::そもそもの最初から「私」なんてものは存在しなかったのかもしれない。
 周囲の反応や自分の思い込みから自己の輪郭の感触を得ているだけで、そこにあるのは単なる肉体、つまりハードウェアだけでしかないのかもしれない。
 自分が自分であるという根拠を私たちはどこから得ているというのだろう。
 誰もが「自分は自分だ」という確固たる幻想を抱いているだけのように私には思えるのだけれど。




 151012

 最後に心から笑ったのはいつだったろう。
 痛みを感じない。
 楽しさを感じない。
 怒りを感じない。
 悲しみを感じない。

 美しい景色を見ても。
 クールな音楽を聴いても。
 綺麗なガールを見ても。
 たとえそれがナイスバディ眼鏡女子であったとしても。

 今の僕は、何も感じない。

>>>

 僕の卓越した客観性は、時に周囲を惑わせることがある。
「自分のことでしょう?」というような反応は今まで何度も見てきた。

 たとえば僕は自分の感じていることを
「僕はこのように感じているようだ」と感覚する。
 これを率直に他者に表現すると「自分のことなのに、なに、それ?」という反応を誘発することになることが多い。
 僕にしてみると、これは「僕はこのように感じている可能性が高い」という、確率や割合の問題として表現している。
 しかし多くの人は自分が同時に複数の感覚や考え、感情を持ったりしていて、それが相反することもなく、それどころかそれらは常に単一のものとして自分の中に発現していると認識しているように観察される。

 僕は自分の考えていることや感じていることを上手く言葉にできないことが多いし、言葉にすることでかなり多くの情報が欠落していると、書いているそばから(たとえばこの瞬間も)感じている。
 そういうもどかしさを、きちんと理解して、あるいは少なくともそれを大切にしてくれた人はあまり多くはない。
(つまり、少ないけれど、大切にしてくれる人もいた)
「自分の感じていることくらい、きちんと言葉にできるでしょう?」
「自分の考えていることを言葉にすることは、私も練習して身につけたんだよ」
 とまぁ、それがあたかも上位互換であるかのように振る舞う人が多いのではあるが、そうした人の多くが、実のところ、まったく互換性を持ってはいない。
 それが自己の確立という感覚のために感覚や思考を単一化する末路であるかのようではある。

 単一化は、たしかに分かりやすい。
 自分自身にも、そして他者にも分かりやすくディスプレイすることができる。
 コミュニケーションをするうえで、僕などはかなりの不適格者だろう。
 書いているそばから、言っているそばから、果たしてそれが自分自身の考えていることなのか、感じていることなのか、そのすべてであるのかということについて、明確に断言することはできないのだから。

 しかしもし、単一化することが、その不確定な自分を許容するということの上位互換であるならば、単一化されたディスプレイの奥に、複数の、そしてときには容易に相反したり重複したりする感覚や感情、思考や予感に対しての理解を示すこともできるはずなのではないだろうか。
 けれども単純化された人たちは自分の感覚に基づいて「その曖昧な態度は何なのか」と非難する事が多い。
 多いというだけで、実際には例外もあるものの、そうした自己の単一性について疑問に思いもしない人は、自分が複数の感情や思考を並行していることを知らないか、そもそもそれを忘れているのだろう。

 生まれたばかりの頃、少なくとも僕は、笑うことを知らなかった。
 悲しみを知らなかった。
 空しさを知らなかった。
 友情を知らなかった。
 愛情を知らなかった。
 空の高さを知らなかった。
 雲の正体を知らなかった。
 虹の不思議を知らなかった。
 空を飛ぶ鳥の美しさを知らなかった。
 澄んだ水底の恐ろしさを知らなかった。
 暴力を知らなかった。
 狡猾さを知らなかった。
 欺瞞を知らなかった。
 喜ぶことを知らなかった。

 何も知らなかったこと、何も感じなかったこと、それを忘れてしまうから、何も知らない人や、何も感じない人を馬鹿にしたり、哀れんだりするのだろう。

 名前を変えればお前のことではないか、と僕は思う。
 いや、名前を変えるまでもない。
 自分だってそうだったのではないのか。








::実は僕、昔から不思議に思っていることがあるんだ。
::はい。なんでしょう?
::日本では「自分」「己」「手前」など、「my self」という意味と同時に「your self」という意味も持っている言葉がある。時代や地方によって違うみたいだね。
 いつしか、一人称代名詞の多くがそうなのかもしれないと思うようになったほどだ。
::ああ。そうですね。
::子供の頃ね「ボクの名前は?」とか「ボクはどこから来たの?」なんて大人に言われるたびに、僕はかなり怪訝な思いをしたんだ。
 英語にしてみると分かると思うけれど「What my name ?」「Where my come from ?」ってことでしょう?
 当時は二人称代名詞なんて知らなかったけれど「君の名前は?」とか「あなたはどこから来たの?」ってなるべきだと感じていたから、すごく違和感があってね。
「この大人はちゃんとした言葉を知らないんだろうか」って思っていたんだ。
::あはは。青猫様らしいですね。
::でも大人になってからね、それが日本の文化であり、精神性なんだと僕は思うようになったんだ。
 つまりね、かつての日本は、自分と他者を同じ土俵にきちんと立たせていたんじゃないかって。
::同じ土俵、ですか?
::そう。西洋文化だと、自分は自分で、他人は他人、その境界が明確なんだ。
 一方で、日本の文化では、自分と他人の境界が曖昧で、自分と他人を同じように感じることが多かったんじゃないかな、って。
 たとえば他人の痛みが分かるとかいう概念があるけれど、本当は分かるわけないじゃない?
 他人なんだし、痛みなんて人それぞれなんだから。
 でも、それをきちんと共感できる土壌があったんじゃないかな、って。
 もちろん今はその多くが失われてしまったとは思うけれど。
 たとえるなら、そういうこと。



 
 


::アンタはご大層なお題目を振りかざして、自分の都合で塗り固めた城を作ったんだろう。
 ならずっと、そこで暮らしていればいい。
 あったこともなかったことも、都合良くその場で捏造するのがお前たちのルールだというのなら、好きにするがいいさ。




150929

 晴れ。良い天気。
 先週からだろうか、山間を走ることが増えた。
 立体的に連なる山々は、林立するビルとは異なる視覚刺激を空間認識回路に与える。

 日中に思わぬ空き時間が出来たので、仕方なく昼食を摂ったところ、駅のホームでひどい胸焼けと吐き気に襲われ困った。
 慣れない一日二食は避けた方がよい。

>>>

 手段と目的については以前の日記でも書いたことがある。
 それを交換することは、ときに思わぬ発見を観察者(主としてそれを実行する自分自身)にもたらすことがある。

 とくにこれは仕事のように明確な目的がある場合ではなく、遊びのように、本来目的だと思っていたはずのものよりも手段そのもの、課程の方が楽しいことに気がつくような場合に多いと思う。

 もちろん、仕事でそういった逆転現象による観察帯域の増幅が見られることもある。
 しかしながらそもそもの目的が明確で、かつ(ほとんどの場合において)集団で共通の目的を達成することが重要である仕事では、個々人の価値観や感受性の中における目的/手段の逆転は否定のしようがないものの、それを全体の共通価値に置き換えることは本末転倒にしかならない。

 目的は目的。手段は手段。
 目的を達成するためのサブルーチンと考えれば、手段もひとつの目的を持ってはいる。
 しかし本来の目的が度外視されたり、忘れられていた場合に、本来の目的を達成することはときに容易ではなくなるだろう。

 自動車の運転も同様で、運転そのものが目的なのか、それともどこかに到達するのが目的なのか。
 少なくとも、自分の中では、それははっきりと持っておき、忘れずにいたいものだと思う。

>>>

 それにしても運転をすることが好きだという同僚のほとんどが、僕にはちょっとした異人種に思えて仕方がない。
 僕はハンドルを握ると8割方眠くなるのだ。

 自動車の運転の苦痛といったらない。
 いくら僕の住んでいる地域が、自動車ありきの生活様式になっているからといって、僕の運転嫌いを理解してくれる人が僕の回りにほとんどいなかったことが、僕には本当に理解できない。

 もちろん、理解しようとしてくれた人はいるけれど。
 はたしてどこまで理解できたのか、僕は知らない。
 もっとも、理解が目的ではなかったのかもしれないから、それであればどちらでもよいことなのだ。

