだろうか。
「私は今日から新しい歩き方をするの!」

 ……骨格は一朝一夕で変わらないから、そんなはずないよなぁ。
 


::「そもそも、なぜ抵抗しなかったのでしょうか?」
 弁護人が言った。もしシェルが身分を操作したり、レイプしたり、車に閉じ込めたりしたなら、少女は抵抗していたはずだと。検事が反論する間、バロットは施設を思い出していた。年中、ソーシャルワーカーから「お前は悪い子だ」と言われていた頃のことを。
 ワーカーにはそうでない者もいたが【そうである】者のほうが格段に影響力を持っていた。夜、二段ベッドの下の段で寝ている子供を、ワーカーの男がレイプしても、上の段の子供は恐怖に震えながら寝たふりをするしかなかった。みなそこで金もなく捨てられる恐怖を覚え、金ももらえず好きなようにされる屈辱と恐怖を覚えた。
 中には施設に順応する子もいた。権力というものを知る子が。だが大半は何とか逃げようとした。日常的に四方からナイフを突きつけられたような状況で、衣食住とあらゆる娯楽と友人関係をいいように操作され、挙げ句に少しも抵抗の道を示してくれなかった大人からなぜ抵抗しなかったかと訊かれたところで、バロットの返答は沈黙(サイレンス)以外になかった。

151107

 細い。
 なにがといって、ウエストが、である。細い。
 しかしながら華奢なのかというとそうでもなくて、油圧シャフトを組み合わせた機械のような形態を窺い知ることができる。
 が、それにしてもウエストが細い。

 ほとんどのスラックスが握り拳が3つは入りそうだし、ベルトを締めて一番内側で留めても、まだゆるゆるしているのである。

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 ある領域で人間を観察していると、個々人の境界設定に特徴があり、僕の持つそれとは少々異なっていたり、同じようであったりする。

 ここでいう個人の境界設定の定義というのは、個人の境界を成す境界面を、それぞれ(第一人者的/第三者的)にどのように認識し、どのように規定するかということ。
 そしてその境界面がどのように外部へ影響を及ぼし、どのように外部からの影響を受けるか、ということに当然ながら問題は波及する。
 そう、波のようにそれは力を受けたり発したりすることが多いと僕は認識しているのだけれど、それさえ波動系ではなく、粒子系の伝達をする人もいるようだ。
(波と粒子のイメージとしては下記URLの内容が個人的には分かりやすいかもしれないと感じた。
参照:http://taste.sakura.ne.jp/static/farm/science/wave_particle_duality.html

 ざっと観察した範囲で、この境界設定の方法は外骨格生物系と内骨格生物系に分かれるがそれは後述。

 そもそも個人境界設定というのは、他者がいなければ始まらない、かというとそうでもない。
 他者の定義がまずあって、現実の、実体を伴う他者がいて初めて他者というものが個人の中に発生し、境界設定が必要になる場合、というのが一般的ではある。
 人間は生まれながらにして(おおよそほとんどの場合においては)他者がまず存在しているから、この認識が広範囲において一般的であるとされるのは当然だろう。

 一方で、他者という実体が伴わなくても、個人の中で他者の存在を仮定することで、自身の境界設定が可能になるのもまた事実。

 前者は実体を伴っていて(おおよそほとんどの場合においては)生まれたときから多かれ少なかれ境界設定が外部から行われるのに対して、後者は実体を必要とせず、後天的に(おそらく思春期前後に形成される思考の中で)内部から設定されてゆく。

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 そもそも、外部と内部の境界(自己と他者の境界)面というのは、TPOによって、状況によって、相手によって、自分の立場によって、大きく変わるのではないだろうか。

 たとえば家の中では裸で過ごすことも多い私だけれど、外に出るときはスーツが多い、とか。
 ジョギングをするときはスポーツウェアで、仕事の時はスカートが多いけれど、帰宅するとまず着替える、という人もいるだろう。
 自転車で通勤するときの僕は上下ともサイクルウェアだけれど、勤務中は業務に則した服装に着替えるし、ジェームスボンドは潜水服の下にタキシードを着ているものだ。

 そう。服装もまた自分と他者や環境を隔てる境界であり、あるいは目に見えない心理的区画や認識領域についても同様のことがいえる。
 親(特に哺乳類の母親)の多くは、子供を自分の領域に、自分の一部として含んで認識しているように観察される。
 組織や国家のリーダーは(やはり全てではないかもしれないが)そこに含まれる一人一人を、自分自身のように大切に思っているものだと思う。
 中には人類すべて、あるいは生き物すべてを、自身や自分の親族のように感じることのできる人もいるだろう。
 簡単にいうと、これは存在ではなくて、状態である。

 このように自己認識の境界は状況で変わるのだから、それはあるようでいてない。ないようでいてある。
「辛そうで辛くない、少し辛いラー油」というのが以前あったように「有りそうで無い、少しある個人境界面」という存在がここで浮き彫りになるわけである。
 だからといって彫刻刀を持って、僕がそれを彫り出したりしているわけではないので誤解のないように。え、そんな誤解はしない?

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 さてもこの境界面設定というもの。
 僕はかなりフリーダムな人間関係の中で生きてきたので、周囲から(たとえ親とされる人間であっても)何かを強要されることによって、制限されることがほとんどなかった。
 つまり外部から強く境界設定の影響を受けることがなかった。
(子供の頃からの親の不在をありがたいことだと僕が感じる理由のひとつである)

 人間関係で周囲(たいていは親や家族、友人や先生、上司や恋人などだろうか)から境界設定を受ける人、受け続けている人、受け続けてきた人というのは、まず他者ありきである。
 他者があって、境界設定を強制されて、それでやっと自分の境界が認識できるようだ。
 僕からすると柵で囲われた家畜のように思えなくもないのだけれど、まぁ、それは仕方ないよね(口調が変)。

 外部から設定(あるいは強要)されるものだから、必ず実体を伴うし、それを仮想する必要はない。
 むしろ仮想他者によって自律的に形成される個人境界面など単なるまやかしごとでなはいかと、こうした人たちは笑うだろう。

