::アンタはご大層なお題目を振りかざして、自分の都合で塗り固めた城を作ったんだろう。
 ならずっと、そこで暮らしていればいい。
 あったこともなかったことも、都合良くその場で捏造するのがお前たちのルールだというのなら、好きにするがいいさ。




150929

 晴れ。良い天気。
 先週からだろうか、山間を走ることが増えた。
 立体的に連なる山々は、林立するビルとは異なる視覚刺激を空間認識回路に与える。

 日中に思わぬ空き時間が出来たので、仕方なく昼食を摂ったところ、駅のホームでひどい胸焼けと吐き気に襲われ困った。
 慣れない一日二食は避けた方がよい。

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 手段と目的については以前の日記でも書いたことがある。
 それを交換することは、ときに思わぬ発見を観察者(主としてそれを実行する自分自身)にもたらすことがある。

 とくにこれは仕事のように明確な目的がある場合ではなく、遊びのように、本来目的だと思っていたはずのものよりも手段そのもの、課程の方が楽しいことに気がつくような場合に多いと思う。

 もちろん、仕事でそういった逆転現象による観察帯域の増幅が見られることもある。
 しかしながらそもそもの目的が明確で、かつ(ほとんどの場合において)集団で共通の目的を達成することが重要である仕事では、個々人の価値観や感受性の中における目的/手段の逆転は否定のしようがないものの、それを全体の共通価値に置き換えることは本末転倒にしかならない。

 目的は目的。手段は手段。
 目的を達成するためのサブルーチンと考えれば、手段もひとつの目的を持ってはいる。
 しかし本来の目的が度外視されたり、忘れられていた場合に、本来の目的を達成することはときに容易ではなくなるだろう。

 自動車の運転も同様で、運転そのものが目的なのか、それともどこかに到達するのが目的なのか。
 少なくとも、自分の中では、それははっきりと持っておき、忘れずにいたいものだと思う。

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 それにしても運転をすることが好きだという同僚のほとんどが、僕にはちょっとした異人種に思えて仕方がない。
 僕はハンドルを握ると8割方眠くなるのだ。

 自動車の運転の苦痛といったらない。
 いくら僕の住んでいる地域が、自動車ありきの生活様式になっているからといって、僕の運転嫌いを理解してくれる人が僕の回りにほとんどいなかったことが、僕には本当に理解できない。

 もちろん、理解しようとしてくれた人はいるけれど。
 はたしてどこまで理解できたのか、僕は知らない。
 もっとも、理解が目的ではなかったのかもしれないから、それであればどちらでもよいことなのだ。

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 月は昨晩より綺麗だった。

 僕は満月も好きだけれど、薄く消えそうな月も好きだ。
 空に浮かんでいるものの、僕は大半が好きだと思う。










::これまで他人をいいように慰みものにし続けたような奴が、ここへ来て随分と格好いいことを言うものだ。
 今からだって遅くはないさ。本当にそうしたいのなら思うようにすればいい。
 それができるときには回避し続けておいて、いまさら思いついたようにテキトーなことを言うな。