>>>

 月は昨晩より綺麗だった。

 僕は満月も好きだけれど、薄く消えそうな月も好きだ。
 空に浮かんでいるものの、僕は大半が好きだと思う。










::これまで他人をいいように慰みものにし続けたような奴が、ここへ来て随分と格好いいことを言うものだ。
 今からだって遅くはないさ。本当にそうしたいのなら思うようにすればいい。
 それができるときには回避し続けておいて、いまさら思いついたようにテキトーなことを言うな。
 


::今まで好き勝手さんざん遊んできた挙げ句、はいそれでは飽きました、って急に真面目に暮らそうっていうわけ?
 仮にそれがまかり通るとしても、そんなの実現するわけないじゃない。違う?
 童話にあるとおり、それをどんなに誤魔化したところで、キリギリスは冬になればみな死ぬんだよ。






150928

 晴れ。

 僕は孤独にあまりにも慣れ親しんできたのかもしれない。
 最後に独りが寂しいと感じたのはいつだったろう。

 いや。覚えている。
 26の秋で、少し雲のある夜だった。

 結局のところ、そうした感情も、邪魔なものとして僕は排除したのだろう。
 遠い昔、恐怖心を捨てたように。

>>>

 僕自身にとっての、仮想人格としての「貓」たちは、そうした僕の精神的アーキテクチャそのものだ。
 サン=テグジュペリが「僕の中には小さな男の子がいる」と言ったのと等しい構造様式によって、僕の中には猫がいる。
 それは人間という様式を無視しているからこそ、僕を人間という様式に対応させた。

 人間の中に猫などいないという人もいるとは思う。
 たとえるなら、艦これの雪風が轟沈するときの科白よろしく「不沈艦なんて……この世にないのね……」といった悲しい論理展開である。
 目に見えるものしか信じられない、数えられるものしか信用できないとは、時に空しいものではないだろうか。
 しかし、人は、自分の心を見ることができるのだろうか。数えることはできるのだろうか。

>>>

 昨日から、月が綺麗だ。

 僕の体重は、60kg前後を行き来している。
 筋肉は増えたのだけれど、一日一食でアルコールをほとんど摂取しないからなのか、カロリーが足りないのかもしれない。
 ついでにたびたびお腹を下している。
 安いものは身体に合わないのだろう。

>>>

 モノというのは困ったもので、たとえそれが自分のものであっても、なんらかの記憶が付随している。

 記憶のコントロールは得意なのだけれど、記憶の付随したモノは、形があるがゆえに処理が困難なときもある。

>>>

 小学生になってから一緒に遊べる女子の友達はいなくなったし、4年ほどはは男友達もいなかった。
 夏休みのあいだ、僕はのんびり眠って、起きて、テレビを見て、眠った。
 久しぶりの登校日の時、見慣れない学校の教室に入って、僕は思ったものだ。
「この人たちはいったい誰なんだろう? そういう僕は、いったい誰なんだろう?」

>>>

 誰なんだろう?









::思っていることと、それをカタチにすることは、ときに雲泥の差があるものなの。
 図面を元に作られる製品たちは、たしかに図面なしには存在しえないかもしれない。
 でもね。
 それでも、現物と図面は、違うものなんだよ。
 はい図面ができました。それで私たちの仕事は終わりだと思う?

 もう少し、広い目でものを見てほしいかな。
 私たちっていうのが、どこまでの範囲なのかも含めて。
150921

 晴れ。
 世間的には連休らしいのだけれど、休暇は昨日だけで今日も仕事。
 バイトのような仕事からは早く足を洗わないと、と思っているものの、思うようにゆかない。仕方のないところか。

 体重を増やすためにトレーニングをしたが、1週間以上かけても62kgに達せず。
 髪か。髪と爪を伸ばせばいいのか。

 ときどき、貧血のように身体の中央が熱くなって、手足の先がしびれるように冷たくなることがある。
 それなりに必要なぶんは食べているつもりなのだけれど、よく分からない。

>>>

 かろうじて残っている青猫工場のバックアップ文書を読む。
 昔のものだけれど、なかなか面白い。
 とくに一時、毎日書いていた時期があり(思い起こすと仕事が忙しいかったのに、なんとか時間を作って)3ヶ月ほど書いたあと、いよいよ時間が作れなくなって断念した。

 MacOSで Localhost を稼働させるいくつかの方法のうち、ターミナルからSUで起こせることを最近知って試したもののうまくゆかず。
 offline で参照できるように保存しておいた13工場を、せめてもう一度だけでも見てみたいと思ったのだけれど、ハードルが高そう。
 PHPのバージョンも、ある時期を境にまったく異なる仕様になってしまった部分があったと記憶している。

 それにしても、アプリケーションの起動にもいちいち時間がかかるようになってしまったこの機体は、来年まで保たないかもしれない。

>>>

 秋はとても素敵な季節だ。
 とくに、今日(仕事で)走った場所は、山間を越えた先の場所であったため、まるでドライブでもしているかのようにすがすがしい気持ちだった。

 ガールが隣にいれば素敵なのにと思うものの、僕はこの1週間ほど、仕事と買い物以外で誰かと話した記憶がない。

 帰宅してからバックアップに使用していたHDDを3つ解体。
 


150917

「なるほど。ときどきいるよね。自分のことをどこまでも正当化して、相手を隅に追い詰めていくタイプの人間て」
 彼女はそう言うと、グラスを片手に、窓の外を流れるテールランプをしばらく眺めていた。

 僕は特に何を言ったものか分からないので黙っていた。
「もちろん貴方の話を聞いただけだから、私にはその全容はまったくもって分からないし興味もないんだけれど、それでもね」
 言いながら、彼女はそっと視線を僕に向け直す。
 そう。彼女は何かを言うとき、こちらの目を見る。
 そして何かを考えるときは目を閉じたり近くを、何かを思い出すときは遠くをじっと見る。
「どうか。気を悪くしないで欲しいんだけれど。というより、気を悪くするかもしれないことを言うから覚悟して欲しいんだけれど」
 彼女は、はっきりとこちらの視線を捉える。
 僕は動じない。

 綺麗な瞳だ、と思う。
「それってね。DVやストーキングをするタイプの男と一緒だよ。私の前の旦那と一緒」
 僕は驚く。驚いた表情を表に出さないように瞬時にコントロールする。
 うまくいっただろうか。分からない。

 彼女は現在、いわゆるシングルマザーである。
 小学3年生になるであろう娘を自分の両親とともに育てている。
 そして彼女は僕の友達でもある。古くから。もう20年以上の。
「前の旦那」と離婚協定している話を6年ほど前に聞いたのが最後で、その顛末は今も聞いていない。
 聞く必要もないし、興味もなかった。
 DVの旦那によって、肋骨を骨折したとその当時に聞いた。怪我はそれだけではないとも。
 だから今、僕が驚いたのは、彼女の前の旦那がDVをするタイプだからということではない。

「ルールだ、常識だ、といろいろな物を持ち出して砦を築き、そうやって自分の逃げる領域はきちんと確保して、同じ物を今度は武器にして相手の逃げ場を奪っていくの。
 だってあなた、日記をまた全部捨てる羽目になったんでしょう? 携帯電話も預金通帳も覗かれて。
 きっとそれを正当化されて信じ込まされてるから『自分が悪かったんだ』って思い込んでいるはず。
『お前がこれこれこういう理由で悪いから、こうするんだ』って言われなかった? そう信じ込まされなかった? ありとあらゆる手段を、たとえば自身を傷つけるような真似まで選んで。
 だから、あなたは今、彼女の擁護さえするつもりでしょう?
 でも、よく考えて欲しいんだけれど、それを赤の他人がしたら、泥棒と同じでしょう? 家族だって、そんなことはしないでしょう?
 自分を傷つけることで相手を傷つける免罪符を作るのって、おかしいでしょう?」
 さらさらと、彼女は言う。
 僕は目が回る気分になったのは、僕のグラスの中の液体が強いアルコールだから、という理由ではない。

 僕の視線を彼女は見ている。
 そこに含まれている僕の動揺を、読み取っている。
(かなわん)と、僕は思う。

「もう一度、大事なことだから言うけれど。
 私は、全容が全く分からないし、きっと情報も偏ってる上、それらすべてに興味はないんだけれど。
 その上で、私は私の視点からはっきり言わせてもらうけれど。
 あなたは相変わらずの不器用さで、自分の逃げ道を次々塞がれたんだよ。
 そして貴方は相手を追い詰めなかった。追い詰められないように巧妙に作られたルートを、バカみたいに親切に走りつづけた」