 外部から設定されるため、その境界はかなり明確であり、それゆえに行動として具現しやすい。
 たとえば「上着のボタンは必要もないのに外さない」「スカートは膝上10センチより短くしてはならず、膝下10センチより長くしてもならない」「靴下は白いハイソックスとする(ただし黒いニーソックスは例外とする)」といったように。

 極論かもしれないし、そうであると信じたいのだけれど、こうした人たちは、境界を他者に押しつけることによって、他者を規定し、他者から境界を押しつけられることで自己を規定する足がかりにしているように観察される。
 規定の根源にあるのはすなわち興味関心であり、あるいは愛情表現であると認識(ありていにいうと誤認)しているように見えることさえある。
 つまり境界面を押しつけたり押しつけられたりすることによって、自分や他者の境界面を「より明確に」規定しようとして、その行為全体が人間関係だと認識しているように観察されるのである。

 もっともこれにも問題点はあって、境界というのは明確にしようとすればするほど、その厳密なラインがぼやけてしまうもので、駅のホームでも僕などは「黄色い線の内側」がどこを指しているのかを考えると夜も眠れなくなりそうなほど、おもしろおかしい気持ちになってしまったりする(そして夜にはそんなことは忘れてぐっすり眠る)し、「前向き駐車」の意味がやっぱりどうにも分からなかったりする。え、これは境界問題とは関係ない?

 仮想他者でとりあえずの境界設定をする場合(ま、こんな程度でとりあえず不快を生むことはないだろう)というある程度のラインを踏まえてゆく。
 もちろん、それでも誰かの不興を買うことはある。
 シャツのボタンを閉めすぎるのがよくないこともあるし、恋人が多すぎるのが問題になることもある。
 それとてTPOでなんとでもするのは、僕にとって境界面がそもそもあやふやで、どうでもいいものだからだ。

 その場をやり過ごすためであれば、境界面などその場で作ってしまってもいい。
 本当に必要な本質を満たすことができるのであれば、表面のことはどうでもいい。
 というのが極論的な内部設定型の境界面設定方式の根底にあるとした場合、ある程度のアウトラインで境界を設定し、あとは現物合わせで何とでも対応しましょう、ということになる。

 外部強制型の境界設定をしている人からすると、非常識なほどいい加減であるけれど、逆に内部設定型の人が外部強制型の人を見ると、その人間関係は窮屈でキモチワルい。

 もちろんこれは極端なパターンを定義しただけだから、誰かが100%外部強制型であるはずもなく、また誰かが100%フリーダムな内部設定型であるはずもない。
 人はそれぞれにそれぞれの割合で、外部からの強制を受けて、内部からの境界を予測も含めてしているものだと思う。
 どちらが一概に優れているというものでもない。窮屈なほうは明白だが。

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 外骨格生物系の個人境界設定とは、すなわち外部からの強制による境界設定を一般とする認識のことだ。
 そこでは境界が外側から決められていて、もちろん他者にもそういう接し方をすることになる。
「これはこうでなくてはならない」「こうでなければあなたをあなたとして認めない」
 とまぁ、そういうことです。
 与えられ、受け取ってきたものを、ストレートに他者に与える。とても分かりやすいですね。
 こうした手法は境界が非常に明確で、バカにも対応しやすい利便性を持っているものの、ワタクシなどには少々窮屈に思えるのですがここでの私見は不要ですか、そうですか。

 たとえばカブトムシなどを見ると分かりやすい。
 充分な栄養状態と適切な環境を与えた場合、ほとんどの個体は同じようなサイズと外観に育つ。
 べつにクローンではないはずなのだけれど、そうなる。
 これが外骨格生物系の個人境界設定にも同じように作用しているのではないかと僕は感じる。

 他者に規格を与え、他者から規格を受けることによって、確かに「誰も」「何も」考えなくて済むのではある。
 それではそこに出来上がるのはいったい何なのかというと、個を喪失したかのように画一的な「規格どおりの誰か」なのである。

 よって他者から境界設定をされることでしか自己認識をできなかった人間というのは、ある程度以上の大人になってから自己認識の境界面が自分で設定できないという類のアイデンティティ不全で自殺したり、あるいはモノやお金に対する異常なほどの執着によって自身の境界を保とうとする。

 内骨格系の個人境界設定は、制限がない。
 太ったイヌもいれば痩せたオオカミもいるのと一緒で、自分の芯にある骨格が支えることのできる限りにおいて、自由に存在することができる。
 制限がない、は言い過ぎた。制限が緩い、といったところだろうか。

 しかし自律が必然的に必要で、考えなしでテキトーに、というわけにはなかなかいかない。
 ある程度のフィードバックに伴う自律性が系として出来上がってしまえば、ほとんどのことは勘でどうにでもなるのだけれど、それが形成されるにはアタマを使うだけではどうにもならないような気がする。

 それでも、続けていれば何となく身につくものだ。

 もし仮に、自分が外骨格型で内骨格型の比重を高くしたいとか、あるいは逆に内骨格型から外骨格型にシフトしたいという場合は、とりあえずしてみようとすれば何とかなると思う。
 自分はこういうものだと制限し続けているのは、本当のところ、いったい誰なのか、ときどき立ち止まって考えた方がいい。
 それは本当に他者なのか。それは本当に自分なのか。
 どこからどこまでが社会で、どこからどこまでが自分なのか。
 その境界は、いったいどこにあるというのか。

 もちろん自分の中に骨格がありさえすれば、そんなフレーム問題などは取るに足らない些事でしかないのだけれど。

>>>

 体重は61kgを行ったり来たりしている。63kgにするのはもう諦めた。
 体脂肪率は16%を切らないのでこれはよしとしよう。
 骨格筋率が38%を越えて計上されることがしばしば。そろそろ腹筋が付いたのだろうか。
 観察するに、贅肉は減ったのだけれど、そもそも自分の身体をしげしげ眺める習慣がないのでよくわからない。

::──その言い訳(エクスキューズ)は知ってる。【あなたたち男はいつも、お前もそれを望んでたって私に言うから。】

冒頭引用は
「第3章:発動 Crank-up」(p.161-162)

文末引用は
「第2章:混合気 Mixture」(p.86)

From「マルドゥック・スクランブル[完全版] The 1st Compression - 圧縮」
(著作:冲方 丁/ 発行:早川書房)
によりました。

 なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて、傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。
 