 彼女の瞳に、おかしな色が見える。
 これは、怒りだろうか。悲しみだろうか。義憤だろうか。憎しみだろうか。とても熱がこもっている。
 僕はそう感じた。

「それは、道具としてしか考えていないからそういうことが出来るんじゃないかな、と思うよ。貴方、自分が追い詰められた自覚はなかったでしょう。
 牧羊犬だって、そんな逃げ場をなくすような追い詰め方はしないよ。
 追い詰められるのは『貴方が悪いからだ』って言われなかった? そう言いながら、追い詰められなかった?
 結局ね、人形が欲しいだけなんだよ、そういう人って。いたぶるなり、利用するなり、自分の思うようにして、思うようにならなければ癇癪を起こして、自分自身や貴方を傷つけようとする。
 そうすることで、最終的にはあたかも貴方主導で物事を運んだかのようにして、自分の責を逃れつつ、思った通りの状況を手に入れようとする。
 つまり『あなたが自分で選択したんでしょう?』っていう言い訳を用意するのね。
 結末は、たいてい悲惨なものだよ。人形はいずれ飽きられるなり壊されるなりするから。
 要するに、不要になるのね。
 でも、その不要になった人形さえ利用し続けようとする」

 彼女は、目を閉じた。
 目を閉じて、急に話をすることをやめてしまった。
 ぷるぷると、小刻みに、彼女の首が揺れる。
 僕はその仕種を、よく覚えている。

「なんていうか、こう」
 僕はゆっくりと言葉を発する。
「僕は君も知っているとおり、もともとぼんやりしているタイプだからね。誰かが『こうだ』ってあまりに力強くいうと、『案外そうかも』って簡単に思ってしまうんだ。
 自分の意見と人の意見を、およそ同じ重さで捉えてしまう。
 僕が何かを強く思うときがあるように、誰かが何かを強く思ったとして、何も不思議はない。
 たとえそれが、僕個人にとって、不愉快な内容だったとしてもね」

 彼女は、静かに深呼吸する。
 僕の知らない、それは仕種だ。
 そして彼女の瞳から、一切の熱が消えていた。

 そうか。彼女は大人になったんだ。
 それも。僕が想像できないくらい、人として強くなっているのかもしれない。

「それはそれでね。貴方の、昔からのいいところだと私は思うよ。
 だからね。単に私は、自分のフラッシュバックと戦っているのかも」
 そして彼女は微笑んだ。

「僕はね」
 彼女から目を逸らして、僕は天井を見た。
「僕なりの覚悟があったから、自分を崖っぷちに追いやった。僕自身がそれを許容したんだと思っているよ。つまり、自分で選択したんだと」

 ふーん、と彼女は鼻で笑う。
「貴方と同じだけの覚悟が相手にあったと思う? たとえば物理的な、あるいは精神的な逃げ場を自分で消していたと思う?」

 僕は彼女の顔を見つめて、そして笑った。
「それは僕には分からない。他人のことなんか、どこまでも分からないよ。
 覚悟っていうのはさ。自分のぶんしか見えないもの。他人の物まで見たがる人もいるとは思うけれど。それはどだい無理な話であってね。
 そうそう、誠意みたいなもんだね」

 彼女はにやりと笑って首をかしげて、続きを促す。
「『誠意を見せろ』って言う人を何度か見たけれど、あれはなんだろうね。
 見たがる人がいる割に、それを的確に見せられる人はおよそいなかった。
 ときどき見えたと思う人はいたみたいだけれど。
 もちろん子供の嘘を暴くみたいに、あれこれ証拠を出させるような下品なことをする人もいるね。
 そういう人がちょっと外れているタイプなのは事実。
 ただ結局、それは自分の品位を落としているだけだから。
 疑心は闇に鬼を見る。どこまで行っても無間地獄みたいなもんだよ。
 つまり、見たいと思うのも、見えたと思うのも、その人次第でしかないんだよね。
 覚悟もきっと同じだよ」

>>>

 久しぶりに、その店で会ったとき、彼女は開口一番「元気? というか痩せたね!」と笑った。
 僕は「大人になったんだよ」と冗談めかして言ったものの、実際にはそんなこと、これっぽっちも思っていなかった。

 今も、思っていない。
 


::「あ、あの、叔母様……。それ、どうなさるんです?」萌絵は顔を真っ赤にして尋ねた。「それ、まさか、あの、区役所に?」
 佐々木睦子は立ち上がって、萌絵の前に立つ。
「貴女……、私と区役所と、どっちが偉いと思っていて?」






 今日も雨。
 ゲームで使っていた人格(私は女性のキャラクタを、女性のプレイヤのフリをしてプレイしている)を演じることができなくなって一週間ほど経つ。
 キャラクタ(人格)を維持できない場合、他の人とのやりとりがある以上、ゲームをプレイすることはできないしする意味もなくなってしまう。

 他にも、青猫工場のタグの意味をうまく思い出せないなど、いくつか記憶が曖昧になっている部分がある。
 いや、もともと僕の記憶はかなり曖昧なので、はっきりしてることの方を提示した方がまだ正確なようにも思う。

>>>

 配列要素を定義し、できる限りの精細なサンプリングを経て、導関数を出して演算する。
 僕はこれを「直感」として自分の周囲の物事に適用する。
 この手法は、たとえば何かを計画したり、あるいは将来や未来を予測する上でも役に立つ。

 たとえば僕は複数の料理(煮物とお味噌汁と焼き物、というような)をだいたい同時に仕上がるようにする方法を下ごしらえ以前の段階で算出することができる。
 段取りはとても自然に頭の中で再現できるし、どのタイミングでどの作業を開始するかというようなことはもちろん、どのタイミングでどの作業が終わっているべきかもはっきりイメージできる。
 実に同じくらいのタイミングですべての料理が適切な温度でお皿に盛りつけられ、テーブルに載るのであった。

 ところが、世の中にはこうした演算能力に乏しい人もいる。
 そもそもそれぞれの終わりの時間を計算できないし、段取りを組み立てることもできない。
 結果として、焼き魚は冷め、煮物は出来上がらないというような状況になる。

 また、シーケンシャルな計画しかイメージできないために、どこかでつまづくと、元の状態に立て直せない人もいる。
 計画というのは運動会のプログラムのように一直線に決まっているものではなくて、コンピュータプログラムのように条件分岐し、ときにループしながら、適切な出力のために演算し続けるものである。

 人間の身体をマッサージする場合でも、どこの部位(肩や脚)の、どこの箇所(筋肉や腱、血管など)が、どのように(痛い、冷たい、硬いといった)不具合になっているかを確認し、それに応じて、その原因になる場所(肩なら脚や腰や首やこめかみ、腕など)から調整するのが少なくとも僕にとっては一般的である。

 時間的なことに関しても、目的達成に関しても、勘の悪い人や計算能力に乏しい人の場合、どうしても直接的な方法を取ろうとする。
 こちらが提示した時間やプランに対して(それではダメだ)なんて平気でおっしゃる。
 もちろん、何かより具体的でスピーディかつ有効なアイディアがあるのかと思うと、そんなことはない。
 迷路のなかを餌に向かって一直線に猛進しようとするラットのごとく、壁をいつまでもかりかりしていることも少なくない。
 捕まえて食い散らかしてやろうかと思う瞬間である。

 料理店で時間のかかる料理(提供までに最低でも20分以上で、そうした調理に時間のかかる料理は、ウェイタやウェイトレスが注文時に確認を取るのが一般的である)を頼んでおきながら「早くしろ」なんて平気で言うような人もそうだろう。
 マッサージでも、肩が痛いからといって肩を強く押したりする人がいるが、逆効果になることもしばしばだと僕は思うのですがこれは僕だけでしょうか。

 とにかく、それらはひとことでいうと「道理が分かっていない」からこそのことである。

 時間も物事も精神状態も、相応に道理がある。
 道理を逆算して現在点からのコントロールを考えることが計画であるのだけれど、そもそも道理が狂っていれば先の例のように、時間やコントロールについて間違った対応をすることになる。

 僕は物事の実行にあたっては、最低必要時間の1.5倍の時間を見積もるし、だいたいこれでうまくいく。
 しかしながら道理の分からない人は「急げばその半分で出来るだろう」「もっと早くできるはずだ」と平気で言う。
 もちろん、そういう可能性もある。
 物事がすべて予想通り、あるいは予想以上にとんとん拍子に運べば、そういうことも可能だ。

 つまりこれは「肩が痛いから肩を強く押せば、なんとなく良くなったような気持ちになる」という考え方と一緒で、たまたまそれで良くなることもあるかもしれないけれど、たいていは間違った対応になる。
 時間的にもプロセス的にも間違った道理で事を運べば、結局のところすべてのバランスが崩れて行く。