::あの一件で、私の周りもずいぶん変わったよ。もちろん私もね。
 最初は大変だったなぁ。
 なんだかんだと言ってもね、人にとって、いえきっと誰にとっても、新しいものと、今まで知っているものとの間に、なんていうんだろ、段差があるんだよね。
::段差。
::そう段差。ある種のショック/衝撃と言い換えてもいいかな。
::ああ、分かる気がする。
::その段差をね。上ることのできる人、埋めることのできる人もいて、そういう人は当然なんの問題もないわけ。
 一方で、その段差に対して背を向けて、あるいは打ち消そうと否定して、そうすることで自分のありようを守ろうとする人もいる。
 どちらも労力としては、たいして変わらないんだけど、人は歳をとると、どうも自分を変えることを厭がるみたいね。まぁ確かに自分の足場を崩して作り直すなんて、面倒ですもの。
 だから。もしかしたら、私もそうなのかも。
 もちろん足場を確保しておくことは「私」という存在を私自身にアンカする上で必要不可欠なことだとは思うの。
 でも、それを考えるとね、いつかあなたが言っていたことを思い出すんだ。
::なにそれ?
::「自分」「自分」とみな言うけれど「自分」っていったい何のことだろう、って。
::あははは。昔からずいぶん哲学的なことを言ったもんだね、僕は。






151016

 体脂肪率が17%を切った。
 体重を61kgまで回復させた。
 が、下腹部の筋肉をつけたせいなのか、うつ伏せになると恥骨(それとも座骨?腸骨?)と骨盤が当たって少し痛い。
 骨盤回りの贅肉がほとんどなくなったためだろう。腸腰筋の脂肪が無くなって血管が浮いている。
 しかし腹筋はなかなか付かない(使い方の結果としての)体質なので多少苦心している。
 太腿の内側に贅肉が残っていたのだけれど、新しいトレーニングを組み込んだらあっさりなくなってしまった。
 太腿を内側に閉じるための筋肉を使う機会は、考えてみるとなかなかないかもしれない。
 特に男性の場合は。

 以前書いたかもしれないが、僕は痩せると、足の裏のクッションが薄くなる。
 足の厚みが薄くなるのだ。
 結果、硬い床を歩くとごつごつ当たって痛い。
 しかし歩き方を工夫して、猫歩きをするようになったら、ぐっと改善された。
 猫歩きというのは、単純につま先の指の付け根を中心に着地して、足首と膝と腰で重量をクッションする歩行方法のことで今名付けた造語である。

>>>

 ちょうど一年前の今頃か。
 感情も感受性も情緒も、なるほど不要であるならばと、消失することを自身に許可し、抹消することを決定したのは。
 まったくもって。
 それは僕の生活に不要で、それどころか日々をやっかいな苦痛にまみれさせた。
 それに前後するようにして、僕の皮膚粘膜は爛れはじめていた。

 なるほど感情や感覚というのは筋肉のように随意にすることはむつかしいと一般には思われているかもしれない。
 しかしそれは、長期的な感受性をコントロールできる人間からすれば単なる怠惰な言い訳でしかない。
 できないのではない。できないと信じ、しないことに徹しているのだ。

 いかに悲痛なニュースであっても、人は半無意識に自分の反応をコンロトールしている。
 たとえば自分からの距離でその痛みが変わるのがその証拠である。
 無選択的であるならば、自身の身近になるほど痛ましいはずもない。
(それが悪いと言っているのではない。ただ無自覚にそうであるのだとすれば「自分」などないのと一緒ではないかと言っているのである)
 多くは生まれてから子供の頃までに形成されるそうした感情の反射パターンは、しかしその実、自身の手によって再構成が可能なものだと僕は考えている。
 価値観の形成が多くの場合、記憶とそれに付随させられた情報に依存しているのだから。
 時間を要し、また外的要因が多かったとしても、ある程度になったら自分でそれらを選択できるはずだ。
 30を過ぎたら、人間は自分の顔に責任を持たなくてはならないのと同じように、生まれを越えて自身をデザインする能力を有してしかるべきなのではないだろうか。

 結果的に人間というものは自身という存在に固執するあまりに自己を喪失する。少なくとも僕にはそう見える。

>>>

 実のところ、このひと月ほどで一番発達したのは肩の筋肉で、それが悪かったのか、数日前から「いわゆるむちうち症」(鉤括弧の付け方は誤りではなく冗句です)のごとくにひどく首が痛む。
 ちなみに僕は肩の筋肉を「上部に位置する背筋」と認識している。

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 凍結していた感覚の解除を先日開始した。
 以降、皮膚粘膜も回復に向かっている。
 私を守れるのは私だけなのかもしれない。
 それにしても、私とはいったい誰のことだろう。








::多くの場合、人は過去に、特に子供の頃の記憶に縛られちゃう場合が多いよね。
 結果として過去を繰り返す。人の攻撃特性や防御特性はその端的な現れで、自分が子供の頃に受けたことを、そのまま子供に仕返ししたりするのは典型よね。
 幸い私は、そういう不幸な子供時代をまったく抱えていなかったから良かったけれど。
::そうだね。僕はそうしたことをして「それのどこに自分があるのか」って言っていたんだろうね。
::え? 私が幸せな子供時代を送ったってことに?
::ううん。子供の頃の不幸に縛られる人間の存在に。
::……そうね。過去の意味を変えられない者に未来を作ることはできない。
::なにそのかっこいい格言。
::忘れてるんでしょう。これも貴方の言葉だよ。
::僕は過去を変えてるからなのか、思い出せないなぁ。
::そうしないと生きられない。
::そうなの?
::あはは。それも言ってたことだよ。
::あははは。そんなの全部忘れたよ。






  
 


::そもそもの最初から「私」なんてものは存在しなかったのかもしれない。
 周囲の反応や自分の思い込みから自己の輪郭の感触を得ているだけで、そこにあるのは単なる肉体、つまりハードウェアだけでしかないのかもしれない。
 自分が自分であるという根拠を私たちはどこから得ているというのだろう。
 誰もが「自分は自分だ」という確固たる幻想を抱いているだけのように私には思えるのだけれど。




 151012

 最後に心から笑ったのはいつだったろう。
 痛みを感じない。
 楽しさを感じない。
 怒りを感じない。
 悲しみを感じない。

 美しい景色を見ても。
 クールな音楽を聴いても。
 綺麗なガールを見ても。
 たとえそれがナイスバディ眼鏡女子であったとしても。

 今の僕は、何も感じない。

>>>

 僕の卓越した客観性は、時に周囲を惑わせることがある。
「自分のことでしょう?」というような反応は今まで何度も見てきた。

 たとえば僕は自分の感じていることを
「僕はこのように感じているようだ」と感覚する。
 これを率直に他者に表現すると「自分のことなのに、なに、それ?」という反応を誘発することになることが多い。
 僕にしてみると、これは「僕はこのように感じている可能性が高い」という、確率や割合の問題として表現している。
 しかし多くの人は自分が同時に複数の感覚や考え、感情を持ったりしていて、それが相反することもなく、それどころかそれらは常に単一のものとして自分の中に発現していると認識しているように観察される。

 僕は自分の考えていることや感じていることを上手く言葉にできないことが多いし、言葉にすることでかなり多くの情報が欠落していると、書いているそばから(たとえばこの瞬間も)感じている。
 そういうもどかしさを、きちんと理解して、あるいは少なくともそれを大切にしてくれた人はあまり多くはない。
(つまり、少ないけれど、大切にしてくれる人もいた)
「自分の感じていることくらい、きちんと言葉にできるでしょう?」
「自分の考えていることを言葉にすることは、私も練習して身につけたんだよ」
 とまぁ、それがあたかも上位互換であるかのように振る舞う人が多いのではあるが、そうした人の多くが、実のところ、まったく互換性を持ってはいない。
 それが自己の確立という感覚のために感覚や思考を単一化する末路であるかのようではある。

 単一化は、たしかに分かりやすい。
 自分自身にも、そして他者にも分かりやすくディスプレイすることができる。
 コミュニケーションをするうえで、僕などはかなりの不適格者だろう。
 書いているそばから、言っているそばから、果たしてそれが自分自身の考えていることなのか、感じていることなのか、そのすべてであるのかということについて、明確に断言することはできないのだから。

 しかしもし、単一化することが、その不確定な自分を許容するということの上位互換であるならば、単一化されたディスプレイの奥に、複数の、そしてときには容易に相反したり重複したりする感覚や感情、思考や予感に対しての理解を示すこともできるはずなのではないだろうか。
 けれども単純化された人たちは自分の感覚に基づいて「その曖昧な態度は何なのか」と非難する事が多い。
 多いというだけで、実際には例外もあるものの、そうした自己の単一性について疑問に思いもしない人は、自分が複数の感情や思考を並行していることを知らないか、そもそもそれを忘れているのだろう。

 生まれたばかりの頃、少なくとも僕は、笑うことを知らなかった。
 悲しみを知らなかった。
 空しさを知らなかった。
 友情を知らなかった。
 愛情を知らなかった。
 空の高さを知らなかった。
 雲の正体を知らなかった。
 虹の不思議を知らなかった。
 空を飛ぶ鳥の美しさを知らなかった。
 澄んだ水底の恐ろしさを知らなかった。
 暴力を知らなかった。
 狡猾さを知らなかった。
 欺瞞を知らなかった。
 喜ぶことを知らなかった。

 何も知らなかったこと、何も感じなかったこと、それを忘れてしまうから、何も知らない人や、何も感じない人を馬鹿にしたり、哀れんだりするのだろう。

 名前を変えればお前のことではないか、と僕は思う。
 いや、名前を変えるまでもない。
 自分だってそうだったのではないのか。








::実は僕、昔から不思議に思っていることがあるんだ。
::はい。なんでしょう?
::日本では「自分」「己」「手前」など、「my self」という意味と同時に「your self」という意味も持っている言葉がある。時代や地方によって違うみたいだね。
 いつしか、一人称代名詞の多くがそうなのかもしれないと思うようになったほどだ。
::ああ。そうですね。
::子供の頃ね「ボクの名前は?」とか「ボクはどこから来たの?」なんて大人に言われるたびに、僕はかなり怪訝な思いをしたんだ。
 英語にしてみると分かると思うけれど「What my name ?」「Where my come from ?」ってことでしょう?
 当時は二人称代名詞なんて知らなかったけれど「君の名前は?」とか「あなたはどこから来たの?」ってなるべきだと感じていたから、すごく違和感があってね。
「この大人はちゃんとした言葉を知らないんだろうか」って思っていたんだ。
::あはは。青猫様らしいですね。
::でも大人になってからね、それが日本の文化であり、精神性なんだと僕は思うようになったんだ。
 つまりね、かつての日本は、自分と他者を同じ土俵にきちんと立たせていたんじゃないかって。
::同じ土俵、ですか?
::そう。西洋文化だと、自分は自分で、他人は他人、その境界が明確なんだ。
 一方で、日本の文化では、自分と他人の境界が曖昧で、自分と他人を同じように感じることが多かったんじゃないかな、って。
 たとえば他人の痛みが分かるとかいう概念があるけれど、本当は分かるわけないじゃない?
 他人なんだし、痛みなんて人それぞれなんだから。
 でも、それをきちんと共感できる土壌があったんじゃないかな、って。
 もちろん今はその多くが失われてしまったとは思うけれど。
 たとえるなら、そういうこと。



 
 


::アンタはご大層なお題目を振りかざして、自分の都合で塗り固めた城を作ったんだろう。
 ならずっと、そこで暮らしていればいい。
 あったこともなかったことも、都合良くその場で捏造するのがお前たちのルールだというのなら、好きにするがいいさ。




150929

 晴れ。良い天気。
 先週からだろうか、山間を走ることが増えた。
 立体的に連なる山々は、林立するビルとは異なる視覚刺激を空間認識回路に与える。

 日中に思わぬ空き時間が出来たので、仕方なく昼食を摂ったところ、駅のホームでひどい胸焼けと吐き気に襲われ困った。
 慣れない一日二食は避けた方がよい。

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 手段と目的については以前の日記でも書いたことがある。
 それを交換することは、ときに思わぬ発見を観察者(主としてそれを実行する自分自身)にもたらすことがある。