 間違うことが悪いわけではない。
 プロセスで、予想外のことや想定外のことが発生するのはむしろ当然のことだし、だからこそそれを踏まえて余剰の時間を計画にあらかじめ盛り込まなくてはならない。
 その余剰を計算できないことが、想定外を盛り込めないことになり、ひとたび想定外の状況がひとつでも発生すれば、それだけで簡単にプロセスを破綻させ、プランを崩壊させるのだ。

 たとえば料理の本で「じゃがいもをレンジで5分加熱し」と書いてあっても、じゃがいものサイズによって、料理の内容によって、電子レンジの出力によって、それは適切に調整が必要になる。
 生では困るし、水分が抜けてカチカチになったらもっと困る。
「レシピに書いてあったから」という言い訳が平気で出来るとすれば、それはレシピを見て素材を見ず、という状況になる(諺っぽいけれど、そんな諺はない)。

 その人間の総合的な演算能力(算数の能力ではない)を観察する上で、食事一式を作ってもらうのはいちばん簡単な確認方法のように思う。
 もちろん、人には得手不得手があるものの、美味しい料理が好きだというわりに美味しい料理を適切に作れないとしたら、自身の目的と手段が不一致になりがちな傾向だと考えても良いのではないだろうか。
(なので、もともと食事はなんでも構わない、という人であればそれ以外のその人の得意な何かにおいてその能力を確認できるだろう)

 そうした総合的な計画能力や対応能力がない人間は、たとえ記憶力が良くて学業の成績が良かったとしても、結果的には致命的なバカだといえるだろう。

 僕がときおり、かなり優秀な頭脳の持ち主に(え! 高卒!?)と驚かれるのは、もしかしたらこの総合的な微分積分による演算をきわめて短時間で処理する直感として、物事から人の心理にまで応用し、対応しているからかもしれない。
 もちろん、誰かに褒められるために身につけた技術ではないから、誰が何と言おうと特に問題はない。
 ただ、自分の足下も見えていないバカに「お前はなにも分かっていない」と言われてしまうと、ちょっと笑ってしまう。

 そりゃ分かっていないように見えるでしょう。と。

>>>

 以前ゲームの中の友人たちと話していて「私、バカが大っ嫌いなんだ」と話したところ、ドン引きされた。
「え? 俺もバカだと思われてる?」と皆、自分の心配をするのである。
 そんなに私はあなたを嫌っているように見えるのかと言って笑ったものである。

 そのとき私は説明をした。
「バカというのは相対的なものだから」と。

>>>

 自分が相手のことをバカだと感じるとき、往々にして相手も自分のことをバカだと感じているのである。
 だから自分が相手をバカだと思ったときは、気を付けなくてはならない。

 それは相手が自分をバカだと思っているからかもしれないし、あるいは相手が自分をバカだと思う予兆かもしれない。
 誰が誰をバカと思おうがそんなことは関係ない、と誰もがきちんと認識できるならよいけれど、たいていの人間は、自分をバカだと思われたり言われたりすると適切なパフォーマンスを発揮できないものである。
 少しのことで「バカにされた」といってふて腐れる人間は数多いし、バカにされていると認識していても、目的を達成するためにそんな評価を気にせず、淡々と事を運べる人は少ない。
(多分、政治家や官僚はこの「淡々と事を運ぶ」能力に長けていると感じる。さすが国家を運営する人間は違うと素直に僕は感心する。もっとも国会中継を見たり聞いたりしないようにしているのだけれど)
(ここ、笑うところです)

 プランを現実のものにする上で、あるいは日常生活の中で、誰かを「バカだ」と感じることはたしかにあるかもしれない。
 僕はそのとき、バカだと思える対象が、いちばん自分にとって勉強になる対象だと考えている。
 自分の知らない基準に則って発言し、行動しているのである。だから自分からはバカに見えるのである。
 その基準を知ることで、バカの言動を予測し、サンプリングを精細にすることが可能だ。

 そして今後のプランを立案するときに、そのバカの要素を排除するなり、うまく組み込むなりすることでプランはより完全なものになってゆくだろう。

 ただ僕の場合、誰かに「もっと早くできるはずだ」なんて言われると、たとえそれが単なる気分や思いつきであったとしても(そうなのか。もしかしたらそういう方法があって、それをこの人は知っているのかもしれない)なんて思って勝手にプランの時間的な長さや内容を変更してしまって大失敗したりする。

 バカの言うことはアテにしたくないと思うものの、自分がバカなのか他人がバカなのか、最後まで僕には分からないのであった。








::佐々木睦子はゆっくりと笑みを浮かべ、一度大きく瞬いてから、優雅な動作で煙草を口に運んだ。まるで映画のワンシーンのようなその仕種は、多くの野心家の男性たちよりも、はるかに本ものの自信に満たされた女性の印象を刻むのに充分だった。
「許可します」佐々木睦子はそう言った。
 犀川は、ただ見とれていた。
 ゆっくりと煙を吹き出してから、彼女は続ける。「別に、私の許可なんて意味はないのです。そもそも誰の許可でも意味はありません。結婚なんて、言葉にも、その概念にも、意味はないわ。けれどね、犀川先生……。貴方は、今、イエスと言ったのよ。それは、とても意味があることです」
「そうだと良いですね」犀川は頷く。







冒頭引用は
「第8章:懐疑は虚空のなかに」(p.449)

文末引用は
「第7章:黙祷は懐疑のなかに」(p.362~363)

From「封印再度 ~ WHO IN SIDE ~」
(著作:森 博嗣 / 発行:講談社文庫)
によりました。
 


::「犀川先生に直接、ご相談すれば?」国枝が言った。「私に聞いても無意味ね、そういうことは」
「先生は、中国に行かれているので……」
「帰ってこられるでしょう? 来週。それが待てないわけ?」
「はい」萌絵は、初めて本心が素直に言えた。
「ふうん……」国枝は萌絵を睨んだ。「じゃあ、中国まで行ったら」
「え?」萌絵は国枝が冗談を言ったと思った。だが、相変わらず国枝は真面目な顔をしている。萌絵が何も言えず黙って見ていると、国枝はメガネを取って、デスクの上にあった布でレンズを拭いた。全く化粧をしていない。メガネを外した国枝の顔は初めてだった。






150907

 昨日に引き続き、どういうわけか、アタマを動かすとしばらく世界が揺れる。
 まさかのノー飲酒酔い。これはお酒が不要になる世界の到来だ! とか喜んでいる場合ではない。

 職場でのトラブルについては、キーを置いておいた。

>>>

 僕は物事に対して、微分積分的な手法を使う。
 たとえは人というのは複数の要素を内包する多次元配列変数のようなものだと感覚している。
 それぞれの能力や意思や欲求は複数の項目に分かれてパラメータ化され、その数値は特定の導関数によって変化する。
 単一項目で見た場合、導関数の特性は単純なものが多い。
 Aを見るとBと反応する。そういう人がほとんどである。
 Aを見て、昨日はBと反応したはずが、Cと反応する場合、この人は一日で成長したか、昨日は嘘をついていて今日は本当のことを言っているか、その逆か、そもそも両方とも嘘八百か、気分でものを答えているかのいずれかだと推測される。

 通常、人間の思考は物体ではないので、その導関数を含む配列変数ベクトルは衝突しない。
 他のいかなる導関数も関与しないし、配列変数のベクトルは、他の配列変数ベクトル(つまりは他人)と干渉し、演算する必要は発生しない。

 特定の個人の特定の状態に対して、僕は、そのポイントではなく、導関数と変数を求める。
 この作業は非言語的で、漠然としたイメージが多く、適切な答えを抽出するのに時間を要する。
 それでも多くの人を観察していれば、ある程度の一般解を導くことができる。
 ナイフで脇腹を刺されて痛くない人はいない(意識不明やすでに死んでいる場合を除く)し、嫌なことという感覚によって定義づけられたものを回避するように記憶し、また好ましい感覚によって定義づけられたものについてはそれを繰り返し再現するように記憶し、それらに基づいて行動する。

 そうした思考同士は、ときおり、物理的な衝突によって関数同士のベクトル演算が始まることがある。
 考えの違う他人同士が、たとえば交通事故などによって、それぞれの見解や視点から、自分自身の中にある尺度に基づいて「あれはこうだ」「これはこうだ」とやりとりをするわけである。

 とにかく最初はひたすら話を聞かないと導関数が分からない。
 何度も繰り返すうちにある程度のパターンが見えるようになったけれど、それでも僕自身もひとつの視点を持っていて、自分なりの見解があったために、最初はとても困難だった。
 自分のものをとりあえず捨ててしまって、そうすることでようやく見えてくるものがある。