 とくにこれは仕事のように明確な目的がある場合ではなく、遊びのように、本来目的だと思っていたはずのものよりも手段そのもの、課程の方が楽しいことに気がつくような場合に多いと思う。

 もちろん、仕事でそういった逆転現象による観察帯域の増幅が見られることもある。
 しかしながらそもそもの目的が明確で、かつ(ほとんどの場合において)集団で共通の目的を達成することが重要である仕事では、個々人の価値観や感受性の中における目的/手段の逆転は否定のしようがないものの、それを全体の共通価値に置き換えることは本末転倒にしかならない。

 目的は目的。手段は手段。
 目的を達成するためのサブルーチンと考えれば、手段もひとつの目的を持ってはいる。
 しかし本来の目的が度外視されたり、忘れられていた場合に、本来の目的を達成することはときに容易ではなくなるだろう。

 自動車の運転も同様で、運転そのものが目的なのか、それともどこかに到達するのが目的なのか。
 少なくとも、自分の中では、それははっきりと持っておき、忘れずにいたいものだと思う。

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 それにしても運転をすることが好きだという同僚のほとんどが、僕にはちょっとした異人種に思えて仕方がない。
 僕はハンドルを握ると8割方眠くなるのだ。

 自動車の運転の苦痛といったらない。
 いくら僕の住んでいる地域が、自動車ありきの生活様式になっているからといって、僕の運転嫌いを理解してくれる人が僕の回りにほとんどいなかったことが、僕には本当に理解できない。

 もちろん、理解しようとしてくれた人はいるけれど。
 はたしてどこまで理解できたのか、僕は知らない。
 もっとも、理解が目的ではなかったのかもしれないから、それであればどちらでもよいことなのだ。

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 月は昨晩より綺麗だった。

 僕は満月も好きだけれど、薄く消えそうな月も好きだ。
 空に浮かんでいるものの、僕は大半が好きだと思う。










::これまで他人をいいように慰みものにし続けたような奴が、ここへ来て随分と格好いいことを言うものだ。
 今からだって遅くはないさ。本当にそうしたいのなら思うようにすればいい。
 それができるときには回避し続けておいて、いまさら思いついたようにテキトーなことを言うな。
 


::今まで好き勝手さんざん遊んできた挙げ句、はいそれでは飽きました、って急に真面目に暮らそうっていうわけ?
 仮にそれがまかり通るとしても、そんなの実現するわけないじゃない。違う?
 童話にあるとおり、それをどんなに誤魔化したところで、キリギリスは冬になればみな死ぬんだよ。






150928

 晴れ。

 僕は孤独にあまりにも慣れ親しんできたのかもしれない。
 最後に独りが寂しいと感じたのはいつだったろう。

 いや。覚えている。
 26の秋で、少し雲のある夜だった。

 結局のところ、そうした感情も、邪魔なものとして僕は排除したのだろう。
 遠い昔、恐怖心を捨てたように。

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 僕自身にとっての、仮想人格としての「貓」たちは、そうした僕の精神的アーキテクチャそのものだ。
 サン=テグジュペリが「僕の中には小さな男の子がいる」と言ったのと等しい構造様式によって、僕の中には猫がいる。
 それは人間という様式を無視しているからこそ、僕を人間という様式に対応させた。

 人間の中に猫などいないという人もいるとは思う。
 たとえるなら、艦これの雪風が轟沈するときの科白よろしく「不沈艦なんて……この世にないのね……」といった悲しい論理展開である。
 目に見えるものしか信じられない、数えられるものしか信用できないとは、時に空しいものではないだろうか。
 しかし、人は、自分の心を見ることができるのだろうか。数えることはできるのだろうか。

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 昨日から、月が綺麗だ。

 僕の体重は、60kg前後を行き来している。
 筋肉は増えたのだけれど、一日一食でアルコールをほとんど摂取しないからなのか、カロリーが足りないのかもしれない。
 ついでにたびたびお腹を下している。
 安いものは身体に合わないのだろう。

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 モノというのは困ったもので、たとえそれが自分のものであっても、なんらかの記憶が付随している。

 記憶のコントロールは得意なのだけれど、記憶の付随したモノは、形があるがゆえに処理が困難なときもある。

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 小学生になってから一緒に遊べる女子の友達はいなくなったし、4年ほどはは男友達もいなかった。
 夏休みのあいだ、僕はのんびり眠って、起きて、テレビを見て、眠った。
 久しぶりの登校日の時、見慣れない学校の教室に入って、僕は思ったものだ。
「この人たちはいったい誰なんだろう? そういう僕は、いったい誰なんだろう?」

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 誰なんだろう?









::思っていることと、それをカタチにすることは、ときに雲泥の差があるものなの。
 図面を元に作られる製品たちは、たしかに図面なしには存在しえないかもしれない。
 でもね。
 それでも、現物と図面は、違うものなんだよ。
 はい図面ができました。それで私たちの仕事は終わりだと思う?

 もう少し、広い目でものを見てほしいかな。
 私たちっていうのが、どこまでの範囲なのかも含めて。
150921

 晴れ。
 世間的には連休らしいのだけれど、休暇は昨日だけで今日も仕事。
 バイトのような仕事からは早く足を洗わないと、と思っているものの、思うようにゆかない。仕方のないところか。

 体重を増やすためにトレーニングをしたが、1週間以上かけても62kgに達せず。
 髪か。髪と爪を伸ばせばいいのか。

 ときどき、貧血のように身体の中央が熱くなって、手足の先がしびれるように冷たくなることがある。
 それなりに必要なぶんは食べているつもりなのだけれど、よく分からない。

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 かろうじて残っている青猫工場のバックアップ文書を読む。
 昔のものだけれど、なかなか面白い。
 とくに一時、毎日書いていた時期があり(思い起こすと仕事が忙しいかったのに、なんとか時間を作って)3ヶ月ほど書いたあと、いよいよ時間が作れなくなって断念した。