 だから僕は自分の価値観を容易に捨てることがあるし、それはときにとても便利で、そしてときにとんでもない災難を招いた。

 導関数は、しかし試してみないとどういうものか分からないのである。
 そのためにこそ、価値観を刷新してでも新しいものに飛び込む気持ちを、僕は大事なものだと思っていた。

 自分がその導関数を取り込むことによって、新しい配列変数による演算が可能になるし、それらの相互作用も把握しやすくなる。
 多次元配列変数におけるパラメータの変化は二次元的な描画は不可能であるものの、また言語化そのものは非常に抽象的になったり、具体的にすることでかなり限定された不完全なものになってしまうため、僕は自分の感覚や予測(予感)を、うまく言葉にすることができない。

 ただ、サンプリングした関数が精細にサンプリングしたものであればあるほど、近似値よりも正確な、範囲予測よりも的確な演算が可能になる。
 そうするとAさんの意見とBさんの意見との中和点にうまく両者を導くような誘導も可能になる。
 これには本来、直接関係あるものとは全く関係のないパラメータが作用していることがほとんどである。
 たとえば自動車事故でも、ちょっとしたモノの言い方のせいで相手がヘソを曲げて示談に応じないなんてことは往々にしてあるし、ちょっと相手の立場に立って(つまり視野を広げたり、視座を高くしたり、視界を伸ばしたりするような説明をして)話をするうちに妥協点に導くことが容易になったりする。

 多分、ここまで読んでいる人も、言っている内容を理解している人も皆無だと思うので、僕が総理大臣なった暁には、全国の小学校にゲームセンタを作りたいと思います! とどさくさにまぎれて宣言しておこうと思う。

 誘導というのは、予測であるし、持っている配列変数内のパラメータの数値を相殺する演算を組み立てることでもある。
 おなじように、いろいろな物事には導関数が潜んでいる。
 僕はそれを感じることがある。

 もちろん、それが分かったときには、手遅れになっていることもあるかもしれない。
 解明より必要なこともときにはあるということだろうか。






::「私なら、行くよ」国枝がもう一度言う。
「あの……、そこまで深刻という訳じゃあ……」やっと萌絵は言葉を思いつく。
「言っていることが矛盾してる」国枝がメガネを再びかける。
「あ、はい、そうですね」萌絵は赤面した。「すみません」
「西之園さん、貴女、犀川先生が好きなの?」
「はい」萌絵は上を向いて、国枝を見る。
「あそう。それがわかっているなら、充分じゃない」
「え? どういうことですか?」
「貴女としては、それで充分だということ。何が不満なの?」それから、国枝は、視線を萌絵の背後に向けた。「コーヒー、できたみたいだよ」
 コーヒーメーカがしゅっと音を立てて最後の蒸気を吐いた。







 引用は
「第5章:追跡する疲労」(p.178~179)
From「詩的私的ジャック ~ JACK THE POETICAL PRIVATE ~」
(著作:森 博嗣 / 発行:講談社文庫)
によりました。
 



::「私……」萌絵は笑いながら言った。「明後日までは、とても待てない」






130527

 曇り。

 昨日、クリーニングに出かけたついでに(しては遠い場所にあるが)事務所に行き、自転車で帰宅した。

 妹の旦那様が家を建てたので、土曜日はその家に行き、お茶を飲んでソファで昼寝をした。
 何をしにいったのかよく分からない有様である。

 仕事の関係もあって行ったため、新築祝いなんて思いつきもしなかったのだけれど、近々また行って渡してこようと思う。

>>>

 僕はモノよりもお金をプレゼントすることのほうが多い。
 もらうほうもこちらのほうが便利だろうという、僕なりの配慮だ。

 一部に、直接お金をやり取りすることを嫌って商品券で代用するケースもあるようだけれど、僕は現金である。
 商品券は使いづらい。たいていは使う場所や使い方が限定されている。ひどい場合は使う対象まで限定されている。
 相手に対する気遣いとしては悪くないかもしれないけれど、本当に使いやすいのはやはり現金だと感じる。

 ただ、現金のやり取りを嫌う人は多い。
 お見舞い、お祝い、その他もろもろ。
 品物をやりとりする風習が(たとえば縁起担ぎなどのために)根強く残っているものもあるけれど、商品券によるものも増えたように思う。
 そのためか、カタログギフトなんてものもある。

>>>

 まったくの余談だけれど、僕はカタログギフトの類が嫌いなので、カタログを頂いても開きもしないで捨てることが多い。
 カタログよりも読みたい本があるし、カタログで商品を選ぶよりもしたいことがある。
 それに、欲しいものを「他人に与えられた範囲から選ぶ」という行為が、大嫌いなのだ。

 僕にとって、自分で使うモノは「自分で探すもの」であって、誰かに範囲を限定されたりするものではないと考えている。
 ところがそこで行われるのは「こんなものを使いなさい」というその潜在的な強要なのだ。
 もちろんそこから新しい発見があるときもある。
 ただ、他人に何かを強要する姿勢を、僕は持ちたくない。
 ものごとに「学ぶ」べきものはあっても「教えられる」べきものなどないと考える。
(意味が分からない人は、分からないままでいいと思う)

 たとえば車が好きな人に、だからといって車のプラモデルをプレゼントしても(たいてい、少なくとも本心では)喜ばれない。
 仮に実車をプレゼントしたとしても、好きなメーカの好きなクラスがあるわけで、それ以外のものはごみと一緒であるはずだ。
 中には、実車よりもプラモデルが好きな人や、エンジンが何より好きな人、メータやゲージこそを愛する人もいる。
 彼ら(彼女たち)にとって、それ以外はごみだと思う。
 すくなくとも僕はそういうセンスとその持ち主をこそ大切にする。
 何でも喜ぶような人間には、何を与える価値もないのだ。僕が与える意味さえない。

 誰かに、形の残る何かをプレゼントするのは、そのくらいリスキィで、破天荒だということ。
 本人の好きなものをあらかじめ下調べして、それ(もしくはそれに似たもの)をプレゼントしてもいいだろうけれど、それはそれで「自分で探したもの」を買ってあげるだけの行為になってしまうから、プレゼントとしてどうなのか、という気がしないでもない。
 それならば「購入する」という経験のすべてを含めて体験して貰う方が素敵ではないだろうか。

>>>

「現金のやり取りはいやらしい」という気持ちが人の心にはあるのかもしれない。
 しかしお金は、果たして、いやらしい存在だろうか。
 お金が仮にいやらしいものだとしたら、それはいやらしいことにお金を使うからいやらしくなるのではないのか。

 たとえば店でモノを買う。サービスを買う。
 このときの金銭の交換は、特にいやらしいものではないだろう。
 仮にそこで購入するものが、ちょっと人前で言うことがはばかられるようなものであったとしても。

 では、どんなやり取りがいやらしいのだろう。

 モノやサービスが介在していないときに、お金は対価としての意味を失う。
 プレゼントやお祝い、お見舞いなどはまさにそうだ。
 そこでは、喜びの気持ちや、いたわりの気持ち、感謝の気持ちを伝えたいという意思が存在する。
 それがやり取りされるものの意味だ。

 意味の媒体がお金では不都合だろうか。いやらしいだろうか。
 お祝いやお見舞いがお金であるのは今では一般的になっているから、さほど抵抗はないように思う。

 たしかに、両方がお金でのやりとりをしてしまうと、容易に相殺ができてしまう。
 お祝いで1万円もらった。
 お返しで5千円返した。
 これなら「最初からお祝いとして5千円を渡せば手間が省けていいじゃない」ということになる。
 それでも、頂いたものに対して「その場あるいは直近に、お返しをしなくてはならない」というのが儀礼上は普通なのかもしれない。

 けれども、お祝いする側になることもあれば、お祝いされる側になることもあるわけで、そんなのはどうだっていいんじゃねーの? 持ちつ持たれつで、めぐりめぐって、まわるまわるよ時代も回るんじゃないの?
 なんて僕などは思うのだけれど。

 もしも現金のやりとりがいやらしいのだとしたら、それはその「価値があからさまに見える」ことが理由だろう。
 現金の価値は数字でしかない。
 ピン札だろうと、破れたお札だろうと、(通貨としての)価値は変わらない。
 だからこそ、紙幣を渡すときは、その渡し方が大切になる。

 しかし価値が変わらない以上は、結果的に「ああ、あの人はこの金額をくれたのだな」と、数値化されることになる。
 自分や他人の価値、その気持ちの数値化を嫌うために、人は現金のやりとりを嫌うようになったのだろう。

 ただ、もしも「気持ちが大切」という概念を持ちそれを信奉しているのならば、気持ちが数値化されるなんて概念など信じるに値しないと僕は思うがどうだろう。
 100円だって百万円だって、それは単なるカタチでしかない。
 もし本当にキモチが大事だというなら、カタチなど無視していいではないか。

>>>

 僕は他人のお祝いやお見舞いばかりで、自分が祝われたり見舞われる機会に乏しいけれど、それで損をしていると感じることはない。
 祝いたくて祝っているし、見舞いたくて見舞っているのだ。
 意味に見合った価値を受け取ってもらうのだから「受け取ってくれてありがとう」という気持ちである。
 決まりに則るつもりは全くないから、結婚式やお葬式に手ぶらで行くことも辞さない覚悟だ。
 もちろん、そんな極端なことをしたことはないが、それは単に、行く価値のない場所へ僕は行かないからにすぎない。
(葬儀に上着なしのカラーシャツで出かけることはしばしばあるが、それが弔う気持ちの上で問題になるとはどうしても思えないので気にしていない)

 僕は「万障お繰り合わせ」が必要であればいくらでもするし、必要がないと感じればいくらでもしない。
 そういうポリシィだから、価値や意味を感じないことはできるかぎりしない。

 受け取る側になる場合も、遠慮も何もなくストレートに「ありがとう」と頂いてしまう。
 それが現金であれモノであれ、遠慮も疑問もなくいただいてしまう。
 そこでは受け取ることがむしろ大切だとすら思う。
 気持ちというのはそうやって、最低でも一度、ストレートに受けいれるのが礼にかない、渡す側にとっても嬉しいものだと僕は思っている。

 ただ、ギフト券は処分に困る。
 普段からお財布に入れておくものでもないし「あの店で買い物をしなくては!」という「あの店」は里にしかなく、山奥に棲んでいる僕にとって、そのためだけに里に下りるなんて果てしなく鬱陶しい。
 それに、カタログギフトも困る。
 本を開いて選んではがきを出すだけなんだから、それを受け取らないのは不義理だ! なんて伯母から叱られたこともあるけれど、それでも僕は一向にカタログギフトのシステムを利用して受け取らない。

 差し上げたものに対してお返しが来るものは、システムとして仕方ないとは思うけれど「好きなものを選びなさい」というのが苦痛だ。
 そのなかに気に入ったものがあったとしても、それは、それを見るまでは「なくても良かったもの」だろう。
 気に入るものがなかったらどうしたらいいのだろう。
「それでも何か適当に選びなさい、それが義理人情よ」と、伯母には言われそうではある(実際に言われたが)。

 欲しくもないものを受け取るのは確かに人情かもしれない。
 ただ、そんなふうにやり取りされるモノはたいそうかわいそうだ。
 それに「ああ、この人からはべつに欲しくもないものをもらったんだな」というのを関係性の記憶に上書きするくらいなら、受け取らないでいたほうが僕の精神衛生上はよい。

 ここから転じて考えれば、僕はプレゼントを「それ、好みじゃないからいらない」といわれても(捨てられても)気にしない、ということになる。
 そして実にそのとおりで、特に気にしないのだ。

 プレゼントは気持ちだ、と言われる。
 しかし、そこでやりとりするもの(媒介)は常に物質だ。エクトプラズムとか渡されても困るではないか。
 だから、気持ちを渡せたのなら、モノは捨てられても問題ない。そういう道理である。

>>>

 そのようなわけで、僕は、お見舞いやお祝いで人に渡すモノはたいてい現金である。
 おそらく(この先まかりまちがって婚姻を結んでも)結婚式はしないと思うが、するとしたら、そうとう風変わりな決まり事があらかじめ通達されるだろう。
(僕の変人ぶりを考えるに、それだけで先が思いやられるというものだ)
 すなわち「祝宴だけ開くので、お祝いはとくに必要ありません。スピーチもありません。お返しもありません。僕には両親もありません。食事と雑談しかありませんから期待しないでください」というもの。

 現金のやりとりを嫌う人は、しかし、自分できちんとポリシィがあってそうしているのだろうか。
 僕にはよくわからない。
 ただ、僕は自分のポリシィに基づいてプレゼントを現金にしているだけで、現金でなければ必ず捨てる、というものではない。
 ポリシィのある人のプレゼントというのは素直に受け取って、嬉しいし、感心させられ、発見のあるものばかりだ。
 贈られるものは確かに無難といえば無難なのかもしれないが、そこには思慮深さがあったり、その人の考え方が見えたりすることもある。

 何事についても「こうでなくてはならない」とは思わないように心がけている。
 ただ、考えなしであること、意味や価値を当の本人が見いだしていないことは(その逆ももちろん)きちんと伝わると僕は思う。

 各種の式でやりとりされる品物を見ていて、そんなふうに思わないだろうか。
 僕は、つくづくそれを感じる。

>>>

 先ほど述べたように「気持ちが大事」と声高に訴える人ほど、形式や物質に囚われすぎているように感じることが僕にはある。
 恋愛でも、気持ちや愛情などを、言葉まで使って固執している人ほど、形式や物質、言葉や肉体や関係性に囚われているように見える。
 まぁ、気持ちを計る手段がそれしかないと言われれば、言葉も出ないのだけれど。
「気持ちが大事」という概念そのものが、ひとつの様式で、ひとつの様式美として、深く考えられることもなく浸透している気がする。
 いったい「気持ちがいちばん大事」というのがどういうことなのか、考えたことがあるのだろうか。

 キモチを具現するために与えられたカタチ(あるいは形式)に固執してしまう人も、やはりいるのだろう。
「キモチがあるなら、こういうカタチになるはずだ」というような意味の言葉を、僕は職務でも何度となく耳にしている。
 たとえば「誠意を見せろ(たいていは懇願ではなく命令形である)」などがそれだ。
(正直なところ、僕は誠意というモノを見たことがなく、見えるモノとも思っていないため、そのたびにかすかな笑いや怒りを抑えなくてはならないのだけれど)

 その傲慢さに、僕はちょっと驚く。
 僕だってそうした傲慢さは持ち合わせているが、それをあからさまに他人に強要するのは、ちょっとした狂気だ。

 不思議とこうした物事は、フォーカスしたものを言葉にすればするほど、逆の方向に現象が流されるように思える。
「キモチが大事」という概念を自分の中で曖昧にしか形成していないから、他人の気持ちをカタチからしか測れないのだろう。
 カタチでキモチを測ろうとするから「カタチを重視してしまう」という逆転現象が起こる。
 そういうヒトたちは「キモチ、キモチ」と(なぜか自慢げに)言いながら、やっていることはカタチを追い続けることなのだ。
 もちろん、それが悪いとは思わない。価値観は人それぞれだ。
 ただ、僕はそういう「自分の持っている概念の逆転現象に気づこうともしない無神経さ」はどうかと思う。
 オマエらは十字軍か、という気もしてくる。

 僕は普段から「異性に求めているのはカラダだけ」と言っている。恋人にも平気で言い放つ。
 気持ちとか、優しさとか、愛情とか、癒しとか、そうしたものについて他人から施しを受ける必要などない、という気概を持って生きている。
(ありがちな誤解を多少でも回避するために、念のため付け加えるなら「セックスだけ」と言ったことは今まで一度もない)
 当然のように、そこでは「カラダだけ、と言っていたはずだが、何かがおかしい」という現象(これも逆転現象だ)が起こる。

 贈り物も同様で、それはモノを贈るのにあたって、さまざまに気遣いをするからこそ意味があるのだと僕は思う。
 相手を見ず、その気持ちを考えず、ただのお仕着せで、ルーティンになぞらえられた物が「渡される」だけならば、それをゴミだと言い切って、何の問題があるだろう。
「贈り」物が「気持ちだ」というのは、そういうことではないだろうか。
 それは「気持ち」を「渡すモノ」で示す(あるいは示せ)という概念とは、同じ現象にもかかわらず、真逆の事象である。

 実際にやってみると分かるけれど、お金を人に贈る(いかなる場合にも現金だけを贈る)というのは、これはこれでたいそうむつかしい。
 できるかぎりあっさりと、それをすんなり受け取ってもらえる人間になりたいと僕は常々思っている。
 そこには僕の気持ちや哲学があって、それを言葉ではなく感じ取ってもらえるならば、これほど嬉しいことはない。
 モノではなくキモチだ、というのなら、それはそういう意味だろう。





(初出は日付の通り。おそらく13工場のものと思われる)