 MacOSで Localhost を稼働させるいくつかの方法のうち、ターミナルからSUで起こせることを最近知って試したもののうまくゆかず。
 offline で参照できるように保存しておいた13工場を、せめてもう一度だけでも見てみたいと思ったのだけれど、ハードルが高そう。
 PHPのバージョンも、ある時期を境にまったく異なる仕様になってしまった部分があったと記憶している。

 それにしても、アプリケーションの起動にもいちいち時間がかかるようになってしまったこの機体は、来年まで保たないかもしれない。

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 秋はとても素敵な季節だ。
 とくに、今日(仕事で)走った場所は、山間を越えた先の場所であったため、まるでドライブでもしているかのようにすがすがしい気持ちだった。

 ガールが隣にいれば素敵なのにと思うものの、僕はこの1週間ほど、仕事と買い物以外で誰かと話した記憶がない。

 帰宅してからバックアップに使用していたHDDを3つ解体。
 


150917

「なるほど。ときどきいるよね。自分のことをどこまでも正当化して、相手を隅に追い詰めていくタイプの人間て」
 彼女はそう言うと、グラスを片手に、窓の外を流れるテールランプをしばらく眺めていた。

 僕は特に何を言ったものか分からないので黙っていた。
「もちろん貴方の話を聞いただけだから、私にはその全容はまったくもって分からないし興味もないんだけれど、それでもね」
 言いながら、彼女はそっと視線を僕に向け直す。
 そう。彼女は何かを言うとき、こちらの目を見る。
 そして何かを考えるときは目を閉じたり近くを、何かを思い出すときは遠くをじっと見る。
「どうか。気を悪くしないで欲しいんだけれど。というより、気を悪くするかもしれないことを言うから覚悟して欲しいんだけれど」
 彼女は、はっきりとこちらの視線を捉える。
 僕は動じない。

 綺麗な瞳だ、と思う。
「それってね。DVやストーキングをするタイプの男と一緒だよ。私の前の旦那と一緒」
 僕は驚く。驚いた表情を表に出さないように瞬時にコントロールする。
 うまくいっただろうか。分からない。

 彼女は現在、いわゆるシングルマザーである。
 小学3年生になるであろう娘を自分の両親とともに育てている。
 そして彼女は僕の友達でもある。古くから。もう20年以上の。
「前の旦那」と離婚協定している話を6年ほど前に聞いたのが最後で、その顛末は今も聞いていない。
 聞く必要もないし、興味もなかった。
 DVの旦那によって、肋骨を骨折したとその当時に聞いた。怪我はそれだけではないとも。
 だから今、僕が驚いたのは、彼女の前の旦那がDVをするタイプだからということではない。

「ルールだ、常識だ、といろいろな物を持ち出して砦を築き、そうやって自分の逃げる領域はきちんと確保して、同じ物を今度は武器にして相手の逃げ場を奪っていくの。
 だってあなた、日記をまた全部捨てる羽目になったんでしょう? 携帯電話も預金通帳も覗かれて。
 きっとそれを正当化されて信じ込まされてるから『自分が悪かったんだ』って思い込んでいるはず。
『お前がこれこれこういう理由で悪いから、こうするんだ』って言われなかった? そう信じ込まされなかった? ありとあらゆる手段を、たとえば自身を傷つけるような真似まで選んで。
 だから、あなたは今、彼女の擁護さえするつもりでしょう?
 でも、よく考えて欲しいんだけれど、それを赤の他人がしたら、泥棒と同じでしょう? 家族だって、そんなことはしないでしょう?
 自分を傷つけることで相手を傷つける免罪符を作るのって、おかしいでしょう?」
 さらさらと、彼女は言う。
 僕は目が回る気分になったのは、僕のグラスの中の液体が強いアルコールだから、という理由ではない。

 僕の視線を彼女は見ている。
 そこに含まれている僕の動揺を、読み取っている。
(かなわん)と、僕は思う。

「もう一度、大事なことだから言うけれど。
 私は、全容が全く分からないし、きっと情報も偏ってる上、それらすべてに興味はないんだけれど。
 その上で、私は私の視点からはっきり言わせてもらうけれど。
 あなたは相変わらずの不器用さで、自分の逃げ道を次々塞がれたんだよ。
 そして貴方は相手を追い詰めなかった。追い詰められないように巧妙に作られたルートを、バカみたいに親切に走りつづけた」

 彼女の瞳に、おかしな色が見える。
 これは、怒りだろうか。悲しみだろうか。義憤だろうか。憎しみだろうか。とても熱がこもっている。
 僕はそう感じた。

「それは、道具としてしか考えていないからそういうことが出来るんじゃないかな、と思うよ。貴方、自分が追い詰められた自覚はなかったでしょう。
 牧羊犬だって、そんな逃げ場をなくすような追い詰め方はしないよ。
 追い詰められるのは『貴方が悪いからだ』って言われなかった? そう言いながら、追い詰められなかった?
 結局ね、人形が欲しいだけなんだよ、そういう人って。いたぶるなり、利用するなり、自分の思うようにして、思うようにならなければ癇癪を起こして、自分自身や貴方を傷つけようとする。
 そうすることで、最終的にはあたかも貴方主導で物事を運んだかのようにして、自分の責を逃れつつ、思った通りの状況を手に入れようとする。
 つまり『あなたが自分で選択したんでしょう?』っていう言い訳を用意するのね。
 結末は、たいてい悲惨なものだよ。人形はいずれ飽きられるなり壊されるなりするから。
 要するに、不要になるのね。
 でも、その不要になった人形さえ利用し続けようとする」

 彼女は、目を閉じた。
 目を閉じて、急に話をすることをやめてしまった。
 ぷるぷると、小刻みに、彼女の首が揺れる。
 僕はその仕種を、よく覚えている。

「なんていうか、こう」
 僕はゆっくりと言葉を発する。
「僕は君も知っているとおり、もともとぼんやりしているタイプだからね。誰かが『こうだ』ってあまりに力強くいうと、『案外そうかも』って簡単に思ってしまうんだ。
 自分の意見と人の意見を、およそ同じ重さで捉えてしまう。
 僕が何かを強く思うときがあるように、誰かが何かを強く思ったとして、何も不思議はない。
 たとえそれが、僕個人にとって、不愉快な内容だったとしてもね」