::「私、先生が好きです」萌絵はすぐ言った。
「気持ちと思い込みは違う」
「私と結婚して下さい」
「いつ?」犀川は笑いながらきいた。
「いつでも、いいわ……。今でも……」
「今はできないね」
 犀川は車をバックさせる。彼の前髪は窓から入る風で揺れた。
「何故ですか?」
「酔っ払ってる君を、送っていかなくちゃいけないから」
「じゃあ、明日」
「さっき、言っただろう? 明日は東京に出張なんだ」
 萌絵は笑い出した。







引用は
「第9章:思考の道筋」(p.365~366)
From「詩的私的ジャック ~ JACK THE POETICAL PRIVATE ~」
(著作:森 博嗣 / 発行:講談社文庫)
によりました。
 


 4時頃に白猫に起こされる。
 どうも最近うるさい。
 とりあえず鳴いているふしがある。
 それも、わめくように鳴く。
 そういうものだ、と思われると困るので基本的に無視しているが、身体を動かしたり、声の様子が少し違うときがあって、そういうときは意味があるので対処する。
 どうやら、眠っているときでも同じように反応するようだ。
 
 おかげで5時は寝過ごす。
 
 0730起床。
 
 
 
 僕は子供の頃、とても恐がりだった。
 暗闇がこわかったし、一人がこわかった。
 
 そしてあるとき(正確には7歳の5月)「こわいと感じないようになりたい」と思った。
 
 それから半年くらい経ったある日、ふと気がついてみると、以前恐いと感じていた状況に対して、まったく恐怖を感じていないことに気がついた。
 気がついたのはよいが、それはそれでつまらない、物足りないと感じたので「やっぱりこわいと感じるようになりたい」と思った。
 
 それから半年くらい経ったある日、ふと気がついてみると、元どおり、恐いと感じるようになっていることに気がついた。
 
 結局、恐怖心が強いのは何かと不便なので、今は「こわいと感じないように」なっている。
 
 おそらくそれが、僕が自分の感覚や価値観をコントロールした最初だろう。
 意図的で直接的なコントロールでなかったにせよ、自分の意志で、自分の感覚や意識を通して、世界観を変えるというそれは。
 
 何事でもそうだ。
 もしも仮に「認められない」「許せない」「理解できない」という事象があったとしても、それが単一であれば(複数で、複雑に絡み合っていなければ)半年くらいで認めたり、許したり、理解することはできると僕は思う。
 これは学問の単一項目についてもそうだし、他者の価値観や立場、感情や感覚についてもそうだ。
 
 ひとつ、たしかなことがあるとすれば、僕たちは常にそういう選択肢をもっている、ということであり、それと同時に、そういう選択肢を忘れがちだ、ということだろう。
 
 
 
 僕は17歳の頃、恋人に質問されると、20分も30分も答えられないことがよくあった。
 特に電話のときに多かった。
 質問の目的が分からなかったり、質問の意味が分からなかったりして、ひどく文句を言われたこともある。
 おそらく、答えが出るまでひどく時間がかかるので、彼女は「自分は相手にされていないのではないか」「バカにされているのではないか」と思っただろう(実際にそう怒られた)。
 彼女にとっては、とても当たり前の質問で、また答えも(おそらくはいくつか)容易に予測していたと思う。
 けれども、僕には、そういった感覚系や思考系が、まったくなかったのだ。
 
 やがて3ヶ月もすると、彼女は諦めたのか、何十分でも待ってくれるようになった。
 僕が、ぽつり、ぽつりと、与えられた言葉から分かる範囲で認識し、理解した内容を、それに対する自分の考えを言うと、うん、うんと、ただ聞いていてくれた。
 場合によっては、自分の言い方を途中で訂正してくれて、そうすると、そこからまた5分くらいは考え込むことになるのだが、それでも辛抱強く、待ってくれた。
 のちに、彼女は「そうしてでも聞く価値のある答えだった」と言っていた。
 僕にしてみれば、僕のもっている感覚や価値観を言っただけなので、逆にいぶかしく思ったものだ。
 
 
 
「脊髄反射で」とweb上で語られることがある。
 誰かの言葉に対して、その場で解釈して、反射的にレスポンスすることをいうようだ。
 
 もちろん「問題そのもの」に対する応対としては、決して間違った対応だとは思わない。
 けれども、人に対する応対としては、あまり褒められる行為ではないと僕は思う。
 
 本当に大切な人や事柄に対して、人間は、かならず一定の間をとる。
 たとえば「あなたが生きる意味について教えてください」と言ったときに、間髪あけずにベラベラ喋るような人間を、僕は、仮に頭が良いと思うとしても、人間としては信用できないと判断すると思う。
 そのひとつの質問は、いくつもの想いや願い、挫折や絶望、希望や意志、想い出や記憶を呼び起こさないではいられないだろう、と僕は想像する。
 それら、いくたりの時間と、いくつもの思考が並列する中で、単一の回答を、単純な言葉として発することは、本当はとてもむつかしい。
 本当はとてもむつかしいことを、いとも簡単にするのは、とてもアタマがよいか、いつもそれを考えているか、のどちらかだ。
 
 しかし、生きる意味とは不思議なもので、とても大切なことのわりに、いつも考えていることはできない。
 それをいつも考えることは、すなわち「生きること」そのものではないからだ。
 まともに「生きる」というのは、生きる意味を考えるヒマもなく生きる、ということだからだ。
 
 たとえば恋愛でも「あなたにとっての私の存在の意味について教えてください」と言われたときに、僕が本気で答えるとするならば、いくら待っても、言葉では答えないだろう。
 僕は一生かけて、言葉以外で答えるだろう。
 それが、その人が存在する、意味だから。
 
 
 
 人間は生きていると、言葉を求められることがある。
 それは仕事でもそうだろうし、恋愛でもそうだろうし、友人関係でもそういうことがあるかもしれない。
 しかし、本当に大切なことには、言葉で答えてはいけないと僕は考えている。
 また、本当は、言葉では、答えることも、教えることもできないと考えている。
 
 確かに、自分にとって不鮮明な事象に対して、人間は他人や当事者に説明を求めることがある。
 けれども、説明で理解できることは、まず、ない。何も、ない。
 それは、説明を求める立場の自分にも、あるいは、説明をする立場の自分にも、当てはまることだ。
 言葉で説明できることならば、そもそも不鮮明な事象にはならない。
 言葉で理解できるならば、そもそも不鮮明な事象にはならない。
 
 それを、簡単に説明したり、理解したりはできない。
 きちんと説明しようとすれば、ものすごく時間がかかるし、きちんと理解しようとすれば、ものすごく時間がかかる。
 
 僕がニュースを見ないのも、そういう理由だ。
 政治家の言葉も、ニュースの言葉も、芸能レポータの言葉も、心がこもっていない。
 心がこもった言葉というのは、いつも沈黙が混じっているし、その沈黙を、聞き手の心が代弁しなくては成り立たない。
 そういう関係性を補完するためにこそ、言葉があると僕は思っている。
 
 そして同時に、どこまでも、言葉は、補助的なものでしかない。
 それは行動の、あるいは表現の。
 
 人間は、自分以外の誰かに、言葉を、説明を求めることがある(僕はないけれど)。
 そのときに、理解する、その結果や解釈については、言葉を発した相手ではなく、それを聞いて受け止める自分自身に多分の選択肢がある、ということを忘れないようにしたい。
 
 
 
 23時半就寝。



(初出:2009/03/26 第6工場だった気がする)
 


::あの電話ボックスに、いったいわたしはいくらお金を投入したろう。それは、わたしのよろこびも悲しみも知りつくした電話ボックスだったに違いない。

::最後にあの電話ボックスにコインを入れた時のことも、よく覚えている。季節と、天気は、なぜだかうまく思い出せないのだが、二つだけ、はっきりと覚えている。
 一つは、電話ボックスを出たとき、自分が泣いていたこと。もう一つは、電話ボックスを出たとたんに、猫が肩に飛び乗ってきたこと。
 悲しい電話だった。傷つけて、傷つけられて。失って、けれどあきらめきれなくて。
 ボックスを出て、悄然とたたずんでいたその刹那、猫が肩に乗ってきたのだ。ぽとんと。なんでもなく。
 猫は「にい」と鳴いた。暖かかった。三毛だった。生まれた時からの、そこが定位置であるかのように、猫は私の肩でくつろいだ。
 ああ、終わったんだ。猫に乗られながら、そう思った。
 もう、おしまい。さよなら。しょうがないよね。
 しばらく猫は肩にとまっていた。何回かまた「にい」と鳴いた。あきらめがわたしの体じゅうにゆきわたったころ、猫は飛び下りた。そのまま夜の中へ消えていった。
 その電話ボックスを使うことは、二度となかった。あきらめることはできたけれど、やっぱり悲しかったから。
 今も、あの夜のことを思うと、かすかに胸がしめつけられる。しなやかに飛ぶ猫を見るたびに、淡い悲しみがこみあげてくる。
 