 彼女は、静かに深呼吸する。
 僕の知らない、それは仕種だ。
 そして彼女の瞳から、一切の熱が消えていた。

 そうか。彼女は大人になったんだ。
 それも。僕が想像できないくらい、人として強くなっているのかもしれない。

「それはそれでね。貴方の、昔からのいいところだと私は思うよ。
 だからね。単に私は、自分のフラッシュバックと戦っているのかも」
 そして彼女は微笑んだ。

「僕はね」
 彼女から目を逸らして、僕は天井を見た。
「僕なりの覚悟があったから、自分を崖っぷちに追いやった。僕自身がそれを許容したんだと思っているよ。つまり、自分で選択したんだと」

 ふーん、と彼女は鼻で笑う。
「貴方と同じだけの覚悟が相手にあったと思う? たとえば物理的な、あるいは精神的な逃げ場を自分で消していたと思う?」

 僕は彼女の顔を見つめて、そして笑った。
「それは僕には分からない。他人のことなんか、どこまでも分からないよ。
 覚悟っていうのはさ。自分のぶんしか見えないもの。他人の物まで見たがる人もいるとは思うけれど。それはどだい無理な話であってね。
 そうそう、誠意みたいなもんだね」

 彼女はにやりと笑って首をかしげて、続きを促す。
「『誠意を見せろ』って言う人を何度か見たけれど、あれはなんだろうね。
 見たがる人がいる割に、それを的確に見せられる人はおよそいなかった。
 ときどき見えたと思う人はいたみたいだけれど。
 もちろん子供の嘘を暴くみたいに、あれこれ証拠を出させるような下品なことをする人もいるね。
 そういう人がちょっと外れているタイプなのは事実。
 ただ結局、それは自分の品位を落としているだけだから。
 疑心は闇に鬼を見る。どこまで行っても無間地獄みたいなもんだよ。
 つまり、見たいと思うのも、見えたと思うのも、その人次第でしかないんだよね。
 覚悟もきっと同じだよ」

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 久しぶりに、その店で会ったとき、彼女は開口一番「元気? というか痩せたね!」と笑った。
 僕は「大人になったんだよ」と冗談めかして言ったものの、実際にはそんなこと、これっぽっちも思っていなかった。

 今も、思っていない。
 


::「あ、あの、叔母様……。それ、どうなさるんです?」萌絵は顔を真っ赤にして尋ねた。「それ、まさか、あの、区役所に?」
 佐々木睦子は立ち上がって、萌絵の前に立つ。
「貴女……、私と区役所と、どっちが偉いと思っていて?」






 今日も雨。
 ゲームで使っていた人格(私は女性のキャラクタを、女性のプレイヤのフリをしてプレイしている)を演じることができなくなって一週間ほど経つ。
 キャラクタ(人格)を維持できない場合、他の人とのやりとりがある以上、ゲームをプレイすることはできないしする意味もなくなってしまう。

 他にも、青猫工場のタグの意味をうまく思い出せないなど、いくつか記憶が曖昧になっている部分がある。
 いや、もともと僕の記憶はかなり曖昧なので、はっきりしてることの方を提示した方がまだ正確なようにも思う。

>>>

 配列要素を定義し、できる限りの精細なサンプリングを経て、導関数を出して演算する。
 僕はこれを「直感」として自分の周囲の物事に適用する。
 この手法は、たとえば何かを計画したり、あるいは将来や未来を予測する上でも役に立つ。

 たとえば僕は複数の料理(煮物とお味噌汁と焼き物、というような)をだいたい同時に仕上がるようにする方法を下ごしらえ以前の段階で算出することができる。
 段取りはとても自然に頭の中で再現できるし、どのタイミングでどの作業を開始するかというようなことはもちろん、どのタイミングでどの作業が終わっているべきかもはっきりイメージできる。
 実に同じくらいのタイミングですべての料理が適切な温度でお皿に盛りつけられ、テーブルに載るのであった。

 ところが、世の中にはこうした演算能力に乏しい人もいる。
 そもそもそれぞれの終わりの時間を計算できないし、段取りを組み立てることもできない。
 結果として、焼き魚は冷め、煮物は出来上がらないというような状況になる。

 また、シーケンシャルな計画しかイメージできないために、どこかでつまづくと、元の状態に立て直せない人もいる。
 計画というのは運動会のプログラムのように一直線に決まっているものではなくて、コンピュータプログラムのように条件分岐し、ときにループしながら、適切な出力のために演算し続けるものである。

 人間の身体をマッサージする場合でも、どこの部位(肩や脚)の、どこの箇所(筋肉や腱、血管など)が、どのように(痛い、冷たい、硬いといった)不具合になっているかを確認し、それに応じて、その原因になる場所(肩なら脚や腰や首やこめかみ、腕など)から調整するのが少なくとも僕にとっては一般的である。

 時間的なことに関しても、目的達成に関しても、勘の悪い人や計算能力に乏しい人の場合、どうしても直接的な方法を取ろうとする。
 こちらが提示した時間やプランに対して(それではダメだ)なんて平気でおっしゃる。
 もちろん、何かより具体的でスピーディかつ有効なアイディアがあるのかと思うと、そんなことはない。
 迷路のなかを餌に向かって一直線に猛進しようとするラットのごとく、壁をいつまでもかりかりしていることも少なくない。
 捕まえて食い散らかしてやろうかと思う瞬間である。

 料理店で時間のかかる料理(提供までに最低でも20分以上で、そうした調理に時間のかかる料理は、ウェイタやウェイトレスが注文時に確認を取るのが一般的である)を頼んでおきながら「早くしろ」なんて平気で言うような人もそうだろう。
 マッサージでも、肩が痛いからといって肩を強く押したりする人がいるが、逆効果になることもしばしばだと僕は思うのですがこれは僕だけでしょうか。

 とにかく、それらはひとことでいうと「道理が分かっていない」からこそのことである。

 時間も物事も精神状態も、相応に道理がある。
 道理を逆算して現在点からのコントロールを考えることが計画であるのだけれど、そもそも道理が狂っていれば先の例のように、時間やコントロールについて間違った対応をすることになる。

 僕は物事の実行にあたっては、最低必要時間の1.5倍の時間を見積もるし、だいたいこれでうまくいく。
 しかしながら道理の分からない人は「急げばその半分で出来るだろう」「もっと早くできるはずだ」と平気で言う。
 もちろん、そういう可能性もある。
 物事がすべて予想通り、あるいは予想以上にとんとん拍子に運べば、そういうことも可能だ。

 つまりこれは「肩が痛いから肩を強く押せば、なんとなく良くなったような気持ちになる」という考え方と一緒で、たまたまそれで良くなることもあるかもしれないけれど、たいていは間違った対応になる。
 時間的にもプロセス的にも間違った道理で事を運べば、結局のところすべてのバランスが崩れて行く。

 間違うことが悪いわけではない。
 プロセスで、予想外のことや想定外のことが発生するのはむしろ当然のことだし、だからこそそれを踏まえて余剰の時間を計画にあらかじめ盛り込まなくてはならない。
 その余剰を計算できないことが、想定外を盛り込めないことになり、ひとたび想定外の状況がひとつでも発生すれば、それだけで簡単にプロセスを破綻させ、プランを崩壊させるのだ。

 たとえば料理の本で「じゃがいもをレンジで5分加熱し」と書いてあっても、じゃがいものサイズによって、料理の内容によって、電子レンジの出力によって、それは適切に調整が必要になる。
 生では困るし、水分が抜けてカチカチになったらもっと困る。
「レシピに書いてあったから」という言い訳が平気で出来るとすれば、それはレシピを見て素材を見ず、という状況になる(諺っぽいけれど、そんな諺はない)。

 その人間の総合的な演算能力(算数の能力ではない)を観察する上で、食事一式を作ってもらうのはいちばん簡単な確認方法のように思う。
 もちろん、人には得手不得手があるものの、美味しい料理が好きだというわりに美味しい料理を適切に作れないとしたら、自身の目的と手段が不一致になりがちな傾向だと考えても良いのではないだろうか。
(なので、もともと食事はなんでも構わない、という人であればそれ以外のその人の得意な何かにおいてその能力を確認できるだろう)

 そうした総合的な計画能力や対応能力がない人間は、たとえ記憶力が良くて学業の成績が良かったとしても、結果的には致命的なバカだといえるだろう。

 僕がときおり、かなり優秀な頭脳の持ち主に(え! 高卒!?)と驚かれるのは、もしかしたらこの総合的な微分積分による演算をきわめて短時間で処理する直感として、物事から人の心理にまで応用し、対応しているからかもしれない。
 もちろん、誰かに褒められるために身につけた技術ではないから、誰が何と言おうと特に問題はない。
 ただ、自分の足下も見えていないバカに「お前はなにも分かっていない」と言われてしまうと、ちょっと笑ってしまう。

 そりゃ分かっていないように見えるでしょう。と。

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 以前ゲームの中の友人たちと話していて「私、バカが大っ嫌いなんだ」と話したところ、ドン引きされた。
「え? 俺もバカだと思われてる?」と皆、自分の心配をするのである。
 そんなに私はあなたを嫌っているように見えるのかと言って笑ったものである。

 そのとき私は説明をした。
「バカというのは相対的なものだから」と。

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 自分が相手のことをバカだと感じるとき、往々にして相手も自分のことをバカだと感じているのである。
 だから自分が相手をバカだと思ったときは、気を付けなくてはならない。

 それは相手が自分をバカだと思っているからかもしれないし、あるいは相手が自分をバカだと思う予兆かもしれない。
 誰が誰をバカと思おうがそんなことは関係ない、と誰もがきちんと認識できるならよいけれど、たいていの人間は、自分をバカだと思われたり言われたりすると適切なパフォーマンスを発揮できないものである。
 少しのことで「バカにされた」といってふて腐れる人間は数多いし、バカにされていると認識していても、目的を達成するためにそんな評価を気にせず、淡々と事を運べる人は少ない。
(多分、政治家や官僚はこの「淡々と事を運ぶ」能力に長けていると感じる。さすが国家を運営する人間は違うと素直に僕は感心する。もっとも国会中継を見たり聞いたりしないようにしているのだけれど)
(ここ、笑うところです)

 プランを現実のものにする上で、あるいは日常生活の中で、誰かを「バカだ」と感じることはたしかにあるかもしれない。
 僕はそのとき、バカだと思える対象が、いちばん自分にとって勉強になる対象だと考えている。
 自分の知らない基準に則って発言し、行動しているのである。だから自分からはバカに見えるのである。
 その基準を知ることで、バカの言動を予測し、サンプリングを精細にすることが可能だ。

 そして今後のプランを立案するときに、そのバカの要素を排除するなり、うまく組み込むなりすることでプランはより完全なものになってゆくだろう。

 ただ僕の場合、誰かに「もっと早くできるはずだ」なんて言われると、たとえそれが単なる気分や思いつきであったとしても(そうなのか。もしかしたらそういう方法があって、それをこの人は知っているのかもしれない)なんて思って勝手にプランの時間的な長さや内容を変更してしまって大失敗したりする。

 バカの言うことはアテにしたくないと思うものの、自分がバカなのか他人がバカなのか、最後まで僕には分からないのであった。








::佐々木睦子はゆっくりと笑みを浮かべ、一度大きく瞬いてから、優雅な動作で煙草を口に運んだ。まるで映画のワンシーンのようなその仕種は、多くの野心家の男性たちよりも、はるかに本ものの自信に満たされた女性の印象を刻むのに充分だった。
「許可します」佐々木睦子はそう言った。
 犀川は、ただ見とれていた。
 ゆっくりと煙を吹き出してから、彼女は続ける。「別に、私の許可なんて意味はないのです。そもそも誰の許可でも意味はありません。結婚なんて、言葉にも、その概念にも、意味はないわ。けれどね、犀川先生……。貴方は、今、イエスと言ったのよ。それは、とても意味があることです」
「そうだと良いですね」犀川は頷く。







冒頭引用は
「第8章:懐疑は虚空のなかに」(p.449)

文末引用は
「第7章:黙祷は懐疑のなかに」(p.362~363)

From「封印再度 ~ WHO IN SIDE ~」
(著作:森 博嗣 / 発行:講談社文庫)
によりました。