 先日、ある女の子とファミコンの話になった。
 なんでも、最近、ファミコンでスーパーマリオをしているらしい。
 でも、彼女は、「【普通の】マリオブラザーズ」を知らないらしくて、では、僕の持っているのを貸してあげるよ、と言ったのがことの始まりだ。
 
 結果からいえば「マリオブラザーズ」のカセットは、なかった。
 けれども、僕があのカセットを捨てることは絶対にない。そう断言できる。
 だから、きっと、友達に貸しているんだと、今この瞬間も、僕は思っている。
 
 
 
 僕がここで言っているファミコンていうのは、あの旧式な方法でTV映像入力に介入する、ファミコン(いうなれば1stジェネレーション。ちなみに彼女が持っているのは、きっとAV出力する比較的後期のモデルだろう)であり、僕がそれを初めて手に入れたのは19歳だった。
 
 僕は子供の頃はヘビーなゲーマだったので、7歳の頃にお茶の間を席巻した「任天堂ファミリーコンピュータ」が俄然欲しくてたまらなかったが、諸般の事情により、とうとう手に入れることはかなわぬまま、SEGAのMarkⅢを手に入れたり(10歳)、PCー8801MAを手に入れたり(12歳)するような、数奇な運命をたどった。
 
 きっと、僕はしゃべりすぎたんだと思う。
 マリオブラザーズがどんなゲームで、それがどんなに楽しいゲームか、について。
 
 端折ってしまえば、彼女に言われたのだ。
「何でも捨てちゃうのに、ファミコンとカセットを大事にしてるなんて、らしくないね」
 
 だからといって、19歳でようやく手に入ったファミコンに対して、僕の思い入れがあったわけでは、実は、まったく、ない。
 
 僕はそれからまもなく(20歳の秋)プレイステーションを購入したし、人生でもっとも面白かったゲームは? という質問に対しては、きっと「パンドラプロジェクト(プレイステーション)」とか「スタークルーザー(PC-8801版)」とか「ICO」「塊魂」「ARMORED CORE」と答えるだろう。
 
 マリオブラザーズは、ゲーム単体として考えれば、決して、最高に面白いものではない。
 でも、僕には(レガシィハックな接続の)ファミコンと「マリオブラザーズ」のカセットを、捨てることはできないだろう。
 
 
 
 ある日、友達が、ファミコンを持ってきた。
 僕は19歳の、今風にいうとニート(当時はプータローといわれた)で、彼は浪人生だった。
 その春から僕らのアジトと化した、僕の部屋に、ある日突然、彼は現れた。まるで映画の浪人のようだった。
 彼とは長いし、長かった。
 
 9歳の頃から親しくなって、13歳から親密になって、15歳の春から、とんと会わなくなった。
 漠然とした焦燥や無力感、軽薄な絶望とか気持ちの足が動かない不安とかを、窓から流れてくる生ぬるい風がかき混ぜる。
 そんな午後に、なんの前触れもなく、自転車のブレーキの音の直後に、彼の顔が窓から覗いて僕のあだ名を呼んだのである。
 それは実に3年ぶりに。
 
 話せば長い。
 
 つまるところ、僕にとっては、マリオブラザーズは、その「長い話」のすべてだ。
 ひとことでは語れない。
 
 陳腐な言い回しを使うならば、僕と彼との歴史であるとか、関係そのものであるとか、記憶とか、想い出とか、そういうことになるかもしれない。
(でも、本当は違う。ぜんぜん違う)
 
 お金がないから、二人でゴールデンバット(当時は20本入り90円だった)を買ったり、紙パックのジュースを分けて飲んだり。
 ポッカ100レモンと砂糖でレモンジュースを作ったり。
 あいうえお作文で何時間も笑いあったり、厚紙で作ったチェスセットで遊んだり。
 そんな、くだらない記憶の中に、彼と一緒に、自転車で、マリオブラザーズ(もちろん中古)を探し回って見つけたそれは1600円もして(スーパーマリオは、当時400円くらいだった)、どこの店に行ってもだいたい同じ値段なので、ひーひー悲鳴を上げながらお金を出し合って買って、何日も何日も、協力プレイしたり、対戦したりして、指が痛くなってそろそろよそうか、なんてどちらからともなく言い出したりしては煙を吐き出したりしていて、またやりだしてはどうにもならないくらい笑い転げて何度も窒息しそうになった記憶があって。
 
 僕はいろんなものを捨ててきたし、これからだって、要らないものは次々捨ててゆくだろう。
 手放すことが生きることだと僕は思っているし、手に入れることはその入り口だと思っている。
 手に入れることが「欲求」ならば、手放すことは「都合」だ。
 ネットオークションとなんら変わらない。
 
 欲求に従って、僕はいろいろ手に入れてきたし、都合によって、いろいろ手放してきた。
 使えるけれど、不要になって捨てたものもあるし、壊れて、使えなくなって捨てたものもある。
 
 
 
 彼との関係は、どっちだったんだろう。
 分からないけれど、僕はその関係を、捨ててしまった。
 
 もちろん、関係といったって、ただの友達関係だ。
 利害はなかったし、あってはいけない関係だった。
(少なくとも、僕は、友人関係を、そう思う)
 
 
 
 使いもしないし、使えもしない、旧式のファミコンを、家の目立たない片隅に仕舞って。
 肝心のソフトは、きっと彼に貸したままで。
 
 おそらく僕は、使えもしない、何の役にも立たないその記憶を、どうしても捨てられないまま、生きていって、きっとそのまま死んでいくんだと思う。
 
 超えるもののない名作のゲームを、僕はいくつも知っている。
 マリオブラザーズは、シンプルだけれど、それだけでしかない、一般的に考えて名作と呼ぶことはむつかしいであろう、たいしたことのないゲームなのだ。
 
 でも、こんなに、飽きもせず、笑ったり、泣いたり、どきどきしたり、嫌な思いをしたり、せつない気持ちになるゲームは、他にない。
 僕は、マルチプレイのネットゲームをしたことはないし、これから先も、きっとしないだろう。
 もちろん、それが悪いとかつまらないとかではない。
 ただ、コントローラが2つしかなくて、それを友達と交代してやったり、友達同士がそれをやっているのを見るのが、どんなに幸せで楽しいことか、僕は知っていて、その楽しさにこだわって、比較してしまう、セコくて器の小さい人間なのだ。
 
 そしてそういう楽しさは、部屋にゲーム機があれば、そのゲーム機がありさえすればできるというものではない。
 (TVゲームに限らず)ゲームというもののある部屋にうまれる、人とのぬくもりは、ゲーム機の排気からは、けっして感じられない、ある意味でとても贅沢なものなのだ。
 2つしかコントローラのないゲーム機を、僕は永遠に祝福したい。
 あれこそが、完璧なスタイルだと。
 
 
 
 
 
 追記になるが、僕はあれ以来、自分の「都合」というものを、なるべく排除するようになった。
 日本語でいうと「自分の都合はおかまいなし」だ。
 
 自分の都合というのは、自分の欲求にも似ている。
 でも、都合や事情は、ポジティブな欲求ではない。
 
「都合」の名のもとに、僕たちはいろんなものを手放してゆく。
 手放すときに、それの本当の価値が、本当に分かっているのかどうか、少なくとも僕にとっては疑わしい。
 
 彼との関係を手放したことを、後悔しているのかといえば、そんなことはない。
 持ち続けるには、それはすこし、痛すぎた。
 ファミコンと、カセットと、それに付随する、楽しい記憶だけを持っているのさえやっとだったから、目立たないところに仕舞っていたのだろう。
 少なくとも、今までは。
 
 マリオブラザーズ。
 またやりたいな。






::返してよね。
  この世の終わりなんかじゃない。
  だから、貸したお金、返してよね。
::も~~~、がめついんだから~~。







 冒頭引用は
「高井戸・その3」
(From 『此処彼処』 著作:川上 弘美 / 発行:日本経済新聞社)
 
 文末引用は
「何もするな」
(from『20世紀少年(22巻)』 著作:浦沢 直樹 / 発行:小学館)

 によりました。

(初出:2009/05/05:第13工場よりデータを復元)